児原稲荷神社 (国見山 登山口、米良稲荷、西米良夜神楽(児原稲荷夜神楽)、宮崎県史跡指定 勤王家 甲斐父子之墓 (甲斐右膳の墓、甲斐大蔵の墓)、かい父子の墓、日向国 米良山、児原稲荷、西米良村 越野尾の展望、こばるいなり、米良稲荷橋、高山彦九郎の歌碑、幕末の勤王の志士)  (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾)







<標高、位置>  児原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)は
標高 約410 m
 北緯32度11分17秒  東経131度14分40秒

<標高、位置>  米良稲荷橋は
標高 約200 m
 北緯32度11分28秒  東経131度14分26秒

<標高、位置>  越野尾(こしのお)郵便局は
標高 約210 m
 北緯32度11分50秒  東経131度14分32秒

<標高、位置>  越野尾駐在所は
標高 約220 m
 北緯32度11分51秒  東経131度14分31秒

<標高、位置>  国見山は
標高 1036.3 m
 北緯32度09分47秒  東経131度15分23秒


 「児原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)は米良稲荷(めらいなり)とも呼(よ)ばれます。 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾134 にあります。
児原稲荷神社には幕末に勤王家の高山彦九郎も来たことがあります。 また、宮崎県史跡指定である幕末の勤王家で、ここの神主の甲斐(かい)父子の墓もあります。
商売繁盛、五穀豊穣、家業繁栄、海上安全大漁、家内安全、病気平癒、安産祈願、交通安全、厄除けなど、日常生活のあらゆることの神様です。 宮崎県、熊本県、鹿児島県から年間約1万5千人の参拝客が訪れます。
創建時期は不明ですが、一説では養老2年11月8日(719年)と伝えられています。
 当初は児原神社と称して、木花咲耶姫命・彦火火出見命・大山祗命を祀(まつ)ります。
 建武2年(1336年)伊東祐持が鎌倉より下向、日向国の太守となり、都於郡(とのこおり、西都市)に都於郡城を築きました。 城内に社(やしろ)を創建して、伊豆より伊豆稲荷(伏見稲荷)の御神霊、倉稲魂命・太田命・大宮姫命の三柱を迎えて、伊東家の守護神として祀(まつ)りました。
 天正5年(1577年)のとき、10代 伊東義祐三位入道は島津氏に追われ、豊後(大分県)に退去するとき、兵火の中より御神霊を壺(つぼ)に収め、当神社の甲斐助左衛門重祐に祭祀を依頼しました。 それ以後、児原稲荷神社となりました。
御祭神
倉穂魂命、彦火火出見命、太田命、大宮姫命、木花咲耶姫命、大山祇命

 「国見山登山口」は児原稲荷神社の鳥居(とりい)の右にあります。 国見山(標高 1036 m)は児原稲荷神社から片道 約2.5時間のコースです。 野鳥のクマタカが生息していると言われています。 天気の良い時には宮崎平野が見渡せます。 これから国見山の名称になったのでしょう。

 「宮崎県指定 甲斐右膳 甲斐大蔵 父子の墓」の説明板から、
指定年月日 昭和9年4月17日
 <右膳> 文化14年 児原神社の神主 重質の嫡子(ちゃくし、本妻の子)として越野尾に生まれる。 初名 豊前のちに右膳と改める。 米良領主 則忠の嗣子(あとつぎ) 武臣の鹿児島藩校 造士館 留学を斡旋する。
 人吉藩士 新宮多気馬らと尊王運動に努めやがて京都に赴(おもむ)き、真木和泉、山田十郎に会い三条実美に謁見し密勅を奉じて米良に帰る。 人吉藩では藩の許可無く上京したこと、武臣を勝手に鹿児島に留学させたことを理由に、文久3年(1863年)11月9日、稲荷神社 大祭日に捕(と)らえられ、人吉に幽閉され、元治元年(1864年)6月13日 48歳で獄中に死亡した。 明治24年靖国の神に列せられ、同35年 特旨をもって正5位を追贈された。

<大蔵> 天保9年、右膳の嫡子として越野尾に生まれる。 幼時 人吉藩士 加賀久米作の門に漢学を学び、安政元年の春、京都に留学、文久元年まで赤松祐以に国学を学んだ後、米良領主 則忠の近習となり、武臣の鹿児島藩校留学では父 右膳とともに尽力した。 以後 父とともに国事に奔走(ほんそう)するが、文久3年(1863年)11月9日 父 叔父(おじ)と人吉藩に捕らえられ、元治元年(1864年)8月24日 獄中に死んだ。 27歳の短い生涯であった。 明治24年 父右膳と同時に靖国神社に合祀(ごうし)され同35年従5位を追贈された。

右膳、大蔵 父子は獄中にあっても尽忠の至誠に燃え詩歌に自らを慰めたという。
露霜のおきての後か紅葉の 赤き心は 人のめづべき (右膳)
天津日の御ため 消えて匂うかな 吉野の山の花の下露 (大蔵)

 児原稲荷神社には幕末の寛政4年(1792年)2月9日に勤王論の高山彦九郎が訪(おとず)れています。 その歌碑(かひ)が駐車場の近くにあります。
 「高山彦九朗(高山彦九郎)」は児原稲荷神社(宮崎県児湯郡西米良村)、鹿野田神社(宮崎県西都市鹿野田)や観音山(宮崎県児湯郡新富町)、高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町)も同じ頃、訪(おとず)れています。 高山彦九朗は群馬県太田市に生まれ、18歳の時に遺書を残して家を出、北海道、四国以外の全国を遊説(ゆうぜい)して勤王論を説(と)きました。 公家とも交流があったので、幕府の松平定信らから警戒されました。 1791年(寛政3年)から九州各地を旅し、薩摩藩に頼ろうとしましたが、退(しりぞ)けられしばらく豊後国日田(大分県)で捕縛されました。 その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)に筑後国久留米(福岡県)の友達であった森嘉膳の家で割腹自殺しました(46歳)。 第二次世界大戦前は修身の教科書に高山彦九朗のことが書かれていました。


写真A: 一ツ瀬川にある米良稲荷橋です。 国道219にあります。 宮崎県 児湯郡 西米良村 越野尾(こしのお)にあります。



写真B: 米良稲荷橋からみた一ツ瀬川の上流側。 一ツ瀬ダムのダム湖になっています。



写真C: 米良稲荷橋からみた一ツ瀬川の下流側。 一ツ瀬ダムのダム湖になっています。



写真D: 米良稲荷橋の南たもとに児原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)に行く三叉路(さんさろ)があります。



写真E: ここを左に曲がって児原稲荷神社(米良稲荷)に行きます。 「児原稲荷神社」の石碑(せきひ)がみえます。 「児原稲荷神社 2 km ←」の看板(かんばん)もあります。



写真F: 「釣り人への注意」の看板(かんばん)。 「この付近の写真に示す所では、地すべりが発生する恐れがあります。 もし、地すべりが起こったときには、貯水池の水位が上がる可能性があり、危険ですので、釣りなどをする際には十分に注意してください。 宮崎県西都土木事務所 西米良村役場総務課 西都警察署 九州電力株式会社宮崎支店」と書いてあります。



写真G: バス停「米良稲荷、宮崎交通」とバスのりば「児原稲荷 西米良村営バス」があります。



写真H: バス停「米良稲荷、宮崎交通」とバスのりば「児原稲荷 西米良村営バス」があります。



写真I: 三叉路(さんさろ)を右に登って行くと「児原稲荷神社(米良稲荷)」があります。



写真J: バス停付近から見た米良稲荷橋。



写真K: 「児原稲荷神社 参道入口」の古い石碑(せきひ)があります。



写真L: 「児原稲荷神社 2 km ←」の看板(かんばん)があります。



写真M: 児原稲荷神社の石碑。



写真N: 米良稲荷橋。



写真O: 「村道 児原線 管理者 西米良村」の道路標識があります。



写真P: 「生業万事の御神徳 正一位 児原稲荷神社」の幟(のぼり)があります。



写真Q: この道を登っていきます。



写真R: ここは三叉路(さんさろ)になっています。 児原稲荷神社(米良稲荷)へは右に曲がります。



写真S: 三叉路にミラーもあります。



写真T: 児原稲荷神社(米良稲荷)へは右に曲がります。



写真U: 坂道を登っていきます。 児原稲荷神社(米良稲荷)の参道です。



写真V: 三叉路から見た西米良の山です。



写真W: 一ツ瀬川のダム湖にかかる「越野尾橋」が見えます。 越野尾橋は米良稲荷橋の一つ下流の橋です。 西米良の山も見えます。



写真X: 一ツ瀬川のダム湖にかかる「越野尾橋」が見えます。 越野尾橋は米良稲荷橋の一つ下流の橋です。



写真Y: 三叉路からの景色。



写真Z: 三叉路からの景色。 西米良の山が見えます。



写真AA: 三叉路からの景色。 西米良の山が見えます。



写真AB: 三叉路からの景色。 西米良の山が見えます。



写真AC: 三叉路からの景色。 西米良の山が見えます。



写真AD: 三叉路のそばの様子(ようす)。



写真AE: 三叉路付近の様子。



写真AF: 児原稲荷神社の参道からみえる「越野尾小学校」の建物です。 越野尾小学校は2005年3月に125年の歴史を終わり閉校しました。 その跡地や建物を利用して、村おこしのイベント等が開かれています。



写真AG: 児原稲荷神社の参道からみえる一ツ瀬ダムのダム湖。



写真AH: 宮崎県 児湯郡 西米良村 越野尾にある児原稲荷神社の駐車場の近くにある「高山彦九郎 歌碑」です。
 「高山彦九朗(高山彦九郎)」は児原稲荷神社(宮崎県児湯郡西米良村)、鹿野田神社(宮崎県西都市鹿野田)や観音山(宮崎県児湯郡新富町)、高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町)も同じ頃、訪(おとず)れています。 高山彦九朗は群馬県太田市に生まれ、18歳の時に遺書を残して家を出、北海道、四国以外の全国を遊説(ゆうぜい)して勤王論を説(と)きました。 公家とも交流があったので、幕府の松平定信らから警戒されました。 1791年(寛政3年)から九州各地を旅し、薩摩藩に頼ろうとしましたが、退(しりぞ)けられしばらく豊後国日田(大分県)で捕縛されました。 その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)に筑後国久留米(福岡県)の友達であった森嘉膳の家で割腹自殺しました(46歳)。 第二次世界大戦前は修身の教科書に高山彦九朗のことが書かれていました。



写真AI: 「高山彦九郎 歌碑」と書いてあります。
 「高山彦九朗(高山彦九郎)」は児原稲荷神社(宮崎県児湯郡西米良村)、鹿野田神社(宮崎県西都市鹿野田)や観音山(宮崎県児湯郡新富町)、高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町)も同じ頃、訪(おとず)れています。 高山彦九朗は群馬県太田市に生まれ、18歳の時に遺書を残して家を出、北海道、四国以外の全国を遊説(ゆうぜい)して勤王論を説(と)きました。 公家とも交流があったので、幕府の松平定信らから警戒されました。 1791年(寛政3年)から九州各地を旅し、薩摩藩に頼ろうとしましたが、退(しりぞ)けられしばらく豊後国日田(大分県)で捕縛されました。 その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)に筑後国久留米(福岡県)の友達であった森嘉膳の家で割腹自殺しました(46歳)。 第二次世界大戦前は修身の教科書に高山彦九朗のことが書かれていました。



写真AJ: 「高山彦九郎 歌碑」の説明板。
 高山正之 通称 彦九郎は、上野国(群馬県)新田郡細谷村の人で、江戸中期の尊皇家である。 18の時上洛、勉学に努めた。 堂上公郎と交わり、また各地を回り勤皇を説く。 しかし当地に意を得ずとして楽します為に各国への旅に出る。
 寛政4年(1792年)2月9日 正之は豪雨の中を米良郷に入った。 桟橋を渡り、児原の社に着いた。 夜は神主 甲斐の宅に泊まり... 奇怪なり」と興味を示している。
 翌10日 雨はやんだ。 出発にさきだって稲荷の社に参拝、新酒を戴(いただ)く、神主 甲斐に詠(よ)みて残すと書く。
もう一度神社に詣(まい)りたいとの願いを歌に託(たく)した。 だが彼は2度とこの地を訪れることはなかった。 1年後に訪れた久留米(福岡県久留米市)の森嘉膳 宅において、自ら命を絶った。 時に寛政9年6月21日享年46歳。 彼は寛政の3奇人といわれている。
撰文(文章を作ること) 宮崎神宮宮司
と書かれています。(一部不詳) 
 「高山彦九朗(高山彦九郎)」は児原稲荷神社(宮崎県児湯郡西米良村)、鹿野田神社(宮崎県西都市鹿野田)や観音山(宮崎県児湯郡新富町)、高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町)も同じ頃、訪(おとず)れています。 高山彦九朗は群馬県太田市に生まれ、18歳の時に遺書を残して家を出、北海道、四国以外の全国を遊説(ゆうぜい)して勤王論を説(と)きました。 公家とも交流があったので、幕府の松平定信らから警戒されました。 1791年(寛政3年)から九州各地を旅し、薩摩藩に頼ろうとしましたが、退(しりぞ)けられしばらく豊後国日田(大分県)で捕縛されました。 その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)に筑後国久留米(福岡県)の友達であった森嘉膳の家で割腹自殺しました(46歳)。 第二次世界大戦前は修身の教科書に高山彦九朗のことが書かれていました。



写真AK: ガクアジサイの花が咲いていました。



写真AL: 椎茸(しいたけ)の栽培が行われていました。



写真AM: 児原稲荷神社(米良稲荷)の赤い鳥居(とりい)が見えてきました。



写真AN: 「車祓(はら)いの方、高齢で階段がきつい方、足腰の不自由な方、お供(そな)え物が多い(重い)方は、ご遠慮なくお車をお上げください。 それ以外の車の進入はご遠慮ください。 社務所」と書いてある看板があります。



写真AO: 社殿まで車が上がれる坂道があります。



写真AP: 左に鳥居(とりい)が見えます。



写真AQ: 米良児原稲荷神社
御祭神
倉穂魂命、彦火火出見命、太田命、大宮姫命、木花咲耶姫命、大山祇命
と書かれています。
 「児原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)は米良稲荷(めらいなり)とも呼(よ)ばれます。 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾134 にあります。
児原稲荷神社には幕末に勤王家の高山彦九郎も来たことがあります。 また、宮崎県史跡指定である幕末の勤王家で、ここの神主の甲斐(かい)父子の墓もあります。
商売繁盛、五穀豊穣、家業繁栄、海上安全大漁、家内安全、病気平癒、安産祈願、交通安全、厄除けなど、日常生活のあらゆることの神様です。 宮崎県、熊本県、鹿児島県から年間約1万5千人の参拝客が訪れます。
創建時期は不明ですが、一説では養老2年11月8日(719年)と伝えられています。
 当初は児原神社と称して、木花咲耶姫命・彦火火出見命・大山祗命を祀(まつ)ります。
 建武2年(1336年)伊東祐持が鎌倉より下向、日向国の太守となり、都於郡(とのこおり、西都市)に都於郡城を築きました。 城内に社(やしろ)を創建して、伊豆より伊豆稲荷(伏見稲荷)の御神霊、倉稲魂命・太田命・大宮姫命の三柱を迎えて、伊東家の守護神として祀(まつ)りました。
 天正5年(1577年)のとき、10代 伊東義祐三位入道は島津氏に追われ、豊後(大分県)に退去するとき、兵火の中より御神霊を壺(つぼ)に収め、当神社の甲斐助左衛門重祐に祭祀を依頼しました。 それ以後、児原稲荷神社となりました。
御祭神
倉穂魂命、彦火火出見命、太田命、大宮姫命、木花咲耶姫命、大山祇命



写真AR: 宮崎県 児湯郡 西米良村 の児原稲荷神社の鳥居、狐像(きつねぞう)、階段などが見えます。



写真AS: 児原稲荷神社の鳥居と鎮守の森。



写真AT: 鳥居(とりい)の右手に「国見山登山口、休憩所で記帳して下さい」と書いてある標識があります。
 「国見山登山口」は児原稲荷神社の鳥居(とりい)の右にあります。 国見山(標高 1036 m)は児原稲荷神社から片道 約2.5時間のコースです。 野鳥のクマタカが生息していると言われています。 天気の良い時には宮崎平野が見渡せます。 これから国見山の名称になったのでしょう。



写真AU: 鳥居(とりい)の右手に「国見山登山口、休憩所で記帳して下さい」と書いてある標識があります。
 「国見山登山口」は児原稲荷神社の鳥居(とりい)の右にあります。 国見山(標高 1036 m)は児原稲荷神社から片道 約2.5時間のコースです。 野鳥のクマタカが生息していると言われています。 天気の良い時には宮崎平野が見渡せます。 これから国見山の名称になったのでしょう。



写真AV: 建物と自動車があります。



写真AW: 鳥居(とりい)のそばの様子(ようす)。



写真AX: 鳥居、飲料水の自動販売機、国見山の登山口など。



写真AY: 鳥居のそばの様子(ようす)。



写真AZ: 飲料水の自動販売機もあります。



写真BA: 鳥居と「児原稲荷神社」の幟(のぼり)。 階段には手すりがあります。 鳥居には「奉納 児原稲荷神社」の額(がく)があります。
「児原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)は米良稲荷(めらいなり)とも呼(よ)ばれます。 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾134 にあります。
児原稲荷神社には幕末に勤王家の高山彦九郎も来たことがあります。 また、宮崎県史跡指定である幕末の勤王家で、ここの神主の甲斐(かい)父子の墓もあります。
商売繁盛、五穀豊穣、家業繁栄、海上安全大漁、家内安全、病気平癒、安産祈願、交通安全、厄除けなど、日常生活のあらゆることの神様です。 宮崎県、熊本県、鹿児島県から年間約1万5千人の参拝客が訪れます。
創建時期は不明ですが、一説では養老2年11月8日(719年)と伝えられています。
 当初は児原神社と称して、木花咲耶姫命・彦火火出見命・大山祗命を祀(まつ)ります。
 建武2年(1336年)伊東祐持が鎌倉より下向、日向国の太守となり、都於郡(とのこおり、西都市)に都於郡城を築きました。 城内に社(やしろ)を創建して、伊豆より伊豆稲荷(伏見稲荷)の御神霊、倉稲魂命・太田命・大宮姫命の三柱を迎えて、伊東家の守護神として祀(まつ)りました。
 天正5年(1577年)のとき、10代 伊東義祐三位入道は島津氏に追われ、豊後(大分県)に退去するとき、兵火の中より御神霊を壺(つぼ)に収め、当神社の甲斐助左衛門重祐に祭祀を依頼しました。 それ以後、児原稲荷神社となりました。
御祭神
倉穂魂命、彦火火出見命、太田命、大宮姫命、木花咲耶姫命、大山祇命



写真BB: 鳥居には「奉納 児原稲荷神社」の額(がく)があります。 しめ縄が鳥居にあります。



写真BC: 「勤王家 甲斐父子之墓、宮崎県史跡指定 昭和9年4月19日」と書いてある標識棒があります。



写真BD: 「勤王家 甲斐父子之墓、宮崎県史跡指定 昭和9年4月19日」へ行く道。 奥に説明板も見えます。



写真BE: 「宮崎県指定 甲斐右膳 甲斐大蔵 父子の墓」の説明板。
指定年月日 昭和9年4月17日
 <右膳> 文化14年 児原神社の神主 重質の嫡子(ちゃくし、本妻の子)として越野尾に生まれる。 初名 豊前のちに右膳と改める。 米良領主 則忠の嗣子(あとつぎ) 武臣の鹿児島藩校 造士館 留学を斡旋する。
 人吉藩士 新宮多気馬らと尊王運動に努めやがて京都に赴(おもむ)き、真木和泉、山田十郎に会い三条実美に謁見し密勅を奉じて米良に帰る。 人吉藩では藩の許可無く上京したこと、武臣を勝手に鹿児島に留学させたことを理由に、文久3年(1863年)11月9日、稲荷神社 大祭日に捕(と)らえられ、人吉に幽閉され、元治元年(1864年)6月13日 48歳で獄中に死亡した。 明治24年靖国の神に列せられ、同35年 特旨をもって正5位を追贈された。

<大蔵> 天保9年、右膳の嫡子として越野尾に生まれる。 幼時 人吉藩士 加賀久米作の門に漢学を学び、安政元年の春、京都に留学、文久元年まで赤松祐以に国学を学んだ後、米良領主 則忠の近習となり、武臣の鹿児島藩校留学では父 右膳とともに尽力した。 以後 父とともに国事に奔走(ほんそう)するが、文久3年(1863年)11月9日 父 叔父(おじ)と人吉藩に捕らえられ、元治元年(1864年)8月24日 獄中に死んだ。 27歳の短い生涯であった。 明治24年 父右膳と同時に靖国神社に合祀(ごうし)され同35年従5位を追贈された。

右膳、大蔵 父子は獄中にあっても尽忠の至誠に燃え詩歌に自らを慰めたという。
露霜のおきての後か紅葉の 赤き心は 人のめづべき (右膳)
天津日の御ため 消えて匂うかな 吉野の山の花の下露 (大蔵)
昭和56年11月 西米良村教育委員会
と書かれています。



写真BF: 「宮崎県指定 甲斐右膳 甲斐大蔵 父子の墓」の説明板。
指定年月日 昭和9年4月17日
 <右膳> 文化14年 児原神社の神主 重質の嫡子(ちゃくし、本妻の子)として越野尾に生まれる。 初名 豊前のちに右膳と改める。 米良領主 則忠の嗣子(あとつぎ) 武臣の鹿児島藩校 造士館 留学を斡旋する。
 人吉藩士 新宮多気馬らと尊王運動に努めやがて京都に赴(おもむ)き、真木和泉、山田十郎に会い三条実美に謁見し密勅を奉じて米良に帰る。 人吉藩では藩の許可無く上京したこと、武臣を勝手に鹿児島に留学させたことを理由に、文久3年(1863年)11月9日、稲荷神社 大祭日に捕(と)らえられ、人吉に幽閉され、元治元年(1864年)6月13日 48歳で獄中に死亡した。 明治24年靖国の神に列せられ、同35年 特旨をもって正5位を追贈された。

<大蔵> 天保9年、右膳の嫡子として越野尾に生まれる。 幼時 人吉藩士 加賀久米作の門に漢学を学び、安政元年の春、京都に留学、文久元年まで赤松祐以に国学を学んだ後、米良領主 則忠の近習となり、武臣の鹿児島藩校留学では父 右膳とともに尽力した。 以後 父とともに国事に奔走(ほんそう)するが、文久3年(1863年)11月9日 父 叔父(おじ)と人吉藩に捕らえられ、元治元年(1864年)8月24日 獄中に死んだ。 27歳の短い生涯であった。 明治24年 父右膳と同時に靖国神社に合祀(ごうし)され同35年従5位を追贈された。

右膳、大蔵 父子は獄中にあっても尽忠の至誠に燃え詩歌に自らを慰めたという。
露霜のおきての後か紅葉の 赤き心は 人のめづべき (右膳)
天津日の御ため 消えて匂うかな 吉野の山の花の下露 (大蔵)
昭和56年11月 西米良村教育委員会
と書かれています。



写真BG: 「宮崎県指定 甲斐右膳 甲斐大蔵 父子の墓」の説明板。
指定年月日 昭和9年4月17日
 <右膳> 文化14年 児原神社の神主 重質の嫡子(ちゃくし、本妻の子)として越野尾に生まれる。 初名 豊前のちに右膳と改める。 米良領主 則忠の嗣子(あとつぎ) 武臣の鹿児島藩校 造士館 留学を斡旋する。
 人吉藩士 新宮多気馬らと尊王運動に努めやがて京都に赴(おもむ)き、真木和泉、山田十郎に会い三条実美に謁見し密勅を奉じて米良に帰る。 人吉藩では藩の許可無く上京したこと、武臣を勝手に鹿児島に留学させたことを理由に、文久3年(1863年)11月9日、稲荷神社 大祭日に捕(と)らえられ、人吉に幽閉され、元治元年(1864年)6月13日 48歳で獄中に死亡した。 明治24年靖国の神に列せられ、同35年 特旨をもって正5位を追贈された。

<大蔵> 天保9年、右膳の嫡子として越野尾に生まれる。 幼時 人吉藩士 加賀久米作の門に漢学を学び、安政元年の春、京都に留学、文久元年まで赤松祐以に国学を学んだ後、米良領主 則忠の近習となり、武臣の鹿児島藩校留学では父 右膳とともに尽力した。 以後 父とともに国事に奔走(ほんそう)するが、文久3年(1863年)11月9日 父 叔父(おじ)と人吉藩に捕らえられ、元治元年(1864年)8月24日 獄中に死んだ。 27歳の短い生涯であった。 明治24年 父右膳と同時に靖国神社に合祀(ごうし)され同35年従5位を追贈された。

右膳、大蔵 父子は獄中にあっても尽忠の至誠に燃え詩歌に自らを慰めたという。
露霜のおきての後か紅葉の 赤き心は 人のめづべき (右膳)
天津日の御ため 消えて匂うかな 吉野の山の花の下露 (大蔵)
昭和56年11月 西米良村教育委員会
と書かれています。



写真BH: 幕末の勤王家 甲斐父子(右膳と大蔵)の墓がある墓地です。 児原稲荷神社の境内にあります。



写真BI: 宮崎県 児湯郡 西米良村にある勤王家「甲斐右膳」の墓です。 甲斐右膳はこの児原稲荷神社の神主でした。



写真BJ: 幕末の勤王家 甲斐父子(右膳と大蔵)の墓がある墓地です。 児原稲荷神社の境内にあります。



写真BK: 宮崎県 児湯郡 西米良村にある勤王家「甲斐大蔵」の墓です。 甲斐大蔵は甲斐右膳の子供です。右膳はこの児原稲荷神社の神主でした。



写真BL: 墓場のそばの道です。



写真BM: そばの建物も見えます。



写真BN: 階段の両側には「モウソウ竹の立派な竹林」があります。 以前は、この竹の皮で包(つつ)んだオニギリをこの神社でもらえたそうです。 児原稲荷神社(米良稲荷)の赤い鳥居(とりい)。



写真BO: 階段を登って社殿、鳥居、お札(ふだ)やお守りなどを売っている建物(右)、休息所(左)などが見えてきました。
「児原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)は米良稲荷(めらいなり)とも呼(よ)ばれます。 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾134 にあります。
児原稲荷神社には幕末に勤王家の高山彦九郎も来たことがあります。 また、宮崎県史跡指定である幕末の勤王家で、ここの神主の甲斐(かい)父子の墓もあります。
商売繁盛、五穀豊穣、家業繁栄、海上安全大漁、家内安全、病気平癒、安産祈願、交通安全、厄除けなど、日常生活のあらゆることの神様です。 宮崎県、熊本県、鹿児島県から年間約1万5千人の参拝客が訪れます。
創建時期は不明ですが、一説では養老2年11月8日(719年)と伝えられています。
 当初は児原神社と称して、木花咲耶姫命・彦火火出見命・大山祗命を祀(まつ)ります。
 建武2年(1336年)伊東祐持が鎌倉より下向、日向国の太守となり、都於郡(とのこおり、西都市)に都於郡城を築きました。 城内に社(やしろ)を創建して、伊豆より伊豆稲荷(伏見稲荷)の御神霊、倉稲魂命・太田命・大宮姫命の三柱を迎えて、伊東家の守護神として祀(まつ)りました。
 天正5年(1577年)のとき、10代 伊東義祐三位入道は島津氏に追われ、豊後(大分県)に退去するとき、兵火の中より御神霊を壺(つぼ)に収め、当神社の甲斐助左衛門重祐に祭祀を依頼しました。 それ以後、児原稲荷神社となりました。
御祭神
倉穂魂命、彦火火出見命、太田命、大宮姫命、木花咲耶姫命、大山祇命



写真BP: 右の建物は「参集殿」、左の建物はお札(ふだ)やお守りなどを売っている所です。



写真BQ: 左は「参集殿」、右先に下って行くと、うどん、そばの食堂、トイレなどがあります。



写真BR: 「休けい所 うどん そば できます ←お手洗い」と書いてあります。



写真BS: 右の建物がトイレです。



写真BT: 児原稲荷神社(米良稲荷)の境内(けいだい)。 狐(きつね)の石像も見えます。 右の建物には「児原稲荷 夜神楽(よかぐら)」の写真、椅子(いす)、テーブルなどもあります。



写真BU: 児原稲荷神社(米良稲荷)の境内(けいだい)。 狐(きつね)の石像も見えます。 この建物には「児原稲荷 夜神楽(よかぐら)」の写真、椅子(いす)、テーブルなどもあります。



写真BV: 児原稲荷神社(米良稲荷)の境内(けいだい)。



写真BW: 「休けい所 3つ目の玄関からお入り下さい。 お茶があります。 ごゆっくりお休み下さい。←」と書いてあります。



写真BX: 手前から3つ目の玄関から入ると、お茶などが飲めるところがあります。



写真BY: 手前から3つ目の玄関から入ると、お茶などが飲めるところがあります。



写真BZ: 右は「参集殿」、左の建物はお札(ふだ)、お守りなどが販売されています。



写真CA: 西米良村の児原稲荷神社(米良稲荷)の赤い鳥居(とりい)、左の赤い建物は手水舎(ちょうずや)、右の建物はお札(ふだ)、お守りなどが売られています。



写真CB: 「参集殿」と書いてあります。



写真CC: はじめに登って来た階段が鳥居の先にあります。



写真CD: 上の写真の右の建物に、「にしめら夜神楽(かぐら)」のポスターがあります。



写真CE: 「児原稲荷夜神楽」の写真も多く壁に飾ってあります。



写真CF: 「児原稲荷夜神楽」の写真も多く壁に飾ってあります。



写真CG: この建物には椅子(いす)、テーブルもあります。



写真CH: この建物には椅子(いす)、テーブルもあります。



写真CI: 西米良村の児原稲荷神社の境内(けいだい)。 遠くに山が見えます。



写真CJ: お札(ふだ)、お守りなどが売られています。 「おみやげ 一、稲荷おこし、一、稲荷せんべい、一、ゆず ようかん」と書いてあります。



写真CK: 国旗掲揚台、階段、寄付者の名前を書いた掲示板なども見えます。



写真CL: 鳥居のそばに狛犬(こまいぬ)もあります。



写真CM: 赤い建物は手水舎(ちょうずや)。



写真CN: 児原稲荷神社の御手洗(みたらい)。



写真CO: 車のお祓(はら)い、足腰の弱い人はここまで車で上がれます。



写真CP: コマイヌ。



写真CQ: コマイヌ。



写真CR: 児原稲荷神社の社殿。 さらに階段を登ってお参りします。 左下はコマイヌ。



写真CS: 宮崎県 児湯郡 西米良村の「児原稲荷神社」。 柱に見事な龍の彫(ほ)り物があります。 上の横木にも彫り物があります。 両側に石灯籠(いしどうろう)が見えます。
「児原稲荷神社(こばるいなりじんじゃ)は米良稲荷(めらいなり)とも呼(よ)ばれます。 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾134 にあります。
児原稲荷神社には幕末に勤王家の高山彦九郎も来たことがあります。 また、宮崎県史跡指定である幕末の勤王家で、ここの神主の甲斐(かい)父子の墓もあります。
商売繁盛、五穀豊穣、家業繁栄、海上安全大漁、家内安全、病気平癒、安産祈願、交通安全、厄除けなど、日常生活のあらゆることの神様です。 宮崎県、熊本県、鹿児島県から年間約1万5千人の参拝客が訪れます。
創建時期は不明ですが、一説では養老2年11月8日(719年)と伝えられています。
 当初は児原神社と称して、木花咲耶姫命・彦火火出見命・大山祗命を祀(まつ)ります。
 建武2年(1336年)伊東祐持が鎌倉より下向、日向国の太守となり、都於郡(とのこおり、西都市)に都於郡城を築きました。 城内に社(やしろ)を創建して、伊豆より伊豆稲荷(伏見稲荷)の御神霊、倉稲魂命・太田命・大宮姫命の三柱を迎えて、伊東家の守護神として祀(まつ)りました。
 天正5年(1577年)のとき、10代 伊東義祐三位入道は島津氏に追われ、豊後(大分県)に退去するとき、兵火の中より御神霊を壺(つぼ)に収め、当神社の甲斐助左衛門重祐に祭祀を依頼しました。 それ以後、児原稲荷神社となりました。
御祭神
倉穂魂命、彦火火出見命、太田命、大宮姫命、木花咲耶姫命、大山祇命



写真CT: 児原稲荷神社の拝殿の前。



写真CU: 西米良村の児原稲荷神社(米良稲荷)の拝殿。



写真CV: 西米良村の児原稲荷神社(米良稲荷)の拝殿の前。



写真CW: 西米良村の児原稲荷神社(米良稲荷)の拝殿。



写真CX: 奉納者の石碑(せきひ)があります。



写真CY: 西米良村の児原稲荷神社にある龍の彫(ほ)り物。



写真CZ: 西米良村の児原稲荷神社にある龍の彫(ほ)り物。



写真DA: 右手にタンクがあります。



写真DB: 社殿の右の景色。 山も見えます。



写真DC: 社殿の右の景色。 山も見えます。



写真DD: 「日向国 米良山 児原稲荷神社」と書いてある額(がく)があります。
その横に古い奉納された絵があります。 鈴、御神燈の提灯(ちょうちん)、太鼓(たいこ)、奉納された酒なども見えます。



写真DE: お賽銭箱(さいせんばこ)、鈴も見えます。



写真DF: 上の壁には奉納された古い絵がかけてあります。



写真DG: 上の壁には奉納された古い絵がかけてあります。



写真DH: 拝殿の中から外を見た景色。



写真DI: 大きく立派な武者の絵です。



写真DJ: 上の壁には奉納された古い絵がかけてあります。



写真DK: 上の壁には奉納された古い絵がかけてあります。



写真DL: 絵馬(えま)が売っています。 上に願い事が書いてある絵馬がつるしてあります。



写真DM: お神籤(おみくじ)が売っています。



写真DN: 拝殿の中。 右上に大きなシャモジが奉納されています。



写真DO: 児原稲荷神社の拝殿の中。



写真DP: 拝殿の中。 上に大きなシャモジが奉納されています。



写真DQ: お賽銭箱(さいせんばこ)です。 上に拝礼の作法が書いてあります。



写真DR: 「日向国 米良山 児原稲荷神社」と書いてある額(がく)と鈴が見えます。



写真DS: 鈴の紐(ひも)の下部。



写真DT: 児原稲荷神社。



写真DU: 児原稲荷神社 拝殿の右の景色。 山も見えます。



写真DV: 拝殿付近からの周(まわ)りの景色。 山も見えます。



写真DW: 拝殿付近からの周(まわ)りの景色。



写真DX: 西米良村の児原稲荷神社。



写真DY: 宮崎県 児湯郡 西米良村の児原稲荷神社。



写真DZ: 拝殿から階段を下ります。



写真EA: 児原稲荷神社の境内。



写真EB: 高い木があります。



写真EC: 長い方の階段の途中に、
「イノシシが竹やぶを荒らしています。」と書いてある看板(かんばん)があります。
 イノシシは鼻を使って食べ物を探します。 鼻はにおいをかぐ道具だけでなく、地面を掘り起こすのにも使われ、その力は大変強いです。
 タケノコがはえる今年、親 1頭、子供 3頭が夜に現れてはタケノコを掘り返して食べています。 新しい竹が育たないという事は、このままいくと、この立派な竹やぶも枯(か)れてしまう事が考えられます。
 猟銃は期間が決まっているのと、日没後は使えないので、なかなか駆除できずに困っています。
と書かれています。
イノシシの写真も載(の)っています。



写真ED: イノシシが掘った「穴」。



写真EE: はじめに登った長い石段の参道です。



写真EF: 勤王家 甲斐(かい)父子の墓がある墓地が見えます。



写真EG: 椎茸(しいたけ)の栽培が行われていました。



写真EH: 児原稲荷神社の駐車場が見えてきました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)