日本海軍発祥之地の碑、美々津の古い町並み(国選定 重要伝統的建造物群保存地区) (美々津港、美々津灯台、みひかりの灯、立磐神社、正覚寺、美々津県庁跡、美々津手漉き和紙、日本海軍発祥の地、日本海軍発祥の碑、海軍発祥之地記念碑、廻船問屋、神話伝説、美々津千軒、みみつ、たていわ神社、お腰掛け岩、美々津町並み保存地区)  (日向市美々津町)







<標高、位置>  美々津港は
標高 約数 m
 北緯32度20分18秒  東経131度36分46秒

<標高、位置>  海軍発祥之地の記念碑は
標高 約10 m
 北緯32度20分17秒  東経131度36分45秒

<標高、位置>  立磐神社(たていわ神社)は
標高 約数 m
 北緯32度20分19秒  東経131度36分42秒

<標高、位置>  美々津県庁跡は
標高 約20数 m
 北緯32度20分15秒  東経131度36分41秒

<標高、位置>  正覚寺は
標高 約10 m
 北緯32度20分11秒  東経131度36分41秒

<標高、位置>  美々津灯台は
標高 約数 m
 北緯32度19分30秒  東経131度37分21秒


 美々津に行くには、国道10号線の 美々津大橋のすぐ南の信号 を東に入ります。
 「海軍発祥之地の記念碑」は宮崎県日向市美々津町にあります。説明板によると、
日本海軍は、天皇が統帥(とうすい)された海軍でありました。 このことから国が、神武天皇御親率の水軍が、はじめて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元2600年記念事業の一環として建立されました。 碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政閣下の揮毫(きごう)により、碑面に刻記されたのであります。 この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に至り地元有志の強い要望により、防衛庁(現 防衛省)(海上自衛隊)などの協力を得て、現在のとおり復元されたのであります。

 「立磐神社(たていわ神社)」は宮崎県日向市美々津町にあります。説明板によると、
 当社は神武天皇御東遷のとき美々津港より御船出し給(たま)うに当たり、御航海の安全を御祈念せられて、この埠頭(ふとう)に住吉大神とも申し奉(たてまつ)る底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第12代景行天皇の御代に創祀されたものである。 そのご多くの変遷隆替を経(へ)ましたが、貴(たっと)き伝説と特異の行事などは、いまもなお連綿として継承されています。 かくて永禄の頃より地頭の崇敬あり、祭礼行事も盛んになっていました。 しかるに天正6年(約440年前)大友氏と島津氏との戦火(耳川の戦い)にあい宝物、文献、記録など皆烏有(うゆう、何もなくなること)に帰したのであります。 その後、再興し寛文宝永のころ完全に旧観に復して、領主より神領を供せられて社殿増築をなし、また神事あるごとに寄進あり、かくて明治初年まで歴代藩主の崇敬せられた神社であります。 さらに境内には「神武天皇御腰掛の岩」があり、玉垣を巡(めぐ)らして岩そのものをご神体として崇拝しています。 明治4年「郷社」に烈格やがて昭和9年は神武天皇がお船出せられてちょうど2600年に相当するので、これを記念して国家的大祭典を挙行せらるるよう県当局へ申し出しところ承諾され、ついに秩父宮殿下を総裁に仰(あお)ぎ松平頼寿伯を会長に酒井忠正伯と君島知事を副会長として全国的な御東遷2600年祭典が斎行されました。
 当社記念事業としては(1)境内を更に拡張整備した (2)竜神バエの岩上に住吉灯籠(とうろう)を模したる 神のみあかし灯台 が設置された (3)日本海軍発祥の地の記念碑が建立された (4)おきよ丸御東行巡路漕舟大航軍を挙行された。 これは日向国の青年150名が漕舟して美々津港を船出し途中天皇がその昔御寄港せられたという由緒あるところに寄港しつつ、その月 浪波に上陸御楯を奉持陸路 橿原神宮(かしはら神宮、奈良県中部 奈良盆地の南部)に奉納した未曾有(みぞう)の大行事でありました。

 「国選定 日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区」は説明板から、
所在地 日向市美々津町字上町、中町、下町、上別府の一部
選定年月日 昭和61年12月8日
面積 7.2ヘクタール
 美々津は、古い歴史を持つ港町で、中世には 集落が営まれていたと考えられており、江戸時代に入ると高鍋藩の商業港として重要視され、藩主 秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。
 保存地区に選定された上町、中町、下町は耳川河口に築かれた港の隣接地に当たり、江戸時代から明治時代の平入、妻入建物が数多く残されている。
 また港から南に延びる3本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている。 町の遺跡からは近畿、瀬戸内様式の弥生土器が見つかっています。 このことから、美々津が古い時代からその地域と交流があったことが分かります。 美々津が港町として成立するのは江戸時代初期の元禄の頃(1688−1703年)からで、当時は高鍋藩(藩主秋月氏、3万石の外様)に属し支配を受けていました(城付地に属していました)。  
 江戸、明治時代の白壁土蔵が残っています。 関西との交流を廻船問屋の舟(千石船(帆船))で行っていました。 彼等は備後屋、明石屋、播磨屋、泉屋などの瀬戸内や近畿の地名を屋号としていました。 耳川の上流で生産された木材や木炭などを大阪方面に出荷し、帰路には関西地方の特産物や美術工芸品を持ち帰り、地域文化を支えていました。 「美々津千軒」と言われ明治から大正時代に最盛期を迎えました。 大正12年国鉄日豊本線開通で回船業は衰退しました。 現在では静かな港町になっています。 古い町並みで町興しに成功しています。


写真A: 宮崎市日向市美々津町(みみつ町)にある「日本海軍発祥之地」の石碑(せきひ)です。 人の後ろの高い石碑がそれです。 右の森は立磐神社(たていわ神社)の鎮守(ちんじゅ)の森。 手前は耳川の河口にある美々津港(みみつ港)。



写真B: 「日本海軍発祥之地の碑(ひ)」です。 上の部分は波頭(なみがしら)の形をしています。 下部には神武天皇が東征されたときの古代船があります。 この古代船は西都原古墳から出土した船の埴輪(はにわ)の形を参考にして作られています。 左に海軍の旗が見えます。 古代船の左に錨(いかり)が見えます。



写真C: 日向市美々津にある「日本海軍発祥之地の碑」と錨(いかり)。 右に桜の花が咲いていました。



写真D: 右は美々津港、耳川の美々津大橋、左に日本海軍発祥の碑が見えます。



写真E: 美々津港。 耳川の河口にあります。 後ろの橋は国道10号線にかかっている美々津大橋。 多くの漁船が停泊していました。



写真F: 宮崎県日向市美々津町にある美々津港。



写真G: 美々津港から耳川の河口を見たもの。



写真H: 美々津港から海の方を見た景色。 右端の建物は日向漁協美々津支所。



写真I: 美々津港。 左の建物は日向漁協美々津支所。



写真J: 後ろの建物は日本海軍発祥の碑にある東屋(あずまや)。



写真K: 日本海軍発祥之地の石碑は耳川の河口近く(右岸、川口を見て右側)にあります。 右の森は立磐神社(たていわ神社)。



写真L: 宮崎県日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)。 神木の大きな楠(くすのき)が色づいてきれいです。 下方に桜の花も見えます。 右は耳川にかかる国道10号線の美々津大橋。



写真M: 中央奥が「日本海軍発祥の地」の石碑(せきひ)です。 日本海軍発祥の地は全国いくつかにありますが、ここ美々津のは初代人皇天皇 神武天皇が東征(神武東遷(神武東征)、瀬戸内海を通って近畿地方に出陣された)のときに船出された場所を「日本海軍発祥の地」としています。



写真N: 隆盛を極めた商業港町である美々津の南北に通っている道「中町筋(すじ)」。 海軍発祥の地のそばです。 左の建物は日向漁協美々津支所。



写真O: 海軍発祥の地の石碑の広場にはこのような一段高いコンクリートの場所があります。



写真P: 海軍発祥之地 広場の東側から美々津港に行くことが出来ます。



写真Q: 耳川と対岸が見えます。



写真R: 宮崎県日向市美々津町にある「海軍発祥之地の碑(ひ)」。 耳川の河口近くの右岸(川口に向かって右)にあります。



写真S: 海軍発祥之地の広場。



写真T: 海軍発祥の地の広場。 港の漁船、耳川も見えます。



写真U: 海軍発祥の地の広場。 「美々津渡し場・高瀬舟終着場之跡」の石碑があります。 これは平成20年8月17日に耳川文化の会が建立しました。



写真V: 海軍発祥之地の広場。 ビロウ樹、東屋(あずまや)もあります。



写真W: 海軍発祥の地の広場。 建物は日向漁協美々津支所。



写真X: 海軍発祥の地の広場にある東屋(あずまや)。



写真Y: 海軍発祥の地の広場にある東屋(あずまや)の中にはベンチがあります。



写真Z: 東屋から見た景色。 美々津大橋、JR日豊線の鉄橋、錨(いかり)も見えています。



写真AA: 海軍発祥の地の広場にある看板(かんばん)の裏。 照明もあります。



写真AB: 海軍発祥の地の広場にある看板(かんばん)。



写真AC: 「国選定 日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区」の説明板。
所在地 日向市美々津町字上町、中町、下町、上別府の一部
選定年月日 昭和61年12月8日
面積 7.2ヘクタール
概要
 美々津は、古い歴史を持つ港町で、中世には 集落が営まれていたと考えられており、江戸時代に入ると高鍋藩の商業港として重要視され、藩主 秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。
 保存地区に選定された上町、中町、下町は耳川河口に築かれた港の隣接地に当たり、江戸時代から明治時代の平入、妻入建物が数多く残されている。
 また港から南に延びる3本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている。
上町筋、中町筋、下町筋、井戸、ツキヌケ(防火地)、立磐神社、まちづくり塾(美々津軒)、正覚寺、旧高鍋藩仮屋跡、愛宕神社、県指定名勝 橋口氏庭園、美々津県庁跡、日向市歴史民俗資料館、美々津公民館、日向漁協美々津支所。
と書かれています。



写真AD: 「国選定 日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区」の説明板。
所在地 日向市美々津町字上町、中町、下町、上別府の一部
選定年月日 昭和61年12月8日
面積 7.2ヘクタール
概要
 美々津は、古い歴史を持つ港町で、中世には 集落が営まれていたと考えられており、江戸時代に入ると高鍋藩の商業港として重要視され、藩主 秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。
 保存地区に選定された上町、中町、下町は耳川河口に築かれた港の隣接地に当たり、江戸時代から明治時代の平入、妻入建物が数多く残されている。
 また港から南に延びる3本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている。
上町筋、中町筋、下町筋、井戸、ツキヌケ(防火地)、立磐神社、まちづくり塾(美々津軒)、正覚寺、旧高鍋藩仮屋跡、愛宕神社、県指定名勝 橋口氏庭園、美々津県庁跡、日向市歴史民俗資料館、美々津公民館、日向漁協美々津支所。
と書いてあります。



写真AE: 「国選定 日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区」の説明板。
所在地 日向市美々津町字上町、中町、下町、上別府の一部
選定年月日 昭和61年12月8日
面積 7.2ヘクタール
概要
 美々津は、古い歴史を持つ港町で、中世には 集落が営まれていたと考えられており、江戸時代に入ると高鍋藩の商業港として重要視され、藩主 秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。
 保存地区に選定された上町、中町、下町は耳川河口に築かれた港の隣接地に当たり、江戸時代から明治時代の平入、妻入建物が数多く残されている。
 また港から南に延びる3本の主道路や、それらに直交するツキヌケ(防火地)は江戸時代に設けられたものと伝えられており、旧い敷地割や石畳などとともに美々津の歴史的景観を構成する重要な要素になっている。
上町筋、中町筋、下町筋、井戸、ツキヌケ(防火地)、立磐神社、まちづくり塾(美々津軒)、正覚寺、旧高鍋藩仮屋跡、愛宕神社、県指定名勝 橋口氏庭園、美々津県庁跡、日向市歴史民俗資料館、美々津公民館、日向漁協美々津支所。
上町筋、中町筋、下町筋、井戸、ツキヌケ(防火地)、立磐神社、まちづくり塾(美々津軒)、正覚寺、旧高鍋藩仮屋跡、愛宕神社、県指定名勝 橋口氏庭園、美々津県庁跡、日向市歴史民俗資料館、美々津公民館、日向漁協美々津支所。
と書かれています。



写真AF: 日本海軍発祥の碑(ひ)。



写真AG: 日本海軍発祥の碑(ひ)。



写真AH: 日本海軍発祥之地の碑(ひ)の隣に「立磐神社(たていわ神社)」があります。



写真AI: 宮崎県日向市美々津町には、日本海軍発祥之地の碑(ひ)の隣に「立磐神社」があります。



写真AJ: 日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真AK: 日向市美々津町にある「日本海軍発祥之地碑」の説明板。
神武天皇御親率の東征水軍御進発の聖地
建立 昭和17年(紀元2602年)9月10日、復元 昭和44年(紀元2629年)9月12日
建立・復元の経緯と碑文の由来
 日本海軍は、天皇が統帥(とうすい)された海軍でありました。 このことから国が、神武天皇御親率の水軍が、はじめて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元2600年記念事業の一環として建立されました。 碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政閣下の揮毫(きごう)により、碑面に刻記されたのであります。 この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に至り地元有志の強い要望により、防衛庁(現 防衛省)(海上自衛隊)などの協力を得て、現在のとおり復元されたのであります。
平成4年9月12日 「日本海軍発祥之地」碑顕彰保存会
と書かれています。



写真AL: 宮崎県日向市美々津町にある「日本海軍発祥之地碑」の説明板。
神武天皇御親率の東征水軍御進発の聖地
建立 昭和17年(紀元2602年)9月10日、復元 昭和44年(紀元2629年)9月12日
建立・復元の経緯と碑文の由来
 日本海軍は、天皇が統帥(とうすい)された海軍でありました。 このことから国が、神武天皇御親率の水軍が、はじめて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元2600年記念事業の一環として建立されました。 碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政閣下の揮毫(きごう)により、碑面に刻記されたのであります。 この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に至り地元有志の強い要望により、防衛庁(現 防衛省)(海上自衛隊)などの協力を得て、現在のとおり復元されたのであります。
平成4年9月12日 「日本海軍発祥之地」碑顕彰保存会
と書かれています。



写真AM: 日向市美々津にある立磐神社(たていわ神社)。 左に石垣(いしがき)が見えています。 鳥居(とりい)、石灯籠(いしどうろう)も見えています。



写真AN: 立磐神社(たていわ神社)の石垣と石灯籠。



写真AO: 江戸時代、明治時代、大正時代に美々津は港町として近畿地方との交易で栄えました。 この南北に通っている道はそのころからの「上町筋(すじ)」です。



写真AP: 日本海軍発祥之地の石碑のそばの様子。



写真AQ: 海軍発祥の地の広場。 「美々津渡し場・高瀬舟終着場之跡」の石碑があります。 これは平成20年8月17日に耳川文化の会が建立しました。



写真AR: 錨(いかり)が置いてあります。 ビロウ樹、東屋も見えます。



写真AS: 「海軍両爪錨展示碑文」の看板(かんばん)。
 当地は、神武天皇が大水軍を編成され、御親率されて御東行の御船出をされた日本海軍発祥の地と伝えられている。 
 昭和15年(1940年)には、皇紀2600年記念を祝い、日本海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社主催により、軍船「おきよ丸」を造船し、この美々津港から大阪中ノ島まで神武天皇東行の聖蹟を巡航し橿原神宮(かしはら神宮、奈良県中部 奈良盆地の南部)に神楯を奉献した。 この日を記念して企画された「日本海軍発祥の碑」の建立と「両爪錨(いかり)」の製造が昭和17年(1942年)に実現したのである。 爾来(じらい、その時以来)、この錨は、太平洋戦争からの戦後の混乱期を経て昭和27年(1952年)に創設された海上自衛隊に移管されていたものである。 そして、その錨が半世紀を経た今、海上自衛隊のご厚意により、誕生地である日本海軍発祥の地に帰還したことは、日本海軍史の象徴といえるこの錨と神武天皇御船出の地の奇(く)しき因縁を感じるのである。
 私達はここに、我が国の平和と安全を希求し、国民の財産と生命を守るため日夜、刻苦精励されている海上自衛隊のいっそうのご発展を祈りながら、この錨(いかり)を恒久の平和のシンボルとして世界中に発信していくことを誓うものである。
平成14年11月吉日
と書かれています。

 

写真AT: 海軍発祥の地に置いてある「海軍両爪錨(いかり)」。



写真AU: 宮崎県日向市美々津町の海軍発祥の地に置いてある「海軍両爪錨(いかり)」。 本体に昭和17−8と書いてあります。



写真AV: 「記念碑碑文復元ノ記」の石碑(せきひ)。 後ろは美々津港、耳川です。



写真AW: 「記念碑碑文復元ノ記」の石碑(せきひ)。



写真AX: 「海軍発祥の碑(ひ)」。 左下の部分は古代軍船。



写真AY: 「海軍発祥の碑(ひ)」。 左の部分は古代軍船。 海軍の旗も見えます。



写真AZ: 「海軍発祥の碑(ひ)」。



写真BA: 「海軍発祥之地の碑」。



写真BB: 「海軍発祥之地の碑」。 桜の花びらが散って上を飾っています。



写真BC: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」。 「昭和15年11月 紀元2600年 宮崎県奉祝会」と書いてあります。 ちょうどそばに桜の花が咲いていました。



写真BD: 「記念碑碑文復元ノ記」の石碑(せきひ)。



写真BE: 海軍発祥の地に置いてある「海軍両爪錨(いかり)」。



写真BF: 海軍発祥の地。



写真BG: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」。



写真BH: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」と海軍旗掲揚台(けいようだい)。



写真BI: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」の階段。



写真BJ: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」。



写真BK: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」。 古代兵船が下部に付いています。



写真BL: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」には古代兵船が下部に付いています。 これは西都市の西都原古墳から出土した古代船をモデルにしたものです。



写真BM: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」。 「内閣総理大臣 海軍大将 米内光政 書」と書いてあります。



写真BN: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」。 この部分は波頭(なみがしら)を図案化したものです。



写真BO: 裏側には金属製の扉(とびら)があります。 左は桜で花が咲いていました。



写真BP: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」の背面。



写真BQ: 桜の花びらが落ちてきれいでした。



写真BR: 桜の花びらが落ちていてきれいでした。



写真BS: 「海軍発祥之地の碑(ひ)」から見た立磐神社(たていわ神社)の境内(けいだい)。 石碑がいくつか見えます。



写真BT: 美々津町の上町筋の町並み。 歴史的な建物が多くあります。
「4月の民ギャラリー お茶を楽しむ器展」と書いてあります。



写真BU: 美々津町の上町筋の町並み。



写真BV: 美々津町の上町筋の町並み。 先に海軍発祥の碑と耳川が見えます。



写真BW: 日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真BX: 立磐神社(たていわ神社)の境内(けいだい)。



写真BY: 宮崎県日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)の由緒(ゆいしょ)」の石碑。 昭和63年2月吉日建立。
 当社は神武天皇御東遷のとき美々津港より御船出し給(たま)うに当たり、御航海の安全を御祈念せられて、この埠頭(ふとう)に住吉大神とも申し奉(たてまつ)る底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第12代景行天皇の御代に創祀されたものである。 そのご多くの変遷隆替を経(へ)ましたが、貴(たっと)き伝説と特異の行事などは、いまもなお連綿として継承されています。 かくて永禄の頃より地頭の崇敬あり、祭礼行事も盛んになっていました。 しかるに天正6年(約440年前)大友氏と島津氏との戦火(耳川の戦い)にあい宝物、文献、記録など皆烏有(うゆう、何もなくなること)に帰したのであります。 その後、再興し寛文宝永のころ完全に旧観に復して、領主より神領を供せられて社殿増築をなし、また神事あるごとに寄進あり、かくて明治初年まで歴代藩主の崇敬せられた神社であります。 さらに境内には「神武天皇御腰掛の岩」があり、玉垣を巡(めぐ)らして岩そのものをご神体として崇拝しています。 明治4年「郷社」に烈格やがて昭和9年は神武天皇がお船出せられてちょうど2600年に相当するので、これを記念して国家的大祭典を挙行せらるるよう県当局へ申し出しところ承諾され、ついに秩父宮殿下を総裁に仰(あお)ぎ松平頼寿伯を会長に酒井忠正伯と君島知事を副会長として全国的な御東遷2600年祭典が斎行されました。
 当社記念事業としては(1)境内を更に拡張整備した (2)竜神バエの岩上に住吉灯籠(とうろう)を模したる 神のみあかし灯台 が設置された (3)日本海軍発祥の地の記念碑が建立された (4)おきよ丸御東行巡路漕舟大航軍を挙行された。 これは日向国の青年150名が漕舟して美々津港を船出し途中天皇がその昔御寄港せられたという由緒あるところに寄港しつつ、その月 浪波に上陸御楯を奉持陸路 橿原神宮(かしはら神宮、奈良県中部 奈良盆地の南部)に奉納した未曾有(みぞう)の大行事でありました。
御東遷 2654年、皇紀 2648年 まとめ 宮司 橋口朝典
と書かれています。



写真BZ: 宮崎県日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)の由緒(ゆいしょ)」の石碑。 昭和63年2月吉日建立。
 当社は神武天皇御東遷のとき美々津港より御船出し給(たま)うに当たり、御航海の安全を御祈念せられて、この埠頭(ふとう)に住吉大神とも申し奉(たてまつ)る底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第12代景行天皇の御代に創祀されたものである。 そのご多くの変遷隆替を経(へ)ましたが、貴(たっと)き伝説と特異の行事などは、いまもなお連綿として継承されています。 かくて永禄の頃より地頭の崇敬あり、祭礼行事も盛んになっていました。 しかるに天正6年(約440年前)大友氏と島津氏との戦火(耳川の戦い)にあい宝物、文献、記録など皆烏有(うゆう、何もなくなること)に帰したのであります。 その後、再興し寛文宝永のころ完全に旧観に復して、領主より神領を供せられて社殿増築をなし、また神事あるごとに寄進あり、かくて明治初年まで歴代藩主の崇敬せられた神社であります。 さらに境内には「神武天皇御腰掛の岩」があり、玉垣を巡(めぐ)らして岩そのものをご神体として崇拝しています。 明治4年「郷社」に烈格やがて昭和9年は神武天皇がお船出せられてちょうど2600年に相当するので、これを記念して国家的大祭典を挙行せらるるよう県当局へ申し出しところ承諾され、ついに秩父宮殿下を総裁に仰(あお)ぎ松平頼寿伯を会長に酒井忠正伯と君島知事を副会長として全国的な御東遷2600年祭典が斎行されました。
 当社記念事業としては(1)境内を更に拡張整備した (2)竜神バエの岩上に住吉灯籠(とうろう)を模したる 神のみあかし灯台 が設置された (3)日本海軍発祥の地の記念碑が建立された (4)おきよ丸御東行巡路漕舟大航軍を挙行された。 これは日向国の青年150名が漕舟して美々津港を船出し途中天皇がその昔御寄港せられたという由緒あるところに寄港しつつ、その月 浪波に上陸御楯を奉持陸路 橿原神宮(かしはら神宮、奈良県中部 奈良盆地の南部)に奉納した未曾有(みぞう)の大行事でありました。
御東遷 2654年、皇紀 2648年 まとめ 宮司 橋口朝典
と書かれています。



写真CA: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の石碑(せきひ)。 聖蹟美々津の碑 昭和9年10月建立。



写真CB: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の石碑(せきひ)。



写真CC: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)。 鳥居(とりい)、石灯籠(いしどうろう)が見えます。 小さな方の鳥居の奥に「神武天皇御腰掛の岩」があります。



写真CD: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の鳥居(とりい)。



写真CE: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の手水舎(ちょうずや)。 後ろに石垣があります。



写真CF: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の御手洗(みたらい)。



写真CG: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の手水舎(ちょうずや)。



写真CH: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)。



写真CI: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の「神武天皇御腰掛の岩」。 左上に見えているしめ縄のある岩がそれです。 右は鳥居。



写真CJ: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の「神武天皇御腰掛の岩」。



写真CK: 日向市美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の「神武天皇御腰掛の岩」。



写真CL: 「水準基標」 大正元年9月と書かれています。 「神武天皇御腰掛の岩」のそばにあります。



写真CM: 柵(さく)の中の右手前にあるのが「水準基標」、中央奥にあるのが「神武天皇御腰掛の岩」。



写真CN: 柵(さく)の中の右手前にあるのが「水準基標」、中央奥にあるのが「神武天皇御腰掛の岩」。



写真CO: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の狛犬(こまいぬ)と石碑(せきひ)。 後ろは耳川。



写真CP: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の狛犬(こまいぬ)。



写真CQ: 「百度石」があります。



写真CR: 「保存樹(くす)」の看板(かんばん)。
この樹木は「日向市民の環境と自然を守る条例」により指定された保存樹です。 この貴重な財産を市民みんなで大切に守ってゆきましょう。
樹種 くす、指定番号 18、指定年月日 昭和50年8月25日、日向市
と書いてあります。



写真CS: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の神木(楠(くすのき))。 しめ縄がしてあります。



写真CT: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の神木(楠(くすのき))。



写真CU: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の神木(楠(くすのき))。



写真CV: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の神木(楠(くすのき))。



写真CW: 美々津町にある立磐神社(たていわ神社)の神木(楠(くすのき))。 根元の穴に赤い鳥居(とりい)がありました。



写真CX: 日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真CY: 立磐神社(たていわ神社)。 赤く見えているところは稲荷神社(いなり神社)。



写真CZ: 立磐神社(たていわ神社)。 御手洗(みたらい)が手前に見えます。



写真DA: お神籤(おみくじ)が枝に縛り付けてあります。



写真DB: 立磐神社(たていわ神社)。



写真DC: 「立磐神社」と書かれた額(がく)、鈴が見えています。



写真DD: お賽銭箱(おさいせんばこ)。



写真DE: 「立磐神社」と書かれた額(がく)。



写真DF: 立磐神社(たていわ神社)の拝殿。 鳳凰(ほうおう、鳥)の彫(ほ)り物があります。



写真DG: しめ縄、電灯があります。 日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真DH: 立磐神社(たていわ神社)。



写真DI: 立磐神社(たていわ神社)の末社の稲荷神社(いなり神社)。 右手に柱状節理の岩があります。 これが社名の由来だと思われます。



写真DJ: 柱状節理の岩があります。 これが社名の由来だと思われます。



写真DK: 立磐神社(たていわ神社)の拝殿。



写真DL: 立磐神社(たていわ神社)の拝殿。



写真DM: 立磐神社(たていわ神社)の境内(けいだい)にある稲荷神社。 赤い幟(のぼり)には「奉納 正一位 松吉稲荷大明神」と書かれています。



写真DN: 立磐神社(たていわ神社)の境内(けいだい)にある稲荷神社。 赤い幟(のぼり)には「奉納 正一位 松吉稲荷大明神」と書かれています。



写真DO: 立磐神社(たていわ神社)の本殿。



写真DP: 立磐神社(たていわ神社)の拝殿。



写真DQ: 立磐神社(たていわ神社)から見た美々津大橋。



写真DR: 日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」の本殿。



写真DS: 立磐神社(たていわ神社)の境内。



写真DT: 立磐神社(たていわ神社)の本殿。 
木の左から耳川の方に行くことが出来ます。



写真DU: 立磐神社(たていわ神社)から見た耳川の岸。 舟がつないであります。



写真DV: 立磐神社(たていわ神社)から見た美々津大橋。 川は耳川。



写真DW: 神社から耳川に降りる板の階段があります。



写真DX: 立磐神社(たていわ神社)から耳川に降りる板の階段があります。



写真DY: 美々津大橋の奥にJR日豊線の鉄橋が見えます(上流側)。



写真DZ: 美々津大橋の奥にJR日豊線の鉄橋が見えます(上流側)。



写真EA: 日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。
寄付をした人の名前が書いてあります。



写真EB: 日向市美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真EC: 美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真ED: 美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真EE: 美々津町にある「立磐神社(たていわ神社)」。



写真EF: 立磐神社(たていわ神社)にある石碑。



写真EG: 立磐神社(たていわ神社)にある石碑。



写真EH: 海軍発祥の地、美々津港、歴史民俗資料館、橋口氏庭園と書かれた古代船の形の道標。



写真EI: 美々津港から東を見た様子。



写真EJ: テトラポット(波よけ)とコンクリートの堤防。 津波や高潮を防ぐためのものです。



写真EK: この道で海岸に行くことが出来ます。 テトラポット。



写真EL: 美々津の海岸。 遠く右の 七つバエ(竜神バエ) の岩上に住吉灯籠(とうろう)を模した 「神のみあかし灯台(美々津灯台)」 があります。 左の小さい方の岩は「一ツ神」と呼ばれます。
灯台のある竜神バエは海岸から約1.2 kmの沖にあります。



写真EM: 美々津の海岸。 遠く 七つバエ(竜神バエ) の岩上に住吉灯籠(とうろう)を模した 「神のみあかし灯台(美々津灯台)」 があります。 これは神武東遷から2600年記念事業で建設されました。
右に「灯台」、左に社(やしろ)が見えています。 その間に見えるのは立木です。
灯台のある竜神バエは海岸から約1.2 kmの沖にあります。



写真EN: 美々津の海岸。 遠く 七つバエ(竜神バエ) の岩上に住吉灯籠(とうろう)を模した 「神のみあかし灯台(美々津灯台)」 があります。 これは神武東遷から2600年記念事業で建設されました。
右に「灯台」、左に社(やしろ)が見えています。 その間に見えるのは立木です。
灯台のある竜神バエは海岸から約1.2 kmの沖にあります。



写真EO: 美々津の海岸。 遠く 七つバエ(竜神バエ) があります。 これはその左半分です。



写真EP: 耳川の左岸(川口を見て左)には鉄塔があり、ライトのようなものが上にあります。



写真EQ: 耳川の左岸(川口を見て左)には神社が見えています。



写真ER: 美々津の海岸。 沖に岩が2カ所に見えています。 右の岩に美々津灯台があります。 この2つの岩の間を通って神武天皇は東征に出発されたという言い伝えがあります。
神武天皇は戻ってこられなかったので、今でもこの2つの岩の間は船は通らないそうです。 実はこの間に暗礁(海面すぐ下の岩)があり、通ると危ないので、こう言われているのでしょう(地元の人にお話を伺(うかが)いました。 御礼申し上げます)。
手前はテトラポット。
沖の右の岩の島は七つバエ(竜神バエ)、左は一ツ神と呼ばれます。
灯台のある七つバエ(竜神バエ)は海岸から約1.2 kmの沖にあります。



写真ES: 美々津町の海岸。 手前はテトラポット。



写真ET: 美々津の海岸。 このあたりは小石の海岸になっています。



写真EU: 美々津の海岸から西を見たもの。 美々津の家並み、山などが見えています。



写真EV: 美々津の海岸から見た耳川の河口。



写真EW: 美々津の海岸から見た「耳川の河口」。



写真EX: 美々津の海岸。 美々津灯台はこの右側にあります。
右の岩の島は「一ツ神」と呼ばれます。



写真EY: 美々津海岸。 美々津灯台は右側にあります。
左の小さい方の岩は「一ツ神」と呼ばれます。



写真EZ: 美々津町並み保存地区。 「天保7年(1836年)に造られた美々津で2番目に古い商家です。」と書いてあります。 食堂です。



写真FA: 美々津町並み保存地区。 天保7年(1836年)に造られた美々津で2番目に古い商家です。 食堂です。



写真FB: 「立縫区 区長公民館長」の標識。 「立縫」の地名は次の伝説に由来しています。 神武天皇が東征に出発されるとき衣服の ほころび が見つかりました。 直前だったので立ったまま縫(ぬ)ったそうです。



写真FC: 「まちなみ防災センター」の建物。
防災センター、立磐神社、歴史民俗資料館、中町並筋通り と書かれた標識。 その板は古代船の形をしています。 その下に歴史民俗資料館と書いてあります。



写真FD: 美々津の中町筋。 ここから道は石畳になっています。



写真FE: 宮崎県日向市美々津町の中町筋。
美々津は「重要伝統的建造物群保存地区」に国から指定されています。



写真FF: 宮崎県日向市美々津町の中町筋。 「縁台(えんだい)」が蝶番(ちょうつがい)でたたんであります。 使用するときは下に降ろしてそこに人が座って話したりします。



写真FG: 「歴史民俗資料館」。



写真FH: 左は「歴史民俗資料館」。



写真FI: 「石敷道路について」の看板。
 現在の石敷路面は平成4年度地域個性形成事業により景観に併せて修景したものであり、復元したものではありません。
 本来の石敷は、自宅玄関前の一部に自然石を敷き詰めて施されていました。 実際に敷かれていた石は露路の突き抜け部分に移転復元しております。
平成5年3月 日向市教育委員会
と書いてあります。



写真FJ: 日向市美々津町の「歴史民俗資料館」。



写真FK: 「市指定文化財 廻船問屋 河内屋跡」の看板。
区分 有形文化財(建造物)、指定年月日 昭和56年(1981年)1月20日、所在地 日向市美々津町3244番地、面積 313.63平方メートル、管理所有者 日向市
沿革
 美々津は江戸時代から高鍋藩の商業港として栄えた町です。 当時の美々津には数多くの商家が軒を並べていました。 なかでも河内屋は有力な廻船問屋のひとつに数えられていました。
 河内屋は安政2年(1855年)に建てられたもので、広い間口と奥行きをもち、構造上は平入造りに属し、一階南側に通り庭を築き、正面は出格子や格子戸を設け、二階の正面には虫籠窓を設けるなど典型的な商家造りの意匠を残しています。
 また、江戸時代末期から明治時代にかけての商取引関係の古文書も残されています。 昭和55年(1980年)に土地・建物が所有者(黒木久仁子氏)から日向市に寄贈されました。 昭和57年(1982年)に日向市が国、県の補助を受けて修理復元を行い、日向市歴史民俗資料館として活用しているものです。
日向市教育委員会
と書かれています。



写真FL: 「日向市歴史民俗資料館」。



写真FM: 防火のための道。 東西に走っています。 東西方向の支道路「ツキヌケ」です。



写真FN: 旅館。



写真FO: 旅館と防火道。 東西方向の支道路「ツキヌケ」です。



写真FP: 郵便受けに古代船が描(えが)かれています。



写真FQ: 美々津にある「みみつ焼酎(しょうちゅう)博物館」。



写真FR: 美々津にある「みみつ焼酎(しょうちゅう)博物館」。



写真FS: 「旧 中町共同井戸」。



写真FT: 「旧 中町共同井戸」。



写真FU: 「旧 中町共同井戸」の裏にある祠(ほこら)と石碑(せきひ)。



写真FV: 美々津の中町筋の南端付近。 左は海の堤防。



写真FW: 美々津の中町筋の南端付近から見た「美々津灯台」。 左に社(やしろ)も見えています。 灯台と社のあいだに立木も見えます。
灯台のある七つバエ(竜神バエ)は海岸から約1.2 kmの沖にあります。



写真FX: 美々津の中町筋の南端付近から見た「美々津灯台」。 左に社(やしろ)も見えています。 灯台と社のあいだに立木も見えます。
灯台のある七つバエ(竜神バエ)は海岸から約1.2 kmの沖にあります。



写真FY: 「見学者無料駐車場」の看板。
匠の里づくり支援事業「美々津廻船問屋通り」
 この通りは「中町」と呼ばれ、かっては美々津の手漉(す)き和紙などの特産品を扱う廻船問屋が軒を並べていました。
日向市、日向市教育委員会
と書いてあります。



写真FZ: 美々津の中町筋。



写真GA: すだれの下に「縁台」が使える状態にしてあります。



写真GB: 美々津の正覚寺山門。 美々津の上町筋にあります。



写真GC: 美々津の上町筋。 上町筋は中町筋の西を南北に走っています。



写真GD: 美々津の上町筋。 上町筋は中町筋の西を南北に走っています。



写真GE: 美々津の正覚寺山門。 美々津の上町筋にあります。



写真GF: 美々津の正覚寺山門の屋根裏。



写真GG: 美々津の正覚寺の鐘(かね)突堂。



写真GH: 美々津の正覚寺の鐘(かね)突堂。



写真GI: 美々津の正覚寺の鐘(かね)突堂(右)と本堂(奥)。



写真GJ: 美々津の正覚寺山門。



写真GK: 美々津の正覚寺の鐘(かね)突堂。



写真GL: 美々津の正覚寺の境内(けいだい)。



写真GM: 美々津の正覚寺の境内(けいだい)。



写真GN: 美々津の正覚寺の中。



写真GO: 美々津の正覚寺の中。



写真GP: 美々津の正覚寺の手水舎(ちょうずや)。



写真GQ: 美々津の正覚寺の手水舎(ちょうずや)。 右はイチョウの木。



写真GR: 美々津の正覚寺のイチョウの木。



写真GS: 美々津の正覚寺のイチョウ。



写真GT: 美々津の正覚寺の本堂前の様子。



写真GU: 美々津の正覚寺の境内。



写真GV: 美々津の正覚寺の宝物殿(左)。



写真GW: 美々津の正覚寺の本殿の左には階段があります。



写真GX: 美々津の正覚寺の本堂。



写真GY: 美々津の正覚寺の本堂。 中央に龍、両側に象(ぞう)の彫(ほ)り物があります。



写真GZ: 美々津の正覚寺の本堂。



写真HA: 美々津の正覚寺の本堂には竜(りゅう)の彫(ほ)り物があります。



写真HB: 美々津の正覚寺の本堂。 両側に象(ぞう)の彫(ほ)り物があります。



写真HC: 本堂の左にある階段。



写真HD: 本堂の左にある階段。



写真HE: 美々津の正覚寺の本堂。



写真HF: 階段の途中から見た正覚寺の本堂。



写真HG: 美々津の正覚寺の階段。



写真HH: 美々津の正覚寺の上にある墓地。



写真HI: 墓地から見た正覚寺と海(日向灘)。



写真HJ: 正覚寺の墓地。 
墓の奥に「美々津地区公民館」が見えます。 この公民館の向こう(北)隣が明治のはじめに「美々津県の県庁(美々津県庁)」があったところです。
左側を国道10号線が通っています。
宮崎県は明治時代初期に「美々津県」と都城県の2つに分かれていた頃があります(境界は大淀川)。



写真HK: 墓の奥に「美々津地区公民館」が見えます。 この公民館の向こう(北)隣が明治のはじめに「美々津県の県庁(美々津県庁)」があったところです。 左に国道10号線があります。
宮崎県は明治時代初期に「美々津県」と都城県の2つに分かれていた頃があります(境界は大淀川)。



写真HL: 右の建物は美々津公民館。
この公民館の向こう(北)隣が明治のはじめに「美々津県の県庁(美々津県庁)」があったところです。 左に国道10号線があります。
宮崎県は明治時代初期に「美々津県」と都城県の2つに分かれていた頃があります(境界は大淀川)。 見えている道路標識には美々津町並保存地区、歴史民俗資料館、神武天皇お船出の地、150m
と書いてあります。
この道路標識の先を右に曲がります。



写真HM: 美々津の国道10号線。



写真HN: 国道10号線のところから海と美々津灯台が見えています。



写真HO: 美々津の国道10号線のそばから見た「美々津灯台」。
灯台の左に社(やしろ)があります。 灯台と社(やしろ)の間にある立木も見えています。
灯台のある七つバエ(竜神バエ)は海岸から約1.2 kmの沖にあります。



写真HP: 正覚寺の墓地脇の道。



写真HQ: 野草の「踊り子草の花」が咲いていました。 花びらが、笠(かさ)をかぶった踊り子に似ているのでこの名が付きました。



写真HR: 正覚寺。



写真HS: 美々津の上町筋。
「立逢公民館(たちあい公民館)」。 「立縫」の地名は次の伝説に由来しています。 神武天皇が東征に出発されるとき衣服の ほころび が見つかりました。 直前だったので立ったまま縫(ぬ)ったそうです。



写真HT: 「耳川河口部景観について語ろう会だより」が貼(は)ってありました。



写真HU: 上町筋のヒサシ電器店。



写真HV: 「旧 上町共同井戸」と説明板。



写真HW: 日向市美々津町の「旧 上町共同井戸」。



写真HX: 美々津町の「旧 上町共同井戸」。 手押しポンプもあります。



写真HY: 美々津町の「旧 上町共同井戸」。



写真HZ: 美々津 上町筋。
畳屋(たたみ屋)。



写真IA: 美々津 上町筋。 ポストもあります。



写真IB: 美々津 上町筋。 道の奥に海軍発祥之地の記念碑が見えてきました。
この交差点を左に行くと国道10号線に出ます。



写真IC: 上町筋の交差点にある「高札場跡(立て札場)」。 裏にトイレもあります。



写真ID: 「高札場跡(立て札場)」にある美々津の地図。



写真IE: 上町筋の交差点にある「高札場跡(立て札場)」。 芸術的な建造物があります。



写真IF: 上町筋の交差点にある「高札場跡(立て札場)」。
美々津近くの観光地などの紹介がしてあります。



写真IG: 上町筋の交差点にある「高札場跡(立て札場)」のそばにはトイレがあります。



写真IH: 美々津 上町筋にある「美々津まちなみセンター」。 右でご老人が話していらっしゃいました。



写真II: 美々津上町筋の交差点。



写真IJ: 美々津 上町筋にある「美々津まちなみセンター」。 お休み処と書かれた暖簾(のれん)があります。



写真IK: この道の先に国道10号線があります。 バス停「立逢(たちあい)」も見えます。 「立縫」の地名は次の伝説に由来しています。 神武天皇が東征に出発されるとき衣服の ほころび が見つかりました。 直前だったので立ったまま縫(ぬ)ったそうです。



写真IL: ここは五叉路(ごさろ)になっています。 車が居る道を行くと美々津公民館、「美々津県庁跡」に行きます。 バス停「立逢(たちあい)」も見えます。



写真IM: 美々津 上町筋にある「美々津まちなみセンター」。 お土産品(みやげひん)も売っています。



写真IN: 美々津 上町筋にある「美々津まちなみセンター」。 お土産品(みやげひん)も売っています。
「おいでなんせ ゆっくりして いきなんせ」と看板(かんばん)に書いてあります。



写真IO: 美々津 上町筋にある「美々津まちなみセンター」には、日向市指定無形文化財「美々津手漉(す)き和紙」も売っています。 これはその「美々津和紙の和紙便箋(便せん)」です。
  日向市指定無形文化財「美々津手漉(す)き和紙」は石並川の清流を利用して作られる県伝統工芸品です。 障子紙、書道紙、便せん、サイン帳、名詞、のれんなどが作られています。 温(ぬく)もりのあるすばらしい味わいの和紙です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)