田島かくれ念仏洞(彼岸花の花、おしろい花)、安楽寺(安楽寺の大イチョウ)、熊野神社(彼岸花、キバナコスモスの花)、新燃岳の噴煙 (霧島連山の展望、鰐塚山、青井岳、都城盆地(霧島盆地)、親鸞聖人(しんらんしょうにん)像、久遠堂(納骨堂)、隠れ念仏、殉教碑(じゅんきょうひ)、拷問石、一向宗(浄土真宗)、安楽地保育園、都城市の体育館)  (宮崎県 都城市 山之口町 富吉)







<標高、位置>  安楽寺は
標高 約140 m
 北緯31度46分11秒  東経131度08分08秒

<標高、位置>  田島かくれ念仏洞は
標高 約140 m
 北緯31度46分07秒  東経131度08分18秒

<標高、位置>  熊野神社は
標高 175 m
 北緯31度45分59秒  東経131度08分05秒


 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 4979番地にあります。
「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板から、
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。 島津藩などが一向宗(浄土真宗)を禁じたのは、「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い。」という一向宗(浄土真宗)の教えが、当時の封建体制にそぐわなかったからです。 また、浄土真宗は団結力が強いことも禁止された理由として考えられます。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。
島津藩、人吉藩、相良藩、高鍋藩、琉球などでは、約300年に渡り、浄土真宗(一向宗)の信仰が禁じられていました。 理由は本願寺への上納制度のため藩内の金銀が流出したことや、戦闘的組織力を危険視したことなどが原因と言われています。 また、島津藩の場合は庄内の乱(1599年から1600年3月15日)の伊集院忠棟が一向宗の信者だったからという説もあります。 島津による公式の一向宗禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されています。 江戸時代の天保年間(1830から1844年)だけでも薩摩藩内で14万人が検挙され、藩外(飫肥藩(おびはん))に逃れた人々は一夜だけでも2800人に及ぶと言われています。

 「熊野神社」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 4670番地にあります。
「熊野神社」の説明板から、
熊野神社
祭神 イザナギノミコト、イザナミノミコト、ヨモツコトサカオノミコト
鎮座地 都城市 山之口町 富吉 4670番地
例祭日 3月19日 祈年祭(春祭り) いろいろな作物が、いろいろな物が何事もなく収穫できますように。 地区民が無事で何事もなく仕事ができますように。
7月19日 夏祭り(六月灯) 作物にわざわいなくお守りください。 地区民の無事と、今後の安全祈願。
10月19日 例大祭(秋祭り) いろいろな作物が無事収穫できたことへのお礼。 地区民が何事もなく安全にこれたことへのお礼。 今後の安全を祈願。
11月19日 新嘗祭(にいなめさい、秋祭り)
1月1日 元日祭
社殿 本殿(神明造) 8坪、幣拝殿(切妻造) 12坪、境内(けいだい) 360坪、創立年 和銅3年(710年)
御神徳: 開運、交通安全、家内安全、厄除(よ)け、五穀豊穣、縁結び、無病息災
「熊野神社神殿幣拝殿新築 境内整備事業 他環境整備」の説明板から、
碑文(ひぶん)
 熊野神社(旧 木上権現)は和銅3年(西暦710年)イザナギ イザナミの2神を奉祀する由緒深き神社として明治5年 村社に昇格した。 神拝殿は明治8年改築、その後大正元年の台風被害により、大正5年に大改築が行われたが、長い年月により腐朽著しく鉄骨スレートなど応急的処置が続き、神社としての風格を失ってしまったことに住民の間から新築をとの声があがり、地区総会で協議の結果、区有財産(飯起地区土地)の売却代金を充てることが決まった。 即 道路建設及び神社改築委員会が結成され、下富吉地区会計より同委員会会計(寄付金として3300万円が奉納され、町の助成金1000万円(下富吉地区コミュニティ整備事業費)を併せ総事業費4300万円で着手した。 (道路取り付け及び用地買収環境整備費として2000万円、神殿幣拝殿新築 1450万円、社務所新築215万円、その他境内整備費など635万円)。
 長い急勾配の階段でしか上がれなかった当地に、南側より広い道路を入れ、車で頂上まで上がれるようになった。 周辺の樹木は全て伐採され、依(よ)って360度の展望が開け、霧島盆地が一望でき、境内には季節の花木が植栽され、立派な神社公園となった。 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄の神々として崇敬され、地域の鎮守として末の世までも住民の憩(いこ)いの場となり心の糧(かて)となることをねがいつつ、このような立派な事業が完遂出来ましたのも、貴重な財産を残してくだされた御先祖、先輩の方々のおかげさまであると心に命じ、感謝と尊敬の念をもってここに記念碑を建立する。

 「安楽寺」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 3527 にあります。
「安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために拷問石(ごうもんいし)などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の都城会所で使われた拷問石が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。 また、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像、久遠堂、大きなイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)などもあります。 一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武(飫肥藩)から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。 安楽寺は安政3年に飫肥(おび)藩主により宮崎郡 清武郷に建立されました。 薩摩宗教難民の避難所の役割を果たしていました。 安楽寺の住職は念仏禁制の薩摩各地に潜入して布教を行いました。 明治26年に山之口地方 信徒の希望で現在地に寺号(寺の名前)移転しました。


写真A: 国道269号線にある富吉橋です。 川は花木川です。 近くに大きな屋根が目立つ「安楽寺」があります。 先に行くと田島かくれ念仏洞、三股町、都城市の中心部に行きます。 手前に行くとあじさい公園(三股城跡(松尾城跡))、山之口町総合支所、人形の館、道の駅 山之口、青井岳温泉、田野町、清武町、宮崎市の中心部に行きます。



写真B: 安楽寺の南を流れる花木川です。



写真C: 富吉橋から見た安楽寺と駐車場です。 北西を見たもの。



写真D: 富吉橋から見た安楽寺と駐車場です。



写真E: 富吉橋から見た安楽寺と国道269号線です。 北東を見たもの。



写真F: 北東を見たもの。



写真G: 南東を見たもの。 遠くの山が見えています。



写真H: 富吉橋です。



写真I: 「→安楽寺 駐車場」と書いてあります。 奥は富吉橋。



写真J: 左は安楽寺の山門と掲示板、石碑です。 国道269号線。



写真K: 宮崎県 都城市 山之口町にある「安楽寺」の山門と掲示板、石碑です。
一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武から東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。
安楽寺は安政3年に飫肥(おび)藩主により宮崎郡 清武郷に建立されました。 薩摩宗教難民の避難所の役割を果たしていました。 安楽寺の住職は念仏禁制の薩摩各地に潜入して布教を行いました。 明治26年に山之口地方 信徒の希望で現在地に寺号(寺の名前)移転しました。
島津藩は第17代 島津義弘により慶長2年(1597年)2月2日から明治9年(1876年)9月5日(鹿児島参事の田畑常秋が信教自由の令)まで297年間、一向宗(浄土真宗)の厳しい禁制の藩政を行いました。



写真L: 「「怒る」「欲張る」習ってないのに できる僕」と書いてあります。 安楽寺の掲示板。



写真M: 山之口町にある安楽寺の石碑(せきひ)です。 左は山門です。



写真N: 安楽寺の入り口です。



写真O: 安楽寺の入り口。



写真P: 「浄土真宗 本願寺派 安楽寺」と書いてあります。 山門です。



写真Q: 都城市 山之口町にある安楽寺の本堂です。
「安楽寺」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 3527 にあります。
「安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために拷問石(ごうもんいし)などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の拷問石が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。 また、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像、久遠堂、大きなイチョウの木などもあります。
島津藩、人吉藩、相良藩、高鍋藩、琉球などでは、約300年に渡り、浄土真宗(一向宗)の信仰が禁じられていました。 理由は「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い。」という一向宗(浄土真宗)の教えが、当時の封建体制にそぐわなかったからです。 本願寺への上納制度のため藩内の金銀が流出したことや、戦闘的組織力を危険視したことなども原因と言われています。 また、島津藩の場合は庄内の乱(1599年から1600年3月15日)の伊集院忠棟が一向宗の信者だったからという説もあります。 島津による公式の一向宗禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されています。 江戸時代の天保年間だけでも薩摩藩内で14万人が検挙され、藩外(飫肥藩(おびはん))に逃れた人々は一夜だけでも2800人に及ぶと言われています。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。 一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武(飫肥藩)から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。
安楽寺は安政3年に飫肥(おび)藩主により宮崎郡 清武郷に建立されました。 薩摩宗教難民の避難所の役割を果たしていました。 安楽寺の住職は念仏禁制の薩摩各地に潜入して布教を行いました。 明治26年に山之口地方 信徒の希望で現在地に寺号(寺の名前)移転しました。

<参考> 「庄内の乱」
伊集院忠真は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。 文禄4年(1595年)、伊集院忠棟(幸侃)は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠真はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。 翌年、戦いが不利となった伊集院忠真は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。 慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠真にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中に野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠真 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。 伊集院忠真の墓は宮崎県小林市 野尻町 大字東麓 字本町にあります。



写真R: 山之口町にある「安楽寺」の境内(けいだい)です。 中央に親鸞上人(しんらんしょうにん)の像が見えています。



写真S: 右は手水舎(ちょうずや、手を清める所)です。 右奥は駐車場になっています。



写真T: 手水舎(ちょうずや、手を清める所)です。 右は山門です。



写真U: 石の御手洗(みたらい)があります。



写真V: 「大正3年11月」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)があります。 安楽寺の境内(けいだい)。



写真W: 「造林碑」の石碑です。



写真X: 本堂の左に大きくて古いイチョウの木があります。



写真Y: 本堂の左にある大きくて古いイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)。



写真Z: 本堂の左にある大きくて古いイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)。



写真AA: 安楽寺にある石碑です。



写真AB: 安楽寺にある石碑です。



写真AC: 安楽寺にある石碑。



写真AD: 安楽寺の境内(けいだい)。



写真AE: 安楽寺の境内です。 北東を見たもの。



写真AF: 本堂の左にある「殉教之碑(じゅんきょうのひ)」があります。 これは島津藩時代に一向宗(浄土真宗(じょうどしんしゅう))を禁じていた頃の殉教者を供養(くよう)しています。 島津藩で一向宗(浄土真宗(じょうどしんしゅう))を禁じたのは島津義弘です。 この安楽寺は浄土真宗のお寺です。
明治3年(1870年)8月に山之口町の上田伝兵衛は、かくれ念仏の指導者であることが発覚し極刑になりました。 念仏を唱(と)えながらの刑死だったそうです。
島津藩、人吉藩、相良藩、高鍋藩、琉球などでは、約300年に渡り、浄土真宗(一向宗)の信仰が禁じられていました。 理由は「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い。」という一向宗(浄土真宗)の教えが、当時の封建体制にそぐわなかったからです。 本願寺への上納制度のため藩内の金銀が流出したことや、戦闘的組織力を危険視したことなども原因と言われています。 また、島津藩の場合は庄内の乱の伊集院忠棟が一向宗の信者だったからという説もあります。



写真AG: 右は本堂、左は「殉教之碑(じゅんきょうのひ)」です。 右下に石塔もあります。



写真AH: 大きくて古いイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)の右に石灯籠(いしどうろう)があります。



写真AI: 大きくて古いイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)の右に殉教之碑(じゅんきょうのひ)、石灯籠(いしどうろう)があります。



写真AJ: 宮崎県 都城市 山之口町にある安楽寺の「殉教之碑(じゅんきょうのひ)」、5枚の「拷問石(ごうもんいし)」です。
「安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために拷問石(ごうもんいし)などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の都城会所で使われた拷問石が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。 また、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像、久遠堂、大きなイチョウの木などもあります。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。



写真AK: 5枚の「拷問石(ごうもんいし)」です。 1枚は後ろになって見えていません。 調べられる人(浄土真宗を信じていると思われた人)を洗濯板(せんたくいた)のような木の上に正座させ、膝(ひざ)の上にこの重い石板を重ねて載(の)せました。
「安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために拷問石(ごうもんいし)などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の都城会所で使われた拷問石が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。



写真AL: 「殉教之碑(じゅんきょうのひ)」。
「安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために拷問石(ごうもんいし)などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の都城会所で使われた拷問石が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。
島津藩、人吉藩、相良藩、高鍋藩、琉球などでは、約300年に渡り、浄土真宗(一向宗)の信仰が禁じられていました。 理由は「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い。」という一向宗(浄土真宗)の教えが、当時の封建体制にそぐわなかったからです。 本願寺への上納制度のため藩内の金銀が流出したことや、戦闘的組織力を危険視したことなども原因と言われています。 また、島津藩の場合は庄内の乱(1599年から1600年3月15日)の伊集院忠棟が一向宗の信者だったからという説もあります。 島津による公式の一向宗禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されています。 江戸時代の天保年間(1830から1844年)だけでも薩摩藩内で14万人が検挙され、藩外(飫肥藩(おびはん))に逃れた人々は一夜だけでも2800人に及ぶと言われています。

<参考> 「庄内の乱」
伊集院忠真は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。 文禄4年(1595年)、伊集院忠棟(幸侃)は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠真はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。 翌年、戦いが不利となった伊集院忠真は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。 慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠真にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中に野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠真 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。 伊集院忠真の墓は宮崎県小林市 野尻町 大字東麓 字本町にあります。



写真AM: イチョウの木(安楽寺の大イチョウ)と石灯籠(いしどうろう)



写真AN: 大安寺の本堂です。 右に親鸞上人(しんらんしょうにん)の像、左に石塔が見えます。



写真AO: 山之口町にある安楽寺の本堂です。



写真AP: 山之口町にある安楽寺の本堂。 上に彫刻があります。



写真AQ: 親鸞上人(しんらんしょうにん)の像があります。



写真AR: 宮崎県 都城市 山之口町の安楽寺にある「親鸞上人像(しんらんしょうにんぞう)」です。



写真AS: 台座に「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」と書いてあります。



写真AT: 安楽寺の建物です。



写真AU: 安楽寺の境内(けいだい)です。



写真AV: 安楽寺の境内(けいだい)。



写真AW: 安楽寺の山門と手水舎(ちょうずや)です。 こちらにも大きなイチョウの木があります。



写真AX: こちらにも大きなイチョウの木があります。



写真AY: 都城市 山之口町にある安楽寺の境内です。 大きなイチョウの木(安楽寺の大イチョウ)があります。



写真AZ: 境内には竹もあります。



写真BA: こちらにも駐車場があります。



写真BB: 安楽寺の境内です。



写真BC: 本堂に鐘(かね)がつってあります。



写真BD: 本堂に鐘(かね)があります。



写真BE: 安楽寺の境内です。



写真BF: 本堂の右側面です。



写真BG: 本堂の中の階段です。



写真BH: 安楽寺の建物です。



写真BI: 本堂の右側面です。 裏門が見えます。



写真BJ: 「戦没信徒之碑(せんぼつしんとのひ)」です。 安楽寺。



写真BK: 境内に赤い彼岸花が咲いていました。 奥はコンクリートの建物(久遠堂(くおんどう))です。



写真BL: 安楽寺のコンクリートの建物(久遠堂(くおんどう、納骨堂))です。



写真BM: 赤い彼岸花が咲いています。



写真BN: コンクリートの建物(久遠堂(くおんどう、納骨堂))の入口です。 階段があります。



写真BO: 「久遠堂碑(くおんどうひ)」があります。 左は像です。



写真BP: 久遠堂(くおんどう、納骨堂)の下部です。



写真BQ: 彼岸花(ひがんばな)が咲いていました。



写真BR: 奥に本堂が見えます。 右は久遠堂です。



写真BS: こちらにも駐車場があります。



写真BT: 「親鸞聖人(しんらんしょうにん) 750回 大遠忌法要 に向かって」のポスターが掲示板にあります。



写真BU: 久遠堂のそばに彼岸花が咲いています。



写真BV: 都城市の体育館がそばにあります。



写真BW: そばにある山之口町消防団 第三部の車庫と建物です。



写真BX: 安楽寺の近く(北西)にある「安楽地保育園」の運動会が行われていました。 万国旗、テントも見えています。



写真BY: 都城市の体育館です。



写真BZ: 安楽寺の近く(北西)にある「安楽地保育園」の運動会が行われていました。 万国旗、テントも見えています。



写真CA: 安楽寺のそばから霧島連山が見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。



写真CB: 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)が見えます。 新燃岳の噴煙と思われるものが見えています。



写真CC: 中央の青い屋根の建物は「安楽地保育園」です。



写真CD: 万国旗とテント、椅子(いす)、カラーコーンなどが見えます。 テントに「山之口町社会福祉協議会」と書いてあります。



写真CE: 都城市の体育館と左に安楽寺の本堂が見えます。



写真CF: 安楽寺の久遠堂(くおんどう)です。 体育館の方から見たものです。



写真CG: 「河川改修 土地改良碑(ひ)」があります。 左下に黄色コスモスの花が咲いています。



写真CH: 安楽寺の裏門です。



写真CI: 左は安楽寺の塀(へい)です。



写真CJ: 安楽寺のそばから見た「熊野神社」です。 見晴(みは)らしの良い丘の上にあります。 手前は安楽寺の駐車場です。



写真CK: 安楽寺の川(花木川)沿いの駐車場です。



写真CL: 安楽寺の川(花木川)沿いの駐車場。 右遠くに「熊野神社」の丘が見えます。



写真CM: 「田島かくれ念仏洞(ねんぶつどう)」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路付近から北西を見た景色です。 霧島連山(霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。



写真CN: 「田島かくれ念仏洞」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路付近から北西を見た景色。 霧島連山(霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。



写真CO: 「田島かくれ念仏洞」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路です。 黄色のセンターラインの国道269号線を先に行くと三股町、都城市の中心部に行きます。 手前に行くと安楽寺、山之口町の中心部に行きます。



写真CP: 「田島かくれ念仏洞」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路付近。 北東を見たもの。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)、青井岳(あおいだけ、標高 560.2 m)などが見えています。



写真CQ: 「田島かくれ念仏洞」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路付近。 東に「熊野神社」の丘が手前に見えています。



写真CR: 東に「熊野神社」の丘(標高 175 m)が見えています。 丘の上に社(やしろ)が見えています。
手前はトウモロコシの畑です。



写真CS: この十字路のそばの国道269号線に「三股町(みまたちょう)」の標識があります。



写真CT: この十字路のそばの国道269号線に「三股町(みまたちょう)」の標識があります。 都城市 山之口町と三股町の境界です。



写真CU: 「←田島かくれ念仏洞 1.1 km」、「←桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん) 5.5 km」の標識があります。



写真CV: 「←田島かくれ念仏洞 1.1 km」、「←桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん) 5.5 km」の標識があります。



写真CW: 「→熊野神社 小高い丘の上 1 km」の標識があります。



写真CX: この道を進んで「田島かくれ念仏洞」、「熊野神社」に行きます。 南東を見たもの。



写真CY: 南東を見た景色です。 刈り取った田んぼと実った稲が見えます。 遠くの山が見えています。



写真CZ: 東を見た景色です。 「熊野神社」の丘(標高 175 m)が見えています。 左奥に鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が見えています。



写真DA: 東を見た景色です。 右手前に「熊野神社」の丘(標高 175 m)が見えています。 中央奥に鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が見えています。



写真DB: 「田島かくれ念仏洞」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路付近。 「→熊野神社 小高い丘の上 1 km」の標識があります。



写真DC: 「田島かくれ念仏洞」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路。 北西を見た景色です。 遠くの山も見えます。 都城盆地です。



写真DD: 「田島かくれ念仏洞」に行くために、国道269号線から南東に入る十字路。 北西を見た景色です。 左に霧島連山(霧島山系)が見えています。



写真DE: 南東を見た景色です。 左端は熊野神社のある丘です。 「田島かくれ念仏洞(ねんぶつどう)」へはこの道を進んで行きます。



写真DF: このそばの三叉路(さんさろ)から南西に入ります。



写真DG: 左奥の十字路は左右に広めの車道があります。 「田島かくれ念仏洞」へはその手前の細めの道を右に行きます。



写真DH: 「止まれ」の逆三角の道路標識があります。



写真DI: この細めの道を南西に進んで「田島かくれ念仏洞」に行きます。 ここは三叉路(さんさろ)です。



写真DJ: 「田島かくれ念仏洞」に曲がる三叉路の北東には畜舎があります。



写真DK: 三叉路近くの十字路に「→田島かくれ念仏洞 50 m」、「←桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん) 4.3 km」の標識があります。



写真DL: 三叉路近くの十字路に「→田島かくれ念仏洞 50 m」、「←桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん) 4.3 km」の標識があります。



写真DM: 三叉路(さんさろ)近くの十字路。 南東を見たもの。



写真DN: 三叉路(さんさろ)近くの十字路。 北東を見たもの。



写真DO: 来た道を振り返ったもの。 ここを左に進んで田島かくれ念仏洞に行きます。



写真DP: 来た道を振り返ったもの。 ここを左に進んで田島かくれ念仏洞に行きます。



写真DQ: 来た道を振り返ったもの。 右奥に工場のような大きな建物があります。



写真DR: 三叉路の角(かど)の様子です。



写真DS: 「田島かくれ念仏洞(ねんぶつどう)」に着きました。 左に駐車場、トイレが見えます。



写真DT: 右手が「田島かくれ念仏洞」です。 この車道は下り坂になっています。



写真DU: 来た道を振り返ったもの。



写真DV: 「田島かくれ念仏洞」です。 奥に石碑(せきひ)、説明板が見えます。 右端はトイレです。



写真DW: 「田島かくれ念仏洞」です。 奥に石碑(せきひ)、説明板が見えます。 右端はトイレです。 「田島かくれ念仏洞」へは石碑の左下の階段を下ります。 石碑の右に桜の木があります。
一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。



写真DX: 石碑(せきひ)、説明板が見えます。 「田島かくれ念仏洞」へは石碑の左下の階段を下ります。 石碑の右に桜の木があります。



写真DY: 左手前に「田島かくれ念仏洞入口」と書いてある標識石棒があります。 そばに赤い彼岸花が咲いています。 石碑(せきひ)、説明板が見えます。 「田島かくれ念仏洞」へは石碑の左下の階段を下ります。 石碑の右に桜の木があります。



写真DZ: 田島かくれ念仏洞に降りる階段の手すりが見えます。



写真EA: 「田島かくれ念仏洞入口」と書いてある標識石棒と赤い彼岸花。
一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。



写真EB: 石碑(せきひ)、説明板が見えます。 「田島かくれ念仏洞」へは石碑の左下の階段を下ります。 石碑の右に桜の木があります。



写真EC: 田島かくれ念仏洞に降りる階段です。 手すりもあります。



写真ED: 田島かくれ念仏洞の上は小さな丘になっています。



写真EE: 田島かくれ念仏洞の石碑です。 後ろは小さな丘になっています。



写真EF: 「田島かくれ念仏洞」の説明板です。



写真EG: 石碑の右手には竹林があります。 建物はトイレです。



写真EH: 石碑から南東を見たもの。 駐車場があります。



写真EI: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EJ: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EK: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EL: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EM: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EN: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EO: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EP: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真EQ: 「町指定史跡 田島かくれ念仏洞(たじまかくれねんぶつどう)」の説明板です。
 所在地 都城市 山之口町 富吉 4979番地
洞入口: 高さ110 cm、幅70 cm、洞内: 高さ126 cm、直径220 cm
 都城盆地内には、たくさんの かくれ念仏洞が現存しています。 この遺跡は当地方の貴重な文化遺産であり、藩政時代の一向宗(浄土真宗)禁制下におけるすさまじいまでの信者たちの「信念」対「圧政・弾圧」という両者葛藤の記念碑でもあります。
 薩摩藩の一向宗に対する弾圧は、慶長2年(1597年)2月22日、17代藩主 島津義弘が2度目の朝鮮出兵の際に出した「一向宗の事先祖以来御禁制の儀に候事。彼の宗体になり候者は曲事たるべき事」などの布令に始まります。
また、明暦元年(1655年)「宗体座」が設けられたのを最初に、名称を変えながら安永7年(1778年)「宗門改役」という名称で明治時代を迎えています。 役人の拷問は悪辣(あくらつ)を極め、水責め、火責め、水牢、木馬などの体罰を容赦なく信者に加えたのでした。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。
 本町には、荒平神社法座跡(川内大谷奥の山中)や、上森、木上、吹上、田原、など4ヵ所のかくれ念仏洞がありましたが、原形をとどめているのはこの田島だけです。
都城市教育委員会、山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。



写真ER: 横から見た石碑(せきひ)と説明板です。



写真ES: 石碑の下部です。



写真ET: 横から見た石碑(せきひ)と説明板。 桜の木もあります。



写真EU: 石碑のそばにある桜の木です。



写真EV: 田島かくれ念仏洞の上はこのような小さな丘になっています。



写真EW: 田島かくれ念仏洞の上はこのようになっています。



写真EX: 田島かくれ念仏洞の近くです。



写真EY: 田島かくれ念仏洞の上はこのような小さな丘になっています。



写真EZ: 田島かくれ念仏洞の上はこのようになっています。



写真FA: 田島かくれ念仏洞の上付近には墓があります。



写真FB: 裏から見た石碑と説明板です。
ここから割と近くの国道269号線沿(ぞ)いの都城市 山之口町 富吉に「安楽寺」があります。
「安楽寺」は宮崎県 都城市 山之口町 富吉 3527 にあります。
安楽寺」は浄土真宗 本願寺派のお寺です。 島津は島津義弘が第2次朝鮮出兵した頃から、浄土真宗(一向宗)を禁制にしました。 それで信者は田島かくれ念仏洞などで密(ひそ)かに信仰を続けました(隠れ念仏)。 島津はそれを抑(おさ)えこむために「拷問石(ごうもんいし)」などで自白を迫(せま)りました。 責め苦に耐え切れずに白状すれば禅宗に改宗を命じられ、あくまでも拒否すれば死刑に処せられました。 特に武士の場合は、血判の上、改宗を誓っても処罰を免れず、切腹の重刑、軽くても家禄召揚の上、百姓として追放処分を受けました。 安楽寺にはその時の都城会所で使われた「拷問石」が5枚置いてあり、殉教之碑(じゅんきょうのひ)もそのそばにあります。 また、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像、久遠堂、大きなイチョウの木などもあります。
田島かくれ念仏洞は田島、新地の人達の隠れ念仏洞窟(どうくつ)で、ここのリーダーの上田伝兵ヱは、明治3年に処刑されました。
島津藩、人吉藩、相良藩、高鍋藩、琉球などでは、約300年に渡り、浄土真宗(一向宗)の信仰が禁じられていました。 理由は「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い。」という一向宗(浄土真宗)の教えが、当時の封建体制にそぐわなかったからです。 本願寺への上納制度のため藩内の金銀が流出したことや、戦闘的組織力を危険視したことなども原因と言われています。 また、島津藩の場合は庄内の乱(1599年から1600年3月15日)の伊集院忠棟が一向宗の信者だったからという説もあります。 島津による公式の一向宗禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されています。 江戸時代の天保年間(1830から1844年)だけでも薩摩藩内で14万人が検挙され、藩外(飫肥藩(おびはん))に逃れた人々は一夜だけでも2800人に及ぶと言われています。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。

<参考> 「庄内の乱」
伊集院忠真は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。 文禄4年(1595年)、伊集院忠棟(幸侃)は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠真はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。 翌年、戦いが不利となった伊集院忠真は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。 慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠真にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中に野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠真 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。 伊集院忠真の墓は宮崎県小林市 野尻町 大字東麓 字本町にあります。



写真FC: 裏から見た石碑と説明板。



写真FD: 石碑から南東を見たもの。 駐車場があります。



写真FE: 「念仏禁制 殉難之碑 かくれ念仏洞」。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。
一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。



写真FF: 田島かくれ念仏洞の石碑(せきひ)です。
「念仏はいのちなり  念仏はまことなり  血吹き 涙あふるる暗き世に わが無碍光は されど その力にては 消えざりき」
と彫(ほ)られています。
島津藩は第17代 島津義弘により慶長2年(1597年)2月2日から明治9年(1876年)9月5日(鹿児島参事の田畑常秋が信教自由の令)まで297年間、一向宗(浄土真宗)の厳しい禁制の藩政を行いました。



写真FG: 左は田島かくれ念仏洞に下る階段です。 右は石碑の下部です。



写真FH: 田島かくれ念仏洞に下る階段です。



写真FI: 田島かくれ念仏洞に下る階段。



写真FJ: 田島かくれ念仏洞に下る階段です。



写真FK: 田島かくれ念仏洞は2ヵ所あります。 お互いにそばにあります。 これは1つ目の屋根です。 この左に2つ目の屋根があります。



写真FL: 田島かくれ念仏洞は2ヵ所あります。 お互いにそばにあります。 これは1つ目の屋根です。 この左に2つ目の屋根があります。



写真FM: 右が1つ目の念仏洞があるところで、奥のコンクリートが2つ目の念仏洞があるところです。 左の木は梅の木です。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。



写真FN: 右が1つ目の念仏洞があるところで、奥のコンクリートが2つ目の念仏洞があるところです。 左の木は梅の木です。



写真FO: 田島かくれ念仏洞のそばにある梅の木です。



写真FP: 振り返って階段を見たもの。



写真FQ: 1つ目のかくれ念仏洞はこのようになっています。 鉄格子(てつごうし)の扉(とびら)が前面にあって南京錠(なんきんじょう)があります。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。
一向宗(浄土真宗)をこの地に伝えたのは島津藩外の清武(飫肥藩)から命がけで東岳(標高 898 m)を越えて来た伝道僧 佐々木深道(安楽寺の初代)でした。 東岳は桝安森林公園(ますやすしんりんこうえん)の北東 約6 kmにある山です。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。



写真FR: そばは、野面積み(のづらづみ)方式の石垣になっています。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真FS: これが2つ目の田島かくれ念仏洞です。 コンクリートの建物に、鉄格子の扉(とびら)が前面にあって南京錠(なんきんじょう)があります。



写真FT: これが2つ目の田島かくれ念仏洞です。 コンクリートの建物に、鉄格子の扉(とびら)が前面にあって南京錠(なんきんじょう)があります。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。



写真FU: かくれ念仏洞のそばには塀(へい)があります。



写真FV: 2つ目の田島かくれ念仏洞の建物には葛(かずら)の植物があります。



写真FW: 2つ目の田島かくれ念仏洞の建物には葛(かずら)の植物があります。



写真FX: 右が1つ目の左が2つ目の田島かくれ念仏洞の建物です。 間に赤い彼岸花が咲いています。,



写真FY: 2つ目のかくれ念仏洞の格子(こうし)の中です。 右に小型の仏壇(ぶつだん)があります。



写真FZ: 2つ目のかくれ念仏洞。



写真GA: 2つ目のかくれ念仏洞。 右に小型の仏壇(ぶつだん)があります。



写真GB: 2つ目のかくれ念仏洞の格子(こうし)の中です。 植物のシダも見えています。



写真GC: 2つ目のかくれ念仏洞の格子(こうし)の中です。 植物のシダも見えています。



写真GD: 2つ目のかくれ念仏洞の格子(こうし)の中。 暗い洞窟(どうくつ)が見えています。



写真GE: 2つ目のかくれ念仏洞の格子(こうし)の中。 暗い洞窟(どうくつ)が見えています。



写真GF: 小型の仏壇(ぶつだん)の下にお賽銭箱(さいせんばこ)もあります。



写真GG: 左が田島かくれ念仏洞の暗い洞窟(どうくつ)です。



写真GH: 田島かくれ念仏洞の暗い洞窟(どうくつ)です。



写真GI: 田島かくれ念仏洞の洞窟(どうくつ)です。 格子(こうし)の中に鉄の階段が見えます。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。 武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。



写真GJ: 田島かくれ念仏洞の洞窟(どうくつ)。 格子(こうし)の中に鉄の階段が見えます。



写真GK: 田島かくれ念仏洞の洞窟(どうくつ)です。 格子(こうし)の中に鉄の階段が見えます。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。



写真GL: 田島かくれ念仏洞の洞窟(どうくつ)。 格子(こうし)の中に鉄の階段が見えます。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。



写真GM: 2つ目の田島かくれ念仏洞はコンクリートの建物で保護されています。



写真GN: 2つ目の田島かくれ念仏洞はコンクリートの建物で保護されています。



写真GO: 2つ目の田島かくれ念仏洞はコンクリートの建物で保護されています。



写真GP: 2つ目の田島かくれ念仏洞の小型の仏壇(ぶつだん)です。 ロウソクも見えます。



写真GQ: 1つ目の田島かくれ念仏洞。



写真GR: 1つ目の田島かくれ念仏洞。 上段の方です。



写真GS: 1つ目の田島かくれ念仏洞。 上段の方です。



写真GT: 1つ目の田島かくれ念仏洞の暗い洞窟(どうくつ)です。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。
武士と農民などが平等な社会状況が「かくれ念仏(隠れ念仏)」の講の組織にはありました。



写真GU: 1つ目の田島かくれ念仏洞の暗い洞窟(どうくつ)。
藩の役人に見つからないように、雨、嵐など天気の悪い夜に洞窟(どうくつ)に仏具を隠し、法座(仏法が説かれる集まり)を開いて法悦の夜を過ごしたと言われています。



写真GV: 1つ目の田島かくれ念仏洞。



写真GW: かくれ念仏洞に降りる階段です。



写真GX: かくれ念仏洞に降りる階段。



写真GY: かくれ念仏洞の近くです。



写真GZ: かくれ念仏洞の近く。



写真HA: 2つ目の田島かくれ念仏洞です。



写真HB: 2つ目の田島かくれ念仏洞。



写真HC: かくれ念仏洞のそばの赤い彼岸花です。



写真HD: 1つ目の田島かくれ念仏洞です。 右の木は梅の木です。



写真HE: 1つ目の田島かくれ念仏洞です。 右の木は梅の木。



写真HF: 階段を登って石碑のところに戻(もど)ります。



写真HG: 階段を登って石碑のところに戻(もど)ります。



写真HH: ナツズイセンの花が田島かくれ念仏洞の近くに咲いていました。



写真HI: 彼岸花が田島かくれ念仏洞のそばに咲いています。



写真HJ: 駐車場のところに戻(もど)って来ました。



写真HK: 石碑、桜の木、説明板です。



写真KL: そばにある竹林です。



写真KM: そばにある竹林。 右はトイレです。



写真KN: 田島かくれ念仏洞の石の標識棒のそばにも彼岸花が咲いていました。



写真KO: そばの下り坂の先の景色です。 田んぼの奥に畜舎も見えています。



写真KP: 田島かくれ念仏洞です。



写真KQ: 田島かくれ念仏洞。



写真KR: 田島かくれ念仏洞のそばにオシロイ花が咲いていました。



写真KS: 田島かくれ念仏洞から来た道を戻ります。 十字路があります。 「→熊野神社 小高い丘の上 200 m」の標識が見えています。
右に曲がると熊野神社、先に行くと国道269号線、手前に行くと田島かくれ念仏洞があります。



写真KT: 「→熊野神社 小高い丘の上 200 m」の標識があります。



写真KU: 道の先の丘の上に熊野神社の建物、大きなクスノキが見えて来ました。



写真KV: 丘の上に熊野神社の建物、大きなクスノキが見えて来ました。 高い避雷針(ひらいしん)のようなものも何本か見えます。



写真KW: 左の坂道を登って熊野神社に上(あ)がります。



写真KX: 左の坂道を登って熊野神社に上(あ)がります。 大きな楠(くすのき)が目立ちます。



写真KY: ここを左に曲がります。



写真KZ: 「←熊野神社 入口」と書いてあります。



写真LA: 坂の参道を登っていきます。 熊野神社の社殿が見えてきました。



写真LB: 右から大きなクスノキ、トイレ、熊野神社の社殿が見えています。



写真LC: 登って来た参道を振り返ったもの。 かなり登って来ました。



写真LD: 熊野神社のトイレです。 そばに赤い彼岸花が咲いています。 後ろに大きなクスノキが見えます。



写真LE: ここにも駐車場があります。



写真LF: キバナコスモスの花が咲いていました。



写真LG: 左から熊野神社の本殿、拝殿、社務所です。 右に2本目の大きなクスノキが見えます。 左下に黄色コスモスの花が見えています。



写真LH: 高い避雷針(ひらいしん)があります。



写真LI: 黄色のコスモスがたくさん咲いていました。



写真LJ: 遠くに霧島連山が見えています。 石灯籠(いしどうろう)、避雷針、駐車場も見えています。



写真LK: 右から熊野神社の本殿、避雷針、石灯籠(いしどうろう)です。



写真LL: 右が都城市 山之口町 富吉 4670番地にある「熊野神社」の拝殿で、左が本殿です。 右の小さく見える鳥居(とりい)は古くからの階段の参道で、左の赤い鳥居(とりい)は末社の「毘沙門天(びしゃもんてん)」です。



写真LM: 右上にスピーカーが見えます。 右から社務所、青い飲料水の自動販売機、石灯籠(いしどうろう)、鳥居(とりい)、拝殿が見えます。



写真LN: 右に2つ目の大きな楠(くすのき)があります。 スピーカー、社務所も見えます。 熊野神社。



写真LO: 右に2つ目の大きな楠(くすのき)があります。 スピーカー、社務所も見えます。 熊野神社。



写真LP: 右に2つ目の大きな楠(くすのき)があります。 スピーカー、社務所も見えます。



写真LQ: 右に2つ目の大きな楠(くすのき)があります。 スピーカー、社務所も見えます。 山之口町にある熊野神社。



写真LR: 熊野神社の丘から南を見た景色です。 遠くの山、田んぼ、人家も見えます。



写真LS: 熊野神社の丘から南西を見た景色。 1つ目の大きなクスノキも見えます。 人家、田んぼも見えます。



写真LT: 西を見た景色です。 北西に霧島連山(霧島山地)が見えます。



写真LU: 北西に霧島連山(霧島山系)が見えます。



写真LV: 北を見たもの。



写真LW: 北東を見たもの。



写真LX: 東に鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が見えます。 東を見た景色です。 熊野神社の丘から。



写真LY: 南東を見た景色です。 人家、山も見えます。



写真LZ: 東を見た景色です。 熊野神社の丘から。



写真MA: 熊野神社の丘から東に鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が見えます。 人家、実(みの)った田んぼも見えます。



写真MB: 熊野神社から北東の青井岳(あおいだけ、標高 560.2 m)方面を見た眺望(ちょうぼう)です。 田んぼ、人家、森も見えます。



写真MC: 東を見た展望です。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が見えます。 道路も見えています。



写真MD: 北東を見たもの。 青井岳(あおいだけ、標高 560.2 m)方面を見た展望です。
左寄りに大きな屋根の「安楽寺」、都城市の体育館が見えています。



写真ME: 右寄りに大きな屋根の「安楽寺」、左寄りに青い屋根の安楽地保育園も見えています。 熊野神社の丘から。



写真MF: 熊野神社の境内(けいだい)に多くの石灯籠(いしどうろう)があります。 左寄りに階段の参道にある白い鳥居(とりい)が見えます。



写真MG: 熊野神社の境内(けいだい)に多くの石灯籠(いしどうろう)があります。 階段の参道にある白い鳥居(とりい)も見えます。



写真MH: 「熊野神殿幣拝殿新築 建設記念碑 平成18年12月16日竣工(しゅんこう)」の石碑(せきひ)、避雷針などがあります。



写真MI: 宮崎県 都城市 山之口町にある「熊野神社」です。 右が拝殿、左が社務所です。 西を見たもの。



写真MJ: 多くの石灯籠(いしどうろう)、2つ目の大きなクスノキ、社務所も見えます。



写真MK: 熊野神社の東側に多くの石灯籠(いしどうろう)があります。



写真ML: この鳥居(とりい)の先に長い下りの階段(参道)があります。 両側に石柱もあります。



写真MM: 長い下りの階段(参道)があります。 手すりもあります。



写真MN: 長い下りの階段(参道)があります。 手すりもあります。



写真MO: 2つ目の大きなクスノキと社務所です。 左に広いコンクリートの長方形の台があります。



写真MP: 宮崎県 都城市 山之口町にある「熊野神社」の拝殿です。



写真MQ: 「熊野神殿幣拝殿新築 建設記念碑 平成18年12月16日竣工(しゅんこう)」の石碑(せきひ)、石塔、階段参道の鳥居(とりい)があります。



写真MR: 「熊野神殿幣拝殿新築 建設記念碑 平成18年12月16日竣工(しゅんこう)」の石碑(せきひ)、避雷針も見えます。



写真MS: 北西に霧島連山が見えます。 左は毘沙門天(びしゃもんてん、)の赤い鳥居と拝殿、説明板です。 右寄りに避雷針もあります。



写真MT: 「熊野神社」と書いてあります。 鈴、しめ縄も見えます。



写真MU: お賽銭箱(さいせんばこ)、おみくじ販売機、鈴のヒモ、記帳台も見えます。



写真MV: 鈴、鈴のヒモ、しめ縄があります。



写真MW: 右におみくじを縛(しば)り付ける場所があります。



写真MX: 手前に日付、名前、住所などを記帳する所があります。



写真MY: 東を見たもの。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が見えます。



写真MZ: 宮崎県 都城市 山之口町 富吉 4670番地にある「熊野神社」の説明板です。
熊野神社
祭神 イザナギノミコト、イザナミノミコト、ヨモツコトサカオノミコト
鎮座地 都城市 山之口町 富吉 4670番地
例祭日 3月19日 祈年祭(春祭り) いろいろな作物が、いろいろな物が何事もなく収穫できますように。 地区民が無事で何事もなく仕事ができますように。
7月19日 夏祭り(六月灯) 作物にわざわいなくお守りください。 地区民の無事と、今後の安全祈願。
10月19日 例大祭(秋祭り) いろいろな作物が無事収穫できたことへのお礼。 地区民が何事もなく安全にこれたことへのお礼。 今後の安全を祈願。
11月19日 新嘗祭(にいなめさい、秋祭り)
1月1日 元日祭
社殿 本殿(神明造) 8坪、幣拝殿(切妻造) 12坪、境内(けいだい) 360坪、創立年 和銅3年(710年)
御神徳: 開運、交通安全、家内安全、厄除(よ)け、五穀豊穣、縁結び、無病息災
と書かれています。



写真NA: 古い石があります。



写真NB: 「熊野神殿幣拝殿新築 建設記念碑 平成18年12月16日竣工(しゅんこう)」の石碑(せきひ)。
「熊野神社神殿幣拝殿新築 境内整備事業 他環境整備」の説明板です。
碑文(ひぶん)
 熊野神社(旧 木上権現)は和銅3年(西暦710年)イザナギ イザナミの2神を奉祀する由緒深き神社として明治5年 村社に昇格した。 神拝殿は明治8年改築、その後大正元年の台風被害により、大正5年に大改築が行われたが、長い年月により腐朽著しく鉄骨スレートなど応急的処置が続き、神社としての風格を失ってしまったことに住民の間から新築をとの声があがり、、地区総会で協議の結果、区有財産(飯起地区土地)の売却代金を充てることが決まった。 即 道路建設及び神社改築委員会が結成され、下富吉地区会計より同委員会会計(寄付金として3300万円が奉納され、町の助成金1000万円(下富吉地区コミュニティ整備事業費)を併せ総事業費4300万円で着手した。 (道路取り付け及び用地買収環境整備費として2000万円、神殿幣拝殿新築 1450万円、社務所新築215万円、その他境内整備費など635万円)。
 長い急勾配の階段でしか上がれなかった当地に、南側より広い道路を入れ、車で頂上まで上がれるようになった。 周辺の樹木は全て伐採され、依(よ)って360度の展望が開け、霧島盆地が一望でき、境内には季節の花木が植栽され、立派な神社公園となった。 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄の神々として崇敬され、地域の鎮守として末の世までも住民の憩(いこ)いの場となり心の糧(かて)となることをねがいつつ、このような立派な事業が完遂出来ましたのも、貴重な財産を残してくだされた御先祖、先輩の方々のおかげさまであると心に命じ、感謝と尊敬の念をもってここに記念碑を建立する。
建設委員長、宮司、氏子代表
と彫(ほ)られています。



写真NC: 「熊野神社神殿幣拝殿新築 境内整備事業 他環境整備」の説明板です。
碑文(ひぶん)
 熊野神社(旧 木上権現)は和銅3年(西暦710年)イザナギ イザナミの2神を奉祀する由緒深き神社として明治5年 村社に昇格した。 神拝殿は明治8年改築、その後大正元年の台風被害により、大正5年に大改築が行われたが、長い年月により腐朽著しく鉄骨スレートなど応急的処置が続き、神社としての風格を失ってしまったことに住民の間から新築をとの声があがり、、地区総会で協議の結果、区有財産(飯起地区土地)の売却代金を充てることが決まった。 即 道路建設及び神社改築委員会が結成され、下富吉地区会計より同委員会会計(寄付金として3300万円が奉納され、町の助成金1000万円(下富吉地区コミュニティ整備事業費)を併せ総事業費4300万円で着手した。 (道路取り付け及び用地買収環境整備費として2000万円、神殿幣拝殿新築 1450万円、社務所新築215万円、その他境内整備費など635万円)。
 長い急勾配の階段でしか上がれなかった当地に、南側より広い道路を入れ、車で頂上まで上がれるようになった。 周辺の樹木は全て伐採され、依(よ)って360度の展望が開け、霧島盆地が一望でき、境内には季節の花木が植栽され、立派な神社公園となった。 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄の神々として崇敬され、地域の鎮守として末の世までも住民の憩(いこ)いの場となり心の糧(かて)となることをねがいつつ、このような立派な事業が完遂出来ましたのも、貴重な財産を残してくだされた御先祖、先輩の方々のおかげさまであると心に命じ、感謝と尊敬の念をもってここに記念碑を建立する。
建設委員長、宮司、氏子代表
と彫(ほ)られています。



写真ND: 「熊野神社神殿幣拝殿新築 境内整備事業 他環境整備」の説明板です。
碑文(ひぶん)
 熊野神社(旧 木上権現)は和銅3年(西暦710年)イザナギ イザナミの2神を奉祀する由緒深き神社として明治5年 村社に昇格した。 神拝殿は明治8年改築、その後大正元年の台風被害により、大正5年に大改築が行われたが、長い年月により腐朽著しく鉄骨スレートなど応急的処置が続き、神社としての風格を失ってしまったことに住民の間から新築をとの声があがり、、地区総会で協議の結果、区有財産(飯起地区土地)の売却代金を充てることが決まった。 即 道路建設及び神社改築委員会が結成され、下富吉地区会計より同委員会会計(寄付金として3300万円が奉納され、町の助成金1000万円(下富吉地区コミュニティ整備事業費)を併せ総事業費4300万円で着手した。 (道路取り付け及び用地買収環境整備費として2000万円、神殿幣拝殿新築 1450万円、社務所新築215万円、その他境内整備費など635万円)。
 長い急勾配の階段でしか上がれなかった当地に、南側より広い道路を入れ、車で頂上まで上がれるようになった。 周辺の樹木は全て伐採され、依(よ)って360度の展望が開け、霧島盆地が一望でき、境内には季節の花木が植栽され、立派な神社公園となった。 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄の神々として崇敬され、地域の鎮守として末の世までも住民の憩(いこ)いの場となり心の糧(かて)となることをねがいつつ、このような立派な事業が完遂出来ましたのも、貴重な財産を残してくだされた御先祖、先輩の方々のおかげさまであると心に命じ、感謝と尊敬の念をもってここに記念碑を建立する。
建設委員長、宮司、氏子代表
と彫(ほ)られています。



写真NE: 南東を見たもの。



写真NF: 2つ目の大きなクスノキ、社務所、拝殿です。



写真NG: 拝殿を側面から見たもの。 右に毘沙門天(びしゃもんてん)の赤い鳥居(とりい)が見えます。



写真NH: 熊野神社の境内です。 避雷針が多くあります。



写真NI: 古い石があります。



写真NJ: 本殿(右)と拝殿(左)です。



写真NK: 熊野神社の末社である毘沙門天(びしゃもんてん)の赤い鳥居(とりい)と祠(ほこら)です。



写真NL: 「毘沙門天(びしゃもんてん)神社」です。



写真NM: 「毘沙門天(びしゃもんてん)」と書いてあります。



写真NN: 本殿です。



写真NO: 本殿。



写真NP: 毘沙門天の石碑(せきひ)です。
 毘沙門天は、我が国では七福神の1つで、仏教では四天王の一尊で四天の守護と世人に福徳を与えることで知られている。 原田地区では、通称「蝮(まむし)の神様」と称(しょう)し、毎年 麦酒(ビール)を造って蝮が地区内に入らない様にと祈願している。 創建は、熊野神社と同じ頃と考えられている。
と彫(ほ)られています。



写真NQ: 熊野神社の丘に避雷針が数本あります。



写真NR: 北西に霧島連山が見えています。
ちょうど新燃岳(しんもえだけ、標高 1420.8 m)の噴煙が高千穂峰の右に見えています。



写真NS: 熊野神社の丘の上にベンチがいくつもあります。



写真NT: 熊野神社から見た霧島連山と都城盆地(霧島盆地)です。
ちょうど新燃岳(しんもえだけ、標高 1420.8 m)の噴煙が高千穂峰の右に見えています。



写真NU: ちょうど新燃岳(しんもえだけ、標高 1420.8 m)の噴煙が高千穂峰の右に見えています。



写真NV: ちょうど新燃岳(しんもえだけ、標高 1420.8 m)の噴煙が高千穂峰の右に見えています。
霧島連山(霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。
大淀川の支流 花木川が見えます。 手前に国道269号線が見えます。 国道を左に行くと三股町、都城市の中心部で、右に行くと山之口町の中心部、青井岳温泉、田野町、清武町、宮崎市の中心部に行きます。



写真NW: 熊野神社から北西を見た展望です。 霧島連山も見えています。



写真NX: 北を見た展望です。 右寄りに大きな屋根が目立つ安楽寺、その左に茶色の都城市の体育館、その左に青い屋根の安楽地保育園が見えます。



写真NY: 北を見たもの。



写真NZ: ベンチが多く見えます。 鰐塚山(わにつかやま、標高 1118.1 m)が見えます。 東を見たもの。



写真OA: 南東を見たもの。 熊野神社の本殿と拝殿が見えます。



写真OB: 境内(けいだい)の大きなクスノキが2本共、見えています。



写真OC: 南西を見た景色です。 



写真OD: 西を見たもの。



写真OE: 北西を見た景色です。



写真OF: 熊野神社から西を見た展望です。



写真OG: 熊野神社の丘から見た南西の眺望(ちょうぼう)です。 遠くに都城市の中心部が見えています。



写真OH: 熊野神社から西を見た景色です。 始めに国道269号線から南東に入った十字路が見えます。



写真OI: 右端は高千穂峰(たかちほのみね、標高 1574.0 m)です。



写真OJ: ちょうど新燃岳(しんもえだけ、標高 1420.8 m)の噴煙が高千穂峰の右に見えています。
霧島連山(霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。
大淀川の支流 花木川が見えます。 手前に国道269号線が見えます。 国道を左に行くと三股町、都城市の中心部で、右に行くと山之口町の中心部、青井岳温泉、田野町、清武町、宮崎市の中心部に行きます。



写真OK: 熊野神社から北を見たもの。
中央に大きな屋根が目立つ安楽寺、その左に茶色の都城市の体育館が見えます。



写真OL: 熊野神社から北を見たもの。
右寄りに茶色の都城市の体育館、左寄りに青い屋根の安楽地保育園が見えます。



写真OM: 南東を見たもの。 熊野神社の建物が見えます。



写真ON: 熊野神社の御手洗(みたらい)です。 カエルの像が付いています。



写真OO: 熊野神社の記帳台、お賽銭箱(さいせんばこ)、鈴のヒモなども見えます。



写真OP: 熊野神社の拝殿です。



写真OQ: 熊野神社の拝殿の前です。 石灯籠(いしどうろう)、説明板、石碑(せきひ)、石塔なども見えています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)