鹿野田神社(鹿野田潮神社)、清水神社  (潮満の井戸(塩水の井戸)、和泉式部の墓、かのだ神社、かのだじんじゃ、カノダジンジャ、きよみず神社、キヨミズ神社、きよみずじんじゃ) (西都市)







<標高、位置>  鹿野田神社は
標高 約20 m
 北緯32度04分17秒  東経131度23分28秒

<標高、位置>  清水神社は
標高 約20 m
 北緯32度05分37秒  東経131度23分27秒


 鹿野田神社は宮崎県西都市鹿野田 潮にあります。 潮神社(うしおじんじゃ)とも呼ばれます。 鹿野田神社は、古くは潮妙現大明神と称し彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)を祭神とする、弘安(鎌倉時代後期、1278年−1288年)以前の由緒ある神社である。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
 鹿野田神社は古来この地方を支配していた、土持(つちもち)、伊東、島津などの領主の崇敬極めて篤く、また永く続いた神仏習合の時代には、恵日山光照寺が別当寺の役割を果たし、その繁栄を共にしてきた。 近世にいたり丸山家歴代その大宮司として世襲し、特に寛政(江戸時代後期、1789年−1801年)4年6月には、丸山相模守良記、高山彦九郎の巡拝を受けて共に時勢を談じ、また文政3年9月には、その嗣子讃岐守良記は、若き日の安井息軒を迎えて一夜を明かした。明治初年新政府により神仏分離となるや、郷社 鹿野田神社と改称し、鹿野田郷鎮守の神として昔に変わらず郷民の崇敬を集めている。
 清水神社は宮崎県西都市清水にあります。 付近に清水西原古墳(ふん)群があります。 清水西原古墳(ふん)群は、清水地区に6基、西ノ原地区に19基、総計で25基の古墳が点在しています。 西ノ原地区は昔から百塚原と呼ばれてきました。 百塚原からは、大正初年、現在国宝に指定されている貴重な「金銅製の馬具類」が出土しています。


写真A: 「鹿野田潮神社 祭神 彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)」と書かれた看板(かんばん)。 後ろに見えている道を左に行くと佐土原町の巨田神社(こたじんじゃ)があります。 また、右に進むと西都市の馬継谷に行きます。



写真B: 鹿野田神社の一の鳥居(とりい)が家の右に見えています。 手前に見えている道を左に行くと佐土原町の巨田神社(こたじんじゃ)があります。 また、右に進むと西都市の馬継谷に行きます。



写真C: 鹿野田神社の一の鳥居。 先の方の山に鹿野田神社があります。



写真D: 西都市鹿野田潮にある鹿野田神社の一の鳥居。



写真E: 鹿野田神社の参道。 両側は田んぼです。 突き当たりの山に鹿野田神社があります。



写真F: 「伝承地 和泉式部の墓」の案内棒。 後ろの建物は祖霊社。 祖霊社の左上に赤い鹿野田神社の社殿が小さく見えています。



写真G: 鹿野田神社の参道。 正面の大きな木は推定樹齢450年のクスノキで、鹿野田神社の御神木になっています。



写真H: 鹿野田神社の参道。 左奥にため池の堤防が見えます。



写真I: 「鹿野田神社 参拝者駐車場」の看板。



写真J: 西都市鹿野田潮にある鹿野田神社。 左の奥の大きな方の建物の中に、塩水が湧(わ)いている井戸があり、それが御神水になっています。 正面の大きな木が推定樹齢450年の楠(くすのき)で、ご神木になっています。 鳥居(とりい)は二の鳥居で、その右上に社殿の一部が見えています。



写真K: 一番左の建物は祖霊社です。



写真L: 西都市鹿野田潮にある鹿野田神社。 二の鳥居のそばに狛犬(こまいぬ)があります。 社殿に登る階段のそばに三の鳥居が見えます。 大きな木は楠(くすのき)の神木。



写真M: 左は鹿野田神社、その向こうは祖霊社、その右の家の所から伝承地 「和泉式部の墓」に行けます。



写真N: 鹿野田神社の鳥居、参道、狛犬(こまいぬ)、石碑、国旗掲揚棒などが見えます。



写真O: 鹿野田神社。



写真P: 鹿野田神社の石碑、狛犬(こまいぬ)。



写真Q: 「鹿野田神社改修記念碑」
 鹿野田神社は、古くは潮妙現大明神と称し彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)を祭神とする、弘安(鎌倉時代後期、1278年−1288年)以前の由緒ある神社である。 古来この地方を支配していた、土持(つちもち)、伊東、島津などの領主の崇敬極めて篤く、また永く続いた神仏習合の時代には、恵日山光照寺が別当寺の役割を果たし、その繁栄を共にしてきた。 近世にいたり丸山家歴代その大宮司として世襲し、特に寛政(江戸時代後期、1789年−1801年)4年6月には、丸山相模守良記、高山彦九郎(江戸時代後期の尊皇攘夷の思想家で、旅の思想家として膨大な日記を残しています。 新富町の観音山にも登って歌を残しています。 観音山に石碑があります。)の巡拝を受けて共に時勢を談じ、また文政(江戸後期、1818年−1830年)3年9月には、その嗣子讃岐守良記は、若き日の安井息軒を迎えて一夜を明かした。 明治初年新政府により神仏分離となるや、郷社 鹿野田神社と改称し、鹿野田郷鎮守の神として昔に変わらず郷民の崇敬を集めている。
昭和61年11月16日
と書かれています。



写真R:  「鹿野田神社改修記念碑」
 鹿野田神社は、古くは潮妙現大明神と称し彦火火出見尊(海幸彦−山幸彦の神話の山幸彦)を祭神とする、弘安(鎌倉時代後期、1278年−1288年)以前の由緒ある神社である。 古来この地方を支配していた、土持(つちもち)、伊東、島津などの領主の崇敬極めて篤く、また永く続いた神仏習合の時代には、恵日山光照寺が別当寺の役割を果たし、その繁栄を共にしてきた。 近世にいたり丸山家歴代その大宮司として世襲し、特に寛政(江戸時代後期、1789年−1801年)4年6月には、丸山相模守良記、高山彦九郎(江戸時代後期の尊皇攘夷の思想家で、旅の思想家として膨大な日記を残しています。 新富町の観音山にも登って歌を残しています。 観音山に石碑があります。)の巡拝を受けて共に時勢を談じ、また文政(江戸後期、1818年−1830年)3年9月には、その嗣子讃岐守良記は、若き日の安井息軒を迎えて一夜を明かした。 明治初年新政府により神仏分離となるや、郷社 鹿野田神社と改称し、鹿野田郷鎮守の神として昔に変わらず郷民の崇敬を集めている。
昭和61年11月16日
と書かれています。



写真S: 鹿野田神社の御手洗(みたらい)。



写真T: 「潮満の井戸」と呼ばれる塩水が出る井戸がこの建物の中にあります。



写真U: 「潮満の井戸 太古から湧(わ)き出ている御水です 鹿野田神社」と書いてあります。



写真V: 「鹿野田神社と潮満の泉について」の説明。
この鹿野田神社は明治の初め頃まで、潮妙見大明神とか潮妙見様とか言われ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)をお祀りしてあります。 創建の年代ははっきりしておりません。 棟札は弘安(鎌倉後期、1278年−1288年)六年(1283)からありますので非常に古いものと推察されます。 彦火火出見尊は別名を火遠理命(ほおりのみこと)といい海幸山幸の物語の中の山幸彦でありますが、兄君火照命(ほでりのみこと)の釣針をなくされ、それを探しに海神綿津見大神(わだつみのおおかみ)のもとへ行き、三年の後なくした釣針のほかに潮満玉(しおみつたま)と潮涸玉(しおひるたま)を授かって帰られました。 (古事記)

この潮満玉・潮涸玉が鹿野田神社の御神体であり、この潮満の泉はその御神徳によるものといわれております。
この潮満の泉は深さ一丈(約三米)余り、海を隔ること三里(約十二粁)に余りながらこの塩水は海水の干満と時を同じうして増減するといわれております。
享保(江戸中期、1716年−1736年)十二年(1726)の社殿再興の棟札には、上下万民崇敬の様子を述べると共に、この潮満の泉の功徳をたたえて哀愍六合を覆うと述べております。
平安時代の有名な女流歌人和泉式部は八代(国富町)の法華嶽薬師に参籠した後、帰郷の途中再び病となり鹿野田氷室の里(潮)までたどりつきこの潮満の泉で湯治をと思ったのか、近くの薬師堂に籠り読経三昧の日を送り、竟にこの地で四十三才の生涯を終わったと伝えられています。 (墓は近くにあります。)
「日隠れや氷室の里を眺むれば藻塩の烟りいつも絶やせぬ」
これは和泉式部の歌といわれ、近くに籠った薬師堂跡と式部の墓があり里人によって祀られています。 (日隠れ=城内の古名)
このように由緒深い潮妙見様は、伊東氏・島津氏の両時代も領主領民に深く崇敬されてきました。
江戸時代の末には、勤王の志士高山彦九郎(江戸時代後期の尊皇攘夷の思想家で、旅の思想家として膨大な日記を残しています。 新富町の観音山にも登って歌を残しています。 観音山に石碑があります。)が諸国遊説の途この社に参拝し村人と濁酒を汲み交し、また飫肥藩の学者安井息軒が都於郡の史跡巡りをしてここを訪れ神主の丸山宅に一泊して夜通し神楽を見物し「筋骨のあらぶる神の一さしに天の岩戸は早明けにけり」と詠んだと記されています。
時は流れて今日に至も常に里人の崇敬は篤く、霊験あらたかなるこの潮満の泉の塩水を薬用として飲用する人もあり春秋の大祭には大へんな賑わいを見せています。
と書かれています。

これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真W: 「鹿野田神社と潮満の泉について」の説明。
この鹿野田神社は明治の初め頃まで、潮妙見大明神とか潮妙見様とか言われ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)をお祀りしてあります。
創建の年代ははっきりしておりません。 棟札は弘安(鎌倉後期、1278年−1288年)六年(1283)からありますので非常に古いものと推察されます。
彦火火出見尊は別名を火遠理命(ほおりのみこと)といい海幸山幸の物語の中の山幸彦でありますが、兄君火照命(ほでりのみこと)の釣針をなくされ、それを探しに海神綿津見大神(わだつみのおおかみ)のもとへ行き、三年の後なくした釣針のほかに潮満玉(しおみつたま)と潮涸玉(しおひるたま)を授かって帰られました。 (古事記)
この潮満玉・潮涸玉が鹿野田神社の御神体であり、この潮満の泉はその御神徳によるものといわれております。
この潮満の泉は深さ一丈(約三米)余り、海を隔ること三里(約十二粁)に余りながらこの塩水は海水の干満と時を同じうして増減するといわれております。
享保(江戸中期、1716年−1736年)十二年(1726)の社殿再興の棟札には、上下万民崇敬の様子を述べると共に、この潮満の泉の功徳をたたえて哀愍六合を覆うと述べております。
平安時代の有名な女流歌人和泉式部は八代(国富町)の法華嶽薬師に参籠した後、帰郷の途中再び病となり鹿野田氷室の里(潮)までたどりつきこの潮満の泉で湯治をと思ったのか、近くの薬師堂に籠り読経三昧の日を送り、竟にこの地で四十三才の生涯を終わったと伝えられています。 (墓は近くにあります。)
「日隠れや氷室の里を眺むれば藻塩の烟りいつも絶やせぬ」
これは和泉式部の歌といわれ、近くに籠った薬師堂跡と式部の墓があり里人によって祀られています。(日隠れ=城内の古名)
このように由緒深い潮妙見様は、伊東氏・島津氏の両時代も領主領民に深く崇敬されてきました。
江戸時代の末には、勤王の志士高山彦九郎(江戸時代後期の尊皇攘夷の思想家で、旅の思想家として膨大な日記を残しています。 新富町の観音山にも登って歌を残しています。 観音山に石碑があります。)が諸国遊説の途この社に参拝し村人と濁酒を汲み交し、また飫肥藩の学者安井息軒が都於郡の史跡巡りをしてここを訪れ神主の丸山宅に一泊して夜通し神楽を見物し「筋骨のあらぶる神の一さしに天の岩戸は早明けにけり」と詠んだと記されています。
時は流れて今日に至も常に里人の崇敬は篤く、霊験あらたかなるこの潮満の泉の塩水を薬用として飲用する人もあり春秋の大祭には大へんな賑わいを見せています。
と書かれています。

これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真X: 宮崎県西都市鹿野田潮にある鹿野田神社には「潮満の泉(潮満の井戸)」があります。 これがその井戸です。 この井戸からの塩水が御神水です。 海水の約半分の塩が含まれています。 飲んでみるとかなり塩辛く感じます。 10 km以上も離れた日向灘の干満に合わせて水位が上下すると言われています。 鹿野田神社は別名を潮神社(うしおじんじゃ)と言います。 井戸の塩水は、昔から飲むと慢性胃腸病、便秘に、浴用としては神経痛、筋肉痛、疲労回復、慢性皮膚病などに効能があると言われています。 現在は主に飲用に求める人が多く、地元民だけでなく関東、関西地方の愛飲者もいるそうです。 平安時代の歌人 和泉式部も、この地で療養中に生涯を閉じたと伝えられています。 神社近くに原石をすこし削(けず)った石があり、和泉式部の墓と伝承されています。
 塩が貴重だった第二次世界大戦中は、地域の人たちがこの井戸水でイモを煮て漬け物を作っていたそうです。 井戸水は御神水として販売されていて、遠方からの注文も受け付けています。



写真Y: 宮崎県西都市鹿野田潮にある鹿野田神社には「潮満の泉(潮満の井戸)」があります。 これがその井戸です。 この井戸からの塩水が御神水です。 海水の約半分の塩が含まれています。 飲んでみるとかなり塩辛く感じます。 10 km以上も離れた日向灘の干満に合わせて水位が上下すると言われています。 鹿野田神社は別名を潮神社(うしおじんじゃ)と言います。 井戸の塩水は、昔から飲むと慢性胃腸病、便秘に、浴用としては神経痛、筋肉痛、疲労回復、慢性皮膚病などに効能があると言われています。 現在は主に飲用に求める人が多く、地元民だけでなく関東、関西地方の愛飲者もいるそうです。 平安時代の歌人 和泉式部も、この地で療養中に生涯を閉じたと伝えられています。 神社近くに原石をすこし削(けず)った石があり、和泉式部の墓と伝承されています。
 第二次世界大戦中は、地域の人たちがこの井戸水でイモを炊いて漬け物を作っていたそうです。 井戸水は御神水として販売されていて、遠方からの注文も受け付けています。



写真Z: 「潮満の井戸」の建物の中には、祠(ほこら)があります。 その前に四角のガラスが張ったものがあります。 これが井戸だと思われます。



写真AA: 「潮満の井戸」の建物の中には一升瓶、柄杓(ひしゃく)、漏斗(じょうご)、ポリタンクなどが置いてあります。 御神水 一升が100円、一斗が1000円と書かれています。 そばにその代金を入れるお賽銭箱(さいせんばこ)があります。



写真AB: 「潮満の井戸」の建物の中には一升瓶、柄杓(ひしゃく)、漏斗(じょうご)、ポリタンクなどが置いてあります。



写真AC: 「潮満の井戸」から出る塩水についての「浴用・飲用の一般的注意事項」の看板(かんばん)。



写真AD: 「潮満の井戸」から出る塩水についての温泉分析表。



写真AE: 「潮満の井戸」の建物の中には一升瓶、柄杓(ひしゃく)、漏斗(じょうご)、ポリタンク、お賽銭箱(おさいせんばこ)などが置いてあります。



写真AF: 鹿野田神社の御神木の看板(かんばん)です。 御神木: 樹種 クスノキ、幹まわり 7.5メートル、樹高 20 メートル、推定樹齢 450年。



写真AG: 「潮満の井戸」の建物。 御神木のそばにあります。



写真AH: 「潮満の泉」の建物。 御神木のそばにあります。



写真AI: 鹿野田神社の御神木。 御神木: 樹種 クスノキ、幹まわり 7.5メートル、樹高 20 メートル、推定樹齢 450年。



写真AJ: 境内にはトイレもあります。



写真AK: 鹿野田神社の三の鳥居。 階段の上には社殿が見えています。 石灯籠(いしどうろう)、左に御神木も見えています。



写真AL: 宮崎県西都市鹿野田潮にある鹿野田神社(かのだじんじゃ)の社殿。



写真AM: 宮崎県西都市鹿野田潮にある鹿野田神社の社殿と境内(けいだい)。



写真AN: 宮崎県西都市鹿野田潮にある鹿野田神社の社殿と境内(けいだい)。 右の白い建物は祖霊社。



写真AO: 社殿のそばにある古い方の御手洗(みたらい)。



写真AP: 石灯籠(いしどうろう)。 まわりにお神籤(おみくじ)が縛り付けてあります。



写真AQ: 石灯籠。 ベンチ、ちり箱もあります。



写真AR: 鹿野田神社の境内(けいだい)。 白い建物は祖霊社、ベンチ、焼却用のドラム缶もあります。



写真AS: 鹿野田神社の境内(けいだい)。 ベンチ、焼却用のドラム缶もあります。



写真AT: 鹿野田神社には木像の狛犬(こまいぬ)があります。 木製なので社殿の屋根の下に置かれているのでしょう。 格子(こうし)の間に、お神籤(みくじ)の四角い穴(左の2つ)、お賽銭箱(さいせんばこ)にお金を入れる四角の穴もあります。



写真AU: 鹿野田神社には木像の狛犬(こまいぬ)があります。 木製なので社殿の屋根の下に置かれているのでしょう。



写真AV: 鹿野田神社の社殿の中。 手前の白く見えているのはお賽銭箱(さいせんばこ)。



写真AW: 鹿野田神社の鈴が見えています。



写真AX: 格子(こうし)の間に、お賽銭箱(さいせんばこ)にお金を入れる四角の穴もあります。



写真AY: 格子(こうし)の間に、お神籤(みくじ)の四角い穴(左の2つ)、お賽銭箱(さいせんばこ)にお金を入れる四角の穴もあります。



写真AZ: 社殿の奥には、赤い色の本殿(奥の院)も見えています。



写真BA: 社殿から見た境内(けいだい)。



写真BB: 社殿から見た境内(けいだい)。



写真BC: 社殿から見た境内(けいだい)。 右に御手洗(みたらい)も見えています。



写真BD: 鹿野田神社。



写真BE: 鹿野田神社。



写真BF: 鹿野田神社にある白髭神社(しろひげじんじゃ)、稲荷神社。



写真BG: 鹿野田神社にある白髭神社(しろひげじんじゃ、右)、稲荷神社(左)。



写真BH: 鹿野田神社の本殿(奥の院)。



写真BI: 鹿野田神社の社殿と本殿の間。



写真BJ: 鹿野田神社の社殿。



写真BK: 鹿野田神社の二の鳥居のそばにある「鹿野田神社改修記念碑」。



写真BL: 鹿野田神社のとなりにある祖霊社。



写真BM: 平安時代の女流歌人 和泉式部(いずみしきぶ)の墓には、奥の細い道を登ります。



写真BN: 平安時代の女流歌人 「和泉式部(いずみしきぶ)の墓」の標識。 この近くは墓場になっています。 この三叉路(さんさろ)を右に下ります。



写真BO: 「伝承地 和泉式部之墓」と書かれた案内棒。



写真BP: この瓦葺(かわらぶ)きの小さな建物の中に「和泉式部(いずみしきぶ)の墓」があります。



写真BQ: 「和泉式部の墓」に降りるコンクリート製の階段が見えています。



写真BR: 「和泉式部(いずみしきぶ)の墓」。 ロウソク台、線香を立てる鉢(はち)、シキミの枝などが供(そな)えてあります。



写真BS: 和泉式部の墓の建物。



写真BT: 鹿野田神社のそばに咲いていたテッポウユリの花。



写真BU: 宮崎県西都市清水にある「清水神社(きよみずじんじゃ)」の裏にある駐車場。



写真BV: 西都市の清水神社。



写真BW: 西都市の清水神社。



写真BX: 西都市の清水神社。



写真BY: 西都市の清水神社のそばにある祠(ほこら)。



写真BZ: 西都市の清水神社のそばにある祠(ほこら)。



写真CA: 西都市清水にある「清水神社(きよみずじんじゃ)」。



写真CB: 清水神社の境内には、白鬚神社(しろひげじんじゃ)もあります。



写真CC: 清水神社の境内(けいだい)には「県指定 清水西原古墳群 指定 昭和9年4月17日」の説明板があります。 清水西原古墳(ふん)群は、清水地区に6基、西ノ原地区に19基、総計で25基の古墳が点在しています。 西ノ原地区は昔から百塚原と呼ばれてきました。 百塚原からは、大正初年、現在国宝に指定されている貴重な「金銅製の馬具類」が出土しています。 この看板は昭和63年3月20日に西都市教育委員会が作りました。



写真CD: 鳥居(とりい)のそばには、「交通安全祈願バイパス 竣工記念碑 清水神社」と書かれた石碑があります。



写真CE: 西都市の清水東交差点から見た「清水神社」。 手前の大きな木はクスノキです。 クスノキ(クスノキ科)、樹高: 25.0 m、胸高直径: 2.0 m。 鳥居、階段、古墳の説明板なども見えます。



写真CF: 西都市清水にある清水東交差点。



写真CG: 西都市にある清水神社。鳥居(とりい)、階段、大きなのクスノキ、古墳の説明板なども見えます。 クスノキ(クスノキ科)、樹高: 25.0 m、胸高直径: 2.0 m。



写真CH: 清水神社のそばにある西都市清水東交差点。 右の白い建物は西都市の浄化センターです。



写真CI: 清水神社の大きなクスノキ。 クスノキ(クスノキ科)、樹高: 25.0 m、胸高直径: 2.0 m。



写真CJ: 清水神社にある楠(くすのき)の大木。 このあたりは、神社にクスノキの大木がよくあります。 クスノキ(クスノキ科)、樹高: 25.0 m、胸高直径: 2.0 m。



写真CK: 清水神社のクスノキは「沿道修景指定樹木」になっています。 指定樹木の名称: クスノキ(クスノキ科)、樹高: 25.0 m、胸高直径: 2.0 m、指定年月日: 昭和53年7月2日 郷土を美しく 宮崎県
と書かれています。



写真CL: 西都市の清水にある「清水神社」。



写真CM: 西都市清水にある「清水神社」。



写真CN: 清水神社の鳥居建設の記念碑(昭和47年9月建立)。



写真CO: 西都市の清水神社。



写真CP: 西都市の清水神社。 階段の上からの景色。



写真CQ: 清水神社の石灯籠(いしどうろう)。



写真CR: 清水神社の石灯籠(いしどうろう)と御手洗(みたらい)。



写真CS: 宮崎県西都市にある清水神社の御手洗(みたらい)。



写真CT: 清水神社。



写真CU: 清水神社の石灯籠(いしどうろう)と狛犬(こまいぬ)。



写真CV: 清水神社の石灯籠(いしどうろう)と狛犬(こまいぬ)。



写真CW: 清水神社の中。



写真CX: 西都市の清水神社。



写真CY: 右よりの建物は清水神社の本殿(奥の院)。 右に小さな祠(ほこら)が見えます。



写真CZ: 清水神社の末社。



写真DA: 清水神社の境内(けいだい)。 トイレもあります。



写真DB: 清水神社の本殿(奥の院)。



写真DC: 清水神社の稲荷神社(末社)。



写真DD: 清水神社。



写真DE: 宮崎県西都市清水地区にある「清水神社」の末社。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)