記紀の道、児湯の池、石貫神社、石貫階段、大山祇塚、御船塚、逢初川、八尋殿、無戸室、稚児ヶ池 (ききの道、こゆの池、いしぬき神社、いしぬき階段、おおやまづみ塚、みふね塚、あいぞめ川、やひろ殿、うつむろ、ちごが池)  (西都市)







<標高、位置>  児湯の池は
標高 約20 m
 北緯32度07分13秒  東経131度23分45秒

 石貫神社は
標高 約30 m
 北緯32度07分20秒  東経131度23分39秒

 石貫階段は
標高 約50 m
 北緯32度07分13秒  東経131度23分34秒

 大山祇塚は
標高 約70 m
 北緯32度07分05秒  東経131度23分33秒

 御船塚は
標高 約10 m
 北緯32度06分49秒  東経131度24分10秒

 逢初川は
標高 約20 m
 北緯32度07分06秒  東経131度23分51秒

 八尋殿は
標高 約30 m
 北緯32度07分07秒  東経131度23分50秒

 無戸室は
標高 約20 m
 北緯32度07分14秒  東経131度23分48秒

 稚児ヶ池は
標高 約20 m
 北緯32度06分48秒  東経131度23分58秒


 都萬神社と西都原古墳群の間に、古事記や日本書紀に載っている神話に関係する「記紀の道」があります。 古事記の記、日本書紀の紀、をとって記紀の道と呼ばれています。 古代の愛とロマン溢(あふ)れる道です。 日本で一番古い古事記、日本書紀には、日本神話の主要部をなす日向神話が書いてあります。 御船塚(みふねづか)、古事記の中に出てくる逢初川(あいぞめがわ)、八尋殿跡(やひろでんあと)、無戸室(うつむろ)、児湯の池(こゆのいけ)、石貫神社(いしぬきじんじゃ)、大山祇塚(おおやまづみづか、90号墳)などがあります。 これらは伝承遺跡と言われています。 また、この近くにある室町時代の長千代丸の人柱の話が伝わる稚児ヶ池(ちごがいけ)、昭和15年頃に出来た石貫階段についても書いてあります。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。


写真A: 宮崎県西都市の「記・紀の道(ききのみち)」の指導標。 ここは無戸室(うつむろ)です。 右手には逢初川(あいぞめがわ)が400 m先にあり、左手には児湯の池(こゆのいけ)が50 m先にあります。



写真B: 記・紀の道にある無戸室(うつむろ)。
 古事記と日本書紀の記と紀をとって「記・紀の道」と言われています。 高千穂峰に降臨されたニニギノ尊(みこと)はコノハナサクヤ姫と結婚されて、一夜明けると土賊征伐にお出かけになり数ヶ月してお帰りになると、姫はすでに身ごもっておりました。 そこで尊はお疑いになったので、姫は身の潔白を明かすため、戸の無い産殿をつくられ、周囲に火をかけその中で「尊の子であれば火で焼け死ぬことはないでしょう。」と言われてヒコホホデミの尊(山幸彦)、ホスセリの尊、ホアカリの尊(海幸彦)の三皇子(おうじ)を無事出産されました。 無戸室(うつむろ)は地元では火柱殿(ひじゅどん)とも言っています。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真C: 記紀の道 無戸室(うつむろ)の説明板。



写真D: 大きな楠(くす)の木の下に「無戸室跡」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。



写真E: 記紀の道にある無戸室(うつむろ)。



写真F: 無戸室(うつむろ)。



写真G: 「無戸室跡」と書かれた石碑。



写真H: 無戸室跡の境内。 右は石碑。



写真I: 無戸室跡にあるクスノキ。



写真J: 無戸室(うつむろ)の境内。



写真K: 無戸室(うつむろ)の境内。



写真L: 無戸室(うつむろ)の境内。



写真M: 無戸室(うつむろ)の境内。



写真N: 「九州自然歩道」の標識。



写真O: 左手の森が「児湯の池(こゆのいけ)」です。 この道を先に行くと石貫神社、石貫階段、大山祇塚のある西都原古墳群などがあります。 手前には無戸室、逢初川、八尋殿などがあります。



写真P: 「児湯の池」。 西都原台地にしみこんだ水が泉となって児湯の池に湧き出ています。 現在も清水が湧いています。 回りには木が茂っています。 ここからの水は逢初川と合流して稚児が池に流れ込みます。 稚児が池からは一ッ瀬川に溝があります。 ニニギノ尊と結婚したコノハナサクヤ姫は3つ子の皇子(おうじ)を無戸室で出産され産湯に この泉の水を使われました。 それで、児湯の池と呼ばれています。



写真Q: 児湯の池。 左奥に池があります。



写真R: 児湯の池の標識。 左50 mの所に無戸室、400 m右に石貫神社があります。



写真S: 記紀の道 児湯の池(こゆのいけ)と書いてあります。



写真T: 記紀の道 「児湯の池」の説明板。
 西都原台地でしみこんだ雨水が泉としてこの児湯の池に湧きだしています。 西都の神話にも語り継がれている代表的な伝承遺跡です。 昔、この付近は水の濁った沼地が多いところでしたが、児湯の池だけはきれいな水が湧き、里人たちは「洗ん子(あれんこ)」と呼んでいました。 それは、ニニギノ尊に嫁がれたコノハナサクヤ姫が、近くに無戸室(うつむろ)という産屋を建てて三皇子を出産され、産湯としてこの池の水を使われたと言うことから起こりました。 この地方は古くは児湯県(こゆのあがた)、児湯郡(こゆぐん)と称しました。 地方発祥の地とも言われています。



写真U: 児湯の池。 池の奥に石碑(せきひ)も見えています。 ベンチもあります。



写真V: 伝承遺跡の児湯の池。



写真W: 児湯の池にある「いつまでも名水の池を伝えよう。」 「鯉にもやさしく まわりきれいに。」という看板。



写真X: 石碑には「児湯池」と書いてあります。



写真Y: 児湯の池の石碑。



写真Z: 児湯の池のまわりは柵(さく)があります。



写真AA: 回りの木が児湯の池に映(うつ)っています。



写真AB: 児湯の池。 泳いでいる鯉(こい)も見えています。 鯉からの水面の波紋も見えます。



写真AC: 児湯の池の入り口。




写真AD: 「児湯の池」の横の景色。 遠くの大きな木は無戸室(うつむろ)跡にあるクスノキ。



写真AE: 児湯の池の横の景色。 少し左寄りに、赤い黒貫神社の鳥居の側面が見えています。



写真AF: 記紀の道 「石貫神社(いしぬきじんじゃ)」の説明板。
 悪鬼がコノハナサクヤ姫を嫁にくださいと望みました。 これを断るために父神のオオヤマズミ命(みこと)は、一夜で石造りの館の建設を所望しました。 鬼は夜を徹して朝日が出る前にこれを完成しました。 父神は、早速 窟(いわや)の石を一個抜き取り、東方の谷間に投じて未完成とし、鬼の申し出を断りました。 これが石貫神社の石(一の鳥居のそばに安置してあります)で、石貫地区の発生となっているそうです。



写真AG: コノハナサクヤ姫の父神が、鬼の求婚を断るために、鬼が一夜で作った窟(いわや)から抜き去った「石」と言われています。 石貫神社の一の鳥居のそばに安置してあります。



写真AH: 石貫神社の一の鳥居のそばには沼があります。



写真AI: 石貫神社(いしぬきじんじゃ)の一の鳥居。 右端に「窟から抜き取られた石」や鬼の像があり、中央にコノハナサクヤ姫の父神で「山の神」でもあるオオヤマズミ命(みこと)の像、左端には石貫公民館が見えています。



写真AJ: 石貫神社の入り口。 児湯の池と西都原古墳群の間にあります。



写真AK: 石貫神社の入り口。



写真AL: 石貫神社と公民館の掲示板。



写真AM: 石貫神社の一の鳥居。



写真AN: 石貫神社の鬼の像、抜かれた石、説明板。



写真AO: 石貫神社の石灯籠(いしどうろう)。



写真AP: 石貫神社の参道。 奥の鎮守の森に社殿があります。



写真AQ: 石貫公民館。



写真AR: 石貫公民館の看板。



写真AS: 石貫神社の一の鳥居。



写真AT: 石貫神社の参道。



写真AU: 石貫神社の石碑(せきひ)。



写真AV: 石貫神社。 左手に広場があります。



写真AW: 石貫神社。 鳥居の奥に拝殿が見えています。



写真AX: 石貫神社。 右端に御手洗(みたらい)も見えています。



写真AY: 石貫神社の御手洗(みたらい)。



写真AZ: 石貫神社の御手洗(みたらい)。



写真BA: 石貫神社の森にある遊具。



写真BB: 石貫神社の鳥居。



写真BC: 石貫神社。



写真BD: 石貫神社の標識。 左400 mに大山祇陵(おおやまづみりょう)、右200 mに児湯の池があります。



写真BE: 石貫神社の石灯籠(いしどうろう)と祠(ほこら)。



写真BF: 石貫神社の石灯籠など。



写真BG: 石貫神社の石灯籠は江戸後期の天保9年に作られました。



写真BH: 石貫神社の祠(ほこら)。



写真BI: 石貫神社の石碑。



写真BJ: 石貫神社の拝殿。



写真BK: 石貫神社はコノハナサクヤ姫の父君である大山祇(おおやまづみ、おおやまつみ、オオヤマヅミ、オオヤマツミ)が祀(まつ)られています。 大山祇は「山の神」です。



写真BL: 石貫神社の拝殿の中。 手前はお賽銭箱です。



写真BM: 石貫神社の拝殿。 鈴も見えています。



写真BN: 石貫神社と書かれた額と鈴。



写真BO: 石貫神社の拝殿。



写真BP: 左の建物は石貫神社の本殿。



写真BQ: 石貫神社の本殿の裏には6個の丸い石が祀られています。



写真BR: 石貫神社の本殿。



写真BS: 石貫神社の側面。



写真BT: 石貫神社の末社。



写真BU: 石貫神社。



写真BV: 石貫神社。



写真BW: 石貫神社。



写真BX: 石貫神社の参道。



写真BY: 「御船塚(みふねづか)」へはこの十字路を左に行きます。 右奥は都萬神社、先は杉安方面、手前は宮崎方面です。



写真BZ: この店の左隣に「御船塚」があります。



写真CA: 「御船塚(みふねづか)」。



写真CB: 記紀の道 「御船塚(みふねづか)」の説明板。
 古くからの伝承によると、国を治めるため、高天原(たかまがはら)から高千穂峰に降臨されたニニギノ尊(みこと)ご一行は、よい国を求めて、海路で、当時、奥深い入り江であったと伝えられるこの地の御崎にご到着になりました。 そして、この西都原地方に本拠地を定められました。 そのとき神々が乗ってこられた船がそのまま鎮まった所(御船塚)と言われています。



写真CC: 御船塚。



写真CD: 御船塚の境内。



写真CE: 御船塚の石碑(せきひ)。



写真CF: 御船塚の石碑。 シキミの枝が供えてあります。



写真CG: 御船塚。 供え物がしてあります。



写真CH: 御船塚の側面。



写真CI: 御船塚の側面。



写真CJ: 御船塚から見た景色。 奥は西都市立 妻北小学校です。 右端の建物は新校舎です。



写真CK: 御船塚。 説明板も見えています。



写真CL: 御船塚から西都原古墳群に行く道に 稚児殿池 のバス停があります。 この少し先に「稚児ヶ池(ちごがいけ)」があります。



写真CM: 稚児ヶ池の近くにある祠(ほこら)。 室町時代の稚児ヶ池にまつわる、堤の決壊をなくすために自刃した当時14歳の長千代丸(ちょうちよまる)を祀(まつ)ってあります。



写真CN: 右の石碑は、長千代丸顕徳碑です。



写真CO: 長千代丸の祠(ほこら)からの景色。



写真CP: ガードレールの向こうが稚児ヶ池です。 奥の台地に西都原古墳群があります。



写真CQ: 長千代丸の祠は四叉路(よんさろ)にあります。



写真CR: 祠(ほこら)にある御手洗(みたらい)。



写真CS: この御手洗は昭和3年に作られました。



写真CT: 長千代丸顕徳碑。 これは昭和27年12月27日に建立されました。



写真CU: 稚児殿池改修記念碑と長千代丸 五百年忌記念碑。



写真CV: 長千代丸の祠(ほこら)。



写真CW: 長千代丸の祠。



写真CX: 長千代丸顕徳碑の裏。
 室町時代に、ここを治めていた伊東の時代に稚児ヶ池の堤(つつみ)は作られました。 しかし豪雨で決壊しました。 ちまたでは、池を作るときに池に住んでいた黒白の大蛇を殺して埋めたので、その祟(たた)りだと言われました。 それを静めるのに、人柱が考えられました。 国分寺から学業を終えて帰る途中の14歳だった長千代丸が捕らえられました。 正長元年(1428年)2月27日、長千代丸は少しも動ぜず、家人に遺言を伝え自刃して哀れにも深く8尺(約2.4 m)に埋められ、永くこの池の守護神として祀(まつ)られています。 人々はこの池を「稚児殿池(ちごんど池)」と呼んでいます。



写真CY: 長千代丸顕徳碑の裏。
 室町時代に、ここを治めていた伊東の時代に稚児ヶ池の堤(つつみ)は作られました。 しかし豪雨で決壊しました。 ちまたでは、池を作るときに池に住んでいた黒白の大蛇を殺して埋めたので、その祟(たた)りだと言われました。 それを静めるのに、人柱が考えられました。 国分寺から学業を終えて帰る途中の14歳だった長千代丸が捕らえられました。 正長元年(1428年)2月27日、長千代丸は少しも動ぜず、家人に遺言を伝え自刃して哀れにも深く8尺(約2.4 m)に埋められ、永くこの池の守護神として祀(まつ)られています。 人々はこの池を「稚児殿池(ちごんど池)」と呼んでいます。



写真CZ: 長千代丸顕徳碑の裏。
 室町時代に、ここを治めていた伊東の時代に稚児ヶ池の堤(つつみ)は作られました。 しかし豪雨で決壊しました。 ちまたでは、池を作るときに池に住んでいた黒白の大蛇を殺して埋めたので、その祟(たた)りだと言われました。 それを静めるのに、人柱が考えられました。 国分寺から学業を終えて帰る途中の14歳だった長千代丸が捕らえられました。 正長元年(1428年)2月27日、長千代丸は少しも動ぜず、家人に遺言を伝え自刃して哀れにも深く8尺(約2.4 m)に埋められ、永くこの池の守護神として祀(まつ)られています。 人々はこの池を「稚児殿池(ちごんど池)」と呼んでいます。



写真DA: 長千代丸を祀(まつ)る祠には大きなクスノキがあります。



写真DB: 長千代丸の祠にある農業改良工事の石碑。 左の建物は西都市消防団 第3分団第5部。



写真DC: 長千代丸の祠から見た稚児ヶ池方向。 
白いガードレールの向こうは稚児ヶ池です。



写真DD: 稚児ヶ池には休日に営業される足こぎボートがあります。 黄色に見えているのが足こぎボート。



写真DE: 稚児ヶ池の「ボート乗り場入口」の看板。



写真DF: 稚児ヶ池のそばの長千代丸を祀る祠。 大きな木はクスノキで、その左の木はセンダンです。 クスノキの右下の建物は、西都市消防団 第3分団第5部。 稚児ヶ池のほとりから見たもの。



写真DG: 宮崎県西都市にある稚児ヶ池。 中央に足踏みボートの船着き場も見えています。 池の向こうに見える台地には、西都原古墳群があります。 昭和30年代の頃、北小学校の児童たちは、学校の机、椅子(いす)をこの稚児ヶ池まで運んで、洗ったこともあったそうです。 稚児ヶ池には、北の方から、逢初川(あいぞめ川)が流れ込んでいます。 地元では、稚児ヶ池のことを稚児殿池(ちごんど池)と呼んでいます。



写真DH: 稚児ヶ池から溢れた水は、ここから溝に流れます。



写真DI: 稚児ヶ池の土手(堤防)。 森の中の黄色いものは、足踏みボートです。



写真DJ: 稚児ヶ池には睡蓮(すいれん)があります。 足踏みボートの船着き場も見えています。



写真DK: 稚児ヶ池(ちごがいけ)。



写真DL: 稚児ヶ池の堤防。 この道を先に進むと、西都原古墳群、宮崎県立妻高等学校があります。



写真DM: 稚児ヶ池。 遠くには山並みも見えます。 稚児ヶ池には、逢初川(あいぞめ川)が流れ込んでいます。



写真DN: 稚児ヶ池の枯れ枝に、ちょうど カワセミ というきれいな野鳥が留まっていました。 この写真にも見えています。 カワセミは小魚が見えると飛び立って、くちばしで捕らえます。



写真DO: 稚児ヶ池の鴨(かも)。 森の近くの水面にいるのが鴨です。



写真DP: 稚児ヶ池と風景。 池の奥の右端付近に「逢初川(あいぞめがわ)」があり、稚児ヶ池に注(そそ)いでいます。 奥の中央右手の建物は、宮崎県猪事業組合の競(せ)り市場です。 奥の2階建ての左にある小さめの建物は、稚児ヶ池保育園の分園です。



写真DQ: 稚児ヶ池の堤(つつみ)。



写真DR: 稚児ヶ池。



写真DS: 稚児ヶ池の近くにある三叉路(さんさろ)。 角に食料品店があります。



写真DT: 稚児ヶ池の桟橋(さんばし)。 足踏みボートの乗り場にあります。



写真DU: 稚児ヶ池の足踏みボート(2人乗り)。



写真DV: 稚児ヶ池の北部の逢初川(あいぞめがわ)。 ほとりにセンダンの並木があります。



写真DW: 逢初川(あいぞめがわ)が稚児ヶ池に流れ込んでいる所。 葦(あし)が茂っています。 葦の奥は稚児ヶ池。 右手には、宮崎県猪事業組合の競り市場があります。



写真DX: 稚児ヶ池の北部からの景色。 遠くにNTTのアンテナ、サンキの建物。 手前の建物は稚児ヶ池保育園の分園です。



写真DY: 北岸から見た稚児ヶ池。 向こう岸の車道には車が見えています。 右端に、NTTのアンテナ、サンキの建物が見えています。



写真DZ: 四叉路(よんさろ)。 右先には、無戸室、児湯の池、石貫神社、石貫階段、西都原古墳群などがあります。 左に行くと、逢初川、八尋殿跡があります。



写真EA: 「記紀の道」の指導標。 左100 mは、逢初川(あいぞめがわ)、八尋殿(やひろでん)、右300 mは、無戸室(うつむろ)。 この畑の奥に右から左へ児湯の池(こゆのいけ)の湧き水が流れていて、途中で逢初川の湧き水と合流して、稚児ヶ池(ちごがいけ)に注(そそ)いでいます。



写真EB: 四叉路(よんさろ)には酒店があります。 手前側に逢初川、八尋殿があります。 左は無戸室、児湯の池、石貫神社、石貫階段、西都原古墳群があります。



写真EC: 児湯の池からの湧(わ)き水が流れている小川。 逢初川、八尋殿に行くにはこの小川に沿っていきます。



写真ED: 児湯の池から来ている小川。



写真EE: 児湯の池 方向の小川は、草が茂っていました。



写真EF: 逢初川、八尋殿へはこの三叉路(さんさろ)を先に進みます。 電柱の下に、児湯の池からの小川があります。



写真EG: 記紀の道の指導標。



写真EH: 児湯の池の湧き水が流れている小川。 水はきれいに澄(す)んでいます。



写真EI: 児湯の池からの小川は、湧き水がある逢初川(あいぞめがわ)と合流します。



写真EJ: 逢初川へは、この三叉路を左先へ、八尋殿跡へは奥への道を進みます。 中央の小川は児湯の池から流れています。



写真EK: 記紀の道 八尋殿と逢初川の案内板。 三叉路にあります。



写真EL: 八尋殿(やひろでん)と逢初川(あいぞめがわ)の案内板。



写真EM: この道を先に進むと逢初川(あいぞめがわ)があります。 左の小川は児湯の池から流れています。 小川のほとりの木は桜です。



写真EN: 今まで歩いてきた道を振り返った景色です。



写真EO: 記紀の道 「逢初川(あいぞめがわ)」の説明板。



写真EP: 逢初川(あいぞめがわ)の説明板。
 ここが「古事記」の古書に出てくる逢初川だと伝えられています。 高千穂峰に降りられた天孫ニニギノ尊はこの地に移り住まわれますが、ある日散歩の途中この小川で水くみをしていたコノハナサクヤ姫を見初められ、結婚の申し込みをされた場所だと伝えられています。 古代の水くみの場はすべて小川と呼ばれていました。



写真EQ: 逢初川と彫(ほ)られた石碑。 石碑があるところは斜面になっています。 手前の小川が逢初川(あいぞめがわ)です。 写真の右端のところに湧き水(泉)があります。 ここで水を汲んでいたコノハナサクヤ姫とニニギノ尊が会われました。 今でも清水が湧いています。



写真ER: ここが逢初川の湧き水(わきみず、泉)です。 ここが逢初川の源流です。 西都原の台地でしみこんだ雨水が地中で濾(こ)され、清水となって湧き出ています。 逢初川は古事記の中に出てくるそうです。



写真ES: 「逢初川」の石碑(せきひ)。



写真ET: 逢初川の石碑の裏側と逢初川。 逢初川の説明板も見えています。



写真EU: 手前の小川が逢初川です。 広場があり、ベンチもあります。



写真EV: 逢初川のそばの広場。 ベンチも見えています。



写真EW: 逢初川のそばの景色。 手前の草の間を逢初川が流れています。



写真EX: 逢初川(あいぞめがわ)。 きれいな水が流れています。



写真EY: 逢初川の畔(ほとり)。



写真EZ: 逢初川の回りの風景。



写真FA: 逢初川の回りの景色。



写真FB: 逢初川の回りの眺(なが)め。



写真FC: 左端は逢初川の源流です。 逢初川の説明板とベンチも見えています。



写真FD: 逢初川。 先の方に流れていき、稚児ヶ池に注(そそ)ぎます。



写真FE: 逢初川の下流。 稚児ヶ池保育園の本園の近くです。



写真FF: 逢初川の下流。



写真FG: 逢初川の下流。 逢初川はここで小川と合流します。 右が逢初川で、左手前に流れていきます。 左端の建物は、宮崎県猪事業組合の競り市場です。 センダンの木が見えています。



写真FH: 逢初川の下流。



写真FI: 逢初川の下流。 下部の光っている所が逢初川。 茂っているのは葦(あし)で、センダンの並木が見えています。



写真FJ: 逢初川の川口(稚児ヶ池の)近くには、宮崎県猪事業組合の競(せ)り市場があります。 この真ん中で猪(いのしし)の競りが行われます。



写真FK: 逢初川の下流。



写真FL: 逢初川が稚児ヶ池に注いでいる所(川口)。



写真FM: 三叉路(さんさろ)。 左に行くと逢初川(あいぞめがわ)で、右に行くと八尋殿跡(やひろでんあと)があります。 八尋殿跡は小高いところにあります。



写真FN: 三叉路の指導標。



写真FO: 八尋殿(やひろでん)。 右に八尋殿の案内板、その左に八尋殿跡の石碑も見えています。 八尋殿跡は柱とロープで囲われています。



写真FP: 八尋殿跡の案内板とその左下の八尋殿跡の石碑。



写真FQ: 記紀の道(ききの道) 八尋殿(やひろでん)の案内板。
 天孫ニニギノ命が、逢初川で見初められたコノハナサクヤ姫と、事勝神(ことかつがみ)の仲人によって結ばれ、二人の新婚生活のために建てられた御殿の跡と伝えられています。 館(やかた)は縦八尋(約15 m程)と横八尋の家であったことから、この地方の人たちが、八尋殿と名付けて跡地を保護しました。 古くは周辺に土塁(どるい、敵の侵入を防ぐための土手)もありました。



写真FR: 八尋殿跡には、ケイトウの花、金柑(きんかん)、ミカン、木立ダリヤ、蕗(ふき)などがありました。



写真FS: 八尋殿跡。



写真FT: 「八尋殿跡(やひろでんあと)」の石碑(せきひ)。



写真FU: 八尋殿跡。 ケイトウの花、金柑(きんかん)、ミカン、木立ダリヤ、蕗(ふき)なども見えています。



写真FV: 八尋殿跡。



写真FW: 八尋殿跡の石碑の裏側。



写真FX: 八尋殿跡。



写真FY: 八尋殿跡の回り。



写真FZ: 八尋殿跡の近くには古墳(こふん)もあります。



写真GA: 柱とロープで囲われているところが八尋殿跡(やひろでんあと)です。



写真GB: 石貫階段。 石貫神社と西都原古墳群の間にあります。 石貫神社(大山祇(おおやまづみ)を「山の神」としても祀(まつ)ってあります)と西都原古墳群の90号墳(大山祇塚(おおやまづみつか)と言い伝えられています)の間にある石貫階段です。 これは、昭和15年頃に石貫神社の信者だった鉱山主が落盤事故の供養のために奉納したものです。 大山祇は「山の神」と言われていますので、鉱山と関係があります。



写真GC: 石貫の階段。 西都原古墳群の「古墳祭り」で行われる夜のたいまつ行列もこの石貫階段を通ります。 私も昭和46年の暮れに、父母、家族などと一緒にこの石貫階段を下ったことがあります。



写真GD: 石貫の階段。 この上に西都原古墳群、この下の方には石貫神社などがあります。



写真GE: 石貫階段の登り口。



写真GF: 石貫階段の登り口。



写真GG: 西都原古墳群の90号墳の説明板。 コノハナサクヤ姫の父君の大山祇塚(おおやまづみづか)と言われています。 大山祇は「山の神」です。 この古墳はまだ未調査です。



写真GH: 西都原古墳群の90号墳の説明板。 4世紀に作られました。 90号墳は全長が96 m、後円部径51 m、同高さ7.1 m、前方部幅31 m、同高さ3.8 mの柄鏡式(えかがみしき)前方後円墳で、男狭穂塚(おさほ塚)、女狭穂塚(めさほ塚)に次いで、大きな古墳ですが、調査されていません。 女狭穂塚が木花開邪姫(このはなさくや姫)の墓、90号墳はコノハナサクヤ姫の父である大山祇命(おおやまづみのみこと、おおやまつみのみこと、オオヤマヅミノミコト、オオヤマツミノミコト)の墓と伝えられています。



写真GI: 西都原古墳群にある大山祇塚(90号墳)。 前方後円墳で、左の高い部分が後円部、右側の小高い部分が前方部です。



写真GJ: 大山祇塚(90号墳、オオヤマヅミ塚、オオヤマツミ塚)。



写真GK: 西都原古墳群にある大山祇塚(90号墳、オオヤマヅミ塚、オオヤマツミ塚)。



写真GL: 大山祇塚(90号墳)。 前方後円墳の後円部。



写真GM: 西都原古墳群にある大山祇塚(90号墳、オオヤマヅミ塚、オオヤマツミ塚)。



写真GN: 大山祇塚(90号墳)。



写真GO: 西都原古墳群にある大山祇塚(90号墳、オオヤマヅミ塚、オオヤマツミ塚)。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)