鹿野田神社(鹿野田潮神社)、清水神社 (潮満の井戸(塩水の井戸)、和泉式部の墓、かのだ神社、かのだじんじゃ、カノダジンジャ、きよみず神社、キヨミズ神社、きよみずじんじゃ) (西都市)
<標高、位置> 鹿野田神社は
標高 約20 m
北緯32度04分17秒 東経131度23分28秒
<標高、位置> 清水神社は
標高 約20 m
北緯32度05分37秒 東経131度23分27秒
鹿野田神社は宮崎県西都市鹿野田 潮にあります。 潮神社(うしおじんじゃ)とも呼ばれます。 鹿野田神社は、古くは潮妙現大明神と称し彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)を祭神とする、弘安(鎌倉時代後期、1278年−1288年)以前の由緒ある神社である。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
鹿野田神社は古来この地方を支配していた、土持(つちもち)、伊東、島津などの領主の崇敬極めて篤く、また永く続いた神仏習合の時代には、恵日山光照寺が別当寺の役割を果たし、その繁栄を共にしてきた。 近世にいたり丸山家歴代その大宮司として世襲し、特に寛政(江戸時代後期、1789年−1801年)4年6月には、丸山相模守良記、高山彦九郎の巡拝を受けて共に時勢を談じ、また文政3年9月には、その嗣子讃岐守良記は、若き日の安井息軒を迎えて一夜を明かした。明治初年新政府により神仏分離となるや、郷社 鹿野田神社と改称し、鹿野田郷鎮守の神として昔に変わらず郷民の崇敬を集めている。
清水神社は宮崎県西都市清水にあります。 付近に清水西原古墳(ふん)群があります。 清水西原古墳(ふん)群は、清水地区に6基、西ノ原地区に19基、総計で25基の古墳が点在しています。 西ノ原地区は昔から百塚原と呼ばれてきました。 百塚原からは、大正初年、現在国宝に指定されている貴重な「金銅製の馬具類」が出土しています。
写真A: 「鹿野田潮神社 祭神 彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)」と書かれた看板(かんばん)。 後ろに見えている道を左に行くと佐土原町の巨田神社(こたじんじゃ)があります。 また、右に進むと西都市の馬継谷に行きます。
写真B: 鹿野田神社の一の鳥居(とりい)が家の右に見えています。 手前に見えている道を左に行くと佐土原町の巨田神社(こたじんじゃ)があります。 また、右に進むと西都市の馬継谷に行きます。
写真C: 鹿野田神社の一の鳥居。 先の方の山に鹿野田神社があります。
写真D: 西都市鹿野田潮にある鹿野田神社の一の鳥居。
写真E: 鹿野田神社の参道。 両側は田んぼです。 突き当たりの山に鹿野田神社があります。
写真F: 「伝承地 和泉式部の墓」の案内棒。 後ろの建物は祖霊社。 祖霊社の左上に赤い鹿野田神社の社殿が小さく見えています。
写真G: 鹿野田神社の参道。 正面の大きな木は推定樹齢450年のクスノキで、鹿野田神社の御神木になっています。
写真H: 鹿野田神社の参道。 左奥にため池の堤防が見えます。
写真I: 「鹿野田神社 参拝者駐車場」の看板。
写真J: 西都市鹿野田潮にある鹿野田神社。 左の奥の大きな方の建物の中に、塩水が湧(わ)いている井戸があり、それが御神水になっています。 正面の大きな木が推定樹齢450年の楠(くすのき)で、ご神木になっています。 鳥居(とりい)は二の鳥居で、その右上に社殿の一部が見えています。
写真K: 一番左の建物は祖霊社です。
写真L: 西都市鹿野田潮にある鹿野田神社。 二の鳥居のそばに狛犬(こまいぬ)があります。 社殿に登る階段のそばに三の鳥居が見えます。 大きな木は楠(くすのき)の神木。
写真M: 左は鹿野田神社、その向こうは祖霊社、その右の家の所から伝承地 「和泉式部の墓」に行けます。
写真N: 鹿野田神社の鳥居、参道、狛犬(こまいぬ)、石碑、国旗掲揚棒などが見えます。
写真O: 鹿野田神社。
写真P: 鹿野田神社の石碑、狛犬(こまいぬ)。
写真Q: 「鹿野田神社改修記念碑」
鹿野田神社は、古くは潮妙現大明神と称し彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)を祭神とする、弘安(鎌倉時代後期、1278年−1288年)以前の由緒ある神社である。 古来この地方を支配していた、土持(つちもち)、伊東、島津などの領主の崇敬極めて篤く、また永く続いた神仏習合の時代には、恵日山光照寺が別当寺の役割を果たし、その繁栄を共にしてきた。 近世にいたり丸山家歴代その大宮司として世襲し、特に寛政(江戸時代後期、1789年−1801年)4年6月には、丸山相模守良記、高山彦九郎(江戸時代後期の尊皇攘夷の思想家で、旅の思想家として膨大な日記を残しています。 新富町の観音山にも登って歌を残しています。 観音山に石碑があります。)の巡拝を受けて共に時勢を談じ、また文政(江戸後期、1818年−1830年)3年9月には、その嗣子讃岐守良記は、若き日の安井息軒を迎えて一夜を明かした。 明治初年新政府により神仏分離となるや、郷社 鹿野田神社と改称し、鹿野田郷鎮守の神として昔に変わらず郷民の崇敬を集めている。
昭和61年11月16日
と書かれています。
写真R: 「鹿野田神社改修記念碑」
鹿野田神社は、古くは潮妙現大明神と称し彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)を祭神とする、弘安(鎌倉時代後期、1278年−1288年)以前の由緒ある神社である。 古来この地方を支配していた、土持(つちもち)、伊東、島津などの領主の崇敬極めて篤く、また永く続いた神仏習合の時代には、恵日山光照寺が別当寺の役割を果たし、その繁栄を共にしてきた。 近世にいたり丸山家歴代その大宮司として世襲し、特に寛政(江戸時代後期、1789年−1801年)4年6月には、丸山相模守良記、高山彦九郎(江戸時代後期の尊皇攘夷の思想家で、旅の思想家として膨大な日記を残しています。 新富町の観音山にも登って歌を残しています。 観音山に石碑があります。)の巡拝を受けて共に時勢を談じ、また文政(江戸後期、1818年−1830年)3年9月には、その嗣子讃岐守良記は、若き日の安井息軒を迎えて一夜を明かした。 明治初年新政府により神仏分離となるや、郷社 鹿野田神社と改称し、鹿野田郷鎮守の神として昔に変わらず郷民の崇敬を集めている。
昭和61年11月16日
と書かれています。
写真S: 鹿野田神社の御手洗(みたらい)。
写真T: 「潮満の井戸」と呼ばれる塩水が出る井戸がこの建物の中にあります。
写真U: 「潮満の井戸 太古から湧(わ)き出ている御水です 鹿野田神社」と書いてあります。
写真V: 「鹿野田神社と潮満の泉について」の説明。
この鹿野田神社は明治の初め頃まで、潮妙見大明神とか潮妙見様とか言われ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)をお祀りしてあります。 創建の年代ははっきりしておりません。
棟札は弘安(鎌倉後期、1278年−1288年)六年(1283)からありますので非常に古いものと推察されます。 彦火火出見尊は別名を火遠理命(ほおりのみこと)といい海幸山幸の物語の中の山幸彦でありますが、兄君火照命(ほでりのみこと)の釣針をなくされ、それを探しに海神綿津見大神(わだつみのおおかみ)のもとへ行き、三年の後なくした釣針のほかに潮満玉(しおみつたま)と潮涸玉(しおひるたま)を授かって帰られました。
(古事記)