鵜戸神宮 (うどじんぐう)、日向三代神話 (日向神話)、(ハマユウの花、ソテツの花、フェニックス ロベレニーの花) (神武天皇の父が主祭神、神武天皇が生まれた所(神武天皇 御降誕伝説地 鵜戸)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと、神武天皇の御父君)の西洲の宮跡地、お乳水、お乳岩、乳飴(ちちあめ)、おちちアメ湯、日南市指定文化財 鵜戸山 八丁坂の古い石段、鵜戸崎隧道(ずいどう、トンネル)、亀石、運玉、撫(な)でウサギ、鵜戸崎の鬼の洗濯岩(鬼の洗濯板、波状岩)、鵜戸(うど)の古狛犬(こまいぬ)、国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯、吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ、神武天皇の父の墓)、鵜戸神社、鵜戸漁港、鵜戸神宮の門前町)  (宮崎県 日南市 大字宮浦 3232)







<標高、位置>  鵜戸神宮(うどじんぐう)は
標高 約20 m
 北緯31度39分01秒  東経131度28分00秒

<標高、位置>  鵜戸崎隧道(うどざきずいどう、鵜戸崎トンネル)は
標高 約50 m
 北緯31度38分50秒  東経131度27分49秒

<標高、位置>  鵜戸神宮の駐車場は
標高 約40 m
 北緯31度38分52秒  東経131度27分43秒


 「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。  親しみを込(こ)めて「鵜戸さん」と呼ばれます。 明治時代のとちゅうまでは鵜戸神社で、明治初期までは神仏習合(神の信仰と仏教信仰を融合調和すること。)で寺と神社が合体していました。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
主祭神は神武天皇の父です。 神武天皇の父である日子波瀲武葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの6代の皇祖神を祀(まつ)っています。 社伝によると、神武天皇のおじいさんである山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を探しに海宮(竜宮)に行って、海神の娘である豊玉姫命と結婚しました。 山幸彦が海宮から帰った後に「天孫の子を海原で生むことはできない。」とここ鵜戸(うど)に来られました。 霊窟(れいくつ)に急いで産殿を建てました。 鵜(う)の羽で屋根を葺(ふ)き終わらない内に神武天皇の父が誕生しました。 それで名前が鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)となりました。 これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。

 「鵜戸山 八丁坂 由緒」の説明板から、
鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。

 「県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 (宮崎県教育委員会 平成7年3月23日指定)」の説明板から、
鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟(がんくつ、岩穴)内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711年、江戸時代中期)に飫肥藩5代伊東祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。 平成9年度(1997年)には屋根や内装などの修理が行われた。 このように幾度の改修を実施したものの、岩窟(がんくつ)内に見事に収(おさ)めた権現造り風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。

 「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」の看板(かんばん)から、
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地、琵琶(びわ)の発祥地。

 「おちち水の由来」の説明板から、
御祭神ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御父君)の御母君 豊玉姫命は温かい母性愛から御祭神の為に両乳房を窟内(岩穴の中)に置いて行かれたと伝えられ、そのお乳岩から出るお乳水は、今もなお絶え間なく玉のような岩清水を滴(したた)らせて、安産・有児・身体健全その他、心願成就がかなうことで知られています。

 「撫でウサギ(うさぎ)」の説明板から、
「卯(う)」と当神宮との御神縁は古く、第10代 崇神天皇の御代(紀元前97年~紀元前29年)に遡(さかのぼ)り、かねてより毎月「初の卯(う)の日」が御神縁の日として、御神威が最も高まる日と尊崇されて、鵜戸さんの「縁日祭」が連綿(れんめん、長く続いて絶えない様子(ようす)。)と今日まで奉仕されてまいりました。
卯(う)は「兎(うさぎ)」に通じ、ゆかりの「なでうさぎ」として、病気平癒(ゆ)・開運・飛翔など願い事がかなえられると言われています。

 「運玉の由来」の石碑(せきひ)から、
奇巌連なる中、一際(ひときわ)目を引く岩は「亀石」です。 古くより参拝者は亀石の桝形(ますがた)穴に向かってお金を投げ入れる風習がありました。 ところが昭和27年頃、落ちたお金を求め崖(がけ)を降り磯(いそ)に出る子がいて問題となりました。
 賽銭(さいせん)にかわるものをと、鵜戸小学校、鵜戸神宮ともに試行錯誤した結果、昭和29年に粘土(ねんど)を丸め「運」の文字を押し、素焼(すや)きにした「運玉」が誕生しました。 
以来、地元の子供達が作り続ける運玉は亀石に投げられ、願いと夢と喜び楽しみを与えています。

 休憩所の「おちちアメ湯」の看板(かんばん)から、
おちちアメ湯について。 おちち岩より滴(したた)り落ちるおちち水と当神宮ゆかりのおちちアメに生姜(しょうが)を加えて作りました。 古来より安産授乳 無病息災など霊験あらたかな授与品として信仰を頂(いただ)いております。

 「吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)」の説明板から、
鵜戸陵墓参考地
 本宮御主祭神 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を葬(おさ)め奉(たてまつ)ると云(い)う。
 此処(ここ)より仰(あお)ぐ神域の最高地 速日峰(はやひのみね)の頂(いただき)に在(あ)り。 ここより約350 m 自然林の中 青苔(こけ)を踏(ふ)んで登る。 宮内庁書陵部の管轄(かんかつ)で陵墓守部(りょうぼしゅぶ)が置かれている。

 鵜戸神宮の看板(かんばん)から、
「1.鵜戸の古狛犬(こまいぬ) この狛犬は文政8年(西暦1828年)に土砂崩(くず)れにより海中に没していたものを引き上げ修復したものである。 1.神武天皇御降誕伝説地 1.鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと、神武天皇の御父君)の西洲の宮跡地」

 「国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯 日南市 大字宮浦 3232番地 ロ-1 昭和43年6月14日指定」の説明板から、
国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯
 ヘゴは、湿度の高い林の中を好む木生シダである。 高さは4 m にも達するものがあり、2 m もある葉が八方に広がる。
 鵜戸神宮北側の杉が混在する自然林のくぼ地にある「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」は、その生態が珍しく、国の指定天然記念物となった。 当時は、樹齢20年から50年のものが20本もあったが、昭和51年の寒波で枯れてしまった。 しかし、その後の調査で、高さ10 cm から50 cm のものが約30本自生していることが確かめられている。

 鵜戸神宮に江戸時代の石灯籠(いしどうろう)があります。 奉寄進 「灯籠10基」 飫肥藩主 伊東祐久(すけひさ)公 慶安元年8月吉日 (江戸時代初期、西暦 1648年) 九曜紋(伊東の家紋)あり。

 「初代別当 光喜坊快久の墓」が鵜戸神宮の旧参道の峠(とうげ)にあります。
鵜戸神宮の社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。

 「神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋(そりはし))」の説明板から、
この神橋は神仏習合時代には金剛界37尊の御名が書かれた37枚の板が配してありました。 この神橋を渡ると御本殿に至(いた)る急な石段です。 これより先は、古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
かっては、橋の手前から履物(はきもの)を脱(ぬ)ぎ、跣(はだし)でお参りをしていました。 今はその習慣はなくなりましたが、その心は生きています。 お参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御加護を受けられると言われています。


写真A: 宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にある「鵜戸神宮(うどじんぐう)」の駐車場入り口です。 西を見た景色です。 左下に鵜戸漁港があります。 駐車場は手前側です。 先に行くと国道220号線にぶつかります。 道の左端に白く見える花はハマユウです。



写真B: 南を見た景色。 左端に鬼の洗濯岩(鬼の洗濯板、波状岩)が見えます。 「鵜戸漁港」の防波堤も見えています。 中央奥の岬(みさき)は「日崎」と呼(よ)ばれます。 海は日向灘(太平洋)です。



写真C: 南西を見たものです。 小吹毛井 地区などが見えています。



写真D: 左端(ひだりはし)に鵜戸神宮のそばまで行く海岸通り(海岸参道)が見えます。 鵜戸崎にある鬼の洗濯岩(鬼の洗濯板、波状岩)が見えます。 鬼の洗濯岩は砂岩と泥岩(でいがん)が交互に積み重なり、水平から角度を持って斜めになっています。 波で柔(やわ)らかな砂岩が削(けず)られ、昔の洗濯板のような波状岩となります。 ここは「千畳敷奇岩(せんじょうじききがん)」と呼ばれます。



写真E: 道端に「ハマユウの花」が咲いていました。 ハマユウは「宮崎県の花」に昭和39年12月22日に指定されました。 6月から9月頃まで白い大きな花をつけ、良い香りがします。



写真F: 鵜戸神宮の駐車場です。 宮崎県 日南市 大字宮浦にあります。 茶色の屋根の建物はトイレです。 右に閉まっている店があります。 鵜戸神宮は見えている山の向こうにあります。



写真G: 鵜戸神宮の駐車場にある鵜戸観光トイレです。



写真H: 見えている崖(がけ)の右の階段を登って「鵜戸神宮(うどじんぐう)」に行きます。 階段の左上に「鵜戸神宮」と彫(ほ)られた大きな石碑(せきひ)があります。 右の建物はおみやげ品店です。 北東を見たもの。



写真I: 西を見た景色です。 遠くにも山が見えます。 手前は鵜戸神宮の駐車場です。



写真J: 南を見た景色。 鵜戸神宮の駐車場から。



写真K: 鵜戸神宮に行くにはこの階段を登ります。 左上に「鵜戸神宮」と彫(ほ)られた大きな石碑(せきひ)が見えます。



写真L: 鵜戸崎(灯台があります。)、鵜戸神宮、鵜戸漁港などの絵地図です。



写真M: 古い石の階段が下の海岸通りまで続いています。 これは古い参道(鵜戸山 八丁坂、八丁坂参道)です。
鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。
 奥に鵜戸漁港の防波堤が見えます。



写真N: 「アジサイの花」が咲いていました。



写真O: 「鵜戸神宮 神宮大宮司 徳川宗敬 謹書」と彫(ほ)ってある大きな石碑(せきひ)があります。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
神武天皇の父である日子波瀲武葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの6代の皇祖神を祀(まつ)っています。
「日向三代神話」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、高千穂町))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県 霧島市の鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真P: 「鵜戸山 八丁坂 由緒」の説明板。
 鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。
と書かれています。
右はアジサイの花です。



写真Q: 宮崎県 日南市 大字宮浦にある鵜戸神宮の赤い鳥居(とりい)です。 右に「累代別当宮司の墓」の道標があります。 下にアジサイの花が咲いています。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真R: 「鵜戸神宮、宮日新観光地百景」と書かれた石碑(せきひ)があります。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。



写真S: これは古い参道(鵜戸山 八丁坂、八丁坂参道)です。
鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。



写真T: 鵜戸神宮の「八丁坂」にある赤い鳥居(とりい)です。



写真U: こちらは新しい方の参道です。 この先に鵜戸崎隧道(うどざきずいどう、鵜戸崎トンネル)があります。



写真V: 階段の途中(とちゅう)から西を振(ふ)り返ったもの。 建物の向こうに駐車場があります。



写真W: 奥に鵜戸崎隧道(うどざきずいどう、鵜戸崎トンネル)が見えてきました。 左はおみやげ品店です。 ここは新参道です。



写真X: 奥に鵜戸崎隧道(うどざきずいどう、鵜戸崎トンネル)が見えてきました。 左はおみやげ品店。



写真Y: 「鵜戸神宮 御本殿まで 徒歩15分」と書いてある道しるべがあります。



写真Z: これが駐車場と鵜戸神宮を結ぶ鵜戸崎隧道(うどざきずいどう、鵜戸崎トンネル)の入り口(西口)です。 昭和40年11月に完成しました。
トンネルを通って行くのは鵜戸神宮の新参道です。
宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井にあります。



写真AA: 「鵜戸崎隧道 昭和40年11月竣工」と書いてあります。



写真AB: 駐車場と鵜戸神宮を結ぶ鵜戸崎隧道(うどざきずいどう、鵜戸崎トンネル)の中です。 ナトリウムランプの照明があります。 自動車は通れません。
トンネルを通って行くのは鵜戸神宮の新参道です。



写真AC: 鵜戸崎トンネルの出口(東口)付近です。



写真AD: 鵜戸崎トンネルを出たところ(東口)はこのようになっています。 ここは新参道です。



写真AE: 東に歩いて行きます。 家や店が見えてきました。
トンネルを通って行くのは鵜戸神宮の新参道です。



写真AF: 鵜戸神宮の門前町にあるおみやげ品店です。 右に「うど名物 おちちあめ」と書いてあります。
びろう樹の葉で作った先の尖(とが)った「バッチョガザ(笠)」、左上に鰻(うなぎ)を取る竹を編んだ物、杖(つえ)なども売っています。



写真AG: 三叉路(さんさろ)があります。 右に行くと新駐車、手前に行くと鵜戸崎隧道、先に行くと鵜戸神宮に行きます。



写真AH: 「←新駐車、→観光バス駐車場」と書いてある標識があります。 右の道の奥に鵜戸崎隧道が見えます。



写真AI: この辺(あた)りは下り坂になっています。 新参道です。



写真AJ: 「鵜戸神宮←」と「イノシシに注意、犬、猫等のペットをお連れの方イノシシがペットに負傷させる恐れがありますのでご注意下さい。 境内(けいだい)での事故などが起きましても当宮では保証致しませんのでご了承下さい。 鵜戸神宮社務所」
と書いた看板(かんばん)があります。



写真AK: 建物が見えています。 間から海が見えます。
トンネルを通って行くのは鵜戸神宮の新参道です。



写真AL: フェニックス ロベレニーの花が咲いています。



写真AM: 自動販売機も見えます。 建物の間から日向灘(太平洋)が見えます。



写真AN: この先はT字路になって、旧参道とぶつかります。 左右に八丁坂の階段が続いています。



写真AO: これは鵜戸神宮 旧参道の鵜戸山 八丁坂の階段です。 「累代別当宮司の墓地、坂の上 約200 m」と書いてある石碑(せきひ)が階段のそばにあります。 墓地は一番高い所(峠(とうげ))にあります。 石の階段は長年の間に多くの参拝者が通り、石がすり減って凹(くぼ)んでいます。
「鵜戸山 八丁坂 由緒」の説明板。
 鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。



写真AP: 「現在地、旧参道、新参道 (トンネル)、駐車場」の地図があります。



写真AQ: 「累代別当宮司の墓地、坂の上 約200 m」と書いてある石碑(せきひ)が階段のそばにあります。



写真AR: これからは旧参道です。 奥の階段を下って行きます。



写真AS: これも鵜戸神宮 旧参道の八丁坂の古い石段です。 真ん中に手すりがあります。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真AT: 宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井にある鵜戸神宮の旧参道(八丁坂)です。



写真AU: 旧参道を海の方に下って鵜戸神宮に行きます。



写真AV: 旧参道の鵜戸山 八丁坂の古い石段です。
「鵜戸山 八丁坂 由緒」の説明板。
 鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。



写真AW: ソテツの木があります。



写真AX: 右に入(はい)る道と建物があります。



写真AY: 宮崎県 日南市にある鵜戸神宮の門前町です。 おみやげ品店が並(なら)んでいます。 奥に石灯籠(いしどうろう)と日向灘(太平洋)が見えます。



写真AZ: 鵜戸神宮の門前町の店です。 「マンゴー生ジュース、日向夏みかん生ジュース」と書いてあります。



写真BA: ビロウ樹の葉で作った先が尖(とが)った「バッチョガザ(笠)」も販売されています。



写真BB: 宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井にある鵜戸神宮の旧参道 「八丁坂」の古い石段を振(ふ)り返ったもの。



写真BC: 日南市の鵜戸神宮の門前町。 ソフトクリームも売っています。



写真BD: 左は鵜戸神宮の「授与所」です。 大きな石灯籠(いしどうろう)も見えます。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真BE: 鵜戸神宮(うどじんぐう)の「授与所」。



写真BF: 「授与所」、「おみくじ」と書いてあります。



写真BG: 南を見た景色。 赤い鳥居(とりい)、石碑(せきひ)、土産物屋(みやげものや)などがあります。 赤い鳥居(とりい)の奥に海岸参道の駐車場があります。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真BH: 日南市 大字宮浦の鵜戸神宮の門前町。



写真BI: 奥はやって来た八丁坂です。 おみやげ品店が並んでいます。 右は授与所です。



写真BJ: 東を見たもの。 ひむか神話街道の説明板もあります。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真BK: 中央奥の岩が神犬石(いぬいし)です。 しめ縄がしてあります。 「神犬石(いぬいし)、八丁坂(本参道)から、御本殿を御守護するように見えることから神犬石と呼ばれている。」と書いてあります。
欄干(らんかん、手すり)もあります。 ソテツの木、建物、ひむか神話街道の説明板もあります。



写真BL: 鵜戸神宮(うどじんぐう)の「神犬石(いぬいし)」です。



写真BM: 「神犬石(いぬいし)、八丁坂(本参道)から、御本殿を御守護するように見えることから神犬石と呼ばれている。」
と書いてあります。



写真BN: 鵜戸神宮の授与所と石灯籠(いしどうろう)。 右にワシントン椰子(やし)も見えます。



写真BO: ビロウ樹、ワシントン椰子(やし)もあります。 右端は工事中の建物(神門)です。



写真BP: 正面の建物(神門)はちょうど工事中でした。



写真BQ: 「御祭神  鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと、神武天皇の御父君) 旧官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮(うどじんぐう) 例祭日 2月1日」と書いてあります。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
 神武天皇の父である日子波瀲武葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの6代の皇祖神を祀(まつ)っています。



写真BR: びろう樹もあります。



写真BS: 右は工事中の建物。 鵜戸神宮の建物があります。



写真BT: 鵜戸神宮の建物。



写真BU: ソテツの木があり、「ソテツの花」が咲いていました。



写真BV: 「ソテツの花」が咲いていました。



写真BW: 日南市 大字 宮浦にある鵜戸神宮の楼門(ろうもん)です。 右は断崖絶壁(だんがいぜっぺき)になっていて、赤い欄干(らんかん、手すり)があります。 国旗も翻(ひるがえ)っています。
 神武天皇の父である日子波瀲武葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの6代の皇祖神を祀(まつ)っています。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真BX: 鵜戸神宮の社務所です。 「鵜戸神宮社務所」と書いてあります。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。
神武天皇の父である日子波瀲武葺不合尊を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの6代の皇祖神を祀(まつ)っています。



写真BY: 宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井にある鵜戸神宮の赤い楼門(ろうもん)です。 左下にソテツの花が咲いています。 右に石灯籠(いしどうろう)もあります。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真BZ: 西に建物(儀式殿)があります。



写真CA: 広場があります。 右端は楼門(ろうもん)。



写真CB: 楼門(ろうもん)を南西から見たもの。



写真CC: 広場の南にある建物(社務所)です。 鵜戸神宮には多くの建物があります。



写真CD: 「シャンシャン馬道中唄(うた)」の石碑(せきひ)です。
鵜戸さん参りは春三月よ 参るその日が御縁日 参りやとにかく帰りの節は つけておくれよ青島へ、鵜戸さん良いとこ一度はおいで 一目千里の灘がある 行こか参ろか七坂越えて 鵜戸神社は結び神、鵜戸さん参りに結(ゆ)うたる髪も 馬にゆられてみだれ髪 音に名高い背平の峠(とうげ) 坂は七坂七曲り
と歌詞が彫(ほ)ってあります。
楽譜(がくふ)も載(の)っています。
シャンシャン馬の風習は江戸時代中頃から明治時代中頃まで続きました。 「シャンシャン」とは馬の首にかけた鈴の音のことだそうです。



写真CE: 「シャンシャン馬道中唄(うた)」の石碑(せきひ)です。
鵜戸さん参りは春三月よ 参るその日が御縁日 参りやとにかく帰りの節は つけておくれよ青島へ、鵜戸さん良いとこ一度はおいで 一目千里の灘がある 行こか参ろか七坂越えて 鵜戸神社は結び神、鵜戸さん参りに結(ゆ)うたる髪も 馬にゆられてみだれ髪 音に名高い背平の峠(とうげ) 坂は七坂七曲り
と歌詞が彫(ほ)ってあります。
楽譜(がくふ)も載(の)っています。
シャンシャン馬の風習は江戸時代中頃から明治時代中頃まで続きました。 「シャンシャン」とは馬の首にかけた鈴の音のことだそうです。



写真CF: 広場の南の建物(社務所)です。



写真CG: 左は赤い楼門(ろうもん)です。 東を見たもの。



写真CH: 北東を見た景色です。 右は赤い楼門(ろうもん)です。



写真CI: 北を見たもの。 石碑(せきひ)もあります。 



写真CJ: 広場の西にある建物(儀式殿)です。 鵜戸神宮には多くの建物があります。



写真CK: 広場の西にある建物(儀式殿)。



写真CL: フェニックスの木が枯(か)れていました。 宮崎県にあるフェニックスは各地で枯れています。 残念なことです。



写真CM: 「神武天皇御降誕伝説地 鵜戸(うど)」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。
「1.鵜戸の古狛犬(こまいぬ) この狛犬は文政8年(西暦1828年)に土砂崩(くず)れにより海中に没していたものを引き上げ修復したものである。 1.神武天皇御降誕伝説地 1.鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと、神武天皇の御父君)の西洲の宮跡地」
と書いてある看板(かんばん)があります。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真CN: 鵜戸(うど)の古狛犬(こまいぬ)です。
「1.鵜戸の古狛犬(こまいぬ) この狛犬は文政8年(西暦1828年)に土砂崩(くず)れにより海中に没していたものを引き上げ修復したものである。 1.神武天皇御降誕伝説地 1.鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと、神武天皇の御父君)の西洲の宮跡地」
と書いてある看板(かんばん)があります。



写真CO: 「1.鵜戸の古狛犬(こまいぬ) この狛犬は文政8年(西暦1828年)に土砂崩(くず)れにより海中に没していたものを引き上げ修復したものである。 1.神武天皇御降誕伝説地 1.鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと、神武天皇の御父君)の西洲の宮跡地」
と書いてある看板(かんばん)があります。



写真CP: 「古神符納め所(去年の古いお札(ふだ)を納める所)」があります。



写真CQ: 「鵜戸稲荷神社」です。 鵜戸神宮の境内(けいだい)にあります。 両側にコマイヌがあります。
この先を距離 約 400 m 上がると神武天皇の父の墓と言われる古墳(こふん)である「吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)」があり、国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯、とちゅうで右折して海辺の洞窟(どうくつ)の中にある波切神社(約 400 m先)もあります。



写真CR: 「鵜戸山見て歩きコース 鵜戸稲荷神社」と書いてあります。



写真CS: 鵜戸神宮のフェニックスの木も枯(か)れていました。



写真CT: 「国指定天然記念物 ヘゴ自生北限地帯 ←この先、御陵方面に石段登る」と書いてあります。



写真CU: 宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井にある鵜戸神宮の赤い建物です。



写真CV: 「国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯 日南市 大字宮浦 3232番地 ロ-1 昭和43年6月14日指定」の説明板。
国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯
 ヘゴは、湿度の高い林の中を好む木生シダである。 高さは4 m にも達するものがあり、2 m もある葉が八方に広がる。
 鵜戸神宮北側の杉が混在する自然林のくぼ地にある「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」は、その生態が珍しく、国の指定天然記念物となった。 当時は、樹齢20年から50年のものが20本もあったが、昭和51年の寒波で枯れてしまった。 しかし、その後の調査で、高さ10 cm から50 cm のものが約30本自生していることが確かめられている。
 ここ数年間では、鵜戸地区以外の日南市内でも、星倉や吉野方などでその存在が確認されている。特に後者の吉野方では、高さ 2 m 程のものを含め約30本近いヘゴが自生していることが、平成11年度の調査で判明した。 同地は、昔棚田(たなだ)として利用されていた谷筋(たにすじ)に広がる水田跡地で、湿度の高い環境である。 現在は、杉林を形成している。
「管理者: 日南市教育委員会 社会教育課」
と書かれています。



写真CW: 「国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯 日南市 大字宮浦 3232番地 ロ-1 昭和43年6月14日指定」の説明板。
国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯
 ヘゴは、湿度の高い林の中を好む木生シダである。 高さは4 m にも達するものがあり、2 m もある葉が八方に広がる。
 鵜戸神宮北側の杉が混在する自然林のくぼ地にある「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」は、その生態が珍しく、国の指定天然記念物となった。 当時は、樹齢20年から50年のものが20本もあったが、昭和51年の寒波で枯れてしまった。 しかし、その後の調査で、高さ10 cm から50 cm のものが約30本自生していることが確かめられている。
 ここ数年間では、鵜戸地区以外の日南市内でも、星倉や吉野方などでその存在が確認されている。特に後者の吉野方では、高さ 2 m 程のものを含め約30本近いヘゴが自生していることが、平成11年度の調査で判明した。 同地は、昔棚田(たなだ)として利用されていた谷筋(たにすじ)に広がる水田跡地で、湿度の高い環境である。 現在は、杉林を形成している。
「管理者: 日南市教育委員会 社会教育課」
と書かれています。



写真CX: 「国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯 日南市 大字宮浦 3232番地 ロ-1 昭和43年6月14日指定」の説明板。
国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯
 ヘゴは、湿度の高い林の中を好む木生シダである。 高さは4 m にも達するものがあり、2 m もある葉が八方に広がる。
 鵜戸神宮北側の杉が混在する自然林のくぼ地にある「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」は、その生態が珍しく、国の指定天然記念物となった。 当時は、樹齢20年から50年のものが20本もあったが、昭和51年の寒波で枯れてしまった。 しかし、その後の調査で、高さ10 cm から50 cm のものが約30本自生していることが確かめられている。
 ここ数年間では、鵜戸地区以外の日南市内でも、星倉や吉野方などでその存在が確認されている。特に後者の吉野方では、高さ 2 m 程のものを含め約30本近いヘゴが自生していることが、平成11年度の調査で判明した。 同地は、昔棚田(たなだ)として利用されていた谷筋(たにすじ)に広がる水田跡地で、湿度の高い環境である。 現在は、杉林を形成している。
「管理者: 日南市教育委員会 社会教育課」
と書かれています。



写真CY: 「国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯 日南市 大字宮浦 3232番地 ロ-1 昭和43年6月14日指定」の説明板。
国指定天然記念物 鵜戸ヘゴ自生北限地帯
 ヘゴは、湿度の高い林の中を好む木生シダである。 高さは4 m にも達するものがあり、2 m もある葉が八方に広がる。
 鵜戸神宮北側の杉が混在する自然林のくぼ地にある「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」は、その生態が珍しく、国の指定天然記念物となった。 当時は、樹齢20年から50年のものが20本もあったが、昭和51年の寒波で枯れてしまった。 しかし、その後の調査で、高さ10 cm から50 cm のものが約30本自生していることが確かめられている。
 ここ数年間では、鵜戸地区以外の日南市内でも、星倉や吉野方などでその存在が確認されている。特に後者の吉野方では、高さ 2 m 程のものを含め約30本近いヘゴが自生していることが、平成11年度の調査で判明した。 同地は、昔棚田(たなだ)として利用されていた谷筋(たにすじ)に広がる水田跡地で、湿度の高い環境である。 現在は、杉林を形成している。
「管理者: 日南市教育委員会 社会教育課」
と書かれています。



写真CZ: 「吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)」の説明板。
鵜戸陵墓参考地
 本宮御主祭神 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を葬(おさ)め奉(たてまつ)ると云(い)う。
 此処(ここ)より仰(あお)ぐ神域の最高地 速日峰(はやひのみね)の頂(いただき)に在(あ)り。 ここより約350 m 自然林の中 青苔(こけ)を踏(ふ)んで登る。 宮内庁書陵部の管轄(かんかつ)で陵墓守部(りょうぼしゅぶ)が置かれている。
と書かれています。



写真DA: 北側から見た赤い楼門(ろうもん)です。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真DB: びろう樹、石灯籠(いしどうろう)、赤い欄干(らんかん、手すり)、日向灘(太平洋)が見えます。



写真DC: 鵜戸神宮の本殿に行く参道です。



写真DD: 参道から南東を見たもの。 海の中に岩が見えます。



写真DE: 鵜戸神宮の参道から東を見たもの。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真DF: 鵜戸神宮の参道から北東を見た景色です。



写真DG: 奥に赤い太鼓橋(たいこばし)の千鳥橋が見えます。



写真DH: 「皇族方御親拝・御参拝記録」の説明板。
昭和24年11月6日から平成11年9月19日まで13名の皇族の方が鵜戸神宮を参拝されました。



写真DI: 「県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 (宮崎県教育委員会 平成7年3月23日指定)」の説明板。
 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟(がんくつ、岩穴)内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711年、江戸時代中期)に飫肥藩5代伊東祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。 平成9年度(1997年)には屋根や内装などの修理が行われた。 このように幾度の改修を実施したものの、岩窟(がんくつ)内に見事に収(おさ)めた権現造り風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。
説明板管理者 日南市教育委員会
と書かれています。



写真DJ: 「県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 (宮崎県教育委員会 平成7年3月23日指定)」の説明板。
 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟(がんくつ、岩穴)内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711年、江戸時代中期)に飫肥藩5代伊東祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。 平成9年度(1997年)には屋根や内装などの修理が行われた。 このように幾度の改修を実施したものの、岩窟(がんくつ)内に見事に収(おさ)めた権現造り風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。
説明板管理者 日南市教育委員会
と書かれています。



写真DK: 「県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 (宮崎県教育委員会 平成7年3月23日指定)」の説明板。
 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟(がんくつ、岩穴)内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711年、江戸時代中期)に飫肥藩5代伊東祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。 平成9年度(1997年)には屋根や内装などの修理が行われた。 このように幾度の改修を実施したものの、岩窟(がんくつ)内に見事に収(おさ)めた権現造り風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。
説明板管理者 日南市教育委員会
と書かれています。



写真DL: 参道の西にこのような岩窟(がんくつ、岩穴)があります。



写真DM: 参道の西にこのような岩窟(がんくつ、岩穴)があります。



写真DN: 参道のそばの岩の模様です。 なかなか面白い模様です。



写真DO: 鵜戸神宮の赤い千鳥橋です。



写真DP: 千鳥橋から北東を見た景色です。 色んな形の岩があります。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真DQ: 千鳥橋から南東を見たもの。



写真DR: 千鳥橋から南のほうを振り返ったもの。 赤い楼門(ろうもん)も見えています。 左端に海岸通り(海岸参道)の車道が見えます。



写真DS: 千鳥橋のそばの石灯籠(いしどうろう)、岩窟、本殿の説明板などが見えます。 南西を見たもの。



写真DT: 千鳥橋から北西を見たもの。 石灯籠(いしどうろう)が並(なら)んでいます。



写真DU: 千鳥橋から北東を見た景色です。 びろう樹も茂っています。 両側に石灯籠(いしどうろう)があります。



写真DV: 千鳥橋から北東を見たもの。



写真DW: 鵜戸神宮の休憩所(きゅうけいしょ)です。 「おちちアメ湯」と柱に書いてあります。



写真DX: 「平成10年度 復旧治山事業 (林野庁国庫補助事業)」の説明板。
[1]平成10年6月9日 大雨により山腹崩壊。 [2]工事状況。 [3]完成。
工事の概況
事業費 約7500 万円、土砂 約5000 立方メートル、井桁工 高さ3~5 m 長さ35 m、植栽工 約2000本(トベラ、マサキ、ハマヒサカキ等)。
宮崎県南那珂農林振興局
と書いてあります。



写真DY: 「奉寄進 灯籠10基 飫肥藩主 伊東祐久(すけひさ)公 慶安元年8月吉日 (江戸時代初期、西暦 1648年) 九曜紋(伊東の家紋)あり。」
と書いてある看板(かんばん)があります。



写真DZ: 「奉寄進 灯籠10基 飫肥藩主 伊東祐久(すけひさ)公 慶安元年8月吉日 (江戸時代初期、西暦 1648年) 九曜紋(伊東の家紋)あり。」



写真EA: 「奉寄進 灯籠10基 飫肥藩主 伊東祐久(すけひさ)公 慶安元年8月吉日 (江戸時代初期、西暦 1648年) 九曜紋(伊東の家紋)あり。」
と書いてある看板(かんばん)があります。



写真EB: 北東を見た景色です。 ソテツの木と海岸の岩が見えます。 日向灘(太平洋)。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真EC: 東を見たもの。 びろう樹、岩も見えています。



写真ED: 南東を見た景色です。 びろう樹、海岸の岩も見えています。



写真EE: 南を振り返ったもの。 休憩所の建物が見えます。



写真EF: 右側に石灯籠(いしどうろう)が多く並(なら)んでいます。



写真EG: 「鵜戸の海 夕虹明し まさしくぞ 神降り立たす 天の浮橋 北原白秋」と書いてあります。



写真EH: 「福注連縄(ふくしめなわ)」の説明板。
ようこそ鵜戸神宮においで下さいました。
この玉橋(たまはし)より先は、古来より清浄とされ、足を洗い、身を清めてから参拝をしていました。
 この福注連縄で自分の身体を撫(な)でていただき、心身を清め、開運招福・身体健全のご神威をいただいて下さい。
福注連縄は、左の机上(きじょう)にお納め下さい。
と書いてあります。



写真EI: 「福注連縄(ふくしめなわ)」の説明板。
ようこそ鵜戸神宮においで下さいました。
この玉橋(たまはし)より先は、古来より清浄とされ、足を洗い、身を清めてから参拝をしていました。
 この福注連縄で自分の身体を撫(な)でていただき、心身を清め、開運招福・身体健全のご神威をいただいて下さい。
福注連縄は、左の机上(きじょう)にお納め下さい。
と書いてあります。



写真EJ: 「海上安全」と彫(ほ)ってある白い石があります。



写真EK: 赤い神橋(玉橋(たまはし、橋の美称です。))が見えます。 太鼓橋(たいこばし、半円形に反(そ)った橋)です。



写真EL: 「神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋(そりはし))」の説明板。
 この神橋は神仏習合時代には金剛界37尊の御名が書かれた37枚の板が配してありました。 この神橋を渡ると御本殿に至(いた)る急な石段です。 これより先は、古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
 かっては、橋の手前から履物(はきもの)を脱(ぬ)ぎ、跣(はだし)でお参りをしていました。 今はその習慣はなくなりましたが、その心は生きています。 お参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御加護を受けられると言われています。
 ようこそおいで下さいました。
この神橋と急な石段、どうぞ足元に注意して下られ、ごゆっくり御参拝下さい。
鵜戸神宮社務所
と書いてあります。



写真EM: 鵜戸神宮の赤い「神橋(玉橋)」です。 右下に本殿がある洞窟(どうくつ)が見えます。 洞窟の上はこのように木が茂っています。



写真EN: 鵜戸神宮の本殿がある洞窟(どうくつ)が見えます。 右から、岩、手水舎(ちょうずや)、鳥居(とりい)、鵜戸神宮の本殿がある洞窟、石灯籠(いしどうろう)、神橋(玉橋)が見えます。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真EO: 中央下部に「亀石(かめいし)」が見えます。 鵜戸神宮の奇岩です。 海の水がこのように手前に来る天然の水路があります。 手前はソテツの木です。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真EP: 鵜戸神宮の奇岩です。 海の水がこのように手前に来る天然の水路が何本も見えています。 右手前にソテツの木の花が3つ見えています。 左寄り手前に「亀石(亀石桝形岩(かめいしますがたいわ))」も見えます。 その右奥が「御船岩」でさらにその右は「二柱岩」です。



写真EQ: ソテツの木の花がいくつも見えています。 鵜戸神宮の海岸の奇岩も見えます。 手前は赤い手すりです。



写真ER: 神橋から見た鵜戸神宮の奇岩です。 「亀石(かめいし)」には四角の凹(くぼ)みがあり、その周(まわ)りにしめ縄(しめなわ)があります。 亀石の四角の穴に向かって運玉(うんだま)を投げて入れば良いことがあると伝えられています。 男の左手で、女は右手で運玉を投げます。
「亀石」は海宮(龍宮)から豊玉姫命が乗ってきた亀が岩になったものと言われています。



写真ES: 鵜戸神宮の手水舎(ちょうずや)です。 手水舎の中に御手洗(みたらい)も見えます。 左の赤い鳥居(とりい)の奥に巫女(みこ)さんが見えています。 後ろの大きな岩の模様が面白い。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真ET: 神橋から見た鵜戸神宮の本殿がある「岩穴」です。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。



写真EU: 下の段の広場も見えています。 鵜戸神宮の奇岩が見ものです。
左寄り手前に「亀石(亀石桝形岩(かめいしますがたいわ))」も見えます。 その右奥が「御船岩」でさらにその右は「二柱岩」です。



写真EV: 「この橋の下 断崖絶壁 ご注意願います」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真EW: 赤い神橋(玉橋)のそばの岩肌(いわはだ)です。



写真EX: 神橋からは急な階段を下ります。 岩穴の中に本殿があります。 参道には多くの石灯籠(いしどうろう)があります。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。



写真EY: 急な参道の階段から見下ろした景色です。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真EZ: 階段から見た本殿のある岩穴です。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。



写真FA: 急な階段から南東を見た景色です。 岩の上部の形が興味深い。 下の段の広場はこのようになっています。 鵜戸神宮の本殿近く。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。



写真FB: 鵜戸神宮の有名な奇岩です。 波の侵食で岩がこのような形になりました。
左寄り手前に「亀石(亀石桝形岩(かめいしますがたいわ))」も見えます。 その右奥が「御船岩」でさらにその右は「二柱岩」です。



写真FC: 参道は急な階段になっています。 中央にも金属の手すりがあります。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。



写真FD: これが鵜戸神宮の岩窟(がんくつ)の入り口です。 右に「県指定建造物 鵜戸神宮本殿、所在地 日南市大字宮浦3232」と書いてある案内棒があります。 鳥居(とりい)の奥の右手には巫女(みこ)さんたちが亀石に投げ入れる運玉やお札、お守り、おみくじなどを売っています。 岩穴の中の下には石が敷(し)いてあります。 中央奥には「お乳水」がしたたる岩があります。 左端が鵜戸神宮の本殿です。
神武天皇の父である日子波瀲武葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの6代の皇祖神を祀(まつ)っています。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真FE: 本殿がある岩穴の上の部分はこのようになっています。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真FF: 本殿がある岩穴の上の部分はこのようになっています。 最上部は木や草が茂っています。



写真FG: これが鳥居(とりい)付近から見た鵜戸神宮の本殿です。 本殿の上の岩も見て下さい。 これが岩穴の天井(てんじょう)部分です。 左の石垣(いしがき)の上に「洞内 禁煙」の看板(かんばん)があります。 本殿の中の太鼓(たいこ)も見えています。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真FH: これが岩穴の東の部分です。 右奥に「お乳水」のしたたる岩があります。 右端はお札(ふだ)、お守り、おみくじ、亀石に投げ入れる運玉などを売っている所です。 下は敷石(石畳(いしだたみ))になっています。 天井(てんじょう)の岩肌(いわはだ)に注目して下さい。
本殿のある洞窟(どうくつ)は1000平方メートル(約300坪)の広さです。



写真FI: かわいい巫女(みこ)さん達が亀石に投げ入れる素焼(すや)きの運玉を販売しています。
「運玉の由来」
 奇巌連なる中、一際(ひときわ)目を引く岩は「亀石」です。 古くより参拝者は亀石の桝形(ますがた)穴に向かってお金を投げ入れる風習がありました。 ところが昭和27年頃、落ちたお金を求め崖(がけ)を降り磯(いそ)に出る子がいて問題となりました。
 賽銭(さいせん)にかわるものをと、鵜戸小学校、鵜戸神宮ともに試行錯誤した結果、昭和29年に粘土(ねんど)を丸め「運」の文字を押し、素焼(すや)きにした「運玉」が誕生しました。 
以来、地元の子供達が作り続ける運玉は亀石に投げられ、願いと夢と喜び楽しみを与えています。



写真FJ: 鵜戸神宮のおみくじ、お札(ふだ)、お守りなどを売っている所です。 岩穴の中にあります。



写真FK: これが岩穴のなかにある「鵜戸神宮の本殿」です。 本殿の上の、岩穴の天井の模様は美術作品のように美しい。
「県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 (宮崎県教育委員会 平成7年3月23日指定)」の説明板。
 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟(がんくつ、岩穴)内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711年、江戸時代中期)に飫肥藩5代伊東祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。 平成9年度(1997年)には屋根や内装などの修理が行われた。 このように幾度の改修を実施したものの、岩窟(がんくつ)内に見事に収(おさ)めた権現造り風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。



写真FL: 本殿の上の、岩穴の天井の模様は美術作品のように美しい。



写真FM: 本殿の上の、岩穴の天井の模様は美術作品のように美しい。



写真FN: 鵜戸神宮本殿の東の部分です。
「県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 (宮崎県教育委員会 平成7年3月23日指定)」の説明板。
 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟(がんくつ、岩穴)内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711年、江戸時代中期)に飫肥藩5代伊東祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。 平成9年度(1997年)には屋根や内装などの修理が行われた。 このように幾度の改修を実施したものの、岩窟(がんくつ)内に見事に収(おさ)めた権現造り風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。



写真FO: お札、お守り売り場の北にこのような末社があります。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。



写真FP: 岩穴の北東の奥の部分です。 この天井の岩(お乳岩)から「お乳水」が滴(したた)り落ちています。
「おちち水の由来」の説明板。
御祭神ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御父君)の御母君 豊玉姫命は温かい母性愛から御祭神の為に両乳房を窟内(岩穴の中)に置いて行かれたと伝えられ、そのお乳岩から出るお乳水は、今もなお絶え間なく玉のような岩清水を滴(したた)らせて、安産・有児・身体健全その他、心願成就がかなうことで知られています。
境内 千鳥橋の近くの休憩所に「おちちアメ湯について。 おちち岩より滴(したた)り落ちるおちち水と当神宮ゆかりのおちちアメに生姜(しょうが)を加えて作りました。 古来より安産授乳 無病息災など霊験あらたかな授与品として信仰を頂(いただ)いております。」と書いてあります。



写真FQ: 「お乳水、 お乳岩から出るお水をもって飴(あめ)をつくり御祭神をお育てしたと伝えるお乳水」と書いてあります。



写真FR: 岩から水が滴(したた)り落ちて、光っています。 これがお乳水で岩がお乳岩です。 鵜戸神宮の本殿がある岩穴の中です。



写真FS: 「おちち水の由来」の説明板。
御祭神ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御父君)の御母君 豊玉姫命は温かい母性愛から御祭神の為に両乳房を窟内(岩穴の中)に置いて行かれたと伝えられ、そのお乳岩から出るお乳水は、今もなお絶え間なく玉のような岩清水を滴(したた)らせて、安産・有児・身体健全その他、心願成就がかなうことで知られています。
と書いてあります。



写真FT: 「お乳水」と書いてあります。 柄杓(ひしゃく、水を汲(く)み取るもの)、コップが置いてあります。 御幣(ごへい)、しめ縄があります。



写真FU: 「おちち水の由来」の説明板。
御祭神ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御父君)の御母君 豊玉姫命は温かい母性愛から御祭神の為に両乳房を窟内(岩穴の中)に置いて行かれたと伝えられ、そのお乳岩から出るお乳水は、今もなお絶え間なく玉のような岩清水を滴(したた)らせて、安産・有児・身体健全その他、心願成就がかなうことで知られています。
境内 千鳥橋の近くの休憩所に「おちちアメ湯について。 おちち岩より滴(したた)り落ちるおちち水と当神宮ゆかりのおちちアメに生姜(しょうが)を加えて作りました。 古来より安産授乳 無病息災など霊験あらたかな授与品として信仰を頂(いただ)いております。」と書いてあります。



写真FV: 本殿の裏(北)の所です。 岩穴の北端の部分です。 ここも通って先に進めます。 本殿を一周することが出来ます。
本殿のある洞窟(どうくつ)は1000平方メートル(約300坪)の広さです。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。



写真FW: 本殿の裏(北)の所です。 岩穴の北端の部分です。
右の立て札の上の岩の膨(ふく)らみが「お乳岩」です。
「おちち水の由来」の説明板から、
御祭神ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御父君)の御母君 豊玉姫命は(海宮に帰る時に)温かい母性愛から御祭神の為に両乳房を窟内(岩穴の中)に置いて行かれたと伝えられ、そのお乳岩から出るお乳水は、今もなお絶え間なく玉のような岩清水を滴(したた)らせて、安産・有児・身体健全その他、心願成就がかなうことで知られています。



写真FX: 本殿の裏(北)の所です。 岩穴の北端の部分です。 願い事を書いた「絵馬(えま)」や読んだ「おみくじ」がかけたり、縛(しば)り付けたりしてあります。



写真FY: 岩穴の北の部分です。 右端に「撫(な)でウサギ」があります。
中央の長い赤い建物は「九柱神社」です。



写真FZ: これが鵜戸神宮本殿の裏にある「撫でウサギ」です。 白いウサギの像があります。
「撫でウサギ(うさぎ)」
「卯(う)」と当神宮との御神縁は古く、第10代 崇神天皇の御代(紀元前97年~紀元前29年)に遡(さかのぼ)り、かねてより毎月「初の卯(う)の日」が御神縁の日として、御神威が最も高まる日と尊崇されて、鵜戸さんの「縁日祭」が連綿(れんめん、長く続いて絶えない様子(ようす)。)と今日まで奉仕されてまいりました。
卯(う)は「兎(うさぎ)」に通じ、ゆかりの「なでうさぎ」として、病気平癒(ゆ)・開運・飛翔など願い事がかなえられると言われています。



写真GA: 「撫でウサギ(うさぎ)」の説明板。
「卯(う)」と当神宮との御神縁は古く、第10代 崇神天皇の御代(紀元前97年~紀元前29年)に遡(さかのぼ)り、かねてより毎月「初の卯(う)の日」が御神縁の日として、御神威が最も高まる日と尊崇されて、鵜戸さんの「縁日祭」が連綿(れんめん、長く続いて絶えない様子(ようす)。)と今日まで奉仕されてまいりました。
卯(う)は「兎(うさぎ)」に通じ、ゆかりの「なでうさぎ」として、病気平癒(ゆ)・開運・飛翔など願い事がかなえられると言われています。
と書いてあります。



写真GB: 鵜戸神宮本殿の裏にある「撫でウサギ」の付近です。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。



写真GC: 本殿の北西にある末社です。 本殿の西隣(とな)りにある「皇子神社(おうじじんじゃ)」です。 彦五瀬命(ひこいつせのみこと、神武天皇の一番上の兄)を祀(まつ)っています。 おみくじが縛(しば)り付けてあります。



写真GD: 中央奥は本殿の西の部分です。 岩穴の入り口から明るい光が差(さ)しています。 敷石が濡(ぬ)れて光っています。
本殿のある洞窟(どうくつ)は1000平方メートル(約300坪)の広さです。



写真GE: 岩穴の西の部分です。
右の長い赤い建物は「九柱神社」です。



写真GF: 鵜戸神宮の本殿です。 太鼓(たいこ)も見えます。 西側から見たもの。



写真GG: 鵜戸神宮の本殿の中。



写真GH: 岩穴の西の部分です。 天井の岩模様がすばらしい。 右は本殿。 願い事を書いた絵馬(えま)もかけてあります。
中央は「皇子神社(おうじじんじゃ)」です。 彦五瀬命(ひこいつせのみこと、神武天皇の一番上の兄)を祀(まつ)っています。
左の長い赤い建物は「九柱神社」です。



写真GI: 「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」の看板(かんばん)。
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。
と書いてあります。



写真GJ: 宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井にある鵜戸神宮(うどじんぐう)の本殿の中。



写真GK: 鵜戸神宮の本殿。 お賽銭箱(さいせんばこ)に菊の御紋があります。



写真GL: 鵜戸神宮の本殿の上部。 菊の御紋、その他の彫(ほ)り物があります。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。



写真GM: 本殿の屋根の部分です。
「県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 (宮崎県教育委員会 平成7年3月23日指定)」の説明板。
 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟(がんくつ、岩穴)内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711年、江戸時代中期)に飫肥藩5代伊東祐実が改築したものを明治23年(1890年)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967年)に修理したものである。 平成9年度(1997年)には屋根や内装などの修理が行われた。 このように幾度の改修を実施したものの、岩窟(がんくつ)内に見事に収(おさ)めた権現造り風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。



写真GN: 鵜戸神宮の本殿の軒下(のきした)の部分です。



写真GO: 象の彫り物もあります。 菊の御紋、花、葉などの彫り物もあります。



写真GP: 鵜戸神宮の中。



写真GQ: 鵜戸神宮の中。



写真GR: 本殿前の記帳する所です。 椅子(いす)もあります。



写真GS: 鵜戸神宮の本殿。



写真GT: 岩穴の入り口上部の様子(ようす)です。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。



写真GU: 岩穴の中から見た参道の階段です。



写真GV: 岩穴の中から見た参道の階段。



写真GW: 岩穴の入り口です。 赤い鳥居も見えます。
 日向灘(太平洋)海岸の崖(がけ)の中腹にある東西 40 m、南北 30 m、高さ 10 mの岩窟(がんくつ、海食洞)の中に本殿が鎮座(ちんざ)しています。



写真GX: 「宮崎県指定 有形文化財 鵜戸神宮御本殿」と書いてあります。



写真GY: 「参拝の御作法、二拝二拍手一拝」と書いてあります。



写真GZ: 鵜戸神宮の岩穴の中にある本殿。



写真HA: 鵜戸神宮の御手洗(みたらい)です。 龍の口から水が出ています。



写真HB: 「運玉の石像と石碑(せきひ)」です。
「運玉の由来」
 奇巌連なる中、一際(ひときわ)目を引く岩は「亀石」です。 古くより参拝者は亀石の桝形(ますがた)穴に向かってお金を投げ入れる風習がありました。 ところが昭和27年頃、落ちたお金を求め崖(がけ)を降り磯(いそ)に出る子がいて問題となりました。
 賽銭(さいせん)にかわるものをと、鵜戸小学校、鵜戸神宮ともに試行錯誤した結果、昭和29年に粘土(ねんど)を丸め「運」の文字を押し、素焼(すや)きにした「運玉」が誕生しました。 
以来、地元の子供達が作り続ける運玉は亀石に投げられ、願いと夢と喜び楽しみを与えています。



写真HC: 「運玉の由来」
 奇巌連なる中、一際(ひときわ)目を引く岩は「亀石」です。 古くより参拝者は亀石の桝形(ますがた)穴に向かってお金を投げ入れる風習がありました。 ところが昭和27年頃、落ちたお金を求め崖(がけ)を降り磯(いそ)に出る子がいて問題となりました。
 賽銭(さいせん)にかわるものをと、鵜戸小学校、鵜戸神宮ともに試行錯誤した結果、昭和29年に粘土(ねんど)を丸め「運」の文字を押し、素焼(すや)きにした「運玉」が誕生しました。 
以来、地元の子供達が作り続ける運玉は亀石に投げられ、願いと夢と喜び楽しみを与えています。
と書かれています。



写真HD: 「鵜戸山見て歩きコース 亀岩(かめいわ)」と書いてあります。



写真HE: これが鵜戸神宮の「亀石 (亀岩)」です。 上部に四角の窪(くぼ)みがあり、まわりにしめ縄があります。 亀石の大きさは直径 約 8 mで、桝形(ますがた)の凹(くぼ)みは1辺 約 50 cmです。
この穴に向かって運玉を投げ入れます。 男は左手、女は右手で投げ入れます。
「亀石」は海宮(龍宮)から豊玉姫命が乗ってきた亀が岩になったものと言われています。
奇巌連なる中、一際(ひときわ)目を引く岩は「亀石」です。 古くより参拝者は亀石の桝形(ますがた)穴に向かってお金を投げ入れる風習がありました。 ところが昭和27年頃、落ちたお金を求め崖(がけ)を降り磯(いそ)に出る子がいて問題となりました。
 賽銭(さいせん)にかわるものをと、鵜戸小学校、鵜戸神宮ともに試行錯誤した結果、昭和29年に粘土(ねんど)を丸め「運」の文字を押し、素焼(すや)きにした「運玉」が誕生しました。 
以来、地元の子供達が作り続ける運玉は亀石に投げられ、願いと夢と喜び楽しみを与えています。



写真HF: 宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井にある鵜戸神宮の奇岩です。 下方に亀石が見えます。 亀石の大きさは直径 約 8 mで、桝形(ますがた)の凹(くぼ)みは1辺 約 50 cmです。
「亀石」は海宮(龍宮)から豊玉姫命が乗ってきた亀が岩になったものと言われています。



写真HG: 鵜戸神宮の奇岩です。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。



写真HH: 鵜戸神宮の面白(おもしろ)い形の岩です。 特に岩の上部の形が珍しい。
下方に亀石が見えます。 亀石の大きさは直径 約 8 mで、桝形(ますがた)の凹(くぼ)みは1辺 約 50 cmです。
手前に「亀石(亀石桝形岩(かめいしますがたいわ))」も見えます。 その奥が「御船岩」でさらにその右は「二柱岩」です。 「二柱岩」には2本の柱のような岩が上部にあります。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真HI: 南を見た景色。 左寄りは「二柱岩」です。
赤い欄干(らんかん、手すり)の下の石垣(いしがき)は「野面積み(のづらづみ)」の方法で造られています。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。
欄干(らんかん、手すり)の左端付近から岩を伝(つた)って海水のところまで降(お)りることができそうです。 「運玉の由来」の子供の話は、おそらくここから降りたのでしょう。



写真HJ: ここから運玉を亀石に向かって投げます。



写真HK: 鵜戸神宮本殿の赤い鳥居(とりい)。



写真KL: 降りて来た階段です。



写真KM: 急な階段です。 右は本殿がある岩穴です。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真KN: 岩穴と赤い鳥居。



写真KO: 上に赤い神橋も見えています。
鵜戸神宮の旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。 現在は別表神社になっています。 本殿に行くのに岩の洞窟(どうくつ)沿(ぞ)いの長い階段を下って行きます。 これは日本中の神社でも珍しい「下り宮」の形式です。
「旧 官幣大社(かんぺいたいしゃ) 鵜戸神宮」
御主祭神 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) (神武天皇の御父君)、御創建 崇神天皇の御代と云(い)う、御本殿 正徳元年(およそ300年前)の建築、御例祭日 2月1日、御縁日 第一の卯(う)の日 春秋大祭を行う、安産 育児、海上安全、諸産業の御守護神、シャンシャン馬道中唄(うた)、鵜戸山参りの神宮、剣法(念流、陰流)の発祥地[室町時代(1392年~1573年)に相馬四郎義元(慈音)が「念流」を愛州移香が「陰流」を鵜戸神宮で始めました。]、琵琶(びわ)の発祥地。



写真KP: 右上は赤い神橋です。 広場のそばにはソテツの木が多くあります。 石灯籠(いしどうろう)もあります。 右下に防火の消火栓(しょうかせん)のようなものがあります。 広場は下に敷石があります。



写真KQ: 広場には欄干(らんかん、手すり)があります。



写真KR: 「運玉」について、英語、中国語、韓国語で説明をしてあります。



写真KS: 「運玉」の説明板。
男は左手、女は右手で投げる。 御初穂料 1人 100円 5個
運玉を1個ずつ願いを込めて、下の亀石の桝形(ますがた)に投げ、玉が入ればもちろん亀の背中に当たれば願い事がかなえられると言い伝えられています。



写真KT: 鵜戸神宮の「亀石」です。
「亀石」は海宮(龍宮)から豊玉姫命が乗ってきた亀が岩になったものと言われています。
上部に四角の窪(くぼ)みがあり、まわりにしめ縄があります。 亀石の大きさは直径 約 8 mで、桝形(ますがた)の凹(くぼ)みは1辺 約 50 cmです。
この穴に向かって運玉を投げ入れます。 男は左手、女は右手で投げ入れます。 四角の窪(くぼ)みには水が溜(た)まっています。 茶色の「運玉」がその水の底に溜まっています。 亀石の上にも運玉が見えます。
奇巌連なる中、一際(ひときわ)目を引く岩は「亀石」です。 古くより参拝者は亀石の桝形(ますがた)穴に向かってお金を投げ入れる風習がありました。 ところが昭和27年頃、落ちたお金を求め崖(がけ)を降り磯(いそ)に出る子がいて問題となりました。
 賽銭(さいせん)にかわるものをと、鵜戸小学校、鵜戸神宮ともに試行錯誤した結果、昭和29年に粘土(ねんど)を丸め「運」の文字を押し、素焼(すや)きにした「運玉」が誕生しました。 
以来、地元の子供達が作り続ける運玉は亀石に投げられ、願いと夢と喜び楽しみを与えています。
 


写真KU: 鵜戸神宮の海岸にある奇岩です。 これは「二柱岩」です。 後ろは日向灘(太平洋)です。



写真KV: 鵜戸神宮の海岸にある奇岩です。 「御船岩」です。 後ろは日向灘(太平洋)。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真KW: 岩の間に天然の水路があり、波が押し寄せます。



写真KX: 「運玉 初穂料1人100円5つ。 男は左手、女は右手で、運玉を下の亀石桝形(ますがた)に投げ、運玉が桝(ます)に入ればもちろん、亀の背中に当たれば願い事がかなえられると言い伝えられています。
鵜戸神宮社務所」
と書いてあります。



写真KY: この広場(鵜戸神宮の境内(けいだい))からの眺(なが)めは見事です。 右上は赤い神橋。



写真KZ: 鵜戸神宮の境内(けいだい)です。



写真LA: 鵜戸神宮の境内(けいだい)。



写真LB: 日南市 大字宮浦にある鵜戸神宮の海岸です。
左手前に「亀石(亀石桝形岩(かめいしますがたいわ))」も見えます。 その右奥が「御船岩」でさらにその右は「二柱岩」です。 「二柱岩」には2本の柱のような岩が上部にあります。



写真LC: 石段の上から見下ろしたもの。



写真LD: 鵜戸神宮の休憩所(きゅうけいしょ)に、
「おちちアメ湯について。 おちち岩より滴(したた)り落ちるおちち水と当神宮ゆかりのおちちアメに生姜(しょうが)を加えて作りました。 古来より安産授乳 無病息災など霊験あらたかな授与品として信仰を頂(いただ)いております。」
と書いてあります。



写真LE: 「御祈願案内」の説明板。
家内安全、安産祈願、海上安全・大漁満足祈願、厄払(やくはらい)祈願、厄明(やくあけ)祈願、交通安全祈願、その他。 鵜戸神宮社務所。
と書いてあります。



写真LF: 右は鵜戸神宮の社務所です。 工事中の建物は「神門」です。



写真LG: 鵜戸神宮の境内(けいだい)です。 工事中の建物は「神門」です。



写真LH: 中央は「神犬石(いぬいし)」で、しめ縄がしてあります。
八丁坂(本参道)から、御本殿を御守護するように見えることから「神犬石」と呼ばれています。



写真LI: 南東を見た景色です。



写真LJ: 東を見たもの。



写真LK: 八丁坂の石段が見えてきました。 鵜戸神宮の門前町。



写真LL: 杖(つえ)が置いてあります。



写真LM: 八丁坂のすりへった古い石段です。



写真LN: 鵜戸神宮の参道です。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。



写真LO: 「鵜戸山 八丁坂の石段」の説明板。
 この石段は上り438段、下り377段の合計815段からなる。 平安時代より江戸時代に磯石(いそいし)にて築(きず)かる。 参拝者の往還で中央部がすりへり凹(くぼ)んでいる。 この部分はその一部である。 (日南市指定文化財)
と書いてあります。



写真LP: 「イヌビワの実」が落ちていました。



写真LQ: 新参道の鵜戸崎隧道(ずいどう、トンネル)のところまで戻(もど)ってきました。
ここは新参道です。



写真LR: 「鵜戸崎隧道 昭和40年11月竣工(しゅんこう)」と書いてあります。



写真LS: 「カンナの花」が咲いていました。



写真LT: 駐車場が見えてきました。



写真LU: 駐車場に公衆電話ボックスがあります。



写真LV: 駐車場のトイレが見えます。



写真LW: 駐車場の北東端の所です。



写真LX: 降りて来た参道を振り返ったもの。



写真LY: 「日南市へようこそ」のポスターです。 鵜戸神宮の写真が載(の)っています。



写真LZ: 鵜戸神宮の駐車場。



写真MA: 以前の写真ですが、今回工事中だった鵜戸神宮の赤い門(神門)が写っています。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。



写真MB: 「鵜戸山 八丁坂 由緒」の説明板。
 鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。
と書かれています。



写真MC: 旧参道です。 「累代別当宮司の墓地、坂の上 約200 m」と書いてある石碑(せきひ)が階段のそばにあります。



写真MD: 鵜戸神宮の旧参道(八丁坂参道)です。



写真ME: 日南市 大字宮浦にある鵜戸神宮の「旧参道(八丁坂参道)」です。 上に建物とアンテナが見えます。
中央が磨(す)り減った昔からの石段です。 さすがに旧参道という感じがします。
鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。



写真MF: 旧参道のそばに切り株(かぶ)があります。



写真MG: 旧参道の一番高い所(峠(とうげ))にある「累代別当宮司の墓地」です。 別当墓地とも呼ばれます。
「鵜戸神宮(うどじんぐう)」は宮崎県 日南市 大字宮浦 字吹毛井 3232 にあります。



写真MH: 古い墓石が多くあります(別当墓地)。 左に立ち枯れした木が見えます。 右にアンテナがあります。
鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。



写真MI: 「鵜戸山見て歩きコース 鵜戸山別当墓地」と書いた看板(かんばん)があります。
墓石が多くあります(別当墓地)。



写真MJ: 旧参道(八丁坂参道)の峠(とうげ)から東を見た景色です。 建物、立ち枯れした木、日向灘(太平洋)なども見えます。
日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真MK: これが「初代別当 光喜坊快久の墓」です。 鵜戸神宮の旧参道(八丁坂参道)にあります。
鵜戸神宮の社伝によると崇神天皇の代(紀元前97年~紀元前29年)に創建し、桓武天皇(781年~806年)の勅命(ちょくめい)により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。 中世には、「鵜戸六所権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。



写真ML: 奥に駐車場のそばの赤い鳥居(とりい)が見えてきました。 この辺(あた)りの旧参道(八丁坂参道)は下りになっています。 鵜戸漁港付近の海も見えています。
鵜戸山への参詣路(さんけいろ)として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約 800 m)の石段が続いている。 石段は吹毛井側から上がり438段、下り377段の合計815段からなる。
 石材は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹(くぼ)んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑(いんしん、盛んでにぎやかなこと)さがしのばれる。
 この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中、西暦782年から806年)吹毛井に住む尼僧が頭に磯石をかついて築いたものといわれ、以来 江戸時代に至(いた)るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳(そび)え、明治維新までは鵜戸山 仁王護国寺の十二坊があり盛観を極(きわ)めた。 現在 日南市指定の文化財である。



写真MM: 「鵜戸神宮、宮日新観光地百景」と書かれた石碑(せきひ)があります。 赤い鳥居(とりい)のそばにあります。



写真MN: 鵜戸神宮の駐車場に戻(もど)ってきました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)