大坪の一本桜 (桜の花)、庚申塔 (大坪の1本桜、山桜、ヤマザクラ、こうしんとう、庚申塚 (こうしんづか)、釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ、標高 830.8 m))  (宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 字上ノ原、大坪)







<標高、位置>  「大坪の一本桜 (山桜)」は
標高 約120 m
 北緯32度01分57秒  東経131度17分39秒


 「大坪の一本桜」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 字上ノ原にあります。
 「大坪の庚申塔 (こうしんとう)」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 字上ノ原にあります。 一本桜の根元にあります。
 「大坪の一本桜 (と大坪の庚申塔 (こうしんとう))」の説明板から、
 背後に釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ)を望む大地にそびえ立つこのヤマザクラは、幹周 約400 cm、樹高 約15 mあり、樹齢 100〜150 年と推定されています。
 根元には、寛文13年(1673年)に建てられた石碑(せきひ)「庚申塔 (こうしんとう)」があります。 庚申塔とは、中国の道教思想に由来する庚申講 (60日に1度めぐってくる庚申 (かのえさる)の日に健康長寿を祈(いの)って夜を眠らずに過ごす。)を行った記念に建てられたものです。
 こうした講は、当時、地域の親交を深める大切な行事でした。 大坪の一本桜の由来は、はっきりしてませんが、そうした講と関係があるのかもしれません。

 「ヤマザクラ (山桜)」はバラ科サクラ属の落葉高木です。 日本にある野生のサクラの代表的なものです。 (江戸時代に始まったソメイヨシノは人工的に作られたもので、すべてクローンで、花の時期がすべてそろっています。) ヤマザクラは古くから和歌などに多く登場します。 桜の中では寿命が長く (長いものでは樹齢500年を超えます。) 大木になります。 葉の芽と花が同時に開きます。 日本、台湾、韓国、北朝鮮に分布しています。 開花は3月から4月頃です。 ヤマザクラは同一地域でも個体差が多く、同じ場所でも1週間程度の開花時期のずれがあるので、昔から山桜の花見(江戸時代より前はサクラといえば山桜でした。)は長期間に渡って散発的に行われていました。 花びら(花弁)は5枚で、色は白色、淡紅色が多いのですが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなどもあります。 奈良県南部の「吉野の桜」はこのヤマザクラのことです。

 「庚申塔 (こうしんとう)」は塚(つか)の上に建てられたことから庚申塚とも呼(よ)ばれます。 また、建てるときに供養(くよう)をしたので庚申供養塔とも呼ばれます。 中国の道教の庚申信仰で造られた石塔です。 庚申講を3年18回続けた記念に建てられました。 庚申の日の夜に眠らないで天帝、猿田彦、青面金剛をまつり勤行したり宴会(えんかい)をします。 最古の庚申塔は埼玉県の庚申板碑で文明3年(1471年)のものです。 沖縄を除く全国各地にあり、多く建てられたのは江戸時代初期からです。 江戸中期から後期は「庚申塔」、「庚申」の文字のみの塔が増えました。 明治政府は庚申信仰を迷信として排除し、撤去しましたが、現在でも道路の交差点、村の入り口などに残っています。



写真A: 県道356号線です。 先に行くと国富町市街、県道26号線に行きます。 手前には法華嶽薬師寺、法華嶽公園があります。
この少し先に西都市に行く県道40号線との十字路があります。



写真B: 「↑県道356号線、←県道40号線」の道路標識があります。



写真C: 左に曲がると西都市に行きます。 「大坪の一本桜」に行くにはここを左(北)に曲がります。



写真D: 「大坪の一本桜」に行くにはここを左(北)に曲がります。



写真E: 「大坪の一本桜」に行くにはここを先に進みます。



写真F: 「大坪の一本桜 あと2.4 km→」の看板(かんばん)があります。



写真G: 「大坪の一本桜 あと2.4 km→」の看板(かんばん)。



写真H: 後川の橋を渡ってしばらく行くとこの十字路があります。 ガソリンスタンドが見えます。
「大坪の一本桜」へはここを右(南東)に曲がります。



写真I: 十字路の様子(ようす)です。



写真J: JA宮崎中央八代支店が左にあります。 この道を進みます。 電柱の右の茶畑の上に「大坪の一本桜」が見えています。
このあたりは昔は八代村 (現 国富町の一部)でした。 1600年の関ヶ原の戦いで敗北した島津義弘が細島港を経(へ)て、ここ八代村に来ました。
<参考>
1600年 第17代薩摩島津家当主 島津義弘は、石田三成側(西軍)として関ヶ原の戦いに敗れました。 このとき、佐土原島津藩主の島津豊久は、本家の義弘を救うために、しんがりを勤め、身代わりになって名誉の戦死をされました。 島津義弘は関ヶ原の戦いの帰りに、日向細島港を経て帰国途中、八代村(現 国富町)に宿泊しました。 徳川家康の勝利が全国に伝わり、島津と永年戦ってきた伊東(関ヶ原の東軍)の重臣、清武城主の稲津掃部介(稲津掃部助)は、「島津を滅ぼして、伊東の旧領を取り戻すのは、この時期以外にはない。」と考え、兵を率いて、やはり関ヶ原西軍であった(実は戦いの直前、家康側に移っていた)延岡城主高橋の所領で、権藤種盛が城代となっていた宮崎城を攻め落とし、佐土原城に迫り、その一部は、島津義弘が宿泊している八代村に向かって進軍し、放火しました。
 島津領の近くの領主達は、急遽(きゅうきょ)八代村へ兵を進め、稲津の兵を食い止めました。 義弘は兵 数十名を連れて脱出し、かろうじて鹿児島にたどり着くことが出来ました。 *[「稲津掃部助重政の墓」は清武町にあります。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。]*



写真K: この道を進みます。



写真L: 左にJA宮崎中央八代支店の看板(かんばん)が見えます。 道の右奥に赤茶色の「大坪の一本桜」が見えています。



写真M: JA宮崎中央八代支店の看板。



写真N: バス停「大坪 宮崎交通」があります。



写真O: バス停「大坪 宮崎交通」の右に「大坪の一本桜」が見えます。
「大坪の一本桜」は地元でご神木として大切にされてきました。



写真P: もうすぐ一本桜の所に着きます。



写真Q: 車道の右に白い車が見えます。 そこを右に進んで「大坪の一本桜」に行きます。



写真R: ここを右に曲がって1本桜に行きます。



写真S: 北西を見た風景です。 左右に茶畑があります。
九州山地 (九州中央山地)の山々が見えます。
左寄りの山が釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ、標高 830.8 m)と思われます。



写真T: 宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 (ふかどし) 字上ノ原にある「大坪の1本桜」です。
大きな山桜が1本だけそびえています。
ヤマザクラは葉の新芽と開花が同時なので、赤茶色の新芽と花を共(とも)に楽しむものでしょう。 この点が花だけのソメイヨシノと異(こと)なります。



写真U: 東諸県郡 国富町 大字深年 (ふかどし) 字上ノ原にある「大坪の1本桜」。



写真V: 近くに茶畑があります。 北西を見たもの。
中央右寄りの山が釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ、標高 830.8 m)と思われます。



写真W: 来た方向を振り返ったもの。



写真X: 近くの様子(ようす)です。



写真Y: 茶畑も見えます。



写真Z: 南東を見たもの。



写真AA: 一本桜の近くです。



写真AB: 大坪の一本桜です。 大きな山桜。



写真AC: 大坪の一本桜です。 右下に説明板なども見えます。
「ヤマザクラ (山桜)」はバラ科サクラ属の落葉高木です。 日本にある野生のサクラの代表的なものです。 (江戸時代に始まったソメイヨシノは人工的に作られたもので、すべてクローンで、花の時期がすべてそろっています。) ヤマザクラは古くから和歌などに多く登場します。 桜の中では寿命が長く (長いものでは樹齢500年を超えます。) 大木になります。 葉の芽と花が同時に開きます。 日本、台湾、韓国、北朝鮮に分布しています。 開花は3月から4月頃です。 ヤマザクラは同一地域でも個体差が多く、同じ場所でも1週間程度の開花時期のずれがあるので、昔から山桜の花見(江戸時代より前はサクラといえば山桜でした。)は長期間に渡って散発的に行われていました。 花びら(花弁)は5枚で、色は白色、淡紅色が多いのですが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなどもあります。 奈良県南部の「吉野の桜」はこのヤマザクラのことです。



写真AD: 大坪の一本桜。 右下に説明板なども見えます。
大坪の1本桜は土盛(塚(つか))の上に植えてあります。
庚申塔は塚の上に建立されることが多いので、その塚にこのヤマザクラを植えたものでしょう。




写真AE: 国富町 深年にある「大坪の一本桜」です。
ヤマザクラは葉の新芽と開花が同時なので、赤茶色の新芽と花を共(とも)に楽しむものでしょう。 この点が花だけのソメイヨシノと異(こと)なります。



写真AF: 北東を見たものです。 国富町の「大坪の一本桜」です。
「ヤマザクラ (山桜)」はバラ科サクラ属の落葉高木です。 日本にある野生のサクラの代表的なものです。 (江戸時代に始まったソメイヨシノは人工的に作られたもので、すべてクローンで、花の時期がすべてそろっています。) ヤマザクラは古くから和歌などに多く登場します。 桜の中では寿命が長く (長いものでは樹齢500年を超えます。) 大木になります。 葉の芽と花が同時に開きます。 日本、台湾、韓国、北朝鮮に分布しています。 開花は3月から4月頃です。 ヤマザクラは同一地域でも個体差が多く、同じ場所でも1週間程度の開花時期のずれがあるので、昔から山桜の花見(江戸時代より前はサクラといえば山桜でした。)は長期間に渡って散発的に行われていました。 花びら(花弁)は5枚で、色は白色、淡紅色が多いのですが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなどもあります。 奈良県南部の「吉野の桜」はこのヤマザクラのことです。



写真AG: 1本桜から北西を見たもの。



写真AH: 一本桜から西を見たもの。
中央のとがった山が釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ、標高 830.8 m)と思われます。



写真AI: 国富町にある「大坪の一本桜」。



写真AJ: 大坪の一本桜 (山桜)の花びらと葉です。
「ヤマザクラ (山桜)」はバラ科サクラ属の落葉高木です。 日本にある野生のサクラの代表的なものです。 (江戸時代に始まったソメイヨシノは人工的に作られたもので、すべてクローンで、花の時期がすべてそろっています。) ヤマザクラは古くから和歌などに多く登場します。 桜の中では寿命が長く (長いものでは樹齢500年を超えます。) 大木になります。 葉の芽と花が同時に開きます。 日本、台湾、韓国、北朝鮮に分布しています。 開花は3月から4月頃です。 ヤマザクラは同一地域でも個体差が多く、同じ場所でも1週間程度の開花時期のずれがあるので、昔から山桜の花見(江戸時代より前はサクラといえば山桜でした。)は長期間に渡って散発的に行われていました。 花びら(花弁)は5枚で、色は白色、淡紅色が多いのですが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなどもあります。 奈良県南部の「吉野の桜」はこのヤマザクラのことです。



写真AK: 大坪の一本桜 (山桜)の花びらと葉。



写真AL: 大坪の一本桜 (山桜)の花びらと葉です。 花びらが落ちて萼(がく)だけになったものも見えます。
ヤマザクラは葉の新芽と開花が同時なので、赤茶色の新芽と花を共(とも)に楽しむものでしょう。 この点が花だけのソメイヨシノと異(こと)なります。



写真AM: 大坪の一本桜 (山桜)の花びらです。 花びらが落ちて萼(がく)だけになったものも見えます。
「ヤマザクラ (山桜)」はバラ科サクラ属の落葉高木です。 日本にある野生のサクラの代表的なものです。 (江戸時代に始まったソメイヨシノは人工的に作られたもので、すべてクローンで、花の時期がすべてそろっています。) ヤマザクラは古くから和歌などに多く登場します。 桜の中では寿命が長く (長いものでは樹齢500年を超えます。) 大木になります。 葉の芽と花が同時に開きます。 日本、台湾、韓国、北朝鮮に分布しています。 開花は3月から4月頃です。 ヤマザクラは同一地域でも個体差が多く、同じ場所でも1週間程度の開花時期のずれがあるので、昔から山桜の花見(江戸時代より前はサクラといえば山桜でした。)は長期間に渡って散発的に行われていました。 花びら(花弁)は5枚で、色は白色、淡紅色が多いのですが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなどもあります。 奈良県南部の「吉野の桜」はこのヤマザクラのことです。



写真AN: 「大坪の一本桜 (山桜)」の花びらです。 花びらが落ちて萼(がく)だけになったものも見えます。
ヤマザクラは葉の新芽と開花が同時なので、赤茶色の新芽と花を共(とも)に楽しむものでしょう。 この点が花だけのソメイヨシノと異(こと)なります。



写真AO: 「大坪の一本桜 (山桜)」の花びら。 花びらが落ちて萼(がく)だけになったものも見えます。
「ヤマザクラ (山桜)」はバラ科サクラ属の落葉高木です。 日本にある野生のサクラの代表的なものです。 (江戸時代に始まったソメイヨシノは人工的に作られたもので、すべてクローンで、花の時期がすべてそろっています。) ヤマザクラは古くから和歌などに多く登場します。 桜の中では寿命が長く (長いものでは樹齢500年を超えます。) 大木になります。 葉の芽と花が同時に開きます。 日本、台湾、韓国、北朝鮮に分布しています。 開花は3月から4月頃です。 ヤマザクラは同一地域でも個体差が多く、同じ場所でも1週間程度の開花時期のずれがあるので、昔から山桜の花見(江戸時代より前はサクラといえば山桜でした。)は長期間に渡って散発的に行われていました。 花びら(花弁)は5枚で、色は白色、淡紅色が多いのですが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなどもあります。 奈良県南部の「吉野の桜」はこのヤマザクラのことです。



写真AP: 大坪の一本桜 (山桜)の花びらと葉です。



写真AQ: 大坪の一本桜 (山桜)の花びらと葉。
「ヤマザクラ (山桜)」はバラ科サクラ属の落葉高木です。 日本にある野生のサクラの代表的なものです。 (江戸時代に始まったソメイヨシノは人工的に作られたもので、すべてクローンで、花の時期がすべてそろっています。) ヤマザクラは古くから和歌などに多く登場します。 桜の中では寿命が長く (長いものでは樹齢500年を超えます。) 大木になります。 葉の芽と花が同時に開きます。 日本、台湾、韓国、北朝鮮に分布しています。 開花は3月から4月頃です。 ヤマザクラは同一地域でも個体差が多く、同じ場所でも1週間程度の開花時期のずれがあるので、昔から山桜の花見(江戸時代より前はサクラといえば山桜でした。)は長期間に渡って散発的に行われていました。 花びら(花弁)は5枚で、色は白色、淡紅色が多いのですが、淡紅紫色や先端の色が濃いものなどもあります。 奈良県南部の「吉野の桜」はこのヤマザクラのことです。



写真AR: 大坪の一本桜 (山桜)の花びらと葉です。
ヤマザクラは葉の新芽と開花が同時なので、赤茶色の新芽と花を共(とも)に楽しむものでしょう。 この点が花だけのソメイヨシノと異(こと)なります。



写真AS: 1本桜の下に説明板と説明棒があります。



写真AT: 1本桜の下の説明板と説明棒。
大坪の1本桜は土盛(塚(つか))の上に植えてあります。
庚申塔は塚の上に建立されることが多いので、その塚にこのヤマザクラを植えたものでしょう。




写真AU: 根本に「大坪の庚申塔 (こうしんとう)」があります。 しめ縄(なわ)がしてあります。
大坪の1本桜は土盛(塚(つか))の上に植えてあります。
庚申塔は塚の上に建立されることが多いので、その塚にこのヤマザクラを植えたものでしょう。




写真AV: 「大坪の一本桜」と「大坪の庚申塔 (こうしんとう)」です。



写真AW: 「大坪の一本桜」の中部です。



写真AX: 「大坪の一本桜」の中部。



写真AY: 「大坪の一本桜」の上部です。



写真AZ: 「大坪の一本桜」の説明板です。
 背後に釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ)を望む大地にそびえ立つこのヤマザクラは、幹周 約400 cm、樹高 約15 mあり、樹齢 100〜150 年と推定されています。
 根元には、寛文13年(1673年)に建てられた石碑(せきひ)「庚申塔 (こうしんとう)」があります。 庚申塔とは、中国の道教思想に由来する庚申講 (60日に1度めぐってくる庚申 (かのえさる)の日に健康長寿を祈(いの)って夜を眠らずに過ごす。)を行った記念に建てられたものです。
 こうした講は、当時、地域の親交を深める大切な行事でした。 大坪の一本桜の由来は、はっきりしてませんが、そうした講と関係があるのかもしれません。
国富町教育委員会
と書かれています。



写真BA: 「大坪の一本桜」の説明板です。
 背後に釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ)を望む大地にそびえ立つこのヤマザクラは、幹周 約400 cm、樹高 約15 mあり、樹齢 100〜150 年と推定されています。
 根元には、寛文13年(1673年)に建てられた石碑(せきひ)「庚申塔 (こうしんとう)」があります。 庚申塔とは、中国の道教思想に由来する庚申講 (60日に1度めぐってくる庚申 (かのえさる)の日に健康長寿を祈(いの)って夜を眠らずに過ごす。)を行った記念に建てられたものです。
 こうした講は、当時、地域の親交を深める大切な行事でした。 大坪の一本桜の由来は、はっきりしてませんが、そうした講と関係があるのかもしれません。
国富町教育委員会
と書かれています。



写真BB: 「大坪の一本桜」の説明板です。
 背後に釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ)を望む大地にそびえ立つこのヤマザクラは、幹周 約400 cm、樹高 約15 mあり、樹齢 100〜150 年と推定されています。
 根元には、寛文13年(1673年)に建てられた石碑(せきひ)「庚申塔 (こうしんとう)」があります。 庚申塔とは、中国の道教思想に由来する庚申講 (60日に1度めぐってくる庚申 (かのえさる)の日に健康長寿を祈(いの)って夜を眠らずに過ごす。)を行った記念に建てられたものです。
 こうした講は、当時、地域の親交を深める大切な行事でした。 大坪の一本桜の由来は、はっきりしてませんが、そうした講と関係があるのかもしれません。
国富町教育委員会
と書かれています。



写真BC: 「大坪の一本桜」の説明板です。
 背後に釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ)を望む大地にそびえ立つこのヤマザクラは、幹周 約400 cm、樹高 約15 mあり、樹齢 100〜150 年と推定されています。
 根元には、寛文13年(1673年)に建てられた石碑(せきひ)「庚申塔 (こうしんとう)」があります。 庚申塔とは、中国の道教思想に由来する庚申講 (60日に1度めぐってくる庚申 (かのえさる)の日に健康長寿を祈(いの)って夜を眠らずに過ごす。)を行った記念に建てられたものです。
 こうした講は、当時、地域の親交を深める大切な行事でした。 大坪の一本桜の由来は、はっきりしてませんが、そうした講と関係があるのかもしれません。
国富町教育委員会
と書かれています。



写真BD: 「大坪の一本桜」の説明板です。
 背後に釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ)を望む大地にそびえ立つこのヤマザクラは、幹周 約400 cm、樹高 約15 mあり、樹齢 100〜150 年と推定されています。
 根元には、寛文13年(1673年)に建てられた石碑(せきひ)「庚申塔 (こうしんとう)」があります。 庚申塔とは、中国の道教思想に由来する庚申講 (60日に1度めぐってくる庚申 (かのえさる)の日に健康長寿を祈(いの)って夜を眠らずに過ごす。)を行った記念に建てられたものです。
 こうした講は、当時、地域の親交を深める大切な行事でした。 大坪の一本桜の由来は、はっきりしてませんが、そうした講と関係があるのかもしれません。
国富町教育委員会
と書かれています。



写真BE: 「塚石、一本桜」と書いてある看板もあります。



写真BF: 「大坪の庚申塔」の説明棒です。
「長寿招福を祈り一夜を明かす「庚申講」で建てられた石塔です。 国富町教育委員会。 国富町 大字深年 字上ノ原」と書いてあります。



写真BG: 「大坪の庚申塔」の説明棒です。
「長寿招福を祈り一夜を明かす「庚申講」で建てられた石塔です。 国富町教育委員会。 国富町 大字深年 字上ノ原」と書いてあります。



写真BH: 「大坪の庚申塔」です。 しめ縄(なわ)がしてあります。 花、お茶なども供(そな)えてあります。
「庚申塔 (こうしんとう)」は塚(つか)の上に建てられたことから庚申塚とも呼(よ)ばれます。 また、建てるときに供養(くよう)をしたので庚申供養塔とも呼ばれます。 中国の道教の庚申信仰で造られた石塔です。 庚申講を3年18回続けた記念に建てられました。 庚申の日の夜に眠らないで天帝、猿田彦、青面金剛をまつり勤行したり宴会(えんかい)をします。 最古の庚申塔は埼玉県の庚申板碑で文明3年(1471年)のものです。 沖縄を除く全国各地にあり、多く建てられたのは江戸時代初期からです。 江戸中期から後期は「庚申塔」、「庚申」の文字のみの塔が増えました。 明治政府は庚申信仰を迷信として排除し、撤去しましたが、現在でも道路の交差点、村の入り口などに残っています。



写真BI: 「大坪の庚申塔」。 しめ縄(なわ)がしてあります。 花、お茶なども供(そな)えてあります。



写真BJ: 大坪の一本桜の根元です。 土も盛り上がっています。 根も見えます。
大坪の1本桜は土盛(塚(つか))の上に植えてあります。
庚申塔は塚の上に建立されることが多いので、その塚にこのヤマザクラを植えたものでしょう。




写真BK: 「大坪の庚申塔」の説明棒。
「長寿招福を祈り一夜を明かす「庚申講」で建てられた石塔です。 国富町教育委員会。 国富町 大字深年 字上ノ原」と書いてあります。



写真BL: 「大坪の庚申塔」の説明棒です。
「長寿招福を祈り一夜を明かす「庚申講」で建てられた石塔です。 国富町教育委員会。 国富町 大字深年 字上ノ原」と書いてあります。



写真BM: 「大坪の庚申塔」の説明棒。
「長寿招福を祈り一夜を明かす「庚申講」で建てられた石塔です。 国富町教育委員会。 国富町 大字深年 字上ノ原」と書いてあります。



写真BN: 「大坪の庚申塔」です。
石に文字も少し見えています。
「庚申塔 (こうしんとう)」は塚(つか)の上に建てられたことから庚申塚とも呼(よ)ばれます。 また、建てるときに供養(くよう)をしたので庚申供養塔とも呼ばれます。 中国の道教の庚申信仰で造られた石塔です。 庚申講を3年18回続けた記念に建てられました。 庚申の日の夜に眠らないで天帝、猿田彦、青面金剛をまつり勤行したり宴会(えんかい)をします。 最古の庚申塔は埼玉県の庚申板碑で文明3年(1471年)のものです。 沖縄を除く全国各地にあり、多く建てられたのは江戸時代初期からです。 江戸中期から後期は「庚申塔」、「庚申」の文字のみの塔が増えました。 明治政府は庚申信仰を迷信として排除し、撤去しましたが、現在でも道路の交差点、村の入り口などに残っています。



写真BO: 「大坪の庚申塔」です。
「庚申塔 (こうしんとう)」は塚(つか)の上に建てられたことから庚申塚とも呼(よ)ばれます。 また、建てるときに供養(くよう)をしたので庚申供養塔とも呼ばれます。 中国の道教の庚申信仰で造られた石塔です。 庚申講を3年18回続けた記念に建てられました。 庚申の日の夜に眠らないで天帝、猿田彦、青面金剛をまつり勤行したり宴会(えんかい)をします。 最古の庚申塔は埼玉県の庚申板碑で文明3年(1471年)のものです。 沖縄を除く全国各地にあり、多く建てられたのは江戸時代初期からです。 江戸中期から後期は「庚申塔」、「庚申」の文字のみの塔が増えました。 明治政府は庚申信仰を迷信として排除し、撤去しましたが、現在でも道路の交差点、村の入り口などに残っています。



写真BP: お茶、フクロウのような装飾品も供(そな)えてあります。



写真BQ: 根本に石もあります。



写真BR: 一本桜の下です。



写真BS: 一本桜の下。



写真BT: 一本桜の下です。



写真BU: 一本桜のそばです。



写真BV: 一本桜の下部です。
「庚申塔 (こうしんとう)」は塚(つか)の上に建てられたことから庚申塚とも呼(よ)ばれます。 また、建てるときに供養(くよう)をしたので庚申供養塔とも呼ばれます。 中国の道教の庚申信仰で造られた石塔です。 庚申講を3年18回続けた記念に建てられました。 庚申の日の夜に眠らないで天帝、猿田彦、青面金剛をまつり勤行したり宴会(えんかい)をします。 最古の庚申塔は埼玉県の庚申板碑で文明3年(1471年)のものです。 沖縄を除く全国各地にあり、多く建てられたのは江戸時代初期からです。 江戸中期から後期は「庚申塔」、「庚申」の文字のみの塔が増えました。 明治政府は庚申信仰を迷信として排除し、撤去しましたが、現在でも道路の交差点、村の入り口などに残っています。



写真BW: 一本桜の中部です。



写真BX: 一本桜の中部。



写真BY: 一本桜の中部です。



写真BZ: 一本桜の上部です。



写真CA: 一本桜の上部。



写真CB: 1本桜から南を見た景色です。



写真CC: 1本桜から南を見たものです。



写真CD: 1本桜から西を見たものです。
ヤマザクラは葉の新芽と開花が同時なので、赤茶色の新芽と花を共(とも)に楽しむものでしょう。 この点が花だけのソメイヨシノと異(こと)なります。



写真CE: 1本桜から北西を見たものです。



写真CF: 一本桜から北を見たもの。



写真CG: 「大坪の一本桜」から西を見た景色です。
右端の山が釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ、標高 830.8 m)と思われます。



写真CH: 「大坪の一本桜」から北西を見た景色です。
左端の山が釈迦ヶ岳 (しゃかがだけ、標高 830.8 m)と思われます。



写真CI: 「大坪の一本桜」から北を見た景色です。



写真CJ: 「大坪の一本桜」から北を見たもの。



写真CK: 大坪の一本桜から東を見た景色です。



写真CL: 北東を見たものです。



写真CM: 国富町にある「大坪の一本桜」から北を見たもの。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)