杉安井堰 (すぎやすいせき)、一ツ瀬川 (杉安の井堰、杉安頭首工 (かんがい用水を取り入れる施設)、疏水(疎水、そすい、水を流すこと)、西都市 土地改良歴史資料館、江戸時代に初めて杉安井堰、用水路を造った児玉久右衛門、水準点、杉安 川仲島公園、穂北橋(串木橋))  (宮崎県 西都市 大字南方 字杉安 1053番地2)







<標高、位置>  杉安 井堰 (すぎやすいせき)は
標高 約20 m
 北緯32度08分37秒  東経131度22分50秒

<標高、位置>  西都市 土地改良歴史資料館は
標高 約20 m
 北緯32度08分33秒  東経131度22分50秒

<標高、位置>  杉安 川仲島公園は
標高 約20 m
 北緯32度08分42秒  東経131度22分54秒

<標高、位置>  穂北橋(串木橋)は
標高 約20 m
 北緯32度08分29秒  東経131度23分27秒


 「杉安井堰(いせき)」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安にあります。
井堰は頭首工(とうしゅこう)とも呼ばれます。 1700年頃、穂北郷は天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地)で延岡藩が支配していました。 杉安井堰、用水路を初めて造った児玉久右衛門は1689年(元禄2年)に穂北郷の庄屋の子として生まれました。 水路と井堰の工事の途中で工事の妨害、出資者の交代、洪水(こうずい)による堰(せき)の流失などの困難にあいました。 児玉久右衛門に対して村民は感謝して、毎年コメ36俵を永代子孫に寄贈していましたが、現在は奉賛金として霊前に供(そな)え、11月に慰霊祭が行われています。
 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板から、
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工

「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。

 「杉安地区頭首工」の説明板から、
洪水吐ゲート 鋼製・自動倒伏ゲート 幅40.0 mx高さ1.25 m 1門
土砂吐ゲート 鋼製ローラゲート 8.0 x 2.0 1門
取水口入口ゲート 鋼製スライドゲート 2.4 x 1.0 3門
操作方式 モータ駆動油圧式(予備エンジン付)
取水口出口ゲート 鋼製スライドゲート 2.4 x 1.4 3門
操作方式 手動式
制作年月 昭和51年2月

 「県営かんがい排水事業」の説明石碑(せきひ)から、
本 杉安井堰は今より2百数十年前 享保の昔 児玉久右衛門 翁(おきな)が幾多の困難を克服し開設された由緒ある井堰ならびに水路でありその後 昭和8年県営用排水改良事業により頭首工ならびに用水路の一部改修を経(へ)て現在に至(いた)る。 その幹線用水路は野面石空積水路であり老朽により漏水甚(はなは)だしく、よって昭和44〜49年にわたり県営一般かんがい排水事業として施工(しこう)し末端の用水不足解消に効果を挙(あ)ぐ。 また頭首工については近年下流の河床(かしょう)低下により施設の荒廃甚(はなは)だしく堰体崩壊の危険が生じたるため昭和48〜52年にわたり県営用水障害対策事業として施行されここに近代的な装備を誇る頭首工の完成を見る。 本事業の完成により米作を基幹とする農業経営の安定向上に資する処(ところ)大なり、よって本事業達成を記念して碑(ひ)を建つ。
昭和53年2月27日
受益面積 660 ha、頭首工延長 152 m、(用水路)延長 6000 m。

「用水路事業の要旨(ようし)」の説明板から、
(1)事業名 県営一般かんがい排水事業杉安地区
(2)受益面積 水田 660 ha
(3)水源名 2級河川一ツ瀬川 (杉安頭首工)
(4)最大通水量 430 立法メートル/秒 (幹線用水路)
(5)形式 鉄筋コンクリート三方張
(6)主要工事
幹線用水路 長さ 2918.58 m、南方支線用水路 長さ 1020.00 m、右松支線用水路 長さ 574.50 m、三宅支線用水路 長さ 1733.05 m、合計 長さ 6246.13 m
(7)総事業費 264480 千円
(8)工期 昭和44年度〜昭和49年度

 「西都市 土地改良歴史資料館」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安 1053番地2 にあります。
自然と歴史文化に恵まれた西都市の紹介、用水路事業の先駆者 児玉久右衛門の紹介、井堰(いせき)の移り変わり、現在の井堰、一ツ瀬川から東原調整池そして調整池からパイプラインで田畑への灌漑(かんがい)、西都市の農地基盤整備、学習室、屋外展示などがあります。



写真A: これは国道219号線です。 右にバス停「井堰 (いせき) 宮崎交通」があります。 杉安井堰(すぎやすいせき)に行くにはこの三叉路(さんさろ)を右(北東)に曲がります。 国道219号線を先に行くと杉安郵便局、杉安橋、西米良村などがあります。 手前に行くと穂北支所、南方神社、西都市の中心部、宮崎市などがあります。



写真B: バス停「井堰 (いせき) 宮崎交通」があります。



写真C: 三叉路(さんさろ)に「土地改良歴史資料館→」と書いてある標識があります。



写真D: バス停「井堰 (いせき) 宮崎交通」です。



写真E: 三叉路(さんさろ)にある「土地改良歴史資料館→」と書いてある標識と「杉安井堰 改築之碑」です。



写真F: 右へ進むとすぐに杉安 井堰(いせき)があります。 右に赤い水門も見えます。 杉安の山並み(やまなみ)が見えています。



写真G: 右寄りの大きな建物が「西都市 土地改良歴史資料館」です。 その左に見える白いガードレールは一ツ瀬川 堤防の上の道です。 ガードレールの上に赤い「杉安井堰(すぎやすいせき)」が見えます。



写真H: 左寄りは「西都市 土地改良歴史資料館」。



写真I: 右から西都市 土地改良歴史資料館、赤い杉安井堰、その左手前に赤い水門などが見えます。



写真J: 三叉路(さんさろ)のそばに大きな石碑(せきひ)があります。



写真K: 「土地改良歴史資料館→」と書いてある標識。



写真L: 「杉安井堰 改築之碑」とまわりの柵(さく)があります。



写真M: 大きな石碑の左下に赤い字の「水準点」が見えます。



写真N: 「大切にしましょう 水準点 国土地理院 九州地方測量部」と書いてあります。
この地点は標高 22.9 m です。



写真O: これが水準点です。 まわりに石が4つあります。 この地点は標高 22.9 m です。



写真P: 西都市の国道219号線にある「杉安井堰 改築之碑」の上部です。
昭和10年4月建立 杉安堰 耕地整理組合



写真Q: 「杉安井堰 改築之碑」の下部です。
昭和10年4月建立 杉安堰 耕地整理組合



写真R: 西都市にある「杉安井堰 改築之碑」の側面です。



写真S: 「杉安井堰 改築之碑」の裏面上部です。



写真T: 「杉安井堰 改築之碑」の裏面中部です。



写真U: 「杉安井堰 改築之碑」の裏面下部です。



写真V: 石碑(せきひ)を横から見たもの。



写真W: 「昭和10年4月建立 杉安堰 耕地整理組合」と側面に彫(ほ)ってあります。



写真X: 「昭和10年4月建立 杉安堰 耕地整理組合」と側面に彫(ほ)ってあります。



写真Y: トイレがあります。



写真Z: 北東を見た景色です。



写真AA: 遠くは土地改良歴史資料館です。



写真AB: 手前は用水路になっています。 東を見たもの。



写真AC: 南東を見たもの。
杉安井堰からの疏水(疎水、そすい、水路を作り通水させること。)も見えます。



写真AD: 杉安井堰からの疏水(疎水、そすい、水路を作り通水させること。)。
井堰(いせき)でせき止めて川の水面を上げ、赤い水門を通って水がこの用水路を手前に流れてきます。
井堰は頭首工(とうしゅこう)とも呼ばれます。 1700年頃、穂北郷は天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地)で延岡藩が支配していました。 杉安井堰、用水路を初めて造った児玉久右衛門は1689年(元禄2年)に穂北郷の庄屋の子として生まれました。 水路と井堰の工事の途中で工事の妨害、出資者の交代、洪水(こうずい)による堰(せき)の流失などの困難にあいました。 児玉久右衛門に対して村民は感謝して、毎年コメ36俵を永代子孫に寄贈していましたが、現在は奉賛金として霊前に供(そな)え、11月に慰霊祭が行われています。



写真AE: 杉安井堰からの疏水(疎水、そすい、水路を作り通水させること。)。
用水路は南東に延(の)びています。



写真AF: 西都市 土地改良歴史資料館です。
「西都市 土地改良歴史資料館」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安 1053番地2 にあります。
自然と歴史文化に恵まれた西都市の紹介、用水路事業の先駆者 児玉久右衛門の紹介、井堰(いせき)の移り変わり、現在の井堰、一ツ瀬川から東原調整池そして調整池からパイプラインで田畑への灌漑(かんがい)、西都市の農地基盤整備、学習室、屋外展示などがあります。



写真AG: 遠い方の赤いものは杉安井堰(すぎやすいせき)で、左手前の赤いものは用水路の水門です。



写真AH: 上に赤いサイレンがある「杉安頭首工操作室」の白い建物があります。



写真AI: 石碑のそばに大きな木があります。



写真AJ: 石碑のそばの木とトイレです。



写真AK: 手前に「←宝財原、杉安堰→、九州自然歩道 宮崎県」の標識があります。



写真AL: 杉安井堰の近くにある「西都市 土地改良歴史資料館」です。
「西都市 土地改良歴史資料館」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安 1053番地2 にあります。
自然と歴史文化に恵まれた西都市の紹介、用水路事業の先駆者 児玉久右衛門の紹介、井堰(いせき)の移り変わり、現在の井堰、一ツ瀬川から東原調整池そして調整池からパイプラインで田畑への灌漑(かんがい)、西都市の農地基盤整備、学習室、屋外展示などがあります。



写真AM: 「森林と農業用水が持つ多くの役割(多面的機能)」の説明板があります。



写真AN: 左に石碑(せきひ)があります。
「西都市 土地改良歴史資料館」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安 1053番地2 にあります。
自然と歴史文化に恵まれた西都市の紹介、用水路事業の先駆者 児玉久右衛門の紹介、井堰(いせき)の移り変わり、現在の井堰、一ツ瀬川から東原調整池そして調整池からパイプラインで田畑への灌漑(かんがい)、西都市の農地基盤整備、学習室、屋外展示などがあります。



写真AO: 「県営かんがい排水事業」の記念碑があります。



写真AP: 「県営かんがい排水事業」の説明石碑(せきひ)があります。
本 杉安井堰は今より2百数十年前 享保の昔 児玉久右衛門 翁(おきな)が幾多の困難を克服し開設された由緒ある井堰ならびに水路でありその後 昭和8年県営用排水改良事業により頭首工ならびに用水路の一部改修を経(へ)て現在に至(いた)る。 その幹線用水路は野面石空積水路であり老朽により漏水甚(はなは)だしく、よって昭和44〜49年にわたり県営一般かんがい排水事業として施工(しこう)し末端の用水不足解消に効果を挙(あ)ぐ。 また頭首工については近年下流の河床(かしょう)低下により施設の荒廃甚(はなは)だしく堰体崩壊の危険が生じたるため昭和48〜52年にわたり県営用水障害対策事業として施行されここに近代的な装備を誇る頭首工の完成を見る。 本事業の完成により米作を基幹とする農業経営の安定向上に資する処(ところ)大なり、よって本事業達成を記念して碑(ひ)を建つ。
昭和53年2月27日
受益面積 660 ha、頭首工延長 152 m、(用水路)延長 6000 m。
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真AQ: 「県営かんがい排水事業」の説明石碑(せきひ)があります。
本 杉安井堰は今より2百数十年前 享保の昔 児玉久右衛門 翁(おきな)が幾多の困難を克服し開設された由緒ある井堰ならびに水路でありその後 昭和8年県営用排水改良事業により頭首工ならびに用水路の一部改修を経(へ)て現在に至(いた)る。 その幹線用水路は野面石空積水路であり老朽により漏水甚(はなは)だしく、よって昭和44〜49年にわたり県営一般かんがい排水事業として施工(しこう)し末端の用水不足解消に効果を挙(あ)ぐ。 また頭首工については近年下流の河床(かしょう)低下により施設の荒廃甚(はなは)だしく堰体崩壊の危険が生じたるため昭和48〜52年にわたり県営用水障害対策事業として施行されここに近代的な装備を誇る頭首工の完成を見る。 本事業の完成により米作を基幹とする農業経営の安定向上に資する処(ところ)大なり、よって本事業達成を記念して碑(ひ)を建つ。
昭和53年2月27日
受益面積 660 ha、頭首工延長 152 m、(用水路)延長 6000 m。
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真AR: 「県営かんがい排水事業」の説明石碑(せきひ)があります。
本 杉安井堰は今より2百数十年前 享保の昔 児玉久右衛門 翁(おきな)が幾多の困難を克服し開設された由緒ある井堰ならびに水路でありその後 昭和8年県営用排水改良事業により頭首工ならびに用水路の一部改修を経(へ)て現在に至(いた)る。 その幹線用水路は野面石空積水路であり老朽により漏水甚(はなは)だしく、よって昭和44〜49年にわたり県営一般かんがい排水事業として施工(しこう)し末端の用水不足解消に効果を挙(あ)ぐ。 また頭首工については近年下流の河床(かしょう)低下により施設の荒廃甚(はなは)だしく堰体崩壊の危険が生じたるため昭和48〜52年にわたり県営用水障害対策事業として施行されここに近代的な装備を誇る頭首工の完成を見る。 本事業の完成により米作を基幹とする農業経営の安定向上に資する処(ところ)大なり、よって本事業達成を記念して碑(ひ)を建つ。
昭和53年2月27日
受益面積 660 ha、頭首工延長 152 m、(用水路)延長 6000 m。
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真AS: 「県営かんがい排水事業」の説明石碑(せきひ)があります。
本 杉安井堰は今より2百数十年前 享保の昔 児玉久右衛門 翁(おきな)が幾多の困難を克服し開設された由緒ある井堰ならびに水路でありその後 昭和8年県営用排水改良事業により頭首工ならびに用水路の一部改修を経(へ)て現在に至(いた)る。 その幹線用水路は野面石空積水路であり老朽により漏水甚(はなは)だしく、よって昭和44〜49年にわたり県営一般かんがい排水事業として施工(しこう)し末端の用水不足解消に効果を挙(あ)ぐ。 また頭首工については近年下流の河床(かしょう)低下により施設の荒廃甚(はなは)だしく堰体崩壊の危険が生じたるため昭和48〜52年にわたり県営用水障害対策事業として施行されここに近代的な装備を誇る頭首工の完成を見る。 本事業の完成により米作を基幹とする農業経営の安定向上に資する処(ところ)大なり、よって本事業達成を記念して碑(ひ)を建つ。
昭和53年2月27日
受益面積 660 ha、頭首工延長 152 m、(用水路)延長 6000 m。
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真AT: 「県営かんがい排水事業」の説明石碑(せきひ)があります。
本 杉安井堰は今より2百数十年前 享保の昔 児玉久右衛門 翁(おきな)が幾多の困難を克服し開設された由緒ある井堰ならびに水路でありその後 昭和8年県営用排水改良事業により頭首工ならびに用水路の一部改修を経(へ)て現在に至(いた)る。 その幹線用水路は野面石空積水路であり老朽により漏水甚(はなは)だしく、よって昭和44〜49年にわたり県営一般かんがい排水事業として施工(しこう)し末端の用水不足解消に効果を挙(あ)ぐ。 また頭首工については近年下流の河床(かしょう)低下により施設の荒廃甚(はなは)だしく堰体崩壊の危険が生じたるため昭和48〜52年にわたり県営用水障害対策事業として施行されここに近代的な装備を誇る頭首工の完成を見る。 本事業の完成により米作を基幹とする農業経営の安定向上に資する処(ところ)大なり、よって本事業達成を記念して碑(ひ)を建つ。
昭和53年2月27日
受益面積 660 ha、頭首工延長 152 m、(用水路)延長 6000 m。
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真AU: 「西都市 土地改良歴史資料館」の入り口です。
「西都市 土地改良歴史資料館」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安 1053番地2 にあります。
自然と歴史文化に恵まれた西都市の紹介、用水路事業の先駆者 児玉久右衛門の紹介、井堰(いせき)の移り変わり、現在の井堰、一ツ瀬川から東原調整池そして調整池からパイプラインで田畑への灌漑(かんがい)、西都市の農地基盤整備、学習室、屋外展示などがあります。



写真AV: 「用水路事業の要旨(ようし)」の説明板です。
(1)事業名 県営一般かんがい排水事業杉安地区
(2)受益面積 水田 660 ha
(3)水源名 2級河川一ツ瀬川 (杉安頭首工)
(4)最大通水量 430 立法メートル/秒 (幹線用水路)
(5)形式 鉄筋コンクリート三方張
(6)主要工事
幹線用水路 長さ 2918.58 m、南方支線用水路 長さ 1020.00 m、右松支線用水路 長さ 574.50 m、三宅支線用水路 長さ 1733.05 m、合計 長さ 6246.13 m
(7)総事業費 264480 千円
(8)工期 昭和44年度〜昭和49年度
と書いてあります。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真AW: 「西都市 土地改良歴史資料館」の表札(ひょうさつ)があります。
「西都市 土地改良歴史資料館」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安 1053番地2 にあります。
自然と歴史文化に恵まれた西都市の紹介、用水路事業の先駆者 児玉久右衛門の紹介、井堰(いせき)の移り変わり、現在の井堰、一ツ瀬川から東原調整池そして調整池からパイプラインで田畑への灌漑(かんがい)、西都市の農地基盤整備、学習室、屋外展示などがあります。



写真AX: 記念碑の石碑、その左に赤い杉安井堰(いせき)、その左下に説明板、堤防に上がる階段が見えます。



写真AY: 駐車場などが見えます。



写真AZ: 左寄りは用水路です。



写真BA: 土地改良歴史資料館の前です。



写真BB: 土地改良歴史資料館です。 説明板も見えます。



写真BC: 土地改良歴史資料館の入り口です。



写真BD: 堰(せき)の構造の説明です。
右から「かごぜき」、「はこぜき」、「コンクリートぜき(石張りぜき)」の説明があります。
屋外展示です。 井堰の移り変わりを現在の井堰と比較しながら展示してあります。



写真BE: 「かごぜき」です。 石が籠(かご)の中に入れてあり、棒杭(ぼうぐい)で止(と)めてあります。
井堰の移り変わりを現在の井堰と比較しながら展示してあります。



写真BF: 「はこぜき」です。 丸太(まるた)で箱が作ってあり、その中に石が入れてあります。
井堰の移り変わりを現在の井堰と比較しながら展示してあります。



写真BG: 「コンクリートぜき (石張りぜき)」です。 コンクリートで堰(せき)が造ってあります。
井堰の移り変わりを現在の井堰と比較しながら展示してあります。



写真BH: 杉安井堰(いせき)の近くの用水路です。 赤い部分は水門です。



写真BI: 杉安井堰からの疏水(疎水、そすい、水路を作り通水させること。)。
杉安井堰(いせき)の近くの用水路です。 赤い部分は水門。



写真BJ: 杉安井堰(いせき)の近くの用水路です。 赤い部分は水門です。



写真BK: 杉安井堰(いせき)の近くの用水路です。 赤い部分は水門。



写真BL: 中央奥に江戸中期に杉安井堰(いせき)を初めて造った「児玉久右衛門の胸像」があります。 左手前は用水路の柵(さく)です。



写真BM: 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板があります。
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工
平成8年3月吉日 杉安堰(せき)土地改良区
(杉安井堰の写真あり)
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BN: 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板があります。
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工
平成8年3月吉日 杉安堰(せき)土地改良区
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BO: 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板があります。
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工
平成8年3月吉日 杉安堰(せき)土地改良区
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BP: 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板があります。
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工
平成8年3月吉日 杉安堰(せき)土地改良区
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BQ: 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板があります。
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工
平成8年3月吉日 杉安堰(せき)土地改良区
(杉安井堰の写真あり)
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BR: 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板があります。
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工
平成8年3月吉日 杉安堰(せき)土地改良区
(杉安井堰の写真あり)
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BS: 「児玉久右衛門 翁(おきな)と杉安井堰(いせき)」の説明板があります。
 児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
土地改良区のあゆみ
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和25年 杉安堰土地改良区知事認可
昭和26年 区画整理工事に着工
昭和30年 区画整理工事完了再
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
昭和44年 県営一般かんがい排水事業および県営用水障害対策事業、(頭首工)着工
昭和52年 同上完了
昭和62年 県営かんがい排水事業「杉安地区」着工・・・平成4年完了
平成7年 県営農村広域生活環境整備事業 (土地改良資料館)着工
平成8年3月吉日 杉安堰(せき)土地改良区
(杉安井堰の写真あり)
と書かれています。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BT: 一ツ瀬川の堤防と赤い杉安井堰の上部です。



写真BU: この道を奥の国道219号線から来ました。 左は杉安井堰から水を引いた用水路です。 ここを通って多くの田んぼに水を供給します。



写真BV: 「西都市 土地改良歴史資料館」と駐車場などが見えます。



写真BW: 一ツ瀬川 堤防にある「杉安頭首工操作室」です。 西都市 土地改良歴史資料館のそばにあります。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真BX: ここから一ツ瀬川の堤防に上ります。



写真BY: 江戸時代に杉安の井堰(いせき)を造った児玉久右衛門の銅像が見えます。
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
井堰は頭首工(とうしゅこう)とも呼ばれます。 1700年頃、穂北郷は天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地)で延岡藩が支配していました。 杉安井堰、用水路を初めて造った児玉久右衛門は1689年(元禄2年)に穂北郷の庄屋の子として生まれました。 水路と井堰の工事の途中で工事の妨害、出資者の交代、洪水(こうずい)による堰(せき)の流失などの困難にあいました。 児玉久右衛門に対して村民は感謝して、毎年コメ36俵を永代子孫に寄贈していましたが、現在は奉賛金として霊前に供(そな)え、11月に慰霊祭が行われています。



写真BZ: 江戸時代に杉安の井堰(いせき)を造った児玉久右衛門の銅像が見えます。
昭和7年 杉安堰(せき)耕地整理組合設立、頭首工および幹線水路、取水樋門の工事実施、児玉久右衛門 翁(おきな)の銅像建立
昭和18年 大東亜戦争のため銅像を軍に供出
昭和32年 児玉久右衛門 翁の銅像再建
児玉久右衛門は、元禄元年10月24日、穂北郷 三宅村の豪農 児玉善右衛門の2男としてこの世に生を受けた。 当時の穂北郷 8000石は、穂北、南方、童子丸、調殿、三宅、右松、岡富および黒生野の8ヶ村で天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地のことです。)であった。 天水が乏(とぼ)しく、水田も甚(はなは)だしく少なかったこの地域で農民の生活は困窮(こんきゅう)し、離農者も多かった。
翁(おきな)は、この状況を深く憂(うれ)い、農民救済の志(こころざし)をたてたが、現地調査や資金の調達で日夜苦労され、辛酸(しんさん)をなめる日々であった。
 このような中、さる宮崎市の篤志家(とくしか)の援助で念願の資金の目処もたち、延岡藩主 牧野備後守の承諾(しょうだく)をも得ることが出来た。
 享保(きょうほ)5年 杉安から川原までの水路および一ツ瀬川の井堰工事に着手した。 時に翁 33歳の春であった。
 途中、地元住民の反対や数度におよぶ水害を被(こおむ)り、計画も何度か頓挫(とんざ)しかけたが、これらの難関を克服し遂(つい)に享保7年第1期工事が終わり、14町歩の水田に灌漑(かんがい)出来た。
 而(しか)して、寛永年間の第2期工事で、新たに80町歩の開田ができるとともに、用水路の延長により、その面積は600町歩を越えるにいたった。
 杉安土地改良区では毎年11月の大安吉日に、翁を讃(たた)え感謝の気持ちを表すため慰霊祭を執(とり)行なっている。
井堰は頭首工(とうしゅこう)とも呼ばれます。 1700年頃、穂北郷は天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地)で延岡藩が支配していました。 杉安井堰、用水路を初めて造った児玉久右衛門は1689年(元禄2年)に穂北郷の庄屋の子として生まれました。 水路と井堰の工事の途中で工事の妨害、出資者の交代、洪水(こうずい)による堰(せき)の流失などの困難にあいました。 児玉久右衛門に対して村民は感謝して、毎年コメ36俵を永代子孫に寄贈していましたが、現在は奉賛金として霊前に供(そな)え、11月に慰霊祭が行われています。



写真CA: 銅像の近くです。



写真CB: 左に児玉久右衛門の銅像が見えます。 右の建物は「杉安頭首工操作室」です。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真CC: 一ツ瀬川 堤防にある「杉安頭首工操作室」。



写真CD: 一ツ瀬川 堤防にある「杉安頭首工操作室」です。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真CE: 「杉安頭首工操作室」と書いてあります。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真CF: 「杉安地区頭首工」の説明板です。
洪水吐ゲート 鋼製・自動倒伏ゲート 幅40.0 mx高さ1.25 m 1門
土砂吐ゲート 鋼製ローラゲート 8.0 x 2.0 1門
取水口入口ゲート 鋼製スライドゲート 2.4 x 1.0 3門
操作方式 モータ駆動油圧式(予備エンジン付)
取水口出口ゲート 鋼製スライドゲート 2.4 x 1.4 3門
操作方式 手動式
制作年月 昭和51年2月
と書いてあります。
「頭首工」とは河川などから用水路へ必要な灌漑水(かんがいすい)を取り入れるための施設のことです。



写真CG: 「基幹水利施設技術管理強化 特別指導事業実施地区」の説明板です。
「杉安井堰(いせき)」は宮崎県 西都市 大字南方 字杉安にあります。



写真CH: 一ツ瀬川の南岸堤防です。 左に赤い杉安井堰、右の建物は杉安頭首工操作室です。 南東を見た景色です。



写真CI: 宮崎県 西都市 大字南方 字杉安にある杉安井堰(すぎやすいせき)です。 奥が下流側です。



写真CJ: 西都市 大字南方 字杉安にある杉安井堰(すぎやすいせき)です。 右が下流側です。
井堰は頭首工(とうしゅこう)とも呼ばれます。 1700年頃、穂北郷は天領(江戸幕府直轄(ちょっかつ)の領地)で延岡藩が支配していました。 杉安井堰、用水路を初めて造った児玉久右衛門は1689年(元禄2年)に穂北郷の庄屋の子として生まれました。 水路と井堰の工事の途中で工事の妨害、出資者の交代、洪水(こうずい)による堰(せき)の流失などの困難にあいました。 児玉久右衛門に対して村民は感謝して、毎年コメ36俵を永代子孫に寄贈していましたが、現在は奉賛金として霊前に供(そな)え、11月に慰霊祭が行われています。



写真CK: 一ツ瀬川の井堰の少し上流側です。 上流側は水量が多くなっています。



写真CL: 北西を見たもの。



写真CM: 杉安井堰の近くの様子です。



写真CN: 左は杉安頭首工操作室です。



写真CO: 一ツ瀬川に鴨(かも)などがいました。



写真CP: 杉安井堰の上に作業者が登れるようになっています。



写真CQ: 井堰の下部です。 奥は下流側です。 ここから土砂を流します。



写真CR: 西都市にある杉安井堰(いせき)です。 左の部分は溢(あふ)れた水を流します。



写真CS: 西都市 大字南方 字杉安にある杉安井堰です。 この部分は溢(あふ)れた水を流します。



写真CT: 北岸に杉安 川仲島公園の建物が見えています。 そこにはプールもあります。



写真CU: 北岸に川仲島公園の施設が見えます。 そこにはプールもあります。



写真CV: 西都市 土地改良歴史資料館を堤防の上から見たものです。



写真CW: 作業者はここから井堰の上に登ります。



写真CX: 下流方向に県道40号線の「穂北橋」が見えます。



写真CY: 宮崎県 西都市 大字南方 字杉安にある杉安井堰(すぎやすいせき)です。 一番手前は土砂を流す部分、その先の階段のように見えるのはアユなどの魚が遡(さかのぼ)る部分でしょう。



写真CZ: 杉安井堰です。



写真DA: 北西を見た景色です。 駐車場、説明板なども見えます。



写真DB: 手前は土砂を流す所、その右はアユなどの魚が遡(さかのぼ)るところでしょう。 一番右は溢(あふ)れた水を流す所です。



写真DC: 手前は土砂を流す所、その右はアユなどの魚が遡(さかのぼ)るところでしょう。 一番右は溢(あふ)れた水を流す所です。



写真DD: 手前は土砂を流す所、その上はアユなどの魚が遡(さかのぼ)るところでしょう。



写真DE: この辺(あた)りまで水面が白くなっています。



写真DF: 水しぶきなどが美しい。 杉安井堰。



写真DG: 一ツ瀬川の杉安井堰と北岸の川仲島公園です。



写真DH: 井堰の下流側です。



写真DI: 右上に穂北橋が見えます。 下流方向を見たもの。



写真DJ: 「ゴミをすてては いけません」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真DK: 井堰に階段が付いています。



写真DL: 西都市にある杉安井堰の下流側です。 右上に一ツ瀬川の穂北橋が見えています。



写真DM: 堤防の上から駐車場などが見えます。



写真DN: 手前に、降りる階段があります。



写真DO: 土地改良歴史資料館に降りる階段です。



写真DP: 駐車場に戻(もど)りました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)