白鳥神社、白鳥温泉 (第一白鳥温泉 上湯 (西郷隆盛が滞在)、第二白鳥温泉 下湯、道の泉 白鳥、東大寺大仏殿に使われた赤松の大木(2本)、夫婦杉、家族杉、雲龍巻柱、唐獅子牡丹、白鳥森林公園、えびの高原、えびの市の展望、東京大学地震研究所 霧島火山観測所、バードライン、霧島山、霧島連山、霧島山系) (宮崎県 えびの市 末永)








<標高、位置>  「えびの高原」は
標高 約1200 m
 北緯31度56分47秒  東経130度50分43秒

<標高、位置>  東大火山観測所(東京大学地震研究所 霧島火山観測所)は
標高 約900 m
 北緯31度56分50秒  東経130度50分20秒

<標高、位置>  第一白鳥温泉(上湯)は
標高 約780 m
 北緯31度58分29秒  東経130度49分50秒

<標高、位置>  第二白鳥温泉(下湯)は
標高 約690 m
 北緯31度58分45秒  東経130度49分50秒

<標高、位置>  白鳥神社は
標高 約720 m
 北緯31度58分44秒  東経130度49分38秒


 「東京大学地震研究所 霧島火山観測所」は宮崎県えびの市大字末永1489にあります。

 第一白鳥温泉(上湯)は宮崎県えびの市末永1470にあります。 明治時代は湯治で栄えました。 征韓論に敗(やぶ)れ薩摩に帰った西郷隆盛が1874年(明治7年)の7月から10月まで滞在し、狩猟などを行っていました。 西南戦争の3年前のことです。 第二次世界大戦の前には1942年(昭和17年)営林署の保養施設として開業しました。 えびの市営です。 単純酸性泉、掛(か)け流しで露天風呂、珍しい天然蒸し風呂もあります。 そばに「道の泉 白鳥」があります。

 第二白鳥温泉(下湯)は宮崎県えびの市末永1470にあります。 第一白鳥温泉(上湯)より少し下方にあります。 これはえびの市営 白鳥森林公園の中にあります。 えびの市営です。 単純温泉で掛(か)け流しです。
1959年から国民宿舎として旧飯野町観光協会が運営。 1991年5月にリニューアルオープンしました。 カエデのある露天風呂、打たせ湯、岩風呂、蒸し風呂などがあります。

 「白鳥神社 御由緒」の説明板から、
御祭神 本殿 大和武尊(ヤマトタケルノミコト)、末分社 弟橘姫命
御神徳 開運厄除、身体健康、武道長久
御開創
 古来より白鳥山をはじめ霧島の山々は神山であり、当地は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲(くまそ)征伐に下向された縁深く、すでに日本武尊また熊襲族の神々が祭られていたと考えられるが、平安後期の天徳3年(959年)天台宗の名僧 性空上人が、霧島六観音御堂で修行していた時に御神宣を受け、白鳥権現を建立したと云(い)われている。
御社殿
 室町時代初期の応永10年(1403年)の頃、真言宗の光尊法印により現在地に社殿を移し、再建された。 併(あわ)せて近くに金剛乗院 満足寺と号する別当寺も建立された。 文化6年(1809年)に火災によって消失し、間もなく再建されたのが、現在の本殿である。
 本殿には数多くの彫刻が施され、特に雲龍巻柱や唐獅子牡丹などは当時の精緻な建築技術で作られており、左甚五郎作ともいわれるほど卓越している。
島津義弘 公と木崎原合戦
 戦国時代、少し衰退したが島津義弘 公の尊崇は厚く、元亀3年(1572年)の木崎原合戦の勝因は白鳥権現のご加護によるものと社寺領143石を寄進したほどであった。 この頃、中興開山の光厳上人により再興され慶長6年(1601年)から慶長10年にかけて社殿も造営復興された。
東大寺大仏殿と巨大赤松
 東大寺大仏殿が永禄10年(1668年)2度目の火災に遭(あ)い、公慶上人が大仏殿の再建を発願され、大仏殿を支える梁(はり)の御用材を全国に探し求めた。 ついに白鳥神社の参道および境内に高さ 54 m 、樹齢 2000年とも云(い)われる2本の巨大赤松を見つけた。 元禄16年(1703年)から「結縁引き」など延べ10万人の人手と牛4000頭の労力と当時の最高技術により奈良東大寺まで運び出され、大仏殿は無事落成した。 白鳥神社に聳(そび)えていた赤松は今もなお虹梁材(こうりょうざい、棟木材)として大仏殿を支え続けている。


写真A: えびの高原(えびの市)にある「えびの高原温泉ホテル(国民宿舎)」を出発して白鳥温泉、白鳥神社へ向かいます。



写真B: えびの市の中心部に向かって下っていきます。 県道30号線(霧島バードライン)です。 下っていくとまもなく東大火山観測所が右手にあります。



写真C: ここが東大火山観測所です。 奥に建物があります。



写真D: 「東京大学地震研究所 霧島火山観測所 宮崎県えびの市大字末永1489」と書いてある門札(もんさつ)があります。 この奥に建物があります。



写真E: 「東京大学地震研究所 霧島火山観測所 宮崎県えびの市大字末永1489」と書いてある門札(もんさつ)があります。



写真F: 東京大学地震研究所 霧島火山観測所。



写真G: えびの高原とえびの市中心部を結ぶ県道30号線(霧島バードライン)を北へ下ります。 えびの市の中心部はえびの高原の北方向にあります。



写真H: 車道から遠くえびの市の市街地が見えます。



写真I: えびの高原とえびの市中心部を結ぶ県道30号線(霧島バードライン)からの景色。



写真J: えびの高原とえびの市中心部を結ぶ県道30号線(霧島バードライン)からの眺望(ちょうぼう)。



写真K: えびの市の市街地が見えます。 平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真L: えびの高原とえびの市中心部を結ぶ県道30号線(霧島バードライン)からの景色。



写真M: 県道30号線(霧島バードライン)から。



写真N: えびの市が見えます。 下手前には牛舎、豚舎などもあります。
平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
陸上自衛隊えびの駐屯地が宮崎県えびの市大字大河平4455-1にあります。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真O: えびの市の平野の奥には山並みがあります。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真P: 県道30号線(霧島バードライン)からえびの市の飯野(いいの)、加久藤(かくとう)、京町温泉(きょうまちおんせん)などが見えます。
平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
陸上自衛隊えびの駐屯地が宮崎県えびの市大字大河平4455-1にあります。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真Q: えびの市の平野の向こうの山には海上自衛隊の数本の高いアンテナ、建物などが見えます。
平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
陸上自衛隊えびの駐屯地が宮崎県えびの市大字大河平4455-1にあります。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真R: 平野の向こうの山には海上自衛隊の数本の高いアンテナ、建物などが見えます。
平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真S: 白鳥山の北斜面から見たえびの市。 県道30号線(霧島バードライン)から。
平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真T: 白鳥山の北斜面から見たえびの市。 県道30号線(霧島バードライン)から。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真U: 白鳥山の北斜面から見たえびの市。
平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
陸上自衛隊えびの駐屯地が宮崎県えびの市大字大河平4455-1にあります。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真V: 白鳥山の北斜面から見たえびの市。
平野の右(東)から左(西)へ川内川(せんだいがわ)が流れています。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真W: 右の山の斜面に国道221号線の「ループ橋」の橋桁(はしげた)が見えています。 九州自動車道もその左下に見えます。 その左手斜面の白い四角に見えているのは牛舎あるいは豚舎の列と思われます。 えびの市の建物も見えます。 下の菱形(ひしがた)の白い建物は南九州コカ・コーラ プロダクツ株式会社えびの工場 (宮崎県 えびの市大字東川北字有留1321-1)のものです。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真X: 山の斜面に国道221号線の「ループ橋」の橋桁(はしげた)が見えています。 九州自動車道もその左下に見えます。 えびの市の建物も見えます。 下の菱形(ひしがた)の白い建物は南九州コカ・コーラ プロダクツ株式会社えびの工場 (宮崎県 えびの市大字東川北字有留1321-1)のものです。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真Y: 「白鳥温泉下湯(しらとりおんせんしたゆ)↑、道の泉 白鳥←」と書いてある標識があります。
県道30号線(霧島バードライン)。



写真Z: 「白鳥温泉下湯(しらとりおんせんしたゆ)↑、道の泉 白鳥←」と書いてある標識があります。
県道30号線(霧島バードライン)。



写真AA: 「道の泉 白鳥」の駐車場と階段。 階段は展望台、白鳥温泉上湯の方に登ります。 上のほうに白鳥温泉上湯の建物が見えます。



写真AB: 「道の泉 白鳥」の駐車場。



写真AC: 県道30号線(霧島バードライン)。 「道の泉 白鳥」の駐車場。



写真AD: 「道の泉 白鳥」。 白鳥温泉上湯のそばにあります。



写真AE: 石に「白鳥の泉」と書いてあります。



写真AF: 道の泉 白鳥。



写真AG: 道の泉 白鳥。



写真AH: 「道の泉 白鳥」から上に登る階段。



写真AI: 階段を登ると藤棚(ふじだな)があります。



写真AJ: 柵(さく)の向こうは県道30号線(霧島バードライン)、さらにその先に白鳥温泉上湯の建物があります。



写真AK: 階段を登ると、左から東屋(あずまや)、展望台、白鳥温泉の駐車場、白鳥温泉上湯の「白鳥茶屋」が見えます。
下方には、えびの盆地、矢岳高原が見渡せます。
ここは霧島山系にある白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)の北斜面にあります。
車道は県道30号線(霧島バードライン)。



写真AL: 第一白鳥温泉(上湯)。 明治時代は湯治で栄えました。 征韓論に敗(やぶ)れ薩摩に帰った西郷隆盛が1874年(明治7年)の7月から10月まで滞在し、狩猟などを行っていました。 西南戦争の3年前のことです。 第二次世界大戦の前には1942年(昭和17年)営林署の保養施設として開業しました。
宮崎県えびの市末永1470にあります。 えびの市営です。 単純酸性泉、掛(か)け流しで露天風呂、珍しい天然蒸し風呂もあります。  ここには西郷隆盛も来たことがあります。
第二白鳥温泉(下湯)はこれから車道をもっと下ったところにあります。



写真AM: 第一白鳥温泉(上湯)。 明治時代は湯治で栄えました。 征韓論に敗(やぶ)れ薩摩に帰った西郷隆盛が1874年(明治7年)の7月から10月まで滞在し、狩猟などを行っていました。 西南戦争の3年前のことです。 第二次世界大戦の前には1942年(昭和17年)営林署の保養施設として開業しました。 宮崎県えびの市末永1470にあります。 単純酸性泉、掛(か)け流しで珍しい天然蒸し風呂、露天風呂もあります。 近くにはアカガシ、イスノキの大木群があるそうです。 珍しい天然蒸し風呂、露天風呂もあります。
第二白鳥温泉(下湯)はこれから車道(県道30号線(霧島バードライン))をもっと下ったところにあります。
温泉施設、カエデのある露天風呂があります。 露天風呂からのえびの盆地、矢岳高原の展望はすばらしい。 蒸し風呂は左奥の別棟(べつむね)にあります。 また、「地獄」は奥の方の山道を数分歩いたところにあります。



写真AN: 第一白鳥温泉(上湯)。 珍しい天然蒸し風呂、露天風呂もあります。 ここには西郷隆盛も来たことがあります。
下方には、えびの盆地、矢岳高原が見渡せます。 第二白鳥温泉(下湯)はこれから車道をもっと下ったところにあります。
このあたりの建物は宿泊施設、炊事場(すいじば)があります。



写真AO: 第一白鳥温泉(上湯)。 えびの市営です。 明治時代は湯治で栄えました。 征韓論に敗(やぶ)れ薩摩に帰った西郷隆盛が1874年(明治7年)の7月から10月まで滞在し、狩猟などを行っていました。 西南戦争の3年前のことです。 第二次世界大戦の前には1942年(昭和17年)営林署の保養施設として開業しました。 宮崎県えびの市末永1470にあります。 単純酸性泉、掛(か)け流しで珍しい天然蒸し風呂、露天風呂もあります。 近くにはアカガシ、イスノキの大木群があるそうです。
第二白鳥温泉(下湯)はこれから車道をもっと下ったところにあります。
このあたりは物産品店、受付、休憩所(きゅうけいしょ)などがあります。 昔ながらのストーブがあります。



写真AP: 「西郷南洲曽遊之地」と書かれた石碑(せきひ)、「白鳥温泉上湯」と書いてある看板(かんばん)、田の神(たのかんさあ)の石像(シャモジを持っています)もあります。
西郷南洲とは西郷隆盛のことです。
露天風呂と書いてある幟(のぼり)もあります。



写真AQ: 「本日は休館日 (毎月第1火曜日)」と書いてあります。
後日、温泉に入りに行きました。 露天風呂からの展望はえびの盆地、矢岳高原などが見渡せて素晴(すば)らしい。



写真AR: 「白鳥茶屋」と書いてある看板(かんばん)があります。 御食事処ののれん、うどん、えびの黒豚と書いてある幟(のぼり)も見えます。 ここは食堂になっています。 白鳥茶屋の前は駐車場になっています。 後ろは山です。



写真AS: 別の日に温泉に入りに行きました。



写真AT: 白鳥温泉上湯からの景色。



写真AU: 白鳥温泉上湯からの景色。



写真AV: 白鳥温泉上湯からの様子。



写真AW: 白鳥温泉上湯。 えびの特産品販売所、内湯、露天風呂、大広間、宿泊施設、自炊施設などがこの建物にあります。



写真AX: 渡り通路です。



写真AY: 蒸し器をのせて、温泉の蒸気で温泉卵などを作る装置です。 左に水蒸気を調節する丸いハンドルが見えます。



写真AZ: えびの特産品販売所と書いてあります。



写真BA: 「素朴で表情豊かな田の神さあ巡りをしてみませんか。」の説明板。
 田の神は、五穀豊穣を祈ってその多くが石で造られ広い田んぼを見渡す場所に鎮座してます。 えびの市では「田の神さあ」と呼ばれ、市内には、農民型、神官型、地蔵型、自然石など約150体にも及びます。
 旧薩摩藩独自の石像として18世紀初めに始まるもので、貴重な文化財であり、観光資源でもあります。 田の神は、冬は山の神となり、春に里へ下りて田の神となって田んぼを守り、豊作を約束する神として信仰されてきています。 田の神さあのもつ魅力は、その表情豊かさにもあります。 素朴なほほえみをたたえた田の神さあ巡りをしてみませんか。
えびの市、えびの市観光協会
と書かれています。



写真BB: えびの特産品販売店。



写真BC: 右の階段を登り、数分間 山道を行くと「地獄(じごく、温泉や蒸気が出ているところ)」があります。
奥の建物は「天然蒸し風呂」です。



写真BD: 「←地獄」、「遊歩道」と書いてあります。



写真BE: 白鳥温泉上湯にある「天然蒸し風呂」。



写真BF: 白鳥温泉上湯にある「天然蒸し風呂」。



写真BG: 白鳥温泉上湯にある「天然蒸し風呂」。



写真BH: 「蒸し風呂利用者へのお願い」の看板(かんばん)。
入室は2人以上にしてください。 1人で入るのは絶対やめて下さい。
入室は5分程度にして下さい。 長時間は危険です。
室内でのヒゲ剃(そ)りはやめて下さい。
室内での飲食はやめて下さい。
蒸し風呂付近での洗髪はやめて下さい。
着衣での入浴はやめてください。
と書いてあります。



写真BI: 蒸し風呂の建物から見たもの。



写真BJ: 大広間です。



写真BK: 見晴らしの良い部屋です。



写真BL: 受付です。 入浴料金もここで払います。



写真BM: しめ縄、御幣(ごへい)があります。 奥に「内湯 露天風呂→、蒸し風呂←」と書いてあります。



写真BN: これが白鳥温泉上湯の露天風呂です。 大変見晴らしが良く、えびの盆地、矢岳高原なども見えます。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。



写真BO: これが白鳥温泉上湯の露天風呂です。 大変見晴らしが良く、えびの盆地、矢岳高原なども見えます。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。



写真BP: 白鳥温泉上湯の内湯。



写真BQ: 白鳥温泉上湯の内湯。



写真BR: 古風なストーブがあります。



写真BS: 白鳥温泉上湯からの眺望(ちょうぼう)の説明図。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、至る京町温泉、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園、至る小林。
などが書いてあります。



写真BT: 宿泊施設です。



写真BU: 自炊施設もあります。 昔からの「湯治」の伝統が続いているのでしょう。



写真BV: 自炊施設もあります。 昔からの「湯治」の伝統が続いているのでしょう。



写真BW: 「田の神」が飾ってあります。



写真BX: 白鳥温泉上湯のそばにあるこの展望台からは、えびの盆地、矢岳高原が見渡せます。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。



写真BY: 展望台のそばには休憩所の東屋(あずまや)があります。 車道(県道30号線(霧島バードライン))はここでヘアピンカーブになっています。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。



写真BZ: この展望台からは下方には、えびの盆地、矢岳高原が見渡せます。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。



写真CA: この展望台からは下方には、えびの盆地、矢岳高原が見渡せます。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真CB: 白鳥温泉上湯の展望台からの景色。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真CC: 白鳥温泉上湯の展望台からの景色。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真CD: 白鳥温泉上湯の展望台からの眺望(ちょうぼう)。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真CE: えびの盆地の向こうの山の上に海上自衛隊の数本のアンテナ、建物が見えます。 えびの盆地にはえびの市の市街地、田畑、牛舎、豚舎なども見えます。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真CF: えびの市の矢岳高原、えびの盆地の建物なども見えます。
白鳥温泉上湯の展望台からの展望。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真CG: 白鳥温泉上湯の展望台からの景色。
えびの盆地の向こうの「矢岳高原」、えびの盆地の建物なども見えます。
矢岳高原、ベルトンオートキャンプ場、人吉市、VLF(高い数本のアンテナ)、高野畜産団地、多良木町、白髪岳(標高 1417 m)、市房山(標高 1721 m)、ループ橋、コカ・コーラ館、えびのインターチェンジ、九州自動車道、加久藤、川内川(せんだいがわ)、国道221号、宮崎自動車道、飯野(いいの)、クルソン大橋、クルソン峡、八幡丘公園などが見えます。
えびの盆地は「加久藤カルデラ」です。 カルデラは火山の中心部または周辺にある円形の著しく広い凹地です。 多くは直径 1 km 以上で、噴火後に起こる火山の中心部の陥没によるそうです。



写真CH: 展望台から白鳥茶屋、白鳥温泉上湯を見たもの。



写真CI: 白鳥温泉上湯の展望台には双眼鏡もあります。



写真CJ: 「えびの市営 白鳥森林公園 白鳥温泉下湯 →80 m 先」と書いてある看板(かんばん)があります。
車道は県道30号線(霧島バードライン)。



写真CK: 「えびの市営 白鳥森林公園 白鳥温泉下湯 →80 m 先」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真CL: 「ケビン」、「管理棟、駐車場、温泉」と書いてある看板があります。



写真CM: ケビン(バンガロー(宿泊施設))が見えます。



写真CN: ケビン(バンガロー)の名前が書いてあります。 アスレチックの場所も載っています。



写真CO: アスレチックの建物があります。



写真CP: ケビン(バンガロー)が10棟あります。



写真CQ: アスレチックです。



写真CR: アスレチックの施設が見えます。



写真CS: 駐車場と建物が見えます。



写真CT: 白鳥温泉下湯(したゆ)は白鳥森林公園にあります。



写真CU: 第二白鳥温泉(下湯(したゆ))は宮崎県えびの市末永1470にあります。 えびの市営です。 これはえびの市営 白鳥森林公園の中にあります。 
単純温泉で掛(か)け流しです。 ここは霧島山系にある白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)の北斜面にあります。
 1959年から国民宿舎として旧飯野町観光協会が運営。 1991年5月にリニューアルオープンしました。
この建物は物産品店、食堂ががあります。 この建物の奥から右に行って温泉に入ります。



写真CV: 「白鳥温泉下湯」と書いてある表札、傘入れのカメ、「警察官立寄所」と書いてある柱などが見えます。



写真CW: 駐車場です。 奥の建物はトイレ。



写真CX: えびの市にある白鳥温泉下湯。 右の建物はトイレ。



写真CY: 宮崎県 えびの市にある白鳥温泉下湯。 白鳥森林公園 案内図もあります。
左の建物が温泉施設です。 カエデのある露天風呂、打たせ湯、岩風呂、蒸し風呂などがあります。



写真CZ: 第二白鳥温泉(下湯)は宮崎県えびの市末永1470にあります。
これはえびの市営 白鳥森林公園の中にあります。 えびの市営です。
単純温泉で掛(か)け流しです。
1959年から国民宿舎として旧飯野町観光協会が運営。 1991年5月にリニューアルオープンしました。
この建物が温泉施設です。 カエデのある露天風呂、打たせ湯、岩風呂、蒸し風呂などがあります。



写真DA: 白鳥温泉下湯。 右の建物に温泉があります。



写真DB: 白鳥森林公園 案内図、森林業構造改善事業 えびの市。



写真DC: 宮崎県 えびの市にある白鳥温泉下湯。 白鳥森林公園の中にあります。



写真DD: 軽トラックの左奥に「足湯」が見えています。



写真DE: 駐車場に足湯があります。



写真DF: きりしまのしら鳥の山青空を木間に置きてしづくするかな(寛)
 霧島の白鳥の山しら雲をつばさとすれど地を捨てぬかな(晶子)
与謝野鉄幹 与謝野晶子の歌碑(かひ)が白鳥温泉下湯の「足湯」のそばにあります。
「与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は明治大正から昭和初期にかけ歌壇で活躍。 新詩社を主宰して数々のすぐれた作品を発表し、ロマン主義の新風を投じた。 これらの歌は、昭和4年7月に二人でえびの高原を訪れた折に詠まれた。 歌集「霧島のうた」に収められている。」
平成6年3月 えびの市建立
と書かれています。



写真DG: 「与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は明治大正から昭和初期にかけ歌壇で活躍。 新詩社を主宰して数々のすぐれた作品を発表し、ロマン主義の新風を投じた。 これらの歌は、昭和4年7月に二人でえびの高原を訪れた折に詠まれた。 歌集「霧島のうた」に収められている。」
平成6年3月 えびの市建立
と書かれています。



写真DH: 狛犬(こまいぬ)の像があります。



写真DI: 霧島の白鳥の山しら雲をつばさとすれど地を捨てぬかな(晶子)
  「与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は明治大正から昭和初期にかけ歌壇で活躍。 新詩社を主宰して数々のすぐれた作品を発表し、ロマン主義の新風を投じた。 これらの歌は、昭和4年7月に二人でえびの高原を訪れた折に詠まれた。 歌集「霧島のうた」に収められている。」
平成6年3月 えびの市建立
と書かれています。



写真DJ: きりしまのしら鳥の山青空を木間に置きてしづくするかな(寛)
「与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は明治大正から昭和初期にかけ歌壇で活躍。 新詩社を主宰して数々のすぐれた作品を発表し、ロマン主義の新風を投じた。 これらの歌は、昭和4年7月に二人でえびの高原を訪れた折に詠まれた。 歌集「霧島のうた」に収められている。」
平成6年3月 えびの市建立
と書かれています。



写真DK: 「与謝野鉄幹晶子 歌碑」と書いてある石碑(せきひ)があります。



写真DL: 第二白鳥温泉(下湯)は宮崎県えびの市末永1470にあります。
左下は足湯です。



写真DM: 白鳥温泉下湯。 右の建物はトイレ。



写真DN: 白鳥温泉下湯。



写真DO: 後日、お湯に入りに来たときには大粒の雨でした。



写真DP: 後日、お湯に入りに来たときには大粒の雨でした。
「白鳥温泉下湯」と書いてあります。



写真DQ: 白鳥温泉下湯の成分表。 単純温泉(低張性 弱酸性高温泉)です。



写真DR: 白鳥温泉下湯の医療効果、適応症、禁忌症。 試験日 平成20年8月5日 東洋環境分析センター
などと書いてあります。



写真DS: 白鳥温泉下湯の脱衣場。



写真DT: 脱衣場の外の景色。 右は休憩棟(きゅうけいとう)、左は食堂、物産品店などがあります。



写真DU: 温泉の入口。



写真DV: 白鳥温泉下湯の休憩棟(きゅうけいとう)。



写真DW: そばには広い広場があります。 白鳥温泉下湯。



写真DX: 食堂です。 「味処 しらとり」です。



写真DY: 「味処 しらとり」です。



写真DZ: 白鳥温泉下湯の「えびの名産品コーナー」です。 「味処 しらとり」の隣の部屋です。



写真EA: 入浴に来たときは大粒の雨でした。 白鳥温泉下湯。



写真EB: 草紫陽花(クサアジサイ、くさあじさい)の花が咲いていました。



写真EC: 「国設霧島鳥獣保護区区域図」
特別保護地区
面積 11、364 ha、特別保護地区 1、884 ha
この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。 鳥獣の保護に、ご協力をお願いします。
環境省
と書いてあります。



写真ED: 県道30号線(霧島バードライン)。 白鳥温泉下湯の少し下方に白鳥神社の駐車場があります。



写真EE: 白鳥神社の駐車場。



写真EF: 白鳥神社は霧島山系にある白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)の北斜面にあります。 これが一の鳥居(とりい)です。 「白鳥神社」と書いてある石碑(せきひ)もあります。
車道は県道30号線(霧島バードライン)。
白鳥神社は宮崎県 えびの市 大字末永にあります。



写真EG: 左は宮崎県 えびの市にある「白鳥神社」の一の鳥居(とりい)。



写真EH: 杉の白鳥巨木(御神木)、「白鳥神社」と書いてある石碑(せきひ)、一の鳥居、階段も見えます。 左は駐車場。



写真EI: 大きな杉の木があります。



写真EJ: 大きな杉の木があります。



写真EK: 「白鳥巨木(御神木)御由緒」の説明板。
 直径1.41 m、周囲4.44 m、樹齢は不祥であるが、岩倉寛然 坊という修行僧が屋久島の杉の苗を取り寄せ植樹したといわれている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、今では御神木とされている。
白鳥神社
と書かれています。



写真EL: 御神木の杉の木。



写真EM: 御神木の杉の木。



写真EN: 「白鳥巨木(御神木)御由緒」の説明板。
 直径1.41 m、周囲4.44 m、樹齢は不祥であるが、岩倉寛然 坊という修行僧が屋久島の杉の苗を取り寄せ植樹したといわれている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、今では御神木とされている。
白鳥神社
と書かれています。



写真EO: 御神木の杉の木は一の鳥居(とりい)のそばにあります。



写真EP: 「白鳥巨木(御神木)御由緒」の説明板。
 直径1.41 m、周囲4.44 m、樹齢は不祥であるが、岩倉寛然 坊という修行僧が屋久島の杉の苗を取り寄せ植樹したといわれている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、今では御神木とされている。
白鳥神社
と書かれています。



写真EQ: 「白鳥巨木(御神木)御由緒」の説明板。
 直径1.41 m、周囲4.44 m、樹齢は不祥であるが、岩倉寛然 坊という修行僧が屋久島の杉の苗を取り寄せ植樹したといわれている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、今では御神木とされている。
白鳥神社
と書かれています。



写真ER: 「白鳥神社 表参道入口 本参道はここより社殿まで石段が210段あります。 どうぞ一段一段踏みしめてご参拝ください。」と書いてあります。 ここから200 m 先左に社殿までの車道があります。→」と書いてあります。



写真ES: 階段の左右に仁王像(におうぞう)があります。
白鳥神社は宮崎県 えびの市 大字末永にあります。



写真ET: 階段の左右に仁王像(におうぞう)があります。



写真EU: 「末社 水分神社→」と書いてある看板があります。



写真EV: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。 奈良県の大仏殿建設のため白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。 1本はこの場所、もう1本は本殿のそばの白鳥夫婦杉の近くにあった赤松1本でした。 右の建物は水分神社。
「東大寺大仏殿虹梁(こうりょう、棟木)白鳥巨松」の説明板(参道の階段を登った上にあります)。
 東大寺大仏殿の大屋根80万6000貫(3020トン)を支えている大虹梁は、元禄16年(1703年)この白鳥神社境内より伐出された2本の赤松である。
 いずれも樹齢は、2000年を越えるものであった。 1本目は、長さ13間、元口4尺3寸、末口3尺3寸7分5厘、重さ6183貫、樵夫(きこり)90人の手により4日間で伐出された。 2本目は、長さ13間、元口4尺1寸、末口3尺7分5厘、重さ5435貫余。 100人の人出が、3日間費やされた。 代金は、1本2000両。 山出しの際は、傷がつかないよう両端に金輪がはめられ、霧島山中から薩摩湾岸の国分新川口に至る25里を1日860人の人夫と牛40頭の合力によって運び出された。 到着するまでには115日の歳月を要し、その間には命を失うもの、怪我したものは数しれなかったらしい。 国分新川口からは、千石船に積み替えられ、鹿児島湾、日向細島港、さらに豊予海峡の急瀬を乗りこえ、瀬戸内海に入り、兵庫港に着き、大阪伝法川口を経て、また淀川をのぼり木津川から奈良坂を越えて、ようやく無事に大仏殿に到着した。 延々850里に及ぶ大運搬であった。 宝永6年(1709年)東大寺大仏殿の落成供養も盛大に行われたが、白鳥巨松は、後の大改修を経(へ)ながらも大虹梁として今なお東大寺大仏殿を支え続けている。
えびの市教育委員会
と書かれています。



写真EW: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
奈良県の大仏殿建設のため白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。 1本はこの場所、もう1本は本殿のそばの白鳥夫婦杉の近くにあった赤松1本でした。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。



写真EX: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。



写真EY: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。



写真EZ: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。
奈良県の大仏殿建設のため白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。 1本はこの場所、もう1本は本殿のそばの白鳥夫婦杉の近くにあった赤松1本でした。



写真FA: 「東大寺長老 狭川宗玄様 御手植赤松 平成13年11月20日植樹」と書いてあります。



写真FB: これがその東大寺長老 御手植赤松です。 末社 水分神社のそばにあります。



写真FC: これがその東大寺長老 御手植赤松です。 末社 水分神社のそばにあります。



写真FD: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。
奈良県の大仏殿建設のため白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。 1本はこの場所、もう1本は本殿のそばの白鳥夫婦杉の近くにあった赤松1本でした。



写真FE: 「末社 水分神社、御祭神 弟橘姫命」。



写真FF: 「末社 水分神社、御祭神 弟橘姫命」。



写真FG: 「末社 水分神社、御祭神 弟橘姫命」と書いてあります。



写真FH: 白鳥神社の一の鳥居。 先は県道30号線(霧島バードライン)。



写真FI: 熊笹(クマザサ、くまざさ)があります。



写真FJ: 白鳥神社の一の鳥居。 しめ縄、御幣(ごへい)があります。



写真FK: 一の鳥居には菊の御紋と「白鳥神社」と書いてある額(がく)があります。



写真FL: 菊の御紋と「白鳥神社」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。



写真FM: 末社 水分神社へ行く短い階段。



写真FN: 白鳥神社の参道には石の階段があります。



写真FO: 宮崎県 えびの市にある「白鳥神社」の階段。



写真FP: 階段のそばの杉の木。



写真FQ: 一の鳥居のそば。



写真FR: 「白鳥神社 スギ 推定樹齢 400年以上」の看板(かんばん)。
 郷土の誇る歴史的価値のある名木として、後世に残すため、これらの樹木をみんなで大切に守り育てましょう。
えびの市教育委員会
と書いてあります。



写真FS: 宮崎県 えびの市にある白鳥神社の階段。



写真FT: 階段のそばには古い木もあります。



写真FU: 階段を振り返ったもの。



写真FV: 一の鳥居からの階段。



写真FW: 階段のそばの様子(ようす)。 大きな木もあります。



写真FX: 階段の上部に着きました。
「表参道、一の鳥居へ下る」と書いてある標識があります。



写真FY: 旧道です。 上方と下方で県道30号線(霧島バードライン)に出ます。 階段の上部付近。



写真FZ: 「オックスフォードの道」の石碑(せきひ)。
アメリカ合衆国の方のオックスフォードです。



写真GA: 旧道(車道)のそばの建物。



写真GB: 旧道のそばに「白鳥神社」と書いてあります。 説明板、石灯籠(いしどうろう)もあります。
白鳥神社は宮崎県 えびの市 大字末永にあります。



写真GC: 旧道を通ってきた車が止まっていました。



写真GD: 「建造物 白鳥神社」の説明板。
昭和45年2月20日 市指定
 創建年代は詳(つまび)らかでないが、10世紀、性空上人が六観音堂で修行した際、神託を得て勧請したとの由緒がある。 大和武尊 ほか4神を祀(まつ)り、また別当寺を建て白鳥山金剛乗院 満足寺と号した。 古くは白鳥権現と呼ばれ、軍神として歴代藩主の信仰が篤(あつ)かった。 特に島津義弘の尊崇は厚く、木崎原合戦の勝利は一重(ひとえ)に白鳥権現の加護によるものと社寺領143石を寄進したほどであった。
 慶長6年(1601年)から同10年(1605年)にかけて社殿の造営があり、その後 文化6年(1809年)12月23日火災によって消失したあと間もなく再建されたのが現存する本殿である。 明治に至り別当寺は廃寺になったが、明治38年県社に昇格した。 本殿には数多くの彫刻が施(ほどこ)されており、特に雲竜巻柱や腰壁の壁板造り出しの唐獅子牡丹(からじしぼたん)などは本県や鹿児島県にしか見られない南九州に特徴的な細部装飾である。 永年の風雨にさらされ雨漏りなどもひどく倒壊寸前であったため昭和61年5月〜11月改修委員会により部分的な改修が施(ほどこ)された。
昭和62年11月
えびの市教育委員会
と書かれています。



写真GE: 「建造物 白鳥神社」の説明板。
昭和45年2月20日 市指定
 創建年代は詳(つまび)らかでないが、10世紀、性空上人が六観音堂で修行した際、神託を得て勧請したとの由緒がある。 大和武尊 ほか4神を祀(まつ)り、また別当寺を建て白鳥山金剛乗院 満足寺と号した。 古くは白鳥権現と呼ばれ、軍神として歴代藩主の信仰が篤(あつ)かった。 特に島津義弘の尊崇は厚く、木崎原合戦の勝利は一重(ひとえ)に白鳥権現の加護によるものと社寺領143石を寄進したほどであった。
 慶長6年(1601年)から同10年(1605年)にかけて社殿の造営があり、その後 文化6年(1809年)12月23日火災によって消失したあと間もなく再建されたのが現存する本殿である。 明治に至り別当寺は廃寺になったが、明治38年県社に昇格した。 本殿には数多くの彫刻が施(ほどこ)されており、特に雲竜巻柱や腰壁の壁板造り出しの唐獅子牡丹(からじしぼたん)などは本県や鹿児島県にしか見られない南九州に特徴的な細部装飾である。 永年の風雨にさらされ雨漏りなどもひどく倒壊寸前であったため昭和61年5月〜11月改修委員会により部分的な改修が施(ほどこ)された。
昭和62年11月
えびの市教育委員会
と書かれています。



写真GF: 「建造物 白鳥神社」の説明板。
昭和45年2月20日 市指定
 創建年代は詳(つまび)らかでないが、10世紀、性空上人が六観音堂で修行した際、神託を得て勧請したとの由緒がある。 大和武尊 ほか4神を祀(まつ)り、また別当寺を建て白鳥山金剛乗院 満足寺と号した。 古くは白鳥権現と呼ばれ、軍神として歴代藩主の信仰が篤(あつ)かった。 特に島津義弘の尊崇は厚く、木崎原合戦の勝利は一重(ひとえ)に白鳥権現の加護によるものと社寺領143石を寄進したほどであった。
 慶長6年(1601年)から同10年(1605年)にかけて社殿の造営があり、その後 文化6年(1809年)12月23日火災によって消失したあと間もなく再建されたのが現存する本殿である。 明治に至り別当寺は廃寺になったが、明治38年県社に昇格した。 本殿には数多くの彫刻が施(ほどこ)されており、特に雲竜巻柱や腰壁の壁板造り出しの唐獅子牡丹(からじしぼたん)などは本県や鹿児島県にしか見られない南九州に特徴的な細部装飾である。 永年の風雨にさらされ雨漏りなどもひどく倒壊寸前であったため昭和61年5月〜11月改修委員会により部分的な改修が施(ほどこ)された。
昭和62年11月
えびの市教育委員会
と書かれています。



写真GG: 「ようこそ白鳥神社へ・白鳥神社のご案内をいたします」
「姫路市の書写山 圓教寺と深いご縁」
「虹梁が結ぶ奈良東大寺と尊(たっと)いご縁」
の説明板。



写真GH: 「ようこそ白鳥神社へ・白鳥神社のご案内をいたします」の説明板。
 今日はようこそ白鳥神社へお参りいただきました。
 当 神社は天徳3年(959年)、性空上人によって御創建された神社であり、日本武尊を主祭神として祀(まつ)る千年余りの歴史を積み重ねた神社であります。
 性空上人が30歳代のころ、霧島山の六観音御池の畔(ほとり)で法華経を読誦中、突如日本武尊の化身という老翁が現れ、「余は日本武尊なり、白鳥となってこの山に棲むこと久し。 いま汝(なんじ)の読経に感応して身を現すなり。」と告げ「ここに神社を創建せよ」との託宣があり、上人は六観音を刻(きざ)み御池の畔(ほとり)に祀(まつ)ったと伝えられます。 白鳥権現すなわち白鳥神社の始まりとされています。 当神社は圓教寺や東大寺とも尊(たっと)いご縁があります。
拝殿奥にある本殿は江戸時代の建造物。 白鳥神社全景(被災前の旧拝殿)。 災害復旧竣工式で奉納された豊栄舞。
と書かれています。



写真GI: 「ようこそ白鳥神社へ・白鳥神社のご案内をいたします」の説明板。
 今日はようこそ白鳥神社へお参りいただきました。
 当 神社は天徳3年(959年)、性空上人によって御創建された神社であり、日本武尊を主祭神として祀(まつ)る千年余りの歴史を積み重ねた神社であります。
 性空上人が30歳代のころ、霧島山の六観音御池の畔(ほとり)で法華経を読誦中、突如日本武尊の化身という老翁が現れ、「余は日本武尊なり、白鳥となってこの山に棲むこと久し。 いま汝(なんじ)の読経に感応して身を現すなり。」と告げ「ここに神社を創建せよ」との託宣があり、上人は六観音を刻(きざ)み御池の畔(ほとり)に祀(まつ)ったと伝えられます。 白鳥権現すなわち白鳥神社の始まりとされています。 当神社は圓教寺や東大寺とも尊(たっと)いご縁があります。
拝殿奥にある本殿は江戸時代の建造物。 白鳥神社全景(被災前の旧拝殿)。 災害復旧竣工式で奉納された豊栄舞。
と書かれています。



写真GJ: 「白鳥神社周辺のご案内図」。



写真GK: 「拝殿奥にある本殿は江戸時代の建造物」。 写真上は本殿の唐獅子牡丹(からじしぼたん)の彫刻。 写真左は本殿の雲竜巻柱の彫刻。



写真GL: 「姫路市の書写山 圓教寺と深いご縁」
 白鳥神社は姫路市にある書写山 圓教寺と深いご縁で結ばれています。 それは今から約1000年前、同じく天台宗の性空上人によって創建されたということで、不思議なご縁を大切にしようと神仏習合の交流が始まったのです。 1000年の時を隔(へだ)てて深く結ばれたご縁を大切にしながら相互交流が続いています。 白鳥神社の創建からちょうど1050年に当たる平成21年春「性空上人堂」を建立、2体の上人像が安置されました。
開山堂に安置された性空上人像。 圓教寺本堂の摩尼殿は掛造りの壮大な建造物。 
と書かれています。



写真GM: 私たち「郷土の歴史文化を伝承するを会」は、偉大な霧島の自然遺産や性空上人が残された数多くの文化遺産、多くの先人たちの遺徳を後世に大切に伝える活動を続けていきたいと願っています。 皆様もぜひ多くの方々に語り継いでいただければ幸いです。
と書かれています。



写真GN: 「虹梁が結ぶ奈良東大寺と尊(たっと)いご縁」
 白鳥神社は奈良東大寺とも尊いご縁によって結ばれています。 東大寺大仏殿は世界最大の木造建築ですが、この大仏殿の3020トンの大屋根を大仏様の真上で今も支えている最も重要な虹梁材の赤松は、実は今から約300年前 宝永元年(1704年)、白鳥神社領地に立っていた巨大赤松を掘り倒し、奈良東大寺まで8ヶ月かかって運んだという壮大な史実が残されています。 その尊いご縁で今も東大寺との交流が続いています。
東大寺の大仏様(世界最大)。 世界最大の木造建築 東大寺大仏殿、正面 57 m、側面 51 m、高さ 50 mの威容。
と書かれています。



写真GO: 「大仏殿虹梁搬送ルート図 1704年 (宝永元年)」。 ここ白鳥神社から瀬戸内海を通って運ばれました。 大阪からは淀川をのぼり、奈良東大寺まで2本の巨大な赤松が運ばれました。
「東大寺橋本聖圓管長 外 全職員 120 名がご訪問」。
「今も霧島に育っている巨大赤松、(虹梁材の巨木は直径 1.4 m、樹高 54 m あったと記録あり)」。
と書かれています。



写真GP: 「大仏殿虹梁搬送ルート図 1704年 (宝永元年)」。 ここ白鳥神社から瀬戸内海を通って運ばれました。 大阪からは淀川をのぼり、奈良東大寺まで2本の巨大な赤松が運ばれました。
「東大寺橋本聖圓管長 外 全職員 120 名がご訪問」。
「今も霧島に育っている巨大赤松、(虹梁材の巨木は直径 1.4 m、樹高 54 m あったと記録あり)」。
と書かれています。



写真GQ: 「白鳥神社、御祭神 本殿 大和武尊、末分社 弟橘姫命」と書いてあります。 石灯籠(いしどうろう)、説明板も見えます。



写真GR: えびの市 白鳥神社にある「開山 性空上人御堂」。
白鳥神社の創建からちょうど1050年に当たる平成21年春「性空上人堂」を建立、2体の上人像が安置されました。



写真GS: 「東大寺大仏殿虹梁(こうりょう、棟木)白鳥巨松」の説明板。
 東大寺大仏殿の大屋根80万6000貫(3020トン)を支えている大虹梁は、元禄16年(1703年)この白鳥神社境内より伐出された2本の赤松である。
 いずれも樹齢は、2000年を越えるものであった。 1本目は、長さ13間、元口4尺3寸、末口3尺3寸7分5厘、重さ6183貫、樵夫(きこり)90人の手により4日間で伐出された。 2本目は、長さ13間、元口4尺1寸、末口3尺7分5厘、重さ5435貫余。 100人の人出が、3日間費やされた。 代金は、1本2000両。 山出しの際は、傷がつかないよう両端に金輪がはめられ、霧島山中から薩摩湾岸の国分新川口に至る25里を1日860人の人夫と牛40頭の合力によって運び出された。 到着するまでには115日の歳月を要し、その間には命を失うもの、怪我したものは数しれなかったらしい。 国分新川口からは、千石船に積み替えられ、鹿児島湾、日向細島港、さらに豊予海峡の急瀬を乗りこえ、瀬戸内海に入り、兵庫港に着き、大阪伝法川口を経て、また淀川をのぼり木津川から奈良坂を越えて、ようやく無事に大仏殿に到着した。 延々850里に及ぶ大運搬であった。 宝永6年(1709年)東大寺大仏殿の落成供養も盛大に行われたが、白鳥巨松は、後の大改修を経(へ)ながらも大虹梁として今なお東大寺大仏殿を支え続けている。
えびの市教育委員会
と書かれています。



写真GT: 白鳥神社の創建からちょうど1050年に当たる平成21年春「性空上人堂」を建立、2体の上人像が安置されました。



写真GU: 宮崎県 えびの市の白鳥神社にある二の鳥居(とりい)。 階段の上に拝殿、本殿などがあります。



写真GV: えびの市の白鳥神社にある三の鳥居(とりい)。 階段の上に拝殿、本殿などがあります。



写真GW: 狛犬(こまいぬ)の像が参道の両側にあります。



写真GX: 狛犬(こまいぬ)の像が参道の両側にあります。



写真GY: 「白鳥神社 御由緒」の説明板。
御祭神 本殿 大和武尊(ヤマトタケルノミコト)、末分社 弟橘姫命
御神徳 開運厄除、身体健康、武道長久
御開創
 古来より白鳥山をはじめ霧島の山々は神山であり、当地は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲(くまそ)征伐に下向された縁深く、すでに日本武尊また熊襲族の神々が祭られていたと考えられるが、平安後期の天徳3年(959年)天台宗の名僧 性空上人が、霧島六観音御堂で修行していた時に御神宣を受け、白鳥権現を建立したと云(い)われている。
御社殿
 室町時代初期の応永10年(1403年)の頃、真言宗の光尊法印により現在地に社殿を移し、再建された。 併(あわ)せて近くに金剛乗院 満足寺と号する別当寺も建立された。 文化6年(1809年)に火災によって消失し、間もなく再建されたのが、現在の本殿である。
 本殿には数多くの彫刻が施され、特に雲龍巻柱や唐獅子牡丹などは当時の精緻な建築技術で作られており、左甚五郎作ともいわれるほど卓越している。
島津義弘 公と木崎原合戦
 戦国時代、少し衰退したが島津義弘 公の尊崇は厚く、元亀3年(1572年)の木崎原合戦の勝因は白鳥権現のご加護によるものと社寺領143石を寄進したほどであった。 この頃、中興開山の光厳上人により再興され慶長6年(1601年)から慶長10年にかけて社殿も造営復興された。
東大寺大仏殿と巨大赤松
 東大寺大仏殿が永禄10年(1668年)2度目の火災に遭(あ)い、公慶上人が大仏殿の再建を発願され、大仏殿を支える梁(はり)の御用材を全国に探し求めた。 ついに白鳥神社の参道および境内に高さ 54 m 、樹齢 2000年とも云(い)われる2本の巨大赤松を見つけた。 元禄16年(1703年)から「結縁引き」など延べ10万人の人手と牛4000頭の労力と当時の最高技術により奈良東大寺まで運び出され、大仏殿は無事落成した。 白鳥神社に聳(そび)えていた赤松は今もなお虹梁材(こうりょうざい、棟木材)として大仏殿を支え続けている。
と書かれています。



写真GZ: 「白鳥神社 御由緒」の説明板。
御祭神 本殿 大和武尊(ヤマトタケルノミコト)、末分社 弟橘姫命
御神徳 開運厄除、身体健康、武道長久
御開創
 古来より白鳥山をはじめ霧島の山々は神山であり、当地は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲(くまそ)征伐に下向された縁深く、すでに日本武尊また熊襲族の神々が祭られていたと考えられるが、平安後期の天徳3年(959年)天台宗の名僧 性空上人が、霧島六観音御堂で修行していた時に御神宣を受け、白鳥権現を建立したと云(い)われている。
御社殿
 室町時代初期の応永10年(1403年)の頃、真言宗の光尊法印により現在地に社殿を移し、再建された。 併(あわ)せて近くに金剛乗院 満足寺と号する別当寺も建立された。 文化6年(1809年)に火災によって消失し、間もなく再建されたのが、現在の本殿である。
 本殿には数多くの彫刻が施され、特に雲龍巻柱や唐獅子牡丹などは当時の精緻な建築技術で作られており、左甚五郎作ともいわれるほど卓越している。
島津義弘 公と木崎原合戦
 戦国時代、少し衰退したが島津義弘 公の尊崇は厚く、元亀3年(1572年)の木崎原合戦の勝因は白鳥権現のご加護によるものと社寺領143石を寄進したほどであった。 この頃、中興開山の光厳上人により再興され慶長6年(1601年)から慶長10年にかけて社殿も造営復興された。
東大寺大仏殿と巨大赤松
 東大寺大仏殿が永禄10年(1668年)2度目の火災に遭(あ)い、公慶上人が大仏殿の再建を発願され、大仏殿を支える梁(はり)の御用材を全国に探し求めた。 ついに白鳥神社の参道および境内に高さ 54 m 、樹齢 2000年とも云(い)われる2本の巨大赤松を見つけた。 元禄16年(1703年)から「結縁引き」など延べ10万人の人手と牛4000頭の労力と当時の最高技術により奈良東大寺まで運び出され、大仏殿は無事落成した。 白鳥神社に聳(そび)えていた赤松は今もなお虹梁材(こうりょうざい、棟木材)として大仏殿を支え続けている。
と書かれています。



写真HA: 「白鳥神社 御由緒」の説明板。
御祭神 本殿 大和武尊(ヤマトタケルノミコト)、末分社 弟橘姫命
御神徳 開運厄除、身体健康、武道長久
御開創
 古来より白鳥山をはじめ霧島の山々は神山であり、当地は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲(くまそ)征伐に下向された縁深く、すでに日本武尊また熊襲族の神々が祭られていたと考えられるが、平安後期の天徳3年(959年)天台宗の名僧 性空上人が、霧島六観音御堂で修行していた時に御神宣を受け、白鳥権現を建立したと云(い)われている。
御社殿
 室町時代初期の応永10年(1403年)の頃、真言宗の光尊法印により現在地に社殿を移し、再建された。 併(あわ)せて近くに金剛乗院 満足寺と号する別当寺も建立された。 文化6年(1809年)に火災によって消失し、間もなく再建されたのが、現在の本殿である。
 本殿には数多くの彫刻が施され、特に雲龍巻柱や唐獅子牡丹などは当時の精緻な建築技術で作られており、左甚五郎作ともいわれるほど卓越している。
島津義弘 公と木崎原合戦
 戦国時代、少し衰退したが島津義弘 公の尊崇は厚く、元亀3年(1572年)の木崎原合戦の勝因は白鳥権現のご加護によるものと社寺領143石を寄進したほどであった。 この頃、中興開山の光厳上人により再興され慶長6年(1601年)から慶長10年にかけて社殿も造営復興された。
東大寺大仏殿と巨大赤松
 東大寺大仏殿が永禄10年(1668年)2度目の火災に遭(あ)い、公慶上人が大仏殿の再建を発願され、大仏殿を支える梁(はり)の御用材を全国に探し求めた。 ついに白鳥神社の参道および境内に高さ 54 m 、樹齢 2000年とも云(い)われる2本の巨大赤松を見つけた。 元禄16年(1703年)から「結縁引き」など延べ10万人の人手と牛4000頭の労力と当時の最高技術により奈良東大寺まで運び出され、大仏殿は無事落成した。 白鳥神社に聳(そび)えていた赤松は今もなお虹梁材(こうりょうざい、棟木材)として大仏殿を支え続けている。
と書かれています。



写真HB: 「白鳥権現社 御創建1050年記念事業」の説明板。
 当社は平安後期、天徳3年(959年)天台宗の高僧 性空上人が白鳥権現社として創建されて以来、約1050年の間、守り継がれてきた由緒ある古社であり、現存している本殿は江戸末期の建造物であります。 さらに南九州の独特な建築様式として雲龍巻柱や唐獅子牡丹など精緻な彫刻が施され、先人から伝えられたこの貴重な文化遺産を後世に伝えております。
 平成16年9月の当社の台風被災と社殿の著しい老朽化のため、約80年ぶりの大事業として社殿災害復旧など改修整備事業を致しました。 御陰をもちまして、御社殿の本殿、拝殿、幣殿につきましては、当社御創建の性空上人の御入定1000年の昨年7月2日、荘厳に竣工し、竣工祭も盛大に斎行したところであります。 この佳日に巫女舞(みこまい)も復活し、奉祝祭を意義深く斎行できました。 ご支援、ご協力くださいました皆様には感謝に堪えない次第であります。 しかしながら未着工の御社殿(神饌神具所)、末社水分神社の改修整備などが今後も必要であり、御創建の真心を一層灯(とも)すべく性空上人御遺徳顕彰をはじめとする御創建1050年記念事業を意義深く完遂致したく存じております。
 つきましては、趣旨にご賛同の上、御奉賛くださいますようよろしくお願い申し上げます。
特別奉納金 1口 1万円以上 (境内掲示板にご芳名を記載)
銅板奉納 1枚 二千円以上 (銅板の裏面にご芳名を記載)
平成19年新春
白鳥神社社務所
と書かれています。



写真HC: 白鳥神社は霧島山系にある白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)の北斜面にあります。 白鳥神社の拝殿。
白鳥神社は宮崎県 えびの市 大字末永にあります。



写真HD: 宮崎県 えびの市にある白鳥神社の境内(けいだい)。 左に手水舎(ちょうずや)、末社も見えています。



写真HE: 手水舎(ちょうずや)と掲示板。



写真HF: 白鳥神社の「白鳥神社 御由緒」の説明板と掲示板。



写真HG: 社務所、「白鳥権現社 御創建1050年記念事業」の説明板、三の鳥居。



写真HH: 「日向之国 霊跡白鳥山 白鳥神社社務所」。



写真HI: 「日向之国 霊跡白鳥山 白鳥神社社務所」です。



写真HJ: 白鳥神社の境内(けいだい)。 末社も見えます。



写真HK: 白鳥神社の境内。



写真HL: 大きな杉の木が見えています。 左は「白鳥夫婦杉(御神木) 樹齢約500年」で右は「白鳥大御神木 家族杉」です。 建物は拝殿です。



写真HM: 「日向之国 霊跡白鳥山 白鳥神社社務所」と書いてあります。 菊の御紋も見えます。



写真HN: えびの市にある白鳥神社の手水舎(ちょうずや)、掲示板。



写真HO: 白鳥神社の御手洗(みたらい)。



写真HP: 「手水の作法」の説明。



写真HQ: 白鳥神社は宮崎県 えびの市 大字末永にあります。 拝殿。



写真HR: えびの市にある白鳥神社の境内(けいだい)。 末社、ベンチも見えます。



写真HS: 「旧海軍奉納 砲弾」の説明板。
 この砲弾は、日清戦争時に軍艦に使用されていたものですが、武運長久を祈願して当社に奉納されたものです。 重量は約80数キロあり持ち上げれば御神徳を賜(たまわ)れると伝えられています。
と書いてあります。

 

写真HT: 「旧海軍奉納 砲弾」
 この砲弾は、日清戦争時に軍艦に使用されていたものですが、武運長久を祈願して当社に奉納されたものです。 重量は約80数キロあり持ち上げれば御神徳を賜(たまわ)れると伝えられています。



写真HU: 「旧海軍奉納 砲弾」の説明板。
 この砲弾は、日清戦争時に軍艦に使用されていたものですが、武運長久を祈願して当社に奉納されたものです。 重量は約80数キロあり持ち上げれば御神徳を賜(たまわ)れると伝えられています。
と書いてあります。



写真HV: 白鳥神社の境内にオガタマノキがあります。



写真HW: 末社 前神社です。



写真HX: 左の建物は古神符納箱で、正面のは絵馬を掛ける場所です。



写真HY: 古神符納箱(古い御札(おふだ)などを入れるところ)。



写真HZ: こちらも末社です。



写真IA: 石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真IB: ロウソクを立てる場所です。



写真IC: 宮崎県 えびの市にある白鳥神社(拝殿)。



写真ID: えびの市にある白鳥神社の拝殿。



写真IE: 白鳥神社の右のほうです。



写真IF: 白鳥神社の左の方です。



写真IG: 白鳥神社の左の方(ほう)。



写真IH: 鈴が見えています。



写真II: 「白鳥神社」と書いてある額(がく)があります。



写真IJ: お賽銭箱(おさいせんばこ)と鈴のヒモ。



写真IK: 記帳台もあります。



写真IL: 拝殿から見た境内(けいだい)。 社務所、三の鳥居(とりい)、手水舎(ちょうずや)も見えます。



写真IM: 白鳥神社は霧島山系にある白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)の北斜面にあります。



写真IN: 白鳥神社の境内。



写真IO: 白鳥神社の境内(けいだい)。



写真IP: 石碑(せきひ)があります。



写真IQ: 「白鳥大御神木 家族杉」と書いてある看板(かんばん)があります。 ここのまとまった5本の杉が家族杉です。
拝殿の右手にあります。



写真IR: 「白鳥大御神木 家族杉」と書いてある看板(かんばん)があります。 ここのまとまった5本の杉が家族杉です。
拝殿の右手にあります。



写真IS: ここのまとまった5本の杉が家族杉です。



写真IT: 「白鳥大御神木 家族杉」と書いてある看板(かんばん)があります。 ここのまとまった5本の杉が家族杉です。
拝殿の右手にあります。



写真IU: 「白鳥大御神木 家族杉」と書いてある看板(かんばん)があります。 ここのまとまった5本の杉が家族杉です。
拝殿の右手にあります。



写真IV: えびの市にある白鳥神社の本殿。 白鳥神社は霧島山系にある白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)の北斜面にあります。



写真IW: 本殿と拝殿の間の所。



写真IX: 白鳥神社の本殿と拝殿の間。



写真IY: 見えている大きな杉の木は「白鳥夫婦杉(御神木)」です。 本殿の右手にあります。



写真IZ: 古い御手洗(みたらい)があります。



写真JA: 「御神木(夫婦杉) 樹齢約500年」、「本殿(江戸末期 建造物) 雲龍巻柱・唐獅子牡丹など彫刻(ちょうこく)」と書いてある標識があります。



写真JB: 白鳥神社の本殿。



写真JC: 白鳥神社は宮崎県 えびの市 大字末永にあります。
これはその本殿です。



写真JD: 右は本殿、奥は拝殿。



写真JE: 白鳥神社。 左は白鳥大御神木 家族杉。



写真JF: 「白鳥夫婦杉(御神木)御由緒」の説明板。
 直径約1.9 m、周囲約6 m、樹齢は約500年と云(い)われている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、御神木として崇敬されている。
白鳥神社
と書かれています。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JG: 夫婦杉の下部。
「白鳥夫婦杉(御神木)御由緒」の説明板。
 直径約1.9 m、周囲約6 m、樹齢は約500年と云(い)われている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、御神木として崇敬されている。
白鳥神社
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JH: 夫婦杉の中部。
しめ縄と御幣(ごへい)があります。 2本の大きな杉の木が寄りそうように立っています。
「白鳥夫婦杉(御神木)御由緒」の説明板。
 直径約1.9 m、周囲約6 m、樹齢は約500年と云(い)われている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、御神木として崇敬されている。
白鳥神社
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JI: 夫婦杉の中部。
「白鳥夫婦杉(御神木)御由緒」の説明板。
 直径約1.9 m、周囲約6 m、樹齢は約500年と云(い)われている。
 当 白鳥山が1000年以上の神厳とした霊地で高徳先賢の一大道場でもあった歴史を物語り、御神木として崇敬されている。
白鳥神社
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JJ: 白鳥夫婦杉(御神木)の上部。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JK: 白鳥夫婦杉(御神木)の上部。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写JL: 左は夫婦杉の下部。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JM: 左は夫婦杉2本のうちの1本。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JN: 白鳥神社の夫婦杉の枝は興味ある形をしています。 古木だからでしょう。



写真JO: 白鳥神社の夫婦杉の枝は興味ある形をしています。 古木だからでしょう。



写真JP: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
奈良県の大仏殿建設のため白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。 1本はこの場所、もう1本は一の鳥居のそばの末社 水分神社の近くにあった赤松1本でした。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。
「東大寺大仏殿虹梁(こうりょう、棟木)白鳥巨松」の説明板(旧道の車道の近くにあります)。
 東大寺大仏殿の大屋根80万6000貫(3020トン)を支えている大虹梁は、元禄16年(1703年)この白鳥神社境内より伐出された2本の赤松である。
 いずれも樹齢は、2000年を越えるものであった。 1本目は、長さ13間、元口4尺3寸、末口3尺3寸7分5厘、重さ6183貫、樵夫(きこり)90人の手により4日間で伐出された。 2本目は、長さ13間、元口4尺1寸、末口3尺7分5厘、重さ5435貫余。 100人の人出が、3日間費やされた。 代金は、1本2000両。 山出しの際は、傷がつかないよう両端に金輪がはめられ、霧島山中から薩摩湾岸の国分新川口に至る25里を1日860人の人夫と牛40頭の合力によって運び出された。 到着するまでには115日の歳月を要し、その間には命を失うもの、怪我したものは数しれなかったらしい。 国分新川口からは、千石船に積み替えられ、鹿児島湾、日向細島港、さらに豊予海峡の急瀬を乗りこえ、瀬戸内海に入り、兵庫港に着き、大阪伝法川口を経て、また淀川をのぼり木津川から奈良坂を越えて、ようやく無事に大仏殿に到着した。 延々850里に及ぶ大運搬であった。 宝永6年(1709年)東大寺大仏殿の落成供養も盛大に行われたが、白鳥巨松は、後の大改修を経(へ)ながらも大虹梁として今なお東大寺大仏殿を支え続けている。
えびの市教育委員会
と書かれています。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JQ: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
奈良県の大仏殿建設のため白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。 1本はこの場所、もう1本は一の鳥居のそばの末社 水分神社の近くにあった赤松1本でした。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JR: 「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑 白鳥神社 平成13年11月吉日 建立」と書いてある標識棒があります。
奈良県の大仏殿建設のため白鳥神社から2本の赤松の大木が送られました。 1本はこの場所、もう1本は一の鳥居のそばの末社 水分神社の近くにあった赤松1本でした。
ここに立っていた大きな赤松を1703年(元禄16年)に切って瀬戸内海を通り奈良まで運びました。 そして奈良の東大寺大仏殿建設に使われました。 現在もその赤松材は東大寺の大仏殿を支え続けているそうです。 その300周年を奉祝するためにこの記念碑が建てられました。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JS: 夫婦杉の片方の下部。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JT: 夫婦杉の下部。 柵(さく)があります。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JU: 右は夫婦杉で左の白い棒は「奈良東大寺 大仏殿 虹梁 赤松跡地記念碑」。 本殿は右側にあります。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JV: 宮崎県 えびの市にある白鳥神社の「夫婦杉」。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JW: 白鳥神社の夫婦杉。 枝ぶりに特徴があります。



写真JX: えびの市にある白鳥神社の「夫婦杉」。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真JY: 白鳥神社の「夫婦杉」。



写真JZ: 白鳥神社の「夫婦杉」の上部。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真KA: 枝の形がすばらしい「夫婦杉」。



写真KB: 「夫婦杉」。
夫婦杉の樹齢は約500年で、大きな赤松を奈良の大仏殿のために運んだのは約300年前です。 だから、赤松を運んだときはこの夫婦杉はすでに樹齢200年の大木でした。



写真KC: 白鳥神社にある「夫婦杉」。



写真KD: 夫婦杉の近くに遊歩道があります。



写真KE: これがその遊歩道です。



写真KF: 遊歩道。



写真KG: 「本殿(江戸末期 建造物) 雲龍巻柱・唐獅子牡丹など彫刻(ちょうこく)」。 唐獅子牡丹(からじしぼたん)は右下の壁に見えます。 雲龍巻柱も見えています。
宮崎県 えびの市 大字末永にある白鳥神社の本殿。



写真KH: 白鳥神社の本殿。



写真KI: 右は拝殿を裏から見たもの。



写真KJ: 拝殿前に行く道です。 石畳(いしだたみ)になっています。 手水舎(ちょうずや)の近くに出ます。



写真KK: 白鳥神社の御手洗(みたらい)。 龍の像の口から水が出ています。



写真KL: 白鳥神社の三の鳥居、社務所。



写真KM: 白鳥神社。



写真KN: 白鳥神社は宮崎県 えびの市 大字末永にあります。
旧道のそばの建物のところまで戻(もど)ってきました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)