漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか) (県指定史跡 宮崎県指定文化財 漆野原一里塚、漆野原 用水管理センター、漆野原 揚水記念碑、野尻町の田の神 (田の神さあ)、薩摩島津藩、薩摩藩)
(宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原 503-90)
<標高、位置> 小林市 野尻町にある漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか)は
標高 約200 m
北緯31度58分20秒 東経131度11分45秒
漆野原一里塚(うるしのばるいちりづか)は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原 503-90 にあります。
「県指定史跡 漆野原一里塚 (うるしのばるいちりづか) 昭和11年7月17日指定」の説明板から、
一里塚は、江戸時代初期 慶長9年(1604年) 江戸日本橋を起点として主要街道に一里ごとに、目印が設けられたのに始まる。
この一里塚は、宝永3年(1706年)の初め頃に薩摩藩が鹿児島 下町札辻を起点として綾(あや)に至(いた)る街道に一里塚を設けた時のものと見られる。
当時、塚は直径約6 m、高さ約2 mの円形で指標樹、緑陰樹として旅人の便に供(きょう)するため桜または榎(えのき)が植えられていたようである。
現在の塚(つか)は、昭和5年の漆野原開田事業の際の開墾(かいこん)により約2 m 掘り下げられ現状をとどめている。
「一里塚」は旅人にとって里程(道程)や乗り物代金の目安(めやす)にもなりました。 道の両側に1つずつ(1対(つい))あるのが普通で、全国的には一里塚に榎(えのき)、松、杉を植えることが多かったそうです。 榎が多かったのは「ええ木を植えろ」を「えのき」と聞き違えたという説もあります。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。
写真A: 宮崎県 小林市 野尻町を通る国道268号線です。 先に進むと紙屋郵便局、宮崎市に行きます。 手前に行くと萩の茶屋峠、のじりこぴあ、小林市の中心部に行きます。
漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか)に行くにはこの三叉路(さんさろ)を左(北)に曲がります。 「漆野原一里塚」の標識が右の屋根の所に見えます。
写真B: 三叉路(さんさろ)に「←宮崎県指定文化財 漆野原一里塚 1 km」の標識があります。
写真C: 国道268号線の西のほうです。
写真D: 三叉路(さんさろ)から北を見た景色です。 この道を先に進んで漆野原 一里塚(うるしのばるいちりづか)に行きます。 右寄りに祠(ほこら)が見えます。
写真E: 北を見たもの。
写真F: 三叉路(さんさろ)にある祠(ほこら)です。 中に2つの石像があります。 左は「野尻町の田の神(田の神さあ)」です。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。
写真G: この道を先に進んで漆野原 一里塚に行きます。 左にバス停「福祉バス 西新村 野尻町」があります。
写真H: バス停「福祉バス 西新村 野尻町」があります。
写真I: 先ほどの三叉路から約1 km 進むとこの十字路があります。 左奥は目印になる商店です。 漆野原一里塚はここを右に曲がります。 ミラーが見えます。
写真J: 十字路にある商店です。 飲料水の自動販売機もあります。
写真K: 十字路を曲がった所の景色です。 少し進むと右手の田んぼの中に「漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか)」があります。
写真L: 「→宮崎県指定文化財 漆野原一里塚」の案内棒があります。
写真M: 「漆野原 用水管理センター」、「水土里ネット 漆野原」と書いてある建物があります。
写真N: 「漆野原 用水管理センター」、「水土里ネット 漆野原」と書いてあります。
宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原にあります。
写真O: 「漆野原 用水管理センター」の前にあるバス停「福祉バス 漆野原 野尻町」があります。 門柱と「竣工 昭和34年2月5日 揚水記念」の石碑(せきひ)、掲示板があります。
写真P: 「竣工 昭和34年2月5日 揚水記念」の石碑(せきひ)が門柱のそばにあります。 奥は「漆野原 用水管理センター」。 アリゾナ糸杉の木があります。
写真Q: 漆野原 揚水記念碑があります。
「竣工 昭和34年2月5日 揚水記念」の石碑(せきひ)が門柱のそばにあります。 奥は「漆野原 用水管理センター」です。
写真R: しばらく行くと右手に「漆野原一里塚 (うるしのばるいちりづか)」が見えます。 小型の古墳(こふん、円墳)のような形をしています。
漆野原一里塚(うるしのばるいちりづか)は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原 503-90 にあります。
一里塚は一里(約4 km)ごとに旅人の道しるべ(目印)、休憩場所(きゅうけいばしょ)のために造られたものです。
この一里塚は 江戸時代 宝永3年(1706年)の初め頃に薩摩藩が鹿児島 下町札辻を起点として綾(あや)に至(いた)る街道に一里塚を造ったものです。 昔はこの一里塚のところに宮崎県 綾町と鹿児島を結ぶ旧道がありました。
「一里塚」は旅人にとって里程(道程)や乗り物代金の目安(めやす)にもなりました。 道の両側に1つずつ(1対(つい))あるのが普通で、全国的には一里塚に榎(えのき)、松、杉を植えることが多かったそうです。 榎が多かったのは「ええ木を植えろ」を「えのき」と聞き違えたという説もあります。
写真S: 漆野原 一里塚のそばの道です。
写真T: 小林市 野尻町にある「漆野原 一里塚」です。 上に石と案内棒があります。
案内棒には「県指定史跡 漆野原一里塚 小林市教育委員会」と書いてあります。
当時、塚は直径約6 m、高さ約2 mの円形で指標樹、緑陰樹として旅人の便に供(きょう)するため「桜」または「榎(えのき)」の木が植えられていたようです。
写真U: 宮崎県 小林市 野尻町にある「漆野原 一里塚」です。 上に石と案内棒があります。
現在の塚(つか)は、昭和5年の漆野原開田事業の際の開墾(かいこん)のときに約2 m 掘り下げられました。 それで高さが高めになっています。
「一里塚」は旅人にとって里程(道程)や乗り物代金の目安(めやす)にもなりました。 道の両側に1つずつ(1対(つい))あるのが普通で、全国的には一里塚に榎(えのき)、松、杉を植えることが多かったそうです。 榎が多かったのは「ええ木を植えろ」を「えのき」と聞き違えたという説もあります。
写真V: 小林市 野尻町にある「漆野原 一里塚」です。 上に石と案内棒があります。 車道は左です。
漆野原一里塚は昭和11年7月17日、県指定史跡に指定されました。
写真W: 小林市 野尻町にある「漆野原 一里塚」です。 上に石と案内棒があります。 車道は左。
一里塚は、江戸時代初期 慶長9年(1604年) 江戸日本橋を起点として主要街道に一里ごとに、目印が設けられたのが最初です。
写真X: 「漆野原 一里塚」です。 上に石と案内棒があります。
案内棒には「県指定史跡 漆野原一里塚 小林市教育委員会」と書いてあります。
漆野原一里塚(うるしのばるいちりづか)は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原 503-90 にあります。
一里塚は一里(約4 km)ごとに旅人の道しるべ(目印)、休憩場所(きゅうけいばしょ)のために造られたものです。
写真Y: 小林市 野尻町にある「漆野原 一里塚」です。 上に石と案内棒があります。 車道は奥にあります。 携帯電話の基地局アンテナが見えます。
「一里塚」は旅人にとって里程(道程)や乗り物代金の目安(めやす)にもなりました。 道の両側に1つずつ(1対(つい))あるのが普通で、全国的には一里塚に榎(えのき)、松、杉を植えることが多かったそうです。 榎が多かったのは「ええ木を植えろ」を「えのき」と聞き違えたという説もあります。
写真Z: 「漆野原 一里塚」です。 上に石と案内棒があります。 車道は奥にあります。
漆野原一里塚(うるしのばるいちりづか)は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原 503-90 にあります。
一里塚は一里(約4 km)ごとに旅人の道しるべ(目印)、休憩場所(きゅうけいばしょ)のために造られたものです。
写真AA: 漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか)の左部分です。 車道は奥にあります。
写真AB: 漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか)の右部分です。 車道は奥にあります。
写真AC: 畦道(あぜみち)から車道の方向を見たものです。 右に携帯電話の基地局アンテナが見えます。
写真AD: 県指定史跡 漆野原一里塚の説明板が車道の端(はし)にあります。 右は漆野原一里塚です。
写真AE: 車道から見た「漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか)」です。 上の案内棒の右下に石があります。
案内棒には「県指定史跡 漆野原一里塚 小林市教育委員会」と書いてあります。
写真AF: 「県指定史跡 漆野原一里塚 (うるしのばるいちりづか) 昭和11年7月17日指定」の説明板があります。
一里塚は、江戸時代初期 慶長9年(1604年) 江戸日本橋を起点として主要街道に一里ごとに、目印が設けられたのに始まる。
この一里塚は、宝永3年(1706年)の初め頃に薩摩藩が鹿児島 下町札辻を起点として綾(あや)に至(いた)る街道に一里塚を設けた時のものと見られる。
当時、塚は直径約6 m、高さ約2 mの円形で指標樹、緑陰樹として旅人の便に供(きょう)するため桜または榎(えのき)が植えられていたようである。
現在の塚(つか)は、昭和5年の漆野原開田事業の際の開墾(かいこん)により約2 m 掘り下げられ現状をとどめている。
平成9年12月 小林市教育委員会
と書かれています。
写真AG: 「県指定史跡 漆野原一里塚 (うるしのばるいちりづか) 昭和11年7月17日指定」の説明板があります。
一里塚は、江戸時代初期 慶長9年(1604年) 江戸日本橋を起点として主要街道に一里ごとに、目印が設けられたのに始まる。
この一里塚は、宝永3年(1706年)の初め頃に薩摩藩が鹿児島 下町札辻を起点として綾(あや)に至(いた)る街道に一里塚を設けた時のものと見られる。
当時、塚は直径約6 m、高さ約2 mの円形で指標樹、緑陰樹として旅人の便に供(きょう)するため桜または榎(えのき)が植えられていたようである。
現在の塚(つか)は、昭和5年の漆野原開田事業の際の開墾(かいこん)により約2 m 掘り下げられ現状をとどめている。
平成9年12月 小林市教育委員会
と書かれています。
写真AH: 「県指定史跡 漆野原一里塚 (うるしのばるいちりづか) 昭和11年7月17日指定」の説明板があります。
一里塚は、江戸時代初期 慶長9年(1604年) 江戸日本橋を起点として主要街道に一里ごとに、目印が設けられたのに始まる。
この一里塚は、宝永3年(1706年)の初め頃に薩摩藩が鹿児島 下町札辻を起点として綾(あや)に至(いた)る街道に一里塚を設けた時のものと見られる。
当時、塚は直径約6 m、高さ約2 mの円形で指標樹、緑陰樹として旅人の便に供(きょう)するため桜または榎(えのき)が植えられていたようである。
現在の塚(つか)は、昭和5年の漆野原開田事業の際の開墾(かいこん)により約2 m 掘り下げられ現状をとどめている。
平成9年12月 小林市教育委員会
と書かれています。
写真AI: 車道から見た「漆野原 一里塚 (うるしのばるいちりづか)」です。 上の案内棒の右下に石があります。
写真AJ: 漆野原一里塚の付近の様子(ようす)です。 周(まわり)は田んぼになっています。
写真AK: 近くの車道です。
写真AL: 付近の様子です。
写真AM: 近くの様子(ようす)です。
写真AN: 付近です。
写真AO: 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原の車道です。
写真AP: 漆野原一里塚の近くの車道です。 奥の方からやって来ました。
写真AQ: 漆野原一里塚のまわりの景色です。 右は説明板です。
国道268号線から先ほど通ってきた道沿(ぞ)いの家並み(いえなみ)が見えています。
写真AR: 漆野原一里塚とまわりの景色です。
漆野原一里塚(うるしのばるいちりづか)は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原 503-90 にあります。
一里塚は一里(約4 km)ごとに旅人の道しるべ(目印)、休憩場所(きゅうけいばしょ)のために造られたものです。
左上に農業用ビニールハウスが見えています。
写真AS: 漆野原一里塚とまわりの景色です。
漆野原一里塚(うるしのばるいちりづか)は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 漆野原 503-90 にあります。
一里塚は一里(約4 km)ごとに旅人の道しるべ(目印)、休憩場所(きゅうけいばしょ)のために造られたものです。
「一里塚」は旅人にとって里程(道程)や乗り物代金の目安(めやす)にもなりました。 道の両側に1つずつ(1対(つい))あるのが普通で、全国的には一里塚に榎(えのき)、松、杉を植えることが多かったそうです。 榎が多かったのは「ええ木を植えろ」を「えのき」と聞き違えたという説もあります。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)