木花神社、宮崎県総合運動公園(このはなドーム、C57蒸気機関車(C57175)、サンマリンスタジアム、ひむかスタジアム、木の花ドーム、阿弥陀如来立像、霊泉桜川、無戸室跡、きばな神社、キバナ神社)  (宮崎市大字熊野)







<標高、位置>  木花神社は
標高 約40 m
 北緯31度49分40秒  東経131度25分57秒

<標高、位置>  宮崎県総合運動公園は
標高 約数 m
 北緯31度49分38秒  東経131度26分46秒


 木花神社は宮崎県宮崎市大字熊野にあります。
コノハナサクヤヒメが祀(まつ)られています。 標高約40 mの丘の上にあります。 古事記に書いてある無戸室(うつむろ)跡、古事記に書いてあり、また、世阿弥(ぜあみ)の謡曲 桜川にまつわる霊泉桜川、鎌倉時代中期以降のものとみられる木像阿弥陀如来立像などがあります。 木花神社からは、南の方に斟鉢山(くんぱち山、標高500.4 m)が美しく見えます。
コノハナサクヤヒメについてのことは、古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
 宮崎県総合運動公園は宮崎県宮崎市大字熊野にあります。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 木造の丸い「このはなドーム(木の花ドーム)」、野球場のサンマリンスタジアム、鉄道マニアに人気がある「C57型 蒸気機関車(C57175)」などがあります。


写真A: 宮崎県宮崎市大字熊野に「木花神社(きばな神社)」はあります。 これは、木花神社の駐車場の看板(かんばん)です。 看板と電柱の間に「霊泉桜川」がある建物が見えます。 このあたりは上り坂になっています。



写真B: 木花神社の駐車場と登ってきた坂道です。 右手に木花神社の社殿があります。 この駐車場は「霊泉桜川」のそばにあります。



写真C: 「霊泉桜川」です。 建物の中にあり、奥に神棚(かみだな)があります。 石の枠(わく)の中に泉が湧(わ)いています。 上部にしめ縄の一部が見えています。
 木花神社の御祭神 コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)が3皇子を出産されたとき産湯に使われたと伝えられる霊泉である。
 藩政時代は飫肥藩主 伊東氏が木花神社参拝の折は必ず愛飲し、地元住民もまた飲用水として保存してきたが、近時、湧泉量減少したのは惜(お)しいことである。
 昔、この泉のほとりに貧しい夫婦者がいた。 その桜子(子供)はそれを見かね自ら人買に身を売り、金を家に残して人買に連れ去られた。 母はそれを嘆き悲しみ我が子を探し求めて旅に出、3年の後、常陸(ひたち)の国(今の茨城県)桜川で今は僧になった桜子にめぐり会い、母子ともこの地に帰り幸福に暮らしたという。
 桜子はコノハナサクヤヒメに祈願して授(さず)かった申し子であったので、ご神霊の加護によって我が子を探し当てたのであると伝えている。 この伝説は謡曲「桜川」となり、今にこの地に語り伝えられ、世に知られている。

(注)宮崎県西都市の
都萬神社(つまじんじゃ)の桜川
にも、室町時代の世阿弥(ぜあみ)の謡曲 桜川の「桜子」の言い伝えが残っています。 内容は木花神社のものと同じものです。
また、コノハナサクヤヒメが3皇子を出産されたときの産湯として使った泉である
児湯の池
は西都市の記紀の道に伝承遺跡として残っています。

これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真D: 宮崎県宮崎市大字熊野にある「霊泉桜川」の説明板。
木花神社の御祭神 コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)が3皇子を出産されたとき産湯に使われたと伝えられる霊泉である。
 藩政時代は飫肥藩主 伊東氏が木花神社参拝の折は必ず愛飲し、地元住民もまた飲用水として保存してきたが、近時、湧泉量減少したのは惜(お)しいことである。
 昔、この泉のほとりに貧しい夫婦者がいた。 その桜子(子供)はそれを見かね自ら人買に身を売り、金を家に残して人買に連れ去られた。 母はそれを嘆き悲しみ我が子を探し求めて旅に出、3年の後、常陸(ひたち)の国(今の茨城県)桜川で今は僧になった桜子にめぐり会い、母子ともこの地に帰り幸福に暮らしたという。
 桜子はコノハナサクヤヒメに祈願して授(さず)かった申し子であったので、ご神霊の加護によって我が子を探し当てたのであると伝えている。 この伝説は謡曲「桜川」となり、今にこの地に語り伝えられ、世に知られている。
平成5年9月 木花区会
と書いてあります。

(注)宮崎県西都市の
都萬神社(つまじんじゃ)の桜川
にも、室町時代の世阿弥(ぜあみ)の謡曲 桜川の「桜子」の言い伝えが残っています。 内容は木花神社のものと同じものです。
また、コノハナサクヤヒメが3皇子を出産されたときの産湯として使った泉である
児湯の池
は西都市の記紀の道に伝承遺跡として残っています。



写真E: 「霊泉桜川」の説明板。
木花神社の御祭神 コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)が3皇子を出産されたとき産湯に使われたと伝えられる霊泉である。
 藩政時代は飫肥藩主 伊東氏が木花神社参拝の折は必ず愛飲し、地元住民もまた飲用水として保存してきたが、近時、湧泉量減少したのは惜(お)しいことである。
 昔、この泉のほとりに貧しい夫婦者がいた。 その桜子(子供)はそれを見かね自ら人買に身を売り、金を家に残して人買に連れ去られた。 母はそれを嘆き悲しみ我が子を探し求めて旅に出、3年の後、常陸(ひたち)の国(今の茨城県)桜川で今は僧になった桜子にめぐり会い、母子ともこの地に帰り幸福に暮らしたという。
 桜子はコノハナサクヤヒメに祈願して授(さず)かった申し子であったので、ご神霊の加護によって我が子を探し当てたのであると伝えている。 この伝説は謡曲「桜川」となり、今にこの地に語り伝えられ、世に知られている。
平成5年9月 木花区会
と書いてあります。

(注)宮崎県西都市の
都萬神社(つまじんじゃ)の桜川
にも、室町時代の世阿弥(ぜあみ)の謡曲 桜川の「桜子」の言い伝えが残っています。 内容は木花神社のものと同じものです。
また、コノハナサクヤヒメが3皇子を出産されたときの産湯として使った泉である
児湯の池
は西都市の記紀の道に伝承遺跡として残っています。



写真F: 「霊泉桜川」から階段を登って、社殿の方に行きます。



写真G: 宮崎県宮崎市大字熊野にある「霊泉桜川」。

(注)宮崎県西都市の
都萬神社(つまじんじゃ)の桜川
にも、室町時代の世阿弥(ぜあみ)の謡曲 桜川の「桜子」の言い伝えが残っています。 内容は木花神社のものと同じものです。
また、コノハナサクヤヒメが3皇子を出産されたときの産湯として使った泉である
児湯の池
は西都市の記紀の道に伝承遺跡として残っています。



写真H: 宮崎県宮崎市大字熊野にある法満寺 跡に建っている「阿弥陀如来立像」がある建物。 木花神社の境内(けいだい)にあります。
この仏像は螺髪に旋毛を刻んだ頭部を作り、のう衣を付け来迎印を結び、蓮華座に立つ像高99センチメートルの如来像です。 寄木造りで漆箔、玉眼をはめ込んでいます。 これは鎌倉時代初期の仏師快慶に習う、いわゆる安阿弥陀様の弥陀立像の一例です。 時代としては、鎌倉時代中期以降のものとみられ、衣しゅうがやや形式的に流れるあたりにそれが表れています。 県下に数少ない鎌倉彫刻の一例として尊重すべきものです。
 この地には法満寺という寺があり(明治5年廃寺)、最盛期である飫肥(おび)伊東藩時代には寺領30石を有し、藩主の崇敬厚き大伽藍(がらん)であったことが窺(うかが)われ、この阿弥陀如来像もこの寺にまつるにふさわしいものであったと言えます。



写真I: 「木像阿弥陀如来立像一躯」の説明板。
種別 市指定有形文化財
名称 木像阿弥陀如来立像一躯 
指定年月日 昭和49年4月15日
 この仏像は螺髪に旋毛を刻んだ頭部を作り、のう衣を付け来迎印を結び、蓮華座に立つ像高99センチメートルの如来像です。 寄木造りで漆箔、玉眼をはめ込んでいます。 これは鎌倉時代初期の仏師快慶に習う、いわゆる安阿弥陀様の弥陀立像の一例です。 時代としては、鎌倉時代中期以降のものとみられ、衣しゅうがやや形式的に流れるあたりにそれが表れています。 県下に数少ない鎌倉彫刻の一例として尊重すべきものです。
 この地には法満寺という寺があり(明治5年廃寺)、最盛期である飫肥(おび)伊東藩時代には寺領30石を有し、藩主の崇敬厚き大伽藍(がらん)であったことが窺(うかが)われ、この阿弥陀如来像もこの寺にまつるにふさわしいものであったと言えます。  宮崎市教育委員会
と書いてあります。



写真J: 木像阿弥陀如来立像一躯の説明棒。



写真K: 木花神社の境内(けいだい)にある「誉ヶ丘軍人墓地」です。



写真L: 木花神社の二の鳥居(とりい)、階段、石灯籠(いしどうろう)、右端に御手洗(みたらい)等が見えています。 この鳥居の奥に社殿があります。



写真M: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の境内(けいだい)。



写真N: 木花神社の境内(けいだい)にある「江戸時代後期の 木花ヶ丘、俯瞰図(ふかんず) (作者不詳)」。
 (11)は斟鉢山(くんぱち山、クンパチ山)と思われます。 木花神社と当時まだあった法満寺も描(えが)かれています。 (1)の桜川は「櫻井」と書いてあります。 霊泉桜川から上る階段はまだこの頃はありません。 また、日向国 那珂郡(なかぐん) 加江田村前面と右上に書いてあります。
この絵地図はなかなか興味深いものがあります。



写真O: 木花神社の境内(けいだい)にある「江戸時代後期の 木花ヶ丘、俯瞰図(ふかんず) (作者不詳)」。
(1)は木花神社、(2)は当時まだあった法満寺、(4)は加江田川、(5)は清武川、(10)は曽山寺、(14)は木崎浜、(15)は青島、(16)は白浜、(17)は内海、(19)は日向灘(ひゅうがなだ)。  左端に飫肥藩(おびはん)と書いてあります。
この絵地図はなかなか興味深いものがあります。



写真P: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社。 奥に社殿、手前に狛犬(こまいぬ)、石灯籠(いしどうろう)も見えます。



写真Q: 木花神社にある展望所。 ベンチがあります。 ここからは斟鉢山(くんぱち山、クンパチ山)がきれいにみえます。 右は狛犬(こまいぬ)です。



写真R: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の展望所から見た「斟鉢山(くんぱち山、クンパチ山)」。 斟鉢山は標高 500.4 mです。 山頂は、この写真の右よりの一番高い尖った峰(みね)です。 斟鉢山の上にある「斟八神社(くんぱち神社)」は山頂の一つ左にあるコブ(高いところ)の少し左寄りの所にあります。
私は斟鉢山にも登りました。



写真S: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社の境内(けいだい)にある「無戸室(うつむろ)の跡」の説明板。
天神ニニギノミコトは、この地で国神オオヤマヅミノミコトの娘 コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)を見そめられ結婚されたが、そのご懐妊について天神からあらぬ疑いをかけられた。 そこで姫はその疑いをはらし天神の御子であることを立証しようと、出産に当たって戸の無い産屋を建てさせ粘土で塗りふさぎ火をかけて3皇子を次々にお産みになった。 このご兄弟の神々は、神話にある山幸彦、海幸彦で弟の山幸彦は、兄神の釣り針を探しに海津国に行き、海神の娘 豊玉姫を妃(きさき)にして帰られた。 青島神社は山幸彦、豊玉姫の夫婦神を、その子は鵜戸神宮(うどじんぐう)に、鵜戸神宮に祀(まつ)られている神の子は神武天皇で、宮崎神宮にお祀りしている。 古事記には、その3代の神の系譜(けいふ)を日向三代といっている。
昭和61年2月 木花区会
と書いてあります。

(注)無戸室、コノハナサクヤヒメ、オオヤマヅミノミコト、ニニギノミコトの伝承地は、宮崎県西都市の西都原古墳群の近くにある
「記紀の道」
にもあります。
また、山幸彦を祀(まつ)り、塩水の出る井戸(潮満の井戸、潮満の泉)がある宮崎県西都市鹿野田の
鹿野田神社 [塩水の出る井戸(潮満の井戸、潮満の泉)]
もあります。

これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真T: 宮崎県宮崎市大字熊野にある「木花神社(きばな神社)」。 コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)から木花(きばな)神社と名付けられました。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真U: 木花神社の社殿の右には、遠くに稲荷神社(稲荷大明神)、その右に大将軍社があります。 右端は御手洗(みたらい)です。



写真V: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の額(がく)。



写真W: 木花神社の鈴。



写真X: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の境内(けいだい)。 右に小さく赤く見えているのが「無戸室(うつむろ)の跡」の説明板。 左端は御手洗(みたらい)。



写真Y: 木花神社の御手洗(みたらい)。



写真Z: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の境内にある「大将軍社」。



写真AA: 木花神社の境内にある「大将軍社」。



写真AB: 木花神社の境内にある稲荷神社。 正一位稲荷大明神と書かれています。



写真AC: 木花神社の境内にある稲荷神社。



写真AD: 木花神社の境内にある稲荷神社。



写真AE: 木花神社の社殿(右)と稲荷神社(左)。



写真AF: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の社殿。



写真AG: 木花神社の社殿の裏には、古い方の「無戸室(うつむろ)の跡」の説明板が置いてありました。



写真AH: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の境内(けいだい)。 右に赤く見えているのが「無戸室(うつむろ)の跡」の説明板。 木花神社の社殿のそばにあります。



写真AI: 木花神社の境内(けいだい)。



写真AJ: 木花神社から見た斟鉢山(くんぱちやま)。 手前の葉は葛(くず)です。



写真AK: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の展望所から見た「斟鉢山(くんぱち山、クンパチ山)」。 斟鉢山は標高 500.4 mです。 山頂は、この写真の右よりの一番高い尖った峰(みね)です。 斟鉢山の上にある「斟八神社(くんぱち神社)」は山頂の一つ左にあるコブ(高いところ)の少し左寄りの所にあります。
私は斟鉢山にも登りました。



写真AL: 木花神社からの景色。 木の間に宮崎市大字熊野が見えます。



写真AM: 木花神社からの眺望(ちょうぼう)。 木の間に宮崎市大字熊野が見えます。



写真AN: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社(きばな神社)の「一の鳥居(とりい)」と階段が見えています。 鳥居の向こう側は車道です。



写真AO: 木花神社(きばな神社)の「一の鳥居(とりい)」と階段が見えています。 鳥居の向こう側は車道です。



写真AP: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木花神社の一の鳥居(とりい)と階段。 社殿はこの奥にあります。



写真AQ: 木花神社の一の鳥居(とりい)と階段。



写真AR: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真AS: 木花神社(きばな神社)にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真AT: 青島、木花(きばな)は海幸彦、山幸彦の遊び場だった。 と書いてあります。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真AU: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真AV: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真AW: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真AX: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。
左上の写真がここ木花神社(見えている鳥居(とりい)は二の鳥居です。)、その下が青島神社。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真AY: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。
中央上は青島神社の「裸参り(はだかまいり)」、下は青島神社にある日向神話館。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真AZ: 宮崎県宮崎市大字熊野の木花神社にある「宮崎の神話」の看板(かんばん)。
中央上は青島神社の「裸参り(はだかまいり)」、下は青島神社にある日向神話館。 これと同じ看板(かんばん)が青島にもありました。



写真BA: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の駐車場。 後ろは、右手が武道館、左がサンマリンスタジアム。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真BB: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園から見た「斟鉢山(くんぱち山、クンパチ山)」。 斟鉢山は標高 500.4 mです。 山頂は、この写真の中央あたりの高い尖った峰(みね)です。 斟鉢山の上にある「斟八神社(くんぱち神社)」は山頂の一つ左にあるコブ(高いところ)の少し左寄りの所にあります。
私は斟鉢山にも登りました。



写真BC: 宮崎県総合運動公園の駐車場。 南の山も見えています。



写真BD: 宮崎県総合運動公園。 背の高い木はワシントン椰子(やし)。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真BE: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「ひむかスタジアム」。



写真BF: 宮崎県総合運動公園の「ひむかスタジアム」。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真BG: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真BH: 宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真BI: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真BJ: 宮崎県総合運動公園。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真BK: 宮崎県総合運動公園。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真BL: 宮崎県総合運動公園。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真BM: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真BN: 宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真BO: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真BP: 宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真BQ: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」の内部。



写真BR: 宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」の内側の天井(てんじょう)。



写真BS: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」の中。



写真BT: 宮崎県宮崎市大字熊野にある木の花ドーム(左)と「総合青少年センター 青島少年自然の家」(右)。



写真BU: 宮崎県宮崎市大字熊野にある「総合青少年センター 青島少年自然の家」。



写真BV: 木の花ドームから見た「総合青少年センター 青島少年自然の家」。



写真BW: 遠くに宮崎市曽山寺にあるホテルが見えています。



写真BX: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真BY: 宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」の看板(かんばん)。



写真BZ: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」の看板(かんばん)。
木の花ドーム(このはなドーム)愛称の由来
この愛称は、建設地の木花(きばな)の地区名や日向神話の「コノハナサクヤヒメ」をイメージさせ、宮崎らしさを全国にアピールできることや、宮崎県産の杉材を使った木造のドームであることから 付けられました。



写真CA: 宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」の玄関。



写真CB: 宮崎県宮崎市大字熊野にある「総合青少年センター 青島少年自然の家」の看板(かんばん)。
総合青少年センター 青島少年自然の家
 当センターは、青少年をはじめとする県民の研修施設として、昭和50年に建設されたもので、体育館の他 オリエンテーリングコース、キャンプ場、サーキットなどの野外活動施設が設置されていると共に、周辺のスポーツ施設が利用できることで高評を得ています。
 研修は、原則として宿泊研修方式となっており、規則正しい生活意識の高揚を目標の一つとしています。
 センターの東側は、緑濃い松林に面し、西側には水鳥が遊ぶ広い池があり、センターの白い建物が水面に写り、あたかも船が浮かんでいるようなイメージがあります。
 施設の周辺には、カナリーヤシ、ワシントニアパーム、ビロウなどのほか、ツツジ類や研修を記念した樹木が多く植えられています。
と書いてあります。



写真CC: この奥に「C57175 (C57型 蒸気機関車)」があります。 ここは木の花ドームの近くです。



写真CD: 宮崎県宮崎市大字熊野の宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CE: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。



写真CF: 宮崎県宮崎市大字熊野の宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CG: 「蒸気機関車のしくみ」の看板(かんばん)。 これは、2C 1過熱テンダ機関車のもので、ここに展示してある「C57型 蒸気機関車」とは別のものです。



写真CH: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。



写真CI: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」の運転室です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CJ: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「C57175(C57型 蒸気機関車)」の運転室です。



写真CK: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」の運転室です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CL: 宮崎県宮崎市大字熊野の宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」の運転室です。



写真CM: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」の運転室です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CN: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「C57175(C57型 蒸気機関車)」の運転室です。



写真CO: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」の炭水車(デンダー)。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CP: 宮崎県宮崎市大字熊野の宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」の炭水車(デンダー)。



写真CQ: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」の炭水車(デンダー)。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CR: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CS: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。



写真CT: 宮崎県宮崎市大字熊野の宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CU: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。



写真CV: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CW: 宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。



写真CX: 宮崎県宮崎市大字熊野の宮崎県総合運動公園にある「C57175(C57型 蒸気機関車)」です。
C57175号機は昭和21年、三菱重工で製作されました。 鳥栖区に新製配置され、以後は早岐に移動、長崎線で活躍しました。 長崎線DL化で鹿児島区に移動しました。 移動の少ない機関車でした。 鹿児島では日豊線宮崎―鹿児島、肥薩線で活躍ました。 昭和50年3月の日豊線「SLさよなら列車」を牽引し、九州最後のC57となりました。



写真CY: 宮崎県総合運動公園の「木の花ドーム(このはなドーム)」。



写真CZ: 「宮崎県総合運動公園案内図」の看板(かんばん)。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真DA: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の駐車場。 後ろは、右手が武道館、左がサンマリンスタジアム。
1979年(昭和54年)に第34回 宮崎国民体育大会がここで行われたときの為に造られました(1974年建設)。 面積154haの敷地内に競技施設と500種42万本の樹木で出来ている自然豊かなスポーツ公園です。 1974年に建設されたあと宮崎県の中心的なスポーツを開催する施設として県民に愛されています。 園内には硬式野球場、陸上、サッカー、ラグビーをはじめ、軟式野球場や水泳場、テニスコート、ウエイトトレーニング場など多種多様なスポーツ施設があります。



写真DB: 宮崎県総合運動公園の駐車場。



写真DC: 宮崎県宮崎市大字熊野にある宮崎県総合運動公園の駐車場。 後ろは、右手が武道館、左がサンマリンスタジアム。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)