鶴富屋敷、平家落人伝説、鶴富姫、那須大八 (つるとみやしき、つるとみひめ、なすのだいはち、国指定 重要文化財 那須家住宅(通称 鶴富屋敷)、鶴富姫化粧の水、鶴富姫の墓、椎葉厳島神社、しいばいつくしまじんじゃ、十根川神社、国指定 天然記念物 八村杉(那須大八の手植えの杉)、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている十根川地区(とねがわちく))  (宮崎県東臼杵郡 椎葉村 上椎葉、宮崎県東臼杵郡 椎葉村 下福良十根川)







<標高、位置>  鶴富屋敷(つるとみやしき)は
標高 約410 m
 北緯32度27分52秒  東経131度09分18秒

<標高、位置>  椎葉厳島神社(しいばいつくしまじんじゃ)は
標高 約420 m
 北緯32度27分50秒  東経131度09分17秒

<標高、位置>  八村杉がある十根川神社は
標高 約520 m
 北緯32度30分41秒  東経131度11分32秒


 宮崎県東臼杵郡 椎葉村 大字下福良 字上椎葉1818にある「国指定 重要文化財 那須家・住宅」の説明板から。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。

 「鶴富姫の墓」(鶴富屋敷の東そばにあります。)の説明板から。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
婆羅隻樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ偏に風の前に塵は同じ。
盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の
山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。
 ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。
 世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。 滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。 悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、「その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり」と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。
 鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。

 「平家の守護神 椎葉厳島神社」(鶴富屋敷の西そばにあります。)の説明板から。
旧称 厳島大明神 旧村社
創建 元久元年(1204年)
御祭神 イチキシマヒメノミコト、スサノウノミコト
御由緒
  盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 椎葉厳島神社は、旧称 厳島大明神と尊称し、寿永の昔(元暦3年、1185年)鎌倉幕府より長門国壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門追討の命を受けた那須大八郎宗久が、大峻険椎葉山中での平家残党の叛意なき姿を深く憐れみ、平家尊々の安芸の宮島、厳島神社の守護神を勧請して創祀させられました。
 山中五社(村内十一社の中の五社)の氏神様と称し明治39年4月に、勅令第96号第1条により神饌弊料を供進すべき神社に指定を受け、秋の例大祭、冬祭りの夜神楽祭等振興 交通安全、厄除け、病気平癒、女神様としても崇敬され、村を見わたす小丘に鎮座している。
 現在の社殿は、昭和30年に改築造営されて以来、時代の変遷と共に老朽化したため、平成8年に氏子崇敬者により、本殿幣殿、拝殿を改修し、社務所、手水舎、裏鳥居を新築、平成10年に参道を改修した。
 境内地には、鶴富姫が使ったと言われる「鶴富姫化粧の水」や、那須大八郎宗久の「陣屋敷跡」等の伝説地がある。
例祭 旧暦11月15日(現在、新暦11月第1日曜日)
夜神楽 12月第2土曜日〜日曜日(国指定重要無形民俗文化財)
御宝物 平安期の御神体銅鏡他16面、御神像7体等。

 宮崎県東臼杵郡 椎葉村 下福良 十根川の十根川神社にある「八村杉のご案内」の看板(かんばん)から。
名称: 国指定天然記念物 八村杉、指定年月日: 昭和10年6月7日、形状: 樹齢 約800年、樹高 54 m、根回り 19 m。 伝説によれば那須大八宗久の手植えの杉と伝えられている。


写真A: 鶴富屋敷(つるとみやしき)は平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村(しいばそん) 大字下福吉 字上椎葉1818にあります。 左から2番目の建物の左奥に鶴富屋敷の屋根が見えています。 後ろは山になっています。 左から2番目の建物は旅館です。 2005年(平成17年)9月5日の朝、台風による土石流で壊れました。 高千穂鉄道の鉄橋などが流され、高千穂鉄道廃止の原因になった台風の時です。



写真B: 鶴富屋敷の裏山は、2005年(平成17年)9月5日の朝、台風による土石流が発生しました。 3人が亡くなりました。 高千穂鉄道の鉄橋などが流され、高千穂鉄道廃止の原因になった台風の時です。 土砂を防ぐ丈夫な柵(さく)が造られていました。 右端に鶴富屋敷の屋根が見えます。 鶴富屋敷にはこの道を歩いて進みます。



写真C: 2005年(平成17年)9月5日の朝に、台風による土石流で壊れた旅館。 鶴富屋敷のそばにあります。 高千穂鉄道の鉄橋などが流され、高千穂鉄道廃止の原因になった台風の時です。



写真D: 鶴富屋敷の階段と石垣(いしがき)。 鶴富屋敷の屋根が見えます。 民謡「ひえつき節」に歌われている山椒(さんしょ)の木は、この階段を登り切った右手にありましたが、現在はもう無くなっています。 石垣が歴史を感じさせます。



写真E: 「国指定 重要文化財 那須家・住宅」の説明板。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より。ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。
昭和56年9月29日
椎葉村教育委員会
と書かれています。



写真F: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村(しいばむら)の上椎葉にある那須家住宅(通称 鶴富屋敷)。 南側には縁側(えんがわ)があります。 障子(しょうじ)も見えます。
鶴鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。



写真G: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村(しいばむら)の上椎葉にある那須家住宅(通称 鶴富屋敷)。



写真H: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村(しいばむら)の上椎葉にある那須家住宅(通称 鶴富屋敷)。
鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。



写真I: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村(しいばむら)の上椎葉にある那須家住宅(通称 鶴富屋敷)。 庭には砂利(じゃり)が敷きつめてあります。 縁側に登るための細長い台も見えます。 左端には土石流止めの柵(さく)も見えています。



写真J: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村(しいばむら)の上椎葉にある那須家住宅(通称 鶴富屋敷)。
鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。



写真K: 宮崎県 椎葉村(しいばむら)の上椎葉にある那須家住宅(通称 鶴富屋敷)。 軒下(のきした)に竿(さお)もつり下げてあります。 縁側の端に雨戸が多く置いてあります。 右に入り口の戸も見えています。
鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。



写真L: 右は観光案内所でお土産(みやげ)、地元でとれた物などを売っています。 左奥は料理を食べさせてくれる店です。 左は鶴富屋敷です。



写真M: 鶴富屋敷の東隣にある料理を食べさせてくれる店。



写真N: 鶴富屋敷の東隣にある料理を食べさせてくれる店。 このような如何(いか)にも椎葉村らしい料理です。 色々なものが入った豆腐(とうふ)などとても美味しいと思いました。



写真O: 鶴富屋敷の東の部分はこのようになっています。



写真P: 鶴富屋敷の東の部分。 鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。



写真Q: 鶴富屋敷の東の部分。 竹の塀(へい)も見えています。



写真R: 鶴富屋敷の東の部分。 竹の塀(へい)も見えています。 剣道の面なども見えています。



写真S: 鶴富屋敷は南に細長い庭があります。 鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。
「鶴富姫の墓」の説明板から。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
婆羅隻樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ偏に風の前に塵は同じ。
盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の
山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。
 ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。
 世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。 滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。 悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、「その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり」と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。
 鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。
椎葉村観光協会
と書かれています。



写真T: 「国指定 重要文化財 那須家・住宅」。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。



写真U: 鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。



写真V: 右の屋根の下側に茅葺(かやぶ)きの茅(かや)が見えています。
「国指定 重要文化財 那須家・住宅」。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。



写真W: 鶴富屋敷の敷地内にある「観光案内所」。 お土産品(おみやげひん)、地元でとれた物などが販売されています。



写真X: 鶴富屋敷の敷地内にある「観光案内所」。 お土産品(おみやげひん)、地元でとれた物などが販売されています。 「宮崎奥日向 椎葉、ひえつき節 庭の山椒(さんしょう)の木 鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときや 出ておじゃれ、鶴富屋敷、上椎葉ダム」と書いてある状差し(ハガキ、手紙入れ)が売っていました。



写真Y: 鶴富屋敷の敷地内にある「観光案内所」の中。



写真Z: 平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村にある「鶴富屋敷」。



写真AA: 平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村にある「鶴富屋敷」。 大きな竈(かまど)、奥(北側)には作りつけの戸棚(とだな)、篭(かご)、ショケ、広い台なども見えています。



写真AB: 鶴富屋敷にある民謡「ひえつき節」の歌碑(かひ)。
庭の山椒(さんしょう)の木 鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときや 出ておじゃれ。



写真AC: 鶴富屋敷を西から見たもの。 そばに畑もあります。
鶴富屋敷は国の重要文化財に指定されたときは茅葺(かやぶ)きでしたが、昭和38年から火事防止のため銅板葺(ふ)きになりました。 この建物は約300年前(江戸時代後期)のものと考えられています。



写真AD: 椎葉村の鶴富屋敷の庭と畑。



写真AE: 鶴富屋敷にサルスベリ(百日紅)の花が咲いていました。



写真AF: 鶴富屋敷の西側の様子。 左に「鶴富姫 化粧の水」の石碑(せきひ)が見えます。 左右に土石流止めからの水を流すパイプが見えています。



写真AG: 土石流止めの柵(さく)と先の丘の上に椎葉厳島神社(しいばいつくしまじんじゃ)が木立(こだち)の間に見えています。



写真AH: 鶴富屋敷の敷地の端には土石流止めの柵(さく)が造られていました。 右のハシゴの上には祠(ほこら)が見えます。



写真AI: 鶴富屋敷の西側には畑もあります。



写真AJ: 「国指定 重要文化財 那須家・住宅」。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。
「鶴富姫の墓」の説明板から。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
婆羅隻樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ偏に風の前に塵は同じ。
盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の
山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。
 ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。
 世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。 滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。 悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、「その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり」と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。
 鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。
椎葉村観光協会
と書かれています。



写真AK: 「文化財愛護 重要文化財 那須家住宅 昭和31年6月28日指定 (鶴富屋敷) 火気厳禁」と書いた看板(かんばん)があります。



写真AL: 鶴富屋敷には「大きな杵(きね)と臼(うす)」があります。 後ろは料理を食べさせてくれる店です。



写真AM: 鶴富屋敷から東に坂道を下ると、「鶴富姫の墓」があります。 そばに大きな杉の木があります。 坂道は石畳(いしだたみ)になっています。



写真AN: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村にある「鶴富姫の墓」。 看板(かんばん)のすぐ左にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)あるいは五輪塔が鶴富姫の墓です。 「宝篋印塔」は宝篋印陀羅尼を納める塔で後に、供養塔、墓碑塔として建てられた。 鎌倉時代以後、一定の形式が成立した。 石造が多い。 「五輪塔」は5つの部分からなる塔で平安中期頃から供養塔、墓塔として用いた。 石造が多い。



写真AO: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村にある「鶴富姫の墓」。 看板(かんばん)のすぐ左にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)あるいは五輪塔が鶴富姫の墓です。 「宝篋印塔」は宝篋印陀羅尼を納める塔で後に、供養塔、墓碑塔として建てられた。 鎌倉時代以後、一定の形式が成立した。 石造が多い。 「五輪塔」は5つの部分からなる塔で平安中期頃から供養塔、墓塔として用いた。 石造が多い。



写真AP: 「鶴富姫の墓」の説明板。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
婆羅隻樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ偏に風の前に塵は同じ。
盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の
山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。
 ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。
 世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。 滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。 悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、「その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり」と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。
 鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。
椎葉村観光協会
と書かれています。



写真AQ: 鶴富姫の墓。 左に那須 家の墓も見えています。
「鶴富姫の墓」の説明板。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
婆羅隻樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ偏に風の前に塵は同じ。
盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の
山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。
 ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。
 世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。 滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。 悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、「その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり」と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。
 鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。
椎葉村観光協会
と書かれています。



写真AR: 鶴富屋敷のそばにある「鶴富姫の墓」付近から見た椎葉村の町並(まちな)みです。 お休み処、豆腐屋、遠くの人家も見えています。 右の山には雲が降りています。



写真AS: 「国指定 重要文化財 那須家・住宅」。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。
これは鶴富屋敷の部屋。 神棚(かみだな)、赤いホオズキ、しめ縄、壁の写真、長い蛍光灯、作りつけの戸棚なども見えています。



写真AT: 「国指定 重要文化財 那須家・住宅」。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。
これは鶴富屋敷の部屋。 囲炉裏(いろり)、自在鉤(じざいかぎ)があります。 造りつけの戸棚、長い蛍光灯もあります。



写真AU: 平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村にある鶴富屋敷の部屋。 囲炉裏(いろり)、自在鉤(じざいかぎ)があります。 造りつけの棚(たな)、長い蛍光灯も見えます。



写真AV: 鶴富屋敷の部屋。 台所で、竈(かまど)もあります。



写真AW: 平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村にある鶴富屋敷の部屋。



写真AX: 鶴富屋敷の屋根裏。



写真AY: 「国指定 重要文化財 那須家・住宅」。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。
これは鶴富屋敷の屋根裏です。



写真AZ: 椎葉村 上椎葉の鶴富屋敷の部屋。



写真BA: 「国指定 重要文化財 那須家・住宅」。
指定年月日 昭和31年6月28日
構造 桁行 25.09メートル(88尺8寸)
染間 8.64 メートル(28尺5寸)
形式 一重寄棟造茅葺東西庇附属
 椎葉村の民家は、すべて同じ形式の民家として知られているが、この家はその代表的なものである。 間取りは、部屋を一列に横に並べた形式で向かって左より、ござ、でい、つばね、うちねの四室が並び、その右に、どじ(土間)がある。 各室は前面をしたはら(広縁)、内部をおはらといい、背面には、すべて、戸棚を造りつけにしている。
 民家としては規模が大きく、しかも太い材料を用いた本格的な構造を持ち、民家特有の美しさをよく表している。 小屋組はさすを組み合わせ、屋根は寄棟造りで茅葺(かやぶき)であったが、昭和38年に銅板に葺(ふ)き替えられた。 また通称を鶴富屋敷といい、平家落人(おちうど)の伝説とともに古い歴史をもつと伝えられる。 日本の民家としては極めて重要なものとして、重要文化財に指定された。
これは椎葉村にある鶴富屋敷の部屋。



写真BB: 「鶴富姫の墓」の説明板から。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
婆羅隻樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人も遂には滅びぬ偏に風の前に塵は同じ。
盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の
山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。
 ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。
 世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。 滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。 悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、「その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり」と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。
 鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。
椎葉村観光協会
と書かれています。
これは宮崎県 椎葉村にある鶴富屋敷の部屋。



写真BC: 鶴富屋敷の廊下(ろうか)。 左は部屋で、右は庭です。



写真BD: 鶴富屋敷のそばにある土石流止めの柵(さく)。



写真BE: 鶴富屋敷を西から見たもの。 手前に畑もあります。



写真BF: 椎葉 厳島神社(いつくしまじんじゃ)付近から見た鶴富屋敷とその周辺の様子。



写真BG: 椎葉 厳島神社(いつくしまじんじゃ)付近から見た鶴富屋敷とその周辺の様子。 右端に台風の土石流で壊(こわ)れた旅館も見えます。 土石流は2005年(平成17年)9月5日の朝に発生しました。 高千穂鉄道の鉄橋などが流され、高千穂鉄道廃止の原因になった台風の時です。



写真BH: 椎葉 厳島神社(いつくしまじんじゃ)付近から見た鶴富屋敷の周辺の様子。 中央に台風の土石流で壊(こわ)れた旅館も見えます。 土石流は2005年(平成17年)9月5日の朝に発生しました。 高千穂鉄道の鉄橋などが流され、高千穂鉄道廃止の原因になった台風の時です。



写真BI: 椎葉 厳島神社(いつくしまじんじゃ)の階段と赤い鳥居(とりい)。



写真BJ: 「平家の守護神 椎葉厳島神社」の説明板。
旧称 厳島大明神 旧村社
創建 元久元年(1204年)
御祭神 イチキシマヒメノミコト、スサノウノミコト
御由緒
  盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 椎葉厳島神社は、旧称 厳島大明神と尊称し、寿永の昔(元暦3年、1185年)鎌倉幕府より長門国壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門追討の命を受けた那須大八郎宗久が、大峻険椎葉山中での平家残党の叛意なき姿を深く憐れみ、平家尊々の安芸の宮島、厳島神社の守護神を勧請して創祀させられました。
 山中五社(村内十一社の中の五社)の氏神様と称し明治39年4月に、勅令第96号第1条により神饌弊料を供進すべき神社に指定を受け、秋の例大祭、冬祭りの夜神楽祭等振興 交通安全、厄除け、病気平癒、女神様としても崇敬され、村を見わたす小丘に鎮座している。
 現在の社殿は、昭和30年に改築造営されて以来、時代の変遷と共に老朽化したため、平成8年に氏子崇敬者により、本殿幣殿、拝殿を改修し、社務所、手水舎、裏鳥居を新築、平成10年に参道を改修した。
 境内地には、鶴富姫が使ったと言われる「鶴富姫化粧の水」や、那須大八郎宗久の「陣屋敷跡」等の伝説地がある。
例祭 旧暦11月15日(現在、新暦11月第1日曜日)
夜神楽 12月第2土曜日〜日曜日(国指定重要無形民俗文化財)
御宝物 平安期の御神体銅鏡他16面、御神像7体等
と書かれています。



写真BK: 平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村にある椎葉厳島神社。 鶴富屋敷の西側の丘にあります。
「厳島神社」と書いてある額(がく)があります。 鈴、しめ縄、御幣(ごへい)、お賽銭箱(さいせんばこ)、狛犬(こまいぬ)なども見えます。



写真BL: 平家落人伝説を持つ椎葉村にある椎葉厳島神社。 お神籤(みくじ)、御札(おふだ)、絵馬(えま)等を売っています。 石灯籠(いしどうろう)の奥に絵馬と読んだお神籤を掛けたり結びつけたりするところが見えています。



写真BM: 椎葉村にある椎葉厳島神社の境内(けいだい)。



写真BN: 「平家の守護神 椎葉厳島神社」の説明板から。
旧称 厳島大明神 旧村社
創建 元久元年(1204年)
御祭神 イチキシマヒメノミコト、スサノウノミコト
御由緒
  盛衰の理は西海の恨みと尽きず、流れ流れて日向路の山深く流浪の道を辿り朝に炊煙を恐れ夕べに今日の生命を感謝し、往く雲渡る風に錦城の夢を懐かしみし落人の青史かなしや。
 椎葉厳島神社は、旧称 厳島大明神と尊称し、寿永の昔(元暦3年、1185年)鎌倉幕府より長門国壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門追討の命を受けた那須大八郎宗久が、大峻険椎葉山中での平家残党の叛意なき姿を深く憐れみ、平家尊々の安芸の宮島、厳島神社の守護神を勧請して創祀させられました。
 山中五社(村内十一社の中の五社)の氏神様と称し明治39年4月に、勅令第96号第1条により神饌弊料を供進すべき神社に指定を受け、秋の例大祭、冬祭りの夜神楽祭等振興 交通安全、厄除け、病気平癒、女神様としても崇敬され、村を見わたす小丘に鎮座している。
 現在の社殿は、昭和30年に改築造営されて以来、時代の変遷と共に老朽化したため、平成8年に氏子崇敬者により、本殿幣殿、拝殿を改修し、社務所、手水舎、裏鳥居を新築、平成10年に参道を改修した。
 境内地には、鶴富姫が使ったと言われる「鶴富姫化粧の水」や、那須大八郎宗久の「陣屋敷跡」等の伝説地がある。
例祭 旧暦11月15日(現在、新暦11月第1日曜日)
夜神楽 12月第2土曜日〜日曜日(国指定重要無形民俗文化財)
御宝物 平安期の御神体銅鏡他16面、御神像7体等



写真BO: 平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村にある椎葉厳島神社。



写真BP: 椎葉厳島神社(しいばいつくしまじんじゃ)の手水舎(ちょうずや)。 左に石碑(せきひ)も見えています。



写真BQ: 石の柵(さく)は平成14年10月に完成しました。



写真BR: 石の柵(さく)は平成14年10月に完成しました。 階段も見えています。 下の建物は「鶴富屋敷博物館」。



写真BS: 「鶴富屋敷博物館」。 厳島神社の階段を下ったところにあります。



写真BT: 階段の上は厳島神社。 左はその説明板。 石碑(せきひ)も見えます。 道しるべには「→鶴富屋敷、博物館別館、化粧の水。 ←椎葉厳島神社、上椎葉ダム、女神公園」と書いてあります。



写真BU: 階段があります。



写真BV: 階段があります。



写真BW: 「鶴富屋敷博物館」。 厳島神社の階段を下ったところにあります。



写真BX: 厳島神社の方から鶴富屋敷を見たもの。 鶴富屋敷の北側は山になっています。



写真BY: 厳島神社の方から鶴富屋敷を見たもの。 鶴富屋敷の北側は山になっています。



写真BZ: 「鶴富姫化粧の水」とその石碑(せきひ)。
水がたまっていて柄杓(ひしゃく)も置いてあります。 石碑の右下に水のパイプがあります。 石碑は昭和45年10月1日に上椎葉地区老人会が建立しました。



写真CA: 「鶴富姫化粧の水」とその石碑(せきひ)。
水がたまっていて柄杓(ひしゃく)も置いてあります。 石碑の右下に水のパイプがあります。 石碑は昭和45年10月1日に上椎葉地区老人会が建立しました。



写真CB: 鶴富姫化粧の水はこのように小さな沢のようになったところにあります。



写真CC: 「鶴富姫化粧の水」のそばにある「鶴富姫化粧水の由来」の石碑(せきひ)。 下に土瓶(どびん)が置いてあります。
 寿永の昔「約八百年前」源平合戦に於いて壇ノ浦に敗れた平家の残党は椎葉の奥山にも落ちのびた。 源氏の追討は厳しく椎葉討伐の任に就いたのが那須の与市(与一とも書く))の弟大八郎宗久であった。 椎葉に赴(おもむ)いた大八郎は十根川に本陣を構え上椎葉付近の掃討作戦の際に水を欲し此処に居合わせた鶴富姫がこの水を汲んで供じたり。 平家の上籠鶴富姫は絶世の美女であり又この水で化粧をした奥深き椎葉の山中に香りと輝きをもつ一輪の花を男盛りの大八郎がこれを見のがすはずはなく又追討軍の武将たる凜々しい若武者姿の大八郎に姫も心を動かし二人の間に熱烈火の様な恋が芽生えた。 本陣をここに移しこの水を縁の水 化粧の水として恋をしたと云う伝説を永久に伝えんが為之建
上椎葉地区老人会 協力者 鈴木孝
昭和45年10月1日
と書かれています。



写真CD: 「鶴富姫化粧水の由来」の石碑(せきひ)。
 寿永の昔「約八百年前」源平合戦に於いて壇ノ浦に敗れた平家の残党は椎葉の奥山にも落ちのびた。 源氏の追討は厳しく椎葉討伐の任に就いたのが那須の与市(与一とも書く))の弟大八郎宗久であった。 椎葉に赴(おもむ)いた大八郎は十根川に本陣を構え上椎葉付近の掃討作戦の際に水を欲し此処に居合わせた鶴富姫がこの水を汲んで供じたり。 平家の上籠鶴富姫は絶世の美女であり又この水で化粧をした奥深き椎葉の山中に香りと輝きをもつ一輪の花を男盛りの大八郎がこれを見のがすはずはなく又追討軍の武将たる凜々しい若武者姿の大八郎に姫も心を動かし二人の間に熱烈火の様な恋が芽生えた。 本陣をここに移しこの水を縁の水 化粧の水として恋をしたと云う伝説を永久に伝えんが為之建
上椎葉地区老人会 協力者 鈴木孝
昭和45年10月1日
と書かれています。



写真CE: 「鶴富姫化粧の水」とその2つの石碑(せきひ)。



写真CF: 「鶴富姫化粧の水」とその2つの石碑(せきひ)。 石で足場を良くしてあります。



写真CG: 鶴富屋敷の西側の「土石流跡」。 土石流は2005年(平成17年)9月5日の朝に発生しました。 高千穂鉄道の鉄橋などが流され、高千穂鉄道廃止の原因になった台風の時です。



写真CH: 「鶴富屋敷 専用駐車場、お客様以外駐車禁止」の看板(かんばん)も見えています。



写真CI: 鶴富屋敷の駐車場。 右に百日紅(さるすべり)の花、鶴富屋敷の屋根も見えます。



写真CJ: 鶴富屋敷とその付近の景色。 商店、旅館などがある車道も見えています。



写真CK: 土石流で壊(こわ)れた旅館もあります。 土石流は2005年(平成17年)9月5日の朝に発生しました。 高千穂鉄道の鉄橋などが流され、高千穂鉄道廃止の原因になった台風の時です。



写真CL: 右は厳島神社に上がる道です。



写真CM: 厳島神社に上がる道。 右は鶴富姫化粧の水。 右下の黒いパイプは土石流止めの柵(さく)から引いてあります。



写真CN: 鶴富姫化粧の水。 下の黒いパイプは土石流止めの柵(さく)から引いてあります。



写真CO: 黒いパイプは土石流止めの柵(さく)から引いてあります。



写真CP: 土石流で壊れた旅館。 鶴富屋敷は左方にあります。



写真CQ: 先のT字路は「左は日向、五ヶ瀬で右は西米良」に行きます。 この建物は山中食堂です。



写真CR: 「椎葉村 上椎葉」と書いてあるT字路。 国道265号線。 ガードレールの所の看板には「右に行くと小林、西都方面、国道265号線」と書いてあります。
右の看板には「鶴富屋敷、民俗芸能博物館」と書いてあります。



写真CS: 「椎葉村 上椎葉」と書いてあるT字路。



写真CT: 左は山中食堂。 その右奥に小さく鶴富屋敷の屋根が見えます。 右下に飲料水の自動販売機も見えています。



写真CU: 国道265号線と椎葉村の家、山など。



写真CV: 国道265号線と椎葉村の建物、山など。



写真CW: 国道265号線と椎葉村の山。



写真CX: 「先は西米良、人吉。 右は椎葉市街、鶴富屋敷」と書いてある道路標識。 国道265号線。



写真CY: 左上は「民俗芸能博物館」。 石垣の上にあります。



写真CZ: 左は山中食堂。



写真DA: 土石流で壊れた旅館。 左上は鶴富屋敷の屋根。



写真DB: 「国指定天然記念物 大久保のヒノキ 1.5 km、国指定天然記念物 八村杉 すぐそこ」と書いてある看板(かんばん)。



写真DC: 椎葉村にある「八村杉(十根のスギとも言う、やむらすぎ、樹齢 約800年、那須(なす)の大八(だいはち)の お手植えの杉)」がある十根川神社。 右の高い杉が「八村杉」です。 明治4年まで十根川神社は「八村大明神」と呼ばれていたので八村スギと言います。 赤い鳥居(とりい)も見えます。 宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村(しいばむら) 下福良 十根川にあります。



写真DD: 平家落人伝説を持つ宮崎県東臼杵郡(ひがしうすきぐん) 椎葉村(しいばむら) 下福良 十根川にある「十根川神社」の鎮守(ちんじゅ)の森。



写真DE: 国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている椎葉村の「十根川地区(とねがわちく)」。 名物である石垣(いしがき)も見えています。 「大杉と石垣のある山里」でよく知られています。 「国の重要伝統的建造物群保存地区」は宮崎県ではここ十根川、美々津、飫肥(おび)が選定されています。



写真DF: 赤い鳥居(とりい)に「十根川神社」と書いてある額(がく)が掛けてあります。 石灯籠(いしどうろう)も見えます。



写真DG: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村にある十根川神社(とねがわじんじゃ)の拝殿。 奥に見えている大きな木が「樹齢 約800年の八村杉(やむらすぎ)」です。



写真DH: 「樹齢 約800年の八村杉(やむらすぎ)」と十根川神社の拝殿と本殿(奥の方)。
名称: 国指定天然記念物 八村杉、指定年月日: 昭和10年6月7日、形状: 樹齢 約800年、樹高 54 m、根回り 19 m。 伝説によれば那須大八宗久の手植えの杉と伝えられている。



写真DI: 「樹齢 約800年の八村杉(やむらすぎ)」と十根川神社の拝殿と本殿(奥の方)。



写真DJ: 「樹齢 約800年の八村杉(やむらすぎ)」と十根川神社の拝殿。



写真DK: 「八村杉のご案内」の看板(かんばん)。
名称: 国指定天然記念物 八村杉、指定年月日: 昭和10年6月7日、形状: 樹齢 約800年、樹高 54 m、根回り 19 m。 伝説によれば那須大八宗久の手植えの杉と伝えられている。
椎葉村教育委員会
と書かれています。



写真DL: 「みやざきの巨樹百選」の説明板。
樹木名: スギ、樹齢: 800年、幹周: 1330 cm、所有者: 神社、平成4年3月指定、宮崎県。
と書いてあります。



写真DM: 右に「天然記念物 八村杉」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。 椎葉村にある八村杉の根元の様子。



写真DN: 平家落人伝説が伝わる宮崎県 椎葉村にある「天然記念物 八村杉」の中部。



写真DO: 平家落人伝説が伝わる宮崎県 椎葉村にある「天然記念物 八村杉」の上部。



写真DP: 椎葉村にある八村杉の根元の様子。 右に「天然記念物 八村杉」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。



写真DQ: 椎葉村にある八村杉の根元の様子。 右に「天然記念物 八村杉」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。



写真DR: 平家落人伝説が伝わる宮崎県 椎葉村にある「天然記念物 八村杉」の中部。 左は十根川神社の社殿。



写真DS: 宮崎県 椎葉村にある「天然記念物 八村杉」の上部。



写真DT: 宮崎県 椎葉村にある「天然記念物 八村杉」の上部。



写真DU: 十根川神社とその境内にある「八村杉」。



写真DV: 「天然記念物 八村杉」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。 後ろは八村杉。



写真DW: 宮崎県 椎葉村にある十根川神社(とねがわじんじゃ)の拝殿。 奥に見えている大きな木が「樹齢 約800年の八村杉(やむらすぎ)」です。



写真DX: 宮崎県 椎葉村にある十根川神社(とねがわじんじゃ)の拝殿。 しめ縄(なわ)、鈴も見えています。 手前の柱の上部に象(ぞう)の彫(ほ)り物があります。



写真DY: 椎葉村の山並み(やまなみ)が十根川神社から見えています。



写真DZ: 国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている椎葉村の「十根川地区(とねがわちく)」。 名物である石垣(いしがき)も見えています。 「大杉と石垣のある山里」でよく知られています。 「国の重要伝統的建造物群保存地区」は宮崎県ではここ十根川、美々津、飫肥(おび)が選定されています。
国旗は十根川神社のものです。 十根川地区の後ろは山になっています。



写真EA: 国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている椎葉村の「十根川地区(とねがわちく)」。 名物である石垣(いしがき)も見えています。 「大杉と石垣のある山里」でよく知られています。 「国の重要伝統的建造物群保存地区」は宮崎県ではここ十根川、美々津、飫肥(おび)が選定されています。
国旗は十根川神社のものです。



写真EB: 平家落人伝説を持つ椎葉村の十根川神社の境内(けいだい)。



写真EC: 平家落人伝説を持つ宮崎県 椎葉村にある十根川神社(とねがわじんじゃ)の赤い鳥居(とりい)。 石灯籠(いしどうろう)も見えます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)