宮崎の歴史








 宮崎の歴史 (宮崎県の歴史)

 宮崎県の観光地、行楽地、史跡などを訪(たず)ねるとき、簡単な「宮崎の歴史」を知っていると、ますます楽しくなります。


(1) まず日向国ができました。

  天皇を中心に、朝廷(ちょうてい)による律令制(りつりょうせい)は7世紀後半(飛鳥時代後期)から10世紀まで実施されました。 701年 (大宝元年)に「日向」という国号が決まりました。 奈良時代、日向の国府(今の県庁)は西都市にありました。 今でも、西都市の稚児ヶ池(ちごがいけ)の近くに国府跡が残っています。 その頃の特産品は牛と馬でした。 奈良時代の761年(天平宝字5年)頃(ごろ)の国司(日向守)は安倍黒麻呂でした。 それ以後も多数の人が国司(日向守)を勤(つと)めています。 平安時代に日向国の国司であった源重之が、高鍋町の蚊口浦にある琴弾きの松碑の所で、大きな老松をみて 志ら浪の よりくる糸を をにすげて 風に 志らぶる ことひきの松 と 和歌を詠 (よ)みました。 西都市の国府から今の高鍋町に来たのでしょう。 平安時代の末期は、日向国も国司が赴任しない遥任(ようにん)でしたが、国司の実務は在国司職(ざいこくししき)に委(ゆだ)ねられていました。 在国司職は国衙在庁官人の筆頭です。 日向国の場合は日下部(くさかべ)が世襲していました。 しかし、平家滅亡とともに、文治三年(1187年、鎌倉幕府の始まる5年前)在国司職は日下部から土持信綱(つちもちのぶつな)に移りました。 8世紀前半に日向国から薩摩国、大隅国が独立して、日向国は今の県とほぼ同じ広さ、形になりました。
  駅使 (えきし)は天皇から駅鈴をもらって行き来しました。 駅鈴はいろいろな国にも置かれました。 大切な情報をすばやく中央と地方との間に伝えるために、駅路は直線的なものが多くありました。 集落などとは無関係に造られ、道幅も 6 m を超えていました。 駅には駅舎があり、駅長がいて、給食、宿泊、馬の中継などを行いました。 駅長の下に駅子がいて駅馬をひきました。 駅の維持のため駅田 (えきでん)が大路4町、中路3町、小路2町与えられました。 駅戸がその駅田を耕 (たがや)しました。 駅子は120人から130人ほどでした。
 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資および手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られました。 そして、約30里 (当時の1里は約550 m)ごとに、駅が作られ、駅には、駅馬が置かれました。 日向国では、16の駅が作られました。
日向16駅は、豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。 それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ、という官道 (今の国道。)がありました。
「日向国の駅」は、(豊後路より) 臼杵郡 長井駅 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺駅 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田駅 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰駅 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛駅 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯駅 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨駅 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田駅 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨駅 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁駅 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣駅 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津駅 しまづ 都城市郡元、大隅路へ。 また国府 (西都市)から分岐して国府 (西都市)、諸県郡 亜榔駅 あや 綾町、諸県郡 野後駅 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守駅 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真 駅 まさき えびの市真幸、肥後路へ、というものでした。
古代駅の「去飛 (こひ)」は宮崎県 児湯郡 都農町 大字川北 字福原尾 にあります。
古代駅の場所が正確に特定されているのは珍 (めずら)しいと思います。 当時の井戸が残っているのはすばらしいことです。
「去飛 (こひ)の駅井戸の由来 (ゆらい)」の説明板から、
 この井戸は千余年前、日向16駅の1つとしてこの地に去飛 (こひ)の駅が設 (もう)けられた際、往来する人馬の用に供せられたものであると伝えられている。 以来、この地区の人々の生活用水として敬 (うやま)い親しまれてきたものである。
 また「去飛 (こひ)」の駅名は「都農」という文字の草書体を誤って「去飛 (こひ)」と読まれたことによるものである。
 この駅に駅馬 (えきば、律令制で、駅に用意しておいて官用に供した馬のことです。 山陽道の各駅に20匹、東海道・東山道では10匹、他の諸道では5匹でした。)・伝馬 (でんま、逓送用の馬で、律令制では、駅馬とは別に、各郡に5匹ずつ飼 (か)わせ、公用旅行の官人に使わせました。)それぞれ5頭を置き交通・運輸の便をはかった往時 (おうじ)をしのび、名残 (なごり)の井戸を整備して永く後世に伝えるものである。
 朝鮮の百済 (くだら)王が宮崎に亡命したという伝説もあります。
 「百済王妃 (くだらおおひ)之伎野(しぎの)の墓」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字持田 字鴫野 (しぎの)にあります。
地名の鴫野 (しぎの)は百済王妃の之伎野(しぎの)に由来 (ゆらい)すると伝えられています。
「之伎野(しぎの)妃の墓の由来 (ゆらい)」の説明板から、
 およそ1340年前 (西暦660年頃)朝鮮で戦いがあり、百済 (くだら)の国は新羅 (しらぎ)の国に侵攻され、百済国の禎嘉王(ていかおう)の一行は日本の大和王朝に救いを求めて、船2隻に分乗して日本へと脱出した。 ところが途中 (とちゅう)で嵐に襲われて流され、禎嘉王(ていかおう)が乗った船は日向の金ヶ浜に、息子の福智王や母妃の船は高鍋の蚊口浦の海岸に漂着した。
 福智王は母妃をその海岸に残したまま新羅 (しらぎ)の追討軍の目をそらす為に、木城の比木へと向かった。 禎嘉王(ていかおう)は(美郷町の)南郷に、福智王は木城に、之伎野(しぎの)妃は高鍋に居を構 (かま)えたが、一族の安らかな日々は長くは続かなかった。
 南郷村 神門 (みかど)の禎嘉王(ていかおう)のもとに新羅の追討軍が押し寄せてきた。 追討軍は撃退したものの禎嘉王(ていかおう)は討 (う)ち死にし、福智王や弟の華智王も手傷を負 (お)い共に命果 (は)てた。 そこで之伎野(しぎの)妃はもはやこれまでと命を絶ち女官らも付き人たちも殉死 (じゅんし)して果 (は)てた。
 この悲惨 (ひさん)な出来事に大きな衝撃 (しょうげき)を受けた高鍋の農民たちは、この王族の悲劇を嘆 (なげ)き悲しみ、慰霊に心を砕 (くだ)き、この王族を神として長年にわたって崇拝してきたのである。
 この之伎野(しぎの)妃の墓と伝えられる五輪の塔の墓は周 (まわ)りに十数基ほどの墓に守られるように建っており、この周 (まわ)りの墓は殉死 (じゅんし)した女官らのものと思われる。
 「鴫野 (しぎの)」という地区名はこの之伎野(しぎの)妃の呼 (よ)び名から生 (う)まれたものと言われている。
 これとは別に、宮崎市 田野町に百済王 (くだらおう)が来て住んだという伝説もあります。
田野天建神社にある御祭神 百済国王 (くだらこくおう)の説明板から、
 昔、百済国王の船が日向の油津に漂着された。 王は我が住処は何処 (どこ)にしたものかと見回した時、遥 (はる)か北の方の山に五色の雲が舞い下がった。 王は彼処が我が住地だとつぶやいて小姓 (こしょう)1人を従 (したが)えてわけ入った。 峻しき路に疲れて、小姓は魂 (たましい)が抜 (ぬ)けたようになった。 王は谷川の水を掬 (すく)って彼の口にそそいだ。 小姓は忽 (たちま)ちその水で正気を取り戻 (もど)した。 かくしてこの坂は後に「小姓」坂と呼 (よ)ばれた。 それからなお進んで、一宿した処 (ところ)を後に宿野 (しゅくの)といった。 折 (おり)から田野の男達8人がその前を通って王を見つけ、その怪異の姿に敬意を起こし恭 (うやうや)しく話かけたが王は何も言わない。 そこで彼らは、持っていた蔦葛 (つたかずら)をうち振り身ぶりおかしく舞を舞った。 王はその時微笑した。 後永くシャグリ舞いと言ってこの時の舞いの様子 (ようす)を伝えたと云 (い)う。 彼らは、それから王を導いて田野に帰り、そこに仮殿を建てて仕 (つか)えた。 不思議にも王の手飼いの鶴 (つる)が王を慕 (した)って飛び来り、その仮殿を守護した。 王は月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の駒 (こま)を愛し、それに跨 (またが)ってあちこちと遊覧してまわられた。 ある時、王の馬は何かに驚いたのか急に躍 (おど)り上がって、王を乗せたまま井戸の中にとびこんでしまった。 そのため、王の冥福 (めいふく)を祈り、村内の井戸を全 (すべ)て埋 (う)め、またそれ以来、田野では月毛 (馬の毛色で、葦 (あし)毛のやや赤みのあるもの。)の馬を忌(い)むと云 (い)う。 王は、かくて薄命の身の終わりを告げたが、村人は厚く王を葬 (ほおむ)り、神として祀 (まつ)ったと云 (い)う。

 養老4年 (720年)2月29日 (奈良時代は710年〜784年です。)、大隅 (おおすみ)、日向 (ひゅうが)の隼人 (はやと)らは初代 大隅国守・陽候史麻呂を殺害して反乱を起こしました (隼人の乱)。 古くは大隅、薩摩も日向国でしたが、大和朝廷 (ちょうてい)は細分化して統制を強めようとし、日向国から大隅国、薩摩国を分離しました (養老律令 (ようろうりつりょう、718年))。 酋長 (しゅうちょう)を中心に共同体を作っていた隼人たちは、中央から派遣 (はけん)された官僚に支配されることに反発しました。 現在3箇所 (かしょ、都城市山之口町、日南市飫肥、鹿児島県曽於市大隅町)の八幡神社の祭りで大きな人形の弥五郎 (どん、様)が出る行事が残っています。 「弥五郎どん」とは奈良時代初期の大和朝廷 (ちょうてい)と隼人族が戦った、隼人の乱のときの隼人族の首領と言われています。 隼人側は数千人の兵が集まりました。 7箇所 (かしょ)の城に立てこもりました。 大和朝廷は九州各地から1万人以上の兵を集めました。 そして九州の東側と西側の二つの経路で進軍しました。 戦いは1年半近く続きました。 大和朝廷が勝ちました。 隼人の乱では隼人族の戦死者と捕虜 (ほりょ)の合計が約1400人でした。 隼人族の首は大分県の宇佐神宮の近くへ持っていかれました。 それが「凶首塚」 (昭和46年3月26日 県指定史跡)という石室古墳 (いしむろこふん)です。 鹿児島県 国分市 (現 霧島市)には隼人塚が残っています。 捕虜は都 (奈良県の平城京 (平城京は710年から784年です。))に連 (つ)れて行かれました。

(2) 次ぎに荘園の地頭が台頭しました。

 鎌倉時代になると、律令制は廃(すた)れ、日向国のほとんどは荘園制度で支配されました。 荘園は有力な貴族や寺、神社によって開墾された土地です。 源頼朝の家来が由来の都城周辺の島津(島津忠久は頼朝から薩摩と大隅の守護職に補任され、後に日向の守護職も得ました。)、大分県の宇佐神宮が由来の県北の土持(つちもち)が地頭職として勢力を持っていました。 (土持は大和時代から耳川の戦いのころ大友に敗れるまで栄えた土着の一族です。 土持は現在の延岡市、西都市、高鍋町、宮崎市、日南市などで栄えましたが、伊東との戦いでしだいに力を失いました。 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。) 南北朝時代は中央部(西都市)に源頼朝の家来で、伊豆半島から下向した伊東が加わりました。 今でも伊豆半島に伊東という地名があります。 初めは分家の伊東(宮崎市 佐土原の地名 田島を名乗りました。)、次に本家の伊東が西都市の都於郡(とのこおり)に住み着きました。 このころは、全国的に群雄割拠の時代です。

(3) 戦乱の時代になりました。

 全国的に、鎌倉時代の守護地頭制によって荘園はしだいに武家に侵略されました。 16世紀中頃は伊東が日向国の大半を支配していました。 伊東祐尭(すけたか)、祐国のときに大きく領地が広がりました。
 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城(内山城、後の天ヶ城のことです。)、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
1572年の「木崎原の戦い」(えびの市)で島津義弘に伊東は大敗し、伊東義祐は豊後(大分県)の大友宗麟を頼り、約100名が米良越えをして落ちのびます(1577年)。 米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、まだ義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどを連れ米良越えをして豊後(大分)へ落ちのびました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。 その後、大友宗麟は日向に攻め込みます。 しかし、「耳川の戦い(高城川合戦)」(木城町、日向市など、1578年)で島津義久に敗れました。 島津は九州制覇を果たそうとするほどの勢いでしたが、豊臣秀吉の九州征伐に降伏しました(根白坂の戦い(木城町、1587年))。 秀吉軍は、九州の東岸、西岸それぞれ約10万の兵で攻めてきました。 九州征伐(せいばつ)の後、豊臣秀吉が江戸時代の宮崎の藩(はん)の区域分けの基礎を作りました。 その一つとして秋月が高鍋城主になりました(秋月ははじめは櫛間城(くしまじょう、串間市)に居城し、1604年から財部城(高鍋城、高鍋町)に移りました。)。

(4) 江戸時代は小藩分立でした。

 江戸時代は、延岡藩(高橋など5つの殿様が交代しました。 高橋(外様)、有馬(外様)、三浦(譜代)、牧野(譜代)、内藤(譜代)。)、高鍋藩(秋月)、佐土原藩(佐土原島津)、飫肥藩(おびはん、伊東)、鹿児島(薩摩)藩(鹿児島(薩摩)島津)、天領(幕府の領地、富高、宮崎、本庄)、天領で人吉藩の預かり地(椎葉山、米良山)と細分化していました。 このうち譜代大名(ふだいだいみょう、関ヶ原の戦い以前から徳川の臣であったもの、およびそれに準ぜられたもの)は後半の延岡藩だけでした。 島津を警戒した幕府は、細分化した日向国を、お互いに反目・監視させていました。 宮崎の城で天守閣(てんしゅかく)があったのは佐土原城と延岡城の2つです。
 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 江戸時代には大規模な百姓一揆 (ひゃくしょういっき)もありました。
「山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の記念碑」である「山陰坪屋 逃散300年記念碑」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。 「坪屋」は坪谷のことです。 西城跡である西城公園にあります。
「逃散300年記念碑」の裏 (うら)にある碑文 (ひぶん)から、
元禄3年 (1690年)9月19日 藩主 有馬清純の郡代代官の悪政に抗して山陰坪屋300軒 (男864人 女558人 総勢1422人)の私達の祖先は大挙して領外に逃散した。 元禄泰平の夢を驚かせた1大事件は江戸幕府に解決を煩 (わず)わらせて争うこと10ヶ月、要求貫徹に成功したが、磔獄門 (はりつけごくもん)、打首、死罪、遠島等21名の尊い犠牲者を出し、領主もまた悪政の罪に問われて無城の地、越後 (新潟県)の糸魚川に移されるなど、我が国農民史上特筆さるべき百姓一揆 (ひゃくしょういっき)であった。 その後、村人達は朝参供養と称して犠牲者の霊を慰める法会を営 (いとな)んで今日に及 (およ)んでいる。
「山陰百姓逃散一揆留置地之碑 (ひ)」が都農町 大字川北 字又猪野 にある又猪野地区集会所にあります。 その石碑 (せきひ)から、
 ときは元禄 (げんろく)の頃、あいつぐ天災にくわえ、延岡藩役人の容赦 (ようしゃ)ない年貢 (ねんぐ)取り立てなどの悪政に堪 (た)えかねた山陰・坪谷両村の百姓299所帯 (世帯)、1422名が元禄3年 (1690年)9月19日に一斉に (いっせい)に村をすて高鍋藩領を目指 (めざ)して逃散 (とうさん)した。 高鍋藩は百姓たちを股猪野原 (現在の都農町 又猪野)に小屋を作り全員を収容した。 逃散の百姓たちは高鍋藩から飯米の給付を受けたが、拘束 (こうそく)された不自由な生活を送っていた。 月日がたつにつれ老人や子どもなど79名もの死亡者が出るほど悲惨 (ひさん)な生活状態であった。 約11ヶ月に及 (およ)ぶ小屋掛 (か)け生活の間に延岡、高鍋両藩の帰村の説得には応じず、ついに幕府評定所の裁定によって一揆 (いっき)首謀者等関係者ははりつけや打ち首などの死罪、島流しの刑 (けい)を受けた。 その他の村人は放免 (ほうめん)となり、元禄4年7月に帰村した。 逃散事件から310年の年を迎え、自分たちの生きる権利の獲得 (かくとく)のためにこの股猪野原で強く生きた逃散百姓たちの霊 (れい)を供養 (くよう)し、この碑 (ひ)を建立 (こんりゅう)する。 平成12年 (2000年)9月19日 (9月19日は一揆の始まった日です。)
 また宮崎市でも江戸時代中期に宮崎5ヶ村騒動と呼 (よ)ばれる百姓一揆 (ひゃくしょういっき)がありました。
江戸時代の中期の1750年 (寛延3年)に宮崎市にあった延岡藩の飛び地の長嶺村・浮田村・大塚村・富吉村・瓜生野村・大瀬町 (途中で浮田村は脱落。)に百姓一揆 (ひゃくしょういっき)がありました  (宮崎5ヶ村騒動)。 課税の強化に反発したそれらの百姓たちは宮崎市 柳瀬に逃散 (とうさん)することを計画していました。 薩摩藩 (さつまはん)の柳瀬は朝倉観音のある金崎の隣り (となり、南東)にあります。 長嶺は妙円寺跡石塔群のある浮田の南西 約1 km のところにあります。 そのときに代官所に頼 (たの)まれて瓜生野 (うりゅうの)の王楽寺も調停を引き受けました。 百姓たちの全面勝利になりました。 王楽寺にも金100疋 (ひき) (100疋 = 1貫 = 3.75 kg)を延岡内藤藩は与えました。 また、瓜生野の直純寺にも延岡内藤藩は銀2枚を与えました。

(5) 明治時代以降は廃藩置県になりました。

 1871年の廃藩置県で、佐土原県など6つの県が短期間出来ましたが、その後、日向国は美々津県と都城県になりました(境界は大淀川)。 1873年、これが統合して宮崎県になりました。 1876年、鹿児島県に統合され、宮崎県は一時なくなりました。 1883年に鹿児島県から独立して現在の宮崎県が出来ました。


 このような流れの中で、宮崎の観光地、行楽地、史跡などを眺(なが)めてみましょう。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)