飫肥城、飫肥城跡 (別名 舞鶴城、おびじょうあと、飫肥城址、日本100名城の一つ、大手門、旧本丸跡、本丸跡、松尾の丸、飫肥城歴史資料館、5万1080石の飫肥藩、小村寿太郎 (明治時代の外交官)、小村記念館、豫章館(よしょうかん)、飫肥小学校、飫肥中学校、おび天(飫肥天)、おびの厚焼き卵)  (宮崎県 日南市 飫肥)







<標高、位置>  飫肥城跡(おびじょうあと)は
標高 51 m
 北緯31度37分44秒  東経131度21分01秒


 飫肥城跡(おびじょうあと)は別名 舞鶴城で、は宮崎県 日南市 飫肥 10丁目 1-2、(宮崎県 日南市 大字楠原 字前鶴跡)にあります。
2006年(平成18年)4月6日に「日本100名城」に選ばれました。 1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。
 「市指定文化財 平成3年8月1日指定 史跡 飫肥城旧本丸」の説明板から、
 飫肥城は東西約 750 m、南北約 500 mの城域に大小13の曲輪(くるわ)と犬馬場などからなる広大な城である。 各曲輪はシラス大地を空堀(からぼり)で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭(かく)において特徴的な形態である。
 戦国時代には代々 島津 氏 一族が城主であったが、天正15年(1587年)に飫肥藩 初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東 氏の居城となった。
 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。
このうち、元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。

「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。 約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
 伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、門川城、 日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、 高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 「大手門」の説明板から、
 飫肥城大手門は明治時代初めに取り壊(こわ)されたが、昭和53年(1978年)に飫肥城復元の第2期工事として歴史資料館とともに復元建設された。
 復元に際しては、当時の城郭研究の第1人者であった故 藤岡通夫 博士に設計、監修を依頼し、国内に現存する大手門を参考に在来工法で行った。 復元された大手門は木造渡櫓(やぐら)2階建てで、高さ12.3 m を計(はか)る。 建築材は飫肥営林署の三ッ岩学術参考保護林から、樹齢100年の飫肥杉4本の提供を受けた。
 なお、復元工事中に、礎石に刻(きざ)まれた正徳3年(1713年)銘の碑文(ひぶん)が発見され、大手門の内側に保存されている。
 飫肥城は、重要伝統的建造物群保存地区内であるとともに、日南市指定文化財である。
 
 「松尾の丸」の説明板から、
 飫肥城復元事業により、昭和54年(1979年)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。 建物は延床面積 約800平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋がある。 涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第(じゅらくだい)で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。 建物の設計、監修は豊後 岡城や京都二条城を参考に故 藤岡通夫 博士が行った。
 本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、財団法人 日本船舶振興会(現 日本財団)から多額の助成を受けた。

 「飫肥城歴史資料館」は昭和53年(1978年)7月に開館し、宮崎県 日南市 飫肥 10丁目1-2 (飫肥城の中)にあります。
館内は262 平方メートルで、飫肥藩関係の歴史資料 約220 点が展示されています。 伊東や家臣たちに伝えられてきた武具、甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)、刀剣、古文書、衣服なども展示されています。 また、伊東や飫肥藩の歴史も説明されています。 伊東祐兵などの合戦の時のものが多く展示されています。 昭和57年に伊東家から日南市に寄贈されました。 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる各地の支城が完成しました。

 日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。

 「国際交流センター 小村記念館」は宮崎県 日南市 飫肥 4-2-20-1 にあります。
 「国際交流センター 小村記念館」の説明板から、
 国際交流センター 小村記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎 侯の没80周年を記念して、小村 侯の功績を後世に伝えると共に、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点をめざして、平成5年(1993年)1月16日に開館した。 建物の建築面積は1034 平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
 小村 侯は、20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得(かくとく)。 その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。
 日南市では、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和60年(1985年)に結んでいる。
この施設の完成により、ポーツマス市を中心とした国際交流が一層推進されることになった。

 「豫章館(よしょうかん)」は宮崎県 日南市 飫肥 9丁目 1-2 にあります。
 「豫章館(よしょうかん)」は大手門の南にあります。
明治2年(1869年)に飫肥藩主の伊東祐帰が藩知事に任じられ、飫肥城内から豫章館に転居しました。 当時、敷地内にあった樹齢数百年の大楠(大クスノキ)にちなんで豫章館と呼ばれています。 敷地内には明治元年に造られた建物があり、これが飫肥藩の代表的な武家屋敷です。 入り口の薬医門(門の形式です。)、御数寄屋(茶室)、母屋(おもや、住居に用いる建物です。)、雑舎、蔵があります。 南に武学流の庭園があり、石灯籠(いしどうろう)、庭石、庭木などがあります。

 名物の「飫肥天(おびてん)」は魚のすり身、豆腐(とうふ)、黒砂糖、みそなどで出来ています。 油で揚げたものです。 ふんわりと柔らかで少し甘みもあります。 飫肥天は江戸時代に日南市 飫肥の領民が創(つく)りだした郷土料理で生姜(しょうが)、ゴボウ入りなど色んな種類、形があります。 飫肥では味噌(みそ)を使う料理が多く、南西諸島からの移住者を中心に19世紀中期にサトウキビの栽培が始まりました。 それで飫肥天には味噌と黒砂糖が入っています。 また、豆腐(とうふ)も入れるのでさつま揚(あ)げより柔らかな食感です。 そのまま食べることが多い。
 名物の「厚焼き卵」はきめの細かいプリンのようで、甘みがあり、お菓子のような感じです。 普通の卵焼きとは大きく異なります。
飫肥の厚焼き卵は元禄2年(1689年)に始まりました。 もとは間瀬田 家で祝いの席で食べられていました。 その後、藩主(伊東祐実)が参勤交代の時に献上されるようになり、間瀬田は藩主にも献上する厚焼き卵屋となりました。


写真A: 宮崎県 日南市 飫肥にある駐車場です。 そばに おび天蔵、奥にバスの停留所などがあります。 飫肥城の大手門から南に延(の)びる車道の西側にあります。



写真B: ソフトクリームなどを売っている店が並んでいます。 駐車場のそば(北)です。



写真C: 「おび天蔵」です。 中でおび天を油であげています。 おび天、飫肥の物産品などを販売しています。
「おび天蔵」は宮崎県 日南市 飫肥 9-1-8 にあります。
名物の「飫肥天(おびてん)」は魚のすり身、豆腐(とうふ)、黒砂糖、みそなどで出来ています。 油で揚げたものです。 ふんわりと柔らかで少し甘みもあります。 飫肥天は江戸時代に日南市 飫肥の領民が創(つく)りだした郷土料理で生姜(しょうが)、ゴボウ入りなど色んな種類、形があります。 飫肥では味噌(みそ)を使う料理が多く、南西諸島からの移住者を中心に19世紀中期にサトウキビの栽培が始まりました。 それで飫肥天には味噌と黒砂糖が入っています。 また、豆腐(とうふ)も入れるのでさつま揚(あ)げより柔らかな食感です。 そのまま食べることが普通です。



写真D: 駐車場への入口付近です。 この三叉路(さんさろ)を左に行くと飫肥城の大手門があります。 右に進むと県道432号線、明治時代に活躍した外交官 小村寿太郎 誕生地、国道222号線があり、飫肥城下町の店が並んでいます。



写真E: 北西に宮崎交通のバス停が見えます。 左にバスも見えています。



写真F: バスが3台止まっています。



写真G: 歩いてふれあう商家の町なみ 「おびイラストマップ」です。
九州の小京都 ”飫肥(おび)”
苔(こけ)むした城壁に磨(す)り減った石段、槍(やり)の刃先(はさき)にも似た飫肥杉の林が古都その情緒をかなでている。 飫肥は5万1080石の城下町。 商人通りは白壁と格子(こうし)、瓦屋根(かわらやね)に代表される日本建築の美を表現した旧商人町である。 飫肥の旅情をいっそう引き立ててくれるに違いない。
と書いてあります。
絵地図もあります。



写真H: 歩いてふれあう商家の町なみ 「おびイラストマップ」です。
九州の小京都 ”飫肥(おび)”
苔(こけ)むした城壁に磨(す)り減った石段、槍(やり)の刃先(はさき)にも似た飫肥杉の林が古都その情緒をかなでている。 飫肥は5万1080石の城下町。 商人通りは白壁と格子(こうし)、瓦屋根(かわらやね)に代表される日本建築の美を表現した旧商人町である。 飫肥の旅情をいっそう引き立ててくれるに違いない。
と書いてあります。
絵地図もあります。



写真I: 三叉路(さんさろ)の角にある「郷土料理 おび天蔵」です。 おび天、おび天 うどん そば、厚焼卵(厚焼き玉子)と書いてある幟(のぼり)があります。
名物の「飫肥天(おびてん)」は魚のすり身、豆腐(とうふ)、黒砂糖、みそなどで出来ています。 油で揚げたものです。 ふんわりと柔らかで少し甘みもあります。 飫肥天は江戸時代に日南市 飫肥の領民が創(つく)りだした郷土料理で生姜(しょうが)、ゴボウ入りなど色んな種類、形があります。 飫肥では味噌(みそ)を使う料理が多く、南西諸島からの移住者を中心に19世紀中期にサトウキビの栽培が始まりました。 それで飫肥天には味噌と黒砂糖が入っています。 また、豆腐(とうふ)も入れるのでさつま揚(あ)げより柔らかな食感です。 そのまま食べることが多い。
名物の「厚焼き卵」はきめの細かいプリンのようで、甘みがあり、お菓子のような感じです。 普通の卵焼きとは大きく異なります。
飫肥の厚焼き卵は元禄2年(1689年)に始まりました。 もとは間瀬田 家で祝いの席で食べられていました。 その後、藩主(伊東祐実)が参勤交代の時に献上されるようになり、間瀬田は藩主にも献上する厚焼き卵屋となりました。



写真J: 飫肥城の大手門から南に延びる車道に、「←歴史資料館、松尾ノ丸、豫章館(よしょうかん)、小村記念館、飫肥城由緒施設。 →旧山本猪平家、商家資料館、武家屋敷通(鯉(こい)の遊泳)、本町通り(商人町)、小村寿太郎侯生誕地。 飫肥は連続テレビ小説「わかば」の舞台地です。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真K: 北に飫肥城の大手門が少し見えています。 左はおび天蔵で、飫肥杉があります。



写真L: 飫肥城の大手門からの車道にある飫肥杉の林です。



写真M: 飫肥城の大手門に行く途中(とちゅう)に「おび天茶屋」があります。 左の建物がおび天茶屋です。



写真N: おび天茶屋の南の屋敷です。



写真O: 「おび天茶屋 樹齢約1000年とも言われる楠(くすのき)で造られたこの火鉢(ひばち)は重さ約2 トン有余あり、その貫禄(かんろく)は正に日本一とも言われています。 今では飫肥の名物のひとつとされています。 当店にようこそご来店の皆様どうぞこの火鉢(ひばち)をとり囲んで、お茶など召し上がりながらごゆっくりおくつろぎ下さい。 また店内では、名物おび天の実演コーナーを設(もう)けて揚(あ)げたてのおび天が召し上がれます。 なお、お食事は「おび天定食 おにぎり」もあります。 店主 敬白」
と書いてあります。



写真P: 奥に飫肥城の大手門が見えています。 車道の両側は石垣(いしがき)のある屋敷になっています。 北を見たもの。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。



写真Q: 飫肥城の大手門の南にある車道です。



写真R: 車道の東側にある「小村記念館」です。
「国際交流センター 小村記念館」は宮崎県 日南市 飫肥 4-2-20-1 にあります。
「小村記念館」は明治の外交官・小村寿太郎(1855年-1911年)の遺徳を顕彰し、国際交流、教育文化活動、世界に飛躍する人材のために平成5年(1993年)開館しました。 小村寿太郎の生(お)い立ち、遺品、ポーツマス会議のようすの絵などが展示されています。 国際交流センターは300人収容の大会議室と50人収容の小会議室があって、同時通訳施設があります。



写真S: 「国際交流センター 小村記念館」の説明板。
 国際交流センター 小村記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎 侯の没80周年を記念して、小村 侯の功績を後世に伝えると共に、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点をめざして、平成5年(1993年)1月16日に開館した。 建物の建築面積は1034 平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
 小村 侯は、20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得(かくとく)。 その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。
 日南市では、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和60年(1985年)に結んでいる。
この施設の完成により、ポーツマス市を中心とした国際交流が一層推進されることになった。
と書かれています。
飫肥出身の世紀の外交官 小村寿太郎 侯の写真、平和会議の写真も載(の)っています。



写真T: 「国際交流センター 小村記念館」の説明板。
 国際交流センター 小村記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎 侯の没80周年を記念して、小村 侯の功績を後世に伝えると共に、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点をめざして、平成5年(1993年)1月16日に開館した。 建物の建築面積は1034 平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
 小村 侯は、20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得(かくとく)。 その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。
 日南市では、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和60年(1985年)に結んでいる。
この施設の完成により、ポーツマス市を中心とした国際交流が一層推進されることになった。
と書かれています。
飫肥出身の世紀の外交官 小村寿太郎 侯の写真、平和会議の写真も載(の)っています。



写真U: 「国際交流センター 小村記念館」の説明板。
 国際交流センター 小村記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎 侯の没80周年を記念して、小村 侯の功績を後世に伝えると共に、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点をめざして、平成5年(1993年)1月16日に開館した。 建物の建築面積は1034 平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
 小村 侯は、20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得(かくとく)。 その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。
 日南市では、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和60年(1985年)に結んでいる。
この施設の完成により、ポーツマス市を中心とした国際交流が一層推進されることになった。
と書かれています。
飫肥出身の世紀の外交官 小村寿太郎 侯の写真、平和会議の写真も載(の)っています。



写真V: 奥は飫肥城の大手門(おおてもん)、左は豫章館(よしょうかん)です。
「豫章館(よしょうかん)」は宮崎県 日南市 飫肥 9丁目 1-2 にあります。



写真W: 飫肥城の大手門の少し南にある豫章館(よしょうかん)の入口付近です。
「豫章館(よしょうかん)」は大手門の南にあります。
「豫章館(よしょうかん)」は宮崎県 日南市 飫肥 9丁目 1-2 にあります。
明治2年(1869年)に飫肥藩主の伊東祐帰が藩知事に任じられ、飫肥城内から豫章館に転居しました。 当時、敷地内にあった樹齢数百年の大楠(大クスノキ)にちなんで豫章館と呼ばれています。 敷地内には明治元年に造られた建物があり、これが飫肥藩の代表的な武家屋敷です。 入り口の薬医門(門の形式です。)、御数寄屋(茶室)、母屋(おもや、住居に用いる建物です。)、雑舎、蔵があります。 南に武学流の庭園があり、石灯籠(いしどうろう)、庭石、庭木などがあります。



写真X: 飫肥城の大手門の少し南にある豫章館(よしょうかん)。 入り口を少し入ったところの風景です。 奥に建物が見えています。 左の建物は受付です。
「豫章館(よしょうかん)」は宮崎県 日南市 飫肥 9丁目 1-2 にあります。



写真Y: 飫肥城の大手門の少し南にある豫章館(よしょうかん)。
「豫章館(よしょうかん)」は大手門の南にあります。
「豫章館(よしょうかん)」は宮崎県 日南市 飫肥 9丁目 1-2 にあります。
明治2年(1869年)に飫肥藩主の伊東祐帰が藩知事に任じられ、飫肥城内から豫章館に転居しました。 当時、敷地内にあった樹齢数百年の大楠(大クスノキ)にちなんで豫章館と呼ばれています。 敷地内には明治元年に造られた建物があり、これが飫肥藩の代表的な武家屋敷です。 入り口の薬医門(門の形式です。)、御数寄屋(茶室)、母屋(おもや、住居に用いる建物です。)、雑舎、蔵があります。 南に武学流の庭園があり、石灯籠(いしどうろう)、庭石、庭木などがあります。



写真Z: 飫肥城の大手門の少し南にある豫章館(よしょうかん)の入口付近。 左の建物は受付です。
「豫章館(よしょうかん)」は宮崎県 日南市 飫肥 9丁目 1-2 にあります。



写真AA: 石垣(いしがき)も見えます。
「豫章館(よしょうかん)」は大手門の南にあります。
「豫章館(よしょうかん)」は宮崎県 日南市 飫肥 9丁目 1-2 にあります。
明治2年(1869年)に飫肥藩主の伊東祐帰が藩知事に任じられ、飫肥城内から豫章館に転居しました。 当時、敷地内にあった樹齢数百年の大楠(大クスノキ)にちなんで豫章館と呼ばれています。 敷地内には明治元年に造られた建物があり、これが飫肥藩の代表的な武家屋敷です。 入り口の薬医門(門の形式です。)、御数寄屋(茶室)、母屋(おもや、住居に用いる建物です。)、雑舎、蔵があります。 南に武学流の庭園があり、石灯籠(いしどうろう)、庭石、庭木などがあります。



写真AB: 「下記の料金で、この施設が全部ご覧になれます。 豫章館、歴史資料館、松尾の丸、商家資料館、小村記念館、旧 山本猪平家の写真が載(の)っています。 財団法人 「飫肥」 城下町保存会。」
の看板(かんばん)があります。



写真AC: 宮崎県 日南市 飫肥(おび)にある飫肥城の大手門です。 手前は堀を渡る橋になっています。 飫肥城の別名は舞鶴城です。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城 、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真AD: 日南市 飫肥にある飫肥城の大手門の上部です。



写真AE: 飫肥城の大手門の上部。



写真AF: 大手門から東に向かう車道があります。 この先には武家屋敷があります。



写真AG: 大手門の外に堀(ほり)があります。 水は溜(た)まってはいませんでした。



写真AH: 日南市 飫肥にある飫肥城の大手門の外にある堀(ほり)。 東を見たもの。



写真AI: 大手門の外にある堀(ほり)。 西を見たもの。 水は溜(た)まっていませんでした。



写真AJ: 日南市 飫肥にある飫肥城の大手門の外にある堀(ほり)。 西を見たもの。



写真AK: 「→約400 m、武家屋敷通り」と書いてあります。 大手門の近くです。



写真AL: 「大手門」の説明板。
 この大手門は、周辺の石垣遺構や主柱の根石などを検証し、昭和53年に復元されたものである。
 木造渡櫓(やぐら)2階建、屋根までの高さ12 m、1階は21.6平方メートル、2階は44平方メートルで門の幅は1階7 mである。 柱や梁(りょう)には樹齢100年以上の飫肥杉を使用し、釘(くぎ)は使わない「組み式」である。
 屋根は入母屋風で「庵木爪」の鬼瓦(おにがわら)と「月星九曜紋(もん)」の軒瓦(のきがわら)はいずれも「伊東家紋(もん)」である。
日南市観光協会
飫肥城下めぐりレンタサイクルコース No.8
と書かれています。



写真AM: 「飫肥城(おびじょう)」の説明板。
 飫肥城は古くは「飫肥院」の跡とも云(い)われているが、いつごろ創建されたかは明らかでない。 長禄2年(1458年) 島津の族将「新納忠続」を志布志城から飫肥城に移し、伊東方の押えにしているので、それ以前の築城と考えられている。 文明16年(1484年)伊東祐国(6代 佐土原城主)が飫肥城攻防初戦をはじめてから、天正15年(1587年)伊東祐兵(19代飫肥藩初代)が豊臣秀吉の九州征討の功により朱印によって飫肥城に入場するまで、約100年の我が国における最長攻防戦が行われたのである。 以来、約300年 伊東藩の居城であった。
日南市観光協会
飫肥城下めぐりレンタサイクルコース No.9
と書かれています。



写真AN: 「飫肥城下町案内図」です。



写真AO: 「飫肥城下町案内図」です。



写真AP: 「飫肥城下町案内図」です。



写真AQ: 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城の大手門と堀(ほり)。 橋の下に水を通す穴があります。
堀の対岸の石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。

日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真AR: 日南市 飫肥にある飫肥城の大手門。



写真AS: 大手門の南の所です。



写真AT: 豫章館(よしょうかん)の門と塀(へい)が見えます。



写真AU: 大手門から南を見た景色です。 右は豫章館(よしょうかん)の門と塀(へい)。



写真AV: 日南市 飫肥にある飫肥城の大手門の下部です。
飫肥城の別名は舞鶴城です。



写真AW: 日南市 飫肥にある飫肥城の大手門の上部です。



写真AX: 大手門の東の部分。



写真AY: 大手門の東の部分。



写真AZ: 飫肥城の堀です。 水はありませんでした。



写真BA: 飫肥城の堀です。 水はありませんでした。



写真BB: 大手門から南を見た景色です。 手前は堀の橋です。



写真BC: 豫章館(よしょうかん)の塀(へい)と手前に堀の橋が見えています。



写真BD: 飫肥城の堀(西を見たもの。)には水はなく、今は木が育っています。



写真BE: 日南市にある飫肥城の大手門の西部分です。 夜に明かりのため火を燃(も)やす鉄製の物が見えています。



写真BF: 日南市にある飫肥城の大手門の西部分です。 夜に明かりのため火を燃(も)やす鉄製の物が見えています。



写真BG: 日南市にある飫肥城の大手門の西部分です。



写真BH: 大手門の西の部分の塀(へい)には、円や長方形の銃眼(そこから敵を銃で撃(う)つ穴)があります。 「銃眼」は「狭間(はざま)」とも呼びます。



写真BI: 飫肥城の大手門の扉(とびら)です。 黒い鉄の細長い板で補強されています。



写真BJ: 大手門の天井の様子(ようす)です。



写真BK: 大手門の天井の様子(ようす)。



写真BL: 大手門の東の内側に大きな石が置いてあります。
大手門の復元工事中に、礎石に刻(きざ)まれた正徳3年(1713年)銘の碑文(ひぶん)が発見され、大手門の内側に保存されている。



写真BM: 大手門の東の天井部分です。



写真BN: 大手門の東の天井部分。



写真BO: 大手門のそば(内側)の石垣(いしがき)です。
「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真BP: 大手門から城内を見た景色です。 桝形(ますがた、ここで敵の進む勢いを鈍(にぶ)らせます。)です。



写真BQ: 大手門から城内を見た景色。
石垣は江戸時代のものですが、大手門、塀(へい)は復元されたものです。
桝形(ますがた、ここで敵の進む勢いを鈍(にぶ)らせます。)です。



写真BR: 大手門から城内を見た景色。 左は大手門です。



写真BS: 飫肥杉が育っています。



写真BT: 「大手門」の説明板。
 飫肥城大手門は明治時代初めに取り壊(こわ)されたが、昭和53年(1978年)に飫肥城復元の第2期工事として歴史資料館とともに復元建設された。
 復元に際しては、当時の城郭研究の第1人者であった故 藤岡通夫 博士に設計、監修を依頼し、国内に現存する大手門を参考に在来工法で行った。 復元された大手門は木造渡櫓(やぐら)2階建てで、高さ12.3 m を計(はか)る。 建築材は飫肥営林署の三ッ岩学術参考保護林から、樹齢100年の飫肥杉4本の提供を受けた。
 なお、復元工事中に、礎石に刻(きざ)まれた正徳3年(1713年)銘の碑文(ひぶん)が発見され、大手門の内側に保存されている。
 飫肥城は、重要伝統的建造物群保存地区内であるとともに、日南市指定文化財である。
と書かれています。
大手門の写真、飫肥城下の絵地図もあります。



写真BU: 「大手門」の説明板。
 飫肥城大手門は明治時代初めに取り壊(こわ)されたが、昭和53年(1978年)に飫肥城復元の第2期工事として歴史資料館とともに復元建設された。
 復元に際しては、当時の城郭研究の第1人者であった故 藤岡通夫 博士に設計、監修を依頼し、国内に現存する大手門を参考に在来工法で行った。 復元された大手門は木造渡櫓(やぐら)2階建てで、高さ12.3 m を計(はか)る。 建築材は飫肥営林署の三ッ岩学術参考保護林から、樹齢100年の飫肥杉4本の提供を受けた。
 なお、復元工事中に、礎石に刻(きざ)まれた正徳3年(1713年)銘の碑文(ひぶん)が発見され、大手門の内側に保存されている。
 飫肥城は、重要伝統的建造物群保存地区内であるとともに、日南市指定文化財である。
と書かれています。
大手門の写真、飫肥城下の絵地図もあります。



写真BV: 塀(へい)には、円や長方形の銃眼(ここから敵を銃で撃(う)ちます。)があります。 「銃眼」は「狭間(はざま)」とも呼びます。
「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真BW: 階段があります。 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城の内部です。



写真BX: 日南市 飫肥にある飫肥城址の内部。



写真BY: 日南市 飫肥にある飫肥城跡の内部です。
石垣は江戸時代のものですが、大手門、塀(へい)は復元されたものです。



写真BZ: 日南市 飫肥にある飫肥城の内部。



写真CA: 飫肥城跡です。



写真CB: 銃眼の付いた塀(へい)の内側の様子(ようす)です。 石の階段で上ります。 塀を補強する石の柱と木の角材が見えます。



写真CC: 西を見たもの。 飫肥城跡。



写真CD: 東を見たもの。 犬馬場と呼ばれていた曲輪(くるわ、平らな所)です。 飫肥城址。 奥に釣り鐘(つりがね)が見えています。
二階櫓(にかいやぐら)跡は今は鐘つき堂になっています。



写真CE: 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城址。 釣り鐘(つりがね)が見えています。 二階櫓(にかいやぐら)跡は今は鐘つき堂になっています。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真CF: 飫肥城の中です。 大手門も見えます。 南を見た景色です。



写真CG: 飫肥城の中。 南東を見たもの。



写真CH: 東を見たもの。 犬馬場と二階櫓(やぐら)跡、犬馬場は曲輪(くるわ、平らな所)で、二階櫓は今は鐘つき堂になっています。 飫肥城跡。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CI: 飫肥城跡です。 左に大手門も見えます。



写真CJ: 西を見たもの。



写真CK: 「←資料館」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真CL: 右の階段を登ると飫肥城歴史資料館があります。 塀(へい)の下の石垣の断面がよく分かります。
「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真CM: 階段の上の飫肥城歴史資料館が見えます。
飫肥城の別名は舞鶴城です。
ここは本丸南にある虎口(こぐち、門に桝形(ますがた)を造り、曲って出入りするようにした要所の出入り口。)です。



写真CN: 日南市にある飫肥城歴史資料館です。
「飫肥城歴史資料館」は昭和53年(1978年)7月に開館し、宮崎県 日南市 飫肥 10丁目1-2 (飫肥城の中)にあります。
館内は262 平方メートルで、飫肥藩関係の歴史資料 約220 点が展示されています。 伊東や家臣たちに伝えられてきた武具、甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)、刀剣、古文書、衣服なども展示されています。 また、伊東や飫肥藩の歴史も説明されています。 伊東祐兵などの合戦の時のものが多く展示されています。 昭和57年に伊東家から日南市に寄贈されました。 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる各地の支城が完成しました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CO: 日南市にある飫肥城歴史資料館。
「飫肥城歴史資料館」は昭和53年(1978年)7月に開館し、宮崎県 日南市 飫肥 10丁目1-2 (飫肥城の中)にあります。
館内は262 平方メートルで、飫肥藩関係の歴史資料 約220 点が展示されています。 伊東や家臣たちに伝えられてきた武具、甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)、刀剣、古文書、衣服なども展示されています。 また、伊東や飫肥藩の歴史も説明されています。 伊東祐兵などの合戦の時のものが多く展示されています。 昭和57年に伊東家から日南市に寄贈されました。 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる各地の支城が完成しました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CP: 「第7代 日南市長 河野禮三郎 顕彰之碑」が飫肥城歴史資料館のそばにあります。



写真CQ: 「第7代 日南市長 河野禮三郎 顕彰之碑」と書いてあります。



写真CR: 「顕彰碑文(けんしょうひぶん)」です。



写真CS: 「飫肥城歴史資料館」と書いてあります。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城歴史資料館は昭和53年(1978年)7月に開館しました。 館内は262 平方メートルで、飫肥藩関係の歴史資料 約220 点が展示されています。 伊東や家臣たちに伝えられてきた武具、甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)、刀剣、古文書、衣服なども展示されています。 また、伊東や飫肥藩の歴史も説明されています。 伊東祐兵などの合戦の時のものが多く展示されています。 昭和57年に伊東家から日南市に寄贈されました。 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CT: 飫肥城歴史資料館の入り口です。
「飫肥城歴史資料館」は昭和53年(1978年)7月に開館し、宮崎県 日南市 飫肥 10丁目1-2 (飫肥城の中)にあります。
館内は262 平方メートルで、飫肥藩関係の歴史資料 約220 点が展示されています。 伊東や家臣たちに伝えられてきた武具、甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)、刀剣、古文書、衣服なども展示されています。 また、伊東や飫肥藩の歴史も説明されています。 伊東祐兵などの合戦の時のものが多く展示されています。 昭和57年に伊東家から日南市に寄贈されました。 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CU: 飫肥城歴史資料館の受付です。
「飫肥城歴史資料館」は昭和53年(1978年)7月に開館し、宮崎県 日南市 飫肥 10丁目1-2 (飫肥城の中)にあります。
館内は262 平方メートルで、飫肥藩関係の歴史資料 約220 点が展示されています。 伊東や家臣たちに伝えられてきた武具、甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)、刀剣、古文書、衣服なども展示されています。 また、伊東や飫肥藩の歴史も説明されています。 伊東祐兵などの合戦の時のものが多く展示されています。 昭和57年に伊東家から日南市に寄贈されました。 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CV: 飫肥城のポスターがあります。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
飫肥城歴史資料館は昭和53年(1978年)7月に開館しました。 館内は262 平方メートルで、飫肥藩関係の歴史資料 約220 点が展示されています。 伊東や家臣たちに伝えられてきた武具、甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)、刀剣、古文書、衣服なども展示されています。 また、伊東や飫肥藩の歴史も説明されています。 伊東祐兵などの合戦の時のものが多く展示されています。 昭和57年に伊東家から日南市に寄贈されました。 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CW: 「←本丸跡、松尾の丸。 →小村記念館、豫章館(よしょうかん)」の標識があります。



写真CX: 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城 本丸跡は現在は飫肥小学校になっています。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。

「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真CY: 飫肥城跡の中にある飫肥城歴史資料館を北から見たもの。



写真CZ: 飫肥城歴史資料館の北側の様子(ようす)です。



写真DA: 飫肥城歴史資料館の北側の様子(ようす)。



写真DB: 「←本丸跡、松尾の丸。→資料館」の標識があります。



写真DC: 奥の階段を左に登ると「松尾の丸」に行きます。 右の建物はトイレです。



写真DD: 「旧 本丸跡 (飫肥杉林)」の説明板。
 飫肥城の旧本丸跡、100年を超す飫肥杉が林立。 平成16年度後期連続テレビ小説「わかば」の中で、ヒロインの若葉が、落ち込んだ時に元気を取り戻した場所 ←。 飫肥は連続テレビ小説「わかば」の舞台地です。
と書いてあります。 旧本丸跡の写真も載(の)っています。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。




写真DE: 右は旧本丸跡の石垣(いしがき)です。 左はトイレです。



写真DF: 右は旧本丸跡の石垣(いしがき)です。 左はトイレ。



写真DG: 日南市 飫肥にある飫肥城 本丸跡は現在は飫肥小学校になっています。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。




写真DH: 先に行くと旧本丸跡に行きます。 右は本丸跡(今は飫肥小学校)です。



写真DI: 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城 本丸跡は現在は飫肥小学校になっています。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真DJ: 日南市 飫肥にある飫肥城 本丸跡は現在は飫肥小学校になっています。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。




写真DK: 中央奥に先程(さきほど)、下から見えた「鐘(かね)つき堂」が小さく見えています。 日南市 飫肥にある飫肥城 本丸跡は現在は飫肥小学校になっています。



写真DL: 奥の建物は飫肥城歴史資料館、左は本丸跡の飫肥小学校です。 南を見た景色です。



写真DM: 旧本丸跡に登る階段が見えてきました。 左に飫肥城旧本丸の説明板があります。 右は飫肥小学校の校庭です。



写真DN: 「市指定文化財 平成3年8月1日指定 史跡 飫肥城旧本丸」の説明板。
 飫肥城は東西約 750 m、南北約 500 mの城域に大小13の曲輪(くるわ)と犬馬場などからなる広大な城である。 各曲輪はシラス大地を空堀(からぼり)で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭(かく)において特徴的な形態である。
 戦国時代には代々 島津 氏 一族が城主であったが、天正15年(1587年)に飫肥藩 初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東 氏の居城となった。
 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。
このうち、元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
と書かれています。
飫肥城古図(1662年)、飫肥の絵地図もあります。



写真DO: 「市指定文化財 平成3年8月1日指定 史跡 飫肥城旧本丸」の説明板。
 飫肥城は東西約 750 m、南北約 500 mの城域に大小13の曲輪(くるわ)と犬馬場などからなる広大な城である。 各曲輪はシラス大地を空堀(からぼり)で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭(かく)において特徴的な形態である。
 戦国時代には代々 島津 氏 一族が城主であったが、天正15年(1587年)に飫肥藩 初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東 氏の居城となった。
 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。
このうち、元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
と書かれています。
飫肥城古図(1662年)、飫肥の絵地図もあります。



写真DP: 「市指定文化財 平成3年8月1日指定 史跡 飫肥城旧本丸」の説明板。
 飫肥城は東西約 750 m、南北約 500 mの城域に大小13の曲輪(くるわ)と犬馬場などからなる広大な城である。 各曲輪はシラス大地を空堀(からぼり)で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭(かく)において特徴的な形態である。
 戦国時代には代々 島津 氏 一族が城主であったが、天正15年(1587年)に飫肥藩 初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東 氏の居城となった。
 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。
このうち、元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
と書かれています。
飫肥城古図(1662年)、飫肥の絵地図もあります。



写真DQ: 旧本丸跡の斜面です。 上は旧本丸跡です。



写真DR: 飫肥城の旧本丸跡に登る階段です。



写真DS: 飫肥城の旧本丸跡に登る階段。



写真DT: 飫肥城の旧本丸跡に登る階段付近の様子(ようす)です。



写真DU: 飫肥城の旧本丸跡に登る階段。 左に旧本丸の石垣(いしがき)も見えます。



写真DV: 飫肥城の旧本丸跡に登る階段。 旧本丸の石垣(いしがき)も見えます。

「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DW: 石段のそばに門柱の礎石と思われるものがあります。



写真DX: 石段のそばに門柱の礎石と思われるものもあります。 ここは虎口(こぐち、門に桝形(ますがた)を造り、曲って出入りするようにした要所の出入り口。)です。



写真DY: 飫肥杉が育っています。



写真DZ: 正面の石垣の上が飫肥城の「旧本丸跡」です。
ここは虎口(こぐち、門に桝形(ますがた)を造り、曲って出入りするようにした要所の出入り口。)です。



写真EA: 旧本丸跡に登る最後の階段が見えます。



写真EB: 旧本丸の石垣です。
「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真EC: 旧本丸の石垣と階段。



写真ED: 飫肥城の旧本丸跡は飫肥杉が多く育っています。



写真EE: 旧本丸跡の東には古い門(搦手門(からめてもん))があります。 これは復元されたものです。
飫肥城の旧本丸跡は標高 約 50 mです。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EF: 旧本丸跡の門のそばには大きな直方体の石があります。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EG: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡です。 飫肥杉林の下の地面は苔(こけ)が生(は)えています。
飫肥城の旧本丸跡は標高 約 50 mです。



写真EH: 旧本丸跡です。 南を見た景色です。



写真EI: 飫肥城の旧本丸跡に登る階段付近の様子(ようす)です。



写真EJ: 飫肥城の旧本丸跡に登る階段付近の様子(ようす)。



写真EK: 旧本丸跡の飫肥杉が根を張っています。



写真EL: 北を見たもの。 旧本丸跡です。



写真EM: 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城の旧本丸跡です。 北を見たもの。 門と左に直方体の大きな石が見えます。
飫肥城の旧本丸跡は標高 約 50 mです。 元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。

「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EN: 直方体の大きな石と北にある門が見えます。 飫肥城の旧本丸跡です。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EO: 飫肥城の旧本丸跡には築山(つきやま)と思われる土の盛り上がりがあります。



写真EP: 樹齢100年以上の飫肥杉が旧本丸跡にあります。



写真EQ: 樹齢100年以上の飫肥杉があります。 飫肥城 旧本丸跡。



写真ER: 樹齢100年以上の飫肥杉。 飫肥城 旧本丸跡。



写真ES: 日南市 飫肥にある飫肥城 旧本丸跡の北門(搦手門(からめてもん))です。 これは復元されたものです。 北に向いています。 門の内側が坂になっている坂虎口(さかこぐち)と思われます。 搦手門は有事の時には領主などはここから脱出するようになっています。 階段、その他も苔(コケ)むしています。 飫肥城の別名は舞鶴城です。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。




写真ET: 飫肥城 旧本丸跡の門から北を見下ろした風景です。 飫肥中学校のグラウンド、野球場や人家、北の山並み(やまなみ)も見えます。
北門の北東には削(けず)られたグラウンドに中之城、その北に北之丸があり、北門の北西には西之丸、その北に今は住宅地になっている松之丸がありました。 飫肥中学校の東には八幡城がありました。
飫肥城は大小13の曲輪(くるわ、平らな所)があり、各曲輪を空堀(からぼり)で区切ったものでした。



写真EU: 旧本丸跡の門から北東を見た景色です。 飫肥中学校のグラウンド、北東の山並みも見えています。
北門の北東には削(けず)られたグラウンドに中之城、その北に北之丸があり、北門の北西には西之丸、その北に今は住宅地になっている松之丸がありました。 飫肥中学校の東には八幡城がありました。
飫肥城は大小13の曲輪(くるわ、平らな所)があり、各曲輪を空堀(からぼり)で区切ったものでした。



写真EV: 旧本丸跡の門から北東を見た景色。 飫肥中学校のグラウンド、北東の山並みも見えています。
北門の北東には削(けず)られたグラウンドに中之城、その北に北之丸があり、北門の北西には西之丸、その北に今は住宅地になっている松之丸がありました。 飫肥中学校の東には八幡城がありました。
飫肥城は大小13の曲輪(くるわ、平らな所)があり、各曲輪を空堀(からぼり)で区切ったものでした。



写真EW: 飫肥城 旧本丸跡の門から北を見下ろした風景です。 飫肥中学校のグラウンド、野球場や人家、北の山並み(やまなみ)も見えます。
北門の北東には削(けず)られたグラウンドに中之城、その北に北之丸があり、北門の北西には西之丸、その北に今は住宅地になっている松之丸がありました。 飫肥中学校の東には八幡城がありました。
飫肥城は大小13の曲輪(くるわ、平らな所)があり、各曲輪を空堀(からぼり)で区切ったものでした。



写真EX: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡の門(搦手門(からめてもん))を外側(北)から見たもの。 これは復元されたものです。 飫肥城の別名は舞鶴城です。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真EY: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡の門(搦手門(からめてもん))の西部分です。



写真EZ: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡の門(搦手門(からめてもん))の東部分です。



写真FA: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡の門(搦手門(からめてもん))の上部分です。



写真FB: 飫肥城の旧本丸跡の門の扉(とびら)です。



写真FC: 飫肥城の旧本丸跡の門から南を見たもの。 階段の上に大きな直方体の石があります。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真FD: 旧本丸跡。 樹齢100年以上の飫肥杉が見事です。



写真FE: 「郷土の名木」の看板(かんばん)です。
旧本丸樹林 樹林の面積 12000平方メートル、樹木の種類 クスノキ等、本数 5本、指定年月日 平成9年2月28日、指定番号 第5号、日南市。
と書いてあります。



写真FF: 「郷土の名木」の看板(かんばん)です。
旧本丸樹林 樹林の面積 12000平方メートル、樹木の種類 クスノキ等、本数 5本、指定年月日 平成9年2月28日、指定番号 第5号、日南市。
と書いてあります。



写真FG: 飫肥城の旧本丸跡の北側の様子(ようす)です。 谷になっています。



写真FH: 飫肥城の旧本丸跡の北西側の様子(ようす)です。 谷になっています。



写真FI: 旧本丸跡は飫肥杉がそびえています。



写真FJ: 旧本丸跡の北端付近です。



写真FK: 築山(つきやま)のような土の盛り上がりがあります。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真FL: 築山(つきやま)のような土の盛り上がりもあります。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真FM: 飫肥杉の根元です。



写真FN: 旧本丸跡の西端付近です。



写真FO: 飫肥城の旧本丸跡から西を見たもの。 木の間から崖(がけ)の下を流れる酒谷川が見えます。



写真FP: 飫肥城の旧本丸跡から南西を見たもの。 木の間から崖(がけ)の下を流れる酒谷川が見えます。



写真FQ: 飫肥城の旧本丸跡から南西を見たもの。 木の間から酒谷川が見えます。



写真FR: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡には割れた古い瓦(かわら)が残っていました。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。

「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真FS: 旧本丸跡にある古い木です。



写真FT: 旧本丸跡にある古い木。



写真FU: 旧本丸跡にある古い木です。



写真FV: ベンチもあります。



写真FW: 旧本丸跡。



写真FX: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡には割れた古い瓦(かわら)が残っていました。



写真FY: 日南市にある飫肥城の旧本丸跡には割れた古い瓦(かわら)が残っていました。



写真FZ: 旧本丸跡にあるクスノキです。
飫肥城の旧本丸跡は標高 約 50 mです。



写真GA: 旧本丸跡にある楠(クスノキ)。



写真GB: 旧本丸跡にあるクスノキです。



写真GC: 旧本丸跡の西端に柱の台に使われていたような四角の石がいくつもあります。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真GD: 飫肥城の旧本丸跡から南西を見たもの。 木の間から酒谷川が見えます。



写真GE: 飫肥城の旧本丸跡にある古い木です。



写真GF: 旧本丸跡の西端に柱の台に使われていたような四角の石がいくつもあります。



写真GG: 飫肥城の旧本丸跡。



写真GH: 旧本丸跡の南端の様子です。 谷になっています。



写真GI: 旧本丸跡の南端付近です。



写真GJ: 飫肥城の旧本丸跡の南端付近です。



写真GK: 根の上に別の細い根がまたいでいます。 飫肥杉です。



写真GL: 旧本丸跡の南東端の様子です。



写真GM: 旧本丸跡から見た本丸跡(飫肥小学校)です。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。




写真GN: 旧本丸跡の東端付近です。 ベンチもあります。



写真GO: 飫肥城の旧本丸跡。



写真GP: 東を見たもの。 奥に飫肥小学校が見えています。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真GQ: 大木に草が茂っていました。 旧本丸跡の東端付近です。



写真GR: 木の陰に飫肥小学校が見えます。



写真GS: ベンチもあります。



写真GT: 北を見たもの。



写真GU: 飫肥杉の先に旧本丸跡の門が見えます。



写真GV: 古い建物の礎石が残っていました。



写真GW: 旧本丸跡の門とベンチも見えます。



写真GX: 旧本丸跡とその門です。



写真GY: 日南市 飫肥にある飫肥城の旧本丸跡。 登ってくる階段付近です。



写真GZ: 旧本丸跡から階段を下って戻(もど)ります。



写真HA: 旧本丸跡の石垣と階段です。



写真HB: 旧本丸跡の説明板の所に戻ってきました。



写真HC: 飫肥城の本丸跡にある飫肥小学校です。
元禄6年(1693年)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1686年)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真HD: 奥に飫肥城の「松尾の丸」が見えます。 右手前はトイレ、左手前は公衆電話ボックスです。



写真HE: 飫肥城の公衆電話ボックス。



写真HF: 飫肥城のトイレです。



写真HG: 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城の「松尾の丸」とその階段、説明板です。
「飫肥城」は西、南、東を蛇行(だこう)した酒谷川(広渡川の支流)が外堀の役目を果たしています。 飫肥城は標高 51 m の山の上にあります。  約 8 km 南東には日向灘(太平洋)があり、油津港という良港があります。 飫肥城に近い方から、上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷がありました。 飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡 飫肥郷とあります。 南北朝時代(1336年〜1393年)の長谷場文書に水間栄証、忠政 親子が城を構えて抵抗した事が書かれているそうです。 康安2年(1362年)に反乱兵士が立て篭(こ)もり、土持頼宣が平定しました。
飫肥城は日南市 飫肥の北部の丘に、曲輪(くるわ、平らな所)をいくつか並べた平山城で、天守閣はありませんでした。 戦国時代初期(南北朝時代)に大分県の宇佐八幡宮のもと神官だった土持がはじめに築城しました。 土持の武士団は日向国に勢力を持っていました。 飫肥城は飫肥院とも呼ばれていました。 長禄2年(1458年、室町時代末期)に島津が鎌倉時代から日向国で栄えてきた伊東に対抗するために志布志城主で島津一族の新納忠続を飫肥城主にしました。 文明16年(1484年)、伊東祐国(第6代 佐土原城主)が飫肥城を攻めました。 そのとき伊東祐国が戦死しました。 伊東の侵攻を恐れた島津は領地の割譲と戦いの原因となった飫肥城主の交代(新しく豊州島津になった。)でしのぎました。 しかし、伊東の飫肥への攻撃は断続的に続きました。 後で飯野城主になった島津義弘は26歳のとき(永祿3年(1560年))に豊州島津の養子になりました。 島津義弘が飫肥城に居ると軍備が補強されました。 島津義弘は永祿3年(1560年)から永祿5年(1562年)までの約2年間飫肥城に居て守備につきました。 1567年に伊東義祐(祐国の孫)が飫肥城を占領し、その子 祐兵を飫肥城主にしました。 しかし伊東の米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)[米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]で島津が飫肥を含めて日向国を治(おさ)めました。 それで、飫肥城は上原長門守が城主になりました。 その後、豊臣秀吉に伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、1587年に飫肥城を秀吉から与えられました。 伊東祐兵は豊臣秀吉に姫路城で会って仕(つか)え、山崎の戦いや、豊臣秀吉の九州征討のときは道案内と先鋒(せんぽう、軍の先頭に立つ者)を務めました。 貞享元年(1686年)に第5代 伊東祐実のときに大地震が起こり飫肥城は破損しました。 城の修理の時に、現在も残っている石垣も建設されて、近世の城となりました。 明治時代初期(1871年)の廃藩置県まで伊東が続きました。 伊東は豊臣系の外様大名でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)にたちました。 1484年(伊東祐国)から1587年(伊東祐兵)までの103年間、伊東と島津が飫肥城をめぐって断続的に戦いました。 これは日本戦史ではまれな長期に渡る一つの城をめぐる争いでした。 飫肥城は「全国100名城」に選ばれています。 明治2年(1869年)に伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に転居し、明治6年(1873年)に飫肥城内のすべての建物は取り壊(こわ)されました。
 飫肥城主は新納忠続、島津忠簾、島津忠朝、島津忠広、島津忠親、伊東祐兵、上原長門守、伊東祐兵、伊東祐慶、伊東祐久、伊東祐由、伊東祐実、伊東祐永、伊東祐之、伊東祐隆、伊東祐福、伊東祐鐘、伊東祐民、伊東祐丕、伊東祐相、伊東祐帰などでした。
伊東祐兵までの伊東(都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)、佐土原城主(さどわらじょうしゅ)など。)は、伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、義賢、祐兵でした。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。 伊東祐持からが伊東の本家で、それまでは分家です。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真HH: 「松尾の丸」の説明板。
 飫肥城復元事業により、昭和54年(1979年)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。 建物は延床面積 約800平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋がある。 涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第(じゅらくだい)で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。 建物の設計、監修は豊後 岡城や京都二条城を参考に故 藤岡通夫 博士が行った。
 本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、財団法人 日本船舶振興会(現 日本財団)から多額の助成を受けた。
と書かれています。
松尾の丸の図面、写真、飫肥の絵地図もあります。



写真HI: 「松尾の丸」の説明板。
 飫肥城復元事業により、昭和54年(1979年)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。 建物は延床面積 約800平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋がある。 涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第(じゅらくだい)で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。 建物の設計、監修は豊後 岡城や京都二条城を参考に故 藤岡通夫 博士が行った。
 本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、財団法人 日本船舶振興会(現 日本財団)から多額の助成を受けた。
と書かれています。
松尾の丸の図面、写真、飫肥の絵地図もあります。



写真HJ: 「松尾の丸」の説明板。
 飫肥城復元事業により、昭和54年(1979年)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。 建物は延床面積 約800平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋がある。 涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第(じゅらくだい)で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。 建物の設計、監修は豊後 岡城や京都二条城を参考に故 藤岡通夫 博士が行った。
 本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、財団法人 日本船舶振興会(現 日本財団)から多額の助成を受けた。
と書かれています。
松尾の丸の図面、写真、飫肥の絵地図もあります。



写真HK: 松尾の丸の階段のそばから飫肥小学校の方を見た景色です。



写真HL: 「これから先 城内禁煙」の看板(かんばん)があります。



写真HM: 松尾の丸の階段、松尾の丸の説明板。



写真HN: 飫肥城にある松尾の丸の階段です。



写真HO: 飫肥城にある松尾の丸の階段。



写真HP: 塀(へい)と銃眼です。 「銃眼」は「狭間(はざま)」とも呼びます。
塀は復元されたものです。 塀(へい)の瓦(かわら)には九曜紋(くようもん、伊東の家紋の一つです。)が見えます。



写真HQ: 塀(へい)と銃眼。 「銃眼」は「狭間(はざま)」とも呼びます。 塀(へい)の瓦(かわら)には九曜紋(くようもん、伊東の家紋の一つです。)が見えます。



写真HR: 飫肥城の塀(へい)。
塀(へい)の銃眼から見下(お)ろした風景です。 広い範囲が見渡せます。
塀は復元されたものです。 「銃眼」は「狭間(はざま)」とも呼びます。
この部分の石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真HS: 塀(へい)の銃眼から見下(お)ろした風景です。 広い範囲が見渡せます。
塀は復元されたものです。 「銃眼」は「狭間(はざま)」とも呼びます。



写真HT: 丸型の銃眼から見た風景です。 「銃眼」は「狭間(はざま)」とも呼びます。



写真HU: 松尾の丸の階段の脇(わき)にアジサイの花が咲いていました。



写真HV: 宮崎県 日南市 飫肥にある飫肥城の「松尾の丸」の建物です。 飫肥城の別名は舞鶴城です。
日向伊東は鎌倉時代に日向国の地頭として、1335年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡(とのこおり)300町歩をもらい下向しました。 伊東は領地を広げていきましたが、1577年に島津との戦いで領地を失いました。 伊東祐兵が豊臣秀吉に付き従い九州征討で手柄があったので飫肥をもらって近世大名となりました。 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命令で、伊東祐兵のときから飫肥城は伊東の居城となりました。 明治初期まで約 280 年間、伊東は14代に渡って飫肥藩を治(おさ)めました。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣)につきましたが、内密に黒田如水を通じて東軍(家康)に味方をし、嫡男(ちゃくなん、後継ぎ(あとつぎ))伊東祐慶を飫肥に帰して宮崎城を攻撃し事なきを得ました。 元和3年(1617年)に第2代将軍 徳川秀忠から57000石の朱印状を受けました。 第3代伊東祐久は1636年に弟の祐豊に3000石を与えて旗本としました。 また、第4代伊東祐由は1657年に弟の祐春に3000石を与えて旗本にしました。 それで、以後は石高は51000石となりました。 薩摩藩(さつまはん)と同じように地頭の名称の職もありました。 第11代祐民が1801年に学問所を設立し、1830年にこれが藩校 振徳堂となりました。 江戸での伊東の菩提寺(ぼだいじ)は芝高輪の妙心寺派の佛日山 東禅寺です。
伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる出城を各地に造りました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真HW: 「外廻りも有料」と書いてある看板(かんばん)が庭にあります。 飫肥城の松尾の丸。



写真HX: 松尾の丸のそばの建物です。 ベンチもあります。



写真HY: 松尾の丸のそばの建物です。 ベンチもあります。



写真HZ: 日南市にある飫肥城の松尾の丸の上部です。 軒(のき)の瓦(かわら)には九曜紋(くようもん、伊東の家紋の一つです。)が見えます。



写真IA: 飫肥城の松尾の丸の入り口付近です。



写真IB: 飫肥城の松尾の丸の入り口付近。



写真IC: 松尾の丸から階段の方向を見たもの。
本丸跡にある飫肥小学校が見えています。



写真ID: 松尾の丸から階段の方向を見たもの。
本丸跡にある飫肥小学校が見えています。 アジサイの花も見えます。



写真IE: 松尾の丸から降りてきました。
この部分の石垣は「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」と「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の混合で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真IF: 飫肥城歴史資料館と塀(へい)、石垣です。



写真IG: 飫肥城歴史資料館の後ろ(西)の広場に向かいます。
ここは本丸西にある虎口(こぐち、門に桝形(ますがた)を造り、曲って出入りするようにした要所の出入り口。)です。



写真IH: 飫肥城歴史資料館の北西の様子(ようす)です。
塀は復元されたものです。
ここは本丸西にある虎口(こぐち、門に桝形(ますがた)を造り、曲って出入りするようにした要所の出入り口。)です。



写真II: 飫肥城歴史資料館の西の様子(ようす)。
奥に松尾の丸があります。
ここは本丸西にある虎口(こぐち、門に桝形(ますがた)を造り、曲って出入りするようにした要所の出入り口。)です。



写真IJ: 飫肥城歴史資料館の西の様子(ようす)です。
門の跡と思われます。



写真IK: 大きな直方体の石などがあります。 門の跡(あと)と思われます。



写真IL: 大きな直方体の石など。 門の跡と思われます。



写真IM: 大きな直方体の石などがあります。 門の跡と思われます。



写真IN: 飫肥城歴史資料館を西から見たもの。



写真IO: 飫肥城歴史資料館の西にも階段があります。 飫肥杉が育っています。



写真IP: 飫肥杉の林があります。



写真IQ: 飫肥杉の林。



写真IR: 階段を降りて行きます。



写真IS: 飫肥城歴史資料館の塀(へい)と石垣です。



写真IT: 飫肥城歴史資料館の南の広場です。



写真IU: ここにも飫肥杉の林があります。



写真IV: 右の塀(へい)のところを右に行くと大手門に行きます。



写真IW: 飫肥城にある鐘(かね)と鐘つき堂です。 飫肥城の別名は舞鶴城です。
二階櫓(にかいやぐら)跡は今は鐘つき堂になっています。



写真IX: はじめの大手門の所に戻(もど)ってきました。



写真IY: 内側から見た飫肥城の「大手門」です。
石垣は江戸時代のものですが、大手門、塀(へい)は復元されたものです。
飫肥城の別名は舞鶴城です。



写真IZ: 大手門の下(東部分)にある大きな石です。
大手門の復元工事中に、礎石に刻(きざ)まれた正徳3年(1713年)銘の碑文(ひぶん)が発見され、大手門の内側に保存されている。



写真JA: 大手門の外側にある松明(たいまつ)を燃(も)やす鉄製の物です。



写真JB: 飫肥城(おびじょう) 大手門のそばにある堀(ほり)の橋のところに戻ってきました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)