高千穂峰と高千穂峰登山コース(ミヤマキリシマの花) (御鉢、高千穂河原、たかちほのみね、おはち、たかちほがわら、タカチホノミネ、オハチ、タカチホガワラ、天の逆鉾、あまのさかほこ、アマノサカホコ、霧島神宮古宮、霧島神宮元宮、二子石、ふたごいし、二ツ石、天孫降臨神話、霧島屋久国立公園霧島地域、高千穂牧場)  (宮崎県都城市、宮崎県西諸県郡高原町、宮崎県小林市、鹿児島県霧島市)







<標高、位置>  高千穂河原(高千穂峰や中岳の登山口)は
標高 約970 m
 北緯31度53分07秒  東経130度53分44秒

<標高、位置>  霧島神宮古宮(高千穂河原にある2番目に古い神社)は
標高 約990 m
 北緯31度53分11秒  東経130度53分53秒

<標高、位置>  御鉢(おはち、高千穂峰の西側にある寄生火山)は
標高 1408 m
御鉢(おはち)の底(噴火口の底)は
標高 1206 m
 北緯31度53分08秒  東経130度54分37秒

<標高、位置>  霧島神宮元宮(高千穂峰と御鉢の間の鞍部(あんぶ)にある一番初めの神社)は
標高 約1400 m
 北緯31度53分09秒  東経130度54分53秒

<標高、位置>  高千穂峰(たかちほのみね)は
標高 1573.4 m
 北緯31度53分10秒  東経130度55分08秒

<標高、位置>  高千穂峰の御鉢と反対の方(東側)の尾根にある「二子石(ふたごいし)」は
標高 約1250 m
 北緯31度53分10秒  東経130度55分59秒


 2014年3月26日に国土地理院は、高千穂峰の標高を1573 m → 1574 m に改定しました。 これは人工衛星を用いた精密な測量データを反映させた結果だそうです。
 「高千穂峰登山の高千穂河原コース」は、高千穂河原が登山口で、まず御鉢(おはち)に登り次に高千穂峰に登るルートです。 いろんなコースの内、一番距離が短く(2.3 km、休息なしで90分)、標高差は603 mで、登山者数の多いコースです。
 「高千穂峰(たかちほのみね)」は宮崎県と鹿児島県の県境近くにある標高 1573.4 mの複合火山、成層火山で、西に活火山の御鉢(おはち)、東に二子石(ふたごいし、二ツ石(ふたついし)とも呼ぶ)の寄生火山を持っていて霧島屋久国立公園に属しています。 高千穂河原コースで登るときには、これが第2の難所です。 直登(真っ直ぐ登ること)のザレ場、ガレ場があります。 霧島連山の内、韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)に次いで2番目に高い山です。 高千穂峰は約1万年前に出来ました。 天孫降臨(てんそんこうりん)神話の地の一つ(もう一つは宮崎県高千穂町)で、山頂に青銅(あるいは銅)製の天之逆鉾(あまのさかほこ)がご神体として立っています。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
 霧島連山は雲海の中に山頂部が島のように見えることから名づけられたとも言われています。 山頂が宮崎県都城市と宮崎県西諸県郡高原町のどちらに属するかは確定していませんが、山頂は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田1番地です。 山頂部は霧島東神社の飛び地境内(けいだい)です。 
 「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 高千穂峰に登るときにまず登ります(高千穂河原コース)。 これが第1の難所です。 直登(真っ直ぐ登ること)のザレ場、ガレ場があります。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 そこは幅3−5 mです。 普通の状態では左右に滑落するような所ではありません。 火口縁(ふち)の登山道は火口縁の全周の1/3ほどの長さです。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。 御鉢の火口部は鹿児島県霧島町です。 御鉢と高千穂峰の間の鞍部(あんぶ)は背門丘(せとお)と呼ばれ、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け、霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。 このあたりが鹿児島県と宮崎県の県境です。
 「高千穂河原」は鹿児島県霧島市にあります。 標高 970 mです。 説明板から、
 高千穂河原は、古くから霧島連山の登山基地として知られており、近くにはアカマツの美林やミヤマキリシマの群生地があり、多くの人々が訪れています。 高千穂峰と高千穂河原の標高差は約600 mで距離は2.3 kmです。 御鉢と高千穂河原の標高差は438 mです。
 「高千穂神宮古宮」は高千穂河原にあります。 説明板から、
日本で最も古い書物である古事記、日本書紀に霧島神宮の御祭神ニニギノミコトが「襲(そ)の高千穂の峯に天降ります」と記(しる)してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古(いにしえ)より、多くの人々の崇敬を集めてきました。 ここ高千穂河原は文暦元年(1234年)まで霧島神宮のあったところです。 霧島山の大噴火により社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は斎場として現在も祭祀が継続されており、特に11月10日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。
 「昔の霧島神宮」は、 説明板から、
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、この地に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、現在の地に建て替えられたものです。
 「霧島屋久国立公園」は、 説明板から、
 霧島は、最高峰1700 mの韓国岳(からくにだけ)と天孫降臨(てんそんこうりん)の地と伝えられる高千穂峰を中心として、23座の火山が狭い範囲に集まっています。 山頂にはそれぞれ小火口があり、完全な火口が15、水のたまった火口湖が10もあります。 ちょうど月の表面を見るような不思議な景色で、火山模型の陳列場のようです。
 「霧島の火山」は、 説明板から、
 霧島火山の歴史は古く、火山活動は約700万年ぐらい前に始まったと言われています。 高千穂峰、中岳、韓国岳、大浪池などはおおよそ1万年前にできたもので、なかでも新燃岳や御鉢が最も新しく、新燃岳は昭和34年(1959年)にも爆発を起こし、多量の火山灰を降らせ、今でも水蒸気を出しています。 このように、霧島火山は古い火山と新しい火山から出来ており現在の姿をつくりました。 霧島山は韓国岳や高千穂峰を中心に23座の火山から出来ています。 山頂にはそれぞれ火口があり完全な火口が15、水のたまった火口湖が10もありちょうど月の表面を見るようなすばらしい風景を見せてくれます。
 「霧島屋久国立公園」は、 説明板から、
 霧島屋久国立公園は、昭和9年3月16日 我が国最初の国立公園として指定された霧島国立公園に、錦江湾(きんこうわん)国定公園と屋久島を加え、新たに昭和39年3月16日県立公園に指定されました。 霧島屋久国立公園は、火山群の霧島山、活火山の桜島、複式火山の開聞岳(かいもんだけ)、本土最南端の佐多岬、(屋久島にある)九州最高峰の宮之浦岳(標高 1935 m)などが、風景の中心となっています。
 「霧島神宮元宮」は、 説明板から、
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、高千穂河原に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、下方の現在の地に建て替えられたものです。 霧島神宮は下方へ下方へと遷移しています。 鳥居の右の石碑には、この脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は、人皇第29代欽明天皇元年(皇紀1200年、西暦540年)僧慶胤(けいいん)が神殿を造営し天孫天津日高彦火ニニギノミコトを奉斎せし聖地なりと伝うこれ霧島神宮の創祀なり  ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。
 「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 長さ138 cm、周囲26 cmの青銅(あるいは銅)製で霧島東神社の社宝です。 下部は両側にカラス天狗(てんぐ)の顔が彫(ほ)ってあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



<高千穂峰登山コース>
 高千穂峰登山コースはいくつかあります。


(1) 高千穂峰「高千穂河原コース」 (西側(鹿児島県)から御鉢(おはち)の火口縁(ふち)を通って登ります)。


写真A: 宮崎県えびの市大字末永にある「えびの高原」。 この国民宿舎 えびの高原温泉ホテルから出発しました。



写真B: 高千穂峰や中岳の登山口がある「高千穂河原」に着きました。 右に「高千穂河原」と書いてある石碑(せきひ)があります。 高千穂河原は鹿児島県霧島市にあります。 近くに川が流れています。



写真C: 「高千穂河原、えびの高原」と書いてある道標。



写真D: えびの高原、霧島神宮に行く道にある道案内。



写真E: 高千穂河原。



写真F: 高千穂峰や中岳の登山口がある「高千穂河原」。 高千穂河原の駐車場。



写真G: 高千穂河原の駐車場。 駐車場の料金徴収所、売店などの建物も見えます。 遠くに見えるのは霧島連山の中岳です。 建物の裏側に川があります。



写真H: 高千穂河原に生(は)えているツツジ科のミヤマキリシマ。 ピンクの花がミヤマキリシマ。



写真I: 高千穂河原に生(は)えているツツジ科のミヤマキリシマ。



写真J: 鹿児島県霧島市の高千穂河原。 左奥に鳥居(とりい)が見えます。 鳥居は霧島神宮古宮のものです。 右奥の建物はトイレ。



写真K: 「霧島屋久国立公園 高千穂河原周辺案内図」の看板(かんばん)。



写真L: 「霧島屋久国立公園 高千穂河原周辺案内図」の看板(かんばん)。



写真M: 高千穂峰や中岳の登山口がある「高千穂河原」。



写真N: 高千穂河原の建物。 霧島連山の中岳に登るには、建物の右を奥に進み、川の橋を渡ります。



写真O: 「高千穂河原ビジターセンター 入館無料 9時から17時」と書かれた看板(かんばん)。 この建物が高千穂河原ビジターセンターで、中に高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」のレプリカ(複製)が展示してあります。 その他、有益な情報が得られます。 この中の売店で、高千穂峰(たかちほのみね)、韓国岳(からくにだけ)、縦走の3種類の「登山記念バッチ」が売られています



写真P: 高千穂河原にある鳥居(とりい)です。 霧島神宮古宮の参道にあります。 右の木の後ろに高千穂峰(たかちほのみね)の寄生火山である「御鉢(おはち)」が見えます。



写真Q: 「古宮址天孫降臨斎場」の説明板。
日本で最も古い書物である古事記、日本書紀に霧島神宮の御祭神ニニギノミコトが「襲(そ)の高千穂の峯に天降ります」と記(しる)してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古(いにしえ)より、多くの人々の崇敬を集めてきました。
 ここ高千穂河原は文暦元年(1234年)まで霧島神宮のあったところです。
 霧島山の大噴火により社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は斎場として現在も祭祀が継続されており、特に11月10日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。
 この鳥居より500メートル先です。 どうぞご参拝ください。 国立公園内ですので環境美化と動植物保護に御協力願います。
霧島神宮
と書かれています。



写真R: 「古宮址天孫降臨斎場」の説明板。
日本で最も古い書物である古事記、日本書紀に霧島神宮の御祭神ニニギノミコトが「襲(そ)の高千穂の峯に天降ります」と記(しる)してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古(いにしえ)より、多くの人々の崇敬を集めてきました。
 ここ高千穂河原は文暦元年(1234年)まで霧島神宮のあったところです。
 霧島山の大噴火により社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は斎場として現在も祭祀が継続されており、特に11月10日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。l
 この鳥居より500メートル先です。 どうぞご参拝ください。 国立公園内ですので環境美化と動植物保護に御協力願います。
霧島神宮
と書かれています。



写真S: 秩父宮御登山記念碑。 大正15年2月27日。



写真T: 秩父宮御登山記念碑。 大正15年2月27日。



写真U: 霧島神宮古宮の参道。



写真V: 「坊の址」の標識。 神仏習合(しんぶつしゅうごう、江戸時代までは神道と仏教が一体化されることが多く見られました)で、寺の僧の住居があったところでしょう。



写真W: 霧島神宮古宮。 後ろに高千穂峰(たかちほのみね)の寄生火山である「御鉢(おはち)」が見えます。 御鉢の中央が凹(へこ)んでいます。 ここから溶岩が流れ落ちました。 この鳥居(とりい)は明治39年5月に建立されました。
高千穂峰への登山道は御鉢の左の高い部分に見える赤っぽい斜面にあります。



写真X: 階段の右に天孫降臨斎場と書いた標識があります。



写真Y: 階段の右に天孫降臨斎場と書いた標識があります。



写真Z: 「ここは、昔の霧島神宮の趾(あと)です。」の説明板。
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、この地に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、現在の地に建て替えられたものです。
環境省、鹿児島県自然公園財団。
と書かれています。



写真AA: これが高千穂峰登山のための「高千穂河原登山口」です。 ピンクのミヤマキリシマの花が咲いていました。



写真AB: 「高千穂峰(たかちほのみね)」と書かれた指導標。



写真AC: 霧島神宮古宮。 後ろに御鉢(おはち)という山が見えます。 御鉢の中央が凹(へこ)んでいます。 ここから溶岩が流れ落ちました。 鳥居(とりい)は明治39年5月に建立されました。
ここには、平安時代に霧島神宮がありました。
高千穂峰への登山道は御鉢の左の高い部分に見える赤っぽい斜面にあります。



写真AD: 霧島神宮古宮の建物。



写真AE: 霧島神宮古宮。 後ろに御鉢(おはち)という山が見えます。 斎場(さいじょう、祭りを行う清浄な場所)があります。 この鳥居(とりい)は明治39年5月に建立されました。
ここには、平安時代に霧島神宮がありました。



写真AF: 霧島神宮古宮。 斎場(さいじょう、祭りを行う清浄な場所)があります。 大きな石、御幣(ごへい)、奉寄進と書かれた箱があります。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花が咲いています。
ここには、平安時代に霧島神宮がありました。



写真AG: 霧島神宮古宮。 斎場(さいじょう、祭りを行う清浄な場所)があります。 大きな石、御幣(ごへい)、奉寄進と書かれた箱があります。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花が咲いています。
ここには、平安時代に霧島神宮がありました。



写真AH: 霧島神宮古宮。 斎場(さいじょう、祭りを行う清浄な場所)があります。 八角形のものがあります。



写真AI: 霧島神宮古宮から見た霧島連山の中岳。



写真AJ: 高千穂峰の「高千穂河原登山口」。
「高千穂河原コース」は、高千穂峰に西側から登るコースです。 まず御鉢(おはち、高千穂峰の寄生火山)に登り、鞍部(あんぶ、霧島神宮元宮のある所)に少し下り、次に高千穂峰に登るコースです。
 幕末に坂本竜馬がケガの治療を兼ねた新婚旅行で鹿児島に来たときに高千穂峰に登りました。 泊まった旅館は今もある霧島館で、霧島神宮にも参拝しています。 登ったコースは、この「高千穂河原コース」です。



写真AK: 高千穂峰への「高千穂河原コース」。 高千穂峰の「高千穂河原登山口」。
「高千穂河原コース」は、高千穂峰に西側から登るコースです。 まず御鉢(おはち、高千穂峰の寄生火山)に登り、鞍部(あんぶ、霧島神宮元宮のある所)に少し下り、次に高千穂峰に登るコースです。
 幕末に坂本竜馬がケガの治療を兼ねた新婚旅行で鹿児島に来たときに高千穂峰に登りました。 泊まった旅館は今もある霧島館で、霧島神宮にも参拝しています。 登ったコースは、この「高千穂河原コース」です。



写真AL: 「この付近に見られる鳥獣」の説明板。
ニホンジカ、コゲラ、エナガ、カケス、ヤマガラ、シジュウカラについて載っています。



写真AM: 高千穂峰へ登山される方は、北側(馬の背)のルートで登山してください。 (火口内および南側火口縁(ふち)は立ち入り禁止です。) 霧島市、都城市
高千穂峰火口(御鉢)の火山活動(噴気など)には十分に注意しましょう。 (1) 御鉢は火口縁北側(馬の背)しか通れません。 (火口内では噴気活動が一時的に活発化することも考えられますので御鉢火口内および南側火口縁は立ち入り禁止です。)
と書かれています。



写真AN: 「高千穂峰登山者の皆さんへ」
山頂にあるトイレは現在使用できません。
高原町
と書いてあります。



写真AO: 高千穂峰への「高千穂河原コース」。 このあたりは四角の敷石が敷きつめてあります。 赤松が見えています。



写真AP: 「霧島屋久国立公園」の説明板。
霧島は、最高峰1700 mの韓国岳(からくにだけ)と天孫降臨(てんそんこうりん)の地と伝えられる高千穂峰を中心として、23座の火山が狭い範囲に集まっています。 山頂にはそれぞれ小火口があり、完全な火口が15、水のたまった火口湖が10もあります。 ちょうど月の表面を見るような不思議な景色で、火山模型の陳列場のようです。
と書かれています。



写真AQ: 登山道にはベンチもあります。



写真AR: 「霧島の火山」の説明板。
 霧島火山の歴史は古く、火山活動は約700万年ぐらい前に始まったと言われています。 高千穂峰、中岳、韓国岳、大浪池などはおおよそ1万年前にできたもので、なかでも新燃岳や御鉢が最も新しく、新燃岳は昭和34年(1959年)にも爆発を起こし、多量の火山灰を降らせ、今でも水蒸気を出しています。
 このように、霧島火山は古い火山と新しい火山から出来ており現在の姿をつくりました。
 霧島山は韓国岳や高千穂峰を中心に23座の火山から出来ています。 山頂にはそれぞれ火口があり完全な火口が15、水のたまった火口湖が10もありちょうど月の表面を見るようなすばらしい風景を見せてくれます。
と書かれています。



写真AS: 「霧島屋久国立公園」の説明板。
 霧島屋久国立公園は、昭和9年3月16日 我が国最初の国立公園として指定された霧島国立公園に、錦江湾(きんこうわん)国定公園と屋久島を加え、新たに昭和39年3月16日県立公園に指定されました。
 霧島屋久国立公園は、火山群の霧島山、活火山の桜島、複式火山の開聞岳(かいもんだけ)、本土最南端の佐多岬、九州最高峰の宮之浦岳などが、風景の中心となっています。
鹿児島県
と書かれています。



写真AT: 高千穂峰への登山道。 ここは三叉路(さんさろ)になっています。 高千穂峰には左に曲がります。 手前は高千穂河原で、先は自然研究路です。



写真AU: 「高千穂峰、高千穂河原、自然研究路」と書いてある指導標。



写真AV: 高千穂峰への「高千穂河原コース」。



写真AW: 三叉路(さんさろ)にある指導標。



写真AX: このあたりの登山道はこのような石があります。 火山で出来た石です。 まだ溶(と)けているときにガスが抜(ぬ)けた「穴」が多く見えます。 軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。
赤っぽい軽石の大部分は、13世紀の御鉢の大噴火のときの噴出物だそうです。



写真AY: 高千穂峰への「高千穂河原コース」。 奥に見えているのは高千穂峰の寄生火山である「御鉢(おはち)」です。 御鉢の北側火口縁(ふち)を通って高千穂峰に登ります。 それでまず御鉢に登ります。 左にミヤマキリシマのピンクの花が見えています。



写真AZ: 高千穂峰への「高千穂河原コース」。 高千穂河原登山口から高千穂峰に登るには、まず御鉢(おはち)に登ります。 ここは大きな木がある最後の地点付近です。 これから先の登山道を登る人々が白く点々と見えています。 見えている山は御鉢です。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。



写真BA: 高千穂河原登山口から高千穂峰に登るには、まず御鉢(おはち)に登ります。 ここは大きな木がある最後の地点付近です。 右端に休息のための「石の腰掛(こしか)け」が数個(6個)あります。 見えている山は御鉢です。
このあたりも溶岩道です。
高千穂峰は標高1100 m付近で樹林がなくなります(森林限界)。 土地が溶岩で出来ていて、不毛なのでしょう。
赤っぽい軽石の大部分は、13世紀の御鉢の大噴火のときの噴出物だそうです。



写真BB: 高千穂河原登山口から高千穂峰に登るには、まず御鉢(おはち)に登ります。 ここは大きな木がある最後の地点付近です。 右奥に休息のための「石の腰掛(こしか)け」が数個(6個)あります。 見えている山は御鉢です。



写真BC: 今まで登ってきた登山道を振り返った景色。 登山道は赤っぽい火成岩とそれが砕(くだ)けたものから出来ています。
赤っぽい軽石の大部分は、13世紀の御鉢の大噴火のときの噴出物だそうです。



写真BD: 高千穂峰への「高千穂河原コース」から見た霧島連山の「中岳」。 一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ、標高1411 m)の縁(ふち)です。



写真BE: 高千穂峰への「高千穂河原コース」から見た霧島連山の「中岳」。 一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ、標高1411 m)の縁(ふち)です。



写真BF: 高千穂峰への「高千穂河原コース」。



写真BG: 御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)に登る登山道の途中にある「山林の上限地点(森林限界)」には「石の椅子(イス)」が数個(6個)置いてあります。



写真BH: 高千穂峰への「高千穂河原コース」の前半は、御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)にまず登ります。 これからが第1の難所です。 直登(真っ直ぐ登ること)のザレ場、ガレ場があります。 その登山道は赤っぽい火成岩が砕(くだ)けたものなどで出来ています。 ピンク色のツツジ科 ミヤマキリシマの花が見えています。 右に登山者が見えます。
登山道は赤っぽい「ザレ場(石が混じった砂)」が多くあります。 これは火成岩が砕(くだ)けたもので、赤ザレと呼ばれます。 ザレ場は滑(すべ)りやすい。
ザレ場、ガレ場のそばにある低い岩稜を登るのが楽です。 しかし、ザレ場、ガレ場(山の斜面がくずれて、岩石がごろごろしている所)を登るのも面白いと思います。
赤っぽい軽石の大部分は、13世紀の御鉢の大噴火のときの噴出物だそうです。



写真BI: 登山道は溶岩道で、赤っぽい火成岩が砕(くだ)けたものなどで出来ています。 ピンク色のツツジ科 ミヤマキリシマの花が見えています。 左に登山者が見えます。
登山道は赤っぽい「ザレ場(石が混じった砂)」が多くあります。 これは火成岩が砕(くだ)けたもので、赤ザレと呼ばれます。 ザレ場は滑(すべ)りやすい。
ザレ場、ガレ場のそばにある低い岩稜を登るのが楽です。 しかし、ザレ場、ガレ場(山の斜面がくずれて、岩石がごろごろしている所)を登るのも面白いと思います。
「高千穂河原コース」は、高千穂峰に西側から登るコースです。 まず御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)に登り、鞍部(あんぶ、霧島神宮元宮のある所)に少し下り、次に高千穂峰に登るコースです。
 幕末に坂本竜馬がケガの治療を兼ねた新婚旅行で鹿児島に来たときに高千穂峰に登りました。 泊まった旅館は今もある霧島館で、霧島神宮にも参拝しています。 登ったコースは、この「高千穂河原コース」です。
この右手は火口の縁(ふち)が一番低いところで、溢(あふ)れた溶岩が流れた場所だそうです。 登山道はそのわきの高いところに作られています。



写真BJ: 指さしている方向の遠くに桜島が見えます。 ロイヤルホテルが桜島の左下に見えます。



写真BK: 登ってきた登山道を振り返った景色。 先ほどあった数個(6個)の「石の椅子」、高千穂河原の駐車場なども見えます。 このあたりも溶岩道です。



写真BL: 御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)に登る途中から見た中岳(右)。



写真BM: 御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)に登る途中から見た中岳。 一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ、標高1411 m)の縁(ふち)です。



写真BN: 御鉢(おはち、高千穂峰の寄生火山)に登る途中から見た桜島。 桜島の右手前に、霧島市の「沖小島と辺田小島」が見えています。 桜島の左下にロイヤルホテルが見えます。



写真BO: 御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)に登る途中から見た雲海。



写真BP: 登山道にはペンキで「黄色マーク」が岩に書いてあります。 これに沿って登ると安全です。 滑(すべ)りやすいザレ場(小石が混じった砂)を避(さ)けて「岩稜」を登るようにマークが付けてあります。



写真BQ: 御鉢(おはち)にかなり登ってきました。 振り返ると高千穂河原も見えます。



写真BR: 高千穂峰の寄生火山である「御鉢(おはち、標高 1408 m)」にかなり登ってきました。 振り返ると高千穂河原も見えます。 高千穂河原の建物、駐車場が見えます。



写真BS: 高千穂峰の寄生火山である「御鉢(おはち)」の登山道。 溶岩道です。 黄色の矢印(ペンキで書いたマーク)が見えます。 マークに沿って登ると安心です。
滑(すべ)りやすいザレ場(小石が混じった砂)を避(さ)けて「岩稜」を登るようにマークが付けてあります。



写真BT: 振り返った展望。 中央奥に桜島も見えています。



写真BU: かなり登ってきました。 御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)に登る途中から見た桜島。 桜島の左下にロイヤルホテルが見えます。



写真BV: 御鉢(おはち、高千穂峰の寄生火山)に登る登山道から右手の御鉢斜面を見た景色。 ピンク色のツツジ科 ミヤマキリシマが一面に咲いているのが見えます。 「ミヤマキリシマのお花畑」です。 上部に見えているのは御鉢の噴火口の縁(ふち)です。
この右手は火口の縁(ふち)が一番低いところで、溢(あふ)れた溶岩が流れた場所だそうです。 登山道はそのわきの高いところに作られています。



写真BW: 高千穂峰の寄生火山である「御鉢(おはち、標高 1408 m)」の登山道。 溶岩道です。 黄色の矢印(ペンキで書いたマーク)が見えます。 マークに沿って登ると安心です。 登山者も見えます。
江戸時代末期、坂本竜馬は「わらじ」を履(は)いて、新妻と共にこの登山道を登りました。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真BX: さらに登ってきました。 登ってきた登山道を見下ろしたもの。 高千穂河原の駐車場なども見えます。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真BY: 高千穂峰の寄生火山である「御鉢(おはち)」の登山道。 右に黄色の矢印(ペンキで書いたマーク)が見えます。 マークに沿って登ると安心です。 夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)などの霧島連山が見えてきました。
右端手前の山は矢岳(やたけ、標高 1121.6 m)です。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真BZ: 御鉢(おはち、標高 1408 m、高千穂峰の寄生火山)に登る登山道から見た左手の景色。 手前が中岳(なかだけ、1332 m)、新燃岳(しんもえだけ、1421 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)が連なっています。
一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ、標高1411 m)の縁(ふち)です。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真CA: 登ってきました。 登ってきた登山道を見下ろしたもの。
 御鉢(おはち)に登るときの、ここのガレ場(斜面の岩石が多いところ)、ザレ場(小石、砂がたくさんあるところ)が高千穂峰登山(高千穂河原コース)の最大の難所でしょう。 ガレ場、ザレ場は滑(すべ)りやすく登りにくい。 特に下り(帰路)は転(ころ)びやすいので注意。
ザレ場、ガレ場のそばにある低い岩稜を登るのが楽です。 しかし、ザレ場、ガレ場を登るのも面白いと思います。 このあたりも溶岩道です。
高千穂河原の駐車場とそれの手前の霧島神宮古宮の敷地なども見えます。
江戸時代末期、坂本竜馬は「わらじ」を履(は)いて、新妻と共にこの登山道を登りました。



写真CB: 登ってきた登山道を見下ろしたもの。 高千穂河原の駐車場とそれの手前の霧島神宮古宮の敷地なども見えます。
御鉢(おはち)に登るときの、ここのガレ場(斜面の岩石が多いところ)、ザレ場(小石、砂がたくさんあるところ)が高千穂峰登山(高千穂河原コース)の最大の難所でしょう。 ガレ場、ザレ場は滑(すべ)りやすく登りにくい。 特に下り(帰路)は転(ころ)びやすいので注意。
ザレ場、ガレ場のそばにある低い岩稜を登るのが楽です。 しかし、ザレ場、ガレ場を登るのも面白いと思います。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真CC: 御鉢(おはち)に登る登山道の右後ろの景色。




写真CD: 御鉢(おはち)に登る登山道の右手の景色。 御鉢の斜面が見えています。
この右手は火口の縁(ふち)が一番低いところで、溢(あふ)れた溶岩が流れた場所だそうです。 登山道はそのわきの高いところに作られています。



写真CE: 御鉢(おはち、標高 1408 m)に登る登山道の右手上の景色。 上部に御鉢の噴火口の縁(ふち)が見えています。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
この右手は火口の縁(ふち)が一番低いところで、溢(あふ)れた溶岩が流れた場所だそうです。 登山道はそのわきの高いところに作られています。



写真CF: もうすぐ御鉢(高千穂峰の寄生火山)の「噴火口の縁(ふち)」に到達します。
江戸時代末期、坂本竜馬は「わらじ」を履(は)いて、新妻と共にこの登山道を登りました。



写真CG: 御鉢(標高 1408 m)の「噴火口の縁(ふち)」に着きました。 左の赤い岩の向こうに高千穂河原の駐車場などが見えます。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真CH: 御鉢(標高 1408 m)の「噴火口の縁(ふち)」に着きました。 これは右後ろの眺望(ちょうぼう)です。



写真CI: 高千穂峰の寄生火山である御鉢(おはち、標高 1408 m)の噴火口の内側が見えています。 御鉢の底(噴火口の底)は標高 1206 mです。 深さは202 mです。 左下のピンクの花はミヤマキリシマ。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
ここは1913年にも爆発しました。



写真CJ: 高千穂峰の寄生火山である御鉢(おはち、標高 1408 m)の噴火口の内側が見えています。 御鉢の底(噴火口の底)は標高 1206 mです。 深さは202 mです。 手前のピンクの花はミヤマキリシマ。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。



写真CK: 高千穂峰の寄生火山である御鉢(おはち、標高 1408 m)の噴火口の内側が見えています。 御鉢の底(噴火口の底)は標高 1206 mです。 深さは202 mです。 手前のピンクの花はミヤマキリシマ。
 ここで初めて高千穂峰が見えてきました。 噴火口の縁(ふち)の奥の山が高千穂峰(標高 1573.4 m)です。



写真CL: ここは御鉢の噴火口の縁(ふち)が登山道になっています。 この縁は「火口の底の北側」です。 ミヤマキリシマのピンクの花がきれいです。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真CM: これが御鉢(高千穂峰の寄生火山)の底です。 噴火口の底です。 御鉢の底(噴火口の底)は標高 1206 mです。 深さは202 mです。 噴火口の底は白っぽく見えています。 底には大きな岩や石も見えます。 火口の内面からの土石が流れ落ちている所が白い部分に見られます。 ミヤマキリシマのピンクの花も多く咲いています。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。 ここは1913年にも爆発しました。



写真CN: 御鉢(おはち)の噴火口の縁(ふち)が登山道になっています。 左の岩(火山弾)の向こうに指導標、右の奥に高千穂峰が見えています。



写真CO: 御鉢(おはち、標高 1408 m)の噴火口の縁(ふち)が登山道になっています。 奥に高千穂峰(標高 1573.4 m)が見えています。
高千穂峰登山の「高千穂河原コース」はまず御鉢に登り、引き続いて高千穂峰に登ります。



写真CP: 御鉢の噴火口の縁(ふち)。 高千穂峰登山の「高千穂河原コース」はまず御鉢に登り、引き続いて高千穂峰に登ります。



写真CQ: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)。



写真CR: 御鉢の噴火口の縁(ふち)からの景色。 右に高千穂河原の駐車場が見えます。



写真CS: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)からの展望。



写真CT: 御鉢の噴火口の縁(ふち)にある指導標。



写真CU: 御鉢の噴火口の縁(ふち)にある指導標。



写真CV: 御鉢の噴火口の縁(ふち)にある指導標の近くの岩(火山弾)で、休息を取りました。 水を飲みお菓子を食べました。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真CW: 高千穂峰に登るにはこの御鉢の噴火口の縁(ふち)を進みます。 縁の先に高千穂峰が見えています。



写真CX: 御鉢の噴火口の縁(ふち)も赤っぽい火成岩の砕(くだ)けたもので出来ています。
左手前の山は矢岳(やたけ、1121.6 m)です。



写真CY: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)から見た霧島連山。
右手前の山は矢岳(やたけ、1121.6 m)です。 奥右は夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)。



写真CZ: 御鉢の噴火口の縁(ふち)から見た景色。 手前が中岳(なかだけ、1332 m)、新燃岳(しんもえだけ、1421 m、ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えています)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)が連なっています。
一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ、標高1411 m)の縁(ふち)です。



写真DA: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)。 左下に、境界を示す黄色の「四角の棒」が見えます。 下方遠くに高千穂河原の駐車場とそれの手前の霧島神宮古宮の敷地も見えます。



写真DB: 御鉢の噴火口の縁(ふち)から見た景色。 右下方に高千穂河原の駐車場とそれの手前の霧島神宮古宮の敷地も見えます。



写真DC:  御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)。



写真DD: 御鉢(おはち)の噴火口の縁(ふち)。 左端に指導標の棒が見えます。



写真DE: 御鉢の噴火口の縁(ふち)。 指導標の棒のそばに数個の岩(火山弾)があります。 これから高千穂峰に登る登山者が見えます。 左奥に高千穂峰が見えています。 御鉢の噴火口の内側に水平の縞模様(しまもよう)があります。



写真DF: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)から見た景色。 下方に高千穂河原の駐車場も見えます。



写真DG: 御鉢の噴火口の縁(ふち)から見た景色。 下半分は中岳の斜面。



写真DH: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)から見た眺望(ちょうぼう)。 手前が中岳、次が新燃岳(ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えます)、その奥は韓国岳です。
一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ、標高1411 m)の縁(ふち)です。



写真DI: 御鉢の噴火口の縁(ふち)から見た展望。 手前が中岳、次が新燃岳(ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えます)、獅子戸岳、その奥は韓国岳です。



写真DJ: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)から見た展望。 手前が中岳、次が新燃岳(ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えます)、獅子戸岳、その奥は韓国岳です。 右端は大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)の稜線です。 獅子戸岳から大幡山へ行く登山道があります。



写真DK: 御鉢の噴火口の縁(ふち)。 指導標の棒のそばに岩(火山弾)が数個あります。



写真DL: 御鉢(高千穂峰の寄生火山)の噴火口の縁(ふち)。 指導標の棒のそばに岩(火山弾)が数個あります。 地面は赤っぽい火成岩の砕けたものです。



写真DM: この細い登山道は「馬の背(うまのせ)」と呼ばれています。
 御鉢の噴火口の縁(ふち)を通って高千穂峰に行きます。 火口の内面にピンクのツツジ科 ミヤマキリシマのお花畑が見えています。 ちょうど「馬の背」を進む登山者が見えます。
江戸時代末期、坂本竜馬は新妻の手を取ってこの 馬の背越え を進みました。

 この「馬の背」では強風の時に、50歳代の男の人が左(火口の外側)に風であおられて滑落し死亡されたことがあります。 強風時は十分に注意が必要です。 場合によっては、這(は)って進むのがよいかもしれません。 ガス(霧)が出たときも注意が必要です。
地面の色は、手前が赤っぽく先の方が黒っぽい。 軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真DN: 御鉢噴火口の縁(ふち)の細い登山道(通称 「馬の背」)をこれから進みます。 めざす高千穂峰が正面奥に見えます。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
江戸時代末期、坂本竜馬は新妻の手を取ってこの 馬の背越え を進みました。



写真DO: 御鉢噴火口の縁(ふち)の細い登山道(通称 「馬の背」)をこれから進みます。 めざす高千穂峰が正面奥に見えます。



写真DP: これが「馬の背」と呼ばれる登山道です。 右は噴火口の底、左は噴火口の外面です。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
このあたりの登山道は黒っぽい。 軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真DQ: これが噴火口の内面です。 ミヤマキリシマのピンクの花、水平の縞(しま)模様などが見えます。 軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。



写真DR: これが御鉢の噴火口の内面です。 中心の底は白っぽい色をしています。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
ここは1913年にも爆発しました。



写真DS: 御鉢の噴火口の内面。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
ここは1913年にも爆発しました。



写真DT: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」から登ってきた登山道を振り返ったもの。 噴火口の外面(右)も急な斜面であることが分かります。 この「馬の背」では強風の時に、50歳代の男の人が右(火口の外側)に風であおられて滑落し死亡されたことがあります。 強風時は十分に注意が必要です。 場合によっては、這(は)って進むのがよいかもしれません。 ガス(霧)が出たときも注意が必要です。
この登山道の奥の左に見える背の高い岩は「馬の鞍(くら)」と呼ばれる岩で、跨(またがる)ることも出来ます。



写真DU: 「馬の背」からみた高千穂峰。 高千穂峰の斜面の様子がよく分かります。 先に2人の登山者が見えています。



写真DV: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」からみた高千穂峰。 高千穂峰の斜面の様子がよく分かります。
 


写真DW: 「馬の背」からみた高千穂峰の斜面。 高千穂峰の斜面の様子がよく分かります。 斜面の下部は木が茂っていて緑色をしています。 左手前の山は矢岳(やたけ、1121.6 m)です。



写真DX: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」から見た霧島連山。 奥右は夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)、左は大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)。 右手前の山は矢岳(やたけ、標高 1121.6 m)。



写真DY: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」からみた高千穂峰。 斜面には谷もあります。 高千穂峰は約1万年前に出来ました。



写真DZ: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」からみた高千穂峰の山頂。 山頂の突起は、左から三角点のそばの石碑(せきひ)、その右の盛り上がりは「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が頂上にある石積み、その右の細く高いものは国旗を掲揚する竿(さお)、その右は石碑です。



写真EA: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」。
左に火山弾があります。 軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真EB: 「馬の背」からみた高千穂峰の斜面。 高千穂峰の斜面には「赤黒い谷」があります。  この「赤黒い谷」は、1958年に私が初めて登ったときの記憶にくっきりと残っています。 よほど印象的だったのでしょう。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真EC: 「馬の背」からみた高千穂峰の斜面。 高千穂峰の斜面には「赤黒い谷」があります。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真ED: 「馬の背」の所に、「橙色(だいだいいろ)の3個の円形の鏡」が設置してあります。 おそらく、レーザー光の反射鏡で距離などを測定するものでしょう。 右下の白っぽい部分は御鉢の底です。



写真EE: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」からみた高千穂峰。 高千穂峰に登る登山道が見えています。 右よりの所に霧島神宮元宮とその鳥居(とりい)が見えます。 霧島神宮元宮は高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ、馬の鞍(くら)の形をしたところ))にあります。 ミヤマキリシマのピンクの花が点々と見えます。
高千穂峰は約1万年前に出来ました。



写真EF: 御鉢の縁(ふち)である「馬の背」からみた霧島神宮元宮とその鳥居(とりい)。 霧島神宮元宮は高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ、馬の鞍(くら)の形をしたところ))にあります。 この鞍部は通称「背門の丘」。 ミヤマキリシマのピンクの花が点々と見えます。



写真EG: ここからは、「馬の背」から霧島神宮元宮がある高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ、馬の鞍(くら)の形をしたところ))に下ります。 御鉢の南側の縁(ふち)へはロープが張ってあって通行禁止になっています。
軽石の赤色と黒色のものの違いは、鉄の酸化の状態で決まります。 酸素が十分あるところでゆっくりと冷えたものは赤色です。 酸素が少ない(大きな軽石の内部や軽石の層の中心部の)ところで冷えたものは黒色です。



写真EH: ここからは、「馬の背」から霧島神宮元宮がある高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ、馬の鞍(くら)の形をしたところ))に下ります。 御鉢の南側の縁(ふち)へはロープが張ってあって通行禁止になっています。



写真EI: 「高千穂峰、高千穂河原」と書いてある指導標。



写真EJ: 「高千穂峰、高千穂河原」と書いてある指導標。



写真EK: 高千穂峰への登山道がよく見えています。 御鉢から霧島神宮元宮を通って高千穂峰に登ります。 霧島神宮元宮はコル(鞍部)にあって一番低いところです。 霧島神宮元宮とその鳥居(とりい)も見えます。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。



写真EL: ここが霧島神宮元宮です。 鳥居(とりい)も見えます。 
霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、高千穂河原に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、現在の地に建て替えられたものです。
手前にケルン(石を積んだもので登降路を示します)が見えます。 高千穂峰に登る登山道も見えます。 ミヤマキリシマのピンクの花が見えます。 見えている山が高千穂峰です。
この鞍部は通称「背門の丘」。 「背門の丘」は「千里が谷」あるいは「天の河原」とも呼ばれます。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。



写真EM: 「高千穂河原(鹿児島県)、高千穂峰」と書かれた指導標。 見えているのは霧島連山で、右は夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)、中央は大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)、左の高いものは韓国岳(からくにだけ、1700 m)です。



写真EN: 霧島神宮元宮。 祠(ほこら)、鳥居(とりい)、石碑(せきひ)、石垣(いしがき)などが見えます。 登山道は鳥居の左を通って高千穂峰に登ります。 後ろに見えている山が高千穂峰です。
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、高千穂河原に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、下方の現在の地に建て替えられたものです。 霧島神宮は下方へ下方へと遷移しています。
この鞍部(あんぶ)は通称「背門の丘」。 「背門の丘」は「千里が谷」あるいは「天の河原」とも呼ばれます。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真EO: 霧島神宮元宮。 祠(ほこら)、鳥居(とりい)、石碑(せきひ)、石垣(いしがき)などが見えます。 登山道は鳥居の左を通って高千穂峰に登ります。 後ろに見えている山が高千穂峰です。
 霧島神宮は、初め高千穂ノ峯と御鉢(おはち、噴火口)の間にありましたが、約1400年前の噴火により焼失してしまいました。 その後、高千穂河原に再建されましたが、それも約1000年前の噴火のため燃えてしまいました。 そのあと、霧島町(現 霧島市)の「待世」に移されましたが、いまの霧島神宮は約480年前、下方の現在の地に建て替えられたものです。 霧島神宮は下方へ下方へと遷移しています。
鳥居の右の石碑には
 この脊門丘の地(コル、鞍部(あんぶ))は、人皇第29代欽明天皇元年(皇紀1200年、西暦540年)僧慶胤(けいいん)が神殿を造営し天孫天津日高彦火ニニギノミコトを奉斎せし聖地なりと伝うこれ霧島神宮の創祀なり
と書かれています。
この鞍部(あんぶ)は通称「背門の丘」。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真EP: 霧島神宮元宮。 祠(ほこら)、お賽銭箱(さいせんばこ)、石碑(せきひ)、石垣が見えます。
右の石碑(平成18年11月5日に建立)には
 この脊門丘の地(コル、鞍部(あんぶ))は、人皇第29代欽明天皇元年(皇紀1200年、西暦540年)僧慶胤(けいいん)が神殿を造営し天孫天津日高彦火ニニギノミコトを奉斎せし聖地なりと伝うこれ霧島神宮の創祀なり
と書かれています。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真EQ: 「霧島神宮元宮之記」の説明棒(平成18年11月5日に建立)。
 この脊門丘の地(コル、鞍部(あんぶ))は、人皇第29代欽明天皇元年(皇紀1200年、西暦540年)僧慶胤(けいいん)が神殿を造営し天孫天津日高彦火ニニギノミコトを奉斎せし聖地なりと伝うこれ霧島神宮の創祀なり
と書かれています。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真ER: 霧島神宮元宮。 祠(ほこら)、お賽銭箱(さいせんばこ)、石畳(せきひ)、石垣が見えます。 榊(さかき)の枝が供(そな)えてありました。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。
ここ「背門の丘」は「千里が谷」あるいは「天の河原」とも呼ばれます。



写真ES: 霧島神宮元宮から高千穂峰に登ります。 このあたりは丸太(まるた)の階段(実はこれは落石防止の丸太)があります。



写真ET: 霧島神宮元宮と高千穂峰の間の登山道の様子。 これからが第2の難所です。 直登(真っ直ぐ登ること)のザレ場、ガレ場があります。
このルートにもザレ場(小石や砂の多いところ)があります。 斜面の左側にはザレ場が多い。 右寄りを登ると楽です。
しかし、ザレ場も面白いと思います。



写真EU: 高千穂峰にかなり登ってきました。 今登ってきた御鉢(おはち)を振り返ったもの、コル(鞍部(あんぶ))にある霧島神宮元宮も小さく見えます。 御鉢の北斜面(右側)、南斜面(左側)の様子も見えます。 この北斜面の赤っぽい谷も見えます。 先ほど通った「馬の背」は御鉢の北側(右)の縁(ふち)です。



写真EV: 高千穂峰の中腹から御鉢(おはち)、霧島神宮元宮(コル(鞍部(あんぶ))にあります)を見たもの。 先ほど通った「馬の背」は御鉢の北側(右)の縁(ふち)です。



写真EW: 高千穂峰の中腹から御鉢(おはち)を見たもの。 御鉢の北斜面(右側)、南斜面(左側)の様子も見えます。 この北斜面の赤っぽい谷も見えます。 先ほど通った「馬の背」は御鉢の北側(右)の縁(ふち)です。 下山している人も見えます。



写真EX: 霧島神宮元宮と高千穂峰の間の登山道の様子。 このあたりは埋(う)もれかけた丸太(まるた)の階段(実はこれは落石防止の丸太)があります。 右遠くは御鉢。 「高千穂峰、高千穂河原。 お互い譲り合いましょう。 九州自然歩道 宮崎県」と書かれた指導標も見えます。



写真EY: 「高千穂峰、高千穂河原。 お互い譲り合いましょう。 九州自然歩道 宮崎県」と書かれた指導標。



写真EZ: 「高千穂峰、高千穂河原。 お互い譲り合いましょう。 九州自然歩道 宮崎県」と書かれた指導標。 そばにロープの柵(さく)もあります。



写真FA: 高千穂峰の山頂が見えてきました。 国旗掲揚の高い竿(さお)の左にある盛り上がったところが「高千穂峰の山頂」です。 右端に丸太(まるた)の階段、柵(さく)が見えます。
この写真は高千穂峰の地面の様子がよく分かります。
高千穂峰は約1万年前に出来ました。



写真FB: これが登山道から見た「高千穂峰の頂上」です。 山頂には「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が石盛の上にあります。 この石盛の回りは鎖(くさり)が張ってあり、その回りは更(さら)に水平の丸太の柵(さく)があります。 丸太の柵の右には石碑(せきひ)、国旗掲揚ポールも見えます。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾に天狗(てんぐ)の顔があると新妻と微笑しあい、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 坂本竜馬は下山後、霧島神宮に行きました。
 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真FC: これが登山道から見た「高千穂峰の山頂」です。 山頂には「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が石盛の上にあります。 この石盛の回りは鎖(くさり)が張ってあり、その回りは更(さら)に水平の丸太の柵(さく)があります。 丸太の柵の右には石碑(せきひ)、国旗掲揚ポールも見えます。 丸太の柵の左にも石碑(せきひ)があり、その石碑のすぐ右下に「三角点」があります。
この写真は高千穂峰山頂の地面の様子がよく分かります。



写真FD: これが登山道から見た「高千穂峰の頂上」です。 山頂には「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が石盛の上にあります。 この石盛の回りは鎖(くさり)が張ってあり、その回りは更(さら)に水平の丸太の柵(さく)があります。 丸太の柵の右には石碑(せきひ)、鳥居(とりい)、指導標が見えます。 丸太の柵の左にも石碑(せきひ)があり、その石碑のすぐ右下に「三角点」があります。
高千穂峰は約1万年前に出来ました。



写真FE: これが登山道から見た「高千穂峰の山頂」です。 一番高い国旗掲揚のポールの右の方に山小屋の避雷針が見えます。



写真FF: 高千穂峰の山頂近くから登ってきた登山道を振り返ったもの。 西方向を見た景色。 御鉢(おはち)も見えます。



写真FG: 「高千穂峰」に登頂しました。



写真FH: 高千穂峰の頂上にある山小屋(赤い屋根)。 左に避雷針が見えます。 山小屋は山頂の南東側にあります。 閉まっていました。
山頂の山小屋は昭和初期に出来ました。 3代目の峰守は石橋晴生さんで、続けていくことが困難になりやめられたそうです。



写真FI: 高千穂峰の山頂。 一番高いところの石積みの上に「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が見えます。 左から石碑(せきひ)、指導標、説明板、天の逆鉾、鳥居(とりい)、お賽銭箱(さいせんばこ、御神前と書いてあります)、石碑(せきひ)、国旗掲揚ポールが見えます。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花も見えています。
「三角点」はこの左裏にあります。



写真FJ: 高千穂峰の山頂。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾に天狗(てんぐ)の顔があると新妻と微笑しあい、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 坂本竜馬は下山後、霧島神宮に行きました。 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真FK: 高千穂峰の山頂。 左から「霊峯 高千穂峯 海抜 1573 米」と書かれた石碑、「高千穂河原、霧島東神社。 九州自然歩道 宮崎県」と書いてある指導標、説明板、天の逆鉾(さかほこ)、しめ縄、御幣(ごへい)、鳥居(とりい)、お賽銭箱(さいせんばこ)が見えています。



写真FL: 高千穂峰の山頂。 左から天の逆鉾(さかほこ)、鳥居、お賽銭箱、石碑、国旗掲揚ポール、少し低いところの右端は絵地図板の側面。



写真FM: 高千穂峰の山頂。 左から石碑(せきひ)、絵地図板の側面、避雷針、赤い屋根は山小屋。 山小屋は閉まっていました。



写真FN: 高千穂峰の山頂。 南東方向を見たもの。 赤い屋根は山小屋、右に見えている四角いものは有料トイレの屋根。 山小屋、有料トイレは閉まっていました。



写真FO: 高千穂峰の山頂。 西方向を見たもの。 柵(さく)が見えます。



写真FP: 高千穂峰の山頂。 柵(さく)が見えます。



写真FQ: 高千穂峰の山頂。 北西の方を見た景色。 右端の一部見えている山は韓国岳、その手前は新燃岳、中岳。



写真FR: 高千穂峰の北方向の景色。 高千穂峰の山頂から見えている山は、霧島連山で、手前が「中岳(なかだけ、1332 m)」、「新燃岳(しんもえだけ、1421 m、ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えています)」、「獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)」、一番高い「韓国岳(からくにだけ、1700 m)」、「甑岳(こしきだけ、1301 m)」が連なっています。
一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ)の縁(ふち)です。
 「霊峯 高千穂峯 海抜 1573 米」と書かれた石碑、「高千穂河原、霧島東神社。 九州自然歩道 宮崎県」と書いてある指導標が見えます。



写真FS: 高千穂峰の山頂。 一番高いところの石積みの上に「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が見えます。 左から石碑(せきひ)、指導標、説明板、天の逆鉾、鳥居(とりい)、お賽銭箱(さいせんばこ)が見えます。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花も見えています。



写真FT: 高千穂峰の山頂。 一番高いところの石積みの上に「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が見えます。 左から指導標、説明板、天の逆鉾、鳥居(とりい)、お賽銭箱(さいせんばこ、御神前と書いてあります)、「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)、国旗掲揚ポールが見えます。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花も見えています。
「三角点」はこの左裏にあります。



写真FU: 高千穂峰の山頂。 一番高いところの石積みの上に「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が見えます。 左から石碑(せきひ)、指導標、説明板、天の逆鉾、鳥居(とりい)、お賽銭箱(さいせんばこ、御神前と書いてあります)、「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)が見えます。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花も見えています。
「三角点」はこの左裏にあります。



写真FV: 高千穂峰の頂上。 左から「霊峯 高千穂峯 海抜 1573 米」と書かれた石碑、「高千穂河原、霧島東神社。 九州自然歩道 宮崎県」と書いてある指導標。
見えている山は右奥が「甑岳(こしきだけ、1301 m)」、その左が一番高い「韓国岳(からくにだけ、1700 m)」。



写真FW: 「高千穂河原、霧島東神社。 九州自然歩道 宮崎県」と書いてある指導標、右奥は天の逆鉾(あまのさかほこ)。



写真FX: 高千穂峰の山頂にある「高千穂河原、霧島東神社。 九州自然歩道 宮崎県」と書いてある指導標。 高千穂峰は宮崎県です。



写真FY: 高千穂峰の山頂。 一番高いところの石積みの上に「天の逆鉾(あまのさかほこ)」が見えます。 左から石碑(せきひ)、指導標、説明板、天の逆鉾、鳥居(とりい)、お賽銭箱(さいせんばこ、御神前と書いてあります)、「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)、国旗掲揚ポールが見えます。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花も見えています。
「三角点」はこの左裏にあります。



写真FZ: 高千穂峰の山頂。 「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)があります。 宮崎県高原町の高原ライオンズC建立。



写真GA: 高千穂峰の頂上。 「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)があります。 宮崎県高原町の高原ライオンズC建立。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真GB: 高千穂峰の山頂。 「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)があります。 宮崎県高原町の高原ライオンズC建立。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。



写真GC: 右から「九州自然歩道案内図」、天の逆鉾(あまのさかほこ)、鳥居、国旗掲揚ポール、「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾に天狗(てんぐ)の顔があると新妻と微笑しあい、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 坂本竜馬は下山後、霧島神宮に行きました。
 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真GD: 高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」。 上部は3本に分かれています。 下部には突起(とっき)が見えます。 石積みの上に立ててあります。 まわりは鎖(くさり)で囲ってあります。 ピンク色のミヤマキリシマの花や草が見えています。 外側は水平の木材(丸太(まるた))の柵(さく)があります。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾に天狗(てんぐ)の顔があると新妻と微笑しあい、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 坂本竜馬は下山後、霧島神宮に行きました。
 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真GE: 高千穂峰の頂上には「九州自然歩道案内図(絵地図)、環境省  宮崎県」があります。



写真GF: 「九州自然歩道 1.ここは、国立公園です。 動植物土石等は許可なく採取できません。 1.火気に注意しましょう。 1.ごみはもち帰りましょう。 環境省 宮崎県」と書かれた看板(かんばん)。



写真GG: 高千穂峰の山小屋。 赤い屋根にガラスの天窓が数個見えます。 手前に避雷針があります。 山小屋は閉まっていました。
山頂の山小屋は昭和初期に出来ました。 3代目の峰守は石橋晴生さんで、続けていくことが困難になりやめられたそうです。



写真GH: 高千穂峰の山頂から東を見た景色。 東尾根のコブ(二子石(ふたごいし、標高 1250 m、二ツ石とも呼ばれます)が見えています。 、これも古い高千穂峰の寄生火山で、火口の形は分かりにくくなっています。 高千穂峰の寄生火山は西側に御鉢(おはち)、東側に二子石(ふたごいし)があります。 遠く下に都城市、高原町の建物が小さく見えています。
左の遠くのコブに2つの石が尖(とが)って見えています。



写真GI: 高千穂峰の山頂から東を見た景色。 東尾根のコブ(二子石(ふたごいし、標高 1250 m、二ツ石とも呼ばれます)が見えています。 これも古い高千穂峰の寄生火山で、火口の形は分かりにくくなっています。 高千穂峰の寄生火山は西側に御鉢(おはち)、東側に二子石(ふたごいし)があります。 遠く下に都城市、高原町の建物が小さく見えています。
遠くのコブに2つの石が尖(とが)って見えています。



写真GJ: 高千穂峰の山頂から北東を見た景色。 高原町と小林市の建物が見えています。



写真GK: 高千穂峰の北方向を見たもの。 こちらにも柵(さく)があります。



写真GL: 高千穂峰の北方向を見たもの。 こちらにも柵(さく)があります。



写真GM: 天の逆鉾(あまのさかほこ)を東から見たもの。 その下部の両側に突き出た突起が見えます。 左手前は「九州自然歩道案内図(絵地図)、環境省  宮崎県」の看板の一部です。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾に天狗(てんぐ)の顔があると新妻と微笑しあい、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 坂本竜馬は下山後、霧島神宮に行きました。
 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真GN: 「九州自然歩道案内図(絵地図)、環境省  宮崎県」の看板、国旗掲揚ポール、「天孫ニニギノミコト降臨之霊峯」と書かれた石碑(せきひ)、鳥居も見えます。



写真GO: 高千穂峰の山頂にある「国旗掲揚ポールの上部」。



写真GP: 高千穂峰の山頂。 北西方向を見たもの。 白い台の上に石碑(せきひ、上面は方位地図)があります。 その石碑の左下に「三角点」があります。 高千穂峰の「三角点」、標高1573.4 m。 右に指導標と柵(さく)が見えます。
 霧島連山が見えます。 手前から(石碑の向こう)が中岳(なかだけ、1332 m)、新燃岳(しんもえだけ、1421 m、ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えています。 うっすらと火口からの噴煙が見えています。)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)、一番高い韓国岳(からくにだけ、1700 m)、韓国岳の右奥に甑岳(こしきだけ、1301 m)が連なっています。 右端は大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)の稜線です。 獅子戸岳から大幡山へ行く登山道があります。
一番遠くの石碑の後ろ部分は大浪池(おおなみのいけ)の縁(ふち)です。



写真GQ: 高千穂峰の山頂。 北西方向を見たもの。 白い台の上に石碑(せきひ、上面は方位地図)があります。 その石碑の手前に「三角点」があります。 高千穂峰の「三角点」、標高1573.4 m。 登山客も見えます。
 霧島連山が見えます。 手前から(左端)中岳(なかだけ、1332 m)、新燃岳(しんもえだけ、1421 m、ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えています。 うっすらと火口からの噴煙が見えています。)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)、一番高い韓国岳(からくにだけ、1700 m)、韓国岳の右奥に甑岳(こしきだけ、1301 m)が連なっています。 右端は大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)の稜線です。 獅子戸岳から大幡山へ行く登山道があります。 右手前の山は矢岳(やたけ、1121.6 m)です。 奥右は夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)。 霧島連山の内、白鳥山(しらとりやま、1363 m)だけは韓国岳の裏になって高千穂峰からは見えません
登山客も見えます。



写真GR: 高千穂峰の2等「三角点」。 標高1573.4(1573.36) m。



写真GS: 高千穂峰の2等「三角点」。 標高1573.4(1573.36) m。



写真GT: 高千穂峰の山頂。 北側から最高地点を見たもの。 石積みの上に天の逆鉾(あまのさかほこ)が立ててあります。



写真GU: 高千穂峰の山頂にある「三角点」と石碑(せきひ、上面は方位地図)。 後ろの一番高い山は韓国岳(からくにだけ、1700 m)。



写真GV: 「三角点」の近くにある石碑(上面は方位地図)の白い土台。



写真GW: 北側から見た「天の逆鉾(あまのさかほこ)」。 上部は3本に分かれています。 下部に突き出た突起が見えます。 まわりは鎖(くさり)で柵(さく)が作ってあります。
上空に鹿児島県警のヘリコプターが見えています。



写真GX: 上空に鹿児島県警のヘリコプターが見えています。



写真GY: 山頂の北から「高千穂河原コースの下山口」を見たもの。 遠く下に宮崎県の都城市、高原町の建物が見えます。 左端は天の逆鉾の柵(さく)。



写真GZ: 左端の柵(さく)の所が「高千穂河原コースの下山口」。 御鉢(おはち、1408 m)とその「馬の背(御鉢の火口の北側縁(ふち)」が見えます。 「馬の背」の外側斜面はかなりの急勾配(こうばい)です。



写真HA: 高千穂峰の山頂から見た御鉢(おはち、1408 m)。 西側の「御鉢」は東側の「二子石(ふたごいし、1250 m)」と共に高千穂峰の寄生火山です。



写真HB: 高千穂峰の山頂から見た霧島連山。
手前から(左)中岳(なかだけ、1332 m)、新燃岳(しんもえだけ、1421 m、ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えています)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)、一番高い韓国岳(からくにだけ、1700 m)、韓国岳の右奥に甑岳(こしきだけ、1301 m)が連なっています。 右端は大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)の稜線です。 獅子戸岳から大幡山へ行く登山道があります。 右手前の山は矢岳(やたけ、1121.6 m)です。 霧島連山の内、白鳥山(しらとりやま、1363 m)だけは韓国岳の裏になって高千穂峰からは見えません
左下の赤茶色の斜面は御鉢(おはち、1408 m)です。
一番遠くの韓国岳の左部分は大浪池(おおなみのいけ)の縁(ふち)です。



写真HC: 右手前の山は矢岳(やたけ、1121.6 m)です。 その奥の右端は夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)、その左が大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)。 その左に甑岳(こしきだけ、1301 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)。 獅子戸岳から大幡山へ行く尾根沿(ぞ)いの登山道があります。



写真HD: 高千穂峰の山頂から宮崎県高原町と小林市の建物が見えます。



写真HE: 北側から見た「天の逆鉾(あまのさかほこ)」。 上部は3本に分かれています。 下部に両側に突き出た突起が見えます。 中部はすこしゆがんでいます。 まわりは鎖(くさり)で柵(さく)が作ってあります。 右は国旗掲揚ポールです。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。
これは古事記や日本書紀の日向三代神話(日向神話)の部分に対応します。 日本神話の日向三代とは(1)ニニギノミコト、(2)山幸彦、(3)ウガヤフキアエズノミコトの三代です。
 「日向三代神話 (日向神話)」は次のような流れになっています。
(1)天孫降臨(ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん、高千穂峰、東霧島神社、霧島神宮;高千穂町、くしふる神社))、
(2)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚(西都市の都萬神社と記紀の道、宮崎市の木花神社)、
(3)火中出産(西都市の記紀の道)、
(4)ニニギノミコト(神武天皇のひいおじいさん)とコノハナサクヤヒメの子供の海幸彦と山幸彦(西都市の鹿野田神社、宮崎市の青島神社、鹿児島県の霧島市 鹿児島神宮)、
(5)山幸彦(神武天皇のおじいさん)が海宮(龍宮)へ、
(6)山幸彦と豊玉姫命(神武天皇のおばあさん、鹿児島県の南九州市と指宿市の豊玉姫神社など)の子、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)の誕生(日南市の鵜戸神宮)、
(7)ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫命の妹の玉依姫命(日南市の宮浦神社)が結婚し、第4子 神武天皇が生まれました。 神武天皇(高原町の狭野神社、宮崎市の宮崎神宮、皇宮神社など)が吾平津姫(日南市の吾平津神社)と結婚、長男を連れて神武天皇が神武東征(美々津から出港して橿原(奈良県)地方へ)。
 天の逆鉾は一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾に天狗(てんぐ)の顔があると新妻と微笑しあい、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 坂本竜馬は下山後、霧島神宮に行きました。
 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真HF: 高千穂峰の山頂から見た御鉢(おはち)の火口の縁(ふち)にある登山道(通称 「馬の背」)がよく見えています。
「馬の背」の真っ白の線は鹿児島県警察学校の学生さん達(約100名)です。



写真HG: 高千穂峰の山頂。 「霊峯 高千穂峯 海抜 1573 米」と書かれた石碑(せきひ)の裏。



写真HH: 高千穂峰の山頂。



写真HI: 「霊峯 高千穂峯 海抜 1573 米」と書かれた石碑(せきひ)と「高千穂河原、霧島東神社。 九州自然歩道 宮崎県」と書いてある指導標。



写真HJ: 高千穂峰の山頂。 有料トイレの四角いコンクリートの上部が見えます。 トイレは閉まっていました。 下方遠くに宮崎県の都城市、高原町の建物が見えます。



写真HK: 高千穂峰の山頂。 下方遠くに宮崎県の都城市、高原町の建物が見えます。



写真HL: 高千穂峰の山頂。 高千穂河原コースの下山口近くの柵(さく)が見えます。 ピンクのミヤマキリシマの花が見えています。



写真HM: 高千穂峰の山頂。 下方遠くに宮崎県の都城市、高原町の建物が見えます。



写真HN: 高千穂峰の山頂。 これが有料トイレです。 「有料トイレ 1人100円 カギ 山小屋へ」とドアに書いてあります。



写真HO: 高千穂峰の山頂。 これが有料トイレです。 「有料トイレ 1人100円 カギ 山小屋へ」とドアに書いてあります。 トイレは閉まっていました。



写真HP: 高千穂峰の山頂にある山小屋。 閉まっていました。 コンクリート造りで屋根は赤く塗(ぬ)られたトタンのようです。 青いところが出入り口です。
山頂の山小屋は昭和初期に出来ました。 3代目の峰守は石橋晴生さんで、続けていくことが困難になりやめられたそうです。



写真HQ: 高千穂峰の山頂から東を見た景色。 二子石(ふたごいし)がある東尾根が見えます。 下方遠くに宮崎県の都城市、高原町の建物が見えます。



写真HR: 高千穂峰の山頂にある山小屋。 100ボルトの電線が見えます。 上から明かり窓、蛍光灯の玄関灯、青い出入り口のドアが見えます。



写真HS: 高千穂峰の山頂にある山小屋。 青い出入り口のドアです。



写真HT: 左は高千穂峰の山小屋。 登山者も3人見えます。



写真HU: 「霧島東神社」と書かれた指導標。 今日登った高千穂河原コースは西から登りましたが、霧島東神社の方のコースは反対側の東から高千穂峰に登るコースです。 雲海の中に遠くの山(九州山地)が見えています。



写真HV: 天の逆鉾(あまのさかほこ)を東から見たもの。



写真HW: 天の逆鉾(あまのさかほこ)を東から見たもの。



写真HX: 天の逆鉾(あまのさかほこ)を東から見たもの。



写真HY: 高千穂峰の山頂。 山頂の東寄りの所。



写真HZ: 高千穂峰から東を見た景色。 右端に二子石(ふたごいし、二ツ石とも呼ばれます)がある東尾根が見えています。 「霧島東神社」と書かれた指導標もあります。 ここが東側の登山コースの下山口です。 下方遠くに宮崎県高原町の建物が見えています。



写真IA: 高千穂峰から東を見た景色。 二子石(ふたごいし、二ツ石とも呼ばれます)がある東尾根が見えています。 ここが東側の登山コースの下山口です。 左の遠くのコブに2つの石が尖(とが)って見えています。



写真IB: 高千穂峰の山小屋。 ガラスの天窓が数個見えます。 山小屋は風当たりの少ないところに建ててあります。
山頂の山小屋は昭和初期に出来ました。 3代目の峰守は石橋晴生さんで、続けていくことが困難になりやめられたそうです。



写真IC: 「霧島東神社」と書かれた指導標。 山小屋に割りと近いところにあります。 ここが東側の登山コースの下山口です。 東からの高千穂峰登山コースは、(a)天孫降臨コース、(b)皇子原コース、(c)霧島東神社コース、(d)夢ヶ丘コースがあります。 東からの4つのコースは上部で合流してすべてこの地点に着きます。



写真ID: 「霧島東神社」と書かれた指導標の近くにある東への下山口。 丸太(まるた)の階段があります。 山小屋に割りと近いところにあります。 ここが東側の登山コースの下山口です。 東から登る高千穂峰登山コースは、(a)天孫降臨コース、(b)皇子原コース、(c)霧島東神社コース、(d)夢ヶ丘コースがあります。 東からの4つのコースは上部で合流してすべてこの地点に着きます。
高千穂峰の東尾根がよく見えています。 東からの4つのコースは山頂に近づくとすべてこの尾根を通ります。
遠くのコブに2つの石が尖(とが)って見えています。



写真IE: 「霧島東神社」と書かれた指導標の近くにある東への下山口。 丸太(まるた)の階段があります。 山小屋に割りと近いところにあります。 ここが東側の登山コースの下山口です。 東から登る高千穂峰登山コースは、(a)天孫降臨コース、(b)皇子原コース、(c)霧島東神社コース、(d)夢ヶ丘コースがあります。 東からの4つのコースは上部で合流してすべてこの地点に着きます。
高千穂峰の東尾根がよく見えています。 東からの4つのコースは山頂に近づくとすべてこの尾根を通ります。



写真IF: 東からのコースの下山口の様子。 地面はこのような火成岩が砕(くだ)けたものです。



写真IG: 天の逆鉾。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が霧島神宮を経(へ)て高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真IH: 東から見た「天の逆鉾(あまのさかほこ)」。 上部は3本に分かれていますが、この方向からは重(かさ)なって1本に見えます。 下部に両側に突き出た突起が見えます。 まわりは鎖(くさり)で柵(さく)が作ってあります。
「天の逆鉾(あまのさかほこ)」は高千穂峰の山頂にあります。 天の逆鉾は大国主命からニニギノミコトに譲り渡され国家平定に使われ、その後、国家の安定を願って鉾が二度と使われることのないようにと高千穂峰の山頂に突き立てたと伝承されています。 一説では奈良時代にはすでに立っていたそうです。 江戸時代末期に坂本竜馬が高千穂峰に登ったとき、天の逆鉾に天狗(てんぐ)の顔があると新妻と微笑しあい、天の逆鉾を引き抜きました。 このことは彼の姉への手紙に書いてあります。 この手紙は桂浜の竜馬記念館に残っています。 坂本竜馬は下山後、霧島神宮に行きました。
 その後、この天の逆鉾は火山の噴火で折れてしまい、現在山頂にあるのはレプリカ(複製)だそうです。 もとの柄(つか)の部分は地中に残っていて、刃の部分は島津家に献上され、近くの神社に奉納されましたが、現在行方不明になっているそうです。 喜田貞吉は神皇正統記を読んだ地元の修験者が霧島山降臨の話を作り出して、高千穂峰の山頂に天の逆鉾を置いたと推測しています。



写真II: いよいよ高千穂峰からの下山です。 下りはピストンで、登りと同じ「高千穂河原コース」です。 柵(さく)と御鉢(おはち)が見えます。




写真IJ: 御鉢の方に鹿児島県警のヘリコプターが見えています。



写真IK: 御鉢の方に鹿児島県警のヘリコプターが見えています。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。



写真IL: 御鉢の方に鹿児島県警のヘリコプターが見えています。



写真IM: 御鉢の「馬の背」と鹿児島県警のヘリコプター。 御鉢の赤黒い谷が手前に見えています。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。



写真IN: 鹿児島県警のヘリコプター。 左の赤っぽい斜面は御鉢で、遠くの緑の斜面は中岳。



写真IO: 鹿児島県警のヘリコプター。 高千穂峰の山頂から。
霧島連山がよく見えています。 新燃岳の「噴煙」がくっきりと白く見えています。  手前から(左)中岳(なかだけ、1332 m)、新燃岳(しんもえだけ、1421 m、ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えています。 新燃岳の「噴煙」がくっきりと白く見えています。)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)、一番高い韓国岳(からくにだけ、1700 m)。 霧島連山の内、白鳥山(しらとりやま、1363 m)だけは韓国岳の裏になって高千穂峰からは見えません
一番遠くの左の部分は大浪池(おおなみのいけ)の縁(ふち)です。



写真IP:  鹿児島県警のヘリコプターが写っています。 高千穂峰の山頂から。
霧島連山がよく見えています。 左に新燃岳の「噴煙」がくっきりと白く見えています。  手前から新燃岳(しんもえだけ、1421 m、ウサギの耳と呼ばれる2つの突起が見えています。 
新燃岳の「噴煙」がくっきりと白く見えています。)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m、左にある茶色の獅子の顔に似た部分も見えます)、一番高い韓国岳(からくにだけ、1700 m)、韓国岳の右奥に甑岳(こしきだけ、1301 m)が連なっています。 右端は大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)の稜線です。 獅子戸岳から大幡山へ行く登山道があります。 霧島連山の内、白鳥山(しらとりやま、1363 m)だけは韓国岳の裏になって高千穂峰からは見えません



写真IQ: 高千穂峰から高千穂河原に下る下山口付近です。 埋(う)もれかかった丸太(まるた)の階段(実は落石防止の丸太)があります。 御鉢に向かって降りていく感じになります。 登山者も見えています。



写真IR: 御鉢に向かって降りていく感じになります。 登山者も見えています。



写真IS: 高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ))に霧島神宮元宮があります。 その付近で鹿児島県 警察学校の学生さん(約100名)が、空中に停止しているヘリコプターから人がロープで下りてくるのを見学しています。  鹿児島県警のヘリコプターから降りている人が白く見えています。



写真IT: 高千穂峰から御鉢に行く下山道の様子。



写真IU: 途中で修験者(しゅげんじゃ、行者)の方とお会いしました。 「磯足袋(いそたび)」と呼ばれる地下足袋(じかたび)の底に鉄釘(てつくぎ)のようなスパイクが付いているものを使用していました。 これだと冬のアイスバーンでも大丈夫だそうです。 今60歳代の男の方で3000回以上、高千穂峰に登ったそうです。 雷が鳴っているときも登られたそうです。 若いときは霧島連山の縦走を一日で往復したこともあるそうです。 すごい方にお会いできました。 お話を伺(うかが)うことが出来ました。 御礼申し上げます。



写真IV: 途中で修験者(しゅげんじゃ、行者)の方とお会いしました。 「磯足袋(いそたび)」と呼ばれる地下足袋(じかたび)の底に鉄釘(てつくぎ)のようなスパイクが付いているものを使用していました。 これだと冬のアイスバーンでも大丈夫だそうです。 今60歳代の男の方で3000回以上、高千穂峰に登ったそうです。 雷が鳴っているときも登られたそうです。 若いときは霧島連山の縦走を一日で往復したこともあるそうです。 すごい方にお会いでき、お話を伺(うかが)うことが出来ました。 御礼申し上げます。



写真IW: ヘリコプターの訓練が終わって、鹿児島県 警察学校の学生さん(約100名)が登ってこられました。 皆さん、同じ I型の登山用杖(つえ)を使用しておられました。




写真IX: 高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ))に霧島神宮元宮があります。 その白い鳥居(とりい)が見えてきました。 見えている山は御鉢(おはち)です。 ツツジ科 ミヤマキリシマのピンクの花がここにも咲いています。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。



写真IY: 高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ))付近の景色。 近くに見えている山は御鉢。



写真IZ: 霧島神宮元宮が近づいてきました。 白い鳥居が見えます。
この鞍部(あんぶ)は通称「背門の丘」。 「背門の丘」は「千里が谷」あるいは「天の河原」とも呼ばれます。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真JA: 高千穂峰と御鉢の間のコル(鞍部(あんぶ))に霧島神宮元宮があります。 石を積んだケルンも見えます。
この鞍部(あんぶ)は通称「背門の丘」。 「背門の丘」は「千里が谷」あるいは「天の河原」とも呼ばれます。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真JB: 石碑(平成18年11月5日に建立)には
 この脊門丘の地(コル、鞍部(あんぶ))は、人皇第29代欽明天皇元年(皇紀1200年、西暦540年)僧慶胤(けいいん)が神殿を造営し天孫天津日高彦火ニニギノミコトを奉斎せし聖地なりと伝うこれ霧島神宮の創祀なり
と書かれています。
ここの脊門丘(せとお)の地(コル、鞍部(あんぶ))は天孫降臨の地といわれ、霧島岑神社(みねじんじゃ)がありましたが、噴火で焼け霧島神宮、霧島東神社、狭野神社(さのじんじゃ)などに分社化されました。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真JC: 霧島神宮元宮の近くにはケルン(石を積み上げたもので登降路を示します)が数個あります。 私達も奥右のケルンに石を積みました。 近くに見えている山は御鉢。
この鞍部(あんぶ)は通称「背門の丘」。 「背門の丘」は「千里が谷」あるいは「天の河原」とも呼ばれます。
この鞍部(あんぶ)と高千穂峰の山頂との標高差は約170 mです。



写真JD: 御鉢(おはち)の火口の縁(ふち)に登ってきました。 霧島連山が見えます。 ここからは甑岳(こしきだけ)と白鳥山(しらとりやま)は韓国岳の後ろ側になって見えません。 高千穂峰からは甑岳は見えました。



写真JE: 御鉢(おはち)の火口の縁(ふち)に登ってきました。 霧島連山が見えます。 ここからは甑岳(こしきだけ)と白鳥山(しらとりやま)は韓国岳の後ろ側になって見えません。 高千穂峰からは甑岳は見えました。



写真JF: 先ほど下ってきた高千穂峰からの下山道を、御鉢(おはち)の火口の縁(ふち)から振り返ったもの。



写真JG: 高千穂峰の寄生火山である御鉢の縁(ふち)。 この登山道は「馬の背」と呼ばれます。 馬の背の大きな石が見えます。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。



写真JH: 高千穂峰の寄生火山である御鉢の縁(ふち)。 この登山道は「馬の背」と呼ばれます。 馬の背の大きな石も見えます。



写真JI: 高千穂峰の寄生火山である御鉢の縁(ふち)。 この登山道は「馬の背」と呼ばれます。 ミヤマキリシマのお花畑があります。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
登山道の奥に見えている背の高い岩は「馬の鞍(くら)」と呼ばれ、人が跨(またが)ることも出来ます。



写真JJ: 御鉢(おはち)の馬の背にある「三角点」。 標高 1408 m。



写真JK: 高千穂峰の寄生火山である御鉢(おはち)の馬の背にある「三角点」。 標高 1408 m。



写真JL: 高千穂峰の寄生火山である御鉢(おはち)の馬の背にある大きな岩。
「御鉢(おはち)」は高千穂峰の西斜面にある直径 約600 m、深さ 約200 mの噴火口を持つ円形火山です。 今から3000年前に活動を始めました。 火口壁の頂上付近は絶壁でこの上の登山道は 馬の背越え と呼ばれます。 明治時代には火口底で硫黄の採掘が行われていました。
この背の高い岩は「馬の鞍(くら)」と呼ばれ、人が跨(またが)ることも出来ます。



写真JM: 御鉢の縁(ふち)から離れて、高千穂河原に向けて下ります。 高千穂河原の駐車場と霧島神宮古宮が下遠くに見えてきました。
このあたりのザレ場、ガレ場は下りは特に転びやすいので注意してください。 ザレ場は砂や小石の多いところ、ガレ場は少し大きめの石の多いところです。



写真JN: 御鉢の縁(ふち)から離れて、高千穂河原に向けて下ります。 このあたりのザレ場、ガレ場は下りは特に転びやすいので注意してください。 ザレ場は砂や小石の多いところ、ガレ場は少し大きめの石の多いところです。



写真JO: ここの登山道の地面の様子。



写真JP: 御鉢の縁(ふち)から離れて、高千穂河原に向けて下ります。 このあたりのザレ場、ガレ場は下りは特に転びやすいので注意してください。 ザレ場は砂や小石の多いところ、ガレ場は少し大きめの石の多いところです。 高千穂河原の駐車場と霧島神宮古宮が下遠くに見えています。



写真JQ: 霧島連山の手前から2番目の新燃岳(しんもえだけ、標高 1421 m)の白い噴煙が空と後ろの韓国岳の斜面の手前によく見えています。 新燃岳の火口からは間欠的に噴煙が出ていました。



写真JR: 御鉢の斜面の登山道にも、岩肌に背の低いミヤマキリシマがあり、美しい花を咲かせていました。 風当たりが強いので背が低いのでしょう。 下方の駐車場のものは背が高いミヤマキリシマが多く見られます。



写真JS: 登山道にも可愛いミヤマキリシマの花を見つけました。 御鉢の斜面の登山道にも、岩肌に背の低いミヤマキリシマがあり、美しい花を咲かせていました。 風当たりが強いので背が低いのでしょう。 下方の駐車場のものは背が高いミヤマキリシマが多く見られます。



写真JT: 御鉢の斜面の登山道にも、岩肌に背の低いミヤマキリシマがあり、美しい花を咲かせていました。 風当たりが強いので背が低いのでしょう。 下方の駐車場のものは背が高いミヤマキリシマが多く見られます。



写真JU: かなり下ってきました。 高千穂河原の駐車場と霧島神宮古宮が下遠くに見えています。



写真JV: 御鉢の斜面を下る登山道。 高千穂河原の駐車場と霧島神宮古宮が下遠くに見えています。



写真JW: 御鉢斜面の森林限界の近くまで降りてきました。 高千穂河原の駐車場が下遠くに見えています。



写真JX: 森林限界付近にある「石の椅子(いす)」の所まで下ってきました。



写真JY: 「コガクウツギ」の白い花が咲いていました。 ユキノシタ科の高さ1 m以下の落葉の低木で、5月下旬から6月中旬頃に白い花が咲きます。 じつは白い花弁に見えるのは萼片(がくへん)で、装飾花といわれるものです。 葉が紺色(こんいろ)に光るので別名 コンテリギとも呼ばれます。



写真JZ: 「マムシ草」が登山道のそばにありました。 マムシグサはサトイモ科の多年草で、山野の林の下に生(は)えます。 葉は2枚で、鳥足状の複葉を付けます。 地下の球茎は有毒です。



写真KA: 霧島神宮古宮の建物が見えてきました。 このあたりのミヤマキリシマは標高の高いところのものより背が高い。 ミヤマキリシマの花と後ろに先ほど降りてきた御鉢(おはち)が見えます。 御鉢の下山道を先ほどの鹿児島県 警察学校の学生さん(約100名)達が降りてくるようすがここから双眼鏡でよく見えました。



写真KB: 霧島神宮古宮の建物が見えます。



写真KC: 高千穂河原登山口が近づきました。 霧島神宮古宮のそば。



写真KD: 御鉢の下山道を先ほどの鹿児島県 警察学校の学生さん(約100名)達が降りてくるようすがここから双眼鏡でよく見えました。
高千穂峰への登山道は御鉢の左の高い部分に見える赤っぽい斜面にあります。



写真KE: このあたりのミヤマキリシマは標高の高いところのものより背が高い。 ミヤマキリシマの花と後ろに先ほど降りてきた御鉢(おはち)が見えます。 御鉢の下山道を先ほどの鹿児島県 警察学校の学生さん(約100名)達が降りてくるようすがここから双眼鏡でよく見えました。



写真KF: 鹿児島県霧島市の高千穂河原にある霧島神宮古宮。 後ろに今降りてきた御鉢が見えます。 ここからは「高千穂峰」は御鉢の後ろになって見えません。 この鳥居(とりい)は明治39年5月に建立されました。
ここには、平安時代に霧島神宮がありました。



写真KG: 鹿児島県霧島市の高千穂河原にある霧島神宮古宮。 この鳥居(とりい)は明治39年5月に建立されました。
ここには、平安時代に霧島神宮がありました。
高千穂峰への登山道は御鉢の左の高い部分に見える赤っぽい斜面にあります。



写真KH: 鹿児島県霧島市の高千穂河原にある霧島神宮古宮。 この鳥居(とりい)は明治39年5月に建立されました。
ここには、平安時代に霧島神宮がありました。
高千穂峰への登山道は御鉢の左の高い部分に見える赤っぽい斜面にあります。



写真KI: 霧島神宮古宮の参道にある「霧島神宮境内」と書かれた石碑(せきひ)。



写真KJ: 「登山者へお知らせ。 高千穂峰中腹にある通称「背門の丘」において、本日山岳救助訓練を実施する予定です。 訓練内容 ヘリコプターによる低空ホバリング(一点停止)。 鹿児島県警察本部」
と書いてあります。
先ほどのヘリコプターはこの訓練でした。



写真KK: 「霧島屋久国立公園 高千穂河原」と書かれた石碑(せきひ)。
霧島屋久国立公園は、雲仙天草瀬戸内海国立公園とともに、我が国最初の国立公園として、昭和9年3月16日に指定されました。 この碑は、指定50周年を記念して建設したものです。
昭和59年10月 鹿児島県
と書いてあります。



写真KL: 「霧島屋久国立公園 高千穂河原」と書かれた石碑(せきひ)。
霧島屋久国立公園は、雲仙天草瀬戸内海国立公園とともに、我が国最初の国立公園として、昭和9年3月16日に指定されました。 この碑は、指定50周年を記念して建設したものです。
昭和59年10月 鹿児島県
と書いてあります。



写真KM: 高千穂河原にある川。



写真KN: 高千穂河原にある川。



写真KO: 「霧島屋久国立公園 高千穂河原」と書かれた石碑(せきひ)。 霧島屋久国立公園は、雲仙天草瀬戸内海国立公園とともに、我が国最初の国立公園として、昭和9年3月16日に指定されました。 この碑は、指定50周年を記念して建設したものです。
昭和59年10月 鹿児島県
と書いてあります。



写真KP: 鹿児島県霧島市の高千穂河原にある駐車場。



写真KQ: 鹿児島県霧島市の高千穂河原にある「中岳、新燃岳、九州自然歩道入口。 御鉢、高千穂峰。 高千穂河原」と書いてある指導標。



写真KR: 鹿児島県霧島市の高千穂河原。 見えている山は登った御鉢(おはち)。



写真KS: 「中岳、新燃岳、九州自然歩道入口」にある橋。 左に足洗い場があります。
中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口です。



写真KT: 「新燃岳 登山注意。 新燃岳火口内では、ごく小規模な噴火の発生の恐れがあります。 新燃岳火口内には、絶対に立ち入らないでください。 火山活動に異常を感じた場合は、直ちに下山してください。 平成20年10月 霧島市」
と書かれた看板(かんばん)。



写真KU: 中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口です。
右の木の手前の「小さな四角のもの」は、太陽電池を付けた「赤外線計数機」で、入山者数を数えるものです。 環境省えびの自然保護管事務所が設置しています。 高千穂峰の先ほどの登山道にも、同じものが森林地帯に設置されていました。
このあたりの登山道は敷石(しきいし)があります。



写真KV: 中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口のそばの様子です。



写真KW: 中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口のそばの様子です。



写真KX: 中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口のそばの様子です。



写真KY: 「中岳は霧島山を南北に縦走するコースの南端にあります。 山頂付近は高木がないため展望が良く、さまざまは火山地形の観察ができます。 環境省、鹿児島県」と書かれた看板(かんばん)があります。



写真KZ: 「九州自然歩道」。 霧島屋久国立公園。 霧島山、中岳登山道で見られる四季の花。 「中岳は霧島山を南北に縦走するコースの南端にあります。 山頂付近は高木がないため展望が良く、さまざまは火山地形の観察ができます。 環境省、鹿児島県」と書かれた看板(かんばん)があります。



写真LA: 赤外線計数機の上部。 太陽電池を付けた「赤外線計数機」で、入山者数を数えるものです。 環境省えびの自然保護管事務所が設置しています。 高千穂峰の先ほどの登山道にも、同じものが森林地帯に設置されていました。



写真LB: 赤外線計数機の下部。 太陽電池を付けた「赤外線計数機」で、入山者数を数えるものです。 環境省えびの自然保護管事務所が設置しています。 高千穂峰の先ほどの登山道にも、同じものが森林地帯に設置されていました。



写真LC: 中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口のそばにある水飲み場。



写真LD: 中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口のそばにある「高千穂河原ビジターセンター」。 この建物が高千穂河原ビジターセンターで、中に高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」のレプリカ(複製)が展示してあります。 その他、有益な情報が得られます。 この中の売店で、高千穂峰(たかちほのみね)、韓国岳(からくにだけ)、縦走の3種類の「登山記念バッチ」が売られています




写真LE: 中岳、新燃岳に登る高千穂河原登山口のそばにある「高千穂河原ビジターセンター」。 この建物が高千穂河原ビジターセンターで、中に高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」のレプリカ(複製)が展示してあります。 その他、有益な情報が得られます。 この中の売店で、高千穂峰(たかちほのみね)、韓国岳(からくにだけ)、縦走の3種類の「登山記念バッチ」が売られています



写真LF: 鹿児島県霧島市の高千穂河原にある食堂、土産物店(みやげものてん)など。



写真LG: 鹿児島県霧島市の高千穂河原にある食堂、土産物店(みやげものてん)など。



写真LH: 鹿児島県霧島市の高千穂河原。 見えている山は登った御鉢(おはち)。



写真LI: 鹿児島県霧島市の高千穂河原からの景色。 見えている山は登った御鉢(おはち)。



写真LJ: 鹿児島県霧島市の高千穂河原からの景色。 見えている山は登った御鉢(おはち)。



写真LK: 鹿児島県霧島市の高千穂河原。 高千穂峰の斜面で会った鹿児島県 警察学校の学生さんが下山してきました。



写真LL: 鹿児島県霧島市の高千穂河原。



写真LM: 鹿児島県霧島市の高千穂河原。 「霧島屋久国立公園 高千穂河原 標高970 米」と書いてある石碑(せきひ)。



写真LN: 鹿児島県霧島市の高千穂河原。 「霧島屋久国立公園 高千穂河原 標高970 米」と書いてある石碑(せきひ)。



写真LO: 「高千穂河原ビジターセンター 入館無料 9時から17時」と書かれた看板(かんばん)もあります。 この建物が高千穂河原ビジターセンターで、中に高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」のレプリカ(複製)が展示してあります。 その他、有益な情報が得られます。 この中の売店で、高千穂峰(たかちほのみね)、韓国岳(からくにだけ)、縦走の3種類の「登山記念バッチ」が売られています



写真LP: 「高千穂河原ビジターセンターのご案内」 高千穂河原は、古くから霧島連山の登山基地として知られており、近くにはアカマツの美林やミヤマキリシマの群生地があり、多くの人々が訪れています。 ビジターセンターは、これらの人々に霧島の自然や文化を正しく理解していただき、自然保護思想の高揚を図るために、鹿児島県が環境省、国立公園協会等のご協力をいただき、設置したものです。 入館料 無料
と書かれています。



写真LQ: 高千穂河原ビジターセンター内にある高千穂峰の山頂の「天の逆鉾(あまのさかほこ)」のレプリカ(複製品)。
レプリカの下部の両側に「カラス天狗(てんぐ)」の顔があります。



写真LR: 宮崎県都城市にある高千穂牧場の駐車場から見た「高千穂峰(たかちほのみね)」。
 今登ってきたばかりなので、親近感、愛らしさを感じます。
左(西)の肩が御鉢(おはち)、右(東)の肩が二子石(ふたごいし)で、この2つは高千穂峰の寄生火山です。



写真LS: 宮崎県都城市にある高千穂牧場の駐車場から見た霧島連山。 右から中岳、新燃岳、韓国岳。



写真LT: 宮崎県都城市にある高千穂牧場の駐車場から見た「高千穂峰(たかちほのみね)」。
 今登ってきたばかりなので、親近感、愛らしさを感じます。
左(西)の肩が御鉢(おはち)、右(東)の肩が二子石(ふたごいし)で、この2つは高千穂峰の寄生火山です。
双眼鏡でこの付近から、御鉢の斜面を下山している、白い服の登山者を確認できました。空気が澄(す)んでいたからでしょう。



写真LU: 宮崎県都城市にある高千穂牧場から見た「高千穂峰(たかちほのみね)」。 左は中岳、新燃岳。



写真LV: 宮崎県都城市にある高千穂牧場から見た「高千穂峰(たかちほのみね)」。
 今登ってきたばかりなので、親近感、愛らしさを感じます。
左(西)の肩が御鉢(おはち)、右(東)の肩が二子石(ふたごいし)で、この2つは高千穂峰の寄生火山です。
双眼鏡でこの付近から、御鉢の斜面を下山している、白い服の登山者を確認できました。空気が澄(す)んでいたからでしょう。



写真LW: 宮崎県都城市にある高千穂牧場から見た「高千穂峰(たかちほのみね)」。



写真LX: 宮崎県都城市にある高千穂牧場から見た新燃岳(左)と中岳。



写真LY: 宮崎県都城市にある高千穂牧場。



写真LZ: 宮崎県都城市にある高千穂牧場。



写真MA: 宮崎県西諸県郡高原町にこの建物があります。 この車道の反対側にある田んぼから見る「高千穂峰」はすばらしい。



写真MB: 「夕日の高千穂峰」。
 宮崎県西諸県郡高原町に上の写真の建物があります。 その車道の反対側にある田んぼから見る「高千穂峰」はすばらしい。
高千穂峰の右に中岳、新燃岳が見えています。



写真MC: 夕日の霧島連山(宮崎県西諸県郡高原町から)。
左から中岳(なかだけ、1332 m)、新燃岳(しんもえだけ、1421 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1428 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344 m)が見えています。



写真MD: 「夕日の高千穂峰、 紫峰になって美しい」。
 宮崎県西諸県郡高原町に上の写真の建物があります。 その車道の反対側にある田んぼから見る「高千穂峰」はすばらしい。
左(東尾根)のコブは高千穂峰の寄生火山である「二子石(ふたごいし)」です。 高原町のこの位置からは御鉢(おはち)は高千穂峰の後ろになって見えません。



写真ME: 「夕日の中岳」(宮崎県西諸県郡高原町から)。



写真MF: 「夕日の新燃岳、獅子戸岳、韓国岳」(宮崎県西諸県郡高原町から)。



写真MG: 「夕日の韓国岳、夷守岳」(宮崎県西諸県郡高原町から)。



写真MH: 「夕日の高千穂峰、 紫峰になって美しい」。
 宮崎県西諸県郡高原町に上の写真の建物があります。 その車道の反対側にある田んぼから見る「高千穂峰」はすばらしい。
左(東尾根)のコブは高千穂峰の寄生火山である「二子石(ふたごいし)」です。 高原町のこの位置からは御鉢(おはち)は高千穂峰の後ろになって見えません。
私は以前、ハガキの挨拶状(あいさつじょう)にこの地点からの高千穂峰の写真を載(の)せました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)