座論梅 (梅祭り)、湯之宮神社、神武天皇御湯浴場跡、春日の大イチョウ(黄葉) (ざろん梅、ザロン梅、ざろんばい、かすがの大いちょう、かすがのおおいちょう) (宮崎県児湯郡 新富町湯之宮、春日)







<標高、位置>  湯ノ宮の座論梅(ざろんばい)は
標高 約50 m
 北緯32度05分51秒  東経131度27分16秒

<標高、位置>  春日の大イチョウ(かすがのおおいちょう)は
標高 約40 m
 北緯32度05分26秒  東経131度25分01秒


 新富町湯之宮にある湯の宮座論梅は、古くからの梅の名所です。 元は一株の樹齢600年の白梅が、古い枝を地面に着けそこから根と新芽を出して、株が増えてきました。 園内には「力石」があります。 力自慢の人が持ち上げて運びます。 力石はかなり大きく、重いものです。
 座論梅のそばには、湯之宮神社があります。 湯之宮神社には、神武天皇御湯浴場跡があります。 今でも湧き水(わきみず)があります。
 この梅林は、その昔、神武天皇御東征の際、この地においてお湯を召され御休憩の後、梅の枝を突き立てたまま、お立ちになりその後これが芽を吹き元木となり成長して今日に至ったものと伝えられています。
 座論梅の名の起こりは「ザロミ」という梅の種類から名付けられたとも、また徳川時代 佐土原、高鍋両藩の間に梅林の所有争いが起こり、両藩士がこの地で出会い座して論議したので座論梅となったものとも伝えられています。 この座論梅は、元は一株であったものが横に伸び地について新しい株となり次々と繁殖して、現在80株になったものです。
 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板から、
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所があります。
 (注)高山彦九朗(高山彦九郎)は高千穂峡(宮崎県高千穂町)、児原稲荷神社(宮崎県西米良村)、鹿野田神社(宮崎県西都市鹿野田)や観音山(宮崎県児湯郡新富町)、座論梅(宮崎県児湯郡新富町)も訪(おとず)れています。 高山彦九朗は群馬県太田市に生まれ、18歳の時に遺書を残して家を出、北海道、四国以外の全国を遊説(ゆうぜい)して勤王論を説(と)きました。 公家とも交流があったので、幕府の松平定信らから警戒されました。 1791年(寛政3年)から九州各地を旅し、薩摩藩に頼ろうとしましたが、退(しりぞ)けられしばらく豊後国日田(大分県)で捕縛されました。 その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)に筑後国久留米(福岡県)の友達であった森嘉膳の家で割腹自殺しました(46歳)。 第二次世界大戦前は修身の教科書に高山彦九朗のことが書かれていました。

 「春日の大イチョウ」は宮崎県児湯郡新富町 春日(かすが)にあります。 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう)は昭和48年4月1日指定されました。 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より南側を流れる一ッ瀬川の栗唐瀬の渡しを見下ろしています。

写真A: 座論梅(ざろんばい)の道路標識。 道路の右手が座論梅です。 左手が駐車場です。 湯之宮神社と神武天皇御浴場跡は駐車場の先にあります。



写真B: 湯の宮座論梅の入り口と看板が見えています。



写真C: 「天然記念物 湯の宮座論梅」の看板。



写真D: 座論梅の門。 座論梅梅まつり、天然記念物 座論梅、新富町観光協会と書かれています。 左は出店のテントです。 梅の木も見えています。



写真E: 「文化財をたいせつに」、「天然記念物 湯の宮座論梅」と書いてあります。



写真F: 座論梅の出店。



写真G: 「みやざきの 巨樹百選、樹木名: ウメ、樹齢: 600年、幹周: 90 cm、樹高: 4 m、所有者: 新富町、 平成4年3月認定 宮崎県」と書かれた看板。 座論梅の樹齢は600年で、月知梅の樹齢400年より200年も古い梅の木です。



写真H: 国指定天然記念物 湯の宮座論梅、 指定年月日 昭和10年12月24日。 
 この梅林は、その昔、神武天皇御東征の際、この地においてお湯を召され御休憩の後、梅の枝を突き立てたまま、お立ちになりその後これが芽を吹き元木となり成長して今日に至ったものと伝えられている。
 座論梅の名の起こりは「ザロミ」という梅の種類から名付けられたとも、また徳川時代 佐土原、高鍋両藩の間に梅林の所有争いが起こり、両藩士がこの地で出会い座して論議したので座論梅となったものとも伝えられる。
この座論梅は、元は一株であったものが横に伸び地について新しい株となり次々と繁殖して、現在80株になったものである。 
平成9年2月 新富町教育委員会、新富町観光協会 と書かれています。



写真I: 湯の宮座論梅の梅の木は、宮崎市高岡町の「月知梅」と同じの臥龍梅(がりょうばい)という品種だと思われます。 白梅です。



写真J: 座論梅の石碑(せきひ)。 高山彦九郎の歌碑です。
幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)



写真K: 湯の宮座論梅の石碑。 昭和52年7月に宮崎日日新聞社、宮崎県、宮崎県観光協会、市町村観光協会、協賛 新富町 が建立したものです。



写真L: 湯の宮座論梅の梅の花。



写真M: 座論梅の梅の木と出店。 右奥は湯之宮地区集会所です。



写真N: 「天然記念物 湯ノ宮座論梅」と彫(ほ)られた石碑。



写真O: 湯の宮座論梅の門、看板、梅の木が見えています。 右奥の森は湯之宮神社の鎮守の森で、その奥に神武天皇御湯浴場跡があります。



写真P: 座論梅の石碑と梅の木。



写真Q: 湯の宮座論梅の梅の木。 臥龍梅(がりょうばい)という品種だと思われます。 龍が寝ている姿に似ています。



写真R: 座論梅。 左の建物は湯之宮地区集会所。



写真S: 座論梅にある湯之宮地区集会所。



写真T: 右の建物は湯之宮地区集会所、左は出店。



写真U: 出店の間の奥にトイレもあります。



写真V: 内側から見た座論梅の門。 奥の森は湯之宮神社で、葉の落ちた大きな木はイチョウです。 神武天皇御湯浴場跡はこの森の奥の道沿いにあります。



写真W: 座論梅の梅林の回りは鎖があって、まわりから観梅します。



写真X: 湯の宮座論梅は白梅の花です。 梅の花は雄しべが長く目立ちます。



写真Y: 古枝が地面に着き、そこから根と新芽を出して、新しい株が出来ます。 龍が地面に寝ているような形をしています。



写真Z: 手前に2本、梅の苗木(なえぎ)が植えてあるのが見えます。



写真AA: 座論梅の黄色のベンチが左手の広場に見えています。



写真AB: 座論梅の梅林。



写真AC: 湯の宮座論梅。 新しい梅の苗木も見えています。



写真AD: ブルーシートのそばのトイレの右に見える三角の屋根は、新富町消防団第7部消防機庫です。



写真AE: 座論梅の3つのベンチ。



写真AF: 座論梅の広場。



写真AG: 湯の宮座論梅の梅の木。



写真AH: 座論梅には、昔から「力石」があります。 これを持って歩きます。 1970年(昭和45年)の梅まつりの頃は、力石は座論梅の入り口付近にあり、去年は黄色のベンチのそばにありました。 力持ちの人が抱えて運ぶので、力石の置いてある場所は毎年変化します。



写真AI: 力石は今年は、梅林の角(かど)の所にありました。



写真AJ: 座論梅の隣の様子。



写真AK: 座論梅の中の様子。 左の建物は湯之宮地区集会所。



写真AL: 湯の宮座論梅の力石(ちからいし)。 相当大きく重いものです。



写真AM: このように古い枝から根と新芽が出て、梅の株が増えていきます。



写真AN: 湯の宮座論梅の梅。



写真AO: 梅林の中程に行けるようになっています。



写真AP: 座論梅の中の石碑も見えています。 この石碑は「元木碑」です。



写真AQ: 湯の宮座論梅の中にある石碑。 神武天皇  紀元二千六百年(西暦1940年)と書かれています。 この石碑は「元木碑」です。



写真AR: 座論梅。



写真AS: 座論梅の梅の木と石碑(せきひ)。 この石碑は「元木碑」です。



写真AT: 園内から見た「座論梅」の道路標識。 左の建物は新富町消防団第7部消防機庫です。



写真AU: 湯之宮神社の一の鳥居(とりい)です。 社殿はこの森の中にあります。



写真AV: 湯の宮座論梅の石碑(せきひ)。 昭和52年7月に宮崎日日新聞社、宮崎県、宮崎県観光協会、市町村観光協会、協賛 新富町 が建立したものです。



写真AW: 「天然記念物 湯の宮座論梅」と書いてあります。



写真AX: 座論梅の南側の車道です。



写真AY: 座論梅が満開でした。 北を見た景色です。



写真AZ: 右は国指定天然記念物の梅園、左は取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園です。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。



写真BA: 「天然記念物 湯の宮座論梅 文化財をたいせつに」と書いてある標識棒(標柱)が右にあります。 座論梅の梅の花です。



写真BB: 2013年(平成25年)1月頃から座論梅の施設などが新設されました。



写真BC: 「みやざきの巨樹百選」の説明板です。
樹木名・ウメ、樹齢・300年以上、幹周・90 cm 、樹高・4 m 、所有者・新富町
平成4年3月認定 宮崎県
と書いてあります。



写真BD: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BE: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BF: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BG: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BH: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BI: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BJ: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BK: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BL: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BM: 「国指定天然記念物 湯之宮座論梅 (ゆのみやざろんばい) 国指定年月日 昭和10年12月24日」の説明板です。
<湯之宮座論梅の概要> 湯之宮座論梅は新富町 大字新田 字湯之宮にある梅園です。 1本ごとの梅の樹齢はそれほど長くなく、老木になると幹(みき)が倒れる臥龍性(がりゅうせい)があり、元は1本の古木から周囲に株が広がったといわれています。 花は白の1重でやや小ぶりです。 実は、種が大きくて果肉がやや薄いため、現代の食用品種よりも原種的なものと考えられます。
<座論梅の樹齢とその歴史> 座論梅の正確な樹齢は定かではありませんが、佐土原藩5代藩主 島津惟久 (これひさ)(1676年〜1738年)が詠(よ)んだ歌があり、少なくとも江戸時代の早い時期には、今の梅園のような姿を楽しめたことがわかり、梅園としての歴史は300年以上と考えられます。 江戸時代後期には、現在の宮崎市 高岡町の「月知梅(げっちばい)」、鹿児島県 薩摩川内市の「藤川天神梅」とあわせて、「三州(薩摩・大隅・日向)の三梅」と呼ばれ、梅の名所として知られていました。 「香は袖(そで)に色は心にとまり来て 梅の忘るる今日の帰るさ 里人に今日こそ問わん梅の香は 誰が袖ふれし春や昔と」(島津惟久)。
<名前のいわれ> 座論梅という珍しい名前には、いくつかの説があります。 「ザロミ」という梅の種類からという説、江戸時代に佐土原藩と高鍋藩の藩境争いの協議の場として利用されたからという説、幹や枝が横に広がる様子(ようす)が人々が語り合う様子に見えるからなど、定かではありません。
<高山彦九郎と座論梅> 幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
<神武天皇の伝説と戦前の整備> 大正時代以降には、「神武天皇が湯之宮に行幸(ぎょうこう)し、湯あみして梅の杖(つえ)をついたところ、今の座論梅ができた」という言い伝えが郷土資料などに記録されるようになります。 昭和15年には神武天皇聖跡地として整備されました。
<湯之宮座論梅の公園整備> 新富町では、湯之宮座論梅とその周辺環境を後世に伝えるため、公園整備を行なってきました。 現在国の指定地に古くから自生する株が45株あり、実生で育成している新しい株が多数あります。 また西側には取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園を整備しています。
座論梅の梅の木、梅の花の写真が載っています。
湯之宮座論梅公園 施設配置図が書いてあります。
元木碑、高山彦九郎歌碑、現在位置、国指定の梅園、保護増殖の梅園、トイレ、多目的広場、駐車場、湯之宮地区集会所が載っています。
平成25年1月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真BN: 取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園です。 右の建物はトイレです。 これらは平成25年1月頃に出来ました。



写真BO: 左は取り木や実生で育成した保護増殖株16本を活用した新梅園。
左の建物はトイレ、中央奥の建物は湯之宮地区集会所です。 北を見たものです。



写真BP: 国指定天然記念物の座論梅です。



写真BQ: 梅園のまわりの歩道が見えます。 東を見たものです。



写真BR: 座論梅公園への入り口です。



写真BS: 南を見たものです。



写真BT: 高山彦九郎の歌碑です。 入り口近くにあります。
幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「寛政4年7月4日 高山彦九郎 詠歌、くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
この歌碑は昭和38年2月11日 新富町文化財保護委員会が建立(こんりゅう)しました。



写真BU: 高山彦九郎の歌碑です。
幕末の志士に影響を与え、寛政の三大奇人と呼ばれた尊王思想家「高山彦九郎 (ひこくろう)」は、九州を旅して見聞したことを「筑紫日記」にまとめました。 寛政4年(1792年)7月頃に座論梅をたずね、歌を詠(よ)んでいます。 「寛政4年7月4日 高山彦九郎 詠歌、くさむらをここやかしこと文月に梅の匂いを尋来にけり」(高山彦九郎)
この歌碑は昭和38年2月11日 新富町文化財保護委員会が建立(こんりゅう)。



写真BV: 「天然記念物 湯ノ宮座論梅」と彫(ほ)ってあります。



写真BW: トイレです。 西を見たもの。



写真BX: 右の建物は湯之宮地区集会所です。
 左寄りに駐車場、水飲み場が見えます。 北西を見たものです。



写真BY: 北を見たものです。 湯之宮地区集会所と芝生(しばふ)です。



写真BZ: 座論梅の梅の花です。



写真CA: 東を見たものです。



写真CB: 座論梅の梅の木です。 満開でした。



写真CC: 「座論梅の梅の花」です。



写真CD: ベンチが北東側にあります。



写真CE: 奥はトイレです。 西を見たもの。



写真CF: 臥龍梅(がりゅうばい、寝ている龍に似ているからこの名がついたのでしょう。)という品種です。



写真CG: 梅園の中央付近まで行く歩道です。



写真CH: この石碑は「元木碑」です。



写真CI: 湯之宮神社の一の鳥居(とりい)が座論梅から見えます。 社殿は奥の森の中にあります。 南を見たものです。



写真CJ: 西を見たもの。



写真CK: 奥は高山彦九郎の歌碑です。



写真CL: このように赤の斑点(はんてん)がある花びらもありました。 座論梅の梅の花です。



写真CM: 北西を見たものです。



写真CN: 南東を見た景色です。 手前は駐車場、中央に水飲み場、右の建物はトイレです。 奥に座論梅が見えます。 座論梅公園です。



写真CO: 座論梅の駐車場と湯の宮神社の鳥居。



写真CP: 葉の落ちた大きな木はイチョウです。 湯之宮神社の鎮守(ちんじゅ)の森です。



写真CQ: 湯之宮神社の隣にある新富町消防団第7部消防機庫です。



写真CR: 座論梅のそばに、昔からある商店です。 1970年(昭和45年)にもこの店はありました。 タバコ、コーヒーなどの自動販売機、公衆電話、郵便ポストもあります。



写真CS: 座論梅のそばに、昔からある商店です。 1970年(昭和45年)にもこの店はありました。 タバコ、コーヒーなどの自動販売機、公衆電話、郵便ポストもあります。



写真CT: 湯之宮神社の一の鳥居です。 座論梅の向かいにあります。



写真CU: 大きなイチョウの木の下には、湯之宮神社の末社(まつしゃ)が二つ見えています。 建物は新富町消防団第7部消防機庫です。



写真CV: 湯ノ宮神社の末社と大きなイチョウの木。



写真CW: 湯之宮神社の末社。 



写真CX: 湯之宮神社の拝殿。



写真CY: 湯之宮神社の燈籠(とうろう)と御手洗(みたらい)。



写真CZ: 「伝説 神武天皇御浴場跡」の看板。



写真DA: 湯之宮神社の境内から一の鳥居方向を見たもの。



写真DB: 湯之宮神社の境内。



写真DC: 湯之宮神社の拝殿、石灯籠(いしどうろう)、御手洗(みたらい)も見えています。



写真DD: 湯之宮神社の石灯籠。 紀元二千六百年記念(西暦1940年)と彫(ほ)られています。



写真DE: 湯之宮神社の御手洗(みたらい)。



写真DF: 湯之宮神社の御手洗(みたらい)。



写真DG: 湯之宮神社の拝殿。



写真DH: 湯之宮神社の拝殿。 しめ縄、鈴、お賽銭箱(さいせんばこ)なども見えています。



写真DI: 湯之宮神社の拝殿。 「湯之宮神社」と書かれた額が掛けてあります。 鈴も見えています。



写真DJ: 湯之宮神社の拝殿。 お賽銭箱も見えています。



写真DK: 右は湯之宮神社の本殿です。



写真DL: 湯之宮神社の本殿。



写真DM: 湯之宮神社の本殿。



写真DN: 湯之宮神社の境内。 苔(こけ)むしています。



写真DO: 木の根元に、古い御手洗(みたらい)がありました。 その右奥に下の道に降りる階段が見えています。 神武天皇御湯浴場跡はこの階段を下りていきます。



写真DP: 湯之宮神社の拝殿。 右奥に末社の祠(ほこら)が見えています。



写真DQ: 湯之宮神社の拝殿。



写真DR: この樹の間の階段を下って、神武天皇御湯浴場跡へ行きます。



写真DS: この古い階段を下ります。



写真DT: 階段の下には道があります。



写真DU: 「現鳥居之跡」の石碑(せきひ)。 昭和11年8月に鳥居は建てられました。 この石碑は昭和56年11月に建立されました。



写真DV: 現鳥居之跡の石碑のそばの道。 トラクターがありました。



写真DW: 湯之宮神社のまわりの景色。



写真DX: 湯之宮神社のまわりの様子。 右の石の柵(さく)が神武天皇御湯浴場跡です。



写真DY: 神武天皇御湯浴場跡。



写真DZ: 史跡 神武天皇御湯浴場跡の説明板。 昔、神武天皇が御東征の途中、ここに立ち寄られ、お湯を召されご休憩の後、梅の杖(つえ)を突き立てたままお立ちになった。 その後、これが芽を吹き元木となり成長して今日に至ったものが座論梅であるという伝説が残っています。



写真EA: 神武天皇御湯浴場跡の石碑(せきひ)。



写真EB: 神武天皇御湯浴場跡の石碑(せきひ)。



写真EC: 神武天皇御湯浴場跡。 まわりは石が組まれ、湧き水(わきみず)があります。



写真ED: 神武天皇御湯浴場跡。 まわりは石の柵(さく)があります。



写真EE: 神武天皇御湯浴場跡のそばの道。



写真EF: 神武天皇御湯浴場跡。



写真EG: 座論梅と湯之宮神社の駐車場に戻ってきました。 道の向こうは座論梅です。



写真EH: 宮崎県新富町 春日(かすが)にある「春日の大イチョウ」は、ここの三叉路(さんさろ)を左の細い道に進みます。 広い車道は、先は大口川の十字路に、手前側は国道10号線の新富郵便局の十字路に行きます。 このあたりは東から来ると上り坂になっています。



写真EI: 「春日の大イチョウ」に行く細い道から東方向を見た景色。



写真EJ: 三叉路(さんさろ)にある案内板。 「町指定文化財 (天然記念物 昭和48年4月1日指定) 春日の大イチョウ」
と書いてあります。



写真EK: 細い道を進むと三叉路があります。 「春日の大銀杏(いちょう)」に行くにはここを右に入ります。



写真EL: 三叉路(さんさろ)にある案内板。 「町指定文化財 (天然記念物 昭和48年4月1日指定) 春日の大イチョウ」
と書いてあります。



写真EM: 「春日の大いちょう」に行く途中に、工事中の建物がありました。



写真EN: この道の先に黄色く見えているところが、「春日の大いちょう」の落ち葉です。



写真EO: これが「春日の大銀杏(いちょう)」です。 黄葉した葉と銀杏(いちょう)の落ち葉が見えています。 この道はしばらく行くと畑で行き止まりになっていました。



写真EP: 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真EQ: 新富町にある「春日の大いちょう」。



写真ER: 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真ES: 宮崎県児湯郡新富町にある「春日の大銀杏(おおいちょう)」。



写真ET: 黄色のイチョウの落ち葉が見事です。



写真EU: 南側の景色。



写真EV: 春日の大銀杏。 その南の様子。



写真EW: 新富町の「春日の大イチョウ」のそばの道。



写真EX: イチョウの落ち葉も見えます。



写真EY: 春日の大イチョウからの黄色の落ち葉。



写真EZ: 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真FA: 絨毯(じゅうたん)のようなイチョウの落ち葉。



写真FB: 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真FC: 宮崎県児湯郡新富町の「春日の大イチョウ」。



写真FD: 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真FE: 新富町の「春日の大いちょう」の上端部。



写真FF: 「春日の大銀杏(おおいちょう)」の説明版。
町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。 新富町教育委員会
と書いてあります。



写真FG: 大いちょうの落ち葉。



写真FH: 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真FI: 春日の大銀杏の根元の様子。



写真FJ: 町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真FK: 春日の大銀杏(おおいちょう)の上部。



写真FL: 黄色の落ち葉。
町指定天然記念物 春日の大銀杏(おおいちょう) 昭和48年4月1日指定 このイチョウは、樹高約45 m、幹回り約12 m、樹齢約600年といわれ、昔より栗唐瀬の渡しを見下ろしています。



写真FM: 宮崎県児湯郡新富町の「春日の大イチョウ」のそばの景色。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)