母智丘公園(桜祭り)、母智丘神社、石峯稲荷神社 (もちおこうえん、さくらの名所100選、もちおじんじゃ、陰陽桜、陰陽石、都城市の展望、鰐塚山の展望、幸福の鐘、巨石群、割石、稲荷石(雨乞い場所))  (宮崎県 都城市 横市町)







<標高、位置>  母智丘(もちお)の桜並木は
標高 約180 m
 北緯31度45分01秒  東経131度01分03秒

<標高、位置>  母智丘神社(もちおじんじゃ)は
標高 約240 m
 北緯31度44分59秒  東経131度00分34秒

<標高、位置>  母智丘の桜の駐車場は
標高 約180 m
 北緯31度45分02秒  東経131度00分55秒


 母智丘公園は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。
 母智丘神社は宮崎県 都城市 横市町 6691 にあります。
 母智丘(もちお)の桜並木は参道に約 2 km 続き、ソメイヨシノ、ヤエザクラなど約 2600 本の桜とツツジ、ヒガンバナなどがあります。 母智丘は都城市の西部にある丘陵地で、母智丘・関之尾県立自然公園に属します。 大淀川の支流である横市川と庄内川の間のシラス台地にあります。 新第3紀鮮新世の丸山溶岩から成っています。 赤ボラ(橙黄色のガラス質火山灰)と地元で呼ばれる土質もあります。

 「鳥居 社務所 改修記念碑」から、
「母智丘神社の沿革」
 江戸時代において、石峰とか石牟礼とか持尾とも呼ばれ稲荷信仰の対象であったこの地に廃藩置県後に赴任して来た新地頭の三島通庸が、明治3年7月に母智丘神社を創建して、神体を神鏡に取替え豊宇気姫神が祭神され、明治6年横市坂の東側にあった大年神社を廃して合祀し郷社とした。
明治20年頃 社務所建設
明治33年12月 社殿、社務所全焼し再建する。
明治43年7月 石段を切石階段に改める
昭和5年7月 参道を造成 延長 1360 m
昭和13年3月 参道4 m 拡幅
以上の間 三島地頭、黒岩常次郎、江夏芳太郎 が桜を植え今日の母智丘千本桜の名声を博するに至った。
昭和23年 本殿拝殿の改築ならびに石段の改修
昭和35年2月 稲荷神社の改築
昭和42年2月 第一鳥居(鉄筋コンクリート造り)建設 総工費 63万円
昭和49年 社務所を廃し公園管理舎新築
昭和50年 第二、第三鳥居(鉄筋コンクリート造り) 3基建設 境内社務所増改築および手洗所水道施設の建設。

  「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板から、
名称 サクラ、科名 バラ
 この「陰陽桜」は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年。

「幸福の鐘」の説明板から、
 神話と伝説の霊峰 霧島の麓 母智丘で、2人が手を取り合い願いをこめて<幸福の鐘>を響かせると幸せが訪れるという。

 「母智丘神社と陰陽石のご紹介」の説明板から、
 大昔のことは明確ではありませんが、母智丘神社は徳川時代の中頃まで稲荷石とほら穴が知られており、その後 神社が出来たものであります。 明治3年10月当時 上庄内郷(現在 都城市庄内町)におりました地頭 三島通庸が母智丘に参詣(さんけい)し、社殿が荒れ果てているのを見て神社再興を図ったものであり、明治33年火災で全焼いたしましたが,郡内有志の力で明治36年再築されました。 御神体は豊受姫神大年神で、昭和21年神社制度の改変以前は県社でありました。 この丘の頂上に散在する巨石群は火山の噴出による赤ボラで地中に埋まっていたものでありますが母智丘神社再興工事の時に発掘されました。 その一つに世にも珍しい陰陽石があります。 陰石は周囲 19.3 m 深さ 0.5 mのくぼみがあり、陽石は周囲 17.3 m 高さ 3.3 mと壮大でシンボルにふさわしい形状を整えております。 (陰陽石は小林市にもあります。)この一帯は石器時代および古墳時代を通じて人類が居住した遺跡があり、この時代がどんな宗教的思想を持ち生活していたか分かりませんが、長い年月と自然石が生んだ稀に見る逸品であり古くからこの陰石に祈願水をかけると縁結び、安産、商売繁盛、無病息災、病気全快など、霊験あらたかで、今日なお人々の心をひきつけております。

 母智丘神社の「陰石」の説明板から、
 周囲 19.3 m 高さ 1.7 m余で陰門は長さ 1.2 m 深さ 0.5 m あり古くから安産、縁結びの神石とされ祈願水を陰門にかけると願い事がかなうと言い伝えられています。

 母智丘神社の「割裂神石」の説明板から、
 高さ 1.2 m 幅 2.4 m で割裂いた様になっているので割石とも称しその割れた一部は東霧島神社にある割裂神石であると言われています。 タカオカノカミを祀(まつ)った神石で昔からこの付近を堀荒らすと大雨が降ると言い伝えられています。

 母智丘神社の「巨石群について」の説明板から、
 この丘の上一帯に散在する巨石群は、火山の噴出による赤ボラで地中に埋まっていたものを、明治3年の母智丘神社再興工事の時に発掘されたもので、古く石器時代にはこれらの巨石が丘の上に群立していたものと考えられています。 この付近から数多くの土器や石器が発見されているところから、この一帯は石器時代においては石材の採取場であったと想像されますが、同時にこの付近に見られる巨石群は信仰の対象となっていたものと考えられ、いずれも神石として人々のいろいろな願い事がかなえられたと言い伝えられています。

 母智丘の「石峯稲荷大明神(いしみねいなりだいみょうじん)」の説明板から、
 稲荷大石は大昔より存在の石であり、左右に出入り口の穴があります。 穴の大奥は八畳敷と六畳敷き位の洞穴になっており、昔は白狐(しろぎつね)の巣であり、白狐(びゃっこ)は昔より不思議な霊族を垂(た)れたまい崇敬者の先導敬行(みちあんない)として、いろいろと教えへ導き諸行繁盛神功(いさお)たてまふ。 お神(やしろ)を改造し白狐を御霊として奉る。


写真A: 都城市の県道108号線です。 先に行くと牧の原にいきます。 手前に行くと鹿児島県曽於市 財部町にいきます。 右は母智丘(もちお)の桜の駐車場です。 ここは宮崎県 都城市 横市町です。



写真B: 県道108号線です。 十字路を右に行くと母智丘神社(もちおじんじゃ)があります。 桜並木は十字路を左に行っても、右に行ってもあります。 手前左は駐車場。
先に行くと鹿児島県曽於市 財部町にいきます。
ここは宮崎県 都城市 横市町です。



写真C: 母智丘の桜の駐車場です。



写真D: 「母智丘の桜(もちおの桜)」です。 右奥に桜祭りの門が作ってあります。 桜祭りのボンボリ(街灯)があります。
ここは宮崎県 都城市 横市町です。



写真E: 「都城もちお桜まつり」。



写真F: 「都城もちお桜まつり」と書かれた門が作ってあります。
ここは宮崎県 都城市 横市町です。



写真G: 「都城もちお桜まつり」と書かれた門が作ってあります。



写真H: 宮崎県 都城市 横市町にある母智丘(もちお)の桜並木。



写真I: 都城市 横市町にある母智丘(もちお)の桜並木。



写真J: 桜の花びらが散っていました。



写真K: 都城市 横市町にある母智丘(もちお)の桜並木。



写真L: 「母智丘広場↑、多目的広場←2.5 km、くまそ広場←3.5 km」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真M: 桜の木はかなり古いものです。



写真N: 母智丘(もちお)の桜。 ソメイヨシノです。



写真O: 母智丘(もちお)の桜。



写真P: 母智丘(もちお)の桜。 ソメイヨシノです。



写真Q: 十字路。 右は牧の原に行きます。 
左は鹿児島県曽於市 財部町です。 財部町はすぐ近くです。
先に進むと母智丘神社があります。



写真R: 先は牧の原に行きます。



写真S: 先は鹿児島県曽於市 財部町です。 財部町はすぐ近くです。



写真T: 「↑都城 母智丘カントリークラブ」の看板(かんばん)があります。



写真U: 先は母智丘神社があります。 出店が出ていました。



写真V: 母智丘の桜並木。 出店が並んでいます。



写真W: 「母智丘公園 さくらの名所100選の地」の看板(かんばん)。
ソメイヨシノ、他 2600本
開花時期 3月下旬〜4月上旬
さくら祭 3月下旬〜4月上旬
母智丘公園
と書いてあります。



写真X: 桜並木のそばに「独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 九州沖縄農業研究センター都城研究拠点」があります。



写真Y: 母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真Z: 「さくら名所100選の地 母智丘関之尾公園 平成2年3月3日 財団法人 日本さくらの会」
と書かれた板が石碑(せきひ)にはめ込んであります。



写真AA: 「さくら名所100選の地 母智丘関之尾公園 平成2年3月3日 財団法人 日本さくらの会」
と書かれた板が石碑(せきひ)にはめ込んであります。



写真AB: 宮崎県 都城市の「母智丘の桜祭り」。



写真AC: 母智丘の陰陽桜。
「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板から、
名称 サクラ、科名 バラ
 この陰陽桜は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年



写真AD: 母智丘の陰陽桜。
「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板から、
名称 サクラ、科名 バラ
 この陰陽桜は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年



写真AE: 「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板。
名称 サクラ、科名 バラ
 この陰陽桜は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年
都城市、都城市教育委員会、都城盆地植物愛好会
平成15年3月
と書かれています。



写真AF: 陰陽桜の下部。
「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板から、
名称 サクラ、科名 バラ
 この陰陽桜は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年



写真AG: 陰陽桜の中部。
「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板から、
名称 サクラ、科名 バラ
 この陰陽桜は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年



写真AH: 陰陽桜の上部。
「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板から、
名称 サクラ、科名 バラ
 この陰陽桜は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年



写真AI: 陰陽桜の上部。
「ふるさとの名木 桜(陰陽桜)」の説明板から、
名称 サクラ、科名 バラ
 この陰陽桜は、明治2年(1869年)に都城地頭となった三島通庸が、石峰稲荷明神(いしみねいなりみょうじん)の改築、参道の整備、桜の植栽などを行い、母智丘神社(もちおじんじゃ)と改名した際に植栽されたと伝えられています。
 本来、この桜は2種(ソメイヨシノ、ヤマザクラ)の別々の木でしたが、長い年月を経て一つとなったため、枝によって開化期が異なっており、その様を称して陰陽桜と呼ばれるようになりました。
胸高 3.7 m、根回り 6 m、推定樹齢 150 年



写真AJ: 舞台もあります。
母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真AK: 広場の桜。 桜見の宴(えん)が開かれています。



写真AL: 母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真AM: ボンボリ(街灯)も広場に立っています。



写真AN: 「母智丘関之尾公園の案内図」。



写真AO: 「幸福の鐘(かね)」。 鐘を鳴らすと幸福になれるそうです。
平成2年2月吉日建立 植樹記念碑(ひ)
都城商工会議所 昭和2年 桜植樹 2000本、昭和35年 つつじ植樹 3950株
と書いてあります。



写真AP: 「幸福の鐘(かね)」。 鐘を鳴らすと幸福になれるそうです。
平成2年2月吉日建立 植樹記念碑(ひ)
都城商工会議所 昭和2年 桜植樹 2000本、昭和35年 つつじ植樹 3950株
と書いてあります。



写真AQ: 母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真AR: 母智丘神社(もちおじんじゃ)の鳥居(とりい)。 おみくじ と書いてある旗も見えます。 鳥居の右の細い道を登ると母智丘神社のそばの駐車場に行きます。



写真AS: 「都城 もちお桜まつり」のポスター。



写真AT: 母智丘神社(もちおじんじゃ)の鳥居(とりい)。 母智丘神社と書いてある幟(のぼり)が見えます。 鳥居から288段の階段があります。



写真AU: 母智丘神社(もちおじんじゃ)の鳥居(とりい)。 母智丘神社と書いてある幟(のぼり)が見えます。
鳥居には「母智丘神社」と書いてある額(がく)があります。



写真AV: 母智丘神社(もちおじんじゃ)の鳥居(とりい)。 母智丘神社と書いてある幟(のぼり)が見えます。



写真AW: 参道の階段です。 288段の階段があります。



写真AX: 母智丘神社 参道の階段です。 288段の階段があります。



写真AY: 登ってきた階段を振り返ったもの。 下の鳥居が見えます。



写真AZ: 階段は平らなところが土になっています。 桜の花びらが散っています。



写真BA: 電灯があります。



写真BB: 休憩所(きゅうけいしょ)も階段の途中にあります。



写真BC: これが高いところにある母智丘神社の駐車場です。



写真BD: 母智丘神社の上の鳥居(とりい)です。 左に2つの石碑(せきひ)が見えます。



写真BE: 鳥居の額(がく)に「母智丘神社」と書いてあります。



写真BF: 「鳥居 社務所 改修記念碑」。
「母智丘神社の沿革」
江戸時代において、石峰とか石牟礼とか持尾とも呼ばれ稲荷信仰の対象であったこの地に廃藩置県後に赴任して来た新地頭の三島通庸が、明治3年7月に母智丘神社を創建して、神体を神鏡に取替え豊宇気姫神が祭神され、明治6年横市坂の東側にあった大年神社を廃して合祀し郷社とした。
明治20年頃 社務所建設
明治33年12月 社殿、社務所全焼し再建する。
明治43年7月 石段を切石階段に改める
昭和5年7月 参道を造成 延長 1360 m
昭和13年3月 参道4 m 拡幅
以上の間 三島地頭、黒岩常次郎、江夏芳太郎 が桜を植え今日の母智丘千本桜の名声を博するに至った。
昭和23年 本殿拝殿の改築ならびに石段の改修
昭和35年2月 稲荷神社の改築
昭和42年2月 第一鳥居(鉄筋コンクリート造り)建設 総工費 63万円
昭和49年 社務所を廃し公園管理舎新築
昭和50年 第二、第三鳥居(鉄筋コンクリート造り) 3基建設 境内社務所増改築および手洗所水道施設の建設
と書かれています。



写真BG: 「鳥居 社務所 改修記念碑」。
「母智丘神社の沿革」
 江戸時代において、石峰とか石牟礼とか持尾とも呼ばれ稲荷信仰の対象であったこの地に廃藩置県後に赴任して来た新地頭の三島通庸が、明治3年7月に母智丘神社を創建して、神体を神鏡に取替え豊宇気姫神が祭神され、明治6年横市坂の東側にあった大年神社を廃して合祀し郷社とした。
明治20年頃 社務所建設
明治33年12月 社殿、社務所全焼し再建する。
明治43年7月 石段を切石階段に改める
昭和5年7月 参道を造成 延長 1360 m
昭和13年3月 参道4 m 拡幅
以上の間 三島地頭、黒岩常次郎、江夏芳太郎 が桜を植え今日の母智丘千本桜の名声を博するに至った。
昭和23年 本殿拝殿の改築ならびに石段の改修
昭和35年2月 稲荷神社の改築
昭和42年2月 第一鳥居(鉄筋コンクリート造り)建設 総工費 63万円
昭和49年 社務所を廃し公園管理舎新築
昭和50年 第二、第三鳥居(鉄筋コンクリート造り) 3基建設 境内社務所増改築および手洗所水道施設の建設
と書かれています。



写真BH: 「神社改築記念碑」。



写真BI: ツツジが多く植えてあります。 ツツジの花も見えます。 右上に展望台があります。



写真BJ: ツツジの花も見えます。



写真BK: 平地にある母智丘の桜並木の花も見えています。



写真BL: 平地にある母智丘の桜並木の花も見えています。



写真BM: 母智丘の山頂にある「展望台」が見えます。



写真BN: 鳥居と石碑のそばの桜も美しい。



写真BO: 鳥居と石碑のそばの桜も美しい。



写真BP: 鳥居の下部。



写真BQ: 古神符古神札納所(古い御札を納める所)。



写真BR: 社務所にお茶が用意してありました。 奥に社殿への階段が見えます。



写真BS: 御籤(おみくじ)が縛ってある所が見えます。



写真BT: 御籤(おみくじ)が縛ってある所が見えます。



写真BU: 母智丘神社からは都城市の展望が開けています。



写真BV: 御神札受輿所(社務所)。
母智丘神社(もちおじんじゃ)は宮崎県 都城市 横市町 6691 にあります。



写真BW: 社務所。



写真BX: これが母智丘神社の拝殿です。
母智丘神社(もちおじんじゃ)は宮崎県 都城市 横市町 6691 にあります。



写真BY: 社務所に「島津発祥まつり 11月開催、都城 十字丸、島津家の家紋(かもん) 丸に十の字」の幟(のぼり)や提灯(ちょうちん)が置いてありました。



写真BZ: 母智丘神社。 右に「牛と馬の像」が見えます。 都城は畜産の盛んなところです。



写真CA: 母智丘神社の右手の様子。



写真CB: 左にも牛の像があります。 
拝殿、石灯籠(いしどうろう)、手水舎(ちょうずや)も見えます。
母智丘神社(もちおじんじゃ)は宮崎県 都城市 横市町 6691 にあります。



写真CC: 拝殿の方から来た方向を振り返ったもの。
社務所、鳥居も見えます。



写真CD: 牛の像。



写真CE: 手水舎(ちょうずや)。



写真CF: 御手洗(みたらい)。



写真CG: 牛と馬の像。 都城市は畜産の盛んなところです。



写真CH: 馬の像。



写真CI: 母智丘神社の拝殿。 左に絵馬を掛(か)けるところがあります。 
母智丘神社(もちおじんじゃ)は宮崎県 都城市 横市町 6691 にあります。



写真CJ: 石灯籠(いしどうろう)、絵馬を掛ける所、石造物などが見えます。



写真CK: 絵馬(えま)を掛ける所。



写真CL: 石造物があります。



写真CM: 「陰陽石←」の看板(かんばん)があります。



写真CN: 「稲荷神社、陰陽石、馬頭観音、割石、ワニ石、諸巨大石あり、ご参拝下さい←」の看板があります。
「母智丘神社と陰陽石のご紹介」の説明板。
 大昔のことは明確ではありませんが、母智丘神社は徳川時代の中頃まで稲荷石とほら穴が知られており、その後 神社が出来たものであります。 明治3年10月当時 上庄内郷(現在 都城市庄内町)におりました地頭 三島通庸が母智丘に参詣(さんけい)し、社殿が荒れ果てているのを見て神社再興を図ったものであり、明治33年火災で全焼いたしましたが,郡内有志の力で明治36年再築されました。 御神体は豊受姫神大年神で、昭和21年神社制度の改変以前は県社でありました。 この丘の頂上に散在する巨石群は火山の噴出による赤ボラ(橙黄色のガラス質火山灰)で地中に埋まっていたものでありますが母智丘神社再興工事の時に発掘されました。 その一つに世にも珍しい陰陽石があります。 陰石は周囲 19.3 m 深さ 0.5 mのくぼみがあり、陽石は周囲 17.3 m 高さ 3.3 mと壮大でシンボルにふさわしい形状を整えております。 この一帯は石器時代および古墳時代を通じて人類が居住した遺跡があり、この時代がどんな宗教的思想を持ち生活していたか分かりませんが、長い年月と自然石が生んだ稀に見る逸品であり古くからこの陰石に祈願水をかけると縁結び、安産、商売繁盛、無病息災、病気全快など、霊験あらたかで、今日なお人々の心をひきつけております。
母智丘神社 都城観光協会
と書いてあります。



写真CO: 「母智丘神社と陰陽石のご紹介」の説明板。
 大昔のことは明確ではありませんが、母智丘神社は徳川時代の中頃まで稲荷石とほら穴が知られており、その後 神社が出来たものであります。 明治3年10月当時 上庄内郷(現在 都城市庄内町)におりました地頭 三島通庸が母智丘に参詣(さんけい)し、社殿が荒れ果てているのを見て神社再興を図ったものであり、明治33年火災で全焼いたしましたが,郡内有志の力で明治36年再築されました。 御神体は豊受姫神大年神で、昭和21年神社制度の改変以前は県社でありました。 この丘の頂上に散在する巨石群は火山の噴出による赤ボラ(橙黄色のガラス質火山灰)で地中に埋まっていたものでありますが母智丘神社再興工事の時に発掘されました。 その一つに世にも珍しい陰陽石があります。 陰石は周囲 19.3 m 深さ 0.5 mのくぼみがあり、陽石は周囲 17.3 m 高さ 3.3 mと壮大でシンボルにふさわしい形状を整えております。 この一帯は石器時代および古墳時代を通じて人類が居住した遺跡があり、この時代がどんな宗教的思想を持ち生活していたか分かりませんが、長い年月と自然石が生んだ稀に見る逸品であり古くからこの陰石に祈願水をかけると縁結び、安産、商売繁盛、無病息災、病気全快など、霊験あらたかで、今日なお人々の心をひきつけております。
母智丘神社 都城観光協会
と書いてあります。



写真CP: 「母智丘神社と陰陽石のご紹介」の説明板。
 大昔のことは明確ではありませんが、母智丘神社は徳川時代の中頃まで稲荷石とほら穴が知られており、その後 神社が出来たものであります。 明治3年10月当時 上庄内郷(現在 都城市庄内町)におりました地頭 三島通庸が母智丘に参詣(さんけい)し、社殿が荒れ果てているのを見て神社再興を図ったものであり、明治33年火災で全焼いたしましたが,郡内有志の力で明治36年再築されました。 御神体は豊受姫神大年神で、昭和21年神社制度の改変以前は県社でありました。 この丘の頂上に散在する巨石群は火山の噴出による赤ボラ(橙黄色のガラス質火山灰)で地中に埋まっていたものでありますが母智丘神社再興工事の時に発掘されました。 その一つに世にも珍しい陰陽石があります。 陰石は周囲 19.3 m 深さ 0.5 mのくぼみがあり、陽石は周囲 17.3 m 高さ 3.3 mと壮大でシンボルにふさわしい形状を整えております。 この一帯は石器時代および古墳時代を通じて人類が居住した遺跡があり、この時代がどんな宗教的思想を持ち生活していたか分かりませんが、長い年月と自然石が生んだ稀に見る逸品であり古くからこの陰石に祈願水をかけると縁結び、安産、商売繁盛、無病息災、病気全快など、霊験あらたかで、今日なお人々の心をひきつけております。
母智丘神社 都城観光協会
と書いてあります。



写真CQ: 母智丘神社の拝殿の横。



写真CR: 母智丘神社の拝殿の横。



写真CS: 母智丘神社の拝殿。



写真CT: 母智丘神社にある「陽石」。 赤い鳥居(とりい)に「陽石」と書いてあります。



写真CU: 「陽石」の後ろの様子。



写真CV: 左は母智丘神社の本殿。 右は陽石。



写真CW: 母智丘神社(もちおじんじゃ)は宮崎県 都城市 横市町 6691 にあります。
右は母智丘神社の本殿、左は拝殿。



写真CX: 右は母智丘神社の本殿、左は拝殿。



写真CY: 「陽石」の説明板。
 周囲 17.3 m余り、高さ 3.3 m余り、陰石と同時に発掘された神石で陰石と同様 安産と縁結びの神石とされています。
と書いてあります。



写真CZ: 母智丘神社の陽石。



写真DA: 看板(かんばん)があります。



写真DB: 「割裂神石」の説明板。
 高さ 1.2 m 幅 2.4 m で割裂いた様になっているので割石とも称しその割れた一部は東霧島神社にある割裂神石であると言われています。 タカオカノカミを祀(まつ)った神石で昔からこの付近を堀荒らすと大雨が降ると言い伝えられています。
と書いてあります。



写真DC: 「割裂神石」の説明板。
 高さ 1.2 m 幅 2.4 m で割裂いた様になっているので割石とも称しその割れた一部は東霧島神社にある割裂神石であると言われています。 タカオカノカミを祀(まつ)った神石で昔からこの付近を堀荒らすと大雨が降ると言い伝えられています。
と書いてあります。



写真DD: 手前に小さな鳥居(とりい)があります。
「割裂神石」の説明板。
 高さ 1.2 m 幅 2.4 m で割裂いた様になっているので割石とも称しその割れた一部は東霧島神社にある割裂神石であると言われています。 タカオカノカミを祀(まつ)った神石で昔からこの付近を堀荒らすと大雨が降ると言い伝えられています。
と書いてあります。



写真DE: 右が「陰石」です。



写真DF: 右は陰石の赤い鳥居です。



写真DG: 陰石の上部には穴があります。 上面は参拝者がかけた水で濡(ぬ)れています。



写真DH: 鳥居に「陰石」と書いてあります。 見えている階段に登ってヒシャクで陰石の上部の穴に水をかけます。 階段の右に水入れとヒシャクが見えます。



写真DI: 鳥居に「陰石」と書いてあります。



写真DJ: 「巨石群について」の説明板。
 この丘の上一帯に散在する巨石群は、火山の噴出による赤ボラ(橙黄色のガラス質火山灰)で地中に埋まっていたものを、明治3年の母智丘神社再興工事の時に発掘されたもので、古く石器時代にはこれらの巨石が丘の上に群立していたものと考えられています。 この付近から数多くの土器や石器が発見されているところから、この一帯は石器時代においては石材の採取場であったと想像されますが、同時にこの付近に見られる巨石群は信仰の対象となっていたものと考えられ、いずれも神石として人々のいろいろな願い事がかなえられたと言い伝えられています。
母智丘神社
と書かれています。



写真DK: 母智丘神社の境内(けいだい)。



写真DL: 母智丘神社の境内(けいだい)。



写真DM: 母智丘神社の境内(けいだい)。



写真DN: 母智丘神社の陰石。



写真DO: 「陰石」の説明板。
 周囲 19.3 m 高さ 1.7 m余で陰門は長さ 1.2 m 深さ 0.5 m あり古くから安産、縁結びの神石とされ祈願水を陰門にかけると願い事がかなうと言い伝えられています。
と書いてあります。



写真DP: お賽銭箱(おさいせんばこ)。 右は陰石。



写真DQ: 陰石の近くの様子。 右はヒシャクと祈願水の入れ物。



写真DR: 「祈願水」の説明板。
この祈願水は安産と縁結びを祈願するもので、祈願水を陰陽石にかけることにより願い事がかなうとされています。
と書いてあります。



写真DS: 馬頭観音。



写真DT: 「馬頭観音」と書いてある赤い鳥居(とりい)。



写真DU: 「馬頭観音(畜産の神)」と書いてあります。



写真DV: 「馬頭観音(畜産の神)」。



写真DW: 「雨乞(ご)い場所 日本一稲荷石 旱魃(かんばつ)が続くときに雨乞い祭りをするところです。」
と書いてあります。



写真DX: 「雨乞(ご)い場所 日本一稲荷石 旱魃(かんばつ)が続くときに雨乞い祭りをするところです。」
と書いてあります。



写真DY: 「雨乞(ご)い場所 日本一稲荷石 旱魃(かんばつ)が続くときに雨乞い祭りをするところです。」
と書いてあります。



写真DZ: 母智丘の石峯稲荷神社(いしみねいなりじんじゃ)に狐(きつね)の像があります。 「展望台」と書いてある標識もあります。



写真EA: 奥の建物が母智丘の石峯稲荷神社(いしみねいなりじんじゃ)で、階段を下っていきます。



写真EB: 母智丘の石峯稲荷神社(いしみねいなりじんじゃ)。



写真EC: 「稲荷神社 一、商売繁盛祈願 二、豊作祈願 三、家畜守護 四、天候祈願 五、無病息災願望」
と書いてあります。



写真ED: 石灯籠(いしどうろう)があります。



写真EE: 母智丘の石峯稲荷神社(いしみねいなりじんじゃ)。



写真EF: 彫(ほ)り物をした横木があります。 しめ縄と御幣(ごへい)があります。 白いキツネの像があります。 蛍光灯も上にあります。



写真EG: 「石峯稲荷大明神(いしみねいなりだいみょうじん)」の説明板。
 稲荷大石は大昔より存在の石であり、左右に出入り口の穴があります。 穴の大奥は八畳敷と六畳敷き位の洞穴になっており、昔は白狐(しろぎつね)の巣であり、白狐(びゃっこ)は昔より不思議な霊族を垂(た)れたまい崇敬者の先導敬行(みちあんない)として、いろいろと教えへ導き諸行繁盛神功(いさお)たてまふ。 お神(やしろ)を改造し白狐を御霊として奉る。
と書いてあります。



写真EH: 母智丘の石峯稲荷神社(いしみねいなりじんじゃ)。
右下の穴が見えます。
鈴も見えています。



写真EI: 母智丘の石峯稲荷神社(いしみねいなりじんじゃ)。
大石の右下の穴が見えます。
鈴も見えています。



写真EJ: 大石の右下の穴。



写真EK: 大石の左下の穴。



写真EL: 左の階段を登ると母智丘の山頂にある「展望台」に行きます。 右にも道が見えます。



写真EM: 石峯稲荷大明神(いしみねいなりだいみょうじん)の境内(けいだい)。



写真EN: 石峯稲荷大明神(いしみねいなりだいみょうじん)の境内(けいだい)。



写真EO: 石峯稲荷大明神(いしみねいなりだいみょうじん)の境内(けいだい)。



写真EP: 見えている建物は馬頭観音。 その右の石は「雨乞いの場所」。



写真EQ: 左は石峯稲荷神社。 巨石群があります。 これは稲荷大石。



写真ER: 巨石群があります。 左は稲荷大石。



写真ES: 母智丘の山頂にある「展望台」に行きます。 階段があります。



写真ET: 石峯稲荷神社と巨石(稲荷大石)を振り返ったもの。



写真EU: 母智丘の山頂にある「展望台」が見えてきました。



写真EV: 母智丘の山頂付近の様子(ようす)。



写真EW: 母智丘の山頂付近の様子(ようす)。



写真EX: 母智丘の山頂。 左の建物が展望台、その右が東屋(あずまや)。



写真EY: 母智丘の山頂。 石碑(せきひ)も見えます。 左の建物が展望台、その右が東屋(あずまや)。



写真EZ: 左の建物が展望台、その右が東屋(あずまや)。



写真FA: 母智丘の山頂にある「日露役紀念碑(日露戦争の記念碑)」。 左は東屋(あずまや)。



写真FB: 母智丘の山頂にある「日露役紀念碑(日露戦争の記念碑)」。



写真FC: 石碑(せきひ)があります。



写真FD: 石碑(せきひ)があります。



写真FE: 「母智丘関之尾公園 標高 245.4 m」の標識棒があります。



写真FF: 「母智丘関之尾公園 標高 245.4 m」の標識棒があります。



写真FG: 都城市にある母智丘の山頂(標高 245.4 m)の展望台からの景色(けしき)。 手前はツツジが多くあります。 手前のポールの後ろに母智丘神社の社務所が見えています。 都城市の展望。



写真FH: 母智丘の桜並木が見下ろせます。 母智丘の展望台からの景色。 都城盆地が眺望出来ます。 テレビ、FM放送の放送アンテナがある鰐塚山(わにづかやま、標高 1118.1 m、田野町、三股町、北郷町の境界にあります。)も見えます。



写真FI: 母智丘の山頂にある展望台からの展望。 母智丘の桜並木が見下ろせます。 都城市が眺望出来ます。 テレビ、FM放送の放送アンテナがある鰐塚山(わにづかやま、標高 1118.1 m、田野町、三股町、北郷町の境界にあります。)も見えます。



写真FJ: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の眺望(ちょうぼう)。
手前の桜も見えます。



写真FK: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の展望。



写真FL: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の景色(けしき)。



写真FM: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の見晴らし。



写真FN: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の眺望(ちょうぼう)。



写真FO: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の景色。



写真FP: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の展望。



写真FQ: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の眺望(ちょうぼう)。



写真FR: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の景色(けしき)。



写真FS: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の展望。



写真FT: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の景色。



写真FU: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の展望。



写真FV: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の眺望。



写真FW: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の景色。



写真FX: 母智丘の山頂「展望台」から見た景色。 ツツジの花が咲いています。 母智丘神社の鳥居と石碑も桜の花のそばに見えます。



写真FY: 母智丘の山頂「展望台」から見た「母智丘の桜並木」。



写真FZ: 母智丘の山頂「展望台」から見た「母智丘の桜並木」。



写真GA: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城市の景色。

 

写真GB: 母智丘の山頂「展望台」から見た桜の花。



写真GC: 母智丘の山頂「展望台」から見た都城盆地の景色。 桜の花もきれいです。



写真GD: 母智丘の山頂「展望台」。



写真GE: 母智丘の山頂「展望台」。



写真GF: 母智丘の山頂「展望台」。



写真GG: 母智丘の山頂「展望台」から。



写真GH: 母智丘神社の社務所に降りてきました。 お御籤(みくじ)販売機も見えます。



写真GI: 母智丘神社の高い方の駐車場です。



写真GJ: この駐車場にも多くの桜が咲いています。



写真GK: この駐車場にも多くの桜が咲いています。



写真GL: この駐車場の桜も満開でした。



写真GM: 散った桜の花びら。



写真GN: 母智丘神社の駐車場から「高千穂峰(たかちほのみね、標高 1574.0 m)」が見えます。 高千穂峰の右に見えるコブは二子石(ふたごいし)です。 左に御鉢(おはち、標高 1206 m)も見えます。
手前は桜の花です。



写真GO: 駐車場からの近くの山。



写真GP: 母智丘神社の駐車場にある桜の花。 満開でした。



写真GQ: 母智丘神社の駐車場にある桜の花。 満開でした。



写真GR: 母智丘神社の駐車場にある桜の花。 満開でした。



写真GS: 階段を下ります。 奥に鳥居が見えます。



写真GT: 鯉(こい)のぼりが上げてありました。



写真GU: 平地に降りてきました。



写真GV: 母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真GW: 「幸福の鐘(かね)」。 鐘を鳴らすと幸福になれるそうです。
平成2年2月吉日建立 植樹記念碑(ひ)
都城商工会議所 昭和2年 桜植樹 2000本、昭和35年 つつじ植樹 3950株
と書いてあります。



写真GX: 「幸福の鐘」の説明板。
神話と伝説の霊峰 霧島の麓 母智丘で、2人が手を取り合い願いをこめて幸福の鐘を響かせると幸せが訪れるという。



写真GY: 母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真GZ: 母智丘公園(もちおこうえん)は都城市 横市町 6633 にあります。



写真HA: 母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真HB: 母智丘公園(もちおこうえん)は宮崎県 都城市 横市町 6633 にあります。



写真HC: スオウの赤紫の花が咲いていました。 スオウの花と桜の花。



写真HD: はじめの県道108号線と桜並木がある参道の十字路に戻(もど)ってきました。



写真HE: 「桜並木(1.5 km)→、母智丘神社(山の上) 桜広場←」と書いてあります。



写真HF: 参道の桜並木。



写真HG: はじめの駐車場に戻(もど)ってきました。



写真HH: 駐車場からもテレビ、FM放送の放送アンテナがある鰐塚山(わにづかやま、標高 1118.1 m、田野町、三股町、北郷町の境界にあります。)が見えました。



写真HI: 国道10号線にある食堂の看板。



写真HJ: 国道10号線にある食堂。



写真HK: 大きな木の輪切りのテーブルがありました。



写真HL: 大きな木の輪切りのテーブルがありました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)