空挺落下傘部隊発祥の地、護国神社、天龍梅(梅祭り)、川南湿原、夫婦滝(夫婦瀧)
(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち、らっかさん部隊発祥の地、てんりゅう梅、川南しつげん、峠の里、めおと滝(みょうと滝)) (児湯郡川南町)
<標高、位置> 空挺落下傘部隊発祥の地に残っている高い給水塔は
標高 約60 m
北緯32度12分14秒 東経131度31分28秒
<標高、位置> 空挺落下傘部隊発祥之地の石碑(せきひ)は
標高 約40 m
北緯32度11分44秒 東経131度31分35秒
<標高、位置> 川南護国神社は
標高 約40 m
北緯32度11分43秒 東経131度31分34秒
<標高、位置> 天龍梅は
標高 約40 m
北緯32度11分42秒 東経131度31分33秒
<標高、位置> 川南湿原は
標高 約50 m
北緯32度12分16秒 東経131度31分48秒
<標高、位置> 夫婦滝(みょうとたき、めおとたき)は
標高 約140 m
北緯32度12分34秒 東経131度28分52秒
<標高、位置> 峠の里は
標高 約150 m
北緯32度12分34秒 東経131度28分59秒
空挺落下傘部隊(くうていらっかさんぶたい)の発祥の地(1941年創設)が川南町にあります。 当時の兵舎で用いられていた「給水塔」がまだ残っています。 これはコンクリート製 給水塔(高架水槽)で、今でもパイプで水があげられています。 数十メートルの高さのタンクから、水圧がかかった水を送り出します。 この給水塔は、独立行政法人国立病院機構 宮崎病院の敷地にあります。
「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑は川南町中央公園(川南護国神社のそば)にあります。
宮崎県児湯郡川南町にある「天龍梅」は宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つです。 月知梅(宮崎市高岡町)、座論梅(新富町)、天龍梅(川南町)が宮崎県の三大梅林です。 この3つはすべて臥龍梅(がりゅうばい)という品種です。 天龍梅は川南護国神社に隣接しています。
宮崎県児湯郡川南町にある国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)は独立行政法人 国立病院機構 宮崎病院の北に隣接してあります。 木道が設置されています。 地球上でここにしかない植物(ヒュウガホシクサ)もあります。
川南町の「峠の里」は尾鈴山系の上面木山(標高897 m)の南東斜面にあり、見晴らしのよい茶畑のそばにあります。 標高 約150 mです。
川南町篠原にある「夫婦滝(みょうとたき、めおとたき)」は篠原夫婦滝(しのはらみょうとたき)とも呼ばれ、平田川支流 篠原川の上流にあります。 この滝は尾鈴山系の上面木山(標高897 m)の南東斜面にあり、通常、岩の上、2条に分かれた水路を水が落下します。 落差は30 m、全体の幅は40 mです。
写真A: 空挺落下傘部隊(くうていらっかさんぶたい)の発祥の地(1941年創設)が川南町にあります。 これはその時のコンクリート製 給水塔(高架水槽)で、今でもパイプで水があげられています。 数十メートルの高さのタンクから、水圧がかかった水を送り出します。 この給水塔は、独立行政法人国立病院機構 宮崎病院の敷地にあります。
第二次世界大戦が始まった年の1941年(昭和16年)9月から、帝国陸軍により児湯郡川南町の唐瀬原(からせばる)に空挺落下傘部隊が創設され訓練が行われました。 数千人規模の落下傘部隊がここにいました。 落下傘部隊が出来るまでは、ここは軍馬補充部になっていました。 今の唐瀬原中学校付近には空挺落下傘部隊第4聯隊(れんたい)、今の国立病院機構 宮崎病院付近には空挺落下傘部隊第3聯隊(れんたい)、今の川南東小学校付近には司令部がありました(聯隊は部隊のことです)。 また、唐瀬原飛行場(1500 m滑走路)、落下傘降下場、戦車・通信隊、陸軍病院もありました。
落下傘部隊は、一番死亡率の高い部隊だと言われています。 それで、「空の神兵」と当時から呼ばれていました。 オランダ領スマトラ島(現インドネシア)のパレンバンにあった当時世界最大級の製油基地を奇襲占領するために落下傘部隊が必要でした。 日本陸軍は1942年2月このパレンバンを占領しました。
写真B: この給水塔には、第二次世界大戦の時、米軍の戦闘機からの機銃弾の跡(あと)が残っています。 数発の機銃弾痕(だんこん)がこの写真に写っています。 円筒部分に水が垂(た)れているのは上部のタンクの水が少し漏(も)れているのでしょう。 水をタンクにあげるパイプとタンクの水を落とすパイプも見えます。 ハシゴも見えています。
写真C: 空挺落下傘部隊発祥の地に今でも残っている「給水塔」。 ハシゴの上部にちょうどカラスが留(と)まっていました。 避雷針も見えます。
写真D: 空挺落下傘部隊発祥の地に今でも残っている「給水塔」。 タンクの上部からの電線も見えます。 階段の踊り場も見えています。
写真E: 空挺落下傘部隊発祥の地に今でも残っている「給水塔」。 中段に四角の穴(通路)があります。
写真F: 空挺落下傘部隊発祥の地に今でも残っている「給水塔」。 ハシゴに蔦(つた)が巻き付いて登っています。
写真G: 空挺落下傘部隊発祥の地に今でも残っている「給水塔」。 そばの車道を手前に行くと国立病院機構 宮崎病院のところで国道10号線に出ます。 先に進むと山本小学校の方に行きます。
写真H: 宮崎県児湯郡川南町のトロントロン商店街。 この近くに「空挺落下傘部隊発祥の地の石碑(せきひ)」があります。 この石碑は中央公園にあります。 そばには川南護国神社、天龍梅があります。 左の建物はTAKENOYA
というホテルです。
写真I: ホテル「たけのや」の南隣に「空挺落下傘部隊発祥之地」の石碑(せきひ)に行く道があります。 左の通りはトロントロン商店街です。
写真J: 「たけのや」の南隣に「陸軍落下傘部隊発祥の碑(ひ)入口」と書かれた石碑があります。
写真K: この三叉路(さんさろ)を右に曲がります。 そこには空挺落下傘部隊発祥之地と彫(ほ)られた石碑(せきひ)、中央公園、川南護国神社、天龍梅があります。
写真L: この道を進みます。 右はホテル「タケノヤ」。
写真M: 川南町の中央公園の駐車場です。
写真N: 川南護国神社の鎮守(ちんじゅ)の森です。 その右に小さく「空挺落下傘部隊発之地」の大きな石碑が見えています。
写真O: 川南中央公園の駐車場。 携帯電話のアンテナも見えています。
写真P: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑が見えてきました。 右奥に遊具が見えます。 この階段を登ります。
写真Q: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のまわりの広場。 この森の裏が川南護国神社になっています。
写真R: 遊具も見えています。
写真S: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑。
写真T: 「空挺落下傘部隊発祥之地」の石碑。
写真U: 大きな「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑。
写真V: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばに 「花負いて 空射ち征かん 雲染めし 屍悔いなく 吾等散るなり」と書かれた石碑もあります。
写真W: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばにある昭和58年に作られた建設者などの石碑。
写真X: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑を護国神社側から見たもの。
写真Y: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばの広場。
写真Z: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばの様子。 右は護国神社の森。
写真AA: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑を西側から見たもの。
写真AB: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑の西側広場。
写真AC: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばにある青銅板「神兵桜」。 平成元年11月23日建立。
写真AD: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばにある「川南護国神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来」の石碑。 (平成2年11月23日建立)。
写真AE: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばにある「川南護国神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来」の石碑。 (平成2年11月23日建立)。
昭和16年、川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され、同年9月から使用を始めた。 翌17年には兵営が建設され、数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ。
天下る落下傘兵は、天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され、村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され、次々と南の決戦場に出て征き活躍した。
しかし、我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し、そのみ霊だけが当時 豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである。 ところが、21年初夏の頃、宮崎市に進駐していた米軍は、理不尽にも挺進神社を焼き払ってしまった。 拠り所を失った英霊は、当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を、毎夜白い衣袴姿で走り廻るという噂が立った。
そのようなことがあって、一時 唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし、更に昭和24年この護国神社が再建されるに及び、ここに合祀し今日に及んでいる。
護国神社の祭祀は、川南護国神社奉賛会によって永久に行われることに感謝し、後世のためここに由来を彫しておく次第である。
平成2年11月23日
陸軍空挺部隊戦友一同
と書いてあります。
写真AF: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばにある「陸軍挺進部隊一覧」の石碑。 (平成2年11月23日建立)。
挺進部隊は各地にあったことが分かります。
写真AG: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばにある「川南護国神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来」の石碑。 (平成2年11月23日建立)。
昭和16年、川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され、同年9月から使用を始めた。 翌17年には兵営が建設され、数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ。
天下る落下傘兵は、天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され、村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され、次々と南の決戦場に出て征き活躍した。
しかし、我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し、そのみ霊だけが当時 豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである。 ところが、21年初夏の頃、宮崎市に進駐していた米軍は、理不尽にも挺進神社を焼き払ってしまった。 拠り所を失った英霊は、当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を、毎夜白い衣袴姿で走り廻るという噂が立った。
そのようなことがあって、一時 唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし、更に昭和24年この護国神社が再建されるに及び、ここに合祀し今日に及んでいる。
護国神社の祭祀は、川南護国神社奉賛会によって永久に行われることに感謝し、後世のためここに由来を彫しておく次第である。
平成2年11月23日
陸軍空挺部隊戦友一同
と書いてあります。
写真AH: 「空挺落下傘部隊発祥之地(くうていらっかさんぶたいはっしょうのち)」の石碑のそばの様子。
写真AI: 川南護国神社の鎮守(ちんじゅ)の森。
写真AJ: 川南護国神社の「イチョウの木」のそばにある「記念樹の由来」の石碑(せきひ)。 昭和57年4月19日建立。
写真AK: 川南護国神社のイチョウの木。
写真AL: 川南護国神社のイチョウの木。
写真AM: 川南護国神社のイチョウの木。
写真AN: 川南護国神社のイチョウの木。
写真AO: 川南護国神社。 鳥居(とりい)が見えています。
写真AP: 川南護国神社の参道。
写真AQ: 川南護国神社の石灯籠(いしどうろう)。
写真AR: 川南護国神社の石灯籠。
写真AS: 川南護国神社。 拝殿、鳥居、左の御手洗(みたらい)も見えています。
写真AT: 川南護国神社の御手洗(みたらい)、鳥居、拝殿も見えます。
写真AU: 川南護国神社の御手洗(みたらい)。
写真AV: 川南護国神社。
写真AW: 川南護国神社の境内にある「川南町四半的(しはんまと)道場」。
写真AX: 川南護国神社の境内にある「川南町四半的(しはんまと)道場」。
写真AY: 川南護国神社の拝殿(はいでん)。
写真AZ: 川南護国神社の拝殿と右手の様子。
写真BA: 川南護国神社の拝殿と左手の様子。
写真BB: 川南護国神社の拝殿。
写真BC: 川南護国神社の本殿(奥の院)。
写真BD: 川南護国神社の本殿(奥の院)の階段。
写真BE: 左に忠魂碑(ちゅうこんひ)、本殿(奥の院)、右に拝殿が見えています。 この森の裏に空挺落下傘部隊発祥之地の大きな石碑(せきひ)があります。
写真BF: 川南護国神社の拝殿。
写真BG: 川南護国神社の拝殿。
写真BH: 川南護国神社。
写真BI: 川南護国神社。
写真BJ: 川南護国神社。
写真BK: 川南護国神社の外戦紀念碑。
写真BL: 川南護国神社のそばにある紅梅。
写真BM: 川南護国神社のそばにある紅梅。
写真BN: 宮崎県川南町中央公園にある天龍梅の白い花。
写真BO: 川南町中央公園にある天龍梅。
写真BP: 天龍梅の白い花。
写真BQ: 川南町中央公園にある天龍梅。
写真BR: 天龍梅の白い花。 後ろの建物は川南護国神社。
写真BS: 川南町中央公園にある天龍梅。
写真BT: 天龍梅の白い花。
写真BU: 川南町中央公園にある天龍梅。 テーブルとイスも見えます。
写真BV: 天龍梅の白い花。 これは他の花と異なり「ガク」の所が緑色です。
写真BW: 天龍梅の白い花。 これは他の花と異なり「ガク」の所が緑色です。
写真BX: 川南町中央公園にある天龍梅。
写真BY: 川南町中央公園にある天龍梅。
写真BZ: 天龍梅の白い花。 これは他の花と異なり花びらが部分的に赤色です。
写真CA: 川南町中央公園にある「天龍梅」の落ちた花と花びら。
写真CB: 天龍梅の白い花。
写真CC: 川南町中央公園にある天龍梅の下に咲いていた「キラン草」。
写真CD: 天龍梅の白い花。
写真CE: 宮崎県児湯郡川南町にある「天龍梅」。
宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。 月知梅(宮崎市高岡町)、座論梅(新富町)、天龍梅(川南町)が宮崎県の三大梅林です。 この3つはすべて臥龍梅(がりゅうばい)という品種です。
天龍梅は川南護国神社に隣接しています。
写真CF: 「天龍梅の由来 川南町商工会 川南町観光協会」の看板(かんばん)。
この梅はあたかも龍が地に伏したる如く将又雲を起こし天に昇らんとするが如き形をしているのに因(ちな)んで天龍梅と名づけ高岡の月知梅、新田の座論梅と並び県下三梅と称せられている。 古老の伝えるところでは徳川時代に川南町西ノ別府 押川利作氏の先祖が元を発見したものだとのことである。 利作氏が明治34年頃この梅の下に小さな古塚を発見し、同地が西ノ別府古墳群地帯であるところから近隣の人々と共に掘り始めたところ平た石の下に船底型張石棺を発見しその中から白玉管玉金管銀管土器その他30余
点を発掘したことによりこの梅が塚の神木として植えられたものとされる。 この塚跡に縄をめぐらして城として奉仕すると共にこの梅を大切に保存することに意を用いてきた。 その後明治41年未曾有の大暴風雨によりむざんにも梅の木は倒れ伏すにいたった然(しか)るにこれが原因となり次々に根を出し、枝を伸ばして四方に栄え始め明治の終わりから大正の初め頃には
地元はもとより木城方面からも花見の人々が年々多くなるに及び当時部落青年会が西ノ別府文化の発展はこの梅を能(よ)く育(はぐく)み永遠に保存することにありとし婦人会と力を併(あわ)せ保存会を設立してその宣伝に努めた。 大正6年2月8日梅の満開期には藩主秋月公外村内外有志多数協力を得て命名式を挙行した。 これによって天龍梅の名は県内外にあまねく宣伝せられるにいたった。 後この梅が5畝歩以上にも拡がり大に栄えてきたので大正9年時の村長隈江周平氏が川南の名勝地として世に紹介し、その後隣接町村は云うに及ばず県内外からも枝を曳く者しばらく多きを加えますます名声を博するに至った。 昭和の初め地主利作の長男太助氏は一家を挙げて宮崎市に移住するにいたり中村楠義氏がこれを買い受けたるも世は不況のドン底にあえぎ満州事変、支那事後は世界の戦争となり梅も忘れられるに至った。 更に昭和20年以後相次ぐ台風に痛められさしも栄えた天龍梅も処々に枝の枯れ損するもの多く、次第に外かくを狭められ2畝歩となるに至った。
昭和26年2月当時の村長岩切秋雄氏が2万町民に呼びかけ川南の五勝六景の名勝地投票を実施したるに、多方面支持を得て天龍梅もその選に入って内外の認識を新たにするに至った。 その後 川南中央公園に移植の義起こり、町長河野光雄氏が議会の協賛を経て西ノ別府有志の理解と協力下に移植を決行し、町と地元商工会と共に将来の管理顕彰の責任を負うことになり古塚遷座祭をおこなった。 かくして昭和32年2月28日古梅原型をかたどって移植行事全般を完了元が祭典を行うと同時に向後毎年2月11日を以(もっ)て梅祭日とし地元商工会が主催することを決めた。 一名 臥龍梅(がりゅうばい)といい全国でも珍しい名梅のひとつである。
と書かれています。
写真CG: 宮崎県児湯郡川南町の中央公園にある「天龍梅」。 石と石碑(せきひ)も見えています。 護国神社は右手にあります。
写真CH: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。 後ろの明るいものは夕日です。
写真CI: 川南護国神社の隣にある天龍梅。 枝がパイプで支(ささ)えられています。
写真CJ: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。
写真CK: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。
写真CL: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。 奥の建物は「たけのやホテル」です。
写真CM: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。
写真CN: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。 石と石碑(せきひ)もあります。
写真CO: 天龍梅の敷地にある歌碑(かひ)。
写真CP: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。 テーブルとイスもあります。 奥に護国神社も見えています。
写真CQ: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。
写真CR: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。
写真CS: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。
写真CT: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。
写真CU: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。
写真CV: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。
写真CW: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。
写真CX: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。
写真CY: 宮崎県の三大梅林(三大梅園)の一つ天龍梅です。
写真CZ: 川南町の中央公園にある「天龍梅」。
写真DA: 川南護国神社の参道。 右は天龍梅、突き当たりはトロントロン商店街。
写真DB: 川南護国神社の参道。 突き当たりはトロントロン商店街。
写真DC: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)はこの三叉路(さんさろ)を左に進みます。 右の車道は国道10号線で先は都農(つの)、手前は高鍋。 この三叉路は独立行政法人 国立病院機構 宮崎病院の少し北にあります。
写真DD: この道を少し西に行って左折します。 左がガソリンスタンド、右は携帯電話の店です。
写真DE: この十字路を左折します。
写真DF: 川南湿原の金網が見えてきました。
写真DG: 宮崎県児湯郡川南町にある国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。 木道が設置されています。
写真DH: 「川南湿原植物群落」。 奥の建物は国立病院です。
写真DI: 川南町にある 「川南湿原植物群落」の説明板。 奥の建物は国立病院です。
写真DJ: 宮崎県児湯郡川南町にある国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」の説明板。
指定年月日 昭和49年6月11日
この湿原にはカヤツリ科、ホシクサ科、ラン科など約90種類の湿地を好む植物が生(は)え次のような学術上珍しい特徴がある。
(1)ヒュウガホシクサがここで最初に発見され今でも地球上唯一の産地である。
(2)サワシロギクやスイランなど14種の南限植物がありこの中でサクラバハンノキ、ヘビノボラズ、ミズギボウシ、ミズギクは九州ではこの湿原にあるもので四国にはなく本州の一部だけに限られてある。
(3)ナガバノイシモチソウ、コモウセンゴケ、シロバナミミカキグサなど8種類の食虫植物がある。
(4)寒い朝鮮半島や満州にある湿帯性植物が23種類もありこれらは霧島山の高い湿原にもある植物で昔の川南が大陸と同じ寒い気候であったことを証明し大変興味深い。
昭和54年1月
川南町教育委員会
と書かれています。
写真DK: 川南町にある 「川南湿原」。
写真DL: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。
写真DM: 川南町にある 「川南湿原」。
写真DN: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。
写真DO: 川南町にある 「川南湿原」。 風速計などの計測器、木道なども見えています。
写真DP: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。
写真DQ: 川南町にある 「川南湿原」。
写真DR: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。
写真DS: 川南町にある 「川南湿原」。
写真DT: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。
写真DU: 川南町にある 「川南湿原」。 木道も見えています。
写真DV: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。 ここに入るための扉(とびら)があります。
写真DW: 扉(とびら)には鍵(かぎ)がかかっていました。
写真DX: 川南町にある 「川南湿原」。 左は池です。
写真DY: 川南町にある 「川南湿原」の池。 鴨(かも)もいました。
写真DZ: 宮崎県児湯郡川南町にある 「川南湿原」の池。
写真EA: 川南町にある 「川南湿原」の池。
写真EB: 川南町にある 「川南湿原」。 木道も見えています。 まわりは金網で囲(かこ)われています。
写真EC: 川南町にある 「川南湿原」のそばの景色。 左奥に落下傘部隊発祥の地の給水塔が見えます。 右は駐車場にある大きなタイヤ。
写真ED: 川南町にある 「川南湿原」。
写真EE: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。
写真EF: 川南町にある 「川南湿原」。
写真EG: 国指定天然記念物 「川南湿原植物群落」(昭和49年6月11日指定)。
写真EH: 川南町の「夫婦滝(めおとたき)」や「峠の里(とうげのさと)」に行くには、木城−都農線(産業道路)のこの看板の交差点から西に入ります。 この看板には「夫婦滝(約1.5 km)」と書いてあります。
写真EI: 上の写真にある看板のそばには、野田原(のだばる)と書かれた道路標識があります。
写真EJ: この斜めの細い方の道を進みます。
写真EK: 木城温泉入り口のバス停があります。 真っ直ぐ進みます。
写真EL: 道の両側に茶畑が拡がっています。 茶の木の霜を防ぐ「防霜ファン」が電柱のようにたくさん建っています。 気温が一定温度以下になると、下方を向いた扇風機が自動的に回ります。 そして霜が降りるのを防ぎます。
写真EM: 茶畑の防霜ファン。
写真EN: 十字路の先に東九州自動車道のトンネルが見えます。 峠の里へは真っ直ぐ進みます。 夫婦滝へは左に曲がります。
写真EO: 十字路にある看板(かんばん)。 夫婦滝、峠の里、青鹿ダム(せいろくだむ)などと書いてあります。
写真EP: 十字路にある看板(かんばん)。 夫婦滝、青鹿ダム(せいろくだむ)などが書いてあります。
写真EQ: 茶畑の防霜ファンは三枚羽のファン、それを回す電動モーターなどから成っています。
写真ER: 川南町の茶畑。 このあたりは尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面です。 右手の円筒形のタンクは上水のタンクだと思われます。
写真ES: 尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面に「峠の里」があります。 このあたりは標高 約150 mです。 この建物のまわりが峠の里です。 手前は駐車場。
写真ET: 「日本三大開拓地」の看板。
宮崎県児湯郡川南町、福島県西白河郡矢吹町、青森県十和田市が日本三大開拓地です。
写真EU: 「峠の里」の看板(かんばん)。 石碑(せきひ)などが見えます。
写真EV: 「峠の里 第1展望台」。
コイン式の双眼鏡も設置してあります。 このあたりは標高 約150 mです。 遠くに日向灘も見えています。 川南町のトロントロン商店街、高鍋町の町並みも見渡せます。 近いところは茶畑になっています。
写真EW: 川南町の峠の里にある「川南町の絵地図」。 右下の(6)が夫婦滝の場所です。 現在地 峠の里は下方に載(の)っています。
写真EX: 川南町の峠の里にある「川南町の絵地図」。 左に川南漁港、トロントロンドーム、青鹿ダム(せいろくだむ)の写真が載っています。
写真EY: 川南町の峠の里にある「川南町の絵地図」。 右に町木のサザンカ、運動公園(キャンプ地)、宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)、夫婦滝(ふうふたき)の写真があります。
写真EZ: 「大地に夢を」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。 2000年12月29日建立。 しばらくは下方にあったのを2003年頃ここに移したものだそうです。
写真FA: 峠の里の茶屋です。 中では美味しいお茶、抹茶(まっちゃ)のソフトクリームなどがあります。 民芸品なども売っています。 標高 約150 mです。
写真FB: 峠の里にある建物の中。 窓の外は見晴らしがよく太平洋も見えます。 地元でとれたお茶を無料で入れていただきました。
写真FC: 峠の茶屋から戻ってきた所の十字路。 先のトンネルから降りて戻ってきました。 「夫婦滝(めおとたき)」へは向かって左に曲がります。
写真FD: 川南町の「夫婦滝」はこの道を進みます。 こちらにも東九州自動車道下のトンネルがあります。
写真FE: 「夫婦滝(めおとたき)」に行くには真っ直ぐ進みます。
写真FF: まもなく「夫婦滝」の駐車場の看板があります。 見えている橋のガードレール手前を右にはいると駐車場があります。 「夫婦滝」は尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面にあります。
写真FG: 「夫婦滝」の駐車場の看板。
写真FH: 橋の右の手前に「篠原みょうと滝(しのはらみょうとたき)入口、徒歩5分」の標識があります。
写真FI: この川は篠原川(しのはらがわ)です。
写真FJ: この橋は篠原橋です。
写真FK: この篠原川の少し上流に「夫婦滝」があります。 川の左岸(川口に向かって)に遊歩道があり、それを5分間歩くと夫婦滝に着きます。
写真FL: 篠原橋の下流側の景色。
写真FM: これが川南町の夫婦滝(みょうと滝)の駐車場です。
写真FN: 駐車場の奥に夫婦滝に行く道があります。
写真FO: 川南町の夫婦滝へ行く遊歩道。
写真FP: 篠原川。 この少し上流に夫婦滝(みょうと滝)があります。
写真FQ: 篠原川。
写真FR: 篠原川。 石垣が積んである所もあります。
写真FS: 遠くに夫婦滝が見えてきました。 「みょうと滝」とも「めおと滝」とも発音されるようです。 「夫婦滝」は尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面にあります。
写真FT: 遠くに夫婦滝が見えてきました。 「みょうと滝」とも「めおと滝」とも発音されるようです。
写真FU: 夫婦滝の遊歩道。
写真FV: 夫婦滝のまわりの景色。
写真FW: 宮崎県児湯郡川南町にある「夫婦滝」。 右の水量の多い方が男滝、左の少ない方が女滝です。 ヒビはありますが、一枚岩の2カ所が滝になっています。
写真FX: 川南町の夫婦滝(夫婦瀧)。 滝の上は両側が山になっていることが分かります。 「夫婦滝」は尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面にあります。
写真FY: 夫婦滝近くの遊歩道の様子。
写真FZ: 夫婦滝と篠原川(しのはらがわ)。
写真GA: 夫婦滝の近くの様子。
写真GB: 宮崎県児湯郡川南町の「夫婦滝(夫婦瀧)」。 でこぼこはありますが、一枚岩のようです。 滝の上に紅葉した木が見えています。 「夫婦滝」は尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面にあります。
写真GC: 夫婦滝の近くの遊歩道。
写真GD: 川南町の「夫婦滝(夫婦瀧)」。 右の水量の多い方が男滝、左の少ない方が女滝です。 ヒビはありますが、一枚岩の2カ所が滝になっています。
写真GE: 川南町の「夫婦滝」。
写真GF: 夫婦滝の下方の様子。
写真GG: 夫婦滝の近くの篠原川。
写真GH: 川南町の夫婦滝(みょうとたき)。 滝を形成している岩には野草、苔(こけ)も見えます。
写真GI: 夫婦滝の上部。
写真GJ: 川南町の夫婦滝。 2本の滝の内の左の滝。
写真GK: 川南町の夫婦滝。 2本の滝の内の左の滝。
写真GL: 川南町の夫婦滝。 2本の滝の内の、左の滝の下部。
写真GM: 夫婦滝。
写真GN: 夫婦滝の近くの篠原川。
写真GO: 遊歩道の対岸にはテーブル、イス、ベンチがあります。
写真GP: 川南町の夫婦滝の滝壺(たきつぼ)。 右の水量の多い方が男滝、左の少ない方が女滝です。 ヒビはありますが、一枚岩の2カ所が滝になっています。
写真GQ: 夫婦滝の滝壺(たきつぼ)。
写真GR: 夫婦滝。
写真GS: 夫婦滝の滝壺(たきつぼ)。 これは右の方の滝です。 水の近くの岩は濡(ぬ)れています。
写真GT: 夫婦滝。 これは左の滝。
写真GU: 川南町の夫婦滝。 右の水量の多い方が男滝、左の少ない方が女滝です。 ヒビはありますが、一枚岩の2カ所が滝になっています。 「夫婦滝」は尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面にあります。
写真GV: 夫婦滝。
写真GW: 夫婦滝の上部。
写真GX: 夫婦滝の上の様子。
写真GY: 夫婦滝の右側の川岸。 ここも岩になっています。
写真GZ: 夫婦滝の左岸の様子。
写真HA: 川南町の夫婦滝。
写真HB: 夫婦滝の近くから下流方向を見た景色。 左に遊歩道があります。
写真HC: 夫婦滝の近くから下流方向を見た景色。 左に遊歩道があります。
写真HD: 夫婦滝の近く。
写真HE: 滝の少し下流に石が並べてあって、対岸に渡れます。
写真HF: 滝の少し下流に石が並べてあって、対岸に渡れます。 この石の途中から夫婦滝を見たもの。 右の水量の多い方が男滝、左の少ない方が女滝です。 ヒビはありますが、一枚岩の2カ所が滝になっています。
写真HG: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。 「夫婦滝」は尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面にあります。
写真HH: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。 そばにベンチ、テーブル、イスがあります。 左は桜の木のようです。 シダも生(は)えています。 右の水量の多い方が男滝、左の少ない方が女滝です。 ヒビはありますが、一枚岩の2カ所が滝になっています。
写真HI: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。 そばにベンチ、テーブル、イスがあります。
写真HJ: 遊歩道の対岸から見た「夫婦滝」の上部。
写真HK: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。 滝壺(たきつぼ)がよく見えます。
写真HL: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真HM: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の滝壺。
写真HN: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真HO: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の下部。
写真HP: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真HQ: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の上部。
写真HR: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の下部。
写真HS: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。 岩には野草、苔(こけ)も見えます。
写真HT: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真HU: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真HV: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真HW: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の滝壺(たきつぼ)。
写真HX: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の滝壺(たきつぼ)。
写真HY: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真HZ: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。
写真IA: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の上部。
写真IB: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」。 上部の紅葉と青空がきれいでした。
写真IC: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の滝壺。
写真ID: 遊歩道の対岸から見た川南町の「夫婦滝」の近く。
写真IE: 夫婦滝の付近の様子。 遊歩道の対岸から見た景色。 対岸の遊歩道も見えます。
写真IF: 宮崎県児湯郡川南町篠原の平田川支流 篠原川にある「夫婦滝(みょうと滝)」の近くの様子。 遊歩道の対岸の景色。 「夫婦滝」は尾鈴山系の上面木山(標高 897 m)の南東斜面にあります。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)