持田古墳群、高鍋大師 (もちだ古墳群、たかなべだいし、山の神塚、石舟塚、計塚、石像群、東都原) (宮崎県児湯郡 高鍋町大字持田)
<標高、位置> 持田古墳群の山の神塚は
標高 約50 m
北緯32度09分00秒 東経131度31分15秒
<標高、位置> 高鍋大師は
標高 約50 m
北緯32度08分41秒 東経131度31分14秒
「持田古墳群」は宮崎県児湯郡高鍋町大字持田にあります。 東都原の台地の上にあります。 5-6世紀にかけて造られました。 古墳が85基点在し、前方後円墳9基、円墳66基があります。 山の神塚(26号)、石舟塚(15号)、計塚(1号)などの大型のものもあります。 昭和の初めに盗掘されたものもあるそうです。
「高鍋大師」は持田古墳群の中にあります。 高鍋大師には大中小の多くの石像があります。 高鍋町で精米業をされていた岩岡保吉(いわおかやすきち)さんは1889年生まれで88歳で亡くなりました。 岩岡さんは40歳代から私費で石仏などの石像を750体以上造られました。 小丸川の河川敷でノミと槌(つち)で多くの石像を彫(ほ)られたそうです。 石像は大きなものは高さが7 m以上あります。 これらは標高 約50 mの東都原にある岩岡さんが創(つく)られた高鍋大師に運ばれました。 境内(けいだい)には本堂など2つの建物もあります。 その高台からは高鍋の町や日向灘などの景色も楽しめます。
写真A: 宮崎県児湯郡高鍋町の小丸川の北の国道10号線にこの三叉路(さんさろ)があります。 ここは亀の井ホテルや高鍋警察署より北側になります。 ここを西に入ります。 「持田古墳群、高鍋大師 入口 家床やろう会」と書いてある看板(かんばん)があります。
写真B: 宮崎県児湯郡高鍋町の小丸川の北の国道10号線にこの三叉路(さんさろ)があります。 ここは亀の井ホテルや高鍋警察署より北側になります。 ここを西に入ります。 「持田古墳群、高鍋大師 入口 家床やろう会」と書いてある看板(かんばん)があります。
写真C: 「持田古墳群、高鍋大師 入口 家床やろう会」と書いてある看板(かんばん)があります。 家床は地名(字)です。
写真D: この東都原の台地に持田古墳群と高鍋大師があります。 左のはげ山の左上が高鍋大師です。 この台地の上にある「高鍋大師」と書いてある大きな看板は国道10号線から見えます。 高鍋大師の大きな石像も国道10号線から見えます。
この道を先に進みます。
写真E: 台地の上に「高鍋大師」と書かれた看板と大きな石像が小さく見えています。
写真F: ここを先に行きます。
写真G: 「持田古墳群、高鍋大師 入口 家床やろう会」と書いてある看板(かんばん)があります。 家床は地名(字)です。
写真H: この手前の道を右に曲がります。 「持田古墳群、高鍋大師 入口 家床やろう会」と書いてある看板(かんばん)があります。
写真I: ここを先に行って、持田古墳群と高鍋大師のある東都原に登ります。
写真J: ここでT字路を左に行きます。 「持田古墳群、高鍋大師 入口 家床やろう会」と書いてある看板(かんばん)があります。 ここはもう東都原の台地の上です。
写真K: 「持田古墳群、高鍋大師 入口 家床やろう会」と書いてある看板(かんばん)。 家床は地名(字)です。
写真L: これが宮崎県児湯郡高鍋町持田にある持田古墳群の一つ「山の神塚(国指定 第26号古墳)」です。 「山の神塚」は前方後円墳で持田古墳群の中の代表的なものです。 このあたりは標高 約50 mです。
写真M: 来た道を振り返った景色。
写真N: 遠くに持田古墳群の古墳がいくつか見えます。 手前はヒマワリです。 ここは東都原です。
写真O: 遠くに持田古墳群の古墳がいくつか見えます。 手前はヒマワリです。 ここは東都原です。 標高 約50 mです。
写真P: 遠くに持田古墳群の古墳がいくつか見えます。 手前はヒマワリです。 ここは東都原です。 標高 約50 mです。
写真Q: 右は持田古墳群の中の代表的な「山の神塚(国指定 第26号古墳)」です。
写真R: これが宮崎県児湯郡高鍋町持田にある持田古墳群の一つ「山の神塚」です。 「山の神塚(国指定 第26号古墳)」は前方後円墳で持田古墳群の中の代表的なものです。 このあたりは標高 約50 mです。
写真S: 左は山の神塚。
写真T: 「国指定 第26号古墳 高鍋町教育委員会 昭和36年2月25日」と書かれた標識があります。 宮崎県児湯郡高鍋町持田にある持田古墳群の一つ「山の神塚(国指定 第26号古墳)」です。 「山の神塚」は前方後円墳で持田古墳群の中の代表的なものです。 このあたりは標高 約50 mです。
写真U: 「国指定 第26号古墳 高鍋町教育委員会 昭和36年2月25日」と書かれた標識。
写真V: 「古墳に登らないで下さい」と書いてある看板(かんばん)。
写真W: 「山の神塚」と呼ばれている古墳(こふん)。
写真X: 「山の神塚」と呼ばれている古墳(こふん)。 夏草が茂っていました。
写真Y: 「山の神塚」と呼ばれている古墳(こふん)。 夏草が茂っていました。
写真Z: 左は山の神塚。
写真AA: 高鍋町の持田古墳群にある古墳がいくつか見えます。 電柱以外の塔は、茶畑の防霜ファンです。 これは冬に霜の被害を防ぐもので、気温が下がると自動で回り始めます。 山の神塚はこの右の方にあります。
写真AB: 山の神塚にある「国指定 第26号古墳 高鍋町教育委員会 昭和36年2月25日」と書かれた標識。
写真AC: 「国指定史跡 持田古墳群位置案内図」。 山の神塚(26号)、石舟塚(15号)、計塚(1号)、高鍋大師への道も載っています。 高鍋町教育委員会。
写真AD: 左奥は山の神塚。
写真AE: 奥に石舟塚(15号)が見えます。 左に家が見えています。
写真AF: 高鍋町の持田古墳群にある石舟塚(15号)。 前方後円墳です。
写真AG: 高鍋大師へは左奥の道を進みます。 右の道は坂本に行く道です。
写真AH: 「たかなべだいし 徐行 吉田三印」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)がこの交差点にあります。
写真AI: 「高鍋大師 入口 家床やろう会」と書かれた道標。 家床は地名(字)です。
写真AJ: 「高鍋大師 入口 家床やろう会」と書かれた道標。 この道を行くと高鍋大師に着きます。 家床は地名(字)です。
写真AK: この左の盛り上がりも古墳(国指定 第48号)です。
写真AL: 高鍋大師に行く道からの高鍋町の景色。 小丸川(おまるがわ)、NTTのアンテナ、町並みなどが見えます。
写真AM: 高鍋大師に着きました。
写真AN: 高鍋大師には石像が多くあります。
写真AO: 高鍋大師にある石像。
写真AP: 中型の石像もあります。 石が積んであるのは「賽(さい)の河原」でしょう。 賽の河原は仏教で、子供が死んでから受ける苦しみです。 冥途(めいど)の三途(さんず)の河原のことで、石を拾って父母供養のため塔を造ろうとすると鬼が来て壊します。 これを地蔵菩薩が救います。
写真AQ: 石が積んであるのは「賽(さい)の河原」でしょう。 賽の河原は仏教で、子供が死んでから受ける苦しみです。 冥途(めいど)の三途(さんず)の河原のことで、石を拾って父母供養のため塔を造ろうとすると鬼が来て壊します。 これを地蔵菩薩が救います。
写真AR: 右に「八勇士殉職の地」の石碑(せきひ)が見えます。 これは小丸川のそばにあったものを後年ここに移したものです。
写真AS: 高鍋大師の石像。
写真AT: 高鍋大師の入り口付近の石像。 これは赤鬼と思われます。
写真AU: 高鍋大師の入り口付近の石像。 これは賽の河原(さいのかわら)の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)でしょう。
写真AV: 高鍋大師の入り口付近の石像。
写真AW: 高鍋大師の入り口付近の石像。
写真AX: 「八勇士殉職の地」の石碑(せきひ)。
昭和18年6月18日 挺進第四聯隊では新たに所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。 前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押し流されて8名が殉職した。 この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思いとどまった。 翌19年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と提携できる見込みの全くないタクロパン降下部隊指揮官を志願し、8名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。 殉職8柱の魂もレイテ作戦に参加したのである。 碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか何日散るのか知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事のため昭和40年に現在地に移された。
と書かれています。
これは川南町にあった空挺落下傘部隊発祥之地の聯隊のことと思われます。
写真AY: 「八勇士殉職の地」の石碑(せきひ)。
昭和18年6月18日 挺進第四聯隊では新たに所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。 前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押し流されて8名が殉職した。 この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思いとどまった。 翌19年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と提携できる見込みの全くないタクロパン降下部隊指揮官を志願し、8名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。 殉職8柱の魂もレイテ作戦に参加したのである。 碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか何日散るのか知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事のため昭和40年に現在地に移された。
と書かれています。
これは川南町にあった空挺落下傘部隊発祥之地の聯隊のことと思われます。
写真AZ: 「八勇士殉職の地」の石碑(せきひ)。
昭和18年6月18日 挺進第四聯隊では新たに所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。 前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押し流されて8名が殉職した。 この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思いとどまった。 翌19年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と提携できる見込みの全くないタクロパン降下部隊指揮官を志願し、8名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。 殉職8柱の魂もレイテ作戦に参加したのである。 碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか何日散るのか知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事のため昭和40年に現在地に移された。
と書かれています。
これは川南町にあった空挺落下傘部隊発祥之地の聯隊のことと思われます。
写真BA: 高鍋大師の境内(けいだい)。
写真BB: 高鍋大師の境内(けいだい)。
写真BC: 高鍋大師の境内(けいだい)。
写真BD: 高鍋大師には稲荷神社もあります。 赤い鳥居の右の大型石像は見事なものです。
写真BE: 稲荷神社の前の石像。
写真BF: 高鍋大師の大型石像。
写真BG: 高鍋大師にある稲荷神社。
写真BH: 稲荷神社の左にある大型石像。
写真BI: 稲荷神社の左にある大型石像。
写真BJ: 稲荷神社。
写真BK: 稲荷神社のそばの石像。
写真BL: 稲荷神社のそばの石像。
写真BM: 稲荷神社から見た高鍋大師の境内(けいだい)。
写真BN: 稲荷神社から見た高鍋大師の境内(けいだい)。 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。
写真BO: 稲荷神社の赤い鳥居(とりい)。
写真BP: 高鍋大師の稲荷神社。
写真BQ: 稲荷神社のそばの石像。
写真BR: 稲荷神社の中。
写真BS: 高鍋大師の北寄りにある石像群。
写真BT: 「茶碑」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)もあります。 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。
写真BU: 高鍋大師の石像と石碑(せきひ)。
写真BV: 高鍋大師の石像。
写真BW: 高鍋大師の石像。
写真BX: 高鍋大師の石像。 スサノオノミコト(日本神話で天照大神の弟。 凶暴で、天の岩屋の事件を起こした結果、高天原から追放されました。)の像です。
写真BY: 高鍋大師の石像。 スサノオノミコト(日本神話で天照大神の弟。 凶暴で、天の岩屋の事件を起こした結果、高天原から追放されました。)の像です。
写真BZ: 高鍋大師の石像。 スサノオノミコト(日本神話で天照大神の弟。 凶暴で、天の岩屋の事件を起こした結果、高天原から追放されました。)の像です。
写真CA: 高鍋大師の北側の様子。 石像も見えます。
写真CB: 高鍋大師の北側の様子。 石像も見えます。
写真CC: 高鍋大師の東側の景色。 手前の斜面に石像もいくつか見えています。
写真CD: 高鍋大師の北側の様子。 石像も見えます。
写真CE: 高鍋大師の南東方向の景色。
写真CF: 高鍋大師の境内。 大中小の石像が多くあります。 右に高鍋大師の建物が2つ見えます。
写真CG: 高鍋大師の境内。 ベンチもあります。 建物は高鍋大師の本堂。
写真CH: 高鍋大師の境内。 入ってくる道は建物の右の所にあります。 赤い鳥居は稲荷神社。
写真CI: 高鍋大師の境内。
写真CJ: 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。
写真CK: 高鍋大師の本堂。 ガラス戸には「出入り口は閉(し)めてください」と書いてあります。
写真CL: 高鍋大師。 車の左に鶴(つる)の石像もあります。 奥の建物は古い方のものです。
写真CM: 高鍋大師の境内。
写真CN: この中央の盛り上がりは国指定 第49号古墳(指定年月日 昭和36年2月25日)です。 そのまわりに石像が多くあります。
写真CO: 高鍋大師の境内。
写真CP: 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。
写真CQ: 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。
写真CR: 高鍋大師の本堂の中。 ここにも石像があります。 千羽鶴が多く掛(か)けてあります。
写真CS: 高鍋大師の本堂の中。
写真CT: 高鍋大師の本堂の中。
写真CU: 高鍋大師の本堂の中。 右上に石像の制作者である岩岡老人の写真もあります。 石像、千羽鶴もあります。
写真CV: 高鍋大師の本堂の中。
写真CW: 「親亀の上に子亀、子亀の上に孫亀」の石像もあります。
写真CX: 中央は水戸黄門、両側は角さん助さんの石像。
写真CY: 高鍋大師の境内。
写真CZ: 高鍋大師。 建物は本堂。
写真DA: 高鍋大師の境内。 白い木の棒には「国指定 第49号古墳(指定年月日 昭和36年2月25日)」と書いてあります。
写真DB: 低い丘のように見えているのは古墳(持田古墳群の)です。 「国指定 第49号古墳(指定年月日 昭和36年2月25日)」。
写真DC: 高鍋大師の南東よりの所。
写真DD: 高鍋大師の石像。
写真DE: 高鍋大師の石像。
写真DF: 高鍋大師の境内(けいだい)。
写真DG: ベンチもあります。
写真DH: 右は高鍋大師と書いてある看板(かんばん)の裏です。
写真DI: 高鍋大師から北東の方向を見た景色。 下部は高鍋大師と書いてある看板(かんばん)の裏です。 国道10号線も見えています。
写真DJ: 高鍋大師からの眺望(ちょうぼう)。 日向灘(太平洋)も見えています。
写真DK: 高鍋大師の南東方向。
写真DL: 古墳のそばにある「顕彰之碑」。 「東都原台地古墳49号、高鍋大師石像 550、開山主 岩岡保吉、奉献 百寿会」と彫(ほ)ってあります。
写真DM: 高鍋大師の南の景色。
写真DN: 高鍋大師の南の景色。
写真DO: 高鍋大師の石像。 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。
写真DP: 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。
写真DQ: 左は弘法大師の大きな石像。 右は古墳。
写真DR: 火鉢(ひばち)も置いてあります。
写真DS: 高鍋大師の境内(けいだい)。
写真DT: お墓もあります。 右は古墳(こふん)。
写真DU: 高鍋大師の古い方の建物。
写真DV: 高鍋大師の古い方の建物。
写真DW: 大型の石像は鉄の棒で背中を支えてあります。 右は弘法大師の石像。
写真DX: 第49号古墳(持田古墳群の)。
写真DY: 第49号古墳(持田古墳群)。
写真DZ: 左は古い方の建物。
写真EA: 高鍋大師の古い方の建物と本堂の間にある大きな石像。
写真EB: 高鍋大師の古い方の建物と本堂の間にある大きな石像。
写真EC: 高鍋大師の古い方の建物と本堂の間にある石像。 自動車の手前に鶴(つる)の石像が2つあります。
写真ED: 高鍋大師の本堂の前の様子。 階段もあります。
写真EE: 高鍋大師の北東方向の展望。 国道10号線と先ほど曲がった交差点も見えます。
写真EF: 高鍋大師の南東方向の展望。 小丸川(おまるがわ)とその河口、高鍋警察署、亀の井ホテルも見えています。
写真EG: 高鍋大師の南方向の展望。 県立高鍋高校とその体育館、NTTのアンテナ、小丸川なども見えます。
写真EH: 高鍋大師の南東方向の展望。 もと南九州大学のあった丘陵、小丸川、国道10号線の橋とその上流の橋、太平洋(日向灘)も見えています。
写真EI: ヒオウギズイセンの花が咲いていました。
写真EJ: ママコノシリヌグイの花が咲いていました。
写真EK: 高鍋大師と書いてある看板の裏。
写真EL: 宮崎県児湯郡高鍋町にある「高鍋大師」。
写真EM: 宮崎県児湯郡高鍋町にある「高鍋大師」の境内。
写真EN: 宮崎県児湯郡高鍋町にある「高鍋大師」。 入り口に近いところです。 左は「八勇士殉職の地」の石碑(せきひ)。 右は賽の河原(さいのかわら)。
写真EO: 高鍋大師の参道には持田古墳群の「国指定 第48号古墳」があります。 右の白い棒には「国指定 第48号古墳 高鍋町教育委員会」と書いてあります。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)