新名爪八幡宮 (元(もと)は 土持八幡宮)、島之内八幡神社 (島之内の六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)、島之内八幡神社の大楠(くすのき)、新名爪八幡宮の舞楽面陵王、土持の供養塔、土持の屋敷跡、住吉中学校、住吉中央保育所)
(宮崎県 宮崎市 大字新名爪、大字島之内)
<標高、位置> 新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)は
標高 約30 m
北緯31度58分24秒 東経131度26分14秒
<標高、位置> 島之内八幡神社(しまのうちはちまんじんじゃ)は
標高 約10 m
北緯31度59分20秒 東経131度27分04秒
新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)は宮崎県 宮崎市 大字新名爪 4449にあります。 江戸時代の中期までは「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と呼ばれていました。
一の鳥居と二の鳥居の間の参道沿い(北西側)には「土持 氏」の屋敷がありました。
「新名爪八幡宮 (旧 郷社)」の説明板から、
御祭神 息長足姫命 誉田別命 玉依姫命
当宮は、平安時代(1181〜1182年)この地に創建され、以来、現在に至るまで、新名爪の鎮守としてお祀(まつ)りされています。
古くは、武勇の母神(神功皇后=息長足姫命)としての尊崇が篤(あつ)く、武士達が武運長久を願って出征しました。 また、その皇子である(応神天皇=誉田別命)の御皇威の宣掲と、130歳まで御長命であられました御神徳を畏みて安産、長寿の神として崇め奉り(あがめたてまつり)、神霊の依さします神(玉依姫命)の祓威によりて、霊験あらたかな御宮として崇敬されています。
新名爪八幡宮に伝わる「舞楽面陵王 市指定有形文化財 指定年月日 昭和48年3月12日」の説明板から、
この舞楽面は、縦30 cm、横18 cm、鼻の高さ13.5 cmで室町時代の作である。
舞楽面は、全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県 観世音寺、大分県 宇佐八幡宮と、この新名爪八幡宮の3面に限られており、本面は、豊後 宇佐八幡宮の関係において存在しその南限と思われる。 また、新名爪八幡宮の氏子(うじこ)達にとっては、不老面(年をとらない面)とよんで崇敬厚く一方では、恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化史的、民俗学的に意義のあるものである。
島之内八幡神社(しまのうちはちまんじんじゃ)は宮崎県 宮崎市 大字島之内 7599にあります。 古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。 住吉八幡神社とも呼(よ)ばれます。
「島之内八幡神社 (旧 村社)」の説明板から、
祭神 足仲彦天皇 息生長足姫命 誉田天皇
鎮座地 宮崎市 大字島之内 7599番地
例祭日 11月15日
創立年月日 養老2年(718年)10月15日
由緒沿革
「宇佐大鏡」によれば永保3年(1083年)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われる。
当社宮司家(児玉家)に伝わる紀元書によれば応神天皇(誉田天皇)は仲哀天皇(足仲彦天皇)と神功皇后(息生長足姫命)の第4子に当たられ御年4歳にして皇太子になられたが父天皇早世の為 母摂政の間 老臣 武内宿称がこれを補佐して政務をとったと伝えている。 この故事から古来幼童の守神特に病痢や七五三の守神としてご神徳高く広く信仰を集めている。
島之内の六地蔵塔(六地蔵幢(ろくじぞうしょう))の説明板から、
「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)の復元について」
この六地蔵幢(ろくじぞうしょう)は400有余年前に建立されたものと言われているが石幢の欠損甚(はなは)だしく文字も不明にて誰が建てた供養塔なのか明確でないが文化財として価値あるものであることは郷土史家の認めるところである。
長い年月現在地に散乱放置されていたが、この1月消防車庫基礎工事掘さくの際、石幢(胴体の部分)が発見されたのを機に礎石 石幢 宝珠を新しく補い島之内地区総代会の議を経てここに復元したものである。
写真A: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪の国道10号線にDIYホームセンター ハンズマンがあります。 新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)はその南西側にあります。
写真B: 奥(南西)の山の中腹に新名爪八幡宮があります。
写真C: ハンズマンとマルショク新名爪店の間の道を西に進みます。
写真D: 先に三叉路(さんさろ)があります。
写真E: 北のほうに日平(ひびら)地区があります。 山と携帯のアンテナが2本見えます。
写真F: 三叉路を左(南東)に曲がります。
写真G: 三叉路から北西を見たもの。
写真H: 南西に行くとまた三叉路があります。 これを右に行きます。 正面の建物は宮崎市消防団 住吉分団第2部車庫です。
写真I: 三叉路の左の道を見たもの。 上遠くにTSUTAYA(ツタヤ)の看板(かんばん)、左の建物はハンズマン。 突き当たりは国道10号線があります。
写真J: 新名爪八幡宮の一の鳥居(とりい)が見えてきました。 左の建物は消防団の車庫です。
写真K: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮の一の鳥居(とりい)です。 左の建物は西蔭平研修センター。 奥の山の中腹に新名爪八幡宮の社殿があります。
写真L: 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮の一の鳥居(とりい)です。 左の建物は西蔭平研修センター。 奥の山の中腹に新名爪八幡宮の社殿があります。
写真M: 来た道を振り返ったもの。
写真N: 南東方向を見たもの。 先に行くと国道10号線があります。 右の建物は西蔭平研修センター。
写真O: 「旧 郷社 新名爪八幡宮」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。 新名爪八幡宮は江戸時代の中期までは「土持八幡宮」と呼ばれていました。 [神主さんに伺いました。 御礼申し上げます。]
写真P: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮の一の鳥居(とりい)。 「八幡宮」と書いてある額(がく)があります。
写真Q: 「八幡宮」と書いてある額(がく)。
写真R: 新名爪八幡宮の石灯籠(いしどうろう)。
写真S: 石灯籠と鳥居の下部。
写真T: 石灯籠(いしどうろう)に「明治24年」と書いてあります。
写真U: 石灯籠。 左は一の鳥居。
写真V: 「明治24年」、「10月15日」書いてある石灯籠(いしどうろう)。
写真W: 「明治24年」、「10月15日」書いてある石灯籠(いしどうろう)。
写真X: 国旗掲揚台(こっきけいようだい)。 昭和34年8月3日建立。
写真Y: 国旗掲揚台(こっきけいようだい)。 昭和34年8月3日建立。
写真Z: 新名爪八幡宮の参道です。 両脇に細い竹の竹垣(たけがき)があります。
参道の右手(北西)には昔、土持 氏の屋敷がありました。 新名爪八幡宮は江戸時代中期までは「土持八幡宮」と呼ばれていました。 [神主さんに伺いました。 御礼申し上げます。]
(土持 氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真AA: 参道に石碑(せきひ)があります。
写真AB: この石碑は六地蔵塔の一部のようにも見えます。
写真AC: 「新名爪 土地改良記念碑」と彫(ほ)ってあります。 昭和35年3月20日建立。
写真AD: 「新名爪 土地改良記念碑」。 昭和35年3月20日建立。
写真AE: 「押川勇夫 翁(おきな) 顕彰碑」と彫ってあります。
写真AF: 「押川勇夫 翁(おきな) 顕彰碑」。
写真AG: 石碑。
写真AH: 参道から振り返ったもの。
写真AI: 新名爪八幡宮の一の鳥居、石碑。
写真AJ: 参道にある細い竹の竹垣(たけがき)。
写真AK: 宮崎市 新名爪にある新名爪八幡宮の参道。 奥に二の鳥居、その上に社殿が少し見えます。
宮崎市 新名爪にある新名爪八幡宮の参道の右手(北西)には昔、土持 氏の屋敷がありました(土持の屋敷跡)。 [神主さんに伺いました。 御礼申し上げます。] 新名爪八幡宮は江戸時代中期までは「土持八幡宮」と呼ばれていました。 [神主さんに伺いました。 御礼申し上げます。]
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真AL: 参道にある細い竹の竹垣(たけがき)。
写真AM: 宮崎県 宮崎市 新名爪にある新名爪八幡宮の参道の右手(北西)には昔、土持 氏の屋敷がありました(土持の屋敷跡)。 [神主さんに伺いました。] 新名爪八幡宮は江戸時代中期までは「土持八幡宮」と呼ばれていました。 [神主さんに伺いました。]
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真AN: 二の鳥居の階段を登ると拝殿、本殿、社務所などがあります。
写真AO: 参道にある細い竹の竹垣(たけがき)。
写真AP: 来た参道を振り返ったもの。 一の鳥居の方向。
写真AQ: 二の鳥居のそばの道です。
写真AR: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)です。 二の鳥居の横木は木製で、柱は石製です。
江戸時代中期までは新名爪八幡宮は「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と称(しょう)していました。 [神主さんに伺いました。]
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真AS: 二の鳥居の右手に「新名爪祖霊殿」があります。
写真AT: 新名爪八幡宮の二の鳥居のそばの様子(ようす)。
写真AU: 二の鳥居の右手の「新名爪祖霊殿」。
写真AV: 「新名爪祖霊殿」と書いてあります。
写真AW: 新名爪祖霊殿の左手の様子。 「日支事変 大東亜戦 従軍記念碑」が見えます。
写真AX: 「日支事変 大東亜戦 従軍記念碑」。
写真AY: 「日支事変 大東亜戦 従軍記念碑」の説明板。
写真AZ: 簡単な階段があります。
写真BA: 右の石が土持 氏の供養塔です。
後ろに祠(ほこら)があります。
写真BB: 右の石が土持 氏の供養塔です。
後ろに祠(ほこら)があります。
写真BC: 土持 氏の供養塔が宮崎県 宮崎市 大字新名爪の新名爪八幡宮にあります。 天正6年(1578年)建立(こんりゅう)。
江戸時代中期までは新名爪八幡宮のことを「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と呼んでいました。
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真BD: 「前 土持・・・」の文字が見えます。
土持 氏の供養塔が宮崎県 宮崎市 大字新名爪の新名爪八幡宮にあります。 天正6年(1578年)建立(こんりゅう)。
江戸時代中期までは新名爪八幡宮のことを「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と呼んでいました。
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真BE: 土持 氏の供養塔が宮崎県 宮崎市 大字新名爪の新名爪八幡宮にあります。 天正6年(1578年)建立(こんりゅう)。
江戸時代中期までは新名爪八幡宮のことを「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と呼んでいました。
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真BF: 土持 氏の供養塔が宮崎県 宮崎市 大字新名爪の新名爪八幡宮にあります。 天正6年(1578年)建立(こんりゅう)。
江戸時代中期までは新名爪八幡宮のことを「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と呼んでいました。
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真BG: 「天正6年」と書いてあります。
土持 氏の供養塔が宮崎県 宮崎市 大字新名爪の新名爪八幡宮にあります。 天正6年(1578年)建立(こんりゅう)。
江戸時代中期までは新名爪八幡宮のことを「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と呼んでいました。
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。)
写真BH: 土持 氏の供養塔が宮崎県 宮崎市 大字新名爪の新名爪八幡宮にあります。 天正6年(1578年)建立(こんりゅう)。
(土持氏は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。) 江戸時代中期までは新名爪八幡宮のことを「土持八幡宮(つちもちはちまんぐう)」と呼んでいました。
写真BI: 左の建物は新名爪祖霊殿で、右の石碑は「日支事変 大東亜戦 従軍記念碑」。
写真BJ: 土持 氏の供養塔のそばから北東を見た景色。 携帯電話のアンテナも見えます。
写真BK: 土持 氏の供養塔のそばから東北東を見た景色。 遠くにマンションも見えます。
写真BL: 土持 氏の供養塔のそばから東を見た景色。
写真BM: 新名爪八幡宮にある土持 氏の供養塔のそばから。 左からインナーネットカフェ、ガソリンスタンド、ハンズマン(ホームセンター)、ツタヤ(本屋)などの看板(かんばん)も見えます。
写真BN: 文化12年(1815年)3月建立の墓があります。 ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真BO: 文化12年(1815年)3月建立の墓があります。 ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗の寺(陽福寺)がありました。
写真BP: 御手洗(みたらい)があります。
写真BQ: 右の円筒形の墓は「黒貫寺33世」の住職の墓です。 黒貫寺は西都市の都於郡(とのこおり)にある真言宗の寺です。
ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真BR: 「黒貫寺33世」の住職の墓があります。 黒貫寺は西都市の都於郡(とのこおり)にある真言宗の寺です。
ここは明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗の寺がありました。 それまでは神仏習合で神社と寺は融和していました。 廃仏毀釈でここの寺は西都市の都於郡(とのこおり)にある黒貫寺に吸収されました。 宮崎県、鹿児島県、茨城県などは特に廃仏毀釈の激しいところで、寺が焼かれたりして破壊されたところが多くあります。
ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真BS: 池の跡(あと)らしい窪地(くぼち)があります。
写真BT: ここは明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗の寺がありました。 それまでは神仏習合で神社と寺は融和していました。 廃仏毀釈でここの寺は西都市の都於郡(とのこおり)にある黒貫寺に吸収されました。 宮崎県、鹿児島県、茨城県などは特に廃仏毀釈の激しいところで、寺が焼かれたりして破壊されたところが多くあります。
ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真BU: 新名爪八幡宮の境内(けいだい)。
写真BV: ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真BW: 元禄15年(1702年)2月に作られた供養塔が新名爪八幡宮の境内にあります。 ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真BX: 新名爪八幡宮の境内に古い墓があります。
写真BY: 享保5年(1720年)4月18日の建立された当寺19世の墓。 僧の墓は円筒形のものが多く見られますが、これは角柱型です。
写真BZ: 新名爪八幡宮には古い墓があります。
写真CA: 新名爪八幡宮の境内には古い墓があります。
写真CB: 新名爪八幡宮の境内にある古い墓。
写真CC: この墓には「天正14年(1586年)7月)と彫(ほ)ってあります。
写真CD: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮には多くの古い墓があります。
ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真CE: 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮には多くの古い墓があります。
写真CF: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮には多くの古い墓があります。
写真CG: 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮には多くの古い墓があります。
写真CH: 新名爪八幡宮の境内(けいだい)。
ここには明治の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは真言宗 陽福寺がありましたが、西都市 都於郡(とのこおり)の黒貫寺に合祀(ごうし)されました。 [神主さんに伺いました。]
写真CI: 墓の一部分、丸い石などがあります。
写真CJ: 墓の一部分、丸い石などがあります。
写真CK: 新名爪八幡宮にある古い墓。
写真CL: 新名爪八幡宮の境内。
写真CM: 新名爪八幡宮の社殿に行く道と階段。
写真CN: 木の先に新名爪祖霊殿が見えます。
写真CO: 祠(ほこら)が見えます。
写真CP: 「DIYホームセンター ハンズマン 新名爪店開店記念」と書いてあります。
写真CQ: 社殿が見えてきました。
写真CR: 右の建物は社務所です。
写真CS: 「舞楽面陵王 市指定有形文化財 指定年月日 昭和48年3月12日」
この舞楽面は、縦30 cm、横18 cm、鼻の高さ13.5 cmで室町時代の作である。
舞楽面は、全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県 観世音寺、大分県 宇佐八幡宮と、この新名爪八幡宮の3面に限られており、本面は、豊後 宇佐八幡宮の関係において存在しその南限と思われる。 また、新名爪八幡宮の氏子(うじこ)達にとっては、不老面(年をとらない面)とよんで崇敬厚く一方では、恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化史的、民俗学的に意義のあるものである。
昭和53年12月14日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
写真CT: 「舞楽面陵王 市指定有形文化財 指定年月日 昭和48年3月12日」
この舞楽面は、縦30 cm、横18 cm、鼻の高さ13.5 cmで室町時代の作である。
舞楽面は、全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県 観世音寺、大分県 宇佐八幡宮と、この新名爪八幡宮の3面に限られており、本面は、豊後 宇佐八幡宮の関係において存在しその南限と思われる。 また、新名爪八幡宮の氏子(うじこ)達にとっては、不老面(年をとらない面)とよんで崇敬厚く一方では、恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化史的、民俗学的に意義のあるものである。
昭和53年12月14日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
写真CU: 「舞楽面陵王 市指定有形文化財 指定年月日 昭和48年3月12日」
この舞楽面は、縦30 cm、横18 cm、鼻の高さ13.5 cmで室町時代の作である。
舞楽面は、全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県 観世音寺、大分県 宇佐八幡宮と、この新名爪八幡宮の3面に限られており、本面は、豊後 宇佐八幡宮の関係において存在しその南限と思われる。 また、新名爪八幡宮の氏子(うじこ)達にとっては、不老面(年をとらない面)とよんで崇敬厚く一方では、恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化史的、民俗学的に意義のあるものである。
昭和53年12月14日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
写真CV: 宮崎市にある新名爪八幡宮の社務所。
写真CW: 左は社務所、右は舞楽面の説明板。
写真CX: 古い墓が多くある少し低い広場に降りる坂道です。
写真CY: 「社務所」と書いてあります。
写真CZ: 右は社務所、中央は拝殿、左の小さい建物はお札(ふだ)、お守りなどを売っているところです。
写真DA: 左から舞楽面の説明板、石碑(せきひ)、石灯籠(いしどうろう)、お札などを売っている所です。
写真DB: 拝殿の前の石碑(せきひ)です。
写真DC: 「奉納 天皇陛下在位60年記念 社務所新築 御神輿(おみこし)修復 竣工記念碑 昭和61年6月吉日建立」と彫(ほ)られている石碑です。
写真DD: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮 (旧 郷社)の拝殿です。 江戸時代中期までは「土持八幡宮」と称(しょう)していました。
写真DE: 宮崎市にある新名爪八幡宮(にいなづめはちまんぐう)です。
写真DF: 新名爪八幡宮の二の鳥居(とりい)です。
写真DG: 新名爪八幡宮の二の鳥居。 横木に小石が多く載(の)っています。 これは石を下から投げて載ると良いことがあるという言い伝えのためです。
写真DH: 新名爪八幡宮の階段、石灯籠(いしどうろう)、拝殿が見えます。
写真DI: 二の鳥居の右手の坂道です。
写真DJ: 二の鳥居のそば。
写真DK: 石の狛犬(こまいぬ)があります。 狛犬はライオンからのものだそうです。
写真DL: 石の狛犬(こまいぬ)があります。 狛犬はライオンからのものだそうです。
写真DM: 階段の上から見下ろしたもの。
写真DN: 階段の上から見下ろしたもの。
写真DO: 階段の上から見下ろしたもの。 参道、二の鳥居も見えます。
写真DP: 階段の上から見下ろしたもの。 参道、二の鳥居も見えます。
写真DQ: 階段の上の杉の木。
写真DR: 石碑があります。
写真DS: 建物は手水舎(ちょうずや)です。 コマイヌ、石碑、石灯籠(平成13年9月建立)も見えます。
写真DT: 新名爪八幡宮の境内(けいだい)。
写真DU: 石灯籠に「平成13年9月吉日」と彫(ほ)ってあります。
写真DV: 「新名爪八幡宮の由緒」の説明碑です。
写真DW: 「新名爪八幡宮の由緒」の説明碑。
写真DX: 「新名爪八幡宮の由緒」の説明碑。
写真DY: 「新名爪八幡宮の由緒」の説明碑です。
写真DZ: 「新名爪八幡宮の由緒」の説明碑。
写真EA: 「新名爪八幡宮の由緒」の説明碑。
写真EB: 左から新名爪八幡宮の由緒の説明板、手水舎(ちょうずや)、石灯籠。
写真EC: 新名爪八幡宮の御手洗(みたらい)です。
写真ED: 手水舎(ちょうずや)のそば。
写真EE: 宮崎市にある新名爪八幡宮の境内(けいだい)。
写真EF: 宮崎市にある新名爪八幡宮(旧 郷社)の拝殿とお札(ふだ)などを売っているところ。
写真EG: 拝殿の横側です。
写真EH: 拝殿の左側に石碑(せきひ)などがまとまってあります。
写真EI: 末社(一之宮神社)が見えます。
写真EJ: トイレです。
写真EK: 新名爪八幡宮の境内(けいだい)。
写真EL: 新名爪八幡宮の中。
写真EM: 新名爪八幡宮の中。
写真EN: 新名爪八幡宮の中。
写真EO: 新名爪八幡宮の鈴(すず)。
写真EP: お賽銭箱(さいせんばこ)、鈴のひも。
写真EQ: 「新名爪八幡宮 (旧 郷社)」の説明板。
御祭神 息長足姫命 誉田別命 玉依姫命
当宮は、平安時代(1181〜1182年)この地に創建され、以来、現在に至るまで、新名爪の鎮守としてお祀(まつ)りされています。
古くは、武勇の母神(神功皇后=息長足姫命)としての尊崇が篤(あつ)く、武士達が武運長久を願って出征しました。 また、その皇子である(応神天皇=誉田別命)の御皇威の宣掲と、130歳まで御長命であられました御神徳を畏みて安産、長寿の神として崇め奉り(あがめたてまつり)、神霊の依さします神(玉依姫命)の祓威によりて、霊験あらたかな御宮として崇敬されています。
と書かれています。
写真ER: 「新名爪八幡宮 (旧 郷社)」の説明板。
御祭神 息長足姫命 誉田別命 玉依姫命
当宮は、平安時代(1181〜1182年)この地に創建され、以来、現在に至るまで、新名爪の鎮守としてお祀(まつ)りされています。
古くは、武勇の母神(神功皇后=息長足姫命)としての尊崇が篤(あつ)く、武士達が武運長久を願って出征しました。 また、その皇子である(応神天皇=誉田別命)の御皇威の宣掲と、130歳まで御長命であられました御神徳を畏みて安産、長寿の神として崇め奉り(あがめたてまつり)、神霊の依さします神(玉依姫命)の祓威によりて、霊験あらたかな御宮として崇敬されています。
と書かれています。
写真ES: 左は新名爪八幡宮の本殿、右は拝殿です。
写真ET: 左は新名爪八幡宮の本殿、右は拝殿。
写真EU: 左は拝殿、右は手水舎(ちょうずや)です。
写真EV: 左は手水舎(ちょうずや)、右はトイレです。
写真EW: 右は末社、左はトイレです。
写真EX: 木の影に末社(一之宮神社)が見えます。
写真EY: 宮崎県 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮 (旧 郷社)の本殿です。
写真EZ: 宮崎市 大字新名爪にある新名爪八幡宮の本殿の下部。
写真FA: 本殿の左に第二次大戦のときの防空壕(ぼうくうごう)があります。
写真FB: 第二次大戦のときの防空壕(ぼうくうごう)の中。
写真FC: 改築紀念碑(大正元年建立(こんりゅう))の左にソテツの木があります。
写真FD: 改築紀念碑(大正元年建立(こんりゅう))の下部。
写真FE: 多くの石碑(せきひ)があります。
写真FF: 石灯籠(いしどうろう)、多くの石碑があります。
写真FG: 石灯籠(いしどうろう)、石碑。
写真FH: 石灯籠(いしどうろう)、石碑。
写真FI: 石灯籠(いしどうろう)、石碑。
写真FJ: 御手洗(みたらい)があります。
写真FK: 末社(一之宮神社)です。
写真FL: 「一之宮神社 宮本神社 改築記念碑 平成4年9月6日竣工 建立」と彫(ほ)ってあります。
写真FM: 末社(宮本神社)です。
写真FN: 左奥は手水舎(ちょうずや)、右はトイレです。
写真FO: 左は本殿と拝殿、右は手水舎。
写真FP: 本殿(左)と拝殿。
写真FQ: 末社(一之宮神社)。
写真FR: 「一之宮神社 宮本神社 改築記念碑 平成4年9月6日竣工 建立」と彫(ほ)ってあります。
写真FS: ソテツの木があります。
写真FT: 本殿の裏は崖(がけ)になっています。
写真FU: 本殿の裏は崖(がけ)になっています。
写真FV: 本殿の裏の山です。
写真FW: 末社(一之宮神社)の右手に面白い形の石碑があります。
写真FX: 末社(一之宮神社)の裏の崖下(がけした)に家があります。
写真FY: 末社(一之宮神社)の裏の崖下(がけした)。
写真FZ: 新名爪八幡宮の境内。
写真GA: 「旧郷社 新名爪八幡宮」と書いてある額(がく)が拝殿にあります。
写真GB: 横木に象(ぞう)の彫(ほ)り物があります。
写真GC: 横木に象(ぞう)の彫(ほ)り物があります。
写真GD: 新名爪八幡宮の二の鳥居(とりい)。
写真GE: 二の鳥居の左の方。
写真GF: 参道の南東はこのように高台になっていて人家があります。
写真GG: 参道の南東はこのように高台になっていて人家があります。
写真GH: 一の鳥居の方を見たもの。
写真GI: 参道の近く。
写真GJ: 参道の近くです。
写真GK: 参道の近く。
写真GL: はじめの一の鳥居が見えてきました。
写真GM: 一の鳥居の隣にある「西蔭平研修センター」。
写真GN: 「西蔭平研修センター」と書いてあります。
写真GO: 一の鳥居から南東に進みます。
写真GP: 一の鳥居から南東に進みます。
写真GQ: 国道10号線にぶつかります。 南を見た景色です。 見えている山の右手(西)に宮崎北高等学校があります。
写真GR: 国道10号線の北方向を見たもの。 左からガソリンスタンド、ハンズマン、ガソリンスタンド、ツタヤ(本屋)などの看板(かんばん)が見えます。
写真GS: 国道10号線の南方向を見たもの。 この辺(あた)りは上り坂になっています。 見えている山の右手(西)に宮崎北高等学校があります。
写真GT: 左からハンズマン、ガソリンスタンド、レストラン、インターネットカフェなどの看板があります。
写真GU: 一の鳥居のそばに宮崎市消防団 住吉分団第2部車庫があります。
写真GV: 右はガソリンスタンド、その左にタツヤ(本屋)、ハンズマンの看板が見えます。
写真GW: ここは国道10号線と国道219号線(西都線)の交差点になっています。
写真GX: 来た道を振り返ったもの。
写真GY: 宮崎市 大字島之内にある住吉郵便局です。 国道10号線沿いにあります。
写真GZ: 宮崎市 大字島之内にある住吉郵便局です。 国道10号線沿いにあります。
写真HA: 住吉郵便局の前の景色です。
写真HB: 北を見た景色。 国道10号線。
写真HC: 南を見た景色です。 この三叉路(さんさろ)を右に行くと島之内八幡神社(しまのうちはちまんじんじゃ)に行きます。
写真HD: 南を見た景色です。 この三叉路(さんさろ)を右に行くと島之内八幡神社(しまのうちはちまんじんじゃ)に行きます。
写真HE: 宮崎市 大字島之内にある島之内八幡神社の一の鳥居(とりい)が見えます。
写真HF: 島之内八幡神社の一の鳥居(とりい)。
写真HG: 鳥居に「八幡神社」と書いてある額(がく)があります。
写真HH: 島之内八幡神社の一の鳥居は昭和61年8月1日に竣工(しゅんこう)しました。
写真HI: 奥の森が島之内八幡神社の鎮守(ちんじゅ)の森です。
写真HJ: 島之内八幡神社の南には宮崎市立 住吉中学校があります。
写真HK: 「宮崎市立 住吉中学校」と門札(もんさつ)に書いてあります。
写真HL: 一の鳥居の方(東)を振り返ったもの。
写真HM: 島之内八幡神社のロータリーです。
写真HN: 島之内八幡神社の木です。
写真HO: 島之内八幡神社の木。
写真HP: 島之内八幡神社の二の鳥居(とりい)の前の様子(ようす)。
写真HQ: 島之内八幡神社の二の鳥居とその左の楠(くすのき)の御神木。
写真HR: 楠(クスノキ)の御神木と説明板、建物が見えます。
写真HS: 新名爪八幡宮の南には住吉中学校があります。
写真HT: 大きなクスノキの御神木の下部。
写真HU: 大きなクスノキの御神木の上部。
写真HV: お札(ふだ)などを焼く場所があります。
写真HW: 「八幡神社 (旧 村社)」の説明板。
祭神 足仲彦天皇 息生長足姫命 誉田天皇
鎮座地 宮崎市 大字島之内 7599番地
例祭日 11月15日
創立年月日 養老2年(718年)10月15日
由緒沿革
「宇佐大鏡」によれば永保3年(1083年)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われる。
当社宮司家(児玉家)に伝わる紀元書によれば応神天皇(誉田天皇)は仲哀天皇(足仲彦天皇)と神功皇后(息生長足姫命)の第4子に当たられ御年4歳にして皇太子になられたが父天皇早世の為 母摂政の間 老臣 武内宿称がこれを補佐して政務をとったと伝えている。 この故事から古来幼童の守神特に病痢や七五三の守神としてご神徳高く広く信仰を集めている。
平成元年11月15日 宮司 児玉慎五
と書かれています。
写真HX: 「八幡神社 (旧 村社)」の説明板。
祭神 足仲彦天皇 息生長足姫命 誉田天皇
鎮座地 宮崎市 大字島之内 7599番地
例祭日 11月15日
創立年月日 養老2年(718年)10月15日
由緒沿革
「宇佐大鏡」によれば永保3年(1083年)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われる。
当社宮司家(児玉家)に伝わる紀元書によれば応神天皇(誉田天皇)は仲哀天皇(足仲彦天皇)と神功皇后(息生長足姫命)の第4子に当たられ御年4歳にして皇太子になられたが父天皇早世の為 母摂政の間 老臣 武内宿称がこれを補佐して政務をとったと伝えている。 この故事から古来幼童の守神特に病痢や七五三の守神としてご神徳高く広く信仰を集めている。
平成元年11月15日 宮司 児玉慎五
と書かれています。
写真HY: 「八幡神社 (旧 村社)」の説明板。
祭神 足仲彦天皇 息生長足姫命 誉田天皇
鎮座地 宮崎市 大字島之内 7599番地
例祭日 11月15日
創立年月日 養老2年(718年)10月15日
由緒沿革
「宇佐大鏡」によれば永保3年(1083年)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われる。
当社宮司家(児玉家)に伝わる紀元書によれば応神天皇(誉田天皇)は仲哀天皇(足仲彦天皇)と神功皇后(息生長足姫命)の第4子に当たられ御年4歳にして皇太子になられたが父天皇早世の為 母摂政の間 老臣 武内宿称がこれを補佐して政務をとったと伝えている。 この故事から古来幼童の守神特に病痢や七五三の守神としてご神徳高く広く信仰を集めている。
平成元年11月15日 宮司 児玉慎五
と書かれています。
写真HZ: 「八幡神社 (旧 村社)」の説明板。
祭神 足仲彦天皇 息生長足姫命 誉田天皇
鎮座地 宮崎市 大字島之内 7599番地
例祭日 11月15日
創立年月日 養老2年(718年)10月15日
由緒沿革
「宇佐大鏡」によれば永保3年(1083年)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われる。
当社宮司家(児玉家)に伝わる紀元書によれば応神天皇(誉田天皇)は仲哀天皇(足仲彦天皇)と神功皇后(息生長足姫命)の第4子に当たられ御年4歳にして皇太子になられたが父天皇早世の為 母摂政の間 老臣 武内宿称がこれを補佐して政務をとったと伝えている。 この故事から古来幼童の守神特に病痢や七五三の守神としてご神徳高く広く信仰を集めている。
平成元年11月15日 宮司 児玉慎五
と書かれています。
写真IA: 宮崎県 宮崎市 大字島之内 7599番地にある島之内八幡神社です。
古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。
写真IB: 宮崎市 大字島之内 7599番地にある島之内八幡神社。
写真IC: 説明板、クスノキの神木、石灯籠(いしどうろう)、二の鳥居などが見えます。
写真ID: 石灯籠、二の鳥居、手水舎(ちょうずや)、などが見えます。
写真IE: 二の鳥居の説明。 平成9年7月30日竣工(しゅんこう)。
写真IF: 島之内八幡神社の神木です。 古く大きな楠(くすのき)です。
写真IG: クスノキの神木の下部。
写真IH: クスノキの神木の中部と二の鳥居。
写真II: クスノキの神木の上部と二の鳥居。
写真IJ: クスノキの神木の上部。
写真IK: 島之内八幡神社の石碑(せきひ)と石灯籠(いしどうろう)。
写真IL: 島之内八幡神社の手水舎(ちょうずや)です。 右に石碑もあります。
写真IM: 島之内八幡神社の御手洗(みたらい)。 奥に願い事を書いた絵馬(えま)もかけてあります。
写真IN: 二の鳥居の外を見たもの。
写真IO: 「報徳碑」 (明治31年12月13日建立(こんりゅう))です。
写真IP: 「報徳碑」 (明治31年12月13日建立(こんりゅう))。
写真IQ: 「報徳碑」 (明治31年12月13日建立(こんりゅう))です。
写真IR: 石灯籠、石碑も見えます。
写真IS: 石碑(せきひ)の説明板。
写真IT: 石碑の説明板。
写真IU: 「島之内八幡神社」と彫(ほ)られています。
写真IV: 「改築記念碑」です。
写真IW: 「住吉幼稚園開園記念碑」です。
写真IX: 「八幡神社 改築奉賛金 御芳名」の掲示板です。
写真IY: 島之内八幡神社の境内。 右奥は住吉中央保育所です。
写真IZ: 島之内八幡神社の境内。 左は住吉中央保育所、右は宮崎市消防団 住吉分団第6部車庫の建物。
写真JA: こちらにも門があります。
写真JB: 東を見たものです。
写真JC: 宮崎市 大字島之内にある島之内八幡神社。 左にも2本目の大きな楠(クスノキ)見えます。 右は拝殿です。
写真JD: 左は若宮神社、右は社務所です。
写真JE: 左は若宮神社、右は社務所。
写真JF: 石碑(せきひ)と石灯籠(いしどうろう)です。 右は神木の大きな楠(くすのき)。
写真JG: 「八幡神社 社務所新築 若宮神社 改築 昭和63年12月21日 (建立(こんりゅう))」と書いてあります。
写真JH: 石碑と石灯籠(右は天保13年(1842年)6月吉日 建立)。 右は二の鳥居。
写真JI; 石灯籠(いしどうろう、天保13年(1842年)6月吉日 建立)。
写真JJ: 左は神木の大きな楠(くすのき)。
写真JK: 末社である若宮神社の側面。
写真JL: 左は若宮神社、右は社務所。
写真JM: 右は拝殿、左は社務所。
写真JN: 2本目の大きな楠(クスノキ)。 拝殿の南にあります。
写真JO: 拝殿のそばにある石灯籠(いしどうろう、平成20年11月吉日建立)。
写真JP: 拝殿のそばにある石灯籠(いしどうろう、平成20年11月吉日建立)。
写真JQ: 島之内八幡神社 拝殿の屋根の付近です。 彫(ほ)り物があります。
古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。
写真JR: 島之内八幡神社 拝殿。 鈴(すず)、しめ縄、御幣(ごへい)も見えます。
写真JS: 島之内八幡神社 拝殿。 鈴(すず)、しめ縄、御幣(ごへい)、お賽銭箱(さいせんばこ)も見えます。
古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。
写真JT: 拝殿の右の部分です。
写真JU: 拝殿の左の部分です。
写真JV: 第二のクスノキの大木が見えます。
写真JW: 社務所と石灯籠。
写真JX: 拝殿から二の鳥居の方を見たもの。
写真JY: 拝殿から二の鳥居の方を見たもの。
写真JZ: 拝殿から北東を見た景色。
写真KA: 拝殿から北を見たもの。 住吉中央保育所が見えます。
写真KB: 拝殿から北西を見たもの。 住吉中央保育所が見えます。
写真KC: 鈴と照明が見えます。
古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。
写真KD: 鈴のひも。
写真KE: 巴(ともえ)の紋(もん)です。
写真KF: 島之内八幡神社の中。
写真KG: 島之内八幡神社の中。
写真KH: 島之内八幡神社の中。
写真KI: 島之内八幡神社の中。
写真KJ: 拝殿の南にある第二のクスノキの下部。 これも大クスノキです。
写真KK: 拝殿の南にある第二のクスノキの中部。 これも大楠(クスノキ)です。
写真KL: 拝殿の南にある第二のクスノキの中部。 これも大クスノキです。
写真KM: 拝殿の南の方。
写真KN: 拝殿の南の側面です。
写真KO: 古い鬼瓦(おにがわら)や石が並(なら)べてあります。
写真KP: 拝殿の南のほうです。 奥に住吉中学校の建物が見えます。
写真KQ: 祠(ほこら)があって中に面白い形の石があります。
写真KR: 拝殿が見えます。
写真KS: 右は住吉中学校。
写真KT: 左は島之内八幡神社の本殿、右は拝殿です。
古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。
写真KU: 拝殿です。
写真KV: 本殿の西にも大きな木があります。
写真KW: 本殿の西の様子(ようす)。
写真KX: 本殿の西。
写真KY: 本殿の西。
写真KZ: 本殿の北西。
写真LA: 宮崎市 大字島之内にある島之内八幡神社の本殿の上部。
写真LB: 宮崎市 大字島之内にある島之内八幡神社の本殿の中部。
写真LC: 社殿の南側。
写真LD: 社殿の南側の上部。
写真LE: 社殿の北側。 住吉中央保育所の建物が見えます。
写真LF: 宮崎県 宮崎市 大字島之内にある島之内八幡神社の本殿。
古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。
写真LG: 島之内八幡神社の北の側面。
写真LH: 島之内八幡神社の北の側面。
写真LI: 社殿の北側。
写真LJ: 社殿の北側。 住吉中央保育所の建物が見えます。
写真LK: 社殿の北側にも古い鬼瓦(おにがわら)、石が並べてあります。
写真LL: 木の奥に住吉中央保育所があります。
写真LM: 拝殿の北の側面。
写真LN: 拝殿と社務所(左)。
写真LO: 新しい石灯籠、若宮神社、社務所、拝殿、神木のクスノキが見えます。
写真LP: 拝殿の近くから東を見たものです。
写真LQ: 拝殿の近くから南東を見たもの。 大きな木は神木のクスノキ。
写真LR: 拝殿。
古い時の拝殿、本殿は150年前に造られましたが、解体され、新たに築造されました。 平成20年(2008年)11月30日に完成。
写真LS: 拝殿から二の鳥居を見たもの。 左端は手水舎(ちょうずや)。
写真LT: 中から見た二の鳥居。
写真LU: 島之内八幡神社の前の南北の旧道です。 新 国道10号線が出来る前は重要な街道でした。 北を見たもの。
写真LV: 島之内八幡神社の前のところです。
写真LW: 島之内八幡神社の前の南北の旧道です。 新 国道10号線が出来る前は重要な街道でした。 南を見たもの。
写真LX: 旧道から島之内八幡神社の境内に入る門があります。
写真LY: 境内のイチョウの木が見えます。
写真LZ: 島之内八幡神社の前の南北の旧道です。 新 国道10号線が出来る前は重要な街道でした。 北を見たもの。
写真MA: 島之内八幡神社の前の南北の旧道です。 新 国道10号線が出来る前は重要な街道でした。 建物は宮崎市消防団 住吉分団第6部車庫です。 その北隣りに古い「六地蔵塔」があります。
六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)とも呼(よ)びます。
写真MB: 島之内八幡神社の境内を旧道から見たもの。
写真MC: 宮崎市消防団 住吉分団第6部車庫の建物。
写真MD: 右端が「島之内の六地蔵塔」です。 六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)とも呼(よ)びます。
写真ME: 島之内八幡神社のそばにある「島之内の六地蔵塔」の上部です。 6体の地蔵が彫(ほ)られています。
写真MF: 島之内八幡神社のそばにある「島之内の六地蔵塔」の下部です。
写真MG: 島之内八幡神社のそばにある「島之内の六地蔵塔」の中部です。 6体の地蔵が彫(ほ)られています。
写真MH: 島之内の六地蔵塔の下部。 この部分は復元したものです。
写真MI: 「島之内の六地蔵塔」の中部です。 6体の地蔵が彫(ほ)られています。
写真MJ: 島之内の六地蔵塔の下部。 この部分は復元したものです。
写真MK: 「島之内の六地蔵塔」の中部です。 6体の地蔵が彫(ほ)られています。
写真ML: 島之内の六地蔵塔の下部。 この部分は復元したものです。
写真MM: 「島之内の六地蔵塔」の説明板。
写真MN: 島之内の六地蔵塔(六地蔵幢(ろくじぞうしょう))の説明板。
「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)の復元について」
この六地蔵幢(ろくじぞうしょう)は400有余年前に建立されたものと言われているが石幢の欠損甚(はなは)だしく文字も不明にて誰が建てた供養塔なのか明確でないが文化財として価値あるものであることは郷土史家の認めるところである。
長い年月現在地に散乱放置されていたが、この1月消防車庫基礎工事掘さくの際、石幢(胴体の部分)が発見されたのを機に礎石 石幢 宝珠を新しく補い島之内地区総代会の議を経てここに復元したものである。
昭和58年5月13日 (建立(こんりゅう))
と書かれています。
写真MO: 島之内の六地蔵塔(六地蔵幢(ろくじぞうしょう))の説明板。
「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)の復元について」
この六地蔵幢(ろくじぞうしょう)は400有余年前に建立されたものと言われているが石幢の欠損甚(はなは)だしく文字も不明にて誰が建てた供養塔なのか明確でないが文化財として価値あるものであることは郷土史家の認めるところである。
長い年月現在地に散乱放置されていたが、この1月消防車庫基礎工事掘さくの際、石幢(胴体の部分)が発見されたのを機に礎石 石幢 宝珠を新しく補い島之内地区総代会の議を経てここに復元したものである。
昭和58年5月13日 (建立(こんりゅう))
と書かれています。
写真MP: 昭和58年5月13日 (建立(こんりゅう))と書いてあります。
写真MQ: 昭和58年5月13日 (建立(こんりゅう))と書いてあります。
写真MR: そばに住吉中央保育所があります。 ここには以前は住吉村役場がありました。
写真MS: 一の鳥居が見えるところに戻(もど)ってきました。
写真MT: 島之内八幡神社の一の鳥居が見えるところに戻(もど)ってきました。
写真MU: 一の鳥居から東を見たものです。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)