宮崎神宮大祭 神武さま広場(夜祭り)、古代船 おきよ丸 (高千穂通り、日向ひょとこ踊り、下水流 臼太鼓踊り、泰平踊、熊襲踊り、いろは口説、日向木剣おどり、JC(宮崎青年会議所)太鼓、神楽(かぐら)、神武こども太鼓隊、奈良県の橿原(かしはら)青年会議所のジャンボお好み焼き、沖縄のエイサー、しもずる うすだいこおどり、たいへいおどり、くまそおどり、いろはくどき、宮崎中央郵便局、NTT西日本 宮崎支店 (宮崎県立 宮崎高等女学校 跡の石碑)、宮日会館)  (宮崎県 宮崎市 高千穂通り)







<標高、位置>  JR 宮崎駅は
標高 数 m
 北緯31度54分57秒  東経131度25分55秒

<標高、位置>  宮崎中央郵便局は
標高 数 m
 北緯31度54分59秒  東経131度25分32秒

<標高、位置>  デパート前交差点は
標高 数 m
 北緯31度55分00秒  東経131度25分24秒


 JR 宮崎駅は宮崎県 宮崎市 錦町 1-8 にあります。

 宮崎中央郵便局は宮崎県 宮崎市 高千穂通 1-1-34 にあります。

 NTT西日本 宮崎支店は宮崎市 広島 1-5-3 にあります。

 「宮崎神宮大祭」は10月末に行われます。 これは神武天皇が美々津から船出した日にちにちなみます(神武東征)。 宮崎神宮大祭では御神幸行列の往路は宮崎神宮を出発して、御神輿(おみこし)が泊(と)まる瀬頭御旅所(1913年建設)までです。 1965年から御旅所は瀬頭(奇数年)、中村(偶数年、中村4丁目)の隔年交代となりました。 復路はこの逆の道順です。 往路が終わった後に、高千穂通りを歩行者天国にした「神武さま広場」で夜祭りが開催されます(2003年以後)。 神武さま広場では神楽(かぐら)、踊り、太鼓(たいこ)、音楽などの多くの郷土芸能が演じられます。

 宮崎神宮大祭の「古代船 おきよ丸」: 神武天皇が美々津からの大和まで神武東征に出発しました。 そのとき、出船が早まり早朝に人家の戸をたたいて「起きよ、起きよ」と人々の目を覚ましたという伝説から「おきよ丸」と名付けられました。 高千穂通りが宮崎神宮大祭 夜祭の会場(神武さま広場)です。
2005年(平成17年)に神武天皇の神武東征のときの船である「古代船 おきよ丸」が完成しました。 普段は宮崎神宮 西神苑の屋根の下に安置してあります。 宮崎神宮の神木と県産の杉を用いた「おきよ丸」は全長 12 m、幅 2.2 m、重さ 2 トンの古代の船です(建造費は約1000万円)。 おきよ丸が御神幸行列を先導します。 この古代船は西都市の西都原古墳群から出土した舟形埴輪(はにわ)を参考にして、綾町の職人さんたちが造りました。 台車に乗っています。 行列では神武天皇、妻の吾平津媛(あひらつひめ)、約25人の従者が乗ります。 若者たちが台車ごと動かします。

 「宮崎神宮」は宮崎県宮崎市神宮2丁目4番1号にあり、神武天皇を主祭神とし相殿には御父君と御母君が奉斎されている。 神武天皇は45歳の御時、天下統治に応しい地を求めて日向国を御出発、数々の苦難の末に大和地方を平定され第一代の天皇として即位された。 後に皇子神八井耳命の御子(建磐龍命)により、天皇の御神霊が当地(皇居高千穂宮の霊地)に鎮祭され今日に至っている。
 古来より神武天皇宮域は神武天皇廟(びょう)と称されて歴代領主の尊崇篤く、明治維新に際し神武創業の昔に復えるという事で、特に注目、重視された。 明治18年、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に昇格、社名も同11年、宮崎神社から宮崎宮と改称され、大正2年に現在の宮崎神宮となった。 その間の明治31年、神武天皇御降誕大祭会(総裁公爵二条基弘、会長伯爵島津忠亮、幹事長男爵高木兼寛)が発足し、社殿の造営境内地拡張等の大工事が進められた。 特に明治天皇には御内金を下賜あらせられ、これを契機に全国的規模の募金活動が展開された。 同40年に竣工、遷座奉告祭が斎行され、更に同年11月、嘉仁親王殿下(大正天皇)のご参拝を給わった。 以後皇族方のご参拝が続いた。 殊に昭和天皇には皇太子裕仁親王殿下の御時、大正9年を始めとして6度のご参拝を給わった。 又皇太后陛下には大正12年、久宮良子女王殿下として御成婚御奉告を始めとして陛下とともに2度の御参拝を給わっている。
 地元では「神武さま」と親しんで呼ばれる。 社殿は伊勢神宮と同じ神明造。 木材は高原町の狭野神社にある狭野杉が用いられた。 毎年10月下旬には宮崎神宮大祭があり、神宮から瀬頭の「御旅所」まで御神賑行列が練り歩く。
 1197年に地頭の土持太郎信綱が社殿を造営。 その後、伊東が蓮ヶ池、下北方より社領を奉献(1473年)。 伊東が下北方、江平に神地を奉献(1562年)。 有馬(当時、宮崎城は延岡藩の飛び地でした)が造営改築(1644年)。
 4月3日: 神事流鏑馬(やぶさめ)、10月26日: 例祭、10月27日から10月29日: 御神幸祭(宮崎神宮大祭)が行われる。


写真A: 宮崎神宮大祭に参加する獅子舞(ししまい)が出演の前に演技をしています。



写真B: 宮崎神宮大祭に参加するための太鼓(たいこ)、御幣(ごへい)などが見えます。



写真C: 獅子舞(ししまい)の頭をかかえて出発します。



写真D: JR 宮崎駅の西側の広場です。 奥に高千穂通りが見えています。 高千穂通りで宮崎神宮大祭 (夜祭)が行われます。 西を見たもの。



写真E: 宮崎神宮大祭。 かがり火がたいてあります。



写真F: 宮崎神宮大祭。 かがり火があります。 後ろに「古代船 おきよ丸」があります。 完成して間もない新しいものです。



写真G: 宮崎神宮大祭の「古代船 おきよ丸」が後ろにあります。 この「おきよ丸」は完成して間もない新しいものです。 宮崎神宮大祭の「古代船 おきよ丸」: 神武天皇が美々津からの大和まで神武東征に出発しました。 そのとき、出船が早まり早朝に人家の戸をたたいて「起きよ、起きよ」と人々の目を覚ましたという伝説から「おきよ丸」と名付けられました。 高千穂通りが宮崎神宮大祭 夜祭の会場(神武さま広場)です。
2005年(平成17年)に神武天皇の神武東征のときの船である「古代船 おきよ丸」が完成しました。 普段は宮崎神宮 西神苑の屋根の下に安置してあります。 宮崎神宮の神木と県産の杉を用いた「おきよ丸」は全長 12 m、幅 2.2 m、重さ 2 トンの古代の船です(建造費は約1000万円)。 おきよ丸が御神幸行列を先導します。 この古代船は西都市の西都原古墳群から出土した舟形埴輪(はにわ)を参考にして、綾町の職人さんたちが造りました。 台車に乗っています。 行列では神武天皇、妻の吾平津媛(あひらつひめ)、約25人の従者が乗ります。 若者たちが台車ごと動かします。



写真H: 神武天皇の東征を再現 「古代船 おきよ丸」
この船は、美々津(みみつ)から船出して大和(やまと)へいったとされる神武天皇の東征を再現すべく本年、各企業の御協賛により作成されました。
全長 12 m、幅 2.2 m、重量 2 トン
と書いてあります。



写真I: 「古代船 おきよ丸」が高千穂通りに置いてあります。 この「おきよ丸」は完成して間もない新しいものです。 おきよ丸は普段は宮崎神宮 西神苑に保管してあります。 宮崎神宮大祭の「古代船 おきよ丸」: 神武天皇が美々津からの大和まで神武東征に出発しました。 そのとき、出船が早まり早朝に人家の戸をたたいて「起きよ、起きよ」と人々の目を覚ましたという伝説から「おきよ丸」と名付けられました。
神武天皇の東征を再現 「古代船 おきよ丸」
この船は、美々津(みみつ)から船出して大和(やまと)へいったとされる神武天皇の東征を再現すべく本年、各企業の御協賛により作成されました。
全長 12 m、幅 2.2 m、重量 2 トン。
手前は社団法人 宮崎青年会議所(JC)の旗です。



写真J: 高千穂通りで行われた宮崎神宮大祭で太鼓(たいこ)の演技が披露(ひろう)されています。
社団法人 宮崎青年会議所(JC)の太鼓(たいこ)の演技です。



写真K: 後ろはおきよ丸です。 神武天皇の東征を再現 「古代船 おきよ丸」
この船は、美々津(みみつ)から船出して大和(やまと)へいったとされる神武天皇の東征を再現すべく本年、各企業の御協賛により作成されました。
全長 12 m、幅 2.2 m、重量 2 トン。
手前は社団法人 宮崎青年会議所(JC)の旗です。



写真L: おきよ丸の近くでタイコの演技が行われています。
手前は社団法人 宮崎青年会議所(JC)の旗、と太鼓(タイコ)の演技です。



写真M: 宮崎神宮大祭でのタイコの演奏(えんそう)です。
宮崎青年会議所(JC)太鼓(タイコ)の演技です。



写真N: 古代の軍人の姿です。 弓矢、槍(やり)、刀(かたな)を持ち鎧(よろい)、兜(かぶと)を身につけています。



写真O: 子供さんたちが出車(だし)に乗りタイコをたたいています。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭 夜祭(神武さま広場)。
神武こども太鼓隊(小学3年生から6年生)です。



写真P: 子供さんたちが出車(だし)に乗りタイコをたたいています。 神武こども太鼓隊(小学3年生から6年生)です。



写真Q: こちらは白衣を着てのタイコの演奏です。



写真R: 日向ひょとこ踊り(おどり)の人達です。 左上に高千穂通り沿(ぞ)いにあるCARINO宮崎の看板が見えます。 テント、屋台(やたい)も多くあります。



写真S: 飾りのついた高い棒が見えます。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭 夜祭り(神武さま広場)です。



写真T: 日向ひょとこ踊りの人達です。



写真U: 高千穂通りの歩道にできていた屋台(やたい)です。



写真V: バス停「高千穂通2丁目 宮崎交通」です。 上にしめ縄(なわ)と御幣(ごへい)が見えます。



写真W: 宮崎市 高千穂通りで行われた「日向ひょとこ踊り」です。



写真X: 高千穂通りで行われた「日向ひょとこ踊り」です。



写真Y: 木刀(ぼくとう)を持って演技をする人達です。 日向木剣(ぼくけん)踊りです。



写真Z: 木刀(ぼくとう)を持って演技をする人達。 日向木剣(ぼくけん)踊りです。



写真AA: 木刀(ぼくとう)を持って演技をする人達です。 日向木剣(ぼくけん)踊りです。



写真AB: 「宮崎県立 宮崎高等女学校 跡の石碑(せきひ)」です。 高千穂通り沿(ぞ)いのNTT西日本 宮崎支店にあります。 NTT西日本 宮崎支店は宮崎市 広島 1-5-3 にあります。



写真AC: 高千穂通り沿(ぞ)いのNTT西日本 宮崎支店です。



写真AD: 宮崎市 高千穂通りでの宮崎神宮大祭 夜祭り(神武さま広場)で「神楽(かぐら)」が舞(ま)われています。 四方に竹を立て、しめ縄と御幣(ごへい)があります。
後ろの建物はカリーノ宮崎です。



写真AE: 高千穂通りでの宮崎神宮大祭 夜祭り(神武さま広場)で「神楽(かぐら)」が舞(ま)われています。 四方に竹を立て、しめ縄と御幣(ごへい)があります。 後ろの建物はカリーノ宮崎です。



写真AF: 宮崎神宮大祭 夜祭り(神武さま広場)で「神楽(かぐら)」が舞(ま)われています。 四方に竹を立て、しめ縄と御幣(ごへい)があります。 タイコと太鼓を打つ人も見えます。 後ろの建物はカリーノ宮崎です。



写真AG: 屋台(やたい)も多く出ていました。



写真AH: 中央奥に山形屋が見えています。



写真AI: 宮崎神宮大祭 夜祭り(神武さま広場)で「神楽(かぐら)」が舞(ま)われています。 四方に竹を立て、しめ縄と御幣(ごへい)があります。 タイコと太鼓を打つ人も見えます。 デパート前交差点の近くです。 左端は山形屋です。



写真AJ: 宮崎神宮大祭 夜祭り(神武さま広場)で「神楽(かぐら)」が舞(ま)われています。 四方に竹を立て、しめ縄と御幣(ごへい)があります。 タイコと太鼓を打つ人も見えます。 右にも巴(ともえ)のマークのある大型の太鼓(たいこ)が見えています。 デパート前交差点の近くです。 中央奥はMRTセンターです。 その右に交番、SMBC日興証券株式会社宮崎支店が見えます。



写真AK: 宮崎神宮大祭 夜祭り(神武さま広場)で「神楽(かぐら)」が舞(ま)われています。 四方に竹を立て、しめ縄と御幣(ごへい)があります。 左端にボンベルタ橘が見えています。 右寄りにMRTセンターが見えています。 その右に交番、SMBC日興証券株式会社宮崎支店が見えます。



写真AL: 高千穂通りの車道も神宮大祭で歩行者天国(神武さま広場)になっています。



写真AM: 「DELL、CARINO MIYAZAKI」です。



写真AN: 宮崎神宮 大祭(神武さま広場)です。



写真AO: 宮崎神宮 大祭(神武さま広場)。



写真AP: 宮崎中央郵便局の建物と郵便局のマークが見えています。
宮崎中央郵便局は宮崎県 宮崎市 高千穂通 1-1-34 にあります。



写真AQ: 高千穂通り沿(ぞ)いにある宮日会館です。



写真AR: 高千穂通り沿(ぞ)いにある宮日会館。



写真AS: 宮日会館です。



写真AT: 宮日会館。



写真AU: 出店で売っている「お面」です。



写真AV: 高千穂通りで演じられている踊り(沖縄のエイサー: 沖縄本島の盆踊りです。)です。 太鼓(たいこ)を打つ人も見えます。



写真AW: 宮崎神宮 大祭。 出店の「金魚すくい」です。



写真AX: 宮崎神宮 大祭。 出店の「射的(しゃてき)」です。 おもちゃの空気鉄砲でコルクの弾(たま)を飛ばし、壁際(かべぎわ)にある景品を撃(う)ち落とすとその景品をもらえます。



写真AY: 神宮大祭のときの高千穂通りです。



写真AZ: 出店の「ヨーヨー釣(つ)り」です。



写真BA: 高千穂通りで行われている宮崎神宮 大祭 夜祭です。 タイコの演技です。 沖縄のエイサー: 沖縄本島の盆踊りです。
奥の建物はNTT西日本 宮崎支店です。



写真BB: 歩道の隅(すみ)には自家発電機が置いてありました。



写真BC: 高千穂通りです。



写真BD: 木刀(ぼくとう)を持っての演技です。 日向木剣(ぼくけん)踊りです。 上は車道の道路標識です。



写真BE: 木刀(ぼくとう)を持っての演技。 日向木剣(ぼくけん)踊りです。 宮崎神宮 大祭 夜祭(神武さま広場)です。



写真BF: 木刀(ぼくとう)を持っての演技。 日向木剣(ぼくけん)踊りです。 上は車道の道路標識です。



写真BG: 木刀(ぼくとう)を持っての演技です。 日向木剣(ぼくけん)踊りです。 宮崎市 高千穂通り(神武さま広場)です。



写真BH: 高千穂通りです。 宮崎神宮大祭(神武さま広場)が行われています。



写真BI: 高千穂通りの美術的な建造物です。 上にしめ縄と御幣(ごへい)が見えます。



写真BJ: 「宮崎県無形文化財 熊襲踊り(くまそおどり) 都城市 庄内町 熊襲踊り保存会」の幟(のぼり)見えます。 熊襲踊りの大きな輪(わ)を持った人達がいます。



写真BK: 宮崎県 日南市 飫肥(おび)の「泰平踊(たいへいおどり)」です。 左上にCARINO宮崎の看板(かんばん)も見えます。



写真BL: 日南市 飫肥(おび)の「泰平踊(たいへいおどり)」です。 左上にCARINO宮崎の看板(かんばん)も見えます。 宮崎神宮大祭。



写真BM: 日南市 飫肥(おび)の「泰平踊(たいへいおどり)」です。 左上にCARINO宮崎の看板(かんばん)も見えます。



写真BN: 宮崎県 都城市の「熊襲踊り(くまそおどり)」です。 大きな輪が特徴です。



写真BO: 都城市の「熊襲踊り(くまそおどり)」です。 大きな輪が特徴です。



写真BP: 宮崎県 都城市の「熊襲踊り(くまそおどり)」です。 大きな輪が特徴です。



写真BQ: 都城市の「熊襲踊り(くまそおどり)」です。 大きな輪が特徴です。 宮崎神宮大祭 夜祭(神武さま広場)。



写真BR: 宮崎県 西都市 下水流の「下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)」です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BS: 西都市 下水流の下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BT: 宮崎県 西都市 下水流の下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BU: 西都市 下水流の下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BV: 西都市 下水流の下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BW: 宮崎県 西都市 下水流の下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BX: 西都市 下水流の下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BY: 下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真BZ: 下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真CA: 下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真CB: 日南市 飫肥(おび)の泰平踊(たいへいおどり)です。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真CC: 宮崎県 日南市 飫肥(おび)の泰平踊(たいへいおどり)です。



写真CD: 日南市 飫肥(おび)の泰平踊(たいへいおどり)です。



写真CE: 宮崎県 日南市 飫肥(おび)の泰平踊(たいへいおどり)です。



写真CF: 日南市 飫肥(おび)の泰平踊(たいへいおどり)です。



写真CG: 日南市 飫肥(おび)の泰平踊(たいへいおどり)。



写真CH: 宮崎市 佐土原町のいろは口説き保存会(いろはくどきほぞんかい)による「いろは口説き踊り」です。
「いろは口説き」は宮崎市 佐土原町の江戸時代の高僧 古月禅師(1667-1752年)が作詞した盆踊りです。 いろはが頭に付いた歌詞で処世術、人生訓が述べられています。
臨済宗中興の祖、白隠禅師と並び称される、佐賀利生まれの古月禅師(1667-1752年)と宮崎市 佐土原町の松巌寺(しょうがんじ)は深い関係があります。 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原のこの松巌寺 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、この松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 島津惟久の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。
高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真CI: 宮崎市 佐土原町の「いろは口説き踊り」です。
「いろは口説き」は宮崎市 佐土原町の江戸時代の高僧 古月禅師(1667-1752年)が作詞した盆踊りです。 いろはが頭に付いた歌詞で処世術、人生訓が述べられています。 古月禅師は、佐土原の佐賀利で生まれ、1687年京都智勝院に入り、元禄年間 阿波、豊後を回って江戸に出ました。 1751年5月筑後(久留米) 福聚寺において、85歳で亡くなられました。 遺言により火葬し、分骨して、5代、6代佐土原藩主の菩提寺 自得寺に葬られました。 この分骨も廃仏毀釈のときに、大光寺に移されました。
 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原の松巌寺 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 惟久の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。



写真CJ: 「いろは口説き保存会(いろはくどきほぞんかい)」の幟(のぼり)が見えます。



写真CK: 太鼓(タイコ)と「いろは口説き保存会(いろはくどきほぞんかい)」の幟(のぼり)があります。



写真CL: 宮崎市 佐土原町の「いろは口説き踊り」です。 踊りの人は編笠(あみがさ)をかぶっています。
「いろは口説き」は宮崎市 佐土原町の江戸時代の高僧 古月禅師(1667-1752年)が作詞した盆踊りです。 いろはが頭に付いた歌詞で処世術、人生訓が述べられています。 古月禅師は1667年9月12日に宮崎市佐土原町の佐賀利に男4人、女1人の3男として生まれました。 「東の白隠、西の古月」と称されたほどの江戸時代の禅宗中興の祖 古月禅師は、佐賀利瑞光院宗密和尚について学び、その後 松巌寺一道和尚に弟子入り、10歳で禅宗の仏門に入りました。 後に後島津の島津惟久の命により大光寺四十二世住職となり庶民の生活善導に心を配りました。 禅師の人生訓を歌い込んだ盆踊り唄「いろは口説」は有名で、今も町民に親しまれ、歌い継がれています。 説教の日は、寺院の内外に人が溢れ、彼が歩いた足跡の砂を持ち帰る人がいたほどだったそうです。



写真CM: 佐土原町の「いろは口説き踊り」です。 踊りの人は編笠(あみがさ)をかぶっています。



写真CN: 宮崎県 宮崎市 佐土原町の「いろは口説き踊り」です。 踊りの人は編笠(あみがさ)をかぶっています。
「いろは口説き」は宮崎市 佐土原町の江戸時代の高僧 古月禅師(1667-1752年)が作詞した盆踊りです。 いろはが頭に付いた歌詞で処世術、人生訓が述べられています。
臨済宗中興の祖、白隠禅師と並び称される、佐賀利生まれの古月禅師(1667-1752年)と宮崎市 佐土原町の松巌寺(しょうがんじ)は深い関係があります。 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原のこの松巌寺 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、この松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 島津惟久の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。
高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真CO: 宮崎市 佐土原町の「いろは口説き踊り」です。 踊りの人は編笠(あみがさ)をかぶっています。



写真CP: 宮崎県 宮崎市 佐土原町の「いろは口説き踊り」です。 踊りの人は編笠(あみがさ)をかぶっています。
「いろは口説き」は宮崎市 佐土原町の江戸時代の高僧 古月禅師(1667-1752年)が作詞した盆踊りです。 いろはが頭に付いた歌詞で処世術、人生訓が述べられています。
臨済宗中興の祖、白隠禅師と並び称される、佐賀利生まれの古月禅師(1667-1752年)と宮崎市 佐土原町の松巌寺(しょうがんじ)は深い関係があります。 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原のこの松巌寺 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、この松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 島津惟久の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。
高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。



写真CQ: 超大型の鉄板焼きを作っていました。 高千穂通りでの宮崎神宮大祭(神武さま広場)。
これは「ジャンボお好み焼き ふるまい」で奈良県の社団法人 橿原(かしはら)青年会議所の人達です。



写真CR: 超大型の鉄板焼きを作っていました。 宮崎神宮大祭(神武さま広場)。
これは「ジャンボお好み焼き ふるまい」で奈良県の社団法人 橿原(かしはら)青年会議所の人達です。



写真CS: 「宮崎神宮大祭により 左折禁止 宮崎北警察署」と書いてあります。



写真CT: バス停「宮崎駅 のり場、宮崎交通」です。 高千穂通りの東端にあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)