島津発祥の地 都城、都城島津邸 (国登録有形文化財(建造物))、都城島津伝承館、人形の館 (やかた) (山之口麓文弥節人形浄瑠璃 (国指定 重要無形文化財) 人形の館、地頭仮屋跡、御門、石蔵、剣道場、島津農芸館、都城歴史・観光ガイド案内所、島津駅、島津荘)  (宮崎県 都城市 山之口町、早鈴町)







<標高、位置>  「都城島津邸(みやこのじょうしまづてい)」と「都城島津伝承館(みやこのじょうしまづでんしょうかん)」は同じ敷地にあって
標高 約140 m
 北緯31度43分05秒  東経131度04分07秒

<標高、位置>  山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)の「人形の館(やかた)」は
標高 約190 m
 北緯31度48分02秒  東経131度10分07秒


 「都城島津邸」、「都城島津伝承館」は宮崎県 都城市 早鈴町 18-5 にあります。 明治12年に早鈴大明神の跡地に島津邸が建設されました。 26代島津久寛(ひさひろ)は明治2年の版籍奉還(はんせきほうかん)で約4万石の領地を明治政府に返還して鹿児島に移り、都城には明治政府の地頭として三島通庸が来ました。 明治10年の西南戦争の前後、2度 東京に島津久寛は遊学していました。 明治12年に墓参で都城に帰ったときに、都城で生活することを決定しました。 そのときにこの都城島津邸が出来ました。
「島津発祥(はっしょう)の地」 都城には650年の都城島津家の歴史があり、本宅などの建造物と都城島津伝承館などで今に伝えています。 10世紀頃(平安時代)の延喜式という史料に「島津駅」と言う記述があります。 「駅」は京都と諸国を結ぶ道に造られた宿泊施設でした。 11世紀に、太宰府(だざいふ)の役人 平季基(たいらのすえもと)がこの地を開拓し、そのうちそれは日向、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の3ヶ国にまたがる大荘園(しょうえん)[島津荘(しまづのしょう)]になりました。 その中心が都城でした。 文治元年(1185年)、源平合戦の勝者 源頼朝は、この島津荘の下司職(げすしき)に惟宗忠久(これむねただひさ)を任命しました。 忠久は島津の地名を姓にして島津忠久を名乗りました。 これが島津氏の始まりです。
その後 島津氏は鹿児島に本拠を移しました。 南北朝時代の文和元年(1352年)に4代 忠宗の子 資忠(すけただ)が、足利尊氏がら北郷(現在の都城市西部)をもらい、都城を本拠とするもうひとつの島津の流れが出来ました。 この島津の流れは、資忠が「北郷資忠(ほんごうすけただ)」と名乗ったので北郷家(ほんごう家)と呼ばれます。 永和元年(1375年)に2代 義久が母方の祖父の居所であった都島(宮古島)の城に入りました。 この「都島の城」が転じて「都城」となりました。 資忠 以来、北郷家は在地勢力との戦いを何度も行い、しだいに支配領域を広げ、天文12年(1543年)に8代 忠相(ただすけ)が都城盆地のほぼ全部を手に入れました。 北郷家は17世紀後半(寛文3年(1663年)17代 忠長(ただなが)のとき)になって、本家からの命令で「島津」に復姓し「都城島津家」と呼ばれるようになりました。 都城島津の領地は最大 約4万石で、大名クラスの規模でした。 資忠から500年後の版籍奉還(はんせきほうかん、明治2年の地方制度改革で中央集権となったが、知藩事には旧大名が任命されたので、実質的にはまだ不十分であった。)までほぼ一貫して(文禄4年(1595年)の太閤検地の後に時久は鹿児島県さつま町・薩摩川内市の1部に移封となり、都城には島津の家臣で豊臣秀吉に気に入られていた伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が入りました。)この地を治(おさ)めました。
「本宅(都城島津邸)」の説明板から、
都城島津邸 平成20年 都城市指定文化財
平成20年 国登録有形文化財(建造物)
昭和10年(1935年)11月に陸軍大演習が行われるのに合わせて、旧邸宅の改築を計画し、大林組が施工(せこう)しました。 明治12年(1879年)に建築された旧建物の部材も使用しており、間取りも活かされています。 昭和28年~29年(1953年~1954年)に2階部分を増築。 昭和47年(1972年)に昭和天皇御宿泊のため大改装を行っています。
都城島津邸には南側に見事な日本庭園があります。
昭和10年に鹿児島の庭園師によってこの和風庭園は造られました。 昭和28年に本宅増築の時、庭も改造したと言われています。 南側の高い木は、昭和天皇御宿泊のとき、警護、目隠しのために植えられました。 池にはコイ、スッポンが生息し、カモなどの渡り鳥も飛来します。 水源は湧(わ)き水ですが、涸(か)れたことはないそうです。 庭に毘沙門天(びしゃもんてん、多門天、四天王の一つで北方世界を守護します。)があり、これは、かつて御館にあったものですが、明治時代の廃藩後に家臣であった北郷資秀がもらい受けていたものです。 明治45年2月23日に島津邸内に移されました。 肥後椿(つばき)は龍峯寺墓地から移植されたものだそうです。
「御門」の説明板から、
都城島津邸 平成20年 都城市指定文化財
平成20年 国登録有形文化財(建造物)
陸軍大演習の行われた昭和10年(1935年)に建築されたものです。 都城島津家の紋章(もんしょう)が入った軒瓦(のきがわら)があるのが特徴です。
丸に十の字の家紋は数十種類あって、都城島津の家紋は十と丸の間に隙間(すきま)があるのが特徴です。
「剣道場」の説明板から、
都城島津邸 平成20年 都城市指定文化財
平成20年 国登録有形文化財(建造物)
慶応3年(1867年)につくられた建物と言われています。 「明治百年人物誌」の渡辺甲介の項によると、明治12年(1879年)に「島津邸に道場を設立し剣道を指南す」とあります。 ここ方井崎に邸宅をつくるとき、移設してきたものと思われます。 床が低くなっており、釘(くぎ)が上から打たれていないのが特徴です。
「石蔵」の説明板から、
「都城島津家日誌」によると、昭和5年11月5日「石造米倉庫棟上ゲヲナス」とあります。 12月29日に竣工。 後には、道路拡張により解体した農芸館の収蔵品(民具)が収納してありました。
「外蔵」は、明治15年4月に120円で古土蔵(明治5年建設)を購入し、移築したものです。 2階に、島津が都城市に寄贈した古文書・甲冑(かっちゅう、鎧(よろい)と冑(かぶと))などが収蔵されていました。

「都城島津伝承館」は、都城島津の史料を中心に、都城島津家と島津本家の史料を収蔵展示しています。 都城島津邸の敷地内にあります。 1階には展示室、事務室、受付、エレベーター、階段、トイレなどがあり、2階には史料調査室、交流室、ロビー、エレベーター、階段などがあります。 平成16年(2004年)に28代 島津久厚(ひさあつ)氏は、代々継承してきた約1万点の都城島津家史料を都城市に寄贈しました。

 「人形の館」は宮崎県 都城市 山之口町 大字山之口 2921-1 にあります。 国指定 重要無形文化財 「山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)」の資料、人形、衣服、台本などが展示され、公演も行われています。
島津家の参勤交代のとき、大阪や京都で流行していた岡本文弥が語る人形浄瑠璃(じょうるり)を習得した郷士 (武士の階級の一つです。)たちが麓(ふもと、府下)地区で演じたと言われています。 文政9年(1826年)に書き写したといわれる人形語り台本が残っています。 その後多くの変遷を経て麓地区の古老たちに伝えられ、第2次世界大戦で中断した時もありましたが、昭和26年7月に復活し、麓地区の人々の支援で保存会が出来、現在まで続いています。 平成7年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。 現在、このような形で人形浄瑠璃が伝承されているのは全国で4ヶ所で、石川県尾口村、新潟県佐渡、鹿児島県東郷町、ここ山之口町で伝えられています。  定期公演が開催され、近松門左衛門が岡元文弥のために書いた「出世景清」と、近松作の「門出八嶋」が江戸時代からの文弥節として演じられています。 人形浄瑠璃の後に上演される間狂言(あいきょうげん)では地元の方言でアドリブを含み笑いを誘う公演が行われています。
 「史跡 地頭仮屋 跡」は今は人形の館になっています。 説明棒があります。
史跡 地頭仮屋跡、藩政時代 山之口郷の役所跡で、郷の行政府の下であったので、府下(ふもと)と呼ばれた。 慶長19年(1614年)から島津本家の直轄領(ちょっかつりょう)になり、地頭が政務を執(と)っていた。
 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。


写真A: 国道269号線です。 「人形の館」の付近です。 先に行くと都城市 山之口町の中心部、三股町、都城市の中心部に行きます。 手前に行くと、道の駅 山之口、青井岳温泉 青井岳荘、田野町、清武町、宮崎市の中心部に行きます。
この左の細い道を入ると山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)の「人形の館(やかた)」があります。 駐車場も左の看板のところにあります。



写真B: 「←人形の館(やかた)」と書いてある道路標識が国道269号線にあります。



写真C: 右寄りに「人形の館 駐車場」と書いてある看板(かんばん)、左に「島津寒天工場跡→」の標識があります。 国道269号線。



写真D: 「島津寒天工場跡→」の標識です。



写真E: 「人形の館 駐車場」と書いてある看板(かんばん)。



写真F: 国道269号線です。 先に行くと青井岳温泉などに行きます。 右の建物が「人形の館(やかた)」です。
東を見た景色です。



写真G: 白い建物が山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)の「人形の館(やかた)」です。 その石垣も見えます。



写真H: 駐車場の角(かど)の所です。



写真I: 宮崎県 都城市 山之口町にある「人形の館」の駐車場です。 奥に都城市の観光案内図も見えています。



写真J: 国道269号線。 先に行くと都城市の中心部に行きます。 「人形の館 駐車場」の看板です。
西を見た景色です。
「人形の館」は宮崎県 都城市 山之口町 大字山之口 2921-1 にあります。 国指定 重要無形文化財 「山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)」の資料、人形、衣服、台本などが展示され、公演も行われています。
島津家の参勤交代のとき、大阪や京都で流行していた岡本文弥が語る人形浄瑠璃(じょうるり)を習得した郷士 (武士の階級の一つです。)たちが麓(ふもと、府下)地区で演じたと言われています。 文政9年(1826年)に書き写したといわれる人形語り台本が残っています。 その後多くの変遷を経て麓地区の古老たちに伝えられ、第2次世界大戦で中断した時もありましたが、昭和26年7月に復活し、麓地区の人々の支援で保存会が出来、現在まで続いています。 平成7年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。 現在、このような形で人形浄瑠璃が伝承されているのは全国で4ヶ所で、石川県尾口村、新潟県佐渡、鹿児島県東郷町、ここ山之口町で伝えられています。  定期公演が開催され、近松門左衛門が岡元文弥のために書いた「出世景清」と、近松作の「門出八嶋」が江戸時代からの文弥節として演じられています。 人形浄瑠璃の後に上演される間狂言(あいきょうげん)では地元の方言でアドリブを含み笑いを誘う公演が行われています。



写真K: 人形の館の北寄りに「地頭仮屋 跡」の標識棒があります。 人形の館の敷地内にあります。



写真L: 人形の館は「地頭仮屋 跡」にあります。
「史跡 地頭仮屋跡」の説明棒があります。 国道269号線沿(ぞ)いにあります。
史跡 地頭仮屋跡、藩政時代 山之口郷の役所跡で、郷の行政府の下であったので、府下(ふもと)と呼ばれた。 慶長19年(1614年)から島津本家の直轄領(ちょっかつりょう)になり、地頭が政務を執(と)っていた。 みんなで守ろう文化財 平成20年3月 都城市教育委員会」と書いてあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真M: 人形の館は「地頭仮屋 跡」にあります。
「史跡 地頭仮屋跡」の説明棒があります。 国道269号線沿(ぞ)いにあります。
史跡 地頭仮屋跡、藩政時代 山之口郷の役所跡で、郷の行政府の下であったので、府下(ふもと)と呼ばれた。 慶長19年(1614年)から島津本家の直轄領(ちょっかつりょう)になり、地頭が政務を執(と)っていた。 みんなで守ろう文化財 平成20年3月 都城市教育委員会」と書いてあります。



写真N: 人形の館は「地頭仮屋 跡」にあります。
「史跡 地頭仮屋跡」の説明棒があります。 国道269号線沿(ぞ)いにあります。
史跡 地頭仮屋跡、藩政時代 山之口郷の役所跡で、郷の行政府の下であったので、府下(ふもと)と呼ばれた。 慶長19年(1614年)から島津本家の直轄領(ちょっかつりょう)になり、地頭が政務を執(と)っていた。 みんなで守ろう文化財 平成20年3月 都城市教育委員会」と書いてあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真O: 人形の館は「地頭仮屋 跡」にあります。
「史跡 地頭仮屋跡」の説明棒があります。 国道269号線沿(ぞ)いにあります。
史跡 地頭仮屋跡、藩政時代 山之口郷の役所跡で、郷の行政府の下であったので、府下(ふもと)と呼ばれた。 慶長19年(1614年)から島津本家の直轄領(ちょっかつりょう)になり、地頭が政務を執(と)っていた。 みんなで守ろう文化財 平成20年3月 都城市教育委員会」と書いてあります。



写真P: 人形の館は「地頭仮屋 跡」にあります。
「史跡 地頭仮屋跡」の説明棒があります。 国道269号線沿(ぞ)いにあります。
史跡 地頭仮屋跡、藩政時代 山之口郷の役所跡で、郷の行政府の下であったので、府下(ふもと)と呼ばれた。 慶長19年(1614年)から島津本家の直轄領(ちょっかつりょう)になり、地頭が政務を執(と)っていた。 みんなで守ろう文化財 平成20年3月 都城市教育委員会」と書いてあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真Q: 人形の館は「地頭仮屋 跡」にあります。
「史跡 地頭仮屋跡」の説明棒があります。 国道269号線沿(ぞ)いにあります。
史跡 地頭仮屋跡、藩政時代 山之口郷の役所跡で、郷の行政府の下であったので、府下(ふもと)と呼ばれた。 慶長19年(1614年)から島津本家の直轄領(ちょっかつりょう)になり、地頭が政務を執(と)っていた。 みんなで守ろう文化財 平成20年3月 都城市教育委員会」と書いてあります。



写真R: 人形の館の入り口付近です。 北を見たもの。



写真S: 人形の館の石垣(いしがき)、駐車場(ちゅうしゃじょう)、塀(へい)などが見えます。



写真T: 宮崎県 都城市 山之口町にある「人形の館(やかた)」です。 東を見たもの。



写真U: 都城市 山之口町にある「人形の館(やかた)」。 右の外灯の下に古い「石製の風呂(ふろ)」があります。



写真V: 人形の館のそばの道です。 手前に行くと、国道269号線があります。 左は人形の館です。
南を見たもの。



写真W: 都城市 山之口町にある「人形の館」の入り口に古い「石製の風呂(ふろ)」があります。
江戸時代に使われていたものかもしれません。 奥に見える丸い穴はそこから薪(まき)を入れて燃やすためのものです。



写真X: 来た道を振(ふ)り返ったもの。 奥には左右に国道269号線があります。



写真Y: 都城市 山之口町にある人形の館。



写真Z: 門、塀(へい)、白壁の建物があります。
「人形の館」は宮崎県 都城市 山之口町 大字山之口 2921-1 にあります。 国指定 重要無形文化財 「山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)」の資料、人形、衣服、台本などが展示され、公演も行われています。
島津家の参勤交代のとき、大阪や京都で流行していた岡本文弥が語る人形浄瑠璃(じょうるり)を習得した郷士 (武士の階級の一つです。)たちが麓(ふもと、府下)地区で演じたと言われています。 文政9年(1826年)に書き写したといわれる人形語り台本が残っています。 その後多くの変遷を経て麓地区の古老たちに伝えられ、第2次世界大戦で中断した時もありましたが、昭和26年7月に復活し、麓地区の人々の支援で保存会が出来、現在まで続いています。 平成7年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。 現在、このような形で人形浄瑠璃が伝承されているのは全国で4ヶ所で、石川県尾口村、新潟県佐渡、鹿児島県東郷町、ここ山之口町で伝えられています。  定期公演が開催され、近松門左衛門が岡元文弥のために書いた「出世景清」と、近松作の「門出八嶋」が江戸時代からの文弥節として演じられています。 人形浄瑠璃の後に上演される間狂言(あいきょうげん)では地元の方言でアドリブを含み笑いを誘う公演が行われています。



写真AA: 人形の館です。 右奥に杉の木がある山が見えています。
南東を見たもの。



写真AB: 人形の館の前の道です。 右は武家門です。 南を見たもの。



写真AC: そばにある武家門です。 山之口町 麓地区にあります。



写真AD: 右は人形の館の敷地(しきち)です。



写真AE: 人形の館の御利用案内板です。



写真AF: 門の軒瓦(のきがわら)に「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)が見えます。
「山之口麓文弥節 人形浄瑠璃 資料館」と門に書いてあります。 しめ縄に御幣(ごへい)があります。
「人形の館」は宮崎県 都城市 山之口町 大字山之口 2921-1 にあります。 国指定 重要無形文化財 「山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)」の資料、人形、衣服、台本などが展示され、公演も行われています。
島津家の参勤交代のとき、大阪や京都で流行していた岡本文弥が語る人形浄瑠璃(じょうるり)を習得した郷士 (武士の階級の一つです。)たちが麓(ふもと、府下)地区で演じたと言われています。 文政9年(1826年)に書き写したといわれる人形語り台本が残っています。 その後多くの変遷を経て麓地区の古老たちに伝えられ、第2次世界大戦で中断した時もありましたが、昭和26年7月に復活し、麓地区の人々の支援で保存会が出来、現在まで続いています。 平成7年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。 現在、このような形で人形浄瑠璃が伝承されているのは全国で4ヶ所で、石川県尾口村、新潟県佐渡、鹿児島県東郷町、ここ山之口町で伝えられています。  定期公演が開催され、近松門左衛門が岡元文弥のために書いた「出世景清」と、近松作の「門出八嶋」が江戸時代からの文弥節として演じられています。 人形浄瑠璃の後に上演される間狂言(あいきょうげん)では地元の方言でアドリブを含み笑いを誘う公演が行われています。



写真AG: 人形の館の塀(へい)の内側です。 北を見たもの。



写真AH: 「人形の館」の建物です。



写真AI: 人形の館の入り口です。



写真AJ: 「人形の館」です。



写真AK: 人形の館の塀(へい)の内側です。 南を見たもの。



写真AL: 人形の館の塀です。 下に照明もあります。



写真AM: 人形の館の建物です。



写真AN: 屋根の軒瓦(のきがわら)に「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)が見えます。
「人形の館」は宮崎県 都城市 山之口町 大字山之口 2921-1 にあります。 国指定 重要無形文化財 「山之口 麓 文弥節人形浄瑠璃(じょうるり)」の資料、人形、衣服、台本などが展示され、公演も行われています。
島津家の参勤交代のとき、大阪や京都で流行していた岡本文弥が語る人形浄瑠璃(じょうるり)を習得した郷士 (武士の階級の一つです。)たちが麓(ふもと、府下)地区で演じたと言われています。 文政9年(1826年)に書き写したといわれる人形語り台本が残っています。 その後多くの変遷を経て麓地区の古老たちに伝えられ、第2次世界大戦で中断した時もありましたが、昭和26年7月に復活し、麓地区の人々の支援で保存会が出来、現在まで続いています。 平成7年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。 現在、このような形で人形浄瑠璃が伝承されているのは全国で4ヶ所で、石川県尾口村、新潟県佐渡、鹿児島県東郷町、ここ山之口町で伝えられています。  定期公演が開催され、近松門左衛門が岡元文弥のために書いた「出世景清」と、近松作の「門出八嶋」が江戸時代からの文弥節として演じられています。 人形浄瑠璃の後に上演される間狂言(あいきょうげん)では地元の方言でアドリブを含み笑いを誘う公演が行われています。



写真AO: 都城市 山之口町にある「人形の館」です。



写真AP: 人形の館の塀(へい)です。



写真AQ: ここにも下の駐車場に降りる道があります。



写真AR: 右奥に門があります。 南の近くの山が見えます。



写真AS: 人形の館の建物です。



写真AT: イヌマキの木の生垣(いけがき)があります。



写真AU: 建物の南側にこのような石垣(いしがき)もあります。



写真AV: 「人形の館」の建物の側面です。



写真AW: 塀(へい)と石垣です。



写真AX: 南にある石垣です。



写真AY: 「人形の館」の黒い色の門です。 北を見たもの。



写真AZ: 人形の館の玄関付近です。



写真BA: 門の内側から外を見た景色です。 しめ縄と御幣(ごへい)があります。



写真BB: 門の付近から見た駐車場です。 人形の館。 南の山も見えます。



写真BC: 麓(ふもと)地区の武家門が見えています。 西を見た景色です。



写真BD: 門の付近から見た景色です。 右奥に車を止めた国道269号線沿(ぞ)いの駐車場が見えます。



写真BE: 北を見たもの。



写真BF: 門の付近から見た北側の様子(ようす)です。



写真BG: 人形の館の付近です。



写真BH: 人形の館の付近。



写真BI: 人形の館の駐車場に戻(もど)ってきました。



写真BJ: 「自然と芸能のふるさとへ ようこそ! 山之口町 文化・史跡・観光案内」の絵地図が人形の館の駐車場にあります。
山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業、宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
青井岳キャンプ場、山之口町総合交流活性化センター(青井岳荘)、青井岳駅、道の駅 山之口、陶芸、日當瀬御番所跡、麓 武家屋敷、山之口麓文弥節人形浄瑠璃 人形の館、走湯神社、町営グランド、永野 島津寒天工場跡、天神ダム、シルバーヤング ふれあいの里、あじさい公園(三股城跡)、弥五郎どん祭り、枡安森林公園、弥五郎どんの館、的野正八幡宮、花木あげ馬、南方神社、田島かくれ念仏洞、安楽寺、山之口駅などが載っています。



写真BK: 宮崎県 都城市にある「都城島津邸(てい)」、「都城島津伝承館」の駐車場の近くの車道です。 北を見たもの。



写真BL: 都城市にある「都城島津邸(てい)」、「都城島津伝承館」の駐車場の近くの車道です。 北を見たもの。



写真BM: 右の大きな木の所の敷地に「都城島津邸(てい)」、「都城島津伝承館」があります。 南を見たもの。



写真BN: 左は「都城島津邸(てい)」、「都城島津伝承館」の駐車場です。 北を見たもの。



写真BO: 「都城島津邸」、「都城島津伝承館」は宮崎県 都城市 早鈴町 18-5 にあります。



写真BP: 駐車場の入り口です。
「島津発祥(はっしょう)の地」 都城には650年の都城島津家の歴史があり、本宅などの建造物と都城島津伝承館などで今に伝えています。 10世紀頃(平安時代)の延喜式という史料に「島津駅」と言う記述があります。 「駅」は京都と諸国を結ぶ道に造られた宿泊施設でした。 11世紀に、太宰府(だざいふ)の役人 平季基(たいらのすえもと)がこの地を開拓し、そのうちそれは日向、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の3ヶ国にまたがる大荘園(しょうえん)[島津荘(しまづのしょう)]になりました。 その中心が都城でした。 文治元年(1185年)、源平合戦の勝者 源頼朝は、この島津荘の下司職(げすしき)に惟宗忠久(これむねただひさ)を任命しました。 忠久は島津の地名を姓にして島津忠久を名乗りました。 これが島津氏の始まりです。
その後 島津氏は鹿児島に本拠を移しました。 南北朝時代の文和元年(1352年)に4代 忠宗の子 資忠(すけただ)が、足利尊氏がら北郷(現在の都城市西部)をもらい、都城を本拠とするもうひとつの島津の流れが出来ました。 この島津の流れは、資忠が「北郷資忠(ほんごうすけただ)」と名乗ったので北郷家(ほんごう家)と呼ばれます。 永和元年(1375年)に2代 義久が母方の祖父の居所であった都島(宮古島)の城に入りました。 この「都島の城」が転じて「都城」となりました。 資忠 以来、北郷家は在地勢力との戦いを何度も行い、しだいに支配領域を広げ、天文12年(1543年)に8代 忠相(ただすけ)が都城盆地のほぼ全部を手に入れました。 北郷家は17世紀後半(寛文3年(1663年)17代 忠長(ただなが)のとき)になって、本家からの命令で「島津」に復姓し「都城島津家」と呼ばれるようになりました。 都城島津の領地は最大 約4万石で、大名クラスの規模でした。 資忠から500年後の版籍奉還(はんせきほうかん、明治2年の地方制度改革で中央集権となったが、知藩事には旧大名が任命されたので、実質的にはまだ不十分であった。)までほぼ一貫して(文禄4年(1595年)の太閤検地の後に時久は鹿児島県さつま町・薩摩川内市の1部に移封となり、都城には島津の家臣で豊臣秀吉に気に入られていた伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が入りました。)この地を治(おさ)めました。



写真BQ: 駐車場の入り口付近です。 南を見たもの。



写真BR: 都城島津邸の掲示板があります。
「島津発祥(はっしょう)の地」 都城には650年の都城島津家の歴史があり、本宅などの建造物と都城島津伝承館などで今に伝えています。 10世紀頃(平安時代)の延喜式という史料に「島津駅」と言う記述があります。 「駅」は京都と諸国を結ぶ道に造られた宿泊施設でした。 11世紀に、太宰府(だざいふ)の役人 平季基(たいらのすえもと)がこの地を開拓し、そのうちそれは日向、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の3ヶ国にまたがる大荘園(しょうえん)[島津荘(しまづのしょう)]になりました。 その中心が都城でした。 文治元年(1185年)、源平合戦の勝者 源頼朝は、この島津荘の下司職(げすしき)に惟宗忠久(これむねただひさ)を任命しました。 忠久は島津の地名を姓にして島津忠久を名乗りました。 これが島津氏の始まりです。
その後 島津氏は鹿児島に本拠を移しました。 南北朝時代の文和元年(1352年)に4代 忠宗の子 資忠(すけただ)が、足利尊氏がら北郷(現在の都城市西部)をもらい、都城を本拠とするもうひとつの島津の流れが出来ました。 この島津の流れは、資忠が「北郷資忠(ほんごうすけただ)」と名乗ったので北郷家(ほんごう家)と呼ばれます。 永和元年(1375年)に2代 義久が母方の祖父の居所であった都島(宮古島)の城に入りました。 この「都島の城」が転じて「都城」となりました。 資忠 以来、北郷家は在地勢力との戦いを何度も行い、しだいに支配領域を広げ、天文12年(1543年)に8代 忠相(ただすけ)が都城盆地のほぼ全部を手に入れました。 北郷家は17世紀後半(寛文3年(1663年)17代 忠長(ただなが)のとき)になって、本家からの命令で「島津」に復姓し「都城島津家」と呼ばれるようになりました。 都城島津の領地は最大 約4万石で、大名クラスの規模でした。 資忠から500年後の版籍奉還(はんせきほうかん、明治2年の地方制度改革で中央集権となったが、知藩事には旧大名が任命されたので、実質的にはまだ不十分であった。)までほぼ一貫して(文禄4年(1595年)の太閤検地の後に時久は鹿児島県さつま町・薩摩川内市の1部に移封となり、都城には島津の家臣で豊臣秀吉に気に入られていた伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が入りました。)この地を治(おさ)めました。



写真BS: 「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)と「都城島津邸」と書いてあります。
丸に十の字の家紋は数十種類あって、都城島津の家紋は十と丸の間に隙間(すきま)があるのが特徴です。
明治12年に早鈴大明神の跡地に島津邸が建設されました。 26代島津久寛(ひさひろ)は明治2年の版籍奉還(はんせきほうかん)で約4万石の領地を明治政府に返還して鹿児島に移り、都城には明治政府の地頭として三島通庸が来ました。 明治10年の西南戦争の前後、2度 東京に島津久寛は遊学していました。 明治12年に墓参で都城に帰ったときに、都城で生活することを決定しました。 そのときにこの都城島津邸が出来ました。



写真BT: 都城島津邸の駐車場です。 大きな木が見えています。 この木の奥に都城島津邸、都城島津伝承館があります。 西を見たもの。



写真BU: 「駐車場ご利用上のお願い」が書いてあります。



写真BV: 左の建物はトイレです。



写真BW: トイレの左に駐車場側の門があります。



写真BX: 「天皇皇后両陛下 御宿泊記念碑、昭和48年4月8日 全国植樹祭の日」と書いてある石碑(せきひ)があります。



写真BY: 「天皇皇后両陛下 御宿泊記念碑、昭和48年4月8日 全国植樹祭の日」と書いてある石碑(せきひ)があります。 門とトイレも右に見えています。



写真BZ: 駐車場側の門があります。 左は松の木です。



写真CA: 駐車場のそばのトイレ。



写真CB: 駐車場です。 東を見たもの。



写真CC: 南東を見たもの。



写真CD: 南を見たもの。



写真CE: 西を見たもの。 この林の奥に都城島津邸、都城島津伝承館があります。



写真CF: 見事な松の木が門の近くにあります。 左は「天皇皇后両陛下 御宿泊記念碑、昭和48年4月8日 全国植樹祭の日」と書いてある石碑(せきひ)。



写真CG: 松の木と門です。 説明板も見えます。



写真CH: 都城島津邸の駐車場のそばの門です。



写真CI: 「都城島津邸、都城島津伝承館のインフォメーション」の案内板があります。
敷地内の絵地図もあります。 



写真CJ: 「都城島津邸、都城島津伝承館のインフォメーション」の案内板があります。
敷地内の絵地図もあります。
都城島津邸(本宅)、都城島津伝承館、池、駐車場、現在地などが載(の)っています。



写真CK: 門の扉(とびら)に「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)があります。



写真CL: 門の扉(とびら)です。 扉の角には鉄板を付けて補強してあります。



写真CM: 門の中の通路です。 庭石、照明もあります。



写真CN: 敷地内の建物が見えてきました。



写真CO: 敷地内から見た門です。



写真CP: 古い石作りの風呂(ふろ)が2つ置いてあります。 側面の丸い穴は、薪(まき)をここから入れて燃やすためのものです。
都城島津邸の敷地内です。



写真CQ: 古い石作りの風呂(ふろ)が2つ置いてあります。 側面の丸い穴は、薪(まき)をここから入れて燃やすためのものです。



写真CR: 石の風呂(ふろ)の他に丸い穴の開いた石、四角の穴のある石も置いてあります。



写真CS: 丸い穴の開いた石、四角の穴のある石。



写真CT: こちらにも都城島津邸の説明板があります。



写真CU: 「邸内ご案内」の絵図です。



写真CV: 都城島津邸の敷地内にある「島津農芸館」です。 「都城歴史・観光ガイド案内所」も兼(か)ねています。
元は馬小屋でした。



写真CW: 都城島津邸の敷地内にある「島津農芸館」です。 「都城歴史・観光ガイド案内所」も兼(か)ねています。
昭和27年に建設されました。 馬小屋として利用されていました。



写真CX: 都城島津邸の敷地内にある「島津農芸館」。



写真CY: 島津農芸館から西を見たもの。 左は都城島津伝承館です。



写真CZ: 大きな楠(くすのき)の下にベンチがいくつか置いてあります。 左は都城島津邸、右は都城島津伝承館です。
この広場は島津広場と呼(よ)ばれます。



写真DA: 都城島津邸(てい)にあるクスノキです。



写真DB: 都城島津邸の敷地の中です。
この広場は島津広場と呼(よ)ばれます。



写真DC: 都城島津邸です。
この広場は島津広場と呼(よ)ばれます。
明治12年に早鈴大明神の跡地に島津邸が建設されました。 26代島津久寛(ひさひろ)は明治2年の版籍奉還(はんせきほうかん)で約4万石の領地を明治政府に返還して鹿児島に移り、都城には明治政府の地頭として三島通庸が来ました。 明治10年の西南戦争の前後、2度 東京に島津久寛は遊学していました。 明治12年に墓参で都城に帰ったときに、都城で生活することを決定しました。 そのときにこの都城島津邸が出来ました。



写真DD: 来た敷地内の道を振り返ったもの。
この広場は島津広場と呼(よ)ばれます。



写真DE: 来た敷地内の道を振り返ったもの。 手前に照明もあります。



写真DF: 左は島津農芸館です。



写真DG: 古い瓶(かめ)が多く並べてあります。 右は島津農芸館。



写真DH: 「剣道場」
都城島津邸 平成20年 都城市指定文化財
平成20年 国登録有形文化財(建造物)
 慶応3年(1867年)につくられた建物と言われています。 「明治百年人物誌」の渡辺甲介の項によると、明治12年(1879年)に「島津邸に道場を設立し剣道を指南す」とあります。 ここ方井崎に邸宅をつくるとき、移設してきたものと思われます。 床が低くなっており、釘(くぎ)が上から打たれていないのが特徴です。
と書いてあります。
丸に十の字の家紋は数十種類あって、都城島津の家紋は十と丸の間に隙間(すきま)があるのが特徴です。



写真DI: 「剣道場」です。
鹿児島藩の武芸の展示が行われています。



写真DJ: 「石蔵」です。



写真DK: 「石蔵」の説明板です。
丸に十の字の家紋は数十種類あって、都城島津の家紋は十と丸の間に隙間(すきま)があるのが特徴です。
「都城島津家日誌」によると、昭和5年11月5日「石造米倉庫棟上ゲヲナス」とあります。 12月29日に竣工。 後には、道路拡張により解体した農芸館の収蔵品(民具)が収納してありました。



写真DL: 「石蔵」は今は休憩所(きゅうけいしょ)になっています。 冷房もあります。



写真DM: 飲料水の自動販売機もあります。 奥の屋根は正門です。 右は石蔵です。



写真DN: 「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)がある飲料水の自動販売機です。 珍しいものです。



写真DO: 「都城島津邸(てい)」です。
「都城島津邸」、「都城島津伝承館」は宮崎県 都城市 早鈴町 18-5 にあります。
この広場は島津広場と呼(よ)ばれます。
明治12年に早鈴大明神の跡地に島津邸が建設されました。 26代島津久寛(ひさひろ)は明治2年の版籍奉還(はんせきほうかん)で約4万石の領地を明治政府に返還して鹿児島に移り、都城には明治政府の地頭として三島通庸が来ました。 明治10年の西南戦争の前後、2度 東京に島津久寛は遊学していました。 明治12年に墓参で都城に帰ったときに、都城で生活することを決定しました。 そのときにこの都城島津邸が出来ました。



写真DP: 「都城島津伝承館」です。 2階建ての建物です。
「都城島津邸」、「都城島津伝承館」は宮崎県 都城市 早鈴町 18-5 にあります。
「都城島津伝承館」は、都城島津の史料を中心に、都城島津家と島津本家の史料を収蔵展示しています。 都城島津邸の敷地内にあります。 1階には展示室、事務室、受付、エレベーター、階段、トイレなどがあり、2階には史料調査室、交流室、ロビー、エレベーター、階段などがあります。 平成16年(2004年)に28代 島津久厚(ひさあつ)氏は、代々継承してきた約1万点の都城島津家史料を都城市に寄贈しました。



写真DQ: 「都城島津伝承館」です。 2階建ての建物です。
「都城島津邸」、「都城島津伝承館」は宮崎県 都城市 早鈴町 18-5 にあります。
「島津発祥(はっしょう)の地」 都城には650年の都城島津家の歴史があり、本宅などの建造物と都城島津伝承館などで今に伝えています。 10世紀頃(平安時代)の延喜式という史料に「島津駅」と言う記述があります。 「駅」は京都と諸国を結ぶ道に造られた宿泊施設でした。 11世紀に、太宰府(だざいふ)の役人 平季基(たいらのすえもと)がこの地を開拓し、そのうちそれは日向、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の3ヶ国にまたがる大荘園(しょうえん)[島津荘(しまづのしょう)]になりました。 その中心が都城でした。 文治元年(1185年)、源平合戦の勝者 源頼朝は、この島津荘の下司職(げすしき)に惟宗忠久(これむねただひさ)を任命しました。 忠久は島津の地名を姓にして島津忠久を名乗りました。 これが島津氏の始まりです。
その後 島津氏は鹿児島に本拠を移しました。 南北朝時代の文和元年(1352年)に4代 忠宗の子 資忠(すけただ)が、足利尊氏がら北郷(現在の都城市西部)をもらい、都城を本拠とするもうひとつの島津の流れが出来ました。 この島津の流れは、資忠が「北郷資忠(ほんごうすけただ)」と名乗ったので北郷家(ほんごう家)と呼ばれます。 永和元年(1375年)に2代 義久が母方の祖父の居所であった都島(宮古島)の城に入りました。 この「都島の城」が転じて「都城」となりました。 資忠 以来、北郷家は在地勢力との戦いを何度も行い、しだいに支配領域を広げ、天文12年(1543年)に8代 忠相(ただすけ)が都城盆地のほぼ全部を手に入れました。 北郷家は17世紀後半(寛文3年(1663年)17代 忠長(ただなが)のとき)になって、本家からの命令で「島津」に復姓し「都城島津家」と呼ばれるようになりました。 都城島津の領地は最大 約4万石で、大名クラスの規模でした。 資忠から500年後の版籍奉還(はんせきほうかん、明治2年の地方制度改革で中央集権となったが、知藩事には旧大名が任命されたので、実質的にはまだ不十分であった。)までほぼ一貫して(文禄4年(1595年)の太閤検地の後に時久は鹿児島県さつま町・薩摩川内市の1部に移封となり、都城には島津の家臣で豊臣秀吉に気に入られていた伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が入りました。)この地を治(おさ)めました。



写真DR: 「←都城島津伝承館、都城島津邸の入場の仕方」の説明板です。



写真DS: この奥の右に都城島津伝承館の入り口があります。 左手は都城島津邸があります。
「都城島津伝承館」は、都城島津の史料を中心に、都城島津家と島津本家の史料を収蔵展示しています。 都城島津邸の敷地内にあります。 1階には展示室、事務室、受付、エレベーター、階段、トイレなどがあり、2階には史料調査室、交流室、ロビー、エレベーター、階段などがあります。 平成16年(2004年)に28代 島津久厚(ひさあつ)氏は、代々継承してきた約1万点の都城島津家史料を都城市に寄贈しました。



写真DT: 「都城島津邸」です。 右の軒(のき)は都城島津伝承館です。 奥に大きな木も見えます。 庭石もあります。



写真DU: 「都城島津邸(てい)」です。 奥に大きな木も見えます。 庭石もあります。
現在の建物は、昭和10年、昭和28年、29年、昭和47年に増改築されました。 昭和天皇ご宿泊(昭和48年4月8日に、小林市 夷守台(ひなもりだい)での全国植樹祭の時にご宿泊。)や第二次世界大戦以前の島津の男爵(だんしゃく、27代 久家)の暮らしをテーマに展示されています。



写真DV: 「古い井戸」が都城島津邸にあります。 左上の建物は島津農芸館、剣道場です。



写真DW: 「本宅」の説明板です。
都城島津邸 平成20年 都城市指定文化財
平成20年 国登録有形文化財(建造物)
 昭和10年(1935年)11月に陸軍大演習が行われるのに合わせて、旧邸宅の改築を計画し、大林組が施工(せこう)しました。 明治12年(1879年)に建築された旧建物の部材も使用しており、間取りも活かされています。 昭和28年~29年(1953年~1954年)に2階部分を増築。 昭和47年(1972年)に昭和天皇御宿泊のため大改装を行っています。
と書いてあります。
写真も載っています。
丸に十の字の家紋は数十種類あって、都城島津の家紋は十と丸の間に隙間(すきま)があるのが特徴です。



写真DX: 「登録有形文化財 第45-0048~0055号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」
の金属製の板があります。



写真DY: 都城島津邸の玄関から西を見たもの。 右の建物は都城島津伝承館です。 左にも白壁の建物(外蔵)があります。
「外蔵」は、明治15年4月に120円で古土蔵(明治5年建設)を購入し、移築したものです。 2階に、島津が都城市に寄贈した古文書・甲冑(かっちゅう、鎧(よろい)と冑(かぶと))等が収蔵されていました。



写真DZ: 「都城島津邸」の玄関です。 左に説明板なども見えています。
明治12年に早鈴大明神の跡地に島津邸が建設されました。 26代島津久寛(ひさひろ)は明治2年の版籍奉還(はんせきほうかん)で約4万石の領地を明治政府に返還して鹿児島に移り、都城には明治政府の地頭として三島通庸が来ました。 明治10年の西南戦争の前後、2度 東京に島津久寛は遊学していました。 明治12年に墓参で都城に帰ったときに、都城で生活することを決定しました。 そのときにこの都城島津邸が出来ました。
現在の建物は、昭和10年、昭和28年、29年、昭和47年に増改築されました。 昭和天皇ご宿泊(昭和48年4月8日に、小林市 夷守台(ひなもりだい)での全国植樹祭の時にご宿泊。)や第二次世界大戦以前の島津の男爵(だんしゃく、27代 久家)の暮らしをテーマに展示されています。



写真EA: 「都城島津邸」です。 きれいに庭木が剪定(せんてい)してあります。



写真EB: 「都城島津邸」です。 右に庭に行く門(くぐり門)が見えます。 庭石もあります。
現在の建物は、昭和10年、昭和28年、29年、昭和47年に増改築されました。 昭和天皇ご宿泊(昭和48年4月8日に、小林市 夷守台(ひなもりだい)での全国植樹祭の時にご宿泊。)や第二次世界大戦以前の島津の男爵(だんしゃく、27代 久家)の暮らしをテーマに展示されています。



写真EC: 白壁の建物(外蔵)があります。
「外蔵」は、明治15年4月に120円で古土蔵(明治5年建設)を購入し、移築したものです。 2階に、島津が都城市に寄贈した古文書・甲冑(かっちゅう、鎧(よろい)と冑(かぶと))等が収蔵されていました。



写真ED: 宮崎県 都城市 早鈴町 18-5にある都城島津邸の南側にある和風庭園です。 石灯籠(いしどうろう)もあります。
昭和10年に鹿児島の庭園師によってこの和風庭園は造られました。 昭和28年に本宅増築の時、庭も改造したと言われています。 南側の高い木は、昭和天皇御宿泊のとき、警護、目隠しのために植えられました。 池にはコイ、スッポンが生息し、カモなどの渡り鳥も飛来します。 水源は湧(わ)き水ですが、涸(か)れたことはないそうです。 庭に毘沙門天(びしゃもんてん、多門天、四天王の一つで北方世界を守護します。)があり、これは、かつて御館にあったものですが、明治時代の廃藩後に家臣であった北郷資秀がもらい受けていたものです。 明治45年2月23日に島津邸内に移されました。 肥後椿(つばき)は龍峯寺墓地から移植されたものだそうです。



写真EE: 都城市 早鈴町 18-5にある都城島津邸の和風庭園です。



写真EF: 都城島津邸の和風庭園です。



写真EG: 都城市 早鈴町 18-5にある都城島津邸の南側にある和風庭園です。 中央付近に毘沙門天(びしゃもんてん)の石像も見えています。 石灯籠(いしどうろう)もあります。
昭和10年に鹿児島の庭園師によってこの和風庭園は造られました。 昭和28年に本宅増築の時、庭も改造したと言われています。 南側の高い木は、昭和天皇御宿泊のとき、警護、目隠しのために植えられました。 池にはコイ、スッポンが生息し、カモなどの渡り鳥も飛来します。 水源は湧(わ)き水ですが、涸(か)れたことはないそうです。 庭に毘沙門天(びしゃもんてん、多門天、四天王の一つで北方世界を守護します。)があり、これは、かつて御館にあったものですが、明治時代の廃藩後に家臣であった北郷資秀がもらい受けていたものです。 明治45年2月23日に島津邸内に移されました。 肥後椿(つばき)は龍峯寺墓地から移植されたものだそうです。



写真EH: 都城島津邸の和風庭園です。 石灯籠(いしどうろう)もあります。 丸い凹(くぼ)みのある石もあります。



写真EI: 都城島津邸の和風庭園です。 石灯籠(いしどうろう)もあります。
昭和10年に鹿児島の庭園師によってこの和風庭園は造られました。 昭和28年に本宅増築の時、庭も改造したと言われています。 南側の高い木は、昭和天皇御宿泊のとき、警護、目隠しのために植えられました。 池にはコイ、スッポンが生息し、カモなどの渡り鳥も飛来します。 水源は湧(わ)き水ですが、涸(か)れたことはないそうです。 庭に毘沙門天(びしゃもんてん、多門天、四天王の一つで北方世界を守護します。)があり、これは、かつて御館にあったものですが、明治時代の廃藩後に家臣であった北郷資秀がもらい受けていたものです。 明治45年2月23日に島津邸内に移されました。 肥後椿(つばき)は龍峯寺墓地から移植されたものだそうです。



写真EJ: 庭に降りる広い石の階段です。



写真EK: 都城島津邸の南側にある和風庭園です。 石碑(せきひ)、石灯籠(いしどうろう)もあります。 木立の奥にが見えています。
昭和10年に鹿児島の庭園師によってこの和風庭園は造られました。 昭和28年に本宅増築の時、庭も改造したと言われています。 南側の高い木は、昭和天皇御宿泊のとき、警護、目隠しのために植えられました。 池にはコイ、スッポンが生息し、カモなどの渡り鳥も飛来します。 水源は湧(わ)き水ですが、涸(か)れたことはないそうです。 庭に毘沙門天(びしゃもんてん、多門天、四天王の一つで北方世界を守護します。)があり、これは、かつて御館にあったものですが、明治時代の廃藩後に家臣であった北郷資秀がもらい受けていたものです。 明治45年2月23日に島津邸内に移されました。 肥後椿(つばき)は龍峯寺墓地から移植されたものだそうです。



写真EL: 都城島津邸の和風庭園です。 照明、石碑(せきひ)、石灯籠(いしどうろう)もあります。 木立の奥にが見えています。 左にヒノキの木が見えます。



写真EM: 都城島津邸の和風庭園です。 木の立て札(ふだ)、石碑(せきひ)、石灯籠(いしどうろう)もあります。 木立の奥にが見えています。
昭和10年に鹿児島の庭園師によってこの和風庭園は造られました。 昭和28年に本宅増築の時、庭も改造したと言われています。 南側の高い木は、昭和天皇御宿泊のとき、警護、目隠しのために植えられました。 池にはコイ、スッポンが生息し、カモなどの渡り鳥も飛来します。 水源は湧(わ)き水ですが、涸(か)れたことはないそうです。 庭に毘沙門天(びしゃもんてん、多門天、四天王の一つで北方世界を守護します。)があり、これは、かつて御館にあったものですが、明治時代の廃藩後に家臣であった北郷資秀がもらい受けていたものです。 明治45年2月23日に島津邸内に移されました。 肥後椿(つばき)は龍峯寺墓地から移植されたものだそうです。



写真EN: 都城島津邸にある神社の社(やしろ)です。 本宅の東側にあります。
都城島津家の先祖が祀られていたものだそうです。 昭和10年、この場所に移転し、9月30日に遷宮祭が行われました。 伊勢神宮正殿と同じ神明造となっています。 島津家では、毎年、春と秋に御霊祭を行っていました。



写真EO: 都城島津邸の東の和風庭園です。



写真EP: 木の奥(東)に駐車場、人家などが見えます。



写真EQ: 「丸に十の字の島津の家紋(かもん) 都城島津伝承館」と書いてあります。
「都城島津伝承館」は、都城島津の史料を中心に、都城島津家と島津本家の史料を収蔵展示しています。
「島津発祥(はっしょう)の地」 都城には650年の都城島津家の歴史があり、本宅などの建造物と都城島津伝承館などで今に伝えています。 10世紀頃(平安時代)の延喜式という史料に「島津駅」と言う記述があります。 「駅」は京都と諸国を結ぶ道に造られた宿泊施設でした。 11世紀に、太宰府(だざいふ)の役人 平季基(たいらのすえもと)がこの地を開拓し、そのうちそれは日向、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の3ヶ国にまたがる大荘園(しょうえん)[島津荘(しまづのしょう)]になりました。 その中心が都城でした。 文治元年(1185年)、源平合戦の勝者 源頼朝は、この島津荘の下司職(げすしき)に惟宗忠久(これむねただひさ)を任命しました。 忠久は島津の地名を姓にして島津忠久を名乗りました。 これが島津氏の始まりです。
その後 島津氏は鹿児島に本拠を移しました。 南北朝時代の文和元年(1352年)に4代 忠宗の子 資忠(すけただ)が、足利尊氏がら北郷(現在の都城市西部)をもらい、都城を本拠とするもうひとつの島津の流れが出来ました。 この島津の流れは、資忠が「北郷資忠(ほんごうすけただ)」と名乗ったので北郷家(ほんごう家)と呼ばれます。 永和元年(1375年)に2代 義久が母方の祖父の居所であった都島(宮古島)の城に入りました。 この「都島の城」が転じて「都城」となりました。 資忠 以来、北郷家は在地勢力との戦いを何度も行い、しだいに支配領域を広げ、天文12年(1543年)に8代 忠相(ただすけ)が都城盆地のほぼ全部を手に入れました。 北郷家は17世紀後半(寛文3年(1663年)17代 忠長(ただなが)のとき)になって、本家からの命令で「島津」に復姓し「都城島津家」と呼ばれるようになりました。 都城島津の領地は最大 約4万石で、大名クラスの規模でした。 資忠から500年後の版籍奉還(はんせきほうかん、明治2年の地方制度改革で中央集権となったが、知藩事には旧大名が任命されたので、実質的にはまだ不十分であった。)までほぼ一貫して(文禄4年(1595年)の太閤検地の後に時久は鹿児島県さつま町・薩摩川内市の1部に移封となり、都城には島津の家臣で豊臣秀吉に気に入られていた伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が入りました。)この地を治(おさ)めました。



写真ER: 都城島津伝承館の入り口です。
「都城島津伝承館」は、都城島津の史料を中心に、都城島津家と島津本家の史料を収蔵展示しています。 都城島津邸の敷地内にあります。 1階には展示室、事務室、受付、エレベーター、階段、トイレなどがあり、2階には史料調査室、交流室、ロビー、エレベーター、階段などがあります。 平成16年(2004年)に28代 島津久厚(ひさあつ)氏は、代々継承してきた約1万点の都城島津家史料を都城市に寄贈しました。



写真ES: 北に「御門」が見えます。 右は石蔵で、左は都城島津伝承館です。



写真ET: 「御門」の説明板です。
都城島津邸 平成20年 都城市指定文化財
平成20年 国登録有形文化財(建造物)
 陸軍大演習の行われた昭和10年(1935年)に建築されたものです。 都城島津家の紋章(もんしょう)が入った軒瓦(のきがわら)があるのが特徴です。
と書いてあります。
丸に十の字の家紋は数十種類あって、都城島津の家紋は十と丸の間に隙間(すきま)があるのが特徴です。



写真EU: 「都城島津邸」の標識があります。



写真EV: 外(北)から見た都城島津邸の「御門」です。 昭和10年に追加注文で建築されたものです。 島津家の紋章入りの軒瓦(のきがわら)があります。 手前に石段があります。 右奥の建物は都城島津伝承館です。



写真EW: 外(北)から見た都城島津邸の「御門」です。 昭和10年に追加注文で建築されたものです。 島津家の紋章入りの軒瓦(のきがわら)があります。
手前に石段があります。 左に説明板もあります。 右奥の建物は都城島津伝承館。



写真EX: 御門の外付近です。 木の後ろの建物は石蔵です。 右に説明板もあります。



写真EY: 都城島津邸の「御門」付近から東を見た景色です。 道路標識もあります。



写真EZ: 都城島津邸の「御門」付近から東を見た景色です。 道路標識もあります。



写真FA: 都城島津邸の「御門」付近から西を見た景色です。 近くには人家もあります。



写真FB: 都城島津邸の御門の近くです。 奥の建物は都城島津伝承館です。



写真FC: 都城島津邸の御門の近くです。 奥の建物は「石蔵」です。



写真FD: 敷地内に戻(もど)ってきました。 都城島津邸の白壁の建物の左に神社の社(やしろ)があります。
北から見たもの。



写真FE: 北から見た都城島津邸です。
明治12年に早鈴大明神の跡地に島津邸が建設されました。 26代島津久寛(ひさひろ)は明治2年の版籍奉還(はんせきほうかん)で約4万石の領地を明治政府に返還して鹿児島に移り、都城には明治政府の地頭として三島通庸が来ました。 明治10年の西南戦争の前後、2度 東京に島津久寛は遊学していました。 明治12年に墓参で都城に帰ったときに、都城で生活することを決定しました。 そのときにこの都城島津邸が出来ました。



写真FF: 東から見た都城島津伝承館です。 右の建物は石蔵です。



写真FG: 都城島津邸にある剣道場と左の石蔵です。



写真FH: 都城島津邸の敷地内にある「島津農芸館」です。 「都城歴史・観光ガイド案内所」も兼(か)ねています。



写真FI: 左は都城島津邸の敷地内にある「島津農芸館」です。 「都城歴史・観光ガイド案内所」も兼(か)ねています。



写真FJ: 駐車場に戻(もど)って行きます。



写真FK: 都城島津邸にはこのような大きな木もあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)