高木兼寛 誕生地、島津久豊の墓、高岡温泉 やすらぎの郷、瓜田ダム (たかきかねひろ、ビタミンの父、穆園広場、ぼくえんひろば、高木兼寛生誕地、うりたダム、瓜田ダム公園)  (宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田)







<標高、位置>  ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ) 誕生地は
標高 約40 m
 北緯31度56分01秒  東経131度19分14秒

<標高、位置>  高岡温泉 やすらぎの郷は
標高 約10 m
 北緯31度55分57秒  東経131度18分28秒

<標高、位置>  瓜田ダム(うりただむ)は
標高 約50 m
 北緯31度55分35秒  東経131度18分27秒


 「ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ)の生誕地」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にあります。
 「高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ、1849年〜1920年)」の説明板から、
「病気を診(み)ずして病人を診よ」
 イギリスに留学中、多くの優秀賞、名誉賞を受賞し、明治13年11月に帰国した高木兼寛は、海軍中医監と同時に東京海軍病院長に命じられました。 このころの日本の海軍では、軍艦乗組員のなかに かつけ病患者が続出していました。 海軍軍医だった兼寛は、このかつけ病の絶滅に取り組みました。 
 このころ、かつけ病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、かつけ病は食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」によるかつけ病の予防法に取り組みました。 そして、ようやく軍艦「筑波(つくば)」の航海実験をすることになりました。
 さきに、軍艦「龍驤」の航海で、乗組員の半数がかつけ病となり、「病者多し、航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が龍驤から送られていたものが、兵食を改善した「筑波」から送られた電報は、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。 このことによって、兼寛の予防法が広く世界に認められることになりました。
 その後、ビタミンが発見され、かつけ病はビタミンB1の欠乏から起こることが分かりました。 イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の8大ビタミン学者を写真入りで紹介し、そのなかで兼寛を2番目にとりあげ、偉大な業績を紹介しています。
 また兼寛は、東京慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらに、宮崎神宮の大造営など多くの偉業を成しとげました。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」という兼寛の言葉は大変有名です。


 「島津久豊の墓」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 山子 3674-2 にあります。
 「町指定史跡 島津久豊の墓」の説明版から、
指定年月日 昭和54年1月24日
 この墓は、第8代 島津久豊のもので、安政4年(1857年)に島津氏によって創建されたものと言われています。
 久豊は、応永10年(1403年)に穆佐城(むかさじょう)に入り、伊東氏の加江田城を攻め、池尻城、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山夫人との間に後の第9代島津忠国が誕生しています。 応永18年(1411年)、久豊は鹿児島に帰り島津家の家督を継ぎますが、再び日向入りし、応永32年(1524年)、穆佐城にて51歳で逝去しています。
「義天存忠大禅定門」と刻(きざ)まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられている場所は、拝所で、その奥に「えい骨塔」と刻まれた石碑があります。 遺骨は昭和になり島津氏により発掘され、鹿児島に葬(ほうむ)られています。 


 「高岡温泉 やすらぎの郷(さと)」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 1953にあります。 お湯はナトリウム、炭酸水素塩温泉で少しとろみがあります。 大浴場、サウナ、露天風呂、多目的風呂などがあります。


 「瓜田ダム公園」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にあります。 平成10年に完成しました。 都城盆地、宮崎平野を流れる大淀川の支流 瓜田川の小山田地区に治水ダムとして造られました。 管理所にはダムの説明、高岡町の紹介パネルなどがある資料館があります。 ダム湖のそばには自然プール、アスレティック広場、花園などがあります。


写真A: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 山子 3674-2 にある「島津久豊の墓」の近くの様子。



写真B: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 山子 3674-2 にある「島津久豊の墓」。 町指定史跡 「島津久豊の墓」 指定年月日 昭和54年1月24日。 後ろは孟宗竹(もうそうだけ)もあります。
正面奥に「義天存忠大禅定門」と刻(きざ)まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。 ここは拝所です。
 高岡町の穆佐(むかさ)にある小山田集会所のそばに階段があります。 それを上ると島津久豊の墓があります。 そこは昔、悟性寺があったところで、多くの墓石があります。



写真C: 町指定史跡 「島津久豊の墓」 指定年月日 昭和54年1月24日。



写真D: 「町指定史跡 島津久豊の墓」の説明版。
指定年月日 昭和54年1月24日
 この墓は、第8代 島津久豊のもので、安政4年(1857年)に島津氏によって創建されたものと言われています。
 久豊は、応永10年(1403年)に穆佐城(むかさじょう)に入り、伊東氏の加江田城を攻め、池尻城、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山夫人との間に後の第9代島津忠国が誕生しています。 応永18年(1411年)、久豊は鹿児島に帰り島津家の家督を継ぎますが、再び日向入りし、応永32年(1524年)、穆佐城にて51歳で逝去しています。
「義天存忠大禅定門」と刻(きざ)まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられている場所は、拝所で、その奥に「えい骨塔」と刻まれた石碑があります。 遺骨は昭和になり島津氏により発掘され、鹿児島に葬(ほうむ)られています。 
平成8年3月25日 高岡町教育委員会
と書かれています。



写真E: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 山子 3674-2 にある「島津久豊の墓」。 町指定史跡 「島津久豊の墓」 指定年月日 昭和54年1月24日。 後ろは孟宗竹(もうそうだけ)もあります。
正面奥に「義天存忠大禅定門」と刻(きざ)まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。 ここは拝所です。
 高岡町の穆佐(むかさ)にある小山田集会所のそばに階段があります。 それを上ると島津久豊の墓があります。 そこは昔、悟性寺があったところで、多くの墓石があります。



写真F: 「丸に十の字」の島津家の家紋(かもん)がある石灯籠(いしどうろう)があります。



写真G: 正面奥に「義天存忠大禅定門」と刻(きざ)まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。 ここは拝所です。



写真H: 「えい骨塔」と刻まれた石碑があります。 島津久豊の遺骨は昭和になり島津氏により発掘され、鹿児島に葬(ほうむ)られています。



写真I: 「えい骨塔」と刻まれた石碑があります。 島津久豊の遺骨は昭和になり島津氏により発掘され、鹿児島に葬(ほうむ)られています。



写真J: 宮崎市 高岡町 小山田 山子 3674-2 にある「島津久豊の墓」に人家のある車道から上る階段。 手すりもあります。
 高岡町の穆佐(むかさ)にある小山田集会所のそばに階段があります。 それを上ると島津久豊の墓があります。 そこは昔、悟性寺があったところで、多くの墓石があります。



写真K: 「島津久豊の墓」から見た宮崎市 高岡町 小山田の景色。



写真L: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 1953にある「高岡温泉 やすらぎの郷」の看板(かんばん)。



写真M: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 1953にある「高岡温泉 やすらぎの郷」。 手前は駐車場です。 お湯はナトリウム、炭酸水素塩温泉で少しとろみがあります。 大浴場、サウナ、露天風呂、多目的風呂などがあります。



写真N: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 1953にある「高岡温泉 やすらぎの郷」。 手前は駐車場です。



写真O: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 1953にある「高岡温泉 やすらぎの郷」。 お湯はナトリウム、炭酸水素塩温泉で少しとろみがあります。 大浴場、サウナ、露天風呂、多目的風呂などがあります。



写真P: 「自然トピア たかおか」の看板。 絵地図、観光地の写真、説明などが書いてあります。



写真Q: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田地区にある「瓜田治水ダム建設工事竣工 記念碑」。 平成10年6月19日建立。
「瓜田ダム公園」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にあります。 平成10年に完成しました。 都城盆地、宮崎平野を流れる大淀川の支流 瓜田川の小山田地区に治水ダムとして造られました。 管理所にはダムの説明、高岡町の紹介パネルなどがある資料館があります。 ダム湖のそばには自然プール、アスレティック広場、花園などがあります。



写真R: この城の形の建物は「瓜田(うりた)ダムの資料館」です。
「瓜田ダム公園」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にあります。 平成10年に完成しました。 都城盆地、宮崎平野を流れる大淀川の支流 瓜田川の小山田地区に治水ダムとして造られました。 管理所にはダムの説明、高岡町の紹介パネルなどがある資料館があります。 ダム湖のそばには自然プール、アスレティック広場、花園などがあります。



写真S: 瓜田ダム公園の展望所。



写真T: これが大淀川の支流 瓜田川(うりたがわ)に建設されている「瓜田ダム」です。 「瓜田ダム公園」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にあります。



写真U: 瓜田ダムの上部。 「瓜田ダム」と書いた石碑(せきひ)があります。



写真V: 宮崎市 高岡町 小山田にある「瓜田ダム」。 右側がダム湖です。 水位を示す目盛りも見えます。 ダムの上部には照明もあります。 奥に瓜田ダム公園のアスレティック施設も見えています。 対岸には東屋(あずまや)の休息所も見えます。
 平成10年に完成しました。 都城盆地、宮崎平野を流れる大淀川の支流 瓜田川の小山田地区に治水ダムとして造られました。 管理所にはダムの説明、高岡町の紹介パネルなどがある資料館があります。 ダム湖のそばには自然プール、アスレティック広場、花園などがあります。



写真W: 高岡町 小山田にある「瓜田ダム」。 ダム湖です。



写真X: この城の形の建物は「瓜田(うりた)ダムの資料館」です。 「瓜田ダム公園」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にあります。
 平成10年に完成しました。 都城盆地、宮崎平野を流れる大淀川の支流 瓜田川の小山田地区に治水ダムとして造られました。 管理所にはダムの説明、高岡町の紹介パネルなどがある資料館があります。 ダム湖のそばには自然プール、アスレティック広場、花園などがあります。



写真Y: 宮崎市 高岡町 小山田にある「瓜田ダム公園」。 駐車場も見えます。 展望所も見えます。 左にはお城の形の建物があります。



写真Z: 高岡町 小山田にある「瓜田ダム公園」。 トイレ、休憩所、アスレティック施設も見えます。 これはダムの下流側の様子です。



写真AA: 瓜田ダムのダム湖。 湖面に浮きが並べてあります。
「瓜田ダム公園」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にあります。 平成10年に完成しました。 都城盆地、宮崎平野を流れる大淀川の支流 瓜田川の小山田地区に治水ダムとして造られました。 管理所にはダムの説明、高岡町の紹介パネルなどがある資料館があります。 ダム湖のそばには自然プール、アスレティック広場、花園などがあります。



写真AB: 瓜田ダムのダム湖。 湖面に浮きが並べてあります。



写真AC: 瓜田ダムの上流側はダム湖になっています。



写真AD: この城の形の建物は「瓜田(うりた)ダムの資料館」です。 駐車場もあります。



写真AE: 「町指定史跡 高木兼寛(たかきかねひろ)生誕地 指定年月日 昭和63年4月18日」と書かれた案内棒が階段の脇(わき)にあります。 そばに杉林があります。 ここは昔あった穆佐城(むかさじょう)の西北端の曲輪(くるわ、平らなところ)です。 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にあります。



写真AF: 「町指定史跡 高木兼寛(たかきかねひろ)生誕地 指定年月日 昭和63年4月18日」と書かれた案内棒が階段の脇(わき)にあります。
宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にあります。 そばに杉林があります。 ここは昔あった穆佐城(むかさじょう)の西北端の曲輪(くるわ、平らなところ)です。



写真AG: 「この穆園広場(ぼくえんひろば)の土地および記念碑は東京慈恵会医科大学より寄贈されたものです。 平成2年4月21日」と書かれた金属製の標識棒があります。 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にあります。 そばに杉林があります。 ここは昔あった穆佐城(むかさじょう)の西北端の曲輪(くるわ、平らなところ)です。 穆園は高木兼寛の雅号です。



写真AH: 「穆園(ぼくえん)ひろば造成までの経過」の説明板。
 東京慈恵会医科大学 学祖 高木兼寛先生生誕のこの地は、かねてより先生の遺徳顕彰に役立つことを期待して、大学当局が確保しておりました。
 たまたま、昭和60年9月、この地を訪ねられた現学長 阿部正和先生は、杉の生い茂り荒廃した姿に心を痛められ、この地に、学祖生誕地記念碑を建立開花、遺徳顕彰の実をあげようと企画せられたのであります。
 直ちに、大学当局(理事長名取禮二先生)並びに同窓会(会長大平一郎先生)の同意の下、同窓会宮崎県支部(支部長原田正)が実務に当たり、同年12月、地元の福富造園が造成に着手しました。
 本計画が発表されますと、高岡町においても、将来この付近を町民憩いの場として公園化する開発企画に合致することから、町議会の承認を得て協力をいただき、また兼寛先生は、その前身 帝国生命保険株式会社の創設者でもあったことから、朝日生命保険相互会社におかれても、自発的に協賛せられてここに完成をみた次第であります。
昭和61年9月15日 東京慈恵会医科大学
と書かれています。



写真AI: 「高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ、1849年〜1920年)」の説明板。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」
 イギリスに留学中、多くの優秀賞、名誉賞を受賞し、明治13年11月に帰国した高木兼寛は、海軍中医監と同時に東京海軍病院長に命じられました。 このころの日本の海軍では、軍艦乗組員のなかに かつけ病患者が続出していました。 海軍軍医だった兼寛は、このかつけ病の絶滅に取り組みました。 
 このころ、かつけ病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、かつけ病は食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」によるかつけ病の予防法に取り組みました。 そして、ようやく軍艦「筑波(つくば)」の航海実験をすることになりました。
 さきに、軍艦「龍驤」の航海で、乗組員の半数がかつけ病となり、「病者多し、航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が龍驤から送られていたものが、兵食を改善した「筑波」から送られた電報は、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。 このことによって、兼寛の予防法が広く世界に認められることになりました。
 その後、ビタミンが発見され、かつけ病はビタミンB1の欠乏から起こることが分かりました。 イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の8大ビタミン学者を写真入りで紹介し、そのなかで兼寛を2番目にとりあげ、偉大な業績を紹介しています。
 また兼寛は、東京慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらに、宮崎神宮の大造営など多くの偉業を成しとげました。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」という兼寛の言葉は大変有名です。
平成7年3月30日 高岡町教育委員会
と書かれています。



写真AJ: 「高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ、1849年〜1920年)」の説明板。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」
 イギリスに留学中、多くの優秀賞、名誉賞を受賞し、明治13年11月に帰国した高木兼寛は、海軍中医監と同時に東京海軍病院長に命じられました。 このころの日本の海軍では、軍艦乗組員のなかに かつけ病患者が続出していました。 海軍軍医だった兼寛は、このかつけ病の絶滅に取り組みました。 
 このころ、かつけ病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、かつけ病は食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」によるかつけ病の予防法に取り組みました。 そして、ようやく軍艦「筑波(つくば)」の航海実験をすることになりました。
 さきに、軍艦「龍驤」の航海で、乗組員の半数がかつけ病となり、「病者多し、航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が龍驤から送られていたものが、兵食を改善した「筑波」から送られた電報は、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。 このことによって、兼寛の予防法が広く世界に認められることになりました。
 その後、ビタミンが発見され、かつけ病はビタミンB1の欠乏から起こることが分かりました。 イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の8大ビタミン学者を写真入りで紹介し、そのなかで兼寛を2番目にとりあげ、偉大な業績を紹介しています。
 また兼寛は、東京慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらに、宮崎神宮の大造営など多くの偉業を成しとげました。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」という兼寛の言葉は大変有名です。
平成7年3月30日 高岡町教育委員会
と書かれています。



写真AK: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にある「高木兼寛 誕生地」。 高木兼寛の像、石碑(せきひ)、ベンチなどが見えます。 ここは昔あった穆佐城(むかさじょう)の西北端の曲輪(くるわ、平らなところ)です。



写真AL: 「高木兼寛 先生之像」。



写真AM: 「東京慈恵会医科大学 学祖 高木兼寛先生生誕之地 嘉永 2年(1849年)9月15日生誕」の石碑(せきひ)。



写真AN: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にある「高木兼寛 先生之像」と「東京慈恵会医科大学 学祖 高木兼寛先生生誕之地 嘉永 2年(1849年)9月15日生誕」の石碑(せきひ)。



写真AO: 祠(ほこら)があります。



写真AP: 石の仏像があります。



写真AQ: 高木兼寛の誕生地。



写真AR: 「高木兼寛 年譜」の説明板。
嘉永2年(1849年)9月15日東諸県郡 穆佐村(むかさそん) 白土坂に生まれる。



写真AS: 「町指定史跡 高木兼寛(たかきかねひろ)生誕地 指定年月日 昭和63年4月18日」と書かれた案内棒。



写真AT: この左の高台がビタミンの父 「高木兼寛の誕生地」です。 ここは昔あった穆佐城(むかさじょう)の西北端の曲輪(くるわ、平らなところ)です。



写真AU: これが「ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ)の誕生地」の入り口です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)