谷村計介 誕生地、倉岡城跡 (池尻城跡)、倉岡神社 (谷村計介 (西南戦争での官軍の英雄) 生誕地、谷村計介の銅像、大森公園 記念碑、力士 大淀の石碑(せきひ)、大淀川、慰霊塔、大森公園)  (宮崎県 宮崎市 大字糸原)







<標高、位置>  倉岡城跡 (池尻城跡)は
標高 約40 m
 北緯31度57分10秒  東経131度21分37秒

<標高、位置>  谷村計介 誕生地は
標高 約10 m
 北緯31度57分20秒  東経131度21分36秒

<標高、位置>  谷村計介 銅像は
標高 約30 m
 北緯31度57分11秒  東経131度21分40秒

<標高、位置>  倉岡神社は
標高 約20 m
 北緯31度57分11秒  東経131度21分36秒

<標高、位置>  慰霊塔は
標高 約10 m
 北緯31度57分29秒  東経131度22分03秒


 「谷村計介 生誕地」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場にあります。
 第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。 谷村計介 旧宅跡は昭和8年12月5日に県指定史跡となりました。 谷村計介の銅像(胸像)が倉岡城跡にあります。 また、熊本城 天守閣の入り口にも谷村計介の銅像(立像)があります。 西南戦争では、日向国からは西郷軍側に6隊約6800人が参加し、官軍側には谷村計介など約30名が参加しました。 倉岡城跡に谷村計介 銅像(胸像)が昭和53年3月26日に建立(こんりゅう)されました。 谷村計介の「胸像復元にあたって」の説明板が倉岡城跡(池尻城跡)にある「谷村計介 胸像」の石台となっています。
「谷村計介 胸像復元にあたって」の説明板から、
谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。

 「倉岡城跡 (池尻城跡)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字戸森にあります。
倉岡城(池尻城)は応永年間(1394年~1428年)に島津久豊が穆佐城(むかさじょう)の支城として築いた山城です。 そばを大淀川が迂回(うかい)して流れて、その左岸(下流に向かって左)に倉岡城(池尻城)があります。 北の旗掛松城、本丸(大城)、南の大森城の3つの曲輪(くるわ、平らな所)があります。 その後、伊東の城になりました。 永禄年間(1558年~1570年)、伊東48城の1つで野村隠岐守が城主でした。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちで島津の家臣 吉利久金が城主になりました。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの東軍であった伊東と戦いがあったが、城主だった丹生備前守は伊東を撃退しました。 江戸時代の初期(1615年)の一国一城令で廃城となりました。
 「倉岡城」の説明板から、
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 倉岡城跡にある谷村計介銅像のそばの「谷村計介 鍛錬(たんれん)の場所」の説明板から、
 谷村計介は、少年時代、よくこの(大淀川の)岩摩淵(ふち)に遊んだ。 池尻城(倉岡城)跡にかけ登って川を見、川に飛び込んでは、山の眺(なが)めを愛しつつ、自然の懐(ふところ)にいだかれて遊びの中で、心身を鍛(きた)えた場がここである。
計介は西南戦役の時、西郷軍の包囲網を突破し、見事密使の大役を果(は)たした。 その後、自(みずか)ら志願して田原坂の戦いに参加し戦死した。

 「倉岡神社の御由緒」の説明板から、
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。 その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)。


写真A: 県道352号線です。 先(東)に進むと大淀川と本城川の合流点の近くにある柳瀬橋(県道352号線)や有田橋(県道17号線)に行きます。 手前(西)に行くと宮崎自動車道の下をくぐって、国道10号線の道の駅 高岡(ビタミン館)に行きます。
右に「倉岡神社」の赤い鳥居(とりい)が見えます。 左に人が小さく見えますが、そこに「谷村計介 誕生地」の石碑(せきひ)があります。
ここは宮崎県 宮崎市 大字糸原です。



写真B: 倉岡神社の鳥居(とりい)の右に山が見えます。 そこが「倉岡城跡」です。 その山に「倉岡神社」もあります。
「倉岡城跡 (池尻城跡)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字戸森にあります。



写真C: 県道352号線です。 先(東)に進むと大淀川と本城川の合流点の近くにある柳瀬橋(県道352号線)や有田橋(県道17号線)に行きます。 車道の左側に人が小さく見えますが、そこに「谷村計介 誕生地」の石碑(せきひ)があります。



写真D: 先(西)に行くと宮崎自動車道の下をくぐって、国道10号線の道の駅 高岡(ビタミン館)に行きます。



写真E: 先(西)に行くと宮崎自動車道の下をくぐって、国道10号線の道の駅 高岡(ビタミン館)に行きます。
車道の先に宮崎自動車道の土手、県道352号線の上を通る青い橋が見えています。



写真F: 「谷村計介生誕之地」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。
第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。
谷村計介 旧宅跡は昭和8年12月5日に県指定史跡となりました。 西南戦争では、日向国からは西郷軍側に6隊約6800人が参加し、官軍側には谷村計介など約30名が参加しました。
谷村計介の銅像(胸像)が倉岡城跡にあります。 また、熊本城 天守閣の入り口にも谷村計介の銅像(立像)があります。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真G: 「谷村計介生誕之地」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。 右は県道352号線です。 東を見たもの。
「谷村計介 生誕地」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場にあります。



写真H: 「谷村計介生誕之地」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。
第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真I: 明治10年の西南戦争で官軍側 伍長(ごちょう、5人を一組にした組の長で、陸軍下士官の最下位)として有名になり、第二次世界大戦前の修身の教科書に載(の)った「谷村計介」の誕生地です。 左寄りにその石碑があります。 ここは宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場です。
谷村計介 旧宅跡は昭和8年12月5日に県指定史跡となりました。 西南戦争では、日向国からは西郷軍側に6隊約6800人が参加し、官軍側には谷村計介など約30名が参加しました。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真J: 宮崎県 宮崎市 大字糸原にある「倉岡神社」の鳥居(とりい)です。 倉岡神社は旧 郷社です。 鳥居に「丸に十の字の島津の家紋(かもん)、倉岡神社」と書いてある額(がく)があります。 左奥の山は倉岡城跡で、その右部分に倉岡神社があります。



写真K: 鳥居に「丸に十の字の島津の家紋(かもん)、倉岡神社」と書いてある額(がく)があります。 奥の山が倉岡城跡で、その右部分に倉岡神社があります。



写真L: 倉岡神社の鳥居から見た谷村計介 誕生地(右)です。 車道は県道352号線。



写真M: 鳥居のそばに「谷村計介 銅像↑」の看板(かんばん)があります。 「谷村計介 銅像」は倉岡城跡の一つの曲輪(くるわ、平らな所)にあります。 倉岡城跡に谷村計介 銅像(胸像)が昭和53年3月26日に建立(こんりゅう)されました。
第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。
谷村計介 旧宅跡は昭和8年12月5日に県指定史跡となりました。 西南戦争では、日向国からは西郷軍側に6隊約6800人が参加し、官軍側には谷村計介など約30名が参加しました。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真N: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真O: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真P: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真Q: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真R: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真S: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真T: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真U: 「倉岡城」の説明板です。
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真V: 倉岡神社の赤い鳥居(とりい)を南から見たものです。



写真W: 倉岡神社の鳥居の近くです。



写真X: 倉岡神社の鳥居の近く。



写真Y: 左は倉岡神社の参道です。



写真Z: 赤い鳥居から社殿までの参道です。



写真AA: 赤い鳥居から社殿までの参道。
奥の山が倉岡神社もある「倉岡城跡」です。



写真AB: 奥の山が倉岡神社もある「倉岡城跡」です。



写真AC: 倉岡神社に行く途中(とちゅう)です。



写真AD: 倉岡神社に行く途中(とちゅう)。



写真AE: 畑もあります。



写真AF: 参道の脇道(わきみち)です。 東を見たもの。



写真AG: 赤い鳥居の方向を振り返ったもの。 奥に小さく鳥居が見えています。



写真AH: この部分の山の中腹に「倉岡神社」があります。



写真AI: 「倉岡城跡 (池尻城跡)」の山を北側から見たものです。 モウソウダケも多く見えます。 倉岡神社の参道からです。



写真AJ: そばの畑です。 東を見たもの。



写真AK: そばの畑です。



写真AL: 来た参道を振り返ったものです。



写真AM: 参道の近くに人家もあります。



写真AN: 倉岡神社の参道に「力士 大淀」の石碑(せきひ)があります。 人が見ているところにこの石碑はあります。



写真AO: 「力士 大淀」の石碑(昭和11年4月建立)が倉岡神社の参道の西側にあります。



写真AP: 「力士 大淀 昭和11年4月建立」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)です。



写真AQ: 「力士 大淀 昭和11年4月建立」と彫(ほ)られた石碑。



写真AR: 参道の突(つ)き当りに階段があります。
左に「倉岡神社 入口」と書いてある標識棒が見えます。



写真AS: 「戸森ちびっ子広場」と書いてある看板もあります。 戸森はここの字(あざ)です。
ここは宮崎県 宮崎市 大字糸原 字戸森です。 



写真AT: ここにも東に向かう道があります。



写真AU: 「倉岡神社 入口」と書いてある標識棒。 戸森ちびっ子広場にあります。



写真AV: 宮崎県 宮崎市 大字糸原 戸森にある「倉岡神社」の階段と社殿が見えてきました。



写真AW: 倉岡神社の鎮守(ちんじゅ)の森です。 これは倉岡城(池尻城)のあった山にあります。



写真AX: 倉岡神社の二の鳥居(とりい)、拝殿、手水舎(ちょうずや)、階段、外灯などが見えます。 手前の道を右に行くと倉岡城跡(池尻城跡)にある「谷村計介 銅像」に行くことができます。



写真AY: 階段の右の道を進んで「谷村計介 銅像」、倉岡城跡(池尻城跡)に行くことができます。



写真AZ: 「谷村計介 銅像→」の看板(かんばん)があります。
倉岡城跡に谷村計介 銅像(胸像)が昭和53年3月26日に建立(こんりゅう)されました。
第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。
谷村計介の銅像(胸像)が倉岡城跡にあります。 また、熊本城 天守閣の入り口にも谷村計介の銅像(立像)があります。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真BA: 「倉岡神社の御由緒」の説明板があります。
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)
と書かれています。



写真BB: 「倉岡神社の御由緒」の説明板があります。
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)
と書かれています。



写真BC: 「倉岡神社の御由緒」の説明板があります。
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)
と書かれています。



写真BD: 「倉岡神社の御由緒」の説明板があります。
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)
と書かれています。



写真BE: 「倉岡神社の御由緒」の説明板があります。
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)
と書かれています。



写真BF: 「倉岡神社の御由緒」の説明板があります。
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)
と書かれています。



写真BG: 「倉岡神社の御由緒」の説明板があります。
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)
と書かれています。



写真BH: 来た参道を振り返ったものです。



写真BI: 倉岡神社の由緒の説明板です。



写真BJ: 広場があります。



写真BK: 倉岡神社の階段近くから北を見た景色です。



写真BL: 右の道を進むと山の上の谷村計介 銅像、倉岡城跡(池尻城跡)に行きます。



写真BM: この道を進みます。 左は倉岡神社の境内(けいだい)です。



写真BN: 道を振り返ったもの。 右は倉岡神社の境内です。



写真BO: この三叉路(さんさろ)を左に登ると倉岡神社に行きます。



写真BP: この道を登ると倉岡神社に行きます。



写真BQ: 奥に倉岡神社の赤い本殿が見えます。



写真BR: 奥に小さく「倉岡城(池尻城)跡 入口」と書いてある白い標識棒が見えています。



写真BS: ここは三叉路(さんさろ)になっています。



写真BT: 「倉岡城(池尻城)跡 入口」と書いてある白い標識棒があります。
倉岡神社の赤い一の鳥居のそばにある「倉岡城」の説明板から、
 倉岡城は代々島津 氏に属し、102の外城の1つで、山の城を大城、南の城を大森城、北の城を旗懸松城、3つを総称して上楽山 池尻城と呼んだ。 応永7年(1400年、室町前期) 島津久豊の築城によるものである。 その後 文安2年(1445年)から、およそ130年間に、伊東 氏の領有にあったが、天正5年(1577年)再び島津 氏の有に帰した。 慶長5年 関ヶ原の役では、島津 氏は大阪 方に属して戦いには利あらず敗退して帰国した。 このころ伊東 氏はたびたび島津 氏を攻めたが、倉岡郷は大淀川、本城川で伊東軍を防いだ。 当時の倉岡郷に士民わずか700有余の無勢で苦戦した。 在藩役 丹生備前守は士気を鼓舞し川の北岸に5間ないし10間、火縄をおいて夜毎これに立ち、あるいは城中の高い松の木に大旗を揚(あ)げて大勢立てこもる形に見せかけるなど、数々の工夫をこらし防衛につとめた。 慶長5年12月14日 伊東 軍が攻め来て糸原村に火を放ったが、これを退けた。 明けて慶長6年正月20日、伊東 軍が清武境で穆佐(むかさ)の兵を破り、倉岡まで追って、倉岡城 南の川を渡ろうとした。 備前守は城中から大砲をうってこれを撃退した。 しかし同11日 再び伊東  軍は川崎を将として倉岡城を攻めた。 この時、川を隔(へだ)てて1首の歌が城内に射ち込まれた。
 朝夕に芋を拾ひて倉岡の前の川原にやがて丹生殿
これに対して城中から
帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶汲めど溜まらぬ川崎の水
の歌を放(はな)ち返したといい、その後もこのような小競(こぜ)り合いが続いたが、5月頃になってようやくおさまった。 以来 薩摩藩として・・・慶長20年閏(うるう)6月13日(1615年8月7日、徳川前期) 一国一城令がでるにおよび廃城となり、215年にわたる変遷の幕を閉じた。 ちなみに倉岡城と呼ばれたの応永7年から慶長5年(1600年)までの200年間である。 その後 元和元年(1615年)までの15年間は池尻城と呼ばれていた。
祭日 例祭 11月13日、春 3月21日、夏 旧6月3日、秋 11月23日 元旦祭 1月1日
と書かれています。 (一部不明瞭なところは判読しました。)
倉岡城(池尻城)は応永年間(1394年~1428年)に島津久豊が穆佐城(むかさじょう)の支城として築いた山城です。 そばを大淀川が迂回(うかい)して流れて、その左岸(下流に向かって左)に倉岡城(池尻城)があります。 北の旗掛松城、本丸(大城)、南の大森城の3つの曲輪(くるわ、平らな所)があります。 その後、伊東の城になりました。 永禄年間(1558年~1570年)、伊東48城の1つで野村隠岐守が城主でした。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちで島津の家臣 吉利久金が城主になりました。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの東軍であった伊東と戦いがあったが、城主だった丹生備前守は伊東を撃退しました。 江戸時代の初期(1615年)の一国一城令で廃城となりました。



写真BU: ここは道ですが、夏は草丈(くさたけ)が高くて通りにくくなっていました。 冬は登りやすいと思われます。 「倉岡城(池尻城)跡 入口」と書いてある白い標識棒があります。
 「倉岡城」は伊東48城の一つに入っています。 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
倉岡城(池尻城)は応永年間(1394年~1428年)に島津久豊が穆佐城(むかさじょう)の支城として築いた山城です。 そばを大淀川が迂回(うかい)して流れて、その左岸(下流に向かって左)に倉岡城(池尻城)があります。 北の旗掛松城、本丸(大城)、南の大森城の3つの曲輪(くるわ、平らな所)があります。 その後、伊東の城になりました。 永禄年間(1558年~1570年)、伊東48城の1つで野村隠岐守が城主でした。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちで島津の家臣 吉利久金が城主になりました。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの東軍であった伊東と戦いがあったが、城主だった丹生備前守は伊東を撃退しました。 江戸時代の初期(1615年)の一国一城令で廃城となりました。



写真BV: 左が倉岡城跡(池尻城跡)の高い部分です。 右は道です。



写真BW: 倉岡城跡(池尻城跡)の高い部分です。



写真BX: 三叉路(さんさろ)からこの道を上ります。 谷村計介の銅像へはこの道を進みます。



写真BY: 舗装(ほそう)がしてあるのはここまでですが、草丈(くさたけ)は高くないので夏でも十分歩いていくことができます。



写真BZ: 左に杉の木が植えてあります。
「谷村計介 銅像」へはこの道を突(つ)き当たって、右に進みます。



写真CA: 右に「大森公園記念碑 竣工(しゅんこう)平成10年12月吉日」の石碑(せきひ)が見えてきました。
「谷村計介の銅像」に行くには、中央奥に進みます。
倉岡城(池尻城)は応永年間(1394年~1428年)に島津久豊が穆佐城(むかさじょう)の支城として築いた山城です。 そばを大淀川が迂回(うかい)して流れて、その左岸(下流に向かって左)に倉岡城(池尻城)があります。 北の旗掛松城、本丸(大城)、南の大森城の3つの曲輪(くるわ、平らな所)があります。 その後、伊東の城になりました。 永禄年間(1558年~1570年)、伊東48城の1つで野村隠岐守が城主でした。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちで島津の家臣 吉利久金が城主になりました。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの東軍であった伊東と戦いがあったが、城主だった丹生備前守は伊東を撃退しました。 江戸時代の初期(1615年)の一国一城令で廃城となりました。



写真CB: ここは倉岡城(池尻城)の曲輪(くるわ、平らな所)です。



写真CC: 奥の方も倉岡城(池尻城)の曲輪(くるわ、平らな所)になっています。



写真CD: 倉岡城跡(池尻城跡)の高いところです。



写真CE: 「大森公園記念碑 竣工(しゅんこう)平成10年12月吉日」の石碑(せきひ)です。
倉岡城(池尻城)は応永年間(1394年~1428年)に島津久豊が穆佐城(むかさじょう)の支城として築いた山城です。 そばを大淀川が迂回(うかい)して流れて、その左岸(下流に向かって左)に倉岡城(池尻城)があります。 北の旗掛松城、本丸(大城)、南の大森城の3つの曲輪(くるわ、平らな所)があります。 その後、伊東の城になりました。 永禄年間(1558年~1570年)、伊東48城の1つで野村隠岐守が城主でした。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちで島津の家臣 吉利久金が城主になりました。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの東軍であった伊東と戦いがあったが、城主だった丹生備前守は伊東を撃退しました。 江戸時代の初期(1615年)の一国一城令で廃城となりました。



写真CF: この道を先に進むと「谷村計介の銅像」がある広場(曲輪(くるわ、平らな所))に行きます。 ソテツの木が右に見えます。 ここも草丈(くさたけ)は高くないので夏でも十分歩いていくことができます。



写真CG: 右は高い所、左は崖(がけ)になっています。 この道を進んで「谷村計介 銅像」に行きます。



写真CH: 右は高い所、左は崖(がけ)になっています。



写真CI: 「谷村計介(たにむらけいすけ) (軍人)」の説明板があります。
 谷村計介は、嘉永(かえい)6年(1853年)2月13日に、倉岡村 大字糸原で、同地の郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 兄は坂元七郎祐光といった。 計介は4歳のとき谷村平兵衛の家を継(つ)いで谷村姓となった。 谷村家は父の利右衛門の親(戚)の谷村平兵衛が文政4年(1821年)に死亡して以来久しく絶家となっていたのを、利右衛門が計介(幼名 諸次郎)に継がせて復興したのであった。 明治6年には鎮西鎮台は熊本鎮台と改められ、4月には対馬の守備に派遣され、10月に帰った。 翌7年には2月に江藤新平の佐賀の乱が起こったが、計介はここで抜群の戦功をたて、6月 陸軍伍長(ごちょう)に任ぜられた。 8月には台湾征伐(せいばつ)があり、これに従って出征し、12月に博多に凱旋(がいせん)した。 翌8年には第11大隊が解散となり計介は歩兵第14連隊第26隊第2中隊付となって小倉に赴(おもむ)いた。 翌9年には神風連の変があり、翌10年には西南の役が起こり、計介は歩兵第13連隊第1大隊第2中隊付として、谷 干城(たに たけき)少将指揮のもとに熊本城にこもった。 薩軍に包囲された籠城(ろうじょう)軍は苦戦に陥(おちい)ったので、この状況を官軍に伝えて進撃を促(うなが)すべく密命を受け、2月25日夜暗に乗じ、変装して薩軍の包囲する戦線を突破すべく城を出たが、たちまち敵のしょう兵に捕(と)らえられること2度に及(およ)んだ。 しかし1度は近村の農夫と称し、1度は臆病な官軍の脱走兵に化けて逃れ、遂(つい)に戦線を突破して3月2日船隅の本営に達して野津鎮雄少将に命令を伝えて大任を果(は)たし、3月4日の田原坂の激戦に数発の敵弾を受けて壮烈な戦死を遂(と)げた。 時に年25歳。
 遺骸は木築村大字木築字宇蘇浦の官軍墓地に葬(ほうむ)られた。
 死後明治16年に計介の功をたたえた軍人亀鑑 の碑(ひ)が靖国神社(やすくにじんじゃ)境内に建てられ((後) 九段下牛ヶ淵公園に移さる)大正13年 従五位が贈(おく)られた。
宮崎( )
と書かれています。 (一部不詳なところがありました。)



写真CJ: 「谷村計介(たにむらけいすけ) (軍人)」の説明板があります。
 谷村計介は、嘉永(かえい)6年(1853年)2月13日に、倉岡村 大字糸原で、同地の郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 兄は坂元七郎祐光といった。 計介は4歳のとき谷村平兵衛の家を継(つ)いで谷村姓となった。 谷村家は父の利右衛門の親(戚)の谷村平兵衛が文政4年(1821年)に死亡して以来久しく絶家となっていたのを、利右衛門が計介(幼名 諸次郎)に継がせて復興したのであった。 明治6年には鎮西鎮台は熊本鎮台と改められ、4月には対馬の守備に派遣され、10月に帰った。 翌7年には2月に江藤新平の佐賀の乱が起こったが、計介はここで抜群の戦功をたて、6月 陸軍伍長(ごちょう)に任ぜられた。 8月には台湾征伐(せいばつ)があり、これに従って出征し、12月に博多に凱旋(がいせん)した。 翌8年には第11大隊が解散となり計介は歩兵第14連隊第26隊第2中隊付となって小倉に赴(おもむ)いた。 翌9年には神風連の変があり、翌10年には西南の役が起こり、計介は歩兵第13連隊第1大隊第2中隊付として、谷 干城(たに たけき)少将指揮のもとに熊本城にこもった。 薩軍に包囲された籠城(ろうじょう)軍は苦戦に陥(おちい)ったので、この状況を官軍に伝えて進撃を促(うなが)すべく密命を受け、2月25日夜暗に乗じ、変装して薩軍の包囲する戦線を突破すべく城を出たが、たちまち敵のしょう兵に捕(と)らえられること2度に及(およ)んだ。 しかし1度は近村の農夫と称し、1度は臆病な官軍の脱走兵に化けて逃れ、遂(つい)に戦線を突破して3月2日船隅の本営に達して野津鎮雄少将に命令を伝えて大任を果(は)たし、3月4日の田原坂の激戦に数発の敵弾を受けて壮烈な戦死を遂(と)げた。 時に年25歳。
 遺骸は木築村大字木築字宇蘇浦の官軍墓地に葬(ほうむ)られた。
 死後明治16年に計介の功をたたえた軍人亀鑑 の碑(ひ)が靖国神社(やすくにじんじゃ)境内に建てられ((後) 九段下牛ヶ淵公園に移さる)大正13年 従五位が贈(おく)られた。
宮崎( )
と書かれています。 (一部不詳なところがありました。)



写真CK: 「谷村計介(たにむらけいすけ) (軍人)」の説明板があります。
 谷村計介は、嘉永(かえい)6年(1853年)2月13日に、倉岡村 大字糸原で、同地の郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 兄は坂元七郎祐光といった。 計介は4歳のとき谷村平兵衛の家を継(つ)いで谷村姓となった。 谷村家は父の利右衛門の親(戚)の谷村平兵衛が文政4年(1821年)に死亡して以来久しく絶家となっていたのを、利右衛門が計介(幼名 諸次郎)に継がせて復興したのであった。 明治6年には鎮西鎮台は熊本鎮台と改められ、4月には対馬の守備に派遣され、10月に帰った。 翌7年には2月に江藤新平の佐賀の乱が起こったが、計介はここで抜群の戦功をたて、6月 陸軍伍長(ごちょう)に任ぜられた。 8月には台湾征伐(せいばつ)があり、これに従って出征し、12月に博多に凱旋(がいせん)した。 翌8年には第11大隊が解散となり計介は歩兵第14連隊第26隊第2中隊付となって小倉に赴(おもむ)いた。 翌9年には神風連の変があり、翌10年には西南の役が起こり、計介は歩兵第13連隊第1大隊第2中隊付として、谷 干城(たに たけき)少将指揮のもとに熊本城にこもった。 薩軍に包囲された籠城(ろうじょう)軍は苦戦に陥(おちい)ったので、この状況を官軍に伝えて進撃を促(うなが)すべく密命を受け、2月25日夜暗に乗じ、変装して薩軍の包囲する戦線を突破すべく城を出たが、たちまち敵のしょう兵に捕(と)らえられること2度に及(およ)んだ。 しかし1度は近村の農夫と称し、1度は臆病な官軍の脱走兵に化けて逃れ、遂(つい)に戦線を突破して3月2日船隅の本営に達して野津鎮雄少将に命令を伝えて大任を果(は)たし、3月4日の田原坂の激戦に数発の敵弾を受けて壮烈な戦死を遂(と)げた。 時に年25歳。
 遺骸は木築村大字木築字宇蘇浦の官軍墓地に葬(ほうむ)られた。
 死後明治16年に計介の功をたたえた軍人亀鑑 の碑(ひ)が靖国神社(やすくにじんじゃ)境内に建てられ((後) 九段下牛ヶ淵公園に移さる)大正13年 従五位が贈(おく)られた。
宮崎( )
と書かれています。 (一部不詳なところがありました。)



写真CL: 「谷村計介(たにむらけいすけ) (軍人)」の説明板があります。
周(まわ)りは草が茂(しげ)っていました。
第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。



写真CM: 来た道を振り返ったもの。



写真CN: ここからの上り坂は舗装(ほそう)されています。 ここを登ると「谷村計介の胸像(銅像)」があります。



写真CO: ここからの上り坂は舗装(ほそう)されています。 ここを登ると「谷村計介の胸像」があります。



写真CP: 近くの様子(ようす)です。 モウソウダケの竹林があります。



写真CQ: もうすぐ谷村計介の銅像(胸像)がある広場に出ます。



写真CR: この倉岡城跡(池尻城跡)の曲輪(くるわ、平らな所)に谷村計介 銅像などがあります。 右寄りの黒い大きな石は谷村計介 銅像の台石です。 倉岡城跡に谷村計介 銅像(胸像)が昭和53年3月26日に建立(こんりゅう)されました。



写真CS: 蜜蜂(みつばち)の巣箱がありました。



写真CT: 来た上り坂を振り返ったものです。 奥に小さく白い「谷村計介(たにむらけいすけ) (軍人)」の説明板が見えます。



写真CU: 「谷村計介 銅像」がある広場の入り口付近には大きな石碑(せきひ)もあります。 左の石の柱は谷村計介銅像の周(まわ)りを囲っているものです。



写真CV: これが、宮崎県 宮崎市 大字糸原の倉岡城跡(池尻城跡)にある「谷村計介 銅像(胸像)」です。
倉岡城跡に谷村計介 銅像(胸像)が昭和53年3月26日に建立(こんりゅう)されました。
第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。
谷村計介 旧宅跡は昭和8年12月5日に県指定史跡となりました。 西南戦争では、日向国からは西郷軍側に6隊約6800人が参加し、官軍側には谷村計介など約30名が参加しました。
また、熊本城 天守閣の入り口にも谷村計介の銅像(立像)があります。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真CW: 倉岡城跡にある谷村計介 胸像です。
倉岡城跡に谷村計介 銅像(胸像)が昭和53年3月26日に建立(こんりゅう)されました。



写真CX: 「谷村計介 鍛錬(たんれん)の場所」の説明板もあります。



写真CY: 左は「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」です。 これには谷村計介の唱歌が彫(ほ)ってあります。 明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌です。 右は「谷村計介 鍛錬(たんれん)の場所」の説明板。



写真CZ: 左は「谷村計介 百年祭 事業概要」の石碑(せきひ)です。 右は「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」の石碑の下部です。



写真DA: 「谷村計介 百年祭 事業概要」の石碑(せきひ)です。 左に桜の木もあります。



写真DB: 谷村計介 銅像の広場にある「谷村計介 百年祭の広い石碑(せきひ)」です。



写真DC: 谷村計介 銅像の広場にある「谷村計介 百年祭の広い石碑(せきひ)」。



写真DD: 「谷村計介 鍛錬(たんれん)の場所」の説明板です。
 谷村計介は、少年時代、よくこの岩摩淵(ふち)に遊んだ。 池尻城(倉岡城)跡にかけ登って川を見、川に飛び込んでは、山の眺(なが)めを愛しつつ、自然の懐(ふところ)にいだかれて遊びの中で、心身を鍛(きた)えた場がここである。
 計介は西南戦役の時、西郷軍の包囲網を突破し、見事密使の大役を果(は)たした。 その後、自(みずか)ら志願して田原坂の戦いに参加し戦死した。
と書かれています。



写真DE: 「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」です。 これには谷村計介の唱歌が彫(ほ)ってあります。 「谷村計介の歌」の六番まで書いてあります。 明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌です。



写真DF: 「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」の下部です。 これには谷村計介の唱歌が彫(ほ)ってあります。



写真DG: 「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」です。 これには谷村計介の唱歌が彫(ほ)ってあります。 明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌です。 「谷村計介の歌」の六番まで書いてあります。



写真DH: 「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」です。 これには谷村計介の唱歌が彫(ほ)ってあります。
明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌です。 
「谷村計介の歌」の六番まで書いてあります。



写真DI: 「伍長(ごちょう) 谷村計介 心身(鍛錬の地)」の木製の標識棒も石碑のそばにあります。



写真DJ: 「谷村計介 百年祭 事業概要」の石碑(せきひ)です。



写真DK: 「谷村計介 百年祭 事業概要」の石碑(せきひ)です。



写真DL: 「谷村計介 百年祭 事業概要」の石碑(せきひ)です。



写真DM: 中央奥からここに登って来ました。 左が谷村計介 像で、右が谷村計介 百年祭の石碑(せきひ)です。
谷村計介 旧宅跡は昭和8年12月5日に県指定史跡となりました。 西南戦争では、日向国からは西郷軍側に6隊約6800人が参加し、官軍側には谷村計介など約30名が参加しました。
谷村計介の銅像(胸像)が倉岡城跡にあります。 また、熊本城 天守閣の入り口にも谷村計介の銅像(立像)があります。



写真DN: 左から「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」、「谷村計介 鍛錬(たんれん)の場所」の説明板、谷村計介の胸像です。



写真DO: 左から「谷村計介 百年祭 事業記念碑、昭和53年3月26日建立」、「谷村計介 鍛錬(たんれん)の場所」の説明板です。



写真DP: 谷村計介の銅像の後ろの様子(ようす)です。 木が茂(しげ)っています。
谷村計介 旧宅跡は昭和8年12月5日に県指定史跡となりました。 西南戦争では、日向国からは西郷軍側に6隊約6800人が参加し、官軍側には谷村計介など約30名が参加しました。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真DQ: 谷村計介の銅像の後ろの様子(ようす)です。 高い木もあります。



写真DR: 宮崎県 宮崎市 大字糸原の倉岡城跡(池尻城跡)にある「谷村計介の銅像(胸像)」です。 詰襟(つめえり)の軍服を着ています。
倉岡城跡に谷村計介 銅像(胸像)が昭和53年3月26日に建立(こんりゅう)されました。
第二次世界大戦前の修身(道徳)の教科書に載(の)っていた、「谷村計介(たにむらけいすけ)」は宮崎県 宮崎市 大字糸原 字下馬場で生まれました。 また、明治38年に作詞、作曲された尋常小学校3年の唱歌にもなりました。 谷村計介は西南戦争などで官軍として活躍した英雄です。
また、熊本城 天守閣の入り口にも谷村計介の銅像(立像)があります。
谷村計介は嘉永(かえい)6年(1853年)に旧薩摩藩の郷士の次男として生まれました。 生後すぐに母を失い、9歳だった姉のワサがもらい乳、重湯(おもゆ)などで大切に育てました。 剣術は示現流(じげんりゅう)を修めました。 ここ倉岡は大部分が薩摩藩だったため、西南戦争の時は西郷軍に64人、官軍に2人が参加しました。 谷村計介が官軍に参加したのは、西南戦争以前から新政府の陸軍に所属していたからです。



写真DS: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真DT: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真DU: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真DV: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真DW: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真DX: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真DY: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真DZ: 「胸像復元にあたって」の説明板が胸像の石台となっています。
 谷村計介は、嘉永6年2月13日、旧 倉岡村 糸原に郷士 坂元利右衛門の2男として生まれた。 幼名を諸次郎といい、4歳のとき谷村 家の養子となった。
 明治5年、20歳のとき新政府に兵役を志願し熊本鎮台に入隊、7年の佐賀の乱や台湾出兵に功を立て、9年の神風連 鎮定にもめざましい活躍をした。
 特に、西南の役における功績は抜群であった。 明治10年2月、官軍の立てこもる熊本城は強力な薩軍に包囲され、落城の寸前にあった。 きびしい人選の末、援軍連絡の大任が当時 陸軍伍長であった彼に下った。 使命の余りの重大さに再三辞退したが、「この大任を果たす者 谷村のほかなし」と言われて、彼は意を決した。 全身に鍋炭を塗り、つづれ股引(破れたのを継ぎつづった股引き)、はんてんに縄帯をしめて百姓姿に変装し、明治10年2月25日、夜陰に及(およ)んで城を出た。 途中2回も捕らえられ、幾度か死の危険にあいながらも、忍耐と勇気と知略の限りを尽(つ)くして重囲を突破し、3月2日(出発して5日後)ついに高瀬(現 熊本県 玉名市、熊本城の北西 約 20 km)にあった官軍司令部にたどりつき、首尾よく大任を果(は)たして城の難を救った。 その後、田原坂の激戦に参加し、3月4日、銃弾を全身に受けて壮烈な戦死をとげた。 年 25歳であった。 
 彼の強い使命感は当時の国民の胸を打った。 責任感旺盛(おうせい)なる軍人の華(はな)として、教科書や唱歌(しょうか)にもとりあげられ、熊本城頭には、使命を果(は)たすべく城を脱出した際の百姓姿の銅像が建立された(第二次世界大戦前は熊本城の行幸橋(みゆきばし)に百姓姿の谷村計介像がありましたが、太平洋戦争中に金属供出で無くなりました。 現在の天守閣の入り口にある軍服姿の銅像は平成10年に熊本ライオンズクラブから、熊本市に寄贈されたものです。)。 大正13年、従五位に追贈された。 大正15年には、宮崎神宮一の鳥居にも銅像が建てられたが、先の大東亜戦争(第二次世界大戦)で徴発され(当時、金属類は国のために提出していました。)姿を消してしまった。
 今日ようやく彼の遺徳を慕(した)ってこの地を訪れるもの多く、一方 銅像の復元を望む声も高まってきた。 時あたかも百年忌(き)にあたるので、これを記念して、ここ生地 糸原にかっての銅像を復元し、彼の遺徳を後世に伝えることとした。
昭和53年3月26日 谷村計介百年祭事業協賛会 会長 湯地 光雄
と彫(ほ)られています。



写真EA: 銅像の近くにある「銅像移設発起人、谷村計介奉賛会」の石碑です。



写真EB: 「銅像移設発起人、谷村計介奉賛会」の石碑です。



写真EC: 登って来た道を戻(もど)ります。



写真ED: はじめの「谷村計介 (軍人)」の説明板が見えて来ました。



写真EE: 登って来た草の生(は)えた道を戻(もど)ります。



写真EF: 倉岡城跡(池尻城跡)の下の畑などが見えます。



写真EG: 倉岡城跡(池尻城跡)の下の畑などが見えます。



写真EH: 奥に杉の木が見えてきました。



写真EI: 道のそばの様子(ようす)です。



写真EJ: 木の間から大淀川(おおよどがわ)などが見えます。



写真EK: 木の間から大淀川(おおよどがわ)などが見えます。



写真EL: 木の間から大淀川(おおよどがわ)などが見えます。 手前に大淀川の堤防も見えます。



写真EM: 倉岡城跡(池尻城跡)にある大森公園の石碑の近くに戻って来ました。 右に杉の木があります。



写真EN: 杉林です。



写真EO: そばにある杉林です。 枝払(えだばら)いがしてあり、よく手入れされています。



写真EP: そばにある杉林です。 枝払(えだばら)いがしてあり、よく手入れされています。



写真EQ: ここから先の道は舗装(ほそう)されています。



写真ER: ここも倉岡城跡(池尻城跡)の中です。



写真ES: 新しいモウソウ竹が見えます。



写真ET: ここも倉岡城跡(池尻城跡)の中です。



写真EU: ここも倉岡城跡(池尻城跡)の中。



写真EV: 城跡の高いところを見上げたものです。



写真EW: 左に「倉岡城(池尻城)跡 入口」の白い標識棒が見えて来ました。



写真EX: 「倉岡城(池尻城)跡 入口」の白い標識棒。



写真EY: 城跡の下の道に戻(もど)りました。



写真EZ: 右は倉岡神社の境内(けいだい)です。



写真FA: 宮崎県 宮崎市 大字糸原 字戸森にある「倉岡神社」の階段です。 倉岡神社は倉岡城(池尻城)の城山にあります。



写真FB: 宮崎市 糸原 にある倉岡神社の二の鳥居(とりい)、階段、手水舎(ちょうずや)、拝殿、手すり、外灯などが見えます。



写真FC: 宮崎市糸原の倉岡神社です。 石灯籠(いしどうろう)、左に手水舎(ちょうずや)、拝殿、右に大きな木などが見えます。
「倉岡神社の御由緒」
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)。



写真FD: 宮崎市糸原の倉岡神社です。 石灯籠(いしどうろう)、右に狛犬(こまいぬ)、拝殿、右に大きな木などが見えます。



写真FE: 宮崎県 宮崎市 大字糸原にある倉岡神社の拝殿です。 しめ縄、御幣(ごへい)なども見えます。 この拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至(いた)っています。



写真FF: 御手洗(みたらい)もあります。



写真FG: 「郷社」と書いてあります。 倉岡神社は旧 郷社です。



写真FH: 拝殿の中です。 「丸に十の字の島津の家紋、倉岡神社」と書いてあります。



写真FI: 手前はお賽銭箱(さいせんばこ)です。



写真FJ: 記帳をする場所です。



写真FK: 倉岡神社の境内(けいだい)です。 石の狛犬(こまいぬ)も見えます。



写真FL: 2つのコマイヌ、二の鳥居(とりい)も見えます。



写真FM: 倉岡神社の境内(けいだい)です。 建物もあります。



写真FN: 左は倉岡神社の本殿、右は拝殿です。
「倉岡神社の御由緒」
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)。



写真FO: 倉岡神社の拝殿です。 この拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至(いた)っています。



写真FP: 裏から登ってくる道です。 右は本殿。



写真FQ: この現存の「本殿」は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われました。
この本殿の建物は西南戦争前に建てられたので、谷村計介も見たかもしれません。



写真FR: 「倉岡神社の御由緒」
 古老の伝説によれば、島津 氏の祖 忠久 公が倉岡郷 惣廟の神社(数社の祭神を1ヶ所に集める)として正治2年(1200年)に創立した。 その後、江戸時代になって天和3年5月、日薩隅 三州の太守 松平光久 公(島津)が倉岡郷 鎮守神として天長地久国家安全五穀豊穣延命長寿を祈願して再建し、寛政12年12月源朝臣三州太守豊後守斉宣 公(島津)奉再興した。
 明治4年3月鹿児島藩神社係文書奉行 橋口一郎、同じく小森新蔵殿が主張されて池尻城(倉岡城)にあった稲荷神社、花見村城ヶ峯にあった図師・若宮神社・簗瀬(やなぜ)の厳島神社・池王神社・柿迫山の熊野神社・上の防の大将軍神社を合祀(ごうし)され、社号を倉岡神社と改称しまつるようになった。その後 明治37年12月30日、城山の愛宕神社と合祀された。
 明治39年、宮崎県より郷社に指定されたが(第二次世界大戦)終戦後、社格および奉幣の制が廃止され、現存の本殿は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われ拝殿は昭和34年10月16日に改築して今日に至る。
御祭神 
うかのみたまのかみ(農業穀物の神さま)、おおなむちのみこと(大国主命)(国の安全を守る)、いざなぎのみこと(家内安全)、いざなみのみこと(家内安全)、神宮皇后(武道の神さま)、ことしろぬしのみこと(商業)、いちきしまひめのみこと(海上の交通安全)、ほむすびのみこと(火の神さま)、てんまんだいじざいてんじん(菅原道真)(学問の神さま)。



写真FS: 現存の「本殿」は明治8年3月16日起工、同年8月落成、その15日に遷座の大祭が行われました。
この本殿の建物は西南戦争前に建てられたので、谷村計介も見たかもしれません。



写真FT: 倉岡神社の境内。



写真FU: 倉岡神社の鎮守(ちんじゅ)の森の木です。



写真FV: 倉岡神社の鎮守(ちんじゅ)の森の木。



写真FW: 倉岡神社にある2つの石碑です。 奥にトイレが見えています。



写真FX: 倉岡神社の階段のそばです。 左から二の鳥居、石灯籠(いしどうろう)、手水舎(ちょうずや)、石灯籠(いしどうろう)、トイレが見えています。



写真FY: 倉岡神社の御手洗(みたらい)です。



写真FZ: 階段を下ります。



写真GA: 倉岡神社の参道です。 右は「倉岡神社の由緒」の説明板です。



写真GB: 「戸森ちびっ子広場」と書いてある看板(かんばん)が広場にあります。



写真GC: 倉岡神社の一の鳥居(とりい)が見えて来ました。



写真GD: 一の鳥居(とりい)の付近の様子です。



写真GE: 宮崎県 宮崎市 大字糸原 400番地にある特別養護老人ホーム「しらふじ」です。
この隣(とな)り「慰霊塔」などがあります。



写真GF: 駐車場です。



写真GG: 県道352号線です。 先に行くと柳瀬橋、有田橋などがあります。 この右に慰霊塔などがあります。



写真GH: 慰霊塔の近くです。 車道は県道352号線で、団地が見えます。 交通信号機もあります。



写真GI: 県道352号線から見た「慰霊塔」です。 県道352号線の南東に「慰霊塔」があります。



写真GJ: 県道352号線の南東に「慰霊塔」があります。 車道は県道352号線。



写真GK: 宮崎県 宮崎市 大字糸原 400番地にある「慰霊塔」です。



写真GL: 宮崎市 大字糸原 400番地にある「慰霊塔」です。



写真GM: 慰霊塔の上部です。 「慰霊塔(いれいとう)」と書いてあります。



写真GN: 宮崎市 大字糸原 400番地にある「慰霊塔」の下部です。 「慰霊塔 移設記念碑」、鎖(くさり)、扉(とびら)などが見えます。 花が供(そな)えてあります。



写真GO: 南東を見たもの。 石碑(せきひ)、墓などが見えます。



写真GP: 「慰霊塔」の下部です。



写真GQ: 石灯籠(いしどうろう)、石碑(せきひ)、建物などが見えます。 奥は県道352号線の交通信号機です。



写真GR: 石灯籠(いしどうろう)、県道352号線の交通信号機、団地の建物が見えます。



写真GS: 東を見たもの。



写真GT: 「慰霊塔 移設記念碑 平成19年3月吉日 建立」です。 この慰霊塔は昭和30年にこれよりやや東 旧 倉岡村 役場裏の台地に建設されました。 台地から平地への移設は遺族の念願でした。 平成19年3月にこの地に「慰霊塔」が移設されました。



写真GU: 慰霊塔のそばにある川と県道352号線の橋が見えます。



写真GV: 南東から見た慰霊塔などです。 奥に団地の建物が見えます。



写真GW: 裏から見た慰霊塔の上部です。



写真GX: 裏から見た慰霊塔の下部です。



写真GY: 隣(とな)りは特別養護老人ホーム 「しらふじ」になっています。



写真GZ: 慰霊塔の近くから、大淀川の水門の2つの建物と思われる物が見えています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)