皇宮神社、高屋神社 (皇軍発祥の地、皇軍発祥之地の石碑、皇宮屋、こうぐう神社、たかや神社、こぐや)  (宮崎県宮崎市)







<標高、位置>  皇宮神社は
標高 約20 m
 北緯31度56分29秒  東経131度24分49秒

<標高、位置>  「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」は
標高 約20 m
 北緯31度56分24秒  東経131度24分52秒

<標高、位置>  高屋神社は
標高 約10 m
 北緯31度57分17秒  東経131度26分54秒

 「皇宮神社」は宮崎県宮崎市下北方町横小路にあります。 宮崎神宮の摂社(せっしゃ)です。 摂社は本社に付属し、本社と末社の間に位置します。 御祭神は神武天皇。 皇宮神社略記から、
由緒
 神武天皇 宮崎の宮の皇居跡と顕彰されているところで、宮崎神宮の西北約600 mの小高い丘に鎮座する宮崎神宮の摂社です。
 神武天皇は諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町狭野)で御誕生になられました。 そして15歳にして皇太子につかれると宮崎に御移りになり、大和地方御出発になる45歳まで当地に宮居されたということです。 皇宮神社の地はただ今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地か、あるいは行宮の跡であったのではなかろうかと思われます。 創建は不詳ですが、旧社殿は弘化4年(1848年)6月藩費をもって再建され、明治10年3月21日宮崎神宮摂社に列せられています。 
 昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。
現在の社殿
 現在の社殿は伊勢神宮の第60回神宮式年遷宮(昭和48年)後、古殿舎撤下材(外宮外幣殿)を、昭和51年に御改築したものです。 昭和51年7月24日夜8時より遷座祭が斎行されました。
主なる祭典
破魔矢祭 旧正月14日、祈年祭 2月18日、夏祭 7月24日−25日、例祭 10月27日、新當祭 11月24日、歳末祭 12月31日。

 「皇軍発祥之地の石碑(こうぐんはっしょうのちのせきひ)」は宮崎県宮崎市 下北方町横小路にあります。 皇宮神社の境内(けいだい)にあります。
昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。

 「高屋神社」は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。
 高屋神社の説明版から、
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、  また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
 例祭 11月23日。


写真A: ここは平和台公園の下の所です。 そばにバス停「平和台」があります。



写真B: バス停「平和台」です。



写真C: バス停「平和台」の近くにある三叉路(さんさろ)。 右先に行くと「皇宮神社(こうぐう神社)」と「皇軍発祥之地の石碑(こうぐんはっしょうのちのせきひ)」があります。 左先に行くと大宮中学校があります。



写真D: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇宮神社」と「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」に行くには、右の茶色の建物の先を右に曲がります。 これは「総合食品おおの」です。



写真E: 右は「総合食品おおの」です。 「皇宮神社」と「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」に行くには、先に進みます。



写真F: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇宮神社」と「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」に行くには、この突き当たりを左折します。



写真G: 左奥の森が「皇宮神社」の鎮守(ちんじゅ)の森です。



写真H: ここを左に曲がります。 これは宮崎市 下北方町横小路にある「皇宮神社」の鎮守の森です。



写真I: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇宮神社」の境内(けいだい)。 ここは皇宮屋(こぐや)と地元では呼ばれています。 古い社殿の跡だと思われます。 「無断駐車禁止 宮崎神宮」の看板(かんばん)も見えます。



写真J: 「皇宮神社」の古い社殿の跡と思われます。 左に石碑(せきひ)があります。 建物の敷石(しきいし)もいくつか見えます。 入り口に綱が張ってあって、御幣(ごへい)が付けてあります。



写真K: 「宮崎神宮摂社(せっしゃ)」と彫(ほ)られた石柱があります。



写真L: 宮崎市 下北方町横小路にある皇宮神社の社殿跡。



写真M: 皇宮神社の社殿跡。



写真N: 皇宮神社の社殿跡。



写真O: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇宮神社」の社殿跡。 社殿の敷石(しきいし)が見えます。



写真P: 「皇宮神社」の社殿跡。 御手洗(みたらい)の石造物がありました。



写真Q: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇宮神社」の社殿跡。 左は石碑。



写真R: 皇宮神社の社殿跡。



写真S: 皇宮神社の社殿跡。



写真T: 皇宮神社の社殿跡。



写真U: 皇宮神社の社殿跡にある石碑(せきひ)。



写真V: 皇宮神社の社殿跡にある石碑(せきひ)。



写真W: 皇宮神社の中にある参道。



写真X: 皇宮神社の中にある参道。



写真Y: 皇宮神社の鳥居(とりい)と手水舎(ちょうずや、御手洗(みたらい))。



写真Z: 遠くに見える塔は「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」です。
 昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により「皇軍発祥の碑」が建立されて顕彰されました。



写真AA: 「郷土の名木 タブノキ 宮崎市」です。
皇宮神社(皇宮屋(こぐや))は宮崎市の「緑の保全地区」になっています。
地区名 皇宮屋、面積 9,747 平方メートル、種類 タブノキ、イスノキ等、指定年月日 平成16年4月1日、宮崎市。



写真AB:  皇宮神社(皇宮屋(こぐや))は宮崎市の「緑の保全地区」になっています。
地区名 皇宮屋、面積 9,747 平方メートル、種類 タブノキ、イスノキ等、指定年月日 平成16年4月1日、宮崎市。



写真AC: 皇宮神社にある「郷土の名木 タブノキ 宮崎市」です。



写真AD: 皇宮神社は宮崎県宮崎市下北方町横小路にあります。 宮崎神宮の摂社(せっしゃ)です。 摂社は本社に付属し、本社と末社の間に位置します。 御祭神は神武天皇。 皇宮神社略記から、
由緒
 神武天皇 宮崎の宮の皇居跡と顕彰されているところで、宮崎神宮の西北約600 mの小高い丘に鎮座する宮崎神宮の摂社です。
 神武天皇は諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町狭野)で御誕生になられました。 そして15歳にして皇太子につかれると宮崎に御移りになり、大和地方御出発になる45歳まで当地に宮居されたということです。 皇宮神社の地はただ今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地か、あるいは行宮の跡であったのではなかろうかと思われます。 創建は不詳ですが、旧社殿は弘化4年(1848年)6月藩費をもって再建され、明治10年3月21日宮崎神宮摂社に列せられています。 
 昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。
現在の社殿
 現在の社殿は伊勢神宮の第60回神宮式年遷宮(昭和48年)後、古殿舎撤下材(外宮外幣殿)を、昭和51年に御改築したものです。 昭和51年7月24日夜8時より遷座祭が斎行されました。
主なる祭典
破魔矢祭 旧正月14日、祈年祭 2月18日、夏祭 7月24日−25日、例祭 10月27日、新當祭 11月24日、歳末祭 12月31日。
と書いてあります。



写真AE: 皇宮神社の境内(けいだい)。



写真AF: 皇宮神社の鳥居(とりい)と手水舎(ちょうずや、御手洗(みたらい))。



写真AG: 皇宮神社の手水舎(ちょうずや、御手洗(みたらい))。



写真AH: 皇宮神社の御手洗(みたらい)。



写真AI: 皇宮神社の鳥居(とりい)に御幣(ごへい)と榊(さかき)の枝が付けてありました。 針金の穴の中にさしてあります。



写真AJ: 皇宮神社の鳥居の下部。



写真AK: 皇宮神社は宮崎県宮崎市下北方町横小路にあります。 宮崎神宮の摂社(せっしゃ)です。 摂社は本社に付属し、本社と末社の間に位置します。 御祭神は神武天皇。 皇宮神社略記から、
由緒
 神武天皇 宮崎の宮の皇居跡と顕彰されているところで、宮崎神宮の西北約600 mの小高い丘に鎮座する宮崎神宮の摂社です。
 神武天皇は諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町狭野)で御誕生になられました。 そして15歳にして皇太子につかれると宮崎に御移りになり、大和地方御出発になる45歳まで当地に宮居されたということです。 皇宮神社の地はただ今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地か、あるいは行宮の跡であったのではなかろうかと思われます。 創建は不詳ですが、旧社殿は弘化4年(1848年)6月藩費をもって再建され、明治10年3月21日宮崎神宮摂社に列せられています。 
 昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。
現在の社殿
 現在の社殿は伊勢神宮の第60回神宮式年遷宮(昭和48年)後、古殿舎撤下材(外宮外幣殿)を、昭和51年に御改築したものです。 昭和51年7月24日夜8時より遷座祭が斎行されました。
主なる祭典
破魔矢祭 旧正月14日、祈年祭 2月18日、夏祭 7月24日−25日、例祭 10月27日、新當祭 11月24日、歳末祭 12月31日。
と書いてあります。



写真AL: 「郷土の名木 カゴノキ 宮崎市」。



写真AM: 「郷土の名木 カゴノキ 宮崎市」。



写真AN: 皇宮神社は宮崎県宮崎市下北方町横小路にあります。 宮崎神宮の摂社(せっしゃ)です。 摂社は本社に付属し、本社と末社の間に位置します。 御祭神は神武天皇。 皇宮神社略記から、
由緒
 神武天皇 宮崎の宮の皇居跡と顕彰されているところで、宮崎神宮の西北約600 mの小高い丘に鎮座する宮崎神宮の摂社です。
 神武天皇は諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町狭野)で御誕生になられました。 そして15歳にして皇太子につかれると宮崎に御移りになり、大和地方御出発になる45歳まで当地に宮居されたということです。 皇宮神社の地はただ今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地か、あるいは行宮の跡であったのではなかろうかと思われます。 創建は不詳ですが、旧社殿は弘化4年(1848年)6月藩費をもって再建され、明治10年3月21日宮崎神宮摂社に列せられています。 
 昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。
現在の社殿
 現在の社殿は伊勢神宮の第60回神宮式年遷宮(昭和48年)後、古殿舎撤下材(外宮外幣殿)を、昭和51年に御改築したものです。 昭和51年7月24日夜8時より遷座祭が斎行されました。
主なる祭典
破魔矢祭 旧正月14日、祈年祭 2月18日、夏祭 7月24日−25日、例祭 10月27日、新當祭 11月24日、歳末祭 12月31日。
と書いてあります。



写真AO: 皇宮神社の拝殿。 お賽銭箱(さいせんばこ)もあります。



写真AP: 皇宮神社の拝殿。 お賽銭箱(さいせんばこ)もあります。



写真AQ: 皇宮神社の拝殿。 説明書などがあります。



写真AR: 「皇宮神社の本殿(おくのいん)」。
皇宮神社は宮崎県宮崎市下北方町横小路にあります。 宮崎神宮の摂社(せっしゃ)です。 摂社は本社に付属し、本社と末社の間に位置します。 御祭神は神武天皇。 皇宮神社略記から、
由緒
 神武天皇 宮崎の宮の皇居跡と顕彰されているところで、宮崎神宮の西北約600 mの小高い丘に鎮座する宮崎神宮の摂社です。
 神武天皇は諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町狭野)で御誕生になられました。 そして15歳にして皇太子につかれると宮崎に御移りになり、大和地方御出発になる45歳まで当地に宮居されたということです。 皇宮神社の地はただ今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地か、あるいは行宮の跡であったのではなかろうかと思われます。 創建は不詳ですが、旧社殿は弘化4年(1848年)6月藩費をもって再建され、明治10年3月21日宮崎神宮摂社に列せられています。 
 昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。
現在の社殿
 現在の社殿は伊勢神宮の第60回神宮式年遷宮(昭和48年)後、古殿舎撤下材(外宮外幣殿)を、昭和51年に御改築したものです。 昭和51年7月24日夜8時より遷座祭が斎行されました。
主なる祭典
破魔矢祭 旧正月14日、祈年祭 2月18日、夏祭 7月24日−25日、例祭 10月27日、新當祭 11月24日、歳末祭 12月31日。
と書いてあります。



写真AS: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真AT: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真AU: 宮崎市にある皇宮神社の拝殿。



写真AV: 皇宮神社の境内(けいだい)。



写真AW: 皇宮神社の境内(けいだい)。



写真AX: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真AY: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真AZ: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真BA: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真BB: 「皇宮神社の本殿(奥の院)と柵(さく)」。



写真BC: 「皇宮神社の本殿(奥の院)と柵(さく)」。



写真BD: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真BE: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真BF: 「皇宮神社の本殿(奥の院)」。



写真BG: 「皇宮神社の本殿(奥の院)と柵(さく)」。



写真BH: 「皇宮神社の本殿(奥の院)と柵(さく)」。



写真BI: 「皇宮神社の本殿(奥の院)と柵(さく)」。



写真BJ: 「皇宮神社の本殿(奥の院)と柵(さく)」。



写真BK: 皇宮神社は宮崎県宮崎市下北方町横小路にあります。 宮崎神宮の摂社(せっしゃ)です。 摂社は本社に付属し、本社と末社の間に位置します。 御祭神は神武天皇。 皇宮神社略記から、
由緒
 神武天皇 宮崎の宮の皇居跡と顕彰されているところで、宮崎神宮の西北約600 mの小高い丘に鎮座する宮崎神宮の摂社です。
 神武天皇は諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町狭野)で御誕生になられました。 そして15歳にして皇太子につかれると宮崎に御移りになり、大和地方御出発になる45歳まで当地に宮居されたということです。 皇宮神社の地はただ今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地か、あるいは行宮の跡であったのではなかろうかと思われます。 創建は不詳ですが、旧社殿は弘化4年(1848年)6月藩費をもって再建され、明治10年3月21日宮崎神宮摂社に列せられています。 
 昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。
現在の社殿
 現在の社殿は伊勢神宮の第60回神宮式年遷宮(昭和48年)後、古殿舎撤下材(外宮外幣殿)を、昭和51年に御改築したものです。 昭和51年7月24日夜8時より遷座祭が斎行されました。
主なる祭典
破魔矢祭 旧正月14日、祈年祭 2月18日、夏祭 7月24日−25日、例祭 10月27日、新當祭 11月24日、歳末祭 12月31日。
と書いてあります。



写真BL: 皇宮神社の境内に「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」があります。 左奥に見えている高い塔がそれです。



写真BM: 白羽の矢と御幣(ごへい)が立ててありました。



写真BN: 皇宮神社の柵(さく)。 鳥居(とりい)も見えています。



写真BO: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇軍発祥之地の石碑(こうぐんはっしょうのちのせきひ)」。 皇宮神社の境内にあります。
昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。



写真BP: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の回りの景色。



写真BQ: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇軍発祥之地の石碑(こうぐんはっしょうのちのせきひ)」。 皇宮神社の境内にあります。
昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。



写真BR: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」のそばの景色。



写真BS: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の回りの景色。 左奥に宮崎地方気象台の塔が見えます。



写真BT: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の回りの景色。



写真BU: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇軍発祥之地の石碑(こうぐんはっしょうのちのせきひ)」。 皇宮神社の境内(けいだい)にあります。
昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。



写真BV: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の下部。



写真BW: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」。 「紀元2600年 宮崎県奉祝会」と彫(ほ)られています。 2600年は神武東遷からの年数。



写真BX: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇軍発祥之地の石碑(こうぐんはっしょうのちのせきひ)」。 皇宮神社の境内(けいだい)にあります。
昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。



写真BY: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」のそばの景色。



写真BZ: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の回りの景色。



写真CA: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の回りの景色。 皇宮神社の鎮守の森が見えています。



写真CB: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の回りの景色。 皇宮神社の鎮守(ちんじゅ)の森が見えています。



写真CC: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の回りの景色。



写真CD: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」のそばの景色。



写真CE: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の下部。



写真CF: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の上部。



写真CG: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」に「紀元2600年 陸軍大将 杉山元 書」と彫(ほ)られています。 2600年は神武東遷からの年数。



写真CH: 宮崎市 下北方町横小路にある「皇軍発祥之地の石碑(こうぐんはっしょうのちのせきひ)」。 皇宮神社の境内(けいだい)にあります。
昭和10年11月14日の特別大演習の折には、昭和天皇の御参拝があり、昭和15年には、紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥の碑が建立されて顕彰されました。



写真CI: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の中部。



写真CJ: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の下部。




写真CK: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の下部。



写真CL: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の裏側に出入り口があります。



写真CM: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の裏側に出入り口があります。



写真CN: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の内部の底。 古いゴザがありました。



写真CO: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の内部の上部。 内部は角柱型の空洞(くうどう)になっています。



写真CP: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の内部の壁。



写真CQ: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の西側に石碑(せきひ)があります。



写真CR: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の西にある石碑。



写真CS: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の西側にある石碑の裏。



写真CT: 「皇軍発祥之地の石碑(せきひ)」の西にある石碑の説明版。



写真CU: 南の車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る階段。



写真CV: 車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る道。



写真CW: 車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る道。 石灯籠(いしどうろう、明治32年4月1日建立)も見えます。



写真CX: 南の車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る階段。



写真CY: 南の車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る階段。 右に皇軍発祥之地の石碑も見えます。



写真CZ: 南の車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る階段。



写真DA: 南の車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る階段。 そばに石灯籠(いしどうろう、明治32年4月1日建立)があります。



写真DB: 南の車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る階段。 そばに石灯籠(いしどうろう、明治32年4月1日建立)があります。



写真DC: 石灯籠(いしどうろう)。 明治32年4月1日建立。 宮崎町と書いてあります。



写真DD: 石灯籠と石碑。



写真DE: 車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る道。 遠くの建物は南九州大学。



写真DF: 皇宮神社の車道の所から見た景色。 左に見えているのは宮崎地方気象台です。 宮崎地方気象台の塔も見えます。



写真DG: 皇宮神社の車道の所から見た景色。 先に行くと宮崎神宮があります。



写真DH: 車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る道。 奥に階段も見えます。



写真DI: 車道から「皇軍発祥之地の石碑」に上る道。 奥に階段も見えます。



写真DJ: 宮崎県宮崎市村角(むらすみ)の「高屋神社(たかやじんじゃ)」に行くには、山崎道路の自由が丘団地のそばから西へ曲がります。 団地には目立つ「四角の給水塔」があります。 信号には「山崎町」の看板(かんばん)があります。



写真DK: 高屋神社に行くにはこの十字路(山崎町交差点)を先に進みます。



写真DL: 高屋神社に行く途中に「バス停 村角(むらすみ)」があります。 携帯電話のアンテナもあります。



写真DM: 右手に光明保育園があります。



写真DN: 高屋神社に行くにはここを右に曲がります。 角に大きなイチョウの木があります。



写真DO: 曲がり角にある大きなイチョウの木。



写真DP: 左に森が見えてきます。 これが高屋神社(たかや神社)の鎮守(ちんじゅ)の森です。 高屋神社は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



写真DQ: 宮崎市村角(むらすみ)にある「高屋神社」。



写真DR: 右手が宮崎市村角(むらすみ)にある「高屋神社」。



写真DS: 左手が宮崎市村角(むらすみ)にある「高屋神社」。



写真DT: 「高屋神社」と彫(ほ)られた石碑(せきひ、昭和5年12月建立)。
高屋神社は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



写真DU: 「高屋神社」と彫(ほ)られた石碑(せきひ、昭和5年12月建立)。



写真DV: 「高屋神社」と彫(ほ)られた石碑(せきひ、昭和5年12月建立)。



写真DW: 高屋神社の建物。



写真DX: 高屋神社の鳥居(とりい)。 奥に拝殿も見えています。 高屋神社は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



写真DY: 高屋神社の境内(けいだい)。 石碑(せきひ)もあります。



写真DZ: 高屋神社の説明版。
 「高屋神社」は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。
 高屋神社の説明版から、
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、  また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
 例祭 11月23日。



写真EA: 高屋神社の説明版。
 「高屋神社」は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。
 高屋神社の説明版から、
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、  また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
 例祭 11月23日。



写真EB: 高屋神社の説明版。
 「高屋神社」は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。
 高屋神社の説明版から、
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、  また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
 例祭 11月23日。



写真EC: 高屋神社の説明版。
 「高屋神社」は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。
 高屋神社の説明版から、
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、  また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
 例祭 11月23日。



写真ED: 高屋神社の説明版。
 「高屋神社」は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。
 高屋神社の説明版から、
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、  また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
 例祭 11月23日。



写真EE: 高屋神社の説明版。
 「高屋神社」は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。
 高屋神社の説明版から、
 祭神 彦火々出見命、景行天皇、豊玉姫命
 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇106 代後陽成天皇の御宇慶長16年(1613年)に社殿の改築の棟木あり、また、神官の系図により仁明天皇の嘉祥 2年(849 年)に神官となりし事記載有、このことによって、その由緒が伺える。
 更に神社の西方に小高き所あり、彦火火出見尊の山陵と言い伝える。即ち日本記に言う日向の高屋の山陵に葬るとあるは即ち是なり、鵜戸山寺建立並びに再興年代録に景行天皇筑紫に座すこと 4ヵ年日向宮崎郡村角と言う所、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋という。神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇がこの高屋の宮を定めて功臣武内宿称をして、彦火火出見尊の山陵を定めて鎮祭し高屋八幡宮という記録がある。
 右御陵より約 50m北方に母場御前という処有、そこは彦火火出見尊御誕生のとき竹刀で臍の緒を切った後その竹刀を投ぜ給ひし処で、中古までは其の辺りに孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治8年12月開墾して、むら役詰所の家屋を新築せり。
 北西の約 100m隔てて、宇安尊と言う処有、彦火火出見尊御誕生あらせ給いし処と云い伝う。東の方50m程隔てて胞之尊と言う処有、彦火火出見尊の御胞を納め奉りし処と云い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は御奉納所と申し奉りて奉幣する処有、  また、天神川、御手洗川という川あり、天神川は彦火火出見尊に献る御飯を炊きし処と云い伝えて村民この川上の水口にて手足を洗うことなし。御手洗川は天神川の下流で同命御誕生のとき鹿葺津比売命が臍の緒を切って御手を洗い給いし処と云い伝う 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと称するところがある。 祭典の日神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。 この所は仮の皇居といい、また、当宮を西方へ600mの処に犬ヶ城と言う処有、狗人の住み給うところなり、即ち火酢芹命の旧地といい伝えられる。
 例祭 11月23日。



写真EF: 高屋神社の境内(けいだい)にある建物。



写真EG: 高屋神社の境内(けいだい)。



写真EH: 「緑の保全地区」
地区名 高屋神社、面積 4,156 平方メートル、樹種 ナギ、エノキ、クスノキ等、指定年月日 平成16年4月1日、宮崎市
と書いてあります。



写真EI: 高屋神社。 鳥居、拝殿、石灯籠(いしどうろう)、石碑(せきひ)、階段、御手洗(みたらい)、モウソウダケの竹林なども見えます。
宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



写真EJ: 高屋神社の境内には小川が流れています。



写真EK: 高屋神社の境内には小川が流れています。



写真EL: 高屋神社の境内には竹林、石碑(せきひ)もあります。



写真EM: 高屋神社の御手洗(みたらい)。



写真EN: 村角(むらすみ)にある「高屋神社」の石碑とモウソウダケの竹林。



写真EO: 村角(むらすみ)にある「高屋神社」の石碑とモウソウダケの竹林。



写真EP: 高屋神社の御手洗(みたらい)。



写真EQ: 村角の高屋神社の境内。



写真ER: 村角の高屋神社にある石像と供養塔(くようとう)。



写真ES: 高屋神社の境内。 左に供養塔(くようとう)も見えます。



写真ET: 高屋神社の竹林と御手洗(みたらい)。



写真EU: 高屋神社。 宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



写真EV: 高屋神社の拝殿と鎮守(ちんじゅ)の森。



写真EW: 高屋神社の境内にある石。



写真EX: 高屋神社の境内にある石。



写真EY: 高屋神社の「奉納井戸」。 昭和15年10月と書かれています。 石碑の後ろに井戸が見えています。



写真EZ: 高屋神社の「奉納井戸」。 昭和15年10月と書かれています。



写真FA: 高屋神社の「奉納井戸」。 昭和15年10月と書かれています。



写真FB: 村角の高屋神社の境内。 石灯籠(いしどうろう)も見えています。



写真FC: 村角の高屋神社の境内。 拝殿と石灯籠が見えています。



写真FD: 村角の高屋神社の境内。 拝殿が見えています。



写真FE: 村角の高屋神社の境内。 石像と石碑(せきひ)も見えています。 左の石碑は明治25年10月建立。



写真FF: 村角の高屋神社の境内。



写真FG: 高屋神社の拝殿。 宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



写真FH: 村角の高屋神社の境内。 拝殿が見えています。



写真FI: 村角の高屋神社の境内。 竹林が美しい。



写真FJ: 村角の高屋神社の境内。 竹林が美しい。



写真FK: 村角の高屋神社の境内。 竹林が美しい。 奥に本殿(左)と拝殿が見えています。



写真FL: 村角の高屋神社の境内。 ここは「村角町 ちびっこ広場」になっています。



写真FM: 村角の高屋神社の境内。 ここは「村角町 ちびっこ広場」になっています。



写真FN: 高屋神社の本殿(奥の院)。



写真FO: 高屋神社の本殿(奥の院)。



写真FP: 高屋神社の本殿(左)と拝殿。



写真FQ: 高屋神社の本殿(奥の院)。



写真FR: トイレもあります。



写真FS: 高屋神社の境内。



写真FT: 高屋神社の本殿(右)、拝殿、末社(左端)。



写真FU: 高屋神社の本殿(右)、拝殿、末社(左端)。



写真FV: 高屋神社の境内(けいだい)。



写真FW: 高屋神社の本殿。



写真FX: 高屋神社の本殿。



写真FY: 高屋神社のそばの車道。 「助けよう 君のまわりの 子供たち。 大宮地域自治区地域協議会、大宮地域の安全を進める会」と書かれた棒状の標識。



写真FZ: 車道沿いにある高屋神社の石碑(せきひ)。



写真GA: 村角町 「ちびっこ広場」。 野球のネットも見えます。



写真GB: 高屋神社のそば(東側)の車道。



写真GC: 村角町にある「高屋神社」の拝殿(ひだり)と本殿。



写真GD: 村角町にある「高屋神社」の拝殿(ひだり)と本殿。



写真GE: 高屋神社の境内にある「戦没者記念碑」。



写真GF: 高屋神社の東側の車道。



写真GG: 村角の「高屋神社」にある「郷土の名木 ナギノキ、昭和51年3月1日指定 (宮崎市)」。 ナギノキは宮崎神宮の一の鳥居(とりい)からの参道にもあります。



写真GH: 村角の「高屋神社」にある「郷土の名木 ナギノキ、昭和51年3月1日指定 (宮崎市)」。 ナギノキは宮崎神宮の一の鳥居(とりい)からの参道にもあります。



写真GI: 村角の「高屋神社」にある「郷土の名木 ナギノキ、昭和51年3月1日指定 (宮崎市)」。 ナギノキは宮崎神宮の一の鳥居(とりい)からの参道にもあります。



写真GJ: 村角の「高屋神社」にある「郷土の名木 ナギノキ、昭和51年3月1日指定 (宮崎市)」。 ナギノキは宮崎神宮の一の鳥居(とりい)からの参道にもあります。



写真GK: 高屋神社の境内。



写真GL: 高屋神社の境内。



写真GM: 高屋神社の境内。



写真GN: 高屋神社の境内。



写真GO: 高屋神社の境内。



写真GP: 高屋神社の拝殿。



写真GQ: 高屋神社の拝殿。



写真GR: 高屋神社(たかやじんじゃ)。 宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



写真GS: 高屋神社の拝殿。 しめ縄の上の横木には端に「象の木彫(ほ)り」が見えます。 神社にはこの「象の木彫(ほ)り」がよく見られます。



写真GT: 高屋神社の拝殿。



写真GU: 高屋神社の中。 お賽銭箱(さいせんばこ)も見えます。



写真GV: 高屋神社の中。



写真GW: 高屋神社の中。



写真GX: 高屋神社の境内。 奥に鳥居も見えます。



写真GY: 高屋神社の古い石灯籠(いしどうろう)。



写真GZ: 高屋神社の境内に「ツワブキの穂(白色)」が出ていました。



写真HA: 高屋神社は宮崎県宮崎市村角町字橘尊1975にあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)