黒貫寺、高屋神社 (くろぬき寺、たかや神社) (西都市都於郡町)
<標高、位置> 黒貫寺(くろぬき寺)は
標高 約70 m
北緯32度02分59秒 東経131度23分02秒
<標高、位置> 高屋神社(たかや神社)は
標高 約80 m
北緯32度02分58秒 東経131度23分09秒
黒貫寺は真言宗 智山派で、伊東の時代には日向第一の寺院でした。 明治時代初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響は受けませんでした。
景行天皇と日本武尊がクマソ征伐のとき6年間ここに留まられたという旧跡 (高屋宮(たかやのみや)跡) です。 946年、隆元和尚が開創したと言われます。 今から700年ほど前、御願寺花園院の時は、勅願寺となり歴代皇族の加護を受けました。 伊東が都於郡を治めていた時代は日向国第一の寺院として栄えました。
伊東が島津に追われ大分県に逃れた後も、1603年に入封した佐土原藩主島津(前島津と後島津)の加護を受け、江戸時代には365石の寺領を有して寺内に本堂経蔵宝物倉書院茶宴殿などの諸堂が建ち並び、寺運は隆盛しました。 しかし、明治7年の火災により、山門を残して堂宇すべてが焼失しました。 明治9年、末寺である広瀬(宮崎市佐土原町下田島)の久峰寺から大悲殿を移築して黒貫寺の本殿としています。 西都市都於郡町(とのこおりちょう)にあります。
高屋神社は景行天皇と大国主命が祭神です。 西都市都於郡町にあり、黒貫寺も近くにあります。
写真A: この三叉路(さんさろ)を右に行くと、黒貫寺(くろぬき寺)があります。 左の看板は、黒貫寺への看板です。 この看板の少し右に、高屋神社の一の鳥居が見えています。 車道を先に進むと宮崎市佐土原町那珂(なか)に、手前に進むと西都市都於郡町(とのこおりちょう)の中心部を経て、西都市の中心部に行きます。
写真B: 黒貫寺への看板。 車道沿いにあります。 日向観音霊場、水子供養、安産ぼけ封じ観世音菩薩と書かれています。
写真C: 車道からは、黒貫寺の階段と山門が見えています。
写真D: 黒貫寺の山門と階段。 右に駐車場があります。
写真E: 黒貫寺の入り口。
写真F: 日陽山 聖歓喜院 黒貫寺。 この石碑は昭和62年3月21日建立と書かれています。
写真G: 黒貫寺の山門と仁王像(石像)。 明治7年、黒貫寺の火災の時は、この山門だけは残りました。
写真H: 黒貫寺の山門わきの仁王石像。
写真I: 黒貫寺山門の仁王像。
写真J: 2つめの階段の上に、参拝殿、本殿(本堂)などがあります。 手前の二つの石灯籠(いしどうろう)は昭和60年1月に作られました。
写真K: 黒貫寺の観音像。
写真L: 黒貫寺の参拝殿。 左は御手洗(みたらい)。
写真M: 黒貫寺の二つめの階段を登ったところ。
写真N: 黒貫寺の石碑と参拝殿。 右端の石碑は「鐘楼堂建立記念・黒貫寺本尊御開帳」のもので、右から2番目の物は「参拝殿建立」の石碑で、下段に黒貫寺の由来が刻まれています。
写真O: 西都市都於郡町にある黒貫寺の参拝殿。 右に参拝殿を建てたときの石碑が見えています。
写真P: 黒貫寺の立派な御手洗(みたらい)。
写真Q: 黒貫寺の石像と燈籠(とうろう)。
写真R: 黒貫寺の参拝殿石碑の説明板。
景行天皇と日本武尊がクマソ征伐のとき6年間ここに留まられたという旧跡です。 946年、隆元和尚が開創したと言われます。 今から700年ほど前、御願寺花園院の時は、勅願寺となり歴代皇族の加護を受けました。 伊東が都於郡を治めていた時代は日向国第一の寺院として栄えました。
伊東が島津に追われ大分県に逃れた後も、1603年に入封した佐土原藩主島津(前島津と後島津)の加護を受け、江戸時代には365石の寺領を有して寺内に本堂経蔵宝物倉書院茶宴殿などの諸堂が建ち並び、寺運は隆盛しました。 しかし、明治7年の火災により、山門を残して堂宇すべてが焼失しました。 明治9年、末寺である広瀬(宮崎市佐土原町下田島)の久峰寺から大悲殿を移築して黒貫寺の本殿としています。
写真S: 西都市都於郡町の黒貫寺の参拝殿石碑の説明板。
写真T: 黒貫寺の参拝殿。
写真U: 黒貫寺の仏像。
写真V: 黒貫寺の参拝殿。 中央付近に小型の鐘(かね)も見えています。
写真W: 黒貫寺の参拝殿。 鈴も見えています。
写真X: 黒貫寺の参拝殿から山門方向を見たもの。
写真Y: 黒貫寺 参拝殿にある石灯籠(いしどうろう)。 江戸末期の安政時代(安政元年8月)と彫(ほ)られています。
写真Z: 黒貫寺の参拝殿と石像。
写真AA: 黒貫寺の石像。
写真AB: 西都市都於郡町にある黒貫寺の本殿(本堂)。 明治7年の火災により、山門を残して堂宇すべてが焼失しました。 明治9年、末寺である広瀬(宮崎市佐土原町下田島)の久峰寺から大悲殿を移築して黒貫寺の本殿としています。
写真AC: 黒貫寺の本殿(本堂)。 明治9年に宮崎市佐土原町下田島の久峰寺から大悲殿を移築したものです。
写真AD: 黒貫寺の本殿(本堂)と木像の仁王様。 この仁王像は宮崎市佐土原町西上那珂にある平等寺から移された物です。 平等寺は明治4年に廃寺になりましたが、現在再建されています。
写真AE: 黒貫寺の本殿(本堂)。 仁王様の古い木像があります。
写真AF: 黒貫寺の本殿(本堂)付近。
写真AG: 黒貫寺の参拝殿の裏側。
写真AH: 黒貫寺の本殿(本堂)付近。
写真AI: 黒貫寺の本殿(本堂)にある木製の仁王像(右のもの)。 この仁王像は宮崎市佐土原町西上那珂の平等寺にあったものを、移したものです。
写真AJ: 黒貫寺の本殿(本堂)にある木製の仁王像(左のもの)。 この仁王像は宮崎市佐土原町西上那珂の平等寺にあったものを、移したものです。
写真AK: 黒貫寺の本殿(本堂)の天井と鈴。
写真AL: 西都市都於郡町にある黒貫寺の本殿(本堂)。
写真AM: 黒貫寺の本殿(本堂)にある仁王像。 右の目には「目」がまだ残っています。
写真AN: 黒貫寺の本殿(本堂)と参拝殿の間の庭。
写真AO: 黒貫寺の本殿(本堂)。
写真AP: 黒貫寺の本殿(本堂)の裏。
写真AQ: 黒貫寺の本殿(本堂)の裏。
写真AR: 黒貫寺の本殿(本堂)の金のシャチホコ。 屋根の上に二体の金のシャチホコがあります。
写真AS: 黒貫寺の本殿(本堂)の裏。
写真AT: 黒貫寺の本殿(本堂)の裏の入り口。
写真AU: 黒貫寺の本殿(本堂)の裏にあるお堂。
写真AV: 黒貫寺。
写真AW: 黒貫寺の古い鬼瓦(おにがわら)や瓦(かわら)。
写真AX: 黒貫寺のお堂。
写真AY: 黒貫寺のお堂。
写真AZ: 黒貫寺のお堂の裏。
写真BA: 黒貫寺のお堂。
写真BB: 黒貫寺の「心字の池」 (「心の漢字」の形をした池)。 伊東氏の一海和尚の造りと伝えられています。
写真BC: 黒貫寺の「心字の池」の近くに芭蕉(ばしょう)が茂っています。
写真BD: 黒貫寺の心字の池。
写真BE: 黒貫寺の心字の池。
写真BF: 黒貫寺の鐘楼堂(しょうろうどう)。
写真BG: 黒貫寺の鐘楼。
写真BH: 黒貫寺の鐘(かね)。
写真BI: 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は鎌倉時代以後、宝篋印陀羅尼を納める塔、後に供養塔・墓碑塔として建てられました。 ここ黒貫寺の宝篋印塔は1735年に建立されました。
写真BJ: 黒貫寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。 右手前の部分は、本来は塔の上にあるものです。 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は鎌倉時代以後、宝篋印陀羅尼を納める塔、後に供養塔・墓碑塔として建てられました。
写真BK: 水子供養。
写真BL: 黒貫寺の参拝殿の石碑。 本尊は大日如来と聖観世音菩薩。 大日如来は楠材(くすのきざい)の一木造りで、高さ86センチの座像です。 12世紀の作と言われ、宮崎県ではまれな密教彫刻です。 境内にある心字の池は伊東氏一海和尚の造りと伝えられています。
写真BM: 黒貫寺の山門。
写真BN: 黒貫寺の駐車場。
写真BO: 西都市都於郡町にある高屋神社(たかやじんじゃ)。 黒貫寺の近くにあります。 一の鳥居と石灯籠(いしどうろう)が見えています。
写真BP: 高屋神社の階段も見えています。
写真BQ: 高屋神社の一の鳥居、階段、説明板など。
写真BR: 高屋神社の説明板。
写真BS: 西都市都於郡町にある高屋神社の説明板。
写真BT: 高屋神社の参道。
写真BU: 高屋神社の階段、石灯籠、社殿。
写真BV: 高屋神社の社殿と石灯籠(いしどうろう)。
写真BW: 高屋神社の社殿。 鈴も見えています。
写真BX: 社殿から見た階段。 一の鳥居も見えています。
写真BY: 高屋神社の御手洗(みたらい)と石灯籠。
写真BZ: 高屋神社の側面。
写真CA: 高屋神社の境内にある石碑(せきひ)。
写真CB: 西都市都於郡町にある高屋神社の奥の院。
写真CC: 高屋神社の社殿。
写真CD: 高屋神社 奥の院の中。
写真CE: 高屋神社にある祠(ほこら)。
写真CF: 高屋神社の中。
写真CG: 高屋神社。
写真CH: 高屋神社。
写真CI: 高屋神社の境内。
写真CJ: 高屋神社の中。 手前の白い部分はお賽銭箱です。
写真CK: 高屋神社の石灯籠(いしどうろう)。
写真CL: 高屋神社の一の鳥居。 車道も見えています。 遠くの森は黒貫寺です。
写真CM: 高屋神社の一の鳥居からみた車道。 看板は黒貫寺のものです。
写真CN: 近くに黒貫公民館(くろぬきこうみんかん)があります。
写真CO: 高屋神社と黒貫寺の近くにある黒貫公民館。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)