安井息軒 旧宅(国指定史跡)、きよたけ歴史館、中野神社 (清武地頭所 跡、湯地家 長屋門(武家門)、宮崎国際大学、宮崎学園短期大学、安井息軒 生家、幕末の儒学者、やすいそっけん、やすいそくけん、安井息軒 廟(びょう、祖先の霊を祭る所)、「佐代夫人供養塔(安井息軒の妻)」の石碑)  (宮崎県 宮崎市 清武町)







<標高、位置>  安井息軒の旧宅は
標高 約70 m
 北緯31度51分45秒  東経131度23分33秒

<標高、位置>  きよたけ歴史館は
標高 約70 m
 北緯31度51分47秒  東経131度23分32秒

<標高、位置>  中野神社は
標高 約60 m
 北緯31度51分31秒  東経131度23分45秒

<標高、位置>  湯地家の長屋門は
標高 約70 m
 北緯31度51分43秒  東経131度23分40秒

<標高、位置>  宮崎国際大学は
標高 約70 m
 北緯31度51分39秒  東経131度23分42秒

<標高、位置>  宮崎学園短期大学は
標高 約70 m
 北緯31度51分37秒  東経131度23分41秒


 幕末から明治時代にかけての儒学者(儒教の学者) 「安井息軒の旧宅(生家)」は宮崎県宮崎市 清武町 大字加納3368-1にあります。
「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板から、
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
 平成4年度から5年度には国および県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内の元の位置に移動させるとともに、屋根を茅葺き(かやぶき)にするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。

 「きよたけ歴史館」は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。 そばに安井息軒 廟(びょう、祖先の霊を祀(まつ)るところ)、「佐代夫人供養塔(安井息軒の妻)」の石碑(せきひ)、先人廟、郷校 明教堂跡があります。

「佐代夫人供養塔(安井息軒の妻)」の石碑(せきひ)から、
 佐代夫人は文化9年(1812年) 清武町の岡の地に川添家の次女として誕生し「岡の小町」と称された聡明な美人でした。 息軒との縁談を断った姉に代わって「私でよければお嫁さんに」と進んで息軒の妻になったのは16歳の時で、その後2男4女をもうけました。 息軒に従い28歳から江戸で暮らし息軒の生き方に深く共鳴し粗衣をまとい粗食を常とし質素な息軒に仕えて一途に三計塾を支え文久2年(1862年)51歳の生涯を終わりました。 後年 文豪 森鴎外は、小説 「安井夫人」で「夫に仕えてその苦労を辞せなかった、そしてその報酬には何物も要求しなかった」とその賢妻ぶりを讃(たた)えています。 夫人は東祥寺(東京高輪)に葬られたとされながらその所在は定かではありません。 この度 安井息軒廟が造営されるのに合わせ東祥寺より墳墓土を移して佐代夫人の御霊をここに祀(まつ)りました。 百有余年を経ての帰郷にねぎらいの思いをこめ改めて佐代夫人のけなげさと賢さをたたえ清武女性が心を合わせて供養塔を建立するものです。平成6年6月吉日

 「中野神社」は宮崎県宮崎市 清武町 大字木原525-2にあります。
「中野神社 御由緒沿革」の説明板から、
鎮座地 宮崎市 清武町 大字木原525番地
一、御祭神
誉田別命(応神天皇)
息長帯姫命(神功皇后)
玉依姫命(神武天皇のお母君)

配祀 伊東祐堯(すけたか) 公
二、御由緒および沿革
 当神社の御創建は第53代 淳和天皇の御代、今より約1200年前、勅宣があり「新羅降伏により一国に一社八幡宮を創建する」との詔により天長元年(西暦824年)当地に鎮座されました。 特に日向、大隅、薩摩は外国に隣接しているため、一郡に一社を勧請し「中野八幡宮」となったものであります。 その後 都於郡城(とのこおりじょう)5代目城主 伊東大和守祐堯(すけたか) 公は文明17年(西暦1485年)島津家と争奪中の飫肥城(おびじょう)に出馬の際、清武城にて逝去されたので当神社に霊を配祀しました。 以来、飫肥藩(おびはん)の尊宗厚く社殿祭具に藩主家紋の使用を許し又、社領として年16石、神職家に年23石を給せられ、例祭を始め春、秋の大祭に清武の地頭をして代拝せしめ、国家安康を祈念しています。
 社殿は、創建以来数度の改修があり、近年では明治10年の西南の役で戦火のため焼失、翌11年復興し、現在の社殿は昭和15年12月起工同17年4月復元されております。
三、祭典
(一)歳旦祭(さいたんさい) 1月1日
(二)事始祭 1月3日
古いお守り、お札(ふだ)を焼納致します。
(三)祈年祭 旧2月初午(はつま)の日
五穀豊穣を祈り神楽および饌供を奉納します。
(四)大祓(おおはらい) 6月30日
茅輪をくぐり罪、穢(けがれ)、病を祓(はら)います。
(五)夏祭7月第3土、日曜日
町内を神輿(みこし)が練り歩き非常に賑(にぎ)わいます。
(六)例祭 10月17日
(七)新嘗祭(にいなめさい) 11月23日

 「宮崎国際大学」は宮崎県 宮崎市 清武町 加納1405にあります。

 「宮崎学園短期大学」は宮崎県 宮崎市 清武町 大字加納 丙1415にあります。

 安井息軒 旧宅(生家)から北へ進み十字路をさらに北へ行くと「湯地家長屋門(武家門)」があります。 飫肥街道(おびかいどう)沿いにあります。 途中には「清武地頭所跡」が十字路の北西の角にあります。 清武地頭所跡の北隣(どな)りに長屋門のある敷地があります。
「清武地頭所跡」: 清武は城下から山間部を挟(はさ)んで離れていたため、飫肥城の出張所的な役所として中野に「清武地頭所(きよたけじとうしょ)」が置かれ、ひとつの郷(ごう)として治められていました。
「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。


写真A: この十字路を左に入ると「安井息軒 旧宅」、きよたけ歴史館、湯地家 長屋門があります。 右に行くと宮崎国際大学、宮崎学園短期大学、中野神社があります。



写真B: 「宮崎国際大学、宮崎学園短期大学、安井息軒生家」と書いてある道路標識があります。



写真C: 右に中野神社の看板(かんばん)があります。 右の建物は宮崎国際大学です。 宮崎国際大学は宮崎県 宮崎市 清武町 加納1405にあります。



写真D: 右の建物は宮崎国際大学です。 宮崎国際大学は宮崎県 宮崎市 清武町 加納1405にあります。



写真E: 「安井息軒 旧宅」、きよたけ歴史館、湯地家 長屋門はこの三叉路(さんさろ)を右に進みます。 見えている左から右への道は飫肥街道(おびかいどう)です。



写真F: 「安井息軒 旧宅への地図、文化の香りあふれた町づくり運動」の看板があります。
安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真G: この十字路を左に曲がると安井息軒 生家(旧宅)、きよたけ歴史館に行きます。 右に曲がると湯地家 長屋門に行きます。 この十字路の右向こう側の角は清武地頭所跡です。
ここで、手前から右へと飫肥街道(おびかいどう)は曲がっています。



写真H: きよたけ歴史館の標識があります。



写真I: きよたけ歴史館にある「中野地区文化財マップ」。 史跡などの地図と写真、説明が載っています。



写真J: きよたけ歴史館にある「中野地区文化財マップ」。
飫肥街道(おびかいどう)、先人廟(せんじんびょう)・安井息軒廟(廟は祖先の霊を祭る所)、きよたけ歴史館、安井息軒旧宅、郷校 明教堂跡、琉球豆柿、清武地頭所跡、湯地家 長屋門、蓮徳寺 石塔群、平部きょう南 生家跡、伊東家僑墓(きょうぼ、仮の墓)、安井家墓地、中野神社、宮崎国際大学、宮崎学園短期大学、清武川などが載っています。



写真K: 「清武郷 中野」の説明板。
 江戸時代の清武は飫肥藩領(おびはんりょう)で、現在の田野町や宮崎市の内海から赤江など大淀川河口部までの範囲も含まれていました。 (船引・本郷南方は幕府領)
 清武は城下から山間部を挟(はさ)んで離れていたため、飫肥城の出張所的な役所として中野に「清武地頭所(きよたけじとうしょ)」が置かれ、ひとつの郷(ごう)として治められていました。
 清武郷では大淀川河口の城ヶ崎が物流で栄え、豪商が軒を連ねており、城下が政治の中心なら清武は経済や文化の中心でした。
 清武地頭所が置かれたここ中野地区は清武郷の中心として武家屋敷が集まり、中野から飫肥街道の坂を下った新町(しんまち)は商家街で、江戸時代は店や宿屋が軒を連ねてにぎわいました。 現在は間口が狭く奥に長い商家特有の地割りにその面影を留めています。 中野は武士、新町は商人と当時は明確に生活空間が分かれていました。 
 また、中野のちょうどこの場所で文政10年(1827年)、郷校「明教堂(めいきょうどう)」が落成し、教授陣を配した組織的な教育が開始されました。 これは安井息軒(やすいそっけん)の父 安井滄洲(そうしゅう)を中心とした藩への働きにより実現したもので、近郊から多くの書生が集い、平部きょう南(ひらべきょうなん)や川越進(かわごえすすむ)など多くの逸材を輩出しました。
と書かれています。



写真L: 「安井息軒旧宅(やすいそっけんきゅうたく)」の説明板。
 安井息軒は幕末から明治にかけての日本を代表する儒学者(じゅがくしゃ)です。 寛政11年(1799年)にここに生まれ、幼少から学問を志し、苦学を重ねながら飫肥藩儒のち江戸に出て幕府儒官となりました。 その学問の業績は儒学の基礎を確立しました。
 この旧宅は安井息軒が生まれ、飫肥振徳堂に赴任する天保2年(1831年)まで生活した家で、昭和54年に国の史跡に指定されました。
と書かれています。



写真M: 「平部きょう南(ひらべきょうなん)生家跡」の説明板。
 平部きょう南は文化12年(1815年)に清武郷 中野の和田家に生まれました。 13歳から郷校 明教堂で安井息軒に学び、19歳の時、飫肥の平部家の中継養子となり飫肥に転居して平部姓を名乗りました。 20歳で藩校振徳堂の句読師、24歳で教授となり、要職を歴任した後 藩家老となりました。
 明治になり宮崎県から地誌編纂(へんさん)を委嘱され、10年の歳月をかけ県内を踏査し、大著「日向地誌」を著しました。 明治23年に76歳で飫肥に没しました。
と書かれています。



写真N: 「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板。
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。
と書かれています。



写真O: 「安井家墓地」の説明板。
 安井家は出羽(でわ、山形)の阿部氏に端を発し上毛(かみつけ、群馬)で安井を名乗り、南北朝時代に伊東祐持(すけもち)に仕えてから代々 伊東家の家臣となった家です。
 22代の朝宣が武士の子弟に兵学を教えるため飫肥から清武に派遣され、以後25代が滄洲、26代が息軒となります。
 この墓地は朝宣から息軒の母、兄の文治、孫養子の圭三郎までの墓所となっています。
と書かれています。



写真P: 「伊東家僑墓(きょうぼ)」の説明板。
 僑墓(きょうぼ)とは"仮の墓"という意味です。
 江戸時代の清武は飫肥藩(おびはん)で、藩主は代々 伊東家です。 歴代 飫肥藩主の墓は飫肥楠原の五百撰神社(いおしじんじゃ)(元 報恩寺)にありますが、清武の家臣が盆や正月の墓参りするのが大変なのでここに僑墓(きょうぼ)として建立されました。 初代藩主 伊東祐兵(すけたけ)から第12代伊東祐丕(すけひろ)までの墓石が並んでいます。
と書かれています。



写真Q: 「飫肥街道(おびかいどう)」の説明板。
 飫肥街道は今から400年ほど前の天正〜慶長年間に、日向一円に48外城を築いた伊東義祐(よしすけ)が本城 都於郡城(とのこおりじょう)から飫肥城を結ぶ道として開削したものと言われています。 江戸時代には飫肥藩の主要幹線道路として整備され飫肥城下と清武郷を結び人や物資が往来しました。
 飫肥城を起点として東の飛ヶ峰で海岸を行く鵜戸街道(うどかいどう)と分かれ、ここ清武まで八里八町(約35 km)と言われ、一里ごとに一里塚が造られました。 当時「清武道」とも呼ばれていたようです。 中間地点の山仮屋(やまがりや)には関所も設けられました。
 また、江戸への参勤交代にも利用され、飫肥城下を早朝出発した藩主一行は清武地頭所で一泊目を迎えています。
 街道の大半を鰐塚山系(わにつかさんけい)の山岳部が占め、尾根沿いや山腹沿いの険しい山道が続くのが特徴です。 飫肥藩領には海岸線を往く鵜戸街道(うどかいどう)もありますが、「七浦七峠(ななうらななとうげ)」と言われた鵜戸街道より飫肥街道の方が利用が多かったようです。
 明治になると飫肥街道を基礎として新たな道が開削され、県内初の道路トンネル山仮屋隧道(やまがりやずいどう)が明治25年に完成しています。 現在の県道 宮崎〜北郷線に発展するこの道を「飫肥街道」と呼び、以前のものを「旧飫肥街道」という場合もあります。



写真R: 宮崎市 清武町にある安井息軒(やすいそっけん)生家の前の道です。



写真S: この石垣の敷地が安井息軒の生家です。 宮崎県宮崎市 清武町 大字加納3368-1にあります。
安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真T: 安井息軒 旧宅。
安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真U: 右は「きよたけ歴史館」。 安井息軒 旧宅(生家)は左手前にあります。



写真V: 「きよたけ歴史館」。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。



写真W: きよたけ歴史館の近くの様子。
この右の建物のところが「郷校 明教堂 跡」です。



写真X: 「ふるさと清武 清武はたびたび歴史の表舞台に立った 入場無料 きよたけ歴史館」と書いてある看板(かんばん)がありました。



写真Y: 「きよたけ歴史館」と書いてある看板。



写真Z: 「きよたけ歴史館」。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。 手前は駐車場です。



写真AA: 「きよたけ歴史館」。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。 手前は駐車場です。



写真AB: きよたけ歴史館のそばの景色。



写真AC: 「入館無料」の看板があります。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。



写真AD: 「きよたけ歴史館」。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。



写真AE: 「きよたけ歴史館」。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。



写真AF: きよたけ歴史館の定礎。 平成13年10月と書いてあります。



写真AG: 「従是南飫肥領(これより南は飫肥領)」の石碑があります。 これは他の所からここに移したものと思われます。 歴史的なものです。



写真AH: 「きよたけ歴史館」。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。 こちらにも駐車場があります。 「従是南飫肥領(これより南は飫肥領)」の石碑があります。



写真AI: 「きよたけ歴史館」。



写真AJ: 「きよたけ歴史館」。



写真AK: 「きよたけ歴史館」。 右の白いアパートの先が安井息軒 旧宅です。
左の白い建物のところが「郷校 明教堂 跡」です。



写真AL: 「きよたけ歴史館」。 きよたけ歴史館は宮崎県 宮崎市 清武町 加納甲3378-1にあります。



写真AM: きよたけ歴史館の西側に「安井息軒 廟(びょう、祖先の霊を祭る所)」があります。
安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真AN: 右から、安井息軒 廟(びょう)、佐代夫人 供養塔(安井息軒の妻)、「愛」の石碑(せきひ)。



写真AO: 右から、佐代夫人 供養塔(安井息軒の妻)、「愛」の石碑(せきひ)。 左はきよたけ歴史館。



写真AP: 左は安井息軒廟で中央奥は「先人廟(びょう)」。



写真AQ: 安井息軒廟、先人廟(びょう)の前の広場。



写真AR: 木立の奥に建物があります。



写真AS: 安井息軒廟(びょう)。
安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真AT: 「佐代夫人供養塔(安井息軒の妻)」と「愛」の石碑(せきひ)。 左はきよたけ歴史館。



写真AU: 「佐代夫人供養塔(安井息軒の妻)」の石碑(せきひ)。
 佐代夫人は文化9年(1812年) 清武町の岡の地に川添家の次女として誕生し「岡の小町」と称された聡明な美人でした。 息軒との縁談を断った姉に代わって「私でよければお嫁さんに」と進んで息軒の妻になったのは16歳の時で、その後2男4女をもうけました。 息軒に従い28歳から江戸で暮らし息軒の生き方に深く共鳴し粗衣をまとい粗食を常とし質素な息軒に仕えて一途に三計塾を支え文久2年(1862年)51歳の生涯を終わりました。 後年 文豪 森鴎外は、小説 「安井夫人」で「夫に仕えてその苦労を辞せなかった、そしてその報酬には何物も要求しなかった」とその賢妻ぶりを讃(たた)えています。 夫人は東祥寺(東京高輪)に葬られたとされながらその所在は定かではありません。 この度 安井息軒廟が造営されるのに合わせ東祥寺より墳墓土を移して佐代夫人の御霊をここに祀(まつ)りました。 百有余年を経ての帰郷にねぎらいの思いをこめ改めて佐代夫人のけなげさと賢さをたたえ清武女性が心を合わせて供養塔を建立するものです。平成6年6月吉日
と書かれています。



写真AV: 「佐代夫人供養塔(安井息軒の妻)」の石碑(せきひ)。
 佐代夫人は文化9年(1812年) 清武町の岡の地に川添家の次女として誕生し「岡の小町」と称された聡明な美人でした。 息軒との縁談を断った姉に代わって「私でよければお嫁さんに」と進んで息軒の妻になったのは16歳の時で、その後2男4女をもうけました。 息軒に従い28歳から江戸で暮らし息軒の生き方に深く共鳴し粗衣をまとい粗食を常とし質素な息軒に仕えて一途に三計塾を支え文久2年(1862年)51歳の生涯を終わりました。 後年 文豪 森鴎外は、小説 「安井夫人」で「夫に仕えてその苦労を辞せなかった、そしてその報酬には何物も要求しなかった」とその賢妻ぶりを讃(たた)えています。 夫人は東祥寺(東京高輪)に葬られたとされながらその所在は定かではありません。 この度 安井息軒廟が造営されるのに合わせ東祥寺より墳墓土を移して佐代夫人の御霊をここに祀(まつ)りました。 百有余年を経ての帰郷にねぎらいの思いをこめ改めて佐代夫人のけなげさと賢さをたたえ清武女性が心を合わせて供養塔を建立するものです。平成6年6月吉日
と書かれています。



写真AW: 「愛」のモニュメント。 「佐代夫人供養塔(安井息軒の妻)」の石碑(せきひ)の左にあります。



写真AX: 「愛」のモニュメント。
モニュメントの由来
 供養塔を建立するにあたり、清武町女性のつつましさ、やさしさと結束力を円であらわし「愛は強し」のたとえにしたがい夫婦愛、家族愛、郷土愛の永遠の偉大さを胸にこれに愛と刻(きざ)みました。
と書かれています。



写真AY: 安井息軒廟(びょう)。
安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真AZ: 安井息軒廟(びょう)の前の広場。



写真BA: 先人廟(びょう)。



写真BB: 先人廟(びょう)。



写真BC: 先人廟(びょう)。 左は安井息軒廟。



写真BD: 「清武郷先人廟 合祀者名」の看板。
合祀者名、死亡年月日、満年齢、事績が載っています。



写真BE: 「清武郷先人廟 合祀者名」の看板。
合祀者名、死亡年月日、満年齢、事績が載っています。



写真BF: 「清武郷先人廟 合祀者名」の看板。
合祀者名、死亡年月日、満年齢、事績が載っています。



写真BG: 先人廟のそばに紅葉したカエデがありました。



写真BH: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。 ベンチも有ります。



写真BI: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。



写真BJ: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。



写真BK: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。



写真BL: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。



写真BM: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。 北東方面の景色です。 シーガイアのオーシャン45の高層ホテルも見えています。 宮崎市の市街地が見えています。



写真BN: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。 北方向の展望。 手前に宮崎自動車道が見えています。



写真BO: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。 北西方向の眺望(ちょうぼう)。 手前に宮崎自動車道が見えています。



写真BP: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。 北西方向の景色です。 手前に宮崎自動車道が見えています。



写真BQ: 安井息軒廟の裏は展望が利(き)きます。 西方向の展望。



写真BR: 安井息軒廟の東には和風の建物があります。 右はきよたけ歴史館。



写真BS: 安井息軒廟の東には和風の建物があります。



写真BT: 安井息軒廟の東には和風の建物があります。



写真BU: 安井息軒廟の東には和風の建物があります。



写真BV: 安井息軒廟の東には和風の建物があります。 建物の名前が書いてあります。



写真BW: きよたけ歴史館のそばの三叉路(さんさろ)。 正面が安井息軒の旧宅(生家)。



写真BX: 儒学者(儒教の学者) 安井息軒の旧宅(生家)。 宮崎県宮崎市 清武町 大字加納3368-1にあります。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真BY: 「史跡 安井息軒旧宅」の標識があります。 左は門柱。



写真BZ: 「史跡 安井息軒旧宅」の標識。



写真CA: 清武町にある安井息軒 旧宅の門柱。



写真CB: 安井息軒 旧宅の入り口。 階段もあります。



写真CC: 安井息軒 旧宅の門。 遠くに見えているのは「きよたけ歴史館」。



写真CD: 歌碑があります。 周(まわ)りは梅の木です。



写真CE: 歌碑があります。 周(まわ)りは梅の木です。



写真CF: 安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真CG: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真CH: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真CI: 井戸もあります。



写真CJ: 安井息軒の旧宅(生家)。 梅の木があります。



写真CK: 井戸の中の様子。



写真CL: 安井息軒の旧宅(生家)。 石碑(せきひ)もあります。



写真CM: 「安井息軒先生誕生地」の石碑。



写真CN: 「安井息軒先生誕生地」の石碑。



写真CO: 「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板。
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
 平成4年度から5年度には国および県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内の元の位置に移動させるとともに、屋根を茅葺き(かやぶき)にするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。 清武町教育委員会
安井息軒(1799年〜1876年)の肖像。



写真CP: 「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板。
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
 平成4年度から5年度には国および県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内の元の位置に移動させるとともに、屋根を茅葺き(かやぶき)にするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。 清武町教育委員会
安井息軒(1799年〜1876年)の肖像。



写真CQ: 「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板。
指定年月日 昭和54年5月22日



写真CR: 「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板。
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
 平成4年度から5年度には国および県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内の元の位置に移動させるとともに、屋根を茅葺き(かやぶき)にするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。 清武町教育委員会
安井息軒(1799年〜1876年)の肖像。



写真CS: 「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板。
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
 平成4年度から5年度には国および県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内の元の位置に移動させるとともに、屋根を茅葺き(かやぶき)にするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。 清武町教育委員会
安井息軒(1799年〜1876年)の肖像。



写真CT: 「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板。
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
 平成4年度から5年度には国および県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内の元の位置に移動させるとともに、屋根を茅葺き(かやぶき)にするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。 清武町教育委員会
安井息軒(1799年〜1876年)の肖像。



写真CU: 石碑があります。



写真CV: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真CW: 安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真CX: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真CY: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真CZ: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DA: 安井息軒の旧宅(生家)。 左は説明板。



写真DB: 安井息軒の旧宅(生家)。 説明板と石碑。



写真DC: 安井息軒の旧宅(生家)。 石碑があります。



写真DD: 石碑。



写真DE: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DF: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DG: 安井息軒の旧宅(生家)。 宮崎県宮崎市 清武町 大字加納3368-1にあります。



写真DH: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DI: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DJ: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DK: 安井息軒の旧宅(生家)。 屋根裏。



写真DL: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DM: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DN: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DO: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DP: 安井息軒の旧宅(生家)。 庭に古い梅の木があります。 敷石もあります。



写真DQ: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DR: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DS: 安井息軒の旧宅(生家)。 山茶花(さざんか)の花びらが散っていました。



写真DT: 安井息軒の旧宅(生家)。 山茶花(さざんか)の花びらが散っていました。



写真DU: 安井息軒の旧宅(生家)。 カマド、流しもあります。



写真DV: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DW: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DX: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DY: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真DZ: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真EA: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真EB: 安井息軒の旧宅(生家)。 屋根裏。



写真EC: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真ED: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真EE: 安井息軒の旧宅(生家)。 かまど、流しもあります。



写真EF: 安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真EG: 安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真EH: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真EI: 安井息軒の旧宅(生家)。 手前はアジサイ。



写真EJ: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真EK: 安井息軒の旧宅(生家)。 イチョウの木があります。



写真EL: イチョウの木。



写真EM: イチョウの木、梅の木も見えています。



写真EN: 安井息軒の旧宅(生家)。 梅の木があります。



写真EO: 安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真EP: 安井息軒の旧宅(生家)。 イチョウ(黄葉)の落葉が庭を埋めていました。



写真EQ: 安井息軒の旧宅(生家)。 イチョウ(黄葉)の落葉が庭を埋めていました。



写真ER: 安井息軒の旧宅(生家)。 イチョウ(黄葉)の落葉が庭を埋めていました。



写真ES: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真ET: 水飲み場があります。



写真EU: 安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真EV: 安井息軒の旧宅(生家)。 左はイチョウの木。
「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板から、
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。
 平成4年度から5年度には国および県の補助を受け、文化庁や奈良国立文化財研究所の指導のもとに旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業を行い、その一環として旧宅を敷地内の元の位置に移動させるとともに、屋根を茅葺き(かやぶき)にするなど、ほぼ息軒在住時の姿に復原を行った。 清武町教育委員会



写真EW: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真EX: 安井息軒の旧宅(生家)。 ベンチもあります。



写真EY: 安井息軒の旧宅(生家)。 竹林があります。



写真EZ: 安井息軒の旧宅(生家)。 竹林、水飲み場があります。



写真FA: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FB: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FC: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FD: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FE: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FF: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FG: 安井息軒の旧宅(生家)。 サザンカの赤い花が見えます。



写真FH: 安井息軒の旧宅(生家)。 サザンカの赤い花が散っていました。



写真FI: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FJ: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FK: 安井息軒は幕末から明治時代の儒学者(儒教の学者)。 儒教は紀元前500年頃の中国の孔子(こうし)を祖とする教学。 四書、五経を経典としています。



写真FL: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FM: 安井息軒の旧宅(生家)。



写真FN: 安井息軒の旧宅(生家)。 宮崎県宮崎市 清武町 大字加納3368-1にあります。



写真FO: スイセンの花が咲いていました。



写真FP: ナンテンの赤い実がきれいです。



写真FQ: 安井息軒 旧宅(生家)から北へ進み十字路をさらに北へ行くと湯地家長屋門(武家門)があります。 この見えている道は飫肥街道(おびかいどう)です。 この手前には「清武地頭所跡」が十字路の右手前にあります。
「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FR: 「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FS: 「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FT: 「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FU: 「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FV: この見えている道は飫肥街道(おびかいどう)です。
「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FW: この見えている道は飫肥街道(おびかいどう)です。
「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FX: この見えている道は飫肥街道(おびかいどう)です。 先に進むと安井息軒 旧宅(生家)、きよたけ歴史館などがあります。 この先には「清武地頭所跡」が十字路の右手前にあります。
「湯地家長屋門(ゆじけながやもん)」の説明板から、
 長屋門は江戸時代の武家屋敷に設けられたもので、使用人の住居や馬小屋と門が一体化した形式のものです。
 西南戦争のとき戦火を受けたこともある茅葺(かやぶ)き屋根が、現在瓦葺きとなっている以外は当時の現状をよく残している貴重な建物です。



写真FY: 飫肥街道に紅葉したカエデ(楓)がありました。



写真FZ: 宮崎国際大学の門と建物。 宮崎国際大学は宮崎県 宮崎市 清武町 加納1405にあります。



写真GA: 宮崎国際大学の門と建物。 宮崎国際大学は宮崎県 宮崎市 清武町 加納1405にあります。



写真GB: 宮崎国際大学の門と建物。 宮崎国際大学は宮崎県 宮崎市 清武町 加納1405にあります。



写真GC: 宮崎国際大学と宮崎学園短期大学(中央奥)。 宮崎国際大学は宮崎県 宮崎市 清武町 加納1405にあります。 宮崎学園短期大学は宮崎県 宮崎市 清武町 大字加納 丙1415にあります。



写真GD: 宮崎学園短期大学。 宮崎学園短期大学は宮崎県 宮崎市 清武町 大字加納 丙1415にあります。



写真GE: 「中野神社」へは左先に進みます。 右は宮崎学園短期大学。



写真GF: 「学校法人 宮崎学園 宮崎学園短期大学」の門。



写真GG: 「中野神社」の道しるべ。



写真GH: 清武町にある中野神社のそばにある「従軍者之碑(ひ) 日支事変、大東亜戦争」。



写真GI: 清武町にある中野神社のそばにある「従軍者之碑(ひ)」。



写真GJ: 中野神社の駐車場。 手前は「従軍者之碑(ひ) 日支事変、大東亜戦争」。



写真GK: 奥の道からこちらに来ました。



写真GL: 中野神社の近くにある「戦没者之墓」。



写真GM: 中野神社の近くにある「戦没者之墓」。



写真GN: 「中野神社」は宮崎県宮崎市 清武町 大字木原525-2にあります。 階段の手前に門松(かどまつ)がありました。 石灯籠(いしどうろう)、鳥居(とりい)、拝殿、狛犬(こまいぬ)も見えています。



写真GO: 中野神社の前の道。 石の柵(さく)も見えます。



写真GP: 中野神社の前の道。 石の柵(さく)も見えます。



写真GQ: 中野神社の石灯籠(いしどうろう)、門松(かどまつ)、石の柵(さく)、階段、鳥居(とりい)、社殿など。



写真GR: 中野神社の前の道。 奥に「従軍者之碑(ひ) 日支事変、大東亜戦争」があります。



写真GS: 中野神社の門松(かどまつ)。



写真GT: 中野神社。 宮崎県宮崎市 清武町 大字木原525-2にあります。



写真GU: 中野神社の手水舎(ちょうずや)。



写真GV: 清武町にある中野神社の手水舎(ちょうずや)。



写真GW: いくつかの石碑(せきひ)があります。



写真GX: 手水舎(ちょうずや)の横に大きなソテツの木があります。



写真GY: 「奉納 昭和62年7月吉日 建立」と書いてあります。



写真GZ: 狛犬(こまいぬ)があります。



写真HA: 古い方の御手洗(みたらい)。



写真HB: 中野神社の鳥居(とりい)。 江戸時代に建てられたものです。



写真HC: 中野神社の鳥居(とりい)。 江戸時代に建てられたものです。



写真HD: 「中野神社」は宮崎県宮崎市 清武町 大字木原525-2にあります。



写真HE: 中野神社の境内(けいだい)。 説明板も見えます。



写真HF: 中野神社の境内(けいだい)。



写真HG: 中野神社の境内(けいだい)。 左はご神木の杉の木です。



写真HH: ご神木の杉の木です。



写真HI: 中野神社。 ご神木の杉の木です。



写真HJ: 中野神社。 ご神木の杉の木です。



写真HK: 階段の奥に社務所があります。 右はご神木、左は手水舎(ちょうずや)。



写真HL: 「中野神社 社務所」。



写真HM: 「中野神社 社務所」。



写真HN: 「中野神社 御由緒沿革」の説明板。
鎮座地 宮崎市 清武町 大字木原525番地
一、御祭神
誉田別命(応神天皇)
息長帯姫命(神功皇后)
玉依姫命(神武天皇のお母君)

配祀 伊東祐堯(すけたか) 公
二、御由緒および沿革
 当神社の御創建は第53代 淳和天皇の御代、今より約1200年前、勅宣があり「新羅降伏により一国に一社八幡宮を創建する」との詔により天長元年(西暦824年)当地に鎮座されました。 特に日向、大隅、薩摩は外国に隣接しているため、一郡に一社を勧請し「中野八幡宮」となったものであります。 その後 都於郡城(とのこおりじょう)5代目城主 伊東大和守祐堯(すけたか) 公は文明17年(西暦1485年)島津家と争奪中の飫肥城(おびじょう)に出馬の際、清武城にて逝去されたので当神社に霊を配祀しました。 以来、飫肥藩(おびはん)の尊宗厚く社殿祭具に藩主家紋の使用を許し又、社領として年16石、神職家に年23石を給せられ、例祭を始め春、秋の大祭に清武の地頭をして代拝せしめ、国家安康を祈念しています。
 社殿は、創建以来数度の改修があり、近年では明治10年の西南の役で戦火のため焼失、翌11年復興し、現在の社殿は昭和15年12月起工同17年4月復元されております。
三、祭典
(一)歳旦祭(さいたんさい) 1月1日
(二)事始祭 1月3日
古いお守り、お札(ふだ)を焼納致します。
(三)祈年祭 旧2月初午(はつま)の日
五穀豊穣を祈り神楽および饌供を奉納します。l
(四)大祓(おおはらい) 6月30日
茅輪をくぐり罪、穢(けがれ)、病を祓(はら)います。
(五)夏祭7月第3土、日曜日
町内を神輿(みこし)が練り歩き非常に賑(にぎ)わいます。
(六)例祭 10月17日
(七)新嘗祭(にいなめさい) 11月23日
と書かれています。



写真HO: 「中野神社 御由緒沿革」の説明板。
鎮座地 宮崎市 清武町 大字木原525番地
一、御祭神
誉田別命(応神天皇)
息長帯姫命(神功皇后)
玉依姫命(神武天皇のお母君)

配祀 伊東祐堯(すけたか) 公
二、御由緒および沿革
 当神社の御創建は第53代 淳和天皇の御代、今より約1200年前、勅宣があり「新羅降伏により一国に一社八幡宮を創建する」との詔により天長元年(西暦824年)当地に鎮座されました。 特に日向、大隅、薩摩は外国に隣接しているため、一郡に一社を勧請し「中野八幡宮」となったものであります。 その後 都於郡城(とのこおりじょう)5代目城主 伊東大和守祐堯(すけたか) 公は文明17年(西暦1485年)島津家と争奪中の飫肥城(おびじょう)に出馬の際、清武城にて逝去されたので当神社に霊を配祀しました。 以来、飫肥藩(おびはん)の尊宗厚く社殿祭具に藩主家紋の使用を許し又、社領として年16石、神職家に年23石を給せられ、例祭を始め春、秋の大祭に清武の地頭をして代拝せしめ、国家安康を祈念しています。
 社殿は、創建以来数度の改修があり、近年では明治10年の西南の役で戦火のため焼失、翌11年復興し、現在の社殿は昭和15年12月起工同17年4月復元されております。
三、祭典
(一)歳旦祭(さいたんさい) 1月1日
(二)事始祭 1月3日
古いお守り、お札(ふだ)を焼納致します。
(三)祈年祭 旧2月初午(はつま)の日
五穀豊穣を祈り神楽および饌供を奉納します。l
(四)大祓(おおはらい) 6月30日
茅輪をくぐり罪、穢(けがれ)、病を祓(はら)います。
(五)夏祭7月第3土、日曜日
町内を神輿(みこし)が練り歩き非常に賑(にぎ)わいます。
(六)例祭 10月17日
(七)新嘗祭(にいなめさい) 11月23日
と書かれています。



写真HP: 「中野神社 御由緒沿革」の説明板。
鎮座地 宮崎市 清武町 大字木原525番地
一、御祭神
誉田別命(応神天皇)
息長帯姫命(神功皇后)
玉依姫命(神武天皇のお母君)

配祀 伊東祐堯(すけたか) 公
二、御由緒および沿革
 当神社の御創建は第53代 淳和天皇の御代、今より約1200年前、勅宣があり「新羅降伏により一国に一社八幡宮を創建する」との詔により天長元年(西暦824年)当地に鎮座されました。 特に日向、大隅、薩摩は外国に隣接しているため、一郡に一社を勧請し「中野八幡宮」となったものであります。 その後 都於郡城(とのこおりじょう)5代目城主 伊東大和守祐堯(すけたか) 公は文明17年(西暦1485年)島津家と争奪中の飫肥城(おびじょう)に出馬の際、清武城にて逝去されたので当神社に霊を配祀しました。 以来、飫肥藩(おびはん)の尊宗厚く社殿祭具に藩主家紋の使用を許し又、社領として年16石、神職家に年23石を給せられ、例祭を始め春、秋の大祭に清武の地頭をして代拝せしめ、国家安康を祈念しています。
 社殿は、創建以来数度の改修があり、近年では明治10年の西南の役で戦火のため焼失、翌11年復興し、現在の社殿は昭和15年12月起工同17年4月復元されております。
三、祭典
(一)歳旦祭(さいたんさい) 1月1日
(二)事始祭 1月3日
古いお守り、お札(ふだ)を焼納致します。
(三)祈年祭 旧2月初午(はつま)の日
五穀豊穣を祈り神楽および饌供を奉納します。l
(四)大祓(おおはらい) 6月30日
茅輪をくぐり罪、穢(けがれ)、病を祓(はら)います。
(五)夏祭7月第3土、日曜日
町内を神輿(みこし)が練り歩き非常に賑(にぎ)わいます。
(六)例祭 10月17日
(七)新嘗祭(にいなめさい) 11月23日
と書かれています。



写真HQ: 「中野神社 改築記念碑(ひ)」。



写真HR: 清武町の中野神社。 拝殿と石灯籠(いしどうろう)。



写真HS: 中野神社の石灯籠と拝殿。



写真HT: 中野神社の鈴のヒモとお賽銭箱(さいせんばこ)。



写真HU: 中野神社の鈴としめ縄の御幣(ごへい)。



写真HV: 中野神社の中。



写真HW: 厄年表(やくどしひょう)。



写真HX: 中野神社の境内(けいだい)。



写真HY: 中野神社の境内(けいだい)。



写真HZ: 中野神社の境内(けいだい)。



写真IA: 中野神社の境内(けいだい)。 社務所と御神木も見えています。



写真IB: 中野神社の境内(けいだい)。



写真IC: 中野神社の鈴、しめ縄など。



写真ID: 中野神社の御神木(杉の木)と社務所。



写真IE: 中野神社の御神木(杉の木)。



写真IF: 中野神社の側面。



写真IG: 中野神社の本殿。 「中野神社」は宮崎県宮崎市 清武町 大字木原525-2にあります。



写真IH: 中野神社の側面。 右は本殿、左は拝殿。



写真II: 中野神社の裏にある楠(くすのき)。



写真IJ: 中野神社の裏。 左は本殿。



写真IK: 中野神社の本殿。



写真IL: 中野神社の本殿。 「中野神社」は宮崎県宮崎市 清武町 大字木原525-2にあります。



写真IM: 右は本殿。



写真IN: 中野神社の本殿。



写真IO: 中野神社の本殿。



写真IP: 丸い石造物もあります。



写真IQ: 大きなダルマがありました。



写真IR: 中野神社の境内(けいだい)。



写真IS: 中野神社の境内(けいだい)。



写真IT: 中野神社の左奥の建物に「神輿(みこし)」が置いてあります。



写真IU: 奥は社務所。



写真IV: 左は社務所。



写真IW: かがり火の台があります。



写真IX: 左は拝殿。



写真IY: 「中野神社」は宮崎県宮崎市 清武町 大字木原525-2にあります。



写真IZ: 中野神社の境内(けいだい)。



写真JA: 中野神社の駐車場のそばから清武町の「丸目山」と建物が見えます。 手前の木が紅葉していました。



写真JB: 「きよたけ歴史館」のそばにある「清武郷 中野」の説明板。
 江戸時代の清武は飫肥藩領(おびはんりょう)で、現在の田野町や宮崎市の内海から赤江など大淀川河口部までの範囲も含まれていました。 (船引・本郷南方は幕府領)
 清武は城下から山間部を挟(はさ)んで離れていたため、飫肥城の出張所的な役所として中野に「清武地頭所(きよたけじとうしょ)」が置かれ、ひとつの郷(ごう)として治められていました。
 清武郷では大淀川河口の城ヶ崎が物流で栄え、豪商が軒を連ねており、城下が政治の中心なら清武は経済や文化の中心でした。
 清武地頭所が置かれたここ中野地区は清武郷の中心として武家屋敷が集まり、中野から飫肥街道の坂を下った新町(しんまち)は商家街で、江戸時代は店や宿屋が軒を連ねてにぎわいました。 現在は間口が狭く奥に長い商家特有の地割りにその面影を留めています。 中野は武士、新町は商人と当時は明確に生活空間が分かれていました。 
 また、中野のちょうどこの場所で文政10年(1827年)、郷校「明教堂(めいきょうどう)」が落成し、教授陣を配した組織的な教育が開始されました。 これは安井息軒(やすいそっけん)の父 安井滄洲(そうしゅう)を中心とした藩への働きにより実現したもので、近郊から多くの書生が集い、平部きょう南(ひらべきょうなん)や川越進(かわごえすすむ)など多くの逸材を輩出しました。
と書かれています。



写真JC: これは飫肥街道(おびかいどう)です。 手前に行くと安井息軒 旧宅、先に行くと「清武地頭所 跡」や長屋門があります。



写真JD: ここが「清武地頭所 跡」です。
飫肥藩の参勤交代のとき、飫肥城を朝早く出て、花立山、山仮屋関所、椿山(つばきやま)の殿様道路を通りこの清武地頭所で最初の1泊をしました。 この経路は飫肥街道と呼ばれています。



写真JE: 「清武地頭所」の跡地です。
清武は城下から山間部を挟(はさ)んで離れていたため、飫肥城の出張所的な役所として中野に「清武地頭所(きよたけじとうしょ)」が置かれ、ひとつの郷(ごう)として治められていました。
長屋門のある敷地の南隣(どな)りに「地頭所 跡」があります。



写真JF: 「清武地頭所」の跡地。



写真JG: 地頭所のそばの飫肥街道です。 奥に長屋門(武家門)が見えています。



写真JH: 石垣(いしがき)です。



写真JI: 宮崎県 宮崎市 清武町 中野にある「地頭所 跡」です。



写真JJ: 宮崎県 宮崎市 清武町 中野にある「地頭所 跡」。
清武は城下から山間部を挟(はさ)んで離れていたため、飫肥城の出張所的な役所として中野に「清武地頭所(きよたけじとうしょ)」が置かれ、ひとつの郷(ごう)として治められていました。



写真JK: 宮崎市 清武町 中野にある「地頭所 跡」です。
飫肥藩の参勤交代のとき、飫肥城を朝早く出て、花立山、山仮屋関所、椿山(つばきやま)の殿様道路を通りこの清武地頭所で最初の1泊をしました。 この経路は飫肥街道と呼ばれています。



写真JL: 宮崎市 清武町 中野にある「地頭所 跡」。
長屋門のある敷地の南隣(どな)りに「地頭所 跡」があります。



写真JM: 地頭所跡のそばの梅の木です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)