曽井城跡 (そいじょうあと、曽井城趾、曽井城址、そいじょうし)  (宮崎県 宮崎市 大字恒久 字曽井 5567)







<標高、位置>  曽井城跡(そいじょうあと)は
標高 約40 m
 北緯31度53分17秒  東経131度24分19秒


 曽井城跡(そいじょうあと)は宮崎市 大字恒久 字曽井 5567にあります。 曽井城は中世からの山城です。 南に八重川の支流 古城川がある曽井城は中世から戦国時代に曽井、伊東、島津のものでした。 天授時代(1375-81年)に伊東の支族、門川党の曽井六郎三郎祐善が造りました。 応永(1394-1428年)19年に大淀川の南にある曽井、源藤に島津軍が侵攻してきました。 伊東祐安、祐立父子は曽井城に立て籠もって抵抗しました。 曽井は島津に接近し何度も本家の伊東に背(そむ)きましたが、伊東祐尭(いとうすけたか)によって1444年(文安元年)によって攻められ滅(ほろ)びました。 この後、伊東48城の一つとなりました。 城主は八代民部左衛門でした。 伊東祐尭(いとうすけたか)は永享12年(1440年)から宝徳2年(1450年)に大淀川の南にある曽井城、石塚城を中心にして支配範囲を広げて島津を山の西に退けました。 伊東義祐が大分県の大友を頼って出奔(しゅっぽん)した後は島津のものになり、比志島式部大輔義知が入城しました。 豊臣秀吉の九州征伐の後、もう一度伊東の城になりました。 このとき、豊臣秀吉の軍師で、関ヶ原の戦いのとき伊東に勧めて延岡藩の高橋や島津と戦わせた黒田孝高(官兵衛如水)を奉行として曽井城は大幅に改築されました。 伊東祐兵は豊臣秀吉から九州征伐で手柄があったので、天正15年、曽井城をもらい、日向 中部4郡の内、1479町を与えられましたが、そののち希望して飫肥(おび)、清武1736町に変更してもらいました。 飫肥城、清武城があります。 2万8千石でした。 この時まで曽井城は使われました。 江戸時代の初期に江戸幕府の一国一城令で曽井城は廃城になりました。 曽井城跡からは、白磁盃(さかずき)、青磁雷文碗(わん)などの陶器が出土しています。 曽井城跡は現在は私立の病院(野崎病院)になっています。


写真A: 「曽井城跡(そいじょうあと)」は宮崎市 大字恒久 字曽井 5567にあります。 この写真の山の上に曽井城はありました。 曽井城跡は今は私立病院(野崎病院)が建っています。



写真B: 曽井城跡の山です。 右上は私立病院です。 病棟、従業員の寮などのある所は曽井城の建物があったところです。



写真C: 曽井城跡の山です。 上は私立病院です。 病棟、従業員の寮などのある所は曽井城の建物があったところです。
曽井城跡(そいじょうあと)は宮崎市 大字恒久 字曽井 5567にあります。 曽井城は中世からの山城です。 南に八重川の支流 古城川がある曽井城は中世から戦国時代に曽井、伊東、島津のものでした。 天授時代(1375-81年)に伊東の支族、門川党の曽井六郎三郎祐善が造りました。



写真D: 応永(1394-1428年)19年に大淀川の南にある曽井、源藤に島津軍が侵攻してきました。 伊東祐安、祐立父子は曽井城に立て籠もって抵抗しました。 曽井は島津に接近し何度も本家の伊東に背(そむ)きましたが、伊東祐尭(いとうすけたか)によって1444年(文安元年)によって攻められ滅(ほろ)びました。 この後、伊東48城の一つとなりました。 城主は八代民部左衛門でした。 伊東祐尭(いとうすけたか)は永享12年(1440年)から宝徳2年(1450年)に大淀川の南にある曽井城、石塚城を中心にして支配範囲を広げて島津を山の西に退けました。



写真E: 伊東義祐が大分県の大友を頼って出奔(しゅっぽん)した後は島津のものになり、比志島式部大輔義知が入城しました。 豊臣秀吉の九州征伐の後、もう一度伊東の城になりました。 このとき、豊臣秀吉の軍師で、関ヶ原の戦いのとき伊東に勧めて延岡藩の高橋や島津と戦わせた黒田孝高(官兵衛如水)を奉行として曽井城は大幅に改築されました。 伊東祐兵は豊臣秀吉から九州征伐で手柄があったので、天正15年、曽井城をもらい、日向 中部4郡の内、1479町を与えられましたが、そののち希望して飫肥(おび)、清武1736町に変更してもらいました。 飫肥城、清武城があります。 2万8千石でした。 この時まで曽井城は使われました。 江戸時代の初期に江戸幕府の一国一城令で曽井城は廃城になりました。



写真F: 曽井城跡からは、白磁盃(さかずき)、青磁雷文碗(わん)などの陶器が出土しています。 曽井城跡は現在は私立の病院(野崎病院)になっています。



写真G: 上の建物は曽井城跡に建っている私立病院。 城山の下には人家もあります。



写真H: 曽井城跡(そいじょうあと)は宮崎市 大字恒久 字曽井 5567にあります。 曽井城は中世からの山城です。 南に八重川の支流 古城川がある曽井城は中世から戦国時代に曽井、伊東、島津のものでした。 天授時代(1375-81年)に伊東の支族、門川党の曽井六郎三郎祐善が造りました。 応永(1394-1428年)19年に大淀川の南にある曽井、源藤に島津軍が侵攻してきました。 伊東祐安、祐立父子は曽井城に立て籠もって抵抗しました。 曽井は島津に接近し何度も本家の伊東に背(そむ)きましたが、伊東祐尭(いとうすけたか)によって1444年(文安元年)によって攻められ滅(ほろ)びました。 この後、伊東48城の一つとなりました。 城主は八代民部左衛門でした。 伊東祐尭(いとうすけたか)は永享12年(1440年)から宝徳2年(1450年)に大淀川の南にある曽井城、石塚城を中心にして支配範囲を広げて島津を山の西に退けました。 伊東義祐が大分県の大友を頼って出奔(しゅっぽん)した後は島津のものになり、比志島式部大輔義知が入城しました。 豊臣秀吉の九州征伐の後、もう一度伊東の城になりました。 このとき、豊臣秀吉の軍師で、関ヶ原の戦いのとき伊東に勧めて延岡藩の高橋や島津と戦わせた黒田孝高(官兵衛如水)を奉行として曽井城は大幅に改築されました。 伊東祐兵は豊臣秀吉から九州征伐で手柄があったので、天正15年、曽井城をもらい、日向 中部4郡の内、1479町を与えられましたが、そののち希望して飫肥(おび)、清武1736町に変更してもらいました。 飫肥城、清武城があります。 2万8千石でした。 この時まで曽井城は使われました。 江戸時代の初期に江戸幕府の一国一城令で曽井城は廃城になりました。 曽井城跡からは、白磁盃(さかずき)、青磁雷文碗(わん)などの陶器が出土しています。 曽井城跡は現在は私立の病院(野崎病院)になっています。



写真I: 曽井城跡の北側を通っている車道。 曽井城跡にある野崎病院の電柱広告がありました。



写真J: 曽井城跡の北側を通っている車道。



写真K: 曽井城跡の北側を通っている車道。 野崎病院の看板(かんばん)がありました。 この私立病院あたり一帯の山が曽井城跡です。



写真L: 曽井城跡(そいじょうあと)は宮崎市 大字恒久 字曽井 5567にあります。 曽井城は中世からの山城です。 南に八重川の支流 古城川がある曽井城は中世から戦国時代に曽井、伊東、島津のものでした。 天授時代(1375-81年)に伊東の支族、門川党の曽井六郎三郎祐善が造りました。 応永(1394-1428年)19年に大淀川の南にある曽井、源藤に島津軍が侵攻してきました。 伊東祐安、祐立父子は曽井城に立て籠もって抵抗しました。 曽井は島津に接近し何度も本家の伊東に背(そむ)きましたが、伊東祐尭(いとうすけたか)によって1444年(文安元年)によって攻められ滅(ほろ)びました。 この後、伊東48城の一つとなりました。 城主は八代民部左衛門でした。 伊東祐尭(いとうすけたか)は永享12年(1440年)から宝徳2年(1450年)に大淀川の南にある曽井城、石塚城を中心にして支配範囲を広げて島津を山の西に退けました。 伊東義祐が大分県の大友を頼って出奔(しゅっぽん)した後は島津のものになり、比志島式部大輔義知が入城しました。 豊臣秀吉の九州征伐の後、もう一度伊東の城になりました。 このとき、豊臣秀吉の軍師で、関ヶ原の戦いのとき伊東に勧めて延岡藩の高橋や島津と戦わせた黒田孝高(官兵衛如水)を奉行として曽井城は大幅に改築されました。 伊東祐兵は豊臣秀吉から九州征伐で手柄があったので、天正15年、曽井城をもらい、日向 中部4郡の内、1479町を与えられましたが、そののち希望して飫肥(おび)、清武1736町に変更してもらいました。 飫肥城、清武城があります。 2万8千石でした。 この時まで曽井城は使われました。 江戸時代の初期に江戸幕府の一国一城令で曽井城は廃城になりました。 曽井城跡からは、白磁盃(さかずき)、青磁雷文碗(わん)などの陶器が出土しています。 曽井城跡は現在は私立の病院(野崎病院)になっています。



写真M: 曽井城跡(そいじょうあと)は宮崎市 大字恒久 字曽井 5567にあります。 曽井城は中世からの山城です。 南に八重川の支流 古城川がある曽井城は中世から戦国時代に曽井、伊東、島津のものでした。 天授時代(1375-81年)に伊東の支族、門川党の曽井六郎三郎祐善が造りました。 応永(1394-1428年)19年に大淀川の南にある曽井、源藤に島津軍が侵攻してきました。 伊東祐安、祐立父子は曽井城に立て籠もって抵抗しました。 曽井は島津に接近し何度も本家の伊東に背(そむ)きましたが、伊東祐尭(いとうすけたか)によって1444年(文安元年)によって攻められ滅(ほろ)びました。 この後、伊東48城の一つとなりました。 城主は八代民部左衛門でした。 伊東祐尭(いとうすけたか)は永享12年(1440年)から宝徳2年(1450年)に大淀川の南にある曽井城、石塚城を中心にして支配範囲を広げて島津を山の西に退けました。 伊東義祐が大分県の大友を頼って出奔(しゅっぽん)した後は島津のものになり、比志島式部大輔義知が入城しました。 豊臣秀吉の九州征伐の後、もう一度伊東の城になりました。 このとき、豊臣秀吉の軍師で、関ヶ原の戦いのとき伊東に勧めて延岡藩の高橋や島津と戦わせた黒田孝高(官兵衛如水)を奉行として曽井城は大幅に改築されました。 伊東祐兵は豊臣秀吉から九州征伐で手柄があったので、天正15年、曽井城をもらい、日向 中部4郡の内、1479町を与えられましたが、そののち希望して飫肥(おび)、清武1736町に変更してもらいました。 飫肥城、清武城があります。 2万8千石でした。 この時まで曽井城は使われました。 江戸時代の初期に江戸幕府の一国一城令で曽井城は廃城になりました。 曽井城跡からは、白磁盃(さかずき)、青磁雷文碗(わん)などの陶器が出土しています。 曽井城跡は現在は私立の病院(野崎病院)になっています。



写真N: 曽井城跡の城山が見えています。 この車道を手前(北)に行くと、宮崎市 大坪にある宮崎社会保険病院、宮崎市立図書館、市総合福祉保健センター、福祉文化公園、市民文化ホールなどがあります。



写真O: 曽井城跡の城山が見えています。 この車道を手前(北)に行くと、宮崎市 大坪にある宮崎社会保険病院、宮崎市立図書館、市総合福祉保健センター、福祉文化公園、市民文化ホールなどがあります。



写真P: 曽井城跡(そいじょうあと)は宮崎市 大字恒久 字曽井 5567にあります。 曽井城は中世からの山城です。 南に八重川の支流 古城川がある曽井城は中世から戦国時代に曽井、伊東、島津のものでした。 天授時代(1375-81年)に伊東の支族、門川党の曽井六郎三郎祐善が造りました。 応永(1394-1428年)19年に大淀川の南にある曽井、源藤に島津軍が侵攻してきました。 伊東祐安、祐立父子は曽井城に立て籠もって抵抗しました。 曽井は島津に接近し何度も本家の伊東に背(そむ)きましたが、伊東祐尭(いとうすけたか)によって1444年(文安元年)によって攻められ滅(ほろ)びました。 この後、伊東48城の一つとなりました。 城主は八代民部左衛門でした。 伊東祐尭(いとうすけたか)は永享12年(1440年)から宝徳2年(1450年)に大淀川の南にある曽井城、石塚城を中心にして支配範囲を広げて島津を山の西に退けました。 伊東義祐が大分県の大友を頼って出奔(しゅっぽん)した後は島津のものになり、比志島式部大輔義知が入城しました。 豊臣秀吉の九州征伐の後、もう一度伊東の城になりました。 このとき、豊臣秀吉の軍師で、関ヶ原の戦いのとき伊東に勧めて延岡藩の高橋や島津と戦わせた黒田孝高(官兵衛如水)を奉行として曽井城は大幅に改築されました。 伊東祐兵は豊臣秀吉から九州征伐で手柄があったので、天正15年、曽井城をもらい、日向 中部4郡の内、1479町を与えられましたが、そののち希望して飫肥(おび)、清武1736町に変更してもらいました。 飫肥城、清武城があります。 2万8千石でした。 この時まで曽井城は使われました。 江戸時代の初期に江戸幕府の一国一城令で曽井城は廃城になりました。 曽井城跡からは、白磁盃(さかずき)、青磁雷文碗(わん)などの陶器が出土しています。 曽井城跡は現在は私立の病院(野崎病院)になっています。



写真Q: 曽井城跡の城山の北には田んぼもあります。 電柱に沿って先(北)に進むと、宮崎市 大坪にある宮崎社会保険病院、宮崎市立図書館、市総合福祉保健センター、福祉文化公園、市民文化ホールなどがあります。



写真R: 曽井城跡の城山の北では田んぼの稲刈りが終わっていました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)