延岡城跡 (県城跡、亀井城)(桜の花)、延岡市の展望 (延岡城、延岡城址、県城(あがたじょう)、県城址、城山公園、城山の鐘、鐘つき堂、千人殺しの石垣、内藤家墓所、内藤政挙の像、日吉小次郎の像、後藤勇吉の碑、若山牧水の歌碑、愛宕山(あたごやま)、今山(いまやま)、五ヶ瀬川、亀井橋)  (宮崎県 延岡市)







<標高、位置>  延岡城跡(のべおかじょうあと)は
標高 53.5 m
 北緯32度34分50秒  東経131度39分47秒

<標高、位置>  五ヶ瀬川の亀井橋は
標高 約5 m
 北緯32度35分02秒  東経131度39分52秒

<標高、位置>  愛宕山(あたごやま)は
標高 251.2 m
 北緯32度33分31秒  東経131度39分52秒


 「延岡城」は宮崎県 延岡市 東本小路 178にあります。 県城(あがたじょう)とも呼(よ)びます。
「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板から、
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。

 「内藤家墓碑及び供養塔」の説明板から、
平成12年4月28日 延岡市 文化財指定
 ここは、旧藩主 内藤家の墓所です。 以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治42年9月にこの地に移されました。
 内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々 徳川家に仕(つか)えた三河以来の譜代(ふだい)で、元和8(1622)年、4代 政長が磐城平藩(福島県いわき市)7万石の領主となり、延享4(1747)年、9代 政樹のときに日向国 延岡藩に転封となりました。
 墓所内には藩主の墓碑5基、一族の墓碑19基、供養塔21基があります。 藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった4代 政長、6代 義泰、8代 義しげ と延岡藩の11代 政脩、12代 政つぐのもので、14代 政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。
 墓碑の形式は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)7基、五輪塔5基、笠塔婆11基、角碑1基となっています。 このうち宝篋印塔は神奈川県 鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和37年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。

 「城山ヤブツバキ群について」の説明板から、
 ここ城山公園には数多くのヤブツバキが育っています。 花は毎年12月から3月にかけて咲きます。
 ヤブツバキといえば、紅色の色が普通ですが、ここでは白色から桃色、濃紅色までの色の変化があるだけでなく、白地に紅の斑(ふ)入り、絞(しぼ)りあるいは覆輪(ふくりん)などの複色の花もたくさん見られます。 花の大きさも形もいろいろで又、1本の樹に枝によって違う色の花をつける咲き分けもあり、なおかつ園芸価値の高い素晴らしい花もあります。
 どの樹もそれぞれ異なった特徴をもち、同じものが見られないことから、この「城山ヤブツバキ群」は自生であろうと考えられ、自生でこんなに多彩な異変を見るにつけ今後も新しい変異の発現が期待されます。
 この「城山ヤブツバキ群」のように、狭い範囲に集中して多彩な変異が発現している例は、他に島根県 松江城の椿谷と千葉県 大原町 伊能滝があるくらいで、日本三大ヤブツバキ群の自生地の1つとして「城山ヤブツバキ群」は、全国に誇り得る貴重な存在であります。

 「後藤勇吉の石碑(せきひ)」が延岡城にあります。
「後藤勇吉」の説明板から、
 後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市 南町に生まれ、延岡中学校を卒業後 上京、飛行士として修練を重ねた。
 大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年 空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行を行った。 この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。 以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。
 昭和2年 太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。
翌3年2月29日午前8時 大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県・・・(岳)上空で墜落、死亡した。 33歳の壮年であった。

 「日吉小次郎 翁(おきな)肖像」が延岡城にあります。
日吉小次郎は1881年宮崎県に生まれました。 明治から昭和の農事改良家で、水田、耕地の整理や水稲品種 九州8号を導入して、宮崎県で初めて晩稲(遅く実る稲)晩化栽培に成功しました。 1949年に死去。

 「若山牧水歌碑」が延岡城にあります。
「若山牧水歌碑」の説明板から、
 若山牧水は、明治18年8月24日、宮崎県 東郷町 坪谷に生まれました。 村の尋常小学校を終えると、10里ほど離れた延岡市の高等小学校に入り、新設された県立 延岡中学校を卒業して、早稲田大学 英文科に進みました。
 延岡での8年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、将来天下に名を成す歌人としての素養を培(つちか)われました。
 この歌は、昭和2年7月24日、台雲寺で詠(よ)んだもので、昭和10年春、全国3番目の牧水歌碑として建てられました。
 毎年、春の日に歌碑まつりが行われます。


写真A: 宮崎県 延岡市(のべおかし)を流れる五ヶ瀬川です。 亀井橋の南たもとです。 延岡城、延岡市役所は手前側にあります。 先の方向にはJR延岡駅、今山大師寺などがあります。
左が上流側です。



写真B: 五ヶ瀬川の北岸です。 「一級河川 ごかせ川」と書いてある看板(かんばん)が堤防(ていぼう)にあります。



写真C: 五ヶ瀬川(ごかせがわ)の北に今山大師寺がある今山(いまやま)も見えています(見えている山の右端の方)。 橋は亀井橋。



写真D: 亀井橋から南を見た景色です。 右手前の山が城山(標高 53.5 m)です。 延岡城跡(県城跡(あがたじょうあと))はこの城山にあります。 有名な城山の鐘(かね)があり、1日に数度、鐘の音が聞こえます。 城山の左遠くの山は愛宕山(あたごやま、標高 251.2 m)です。



写真E: 五ヶ瀬川の右岸(下流を見て右)に延岡城がある城山があります。 その左下に九州電力の建物が見えます。 延岡城に行くには九州電力のビルの十字路を右(西)に曲がります。



写真F: 亀井橋から五ヶ瀬川の下流方向を見たもの。



写真G: 南に九州電力のビルが見えます。



写真H: 亀井橋から北に今山大師寺の「日本一の高さの今山大師像」が見えます。 中央奥の山の上に見えています。



写真I: 亀井橋の両側に歩道があります。



写真J: 亀井橋から見た城山。 左寄りの山頂に城山の鐘つき堂のそばにあるポール(柱)が見えています。



写真K: 「内藤記念館→、カルチャープラザのべおか→、延岡城跡(城山公園)→」の標識が亀井橋の南にあります。



写真L: 左の建物は延岡市役所です。 この十字路を右に曲がって延岡城跡がある城山公園に行きます。



写真M: 「延岡市役所」と書いた標識が十字路にあります。



写真N: 「九州電力」と書いた看板(かんばん)があります。



写真O: ここを西に進みます。 右は九州電力のビルです。



写真P: 九州電力から南を見たもの。



写真Q: 左の建物は延岡市教育委員会の建物です。 上は桜の花。



写真R: 奥は城山です。



写真S: 「↑カルチャープラザのべおか、←延岡城跡(城山公園)」の標識があります。



写真T: もうすぐ城山公園の駐車場が左にあります。



写真U: 「↑カルチャープラザのべおか、←城山公園」の標識があります。



写真V: 延岡市にある城山公園の駐車場です。 奥は城山。



写真W: 城山公園の駐車場です。 奥は城山。



写真X: 延岡市にある城山公園の駐車場。 奥は城山。



写真Y: 駐車場の南に石垣(いしがき)が見えています。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真Z: 駐車場の南に石垣(いしがき)が見えています。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真AA: 「城山公園第2駐車場の案内と注意事項」の看板(かんばん)があります。



写真AB: この坂道を登って行くと延岡城に行きます。



写真AC: 「市指定史跡 延岡城 内堀跡 平成10年3月30日指定 平成23年3月25日建立」と書いてあります。



写真AD: 「市指定史跡 延岡城 内堀跡 平成10年3月30日指定 平成23年3月25日建立」と書いてあります。



写真AE: 石垣(いしがき)と石畳(いしだたみ)があります。



写真AF: 緩(ゆる)い坂道を登って行きます。



写真AG: 見えている塀(へい)は内藤家の墓地です。



写真AH: 「征武館道場」が見えます。



写真AI: 「駐車禁止」の看板(かんばん)があります。



写真AJ: 延岡城 (県城(あがたじょう))の城門です。 右は内藤家墓地。



写真AK: 内藤家墓地。



写真AL: 左は内藤家墓地、右は征武館道場。



写真AM: 「内藤家墓碑及び供養塔」の説明板。
平成12年4月28日 延岡市 文化財指定
 ここは、旧藩主 内藤家の墓所です。 以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治42年9月にこの地に移されました。
 内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々 徳川家に仕(つか)えた三河以来の譜代(ふだい)で、元和8(1622)年、4代 政長が磐城平藩(福島県いわき市)7万石の領主となり、延享4(1747)年、9代 政樹のときに日向国 延岡藩に転封となりました。
 墓所内には藩主の墓碑5基、一族の墓碑19基、供養塔21基があります。 藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった4代 政長、6代 義泰、8代 義しげ と延岡藩の11代 政脩、12代 政つぐのもので、14代 政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。
 墓碑の形式は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)7基、五輪塔5基、笠塔婆11基、角碑1基となっています。 このうち宝篋印塔は神奈川県 鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和37年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。
平成12年 延岡市教育委員会
と書かれています。



写真AN: 「内藤家墓碑及び供養塔」の説明板。
平成12年4月28日 延岡市 文化財指定
 ここは、旧藩主 内藤家の墓所です。 以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治42年9月にこの地に移されました。
 内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々 徳川家に仕(つか)えた三河以来の譜代(ふだい)で、元和8(1622)年、4代 政長が磐城平藩(福島県いわき市)7万石の領主となり、延享4(1747)年、9代 政樹のときに日向国 延岡藩に転封となりました。
 墓所内には藩主の墓碑5基、一族の墓碑19基、供養塔21基があります。 藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった4代 政長、6代 義泰、8代 義しげ と延岡藩の11代 政脩、12代 政つぐのもので、14代 政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。
 墓碑の形式は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)7基、五輪塔5基、笠塔婆11基、角碑1基となっています。 このうち宝篋印塔は神奈川県 鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和37年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。
平成12年 延岡市教育委員会
と書かれています。



写真AO: 「内藤家墓碑及び供養塔」の説明板。
平成12年4月28日 延岡市 文化財指定
 ここは、旧藩主 内藤家の墓所です。 以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治42年9月にこの地に移されました。
 内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々 徳川家に仕(つか)えた三河以来の譜代(ふだい)で、元和8(1622)年、4代 政長が磐城平藩(福島県いわき市)7万石の領主となり、延享4(1747)年、9代 政樹のときに日向国 延岡藩に転封となりました。
 墓所内には藩主の墓碑5基、一族の墓碑19基、供養塔21基があります。 藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった4代 政長、6代 義泰、8代 義しげ と延岡藩の11代 政脩、12代 政つぐのもので、14代 政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。
 墓碑の形式は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)7基、五輪塔5基、笠塔婆11基、角碑1基となっています。 このうち宝篋印塔は神奈川県 鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和37年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。
平成12年 延岡市教育委員会
と書かれています。



写真AP: 内藤家墓所。



写真AQ: 延岡城の城門と石垣(いしがき)。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真AR: 延岡城の城門。



写真AS: 左から城門、二ノ丸の石垣、内藤家墓所です。



写真AT: 左から城門、二ノ丸の石垣、内藤家墓所。



写真AU: 左から城門、二ノ丸の石垣、内藤家墓所です。



写真AV: 宮崎県 延岡市にある延岡城 城門から見た桜の花、階段、石垣です。 階段の上の説明板も見えます。 石垣(いしがき)の上には本丸があります。



写真AW: 延岡市にある延岡城 城門から見た桜の花、階段、石垣。



写真AX: 延岡城 城門から見た桜の花、階段、石垣、階段の上の説明板です。



写真AY: 延岡城 城門近くの桜の花、階段、石垣。 石垣(いしがき)の上には本丸があります。



写真AZ: 延岡城 城門近くの桜の花、階段、石垣、階段の上の説明板。



写真BA: 「千人殺し(せんにんごろし)」の説明板。
 ここの石垣は千人殺しと呼ばれ、敵が攻め入った時に石垣の一部をはずすと崩(くず)れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられています。
と書いてあります。



写真BB: 「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板。
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
有馬家 中延岡城下屋敷付絵図 (明治大学博物館所蔵)
平成22年10月
延岡市教育委員会
と書かれています。
後ろの石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真BC: 「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板。
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
有馬家 中延岡城下屋敷付絵図 (明治大学博物館所蔵)
平成22年10月
延岡市教育委員会
と書かれています。



写真BD: 「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板。
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
有馬家 中延岡城下屋敷付絵図 (明治大学博物館所蔵)
平成22年10月
延岡市教育委員会
と書かれています。



写真BE: 「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板。
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
有馬家 中延岡城下屋敷付絵図 (明治大学博物館所蔵)
平成22年10月
延岡市教育委員会
と書かれています。



写真BF: 「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板。
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
有馬家 中延岡城下屋敷付絵図 (明治大学博物館所蔵)
平成22年10月
延岡市教育委員会
と書かれています。



写真BG: 「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板。
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
有馬家 中延岡城下屋敷付絵図 (明治大学博物館所蔵)
平成22年10月
延岡市教育委員会
と書かれています。



写真BH: 「市指定史跡 延岡城跡 別名 県城(あがたじょう)・亀井城 指定年月日 平成10年3月30日」の説明板。
 延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6〜8(1601〜1603)年にかけて築かれました。 元種は、松尾城(市内 松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。 当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、場内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓(やぐら)などが整備されました。 なかでも、二ノ丸にそびえる高さ22 m・総延長 約70 mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
 慶長18(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県 南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。 康純の時、承応元年〜明暦元年(1652〜1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代 城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。 しかし、永純の時の天和2(1682・天和3年説もあり)年、火災のため三階櫓などは焼失し、以後 三階櫓は再建されませんでした。
 元禄4(1691)年、永純は無城地の越後国 糸魚川(新潟県 糸魚川市)に転封となり、さらに越前国 丸岡(福井県 坂井市)に移封されました。 その後、日向国 初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県 壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。 明敬は、正徳2(1712)年、三河国 刈谷(愛知県 刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国 吉田(愛知県 豊橋市)から8万石で入封。 延享4(1747)年には、陸奥国 磐城平(福島県 いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
有馬家 中延岡城下屋敷付絵図 (明治大学博物館所蔵)
平成22年10月
延岡市教育委員会
と書かれています。



写真BI: 奥は二の丸跡です。 城山公園管理事務所とトイレ、水飲み場も見えます。



写真BJ: 延岡城(県城) 城門を内側から見たもの。 地面に桜の花びらが散っています。



写真BK: 城門のそばの桜の花。



写真BL: 城門のそばの桜。



写真BM: この道を先に行っても城山の鐘の所に行きます。



写真BN: 桜の花びらが一面に散っています。



写真BO: 二ノ丸跡から城門の方を見たもの。



写真BP: 二の丸跡です。 城山公園管理事務所も見えます。



写真BQ: 二の丸跡です。 城山公園管理事務所とトイレ、水飲み場も見えます。



写真BR: 左に本丸に登る階段があります。



写真BS: 桜の花と石垣、階段。



写真BT: 旧藩主 内藤家の墓所です。 以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治42年9月にこの地に移されました。
 内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々 徳川家に仕(つか)えた三河以来の譜代(ふだい)で、元和8(1622)年、4代 政長が磐城平藩(福島県いわき市)7万石の領主となり、延享4(1747)年、9代 政樹のときに日向国 延岡藩に転封となりました。
 墓所内には藩主の墓碑5基、一族の墓碑19基、供養塔21基があります。 藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった4代 政長、6代 義泰、8代 義しげ と延岡藩の11代 政脩、12代 政つぐのもので、14代 政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。
 墓碑の形式は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)7基、五輪塔5基、笠塔婆11基、角碑1基となっています。 このうち宝篋印塔は神奈川県 鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和37年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。
右に石垣が見えます。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真BU: 旧藩主 内藤家の墓所です。 以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治42年9月にこの地に移されました。
 内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々 徳川家に仕(つか)えた三河以来の譜代(ふだい)で、元和8(1622)年、4代 政長が磐城平藩(福島県いわき市)7万石の領主となり、延享4(1747)年、9代 政樹のときに日向国 延岡藩に転封となりました。
 墓所内には藩主の墓碑5基、一族の墓碑19基、供養塔21基があります。 藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった4代 政長、6代 義泰、8代 義しげ と延岡藩の11代 政脩、12代 政つぐのもので、14代 政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。
 墓碑の形式は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)7基、五輪塔5基、笠塔婆11基、角碑1基となっています。 このうち宝篋印塔は神奈川県 鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和37年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。



写真BV: 延岡城の二ノ丸から北を見た景色。



写真BW: 延岡城の二の丸から北西を見た景色。



写真BX: 延岡城の二ノ丸から西を見た景色。 左端は城山公園管理事務所。



写真BY: 二ノ丸から見た桜の花と石垣、本丸に登る階段。 石垣(いしがき)の上には本丸があります。
この千人殺しの石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真BZ: 二の丸跡にある城山公園管理事務所。



写真CA: 「城山公園管理事務所」と書いてあります。



写真CB: 二ノ丸にある水飲み場とトイレ。 トイレの左に飲料水の自動販売機があります。



写真CC: トイレと左に飲料水の自動販売機があります。



写真CD: 延岡城 二の丸からの延岡市の展望。 中央に岡富中学校の建物、左に市立図書館、社会教育センターが見えます。 北西を見たもの。
山は東(右)から、長尾山(標高 382.2 m)、可愛岳(727.7 m)、岡富山(198 m)、高平山(406.6 m)、行縢山(むかばきやま、829.9 m)、霧子山(461 m)、黒岩山(1070.4 m)、茶臼山(714 m)も見えているかもしれません。



写真CE: 延岡城 二の丸からの延岡市の眺望(ちょうぼう)。右から岡富中学校の建物、左に市立図書館、社会教育センター、内藤記念館が見えます。
山は東(右)から、長尾山(標高 382.2 m)、可愛岳(727.7 m)、岡富山(198 m)、高平山(406.6 m)、行縢山(むかばきやま、829.9 m)、霧子山(461 m)、黒岩山(1070.4 m)、茶臼山(714 m)も見えているかもしれません。



写真CF: 延岡城 二の丸からの景色。 右から市立図書館、社会教育センター、内藤記念館、市民体育館が見えます。
山は東(右)から、長尾山(標高 382.2 m)、可愛岳(727.7 m)、岡富山(198 m)、高平山(406.6 m)、行縢山(むかばきやま、829.9 m)、霧子山(461 m)、黒岩山(1070.4 m)、茶臼山(714 m)も見えているかもしれません。



写真CG: 延岡城 二の丸から。 右から内藤記念館、市民体育館が見えます。



写真CH: 二ノ丸跡に藤棚(ふじだな)もあります。



写真CI: これが延岡城の二の丸にある古井戸です。



写真CJ: 「井戸跡、城内に掘られた数カ所の井戸のうちの一つである。 井戸水は城を築く条件として重要なもので籠城(ろうじょう、城に立てこもること)時の備えとしても大切なものである。 延岡史談会」と書いてあります。



写真CK: 「井戸跡、城内に掘られた数カ所の井戸のうちの一つである。 井戸水は城を築く条件として重要なもので籠城(ろうじょう、城に立てこもること)時の備えとしても大切なものである。 延岡史談会」と書いてあります。



写真CL: 延岡城(県城) 二の丸にある井戸です。



写真CM: 延岡城 二の丸にある井戸です。 底の水が光って見えています。



写真CN: 延岡城(県城)の二ノ丸。



写真CO: 延岡城(県城)の二の丸。



写真CP: 延岡城(県城)の二の丸。 奥に階段が見えます。



写真CQ: 延岡城(県城)の二の丸。 桜の花も見えます。



写真CR: 延岡城(県城)の二の丸。 本丸に登る階段が見えます。 石垣(いしがき)の上には本丸があります。



写真CS: 延岡城(県城)の二ノ丸。



写真CT: 延岡城(県城)の二の丸。



写真CU: 二ノ丸の井戸です。



写真CV: 延岡城(県城)の二ノ丸。



写真CW: 延岡城(県城)の二の丸。 左奥に階段が見えます。



写真CX: 延岡城(県城)の二の丸。



写真CY: 延岡城(県城)の二の丸。 本丸に登る階段。 石垣(いしがき)の上には本丸があります。



写真CZ: 延岡城(県城)の二の丸。 石垣(いしがき)の上には本丸があります。
この千人殺しの石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DA: 「二ノ丸、注 明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が二ノ丸となっている。 平成14年3月31日」と書いてある標識棒があります。
この石垣は「切り込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DB: 「二ノ丸、注 明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が二ノ丸となっている。 平成14年3月31日」と書いてある標識棒があります。



写真DC: 二ノ丸から本丸に登る階段。 左は石垣。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DD: ここに曲輪(くるわ)があります。



写真DE: 石碑(せきひ)が3つ見えます。



写真DF: 延岡城にある石碑。



写真DG: 左は「日吉小次郎 翁(おきな)肖像」です。
日吉小次郎は1881年宮崎県に生まれました。 明治から昭和の農事改良家で、水田、耕地の整理や水稲品種 九州8号を導入して、宮崎県で初めて晩稲(遅く実る稲)晩化栽培に成功しました。 1949年に死去。



写真DH: 「日吉小次郎 翁(おきな)肖像」です。
日吉小次郎は1881年宮崎県に生まれました。 明治から昭和の農事改良家で、水田、耕地の整理や水稲品種 九州8号を導入して、宮崎県で初めて晩稲(遅く実る稲)晩化栽培に成功しました。 1949年に死去。



写真DI: 桜の花とつつじの花が見えます。



写真DJ: 延岡城の見事な桜の花です。



写真DK: 延岡城の城内。



写真DL: 延岡城の石垣、石碑、桜の花、左はクスノキの若葉です。
石垣の上の石碑は、延岡城の本丸跡にある「明治三十七八年戦役戦病死者招魂碑」です。 日露戦争の慰霊碑。 「表文は海軍大将 東郷平八郎 閣下之揮毫(きごう) 明治39年2月建立」と彫(ほ)られています。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DM: この階段を登って左に行くと本丸があります。



写真DN: 延岡城の「二階門櫓(にかいもんやぐら)跡地」です。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DO: 「二階門櫓(にかいもんやぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家絵図(元禄時代)によると、この位置に二階建の門櫓(もんやぐら)があり、大扉(とびら)を開いて本丸へ入城した。 昭和59年3月20日建立」と書いてある標識棒があります。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DP: 「二階門櫓(にかいもんやぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家絵図(元禄時代)によると、この位置に二階建の門櫓(もんやぐら)があり、大扉(とびら)を開いて本丸へ入城した。 昭和59年3月20日建立」と書いてある標識棒があります。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DQ: 「二階門櫓(にかいもんやぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家絵図(元禄時代)によると、この位置に二階建の門櫓(もんやぐら)があり、大扉(とびら)を開いて本丸へ入城した。 昭和59年3月20日建立」と書いてある標識棒があります。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DR: この階段の上は本丸です。



写真DS: 延岡城の石垣、石碑、桜の花です。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DT: 延岡城の石垣、石碑、桜の花。



写真DU: 延岡城の本丸跡にある「明治三十七八年戦役戦病死者招魂碑」です。 日露戦争の慰霊碑。 「表文は海軍大将 東郷平八郎 閣下之揮毫(きごう) 明治39年2月建立」と彫(ほ)られています。



写真DV: 延岡城の本丸跡にある「明治三十七八年戦役戦病死者招魂碑」です。 日露戦争の慰霊碑。 「表文は海軍大将 東郷平八郎 閣下之揮毫(きごう) 明治39年2月建立」と彫(ほ)られています。



写真DW: 「表文は海軍大将 東郷平八郎 閣下之揮毫(きごう) 明治39年2月建立」と彫(ほ)られています。



写真DX: 延岡城の本丸跡。 木の裏に見える高い石碑は「殉国慰霊塔(じゅんこくいれいとう)」です。



写真DY: 登って来た階段を振り返ったもの。 突き当たりは二階門櫓(にかいもんやぐら)跡地。



写真DZ: 延岡城の本丸跡の桜の花です。 中央奥の高い木は、葉の長い品種の松の木です。



写真EA: 葉の長い品種の松の木です。 幽霊松とも呼ばれます。



写真EB: 本丸跡にある「殉国慰霊塔(じゅんこくいれいとう)」です。



写真EC: 「殉国慰霊塔(じゅんこくいれいとう)」の下部です。 石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真ED: 東屋(あずまや)が北西の角にあります。



写真EE: 左下に城門の屋根が見えます。 桜の花も見えます。 本丸跡から見たもの。



写真EF: 延岡城の本丸からの北方向の眺望(ちょうぼう)。 左寄りに岡富中学校が見えます。 手前は城門の屋根です。
山は東(右)から、長尾山(標高 382.2 m)、可愛岳(727.7 m)、岡富山(198 m)、高平山(406.6 m)、行縢山(むかばきやま、829.9 m)、霧子山(461 m)、黒岩山(1070.4 m)、茶臼山(714 m)も見えているかもしれません。



写真EG: 延岡城 本丸からの延岡市の展望。 右から岡富中学校の建物、左に市立図書館、社会教育センター、内藤記念館が見えます。
山は東(右)から、長尾山(標高 382.2 m)、可愛岳(727.7 m)、岡富山(198 m)、高平山(406.6 m)、行縢山(むかばきやま、829.9 m)、霧子山(461 m)、黒岩山(1070.4 m)、茶臼山(714 m)も見えているかもしれません。



写真EH: 延岡城 本丸からの眺望(ちょうぼう)。 右から市立図書館、社会教育センター、内藤記念館、市民体育館が見えます。
山は東(右)から、長尾山(標高 382.2 m)、可愛岳(727.7 m)、岡富山(198 m)、高平山(406.6 m)、行縢山(むかばきやま、829.9 m)、霧子山(461 m)、黒岩山(1070.4 m)、茶臼山(714 m)も見えているかもしれません。



写真EI: 左奥に見えるのは「明治三十七八年戦役戦病死者招魂碑」です。



写真EJ: 本丸跡にある東屋と桜の木。



写真EK: 本丸跡にある東屋(あずまや)。



写真EL: 本丸跡。



写真EM: 本丸から見える城内の木です。



写真EN: 延岡城 本丸からの延岡市の展望。 五ヶ瀬川も見えています。 左下は岡富中学校。 北を見たもの。
山は東(右)から、長尾山(標高 382.2 m)、可愛岳(727.7 m)、岡富山(198 m)、高平山(406.6 m)、行縢山(むかばきやま、829.9 m)、霧子山(461 m)、黒岩山(1070.4 m)、茶臼山(714 m)も見えているかもしれません。



写真EO: 延岡城 本丸跡の満開の桜。 地面に花びらが多く散っています。



写真EP: 延岡城 本丸跡にある「内藤政挙 公」の像です。



写真EQ: 「本丸跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が本丸となっている。 昭和59年3月20日建立」と書いてある標識棒があります。



写真ER: 「本丸跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が本丸となっている。 昭和59年3月20日建立」と書いてある標識棒。



写真ES: 延岡城 本丸跡にある「内藤政挙 公」の像。



写真ET: 延岡城 本丸跡にある「内藤政挙 公」の像。 「内藤政挙 公」と書いてあります。



写真EU: 延岡城 本丸跡にある「内藤政挙 公」の像です。 「内藤政挙 公」と書いてあります。



写真EV: 「内藤政挙 公」と書いてあります。



写真EW: 「従二位子爵 内藤政挙 公」の石碑(せきひ)。



写真EX: 「従二位子爵 内藤政挙 公」の石碑(せきひ)です。



写真EY: 延岡城 本丸の見事な桜の花です。 地面にも花びらが多く散っています。



写真EZ: 桜の花です。



写真FA: 本丸跡に石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真FB: 本丸跡からの道です。



写真FC: 建物はトイレです。



写真FD: トイレです。



写真FE: 右の坂道を登ると城山の鐘(かね)があるところに行きます。 左の道を下ると若山牧水歌碑を通って城門に出ます。



写真FF: 延岡城 本丸からの延岡市の展望。 五ヶ瀬川の南に愛宕山(あたごやま、標高 251.2 m)が見えます。 山の上にテレビアンテナなど数本のアンテナが見えます。 五ヶ瀬川も見えています。 城山は二股(ふたまた)に分かれた五ヶ瀬川の中の陸地にあります。 南を見たもの。



写真FG: 延岡城 本丸からの延岡市の景色。 南に愛宕山(あたごやま、標高 251.2 m)が見えます。 山の上にテレビアンテナなど数本のアンテナ、送電線鉄塔が見えます。



写真FH: 五ヶ瀬川と橋も見えています。 城山は二股(ふたまた)に分かれた五ヶ瀬川の中の陸地にあります。 本丸跡からの景色。



写真FI: 本丸跡からこの坂道を登ります。
天守台跡地に行きます。



写真FJ: 天守台跡地に行きます。



写真FK: 天守台跡地に行きます。



写真FL: 「延岡城 天守台 虎口(こぐち)跡 説明板」です。



写真FM: 天守台跡に登ります。



写真FN: 延岡城の天守台跡です。



写真FO: 「天守台跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が天守台となり太鼓(たいこ)櫓(やぐら)があった。 一説には五階天守閣があったとも書かれている。 いずれにしても天和3年(1683年)に城内の建物は焼失している。 昭和59年3月20日建立」と書いてあります。



写真FP: 「天守台跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が天守台となり太鼓(たいこ)櫓(やぐら)があった。 一説には五階天守閣があったとも書かれている。 いずれにしても天和3年(1683年)に城内の建物は焼失している。 昭和59年3月20日建立」と書いてあります。



写真FQ: 「天守台跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が天守台となり太鼓(たいこ)櫓(やぐら)があった。 一説には五階天守閣があったとも書かれている。 いずれにしても天和3年(1683年)に城内の建物は焼失している。 昭和59年3月20日建立」と書いてあります。



写真FR: 中央奥の建物が「城山の鐘つき堂」です。 桜の花も満開でした。 延岡城の天守台跡にあります。



写真FS: 延岡城の天守台にある建物です。 鐘を突く方が住んでいらっしゃるようです。



写真FT: 延岡城の天守台跡。 中央の所から登って来ました。



写真FU: 「がんばろう!! 元気のべおか」と書いてある幟(のぼり)が天守台跡地にあります。



写真FV: テーブルとベンチもいくつかあります。 天守台 跡地。



写真FW: 黄色のヤマブキの花があります。 天守台跡。



写真FX: 「行幸記念碑」が天守台跡にあります。



写真FY: 「行幸記念碑 昭和10年11月15日 侍従長」と彫(ほ)ってあります。 天皇陛下がここに来られたときの記念碑です。



写真FZ: 「行幸記念碑、昭和11年11月15日 延岡市長」と彫(ほ)ってあります。 天皇陛下がここに来られたときの記念碑です。



写真GA: 「行幸記念碑 昭和10年11月15日 侍従長」と彫(ほ)ってあります。 天皇陛下がここに来られたときの記念碑。



写真GB: 「行幸記念碑 昭和10年11月15日 侍従長」と彫(ほ)ってあります。 天皇陛下がここに来られたときの記念碑。



写真GC: 行幸記念碑の方から見たもの。



写真GD: 宮崎県 延岡市の「城山の鐘(かね)」です。 延岡城 天守台跡地にあります。 右は桜の花です。



写真GE: 延岡市の「城山の鐘(かね)」です。 延岡城 天守台跡地にあります。



写真GF: 宮崎県 延岡市の「城山の鐘(かね)」です。 鐘を突く橦木(しゅもく)も見えます。 延岡城 天守台跡地にあります。



写真GG: 「お願い! 延岡市都市計画課」の看板(かんばん)があります。



写真GH: 鐘つき時刻の看板です。 午前中に4回、午後に2回鐘(かね)がつかれます。



写真GI: 城山の鐘つき堂です。



写真GJ: 城山の鐘と鐘つき堂。



写真GK: 城山の鐘の説明板。 「昭和38年2月11日 延岡城山の鐘をつくる会」と書いてあります。



写真GL: 城山の鐘の説明板。 「昭和38年2月11日 延岡城山の鐘をつくる会」と書いてあります。



写真GM: 城山の鐘の説明板。 「昭和38年2月11日 延岡城山の鐘をつくる会」と書いてあります。



写真GN: そばにポール(旗ざお)があります。



写真GO: 旗ざおの下部です。 「天皇御巡幸一周年記念」と書いてあります。 昭和25年6月6日。



写真GP: 旗ざおの下部です。 「天皇御巡幸一周年記念」と書いてあります。 昭和25年6月6日。



写真GQ: 「天皇御巡幸一周年記念」と書いてあります。 旗ざおの下部です。
昭和25年6月6日。



写真GR: 延岡城 天守台からの延岡市の展望。 城山の鐘つき堂近くから東を見た景色。 五ヶ瀬川、NTT延岡支店のアンテナ、安賀多橋(あがたはし)、日向灘(太平洋)が見えます。



写真GS: 延岡城 天守台からの延岡市の景色。 城山の鐘つき堂近くから南東を見た景色。 五ヶ瀬川、旭化成の煙突(えんとつ)、安賀多橋(あがたはし)、日向灘(太平洋)が見えます。



写真GT: 延岡城 天守台からの延岡市の眺望(ちょうぼう)。 城山の鐘つき堂近くから東を見た景色。 五ヶ瀬川、NTT延岡支店のアンテナ、須崎橋、JRの鉄橋、国道10号線の延岡大橋、日向灘(太平洋)が見えます。



写真GU: 延岡城 天守台からの延岡市の展望。 城山の鐘つき堂近くから東を見た景色。 五ヶ瀬川、須崎橋、JRの鉄橋、国道10号線の延岡大橋、安賀多橋(あがたはし)、日向灘(太平洋)が見えます。



写真GV: 延岡城 天守台からの延岡市の景色。城山の鐘つき堂近くから南東を見た景色。 五ヶ瀬川、安賀多橋(あがたはし)、須崎橋、日向灘(太平洋)が見えます。 ラジオ放送局のアンテナも中央奥に見えます。



写真GW: 延岡城 天守台からの延岡市の展望。 城山の鐘つき堂近くから南東を見た景色。 旭化成のエントツ、五ヶ瀬川、安賀多橋(あがたはし))が見えます。



写真GX: 延岡城 天守台からの延岡市の眺望(ちょうぼう)。 城山の鐘つき堂近くから南東を見た景色。 旭化成のエントツ、五ヶ瀬川、大瀬橋、安賀多橋(あがたはし)、日向灘(太平洋)、愛宕山(あたごやま)が見えます。



写真GY: 下にも桜の花が見えます。 五ヶ瀬川、愛宕山も見えます。 南を見たもの。



写真GZ: 延岡城 天守台からの延岡市の展望。 城山の鐘つき堂近くから南東を見た景色。 ラジオ放送局のアンテナ、五ヶ瀬川、安賀多橋(あがたはし)、日向灘(太平洋)が見えます。



写真HA: 延岡城 天守台からの延岡市の眺望(ちょうぼう)。 城山の鐘つき堂近くから南東を見た景色。 旭化成のエントツ、五ヶ瀬川、日向灘(太平洋)が見えます。



写真HB: 延岡城 天守台からの延岡市の景色。 城山の鐘つき堂近くから南東を見た景色。 五ヶ瀬川、大瀬橋、日向灘(太平洋)、右端の愛宕山(あたごやま)が見えます。



写真HC: 延岡城 天守台からの延岡市の展望。 城山の鐘つき堂近くから南を見た景色。 愛宕山(あたごやま、標高 251.2 m)が見えます。 山の上にテレビアンテナなど数本のアンテナ、送電線鉄塔が見えます。 左の方の山頂に展望台のような建物も見えています。



写真HD: 延岡城 天守台からの延岡市の眺望(ちょうぼう)。 城山の鐘つき堂近くから南を見た景色。 愛宕山(あたごやま、標高 251.2 m)が見えます。 山の上にテレビアンテナなど数本のアンテナ、送電線鉄塔が見えます。



写真HE: 遠くは愛宕山、手前は白い花のツバキの木です。
城山ヤブツバキ群について」の説明板から、
 ここ城山公園には数多くのヤブツバキが育っています。 花は毎年12月から3月にかけて咲きます。
 ヤブツバキといえば、紅色の色が普通ですが、ここでは白色から桃色、濃紅色までの色の変化があるだけでなく、白地に紅の斑(ふ)入り、絞(しぼ)りあるいは覆輪(ふくりん)などの複色の花もたくさん見られます。 花の大きさも形もいろいろで又、1本の樹に枝によって違う色の花をつける咲き分けもあり、なおかつ園芸価値の高い素晴らしい花もあります。
 どの樹もそれぞれ異なった特徴をもち、同じものが見られないことから、この「城山ヤブツバキ群」は自生であろうと考えられ、自生でこんなに多彩な異変を見るにつけ今後も新しい変異の発現が期待されます。
 この「城山ヤブツバキ群」のように、狭い範囲に集中して多彩な変異が発現している例は、他に島根県 松江城の椿谷と千葉県 大原町 伊能滝があるくらいで、日本三大ヤブツバキ群の自生地の1つとして「城山ヤブツバキ群」は、全国に誇り得る貴重な存在であります。



写真HF: 鐘つき堂のそばから天守台跡を見たもの。 ベンチも見えます。



写真HG: 延岡市にある城山の鐘つき堂。 鐘を突く橦木(しゅもく)も見えます。



写真HH: 鐘つき堂に登る階段です。



写真HI: 「城山の鐘(かね)」と鐘(かね)に書いてあります。 右は鐘を突く橦木(しゅもく)です。



写真HJ: 城山の鐘です。 右は鐘を突く橦木(しゅもく)です。



写真HK: 延岡市にある「城山の鐘」です。



写真HL: 延岡市にある「城山の鐘」。



写真HM: 延岡市にある「城山の鐘」です。



写真HN: 延岡市にある「城山の鐘」。



写真HO: 鐘に「昭和28年2月11日 城山の鐘をつくる会」と書いてあります。



写真HP: 鐘に「昭和28年2月11日 城山の鐘をつくる会」と書いてあります。



写真HQ: 鐘に「昭和28年2月11日 城山の鐘をつくる会」と書いてあります。



写真HR: 宮崎県 延岡市にある「城山の鐘」です。



写真HS: 橦木(しゅもく)です。



写真HT: 延岡市にある「城山の鐘」です。



写真HU: 鐘の上部です。



写真HV: 橦木(しゅもく)を吊(つ)ってある金具がよく分かります。



写真HW: 橦木(しゅもく)の先端の部分です。 毎日突いているのでなかか趣(おもむき)があります。



写真HX: 鐘つき堂の近くにも展望が良いところがあってベンチもあります。



写真HY: 延岡市にある「城山の鐘」です。



写真HZ: 鐘つき堂の隣にある建物です。 鐘を突く方が住んでいらっしゃるようです。



写真IA: 右の建物は鐘を突く方が住んでいらっしゃるようです。



写真IB: 延岡城 天守台跡です。



写真IC: 延岡城 天守台跡。



写真ID: ここにも若い桜の木があって、花が咲いています。 歩道にも花びらが落ちてきれいでした。



写真IE: 下の方に曲輪(くるわ)跡があります。



写真IF: ここは下り坂になっています。



写真IG: 「三階櫓(やぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、ここは三階建ての櫓があり、南北下階六間(10.8 m)東西五間の大きさで高さ七間(約14 m)であった。 昭和59年3月20日建立」と書いてある説明棒があります。



写真IH: 「三階櫓(やぐら)跡地、明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、ここは三階建ての櫓があり、南北下階六間(10.8 m)東西五間の大きさで高さ七間(約14 m)であった。 昭和59年3月20日建立」と書いてある説明棒があります。



写真II: ここにベンチがあります。



写真IJ: 歩道から少し入ります。



写真IK: 「後藤勇吉之碑」があります。
 「後藤勇吉」の説明板。
 後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市 南町に生まれ、延岡中学校を卒業後 上京、飛行士として修練を重ねた。
 大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年 空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行を行った。 この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。 以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。
 昭和2年 太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。
翌3年2月29日午前8時 大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県・・・(岳)上空で墜落、死亡した。 33歳の壮年であった。
延岡観光協会
と書かれています。



写真IL: 「後藤勇吉之碑」、日の丸が羽に付いた昔の飛行機の絵があります。
 「後藤勇吉」の説明板。
 後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市 南町に生まれ、延岡中学校を卒業後 上京、飛行士として修練を重ねた。
 大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年 空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行を行った。 この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。 以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。
 昭和2年 太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。
翌3年2月29日午前8時 大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県・・・(岳)上空で墜落、死亡した。 33歳の壮年であった。
延岡観光協会
と書かれています。



写真IM: 「後藤勇吉」の説明板。
 後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市 南町に生まれ、延岡中学校を卒業後 上京、飛行士として修練を重ねた。
 大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年 空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行を行った。 この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。 以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。
 昭和2年 太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。
翌3年2月29日午前8時 大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県・・・(岳)上空で墜落、死亡した。 33歳の壮年であった。
延岡観光協会
と書かれています。



写真IN: 坂道を降りていきます。



写真IO: 歩道のそばは崖(がけ)になっています。



写真IP: 先程の本丸跡にあるトイレのそばの三叉路(さんさろ)に降りてきました。



写真IQ: 右の坂道を降りて来て、次に左の歩道を下ります。



写真IR: 道のそばに見事な蔦(つた)があります。



写真IS: 蔦(ツタ)と石垣。
この石垣は「切り込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真IT: 城内の歩道を下ります。



写真IU: ここにも桜が咲いていました。



写真IV: 「牧水歌碑→」、「公園管理事務所→」、「後藤勇吉の碑←」、「本丸・鐘つき堂←」の道しるべがあります。



写真IW: 「三の丸跡地」の標識棒があります。 左は「牧水歌碑→」、「公園管理事務所→」、「後藤勇吉の碑←」、「本丸・鐘つき堂←」の道しるべ。



写真IX: 「三の丸跡地」の標識棒があります。



写真IY: 城内の道を下っていきます。



写真IZ: 「牧水歌碑」と書いてあります。



写真JA: 奥に若山牧水歌碑があります。



写真JB: 若山牧水歌碑。



写真JC: 「若山牧水歌碑」の説明板。
 若山牧水は、明治18年8月24日、宮崎県 東郷町 坪谷に生まれました。 村の尋常小学校を終えると、10里ほど離れた延岡市の高等小学校に入り、新設された県立 延岡中学校を卒業して、早稲田大学 英文科に進みました。
 延岡での8年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、将来天下に名を成す歌人としての素養を培(つちか)われました。
 この歌は、昭和2年7月24日、台雲寺で詠(よ)んだもので、昭和10年春、全国3番目の牧水歌碑として建てられました。
 毎年、春の日に歌碑まつりが行われます。
延岡観光協会
と書かれています。



写真JD: 延岡市の延岡城にある若山牧水歌碑です。



写真JE: 延岡城にある若山牧水歌碑。



写真JF: 延岡城にある若山牧水歌碑。



写真JG: 延岡城にある若山牧水歌碑。



写真JH: 延岡城にある若山牧水歌碑。



写真JI; 延岡城にある若山牧水歌碑の近くに椅子(いす)があります。



写真JJ: 水飲み場も見えます。



写真JK: 牧水歌碑の歩道からの入り口です。



写真JL: 城門の近くまで降りてきました。



写真JM: 井戸跡のようなものがあります。



写真JN: 井戸跡のようなもの。



写真JO: 「城山ヤブツバキ群について」の説明板。
 ここ城山公園には数多くのヤブツバキが育っています。 花は毎年12月から3月にかけて咲きます。
 ヤブツバキといえば、紅色の色が普通ですが、ここでは白色から桃色、濃紅色までの色の変化があるだけでなく、白地に紅の斑(ふ)入り、絞(しぼ)りあるいは覆輪(ふくりん)などの複色の花もたくさん見られます。 花の大きさも形もいろいろで又、1本の樹に枝によって違う色の花をつける咲き分けもあり、なおかつ園芸価値の高い素晴らしい花もあります。
 どの樹もそれぞれ異なった特徴をもち、同じものが見られないことから、この「城山ヤブツバキ群」は自生であろうと考えられ、自生でこんなに多彩な異変を見るにつけ今後も新しい変異の発現が期待されます。
 この「城山ヤブツバキ群」のように、狭い範囲に集中して多彩な変異が発現している例は、他に島根県 松江城の椿谷と千葉県 大原町 伊能滝があるくらいで、日本三大ヤブツバキ群の自生地の1つとして「城山ヤブツバキ群」は、全国に誇り得る貴重な存在であります。
平成元年11月 作成
寄贈 延岡ロータリークラブ
と書かれています。



写真JP: 左に石碑が見えます。 はじめに見た延岡城の説明板も見えます。 ここは城門の近くです。



写真JQ: はじめの城門が見えます。



写真JR: 二ノ丸の飲料水自動販売機で買って飲みました。



写真JS: 二ノ丸の自動販売機。



写真JT: 二ノ丸のトイレです。



写真JU: 軽トラックに「延岡城跡城山公園 延岡市東本小路」と書いてあります。



写真JV: 駐車場の近くに戻(もど)ってきました。



写真JW: 延岡市 城山公園の駐車場のそばから、「今山大師寺の日本最大 大師像」が山の上に見えています。 中央付近に大師像が見えます。



写真JX: 東のほうに野口記念館、警察署の建物が見えています。



写真JY: 城山公園の駐車場に戻(もど)りました。



写真JZ: 「オドリコソウの花」が咲いていました。 笠(かさ)をかぶった女の踊り子に花が良く似ています。



写真KA: 宮崎県 延岡市の 城山公園 駐車場です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)