宗麟原供養塔、白鬚神社 (宗りん原供養塔、かんかん仏、カンカン仏、そうりんばる供養塔、そうりんばるくようとう、高城河原の戦い(耳川の戦い)、白ひげ神社、白鬚大明神、多賀神社、しろひげ神社、多賀小学校、川南町役場、JR川南駅、川南港、トロントロン商店街、トロントロン軽トラ市)
(川南町)
<標高、位置> 宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)は
標高 約60 m
北緯32度10分12秒 東経131度28分57秒
<標高、位置> 白鬚神社(しろひげじんじゃ)は
標高 約100 m
北緯32度11分46秒 東経131度28分12秒
<標高、位置> トロントロンの十字路は
標高 約40 m
北緯32度11分45秒 東経131度31分41秒
<標高、位置> JR日豊本線にある川南駅は
標高 約10 m
北緯32度11分32秒 東経131度33分12秒
<標高、位置> 川南港(川南漁港)は
標高 約0 m
北緯32度10分22秒 東経131度32分59秒
宗りん原供養塔は宮崎県児湯郡 川南町にあります。 宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)は、天正6年11月に行われた豊後(ぶんご)の大友氏(宗麟)と薩摩の島津氏(義久)との合戦(通称 高城之戦、耳川の戦いとも言う)の戦没者を供養した塔です。
合戦の勝利後、島津義久は、戦死者を敵味方の区別なく手厚く弔うよう高城城主 山田新介有信に命じ、さらに天正十二年、合戦の7回忌に当たって大施餓鬼(せがき)を行うよう命じました。 供養塔の完成は銘によると天正13年2月です。 塔の形式は六地蔵塔です。 また数百メートル南方には、大友方の陣地「松山之陣」があります。 この陣地は高城を攻めるための城、いわゆる付城で、戦いのためだけに使う城なので合戦時の城の構えをよく残していると考えられます。 城の最も重要な部分である主郭部は3つの郭がそれぞれ独立する南九州独特の形態です。
白鬚神社(しろひげじんじゃ)は宮崎県児湯郡川南町 大字川南1987番地にあります。
川南町にはJR日豊本線の川南駅があります。 次の駅は北方向は都農駅、南方向は高鍋駅です。
宮崎県児湯郡川南町には「トロントロン商店街」があります。 トロントロンの地名の由来は、江戸時代の参勤交代のときに、行列がここを水飲み場として利用していて、トロントロンと水の音がしたからといわれています。
川南漁港は 所在地: 川南町通浜。 管理者: 宮崎県 農政水産部漁港課 中部港湾事務所。 所官庁: 水産庁。です。
写真A: 宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)は、宮崎県児湯郡 川南町にあります。 これは木城−都農線にある多賀小学校です。 多賀小学校の少し南からT字路を東に進んで、1.2 kmのところに宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)があります。
写真B: 多賀小学校前の道路標識。
写真C: 宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)には、この三叉路(さんさろ)を左に行きます。 奥方向は木城町、手前側は多賀小学校をへて都農町に行きます。
写真D: 宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く三叉路にある案内板。
写真E: 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く三叉路にある標識。 宗麟原供養塔はここから1.2 kmの所にあります。
川南町観光案内。 大友宗麟と島津義久の激戦の地 宗麟原 国史蹟指定、 1.2 km。
と書いてあります。
宮崎県児湯郡川南町湯迫に宗りん原供養塔はあります。
天正6年(1578年)、高城河原の戦い(木城町)で、戦況が一進一退の状況の時、老瀬坂上から島津以久が東から攻め、高城に籠城(ろうじょう)していた佐土原 島津家久、山田新介も西から攻めたため戦況が決定的になりました。 大友軍は大敗し、陸路を豊後(大分県)へ向けて敗走しました。 島津軍が追撃戦を展開し、追い詰められた大友方は、数日間の大雨のため増水していた耳川で多数の将兵が水死しました。 これから「耳川の戦い」と通称されています。 耳川は日向市に河口を持つ川です。
写真F: 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く三叉路。 先方向には都農町があります。 右に進むと宗麟原供養塔、手前は木城町に行きます。
写真G: 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路。
写真H: 「国指定史跡 川南古墳群」の説明板。
川南古墳群は、約0.5平方キロメートルに前方後円墳を24基含む大きな古墳群で、最も大きな39号墳は墳丘の長さが113メートルあり、馬蹄形の周濠を含めますと120メートルにもなります。 遅くとも4世紀には最初の前方後円墳が造られたのだろうと推定されています。 川南古墳群に葬(ほうむ)られている豪族の勢力が強かった時期は、4世紀の終わり頃で、39号墳が造られた頃と推定されます。 当時宮崎で一、二を争う力を持っていたと考えられます。 その頃の大きな墳丘は、柄鏡形墳丘といわれ、東九州独特の墳丘の形です。 しかし、そのような強大な権力を握っていたのもつかの間で、西都原古墳群に男狭穂、女狭穂古墳が造られてからは100メートルを超える古墳を造ることはなくなります。
大きな古墳は西都原古墳群や新田原古墳群に造られるようになり、宮崎全体でも柄鏡形墳丘はなくなります。 これは、古墳群を造った豪族と畿内の王権(大王)との関係が、比較的緩(ゆる)やかな支配・従属関係から、強力な支配・従属関係に変容していった結果と考えられています。 それからは、川南古墳群では6世紀の終わり頃まで小さな前方後円墳を細々と造っていくようになります。
川南町教育委員会
と書いてあります。
写真I: 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路。 右先に、牛の畜産農家の建物が見えます。 広々とした農地が拡がっています。 このあたりは台地(川南台地)になっています。 川南台地は、第二次世界大戦後、全国各地からの入植者により開拓されました。 日本の三大開拓地として知られています。
写真J: 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路のまわりの景色。
写真K: 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路のまわりの景色。 川南台地は、第二次世界大戦後、全国各地からの入植者により開拓されました。 日本の三大開拓地として知られています。
写真L: 茶畑と防霜のための下方向き扇風機も数台、塔の上に見えます。 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路のまわりの景色。 川南台地は、第二次世界大戦後、全国各地からの入植者により開拓されました。 日本の三大開拓地として知られています。
写真M: もうすぐ、左の細い道に曲がります。 そこは三叉路(さんさろ)になっています。 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路のまわりの景色。
写真N: この三叉路を左に入ります。 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路。
宮崎県児湯郡川南町湯迫に宗りん原供養塔はあります。
写真O: 「川南町 観光案内、 国史蹟指定 宗麟原供養塔」と書かれた標識。
写真P: 国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に行く道路の三叉路(さんさろ)。
写真Q: もうすぐ国史蹟指定の宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)に着きます。
写真R: 三叉路には石碑(せきひ)が建っています。
写真S: 「宗りん原供養塔入り口」と書かれた石の標識。
贈 大分宗麟ライオンズクラブ姉妹締結記念、川南ライオンズクラブ 平成3年2月21日。
宮崎県児湯郡川南町湯迫に宗りん原供養塔はあります。
写真T: 「宗りん原供養塔入り口」と書かれた石の標識。
写真U: 三叉路(さんさろ)付近には、山羊(やぎ)も飼われていました。 中央の青いシートの左に小さくヤギが見えています。
写真V: 宗りん原供養塔のある広場には駐車場もあります。
宮崎県児湯郡川南町湯迫に宗りん原供養塔はあります。
写真W: 宗りん原供養塔のある広場にはトイレもあります。 奥の大きな木の付近に宗りん原供養塔(昭和8年、国の史跡指定)があります。
写真X: 手前の方から来て、駐車場に着きました。 この道は、ここで行き止まりです。
写真Y: 広場には桜の木が多くあります。 奥に宗りん原供養塔豊後塚があります。
写真Z: 広場には桜の木が多くあります。 左手に宗りん原供養塔(昭和8年、国の史跡指定)があります。
写真AA: 宗りん原供養塔豊後塚の広場。
写真AB: 左手の道の奥から来ました。
写真AC: 桜の木の向こうに宗りん原供養塔(昭和8年、国の史跡指定)が見えてきました。 宮崎県児湯郡川南町湯迫に宗りん原供養塔はあります。 天正6年(1578年)11月に島津と大友宗麟の大きな戦いが高城(たかじょう)川(今の小丸川)を挟んで行われました。 西の関ヶ原と言われた九州を二分する合戦で、両軍の戦死者は約2万人にもなりました。
1585年に戦死者の供養のために造られました。 「かんかん仏」の名前で親しまれています。
写真AD: 天正6年(1578年)、高城河原の戦い(木城町)で、戦況が一進一退の状況の時、老瀬坂上から島津以久が東から攻め、高城に籠城(ろうじょう)していた佐土原 島津家久、山田新介も西から攻めたため戦況が決定的になりました。 大友軍は大敗し、陸路を豊後(大分県)へ向けて敗走しました。 島津軍が追撃戦を展開し、追い詰められた大友方は、数日間の大雨のため増水していた耳川で多数の将兵が水死しました。 これから「耳川の戦い」と通称されています。 耳川は日向市に河口を持つ川です。
写真AE: 宗りん原供養塔の前の広場には桜の木があります。 十月桜がちょうど花を付けていました。
写真AF: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。 塚の南側には、六面に仏像を彫った供養塔(六地蔵塔)があります。 これが宗りん原供養塔です。 宗麟原供養塔は「カンカン仏」と呼ばれています。
写真AG: 宗りん原供養塔の広場。 ベンチ、説明板も見えます。
写真AH: 宗りん原供養塔の広場。 トイレも見えています。
写真AI: 宗りん原供養塔の近くにある石碑(せきひ)。 「大慈悲」と書かれています。
写真AJ: 宗りん原供養塔は左奥に見えています。 石灯籠(いしどうろう)はまだ新しいようです。 奉納 宗りん原供養塔保存会。
写真AK: 宗りん原供養塔の広場。 ベンチ、トイレも見えます。
写真AL: 宗りん原供養塔の広場。 ベンチ、トイレも見えます。
写真AM: 宗りん原供養塔の広場。 奥の木は桜です。
写真AN: 宗りん原供養塔前の広場。 桜の木もあります。
写真AO: 宗りん原供養塔のそばの石灯籠(いしどうろう)。
写真AP: 屋根の下の石造物が「宗りん原供養塔」です。 右に鐘(かね)が吊(つる)してあります。 後ろは大きな塚になっています。
天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。 塚の南側には、六面に仏像を彫った供養塔(六地蔵塔)があります。 これが宗りん原供養塔です。 宗麟原供養塔は「カンカン仏」と呼ばれています。
写真AQ: 宗りん原供養塔。 しめ縄があり、下にロウソクも見えます。 右には釣り鐘(つりがね)があります。
写真AR:
宗りん原供養塔は六地蔵塔の形式のものです。
天正6年(1578年)、高城河原の戦い(木城町)で、戦況が一進一退の状況の時、老瀬坂上から島津以久が東から攻め、高城に籠城(ろうじょう)していた佐土原 島津家久、山田新介も西から攻めたため戦況が決定的になりました。 大友軍は大敗し、陸路を豊後(大分県)へ向けて敗走しました。 島津軍が追撃戦を展開し、追い詰められた大友方は、数日間の大雨のため増水していた耳川で多数の将兵が水死しました。 これから「耳川の戦い」と通称されています。 耳川は日向市に河口を持つ川です。
写真AS: 宗りん原供養塔。 下にロウソクが供(そな)えてあります。
写真AT: 宗りん原供養塔の下の方。
写真AU: 鐘(かね)をたたいて拝(おが)みます。
宗りん原供養塔は六地蔵塔の形式のものです。
天正6年(1578年)、高城河原の戦い(木城町)で、戦況が一進一退の状況の時、老瀬坂上から島津以久が東から攻め、高城に籠城(ろうじょう)していた佐土原 島津家久、山田新介も西から攻めたため戦況が決定的になりました。 大友軍は大敗し、陸路を豊後(大分県)へ向けて敗走しました。 島津軍が追撃戦を展開し、追い詰められた大友方は、数日間の大雨のため増水していた耳川で多数の将兵が水死しました。 これから「耳川の戦い」と通称されています。 耳川は日向市に河口を持つ川です。
写真AV: 宗りん原供養塔のそばの石碑(せきひ)。 「博愛 宗麟原供養塔400年祭 昭和52年11月12日」と彫(ほ)られています。
写真AW: 宗りん原供養塔のそばの景色。 石碑、石灯籠(いしどうろう)、広場の奥には桜の木があります。
写真AX: 宗りん原供養塔のそばにある御手洗(みたらい)、石碑、ロウソク売り箱も見えます。
写真AY: 「史跡 宗麟原供養塔」の石碑(せきひ)。
天正6年(1578年)、島津義久がこの地に大友宗麟(おおともそうりん、大分県の殿様))の大軍を破り戦死者がおびただしくそのとき高城(木城町の)を守った島津の武将 山田新介有信が同13年大友軍の犠牲者の霊を慰めるためこれを建てたものである。
通称「かんかん仏」と言われている方形の笠石と各面 銘があり蓮弁を刻んだ中岩の上に六地蔵を浮き彫りにした身部 六角塔をのせる。
と彫(ほって)ってあります。
写真AZ: 後ろの小山は、天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。 宗麟原供養塔は「カンカン仏」と呼ばれています。
写真BA: 宮崎県児湯郡川南町にある宗りん原供養塔。
写真BB: 宮崎県児湯郡川南町にある宗りん原供養塔。
写真BC: 宮崎県児湯郡川南町にある宗りん原供養塔。
写真BD: 石笠の下には六面のそれぞれに地蔵様が彫(ほ)ってあります。 それで六地蔵塔と呼ばれます。
写真BE: 石笠の下には六面のそれぞれに地蔵様が彫(ほ)ってあります。 それで六地蔵塔と呼ばれます。
写真BF: 石笠の下には六面のそれぞれに地蔵様が彫(ほ)ってあります。 それで六地蔵塔と呼ばれます。
写真BG: 石笠の下には六面のそれぞれに地蔵様が彫(ほ)ってあります。 それで六地蔵塔と呼ばれます。 地蔵様の下には蓮弁を刻(きざ)んだ中岩も見えます。
写真BH: 石笠の下には六面のそれぞれに地蔵様が彫(ほ)ってあります。 それで六地蔵塔と呼ばれます。 地蔵様の下には蓮弁を刻(きざ)んだ中岩も見えます。
写真BI: 宗りん原供養塔の下部の様子。
写真BJ: 宗りん原供養塔。
写真BK: 宗りん原供養塔の上部。
写真BL: 宗りん原供養塔のそばにある石碑(せきひ)。 供養塔の銘文が写してあります。
写真BM: 宗りん原供養塔の広場。 御手洗(みたらい)、石碑(せきひ)、石燈籠(いしどうろう)、ベンチも見えます。
写真BN: 宗麟原供養塔のそばにある御手洗(みたらい)。
奉納 川南ライオンズクラブ結成10周年記念。
写真BO: ベンチもあります。
写真BP: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
宗りん原供養塔は六地蔵塔の形式のものです。 宗麟原供養塔は「カンカン仏」と呼ばれています。
天正6年(1578年)、高城河原の戦い(木城町)で、戦況が一進一退の状況の時、老瀬坂上から島津以久が東から攻め、高城に籠城(ろうじょう)していた佐土原 島津家久、山田新介も西から攻めたため戦況が決定的になりました。 大友軍は大敗し、陸路を豊後(大分県)へ向けて敗走しました。 島津軍が追撃戦を展開し、追い詰められた大友方は、数日間の大雨のため増水していた耳川で多数の将兵が水死しました。 これから「耳川の戦い」と通称されています。 耳川は日向市に河口を持つ川です。
写真BQ: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
写真BR: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
写真BS: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。
写真BT: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。
写真BU: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。 人家も見えます。
写真BV: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。 遠くの山は尾鈴山です。
写真BW: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。 遠くの山は尾鈴山です。
写真BX: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。 人家も見えます。
写真BY: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。 人家も見えます。
写真BZ: 宗りん原供養塔のそばには芝畑がありました。 人家も見えます。
写真CA: 「史蹟 宗りん原供養塔、史蹟名勝天然記念物、昭和8年2月」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)もあります。
写真CB: 左は、天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。 宗麟原供養塔は「カンカン仏」と呼ばれています。
天正6年(1578年)、高城河原の戦い(木城町)で、戦況が一進一退の状況の時、老瀬坂上から島津以久が東から攻め、高城に籠城(ろうじょう)していた佐土原 島津家久、山田新介も西から攻めたため戦況が決定的になりました。 大友軍は大敗し、陸路を豊後(大分県)へ向けて敗走しました。 島津軍が追撃戦を展開し、追い詰められた大友方は、数日間の大雨のため増水していた耳川で多数の将兵が水死しました。 これから「耳川の戦い」と通称されています。 耳川は日向市に河口を持つ川です。
写真CC: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
写真CD: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
写真CE: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
天正6年(1578年)、高城河原の戦い(木城町)で、戦況が一進一退の状況の時、老瀬坂上から島津以久が東から攻め、高城に籠城(ろうじょう)していた佐土原 島津家久、山田新介も西から攻めたため戦況が決定的になりました。 大友軍は大敗し、陸路を豊後(大分県)へ向けて敗走しました。 島津軍が追撃戦を展開し、追い詰められた大友方は、数日間の大雨のため増水していた耳川で多数の将兵が水死しました。 これから「耳川の戦い」と通称されています。 耳川は日向市に河口を持つ川です。
写真CF: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
写真CG: 天正6年(1578年)11月、「耳川の戦い(高城の戦い)」のときの大友軍と島津軍の戦死者合計、数千人が埋葬されている大きな塚です。
写真CH: 宗麟原供養塔の近くにある石碑(せきひ)。
写真CI: 宗麟原供養塔のそばの石碑。
田北鎮周公 居城の地に、大分県山香町瑞倉寺総代長 故坪井美弘氏と有志によって散華された将士の菩提を祈り、その気概を後世に伝えようと平成元年の春鎮周会を結成した。 会員の高齢化を迎えた今、その足跡を標し後人への継承を期し建立する。 長年ご供養頂(いただ)いた地元保存会を始め関係者の皆様に衷心よりお礼申し上げます。 合掌
平成17年5月吉日
と彫(ほ)られています。 施工は大分県宇佐市の石材店が行いました。
写真CJ: 宗麟原供養塔のそばの説明板。
写真CK: 宗麟原供養塔の説明板。
写真CL: 国指定史跡 宗麟原供養塔の説明板。
指定年月日 昭和8年2月28日
この供養塔は、天正6年11月に行われた豊後(ぶんご)の大友氏(宗麟)と薩摩の島津氏(義久)との合戦(通称 高城之戦)の戦没者を供養した塔である。
合戦の勝利後、島津義久は、戦死者を敵味方の区別なく手厚く弔うよう高城城主 山田新介有信に命じ、さらに天正十二年、合戦の7回忌に当たって大施餓鬼(せがき)を行うよう命じた。 供養塔の完成は銘によると天正13年2月である。 塔の形式は六地蔵塔です。
また数百メートル南方には、大友方の陣地「松山之陣」がある。 この陣地は高城を攻めるための城、いわゆる付城で、戦いのためだけに使う城なので合戦時の城の構えをよく残していると考えられる。 城の最も重要な部分である主郭部は3つの郭がそれぞれ独立する南九州独特の形態である。
平成9年11月12日 川南町教育委員会
と書かれています。
写真CM: 高城川原の戦い(通称 耳川の戦い)の絵地図。 文政三年絵図および高城御陣場之図を元に簡略化したもの。 今の小丸川は高城川と言われていました。 高城には島津家久(佐土原前島津)、山田新介が立て籠もっていました。 左下の根白坂の東に島津本陣 島津義久、島津以久(後に佐土原後島津)の陣がありました。 小丸川の支流 切原川の北には、大友方 佐伯宗天の松山之陣 本陣、野久尾之陣、田開之陣、星野河原之陣、松原之陣など大友方が陣取りました。
宗麟原供養塔の位置も書いてあります。
写真CN: 高城川原の戦い(通称 耳川の戦い)の絵地図。 文政三年絵図および高城御陣場之図を元に簡略化したもの。 今の小丸川は高城川と言われていました。 高城には島津家久(佐土原前島津)、山田新介が立て籠もっていました。 左下の根白坂の東に島津本陣 島津義久、島津以久(後に佐土原後島津)の陣がありました。 小丸川の支流 切原川の北には、大友方 佐伯宗天の松山之陣 本陣、野久尾之陣、田開之陣、星野河原之陣、松原之陣など大友方が陣取りました。
宗麟原供養塔の位置も書いてあります。
写真CO: 高城川原の戦い(通称 耳川の戦い)の絵地図。 文政三年絵図および高城御陣場之図を元に簡略化したもの。 今の小丸川は高城川と言われていました。 高城には島津家久(佐土原前島津)、山田新介が立て籠もっていました。 左下の根白坂の東に島津本陣 島津義久、島津以久(後に佐土原後島津)の陣がありました。 小丸川の支流 切原川の北には、大友方 佐伯宗天の松山之陣 本陣、野久尾之陣、田開之陣、星野河原之陣、松原之陣など大友方が陣取りました。
宗麟原供養塔の位置も書いてあります。
写真CP: 宮崎県川南町にある白鬚神社(しろひげじんじゃ)の方向を示す看板(かんばん)。 白鬚神社へはこの三叉路(さんさろ)を左に進みます。 手前方向は木城町 田神地区があります。
写真CQ: 白鬚神社(しろひげじんじゃ)は、この三叉路を左に行きます。
写真CR: 白鬚神社に行く道。
写真CS: 白鬚神社に行く道筋(みちすじ)の看板。
写真CT: 白鬚神社に行く道筋(みちすじ)の看板。
写真CU: 「注意 ハンターの皆さん! この付近には農道・農耕地があります。 狩猟に注意しましょう。 宮崎県」 と書いてある看板。
写真CV: この三叉路を右に進むと白鬚神社があります。
写真CW: 白鬚地区 土砂災害危険区域図の看板(かんばん)。
白鬚の地名の由来は、昔、ここに住んでいた漁師の浦島太郎が、琉球に釣りに行き帰ってきた時に、白鬚の老人になっていたという伝説があります。 別の説は、白鬚神社の祭神で、七百余年の寿命だったとされる「サルタヒコノミコト」の白ひげにちなんだというものです。
写真CX: 白鬚地区の地図。
白鬚の地名の由来は、昔、ここに住んでいた漁師の浦島太郎が、琉球に釣りに行き帰ってきた時に、白鬚の老人になっていたという伝説があります。 別の説は、白鬚神社の祭神で、七百余年の寿命だったとされる「サルタヒコノミコト」の白ひげにちなんだというものです。
写真CY: 白鬚営農研修施設の建物。
写真CZ: 白鬚営農研修施設の建物。
写真DA: 「白鬚営農研修施設」。 白鬚の地名の由来は、昔、ここに住んでいた漁師の浦島太郎が、琉球に釣りに行き帰ってきた時に、白鬚の老人になっていたという伝説があります。 別の説は、白鬚神社の祭神で、七百余年の寿命だったとされる「サルタヒコノミコト」の白ひげにちなんだというものです。
写真DB: 白鬚振興班住宅図の看板(かんばん)。 白鬚の地名の由来は、昔、ここに住んでいた漁師の浦島太郎が、琉球に釣りに行き帰ってきた時に、白鬚の老人になっていたという伝説があります。 別の説は、白鬚神社の祭神で、七百余年の寿命だったとされる「サルタヒコノミコト」の白ひげにちなんだというものです。
写真DC: 道筋にお大師堂がありました。
写真DD: 川南町白鬚地区にある「お大師堂」。
写真DE: 川南町白鬚地区にある「お大師堂」。
写真DF: 川南町白鬚地区にある「お大師堂」。 石碑(せきひ)があります。
写真DG: 川南町白鬚地区にある「お大師堂」。
写真DH: 川南町白鬚地区にある「お大師堂」。
写真DI: 「大本宮 白鬚神社 駐車場」と書かれた看板。
白鬚の地名の由来は、昔、ここに住んでいた漁師の浦島太郎が、琉球に釣りに行き帰ってきた時に、白鬚の老人になっていたという伝説があります。 別の説は、白鬚神社の祭神で、七百余年の寿命だったとされる「サルタヒコノミコト」の白ひげにちなんだというものです。
写真DJ: 白鬚神社の赤い鳥居(とりい)。 白鬚神社は宮崎県川南町大字川南1987にあります。
写真DK: 宮崎県川南町にある白鬚神社の一の鳥居(とりい)。 「白鬚神社」と書いた額(がく)があります。
写真DL: 川南町にある白鬚神社の参道。
写真DM: 参道に白い桃の花が咲いていました。
写真DN: 白鬚神社は宮崎県川南町大字川南1987にあります。
写真DO: 中央の大きな木は「白鬚神社の大杉」です。
写真DP: 「白鬚神社の大杉」です。
写真DQ: 川南町の白鬚神社(しろひげじんじゃ)。
写真DR: 「大本宮 白鬚神社」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。
写真DS: 白鬚神社の掲示板(けいじばん)。
「慈し心」と書いてあります。
写真DT: 白鬚神社の神橋、二の鳥居(とりい)など。
写真DU: 「大本宮 白鬚神社 縁起」の看板。
鎮座 宮崎県児湯郡川南町 大字川南1987番地
当初、神社は現神社後方に位置する白鬚権現山に建立され、天長2年(825年)に当地に鎮座されたことは、社伝および地質学から明らかであるが故に最古の神社とも云(い)える。 当社は古来より御祭神の神徳を賜(たまわ)らんとする行者(霊能者)達の修行神として奉(たてまつ)られ、行を修めた者共(ものども)が全国各地に分社を建立、四方国民を教導した元宮である。 修業場は現存し使用されている。 行者屋敷は現存しないが故に当社では、両部新法根本道場にて修業者を養成、古(いにしえ)の姿を伝えるものである。
主祭神
伊邪那郡岐大神、建速須佐之男大神、猿田彦大神
神言に「道は日の神 天照皇大神、教えは導きの神 猿田彦大神」とある。
写真DV: 「大本宮 白鬚神社 縁起」の看板。
鎮座 宮崎県児湯郡川南町 大字川南1987番地
当初、神社は現神社後方に位置する白鬚権現山に建立され、天長2年(825年)に当地に鎮座されたことは、社伝および地質学から明らかであるが故に最古の神社とも云(い)える。 当社は古来より御祭神の神徳を賜(たまわ)らんとする行者(霊能者)達の修行神として奉(たてまつ)られ、行を修めた者共(ものども)が全国各地に分社を建立、四方国民を教導した元宮である。 修業場は現存し使用されている。 行者屋敷は現存しないが故に当社では、両部新法根本道場にて修業者を養成、古(いにしえ)の姿を伝えるものである。
主祭神
伊邪那郡岐大神、建速須佐之男大神、猿田彦大神
神言に「道は日の神 天照皇大神、教えは導きの神 猿田彦大神」とある。
写真DW: 白鬚神社の二の鳥居(とりい)と神橋。
写真DX: 白鬚神社の御手洗(みたらい)。
写真DY: 右後ろの大きな木は白鬚神社の「大杉」です。 御手洗(みたらい)、「大本宮 白鬚神社 縁起」の看板、右端に二の鳥居(とりい)も見えます。
写真DZ: 右後ろの大きな木は白鬚神社の「大杉」です。
写真EA: 白鬚神社の林。
写真EB: 大きな岩と青竹で出来た御手洗(みたらい)。 青竹が使われているのは珍しいと思います。
写真EC: 白鬚神社の末社などの看板。
水神社、荒神社、大界社、忠鬚社、白鬚神社 本宮、稲荷社、山神社、畜魂社、浦島社などと書かれた木の板が掛けてあります。
写真ED: 白鬚神社の絵馬(えま)を掛けてあります。 左に狛犬(こまいぬ)、社殿も見えています。
写真EE: 宮崎県児湯郡川南町にある白鬚神社の絵馬(えま)。
写真EF: 白鬚神社は宮崎県川南町大字川南1987にあります。
写真EG: 白鬚神社の「丸い石」です。
意志→石
一度目は、石を「なでなで」してから両手でもち上げ、
二度目は、石を「ぱちぱち」とたたいてから両手でもち上げる。
”重さがちがいますか”
自分の心しだいで 相手が変わる証(あかし)である。
と書かれています。
写真EH: 白鬚神社の「丸い石」の説明板。
意志→石
一度目は、石を「なでなで」してから両手でもち上げ、
二度目は、石を「ぱちぱち」とたたいてから両手でもち上げる。
”重さがちがいますか”
自分の心しだいで 相手が変わる証(あかし)である。
と書かれています。
写真EI: 白鬚神社の神符授与所、祈願祈祷受付。
写真EJ: 白鬚神社の「牛の銅像」。 白鬚神社には末社として畜魂社があるので、牛と馬の銅像が奉納してあります。 川南町は畜産業も盛んです。
写真EK: 白鬚神社の「馬の銅像」。 白鬚神社には末社として畜魂社があるので、牛と馬の銅像が奉納してあります。 川南町は畜産業も盛んです。
写真EL: 宮崎県児湯郡川南町大字川南にある白鬚神社(しろひげじんじゃ)の拝殿。
写真EM: 宮崎県児湯郡川南町大字川南にある白鬚神社(しろひげじんじゃ)の拝殿。
写真EN: 宮崎県児湯郡川南町大字川南にある白鬚神社(しろひげじんじゃ)。
写真EO: 宮崎県児湯郡川南町大字川南にある白鬚神社(しろひげじんじゃ)。
写真EP: 白鬚神社の境内。 奥に白鬚神社の「大杉」が見えています。
写真EQ: 白鬚神社の境内。 奥に白鬚神社の「大杉」が見えています。
写真ER: 白鬚神社の境内。
写真ES: 白鬚神社の境内。 左は「大杉」。
写真ET: 白鬚神社の境内。 左は「大杉」。
写真EU: 白鬚神社の境内。
写真EV: 右は白鬚神社の本殿(奥の院)、左は拝殿。 酒樽(さけだる)が奉納されていました。
写真EW: 拝殿には酒樽(さかだる)が奉納されていました。
写真EX: 白鬚神社の境内。 牛と馬の銅像も見えます。
写真EY: 白鬚神社の末社。
写真EZ: 白鬚神社の末社。
写真FA: 白鬚神社の境内。 古札納所。
写真FB: 白鬚神社の境内。 古札納所。
写真FC: 白鬚神社の境内。 森の中に歩道があります。
写真FD: 白鬚神社の境内。 森の中に歩道があります。
写真FE: 白鬚神社の境内にある水神社。 池の中にあります。
写真FF: 白鬚神社の境内にある水神社。 池の中にあります。
写真FG: 白鬚神社の境内(けいだい)にある稲成社(稲荷社)。
写真FH: 白鬚神社の境内(けいだい)にある稲成社(稲荷社)。
写真FI: 白鬚神社の末社。
写真FJ: 白鬚神社の末社。
写真FK: 白鬚神社の末社。
写真FL: 白鬚神社の境内には大きな木があります。
写真FM: 白鬚神社の末社。
写真FN: 白鬚神社の境内にある畜鎮魂社。
写真FO: 白鬚神社の境内にある畜鎮魂社。
写真FP: 白鬚神社の拝殿(右)と本殿(左)。 拝殿には多くの酒樽(さかだる)が奉納してあります。
写真FQ: 白鬚神社の拝殿(右)と本殿(左)。 拝殿には多くの酒樽(さかだる)が奉納してあります。
写真FR: 白鬚神社の境内。
写真FS: 白鬚神社の拝殿にある獅子頭(ししがしら)と鈴。 獅子頭は厄神獅子(やくがみしし)。
写真FT: 白鬚神社の中。
写真FU: 白鬚神社の中にある額(がく)。
写真FV: 白鬚神社の建物。 宗教法人 白鬚神社社務所。
写真FW: 白鬚神社の建物。 宗教法人 白鬚神社社務所。
写真FX: 白鬚神社の建物。 宗教法人 白鬚神社社務所。
写真FY: 白鬚神社の一の鳥居(とりい)。 奥に駐車場のそばの看板も見えています。
写真FZ: 白鬚神社の一の鳥居(とりい)は、昭和58年4月に建立されました。
写真GA: 白鬚神社の参拝者駐車場。 この左に白鬚会館道場があります。
写真GB: 白鬚神社の参拝者駐車場。 この左に白鬚会館道場があります。
写真GC: 川南町にある白鬚神社の鎮守の森(ちんじゅのもり)と宗教法人 白鬚神社社務所。。
写真GD: 白鬚神社の一の鳥居(とりい)も見えます。 鳥居は昭和58年4月吉日建立。
写真GE: 白鬚神社の近くの景色。
写真GF: 白鬚神社の駐車場には「心」と彫(ほ)られた石柱があります。 塀(へい)の左の建物は「白鬚会館道場」です。
写真GG: 白鬚神社の駐車場には石柱があります。
写真GH: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 ホームにある看板(かんばん)。 次の駅は北方向は都農駅、南方向は高鍋駅です。
写真GI: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 ホームに行く青い跨線橋(こせんきょう)、ホームの座席と屋根も見えています。
写真GJ: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 川南駅の駐車場です。 川南駅の西側は山になっています。
写真GK: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 ちょうど2輌編成の列車が来ました。 左は駅の駐車場です。 ホームの人も見えます。
写真GL: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 これが立派な駅舎です。 左に日豊線があり、右は車道です。
写真GM: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 これがきれいなトイレです。 右奥に到着した列車が見えています。
写真GN: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 川南駅の駅舎です。 「JR川南駅」と書いてあります。
写真GO: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 この道を奥に行くと川南港があります。 左端は駅舎です。
写真GP: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 待合室、改札口、公衆電話、自動販売機も見えています。
写真GQ: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 切符売り場です。 時計、普通運賃表も見えます。
写真GR: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 「川南駅 普通運賃表」です。 これは切符売り場の上の壁にあります。
写真GS: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 待合室です。 右の窓の外にトイレが見えています。
写真GT: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 「かわみなみイラストマップ」です。 待合室の上の壁にありました。 白鬚神社、宗麟原供養塔、トロントロン商店街、川南漁港、川南駅なども載っています。
写真GU: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 蘇鉄(そてつ)の木があります。 ホーム、跨線橋、レール、植えてある花、電車用の電線、左端のトイレなどが見えます。
写真GV: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 レールも見えています。
写真GW: JRの日豊線にある「川南駅(かわみなみ駅)」。 レール、ホーム、植えてある花などが見えています。
写真GX: 宮崎県児湯郡川南町 「トロントロン商店街」。 トロントロンの地名の由来は、江戸時代の参勤交代のときに、行列がここを水飲み場として利用していて、トロントロンと水の音がしたからといわれています。
これがトロントロンの十字路です。 左右に通っている道は旧10号国道です。 左にはそばにバス停があります。 左に行くと高鍋町、右に行くと都農町に行きます。 手前に進むと、川南駅と川南漁港があります。 JA
のガソリンスタンドが見えています。
このあたりで、「トロントロンの軽トラ市場」が開かれます。 多くの軽トラック(約100台)に農家が農産物などを載せて販売します。 買い物客が遠方からも集まります。
写真GY: トロントロンの十字路の信号機、文具店など。
写真GZ: トロントロンの十字路。 右奥に行くと都農町に向かいます。 理容店、郵便ポスト、なども見えます。
このあたりで、「トロントロンの軽トラ市」が開かれます。 多くの軽トラック(約100台)に農家が農産物などを載せて販売します。 買い物客が遠方からも集まります。
トロントロンの地名の由来は、江戸時代の参勤交代のときに、行列がここを水飲み場として利用していて、トロントロンと水の音がしたからといわれています。
写真HA: トロントロンの十字路。 先に進むと川南駅と川南漁港があります。 バイク屋さんも見えています。 右手は金物屋さんです。
写真HB: 宮崎県児湯郡川南町にある「トロントロン商店街」。 トロントロンの十字路のそばです。 先方向には高鍋町があります。 このあたりで、「トロントロンの軽トラ朝市」が開かれます。 多くの軽トラック(約100台)に農家が農産物などを載せて販売します。 買い物客が遠方からも集まります。
バス停(トロントロン)も見えています。
トロントロンの地名の由来は、江戸時代の参勤交代のときに、行列がここを水飲み場として利用していて、トロントロンと水の音がしたからといわれています。
写真HC: 定期朝市、「第27回 川南トロントロン軽トラ市」、(全国展開支援事業)、川南商工会、雨天時も開催。
「軽トラ市」は地域の物産を軽トラックなどで販売しています。
ここが軽トラ市の北の終点です。 通りは歩行者天国になります。
写真HD: 「川南トロントロン軽トラ市」。 軽トラック、軽ワゴン、簡易テントなどで農産物、水産物、衣料品などを売っています。
写真HE: 「川南トロントロン軽トラ市」。 牡蠣(かき)を炭火で焼いて売っていました。
写真HF: 「川南トロントロン軽トラ市」。 ここは護国神社の入り口のそばです。
写真HG: 「川南トロントロン軽トラ市」。 焼き鮎(あゆ)も売っています。
写真HH: 「川南トロントロン軽トラ市」。 郵便局(塩付郵便局)が出張していました。
写真HI: 「川南トロントロン軽トラ市」。 自衛官も来ておられました。
写真HJ: 「川南トロントロン軽トラ市」。 音楽会もやっていました。 中央下の舞台で、ギターを弾いています。
写真HK: 「川南トロントロン軽トラ市」。 ふるさと総合文化公園、トロントロンドーム、川南町役場の案内板も見えます。
写真HL: 川南町役場。 建物の前にフェニックスの木があります。
写真HM: 川南商工会館(トロントロンプラザ)。
写真HN: 「川南トロントロン軽トラ市」。 古物商も出ていました。 これは懐(なつ)かしい手動バリカン(髪の毛切り用)です。
写真HO: 「川南トロントロン軽トラ市」。 ぜんざい、コーヒーも売っています。
写真HP: 「川南トロントロン軽トラ市」。 ここが歩行者天国になっている「軽トラ市」の南の終点です。 ガソリンスタンドがあります。
写真HQ: 宮崎県児湯郡川南町にある「川南港(通浜漁港)」の看板(かんばん)。
第2種 川南漁港。 所在地: 川南町通浜。 管理者: 宮崎県 農政水産部漁港課 中部港湾事務所。 所官庁: 水産庁。
と書いてあります。
奥に帰ってきた漁船が多く見えます。
写真HR: 宮崎県児湯郡川南町にある「川南港(通浜漁港)」。 陸に引き上げて塗り替え中の漁船も見えています。
写真HS: 宮崎県児湯郡川南町にある「川南港(通浜漁港)」。 奥に波を止めるための壁が見えます。
写真HT: 宮崎県児湯郡川南町にある「川南港」。 港の西側の山も見えます。 山と港の間に、住宅があります。
写真HU: 宮崎県児湯郡川南町にある「川南港(通浜漁港)」。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)