木崎原古戦場跡、県立 飯野高等学校、京町温泉 (きざきばる古戦場、木崎原の戦い(加久藤の戦い、覚頭の戦い、木崎原合戦)、いいのこうとうがっこう、きょうまち温泉、JR えびの飯野駅、JR京町温泉駅、京町温泉郷、三角田、元巣塚、木崎原六地蔵塔、池島川(川内川の支流)、池島の田の神さあ、えびのループ橋、VLFアンテナ、霧島山、霧島連山、霧島山系、霧島連山の展望)  (宮崎県 えびの市)







<標高、位置>  木崎原古戦場跡(きざきばるこせんじょうあと)は
標高 約240 m
 北緯32度02分22秒  東経130度49分50秒

<標高、位置>  飯野高等学校(いいのこうとうがっこう)は
標高 約250 m
 北緯32度02分37秒  東経130度52分09秒

<標高、位置>  JR えびの飯野駅は
標高 約280 m
 北緯32度01分49秒  東経130度52分16秒

<標高、位置>  JR 京町温泉駅(きょうまちおんせんえき)は
標高 約220 m
 北緯32度02分44秒  東経130度46分05秒


 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板から、
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。

 「宮崎県立 飯野高等学校」は えびの市で唯一の県立高校です。 宮崎県 えびの市 大字原田3063にあります。

 「池島の田の神さあ」は宮崎県 えびの市 大字 池島にあります。 池島橋のそばに「田の神さあ(たのかんさあ)」が3体あります。 近くに木崎原古戦場跡があります。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。

 「えびの飯野駅」はJR九州 吉都線の駅です。 1912年(大正元年)10月1日に飯野駅として開業、駅舎は1960年(昭和35年)8月に完成、1990年(平成2年)えびの飯野駅に改称、ホームは1面2線、乗車人員 272人/1日(降車人員を含まない)、無人駅、東隣は西小林駅、西隣りはえびの上江駅、住所は宮崎県 えびの市 大字原田。

 「京町温泉」は宮崎県 えびの市 大字向江にあります。 近くにJR吉都線の京町温泉駅があります。
京町温泉は明治時代末に肥薩線の工事で湧出しました。 大正時代に温泉町が出来ました。 京町温泉は10数軒の温泉旅館と公衆浴場があり、すべて自家源泉でそれぞれ泉質や湯の色が異なります。 京町温泉郷は川内川(せんだいがわ)の近くにあり、京都をまねて名前がつけられたそうです。 温泉の掘削中の落雷で突然温泉が噴出したので、昔は「雷温泉」と呼ばれていました。 昭和43年(1968年)2月21日にえびの大地震がありました。

 「京町温泉駅」は宮崎県 えびの市 大字向江にあります。 JR吉都線にあります。 吉都線のえびの駅(宮崎県)と鶴丸駅(鹿児島県)の間にあります。
1面2線の地上駅で待合室があります。 無人駅です。 1日平均乗車人員は120人。 1912年(大正元年)10月1日に京町駅として開業、1962年(昭和37年)に現駅舎が竣工(しゅんこう)。 1990年(平成2年)11月1日に京町温泉駅に改称しました。


写真A: 県道30号線をえびの高原から下ってきて、宮崎自動車道の下を通ったらすぐに右(東)に曲がります。 池島川の池島橋があります。 木崎原古戦場跡は先に進んでT字路を右に曲がります。 手前側には県道30号線があります。 池島橋が見えています。 このあたりは宮崎県 えびの市 大字 池島です。
宮崎県 えびの市は鹿児島県、熊本県との県境にあります。



写真B: 「いけじまはし」と書いてあります。



写真C: 池島橋は昭和41年10月に完成しました。



写真D: 川内川(せんだいがわ)の支流 「池島川」です。 北の山の上には数本のVLFのアンテナが見えます。 見えている鉄橋はJR吉都線のえびの上江駅とえびの駅(旧 加久藤駅)の間にあります。 川は奥が下流で川内川に合流します。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真E: 池島川の上流方向(南)の景色です。 左から甑岳(こしきだけ、標高 1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 山頂付近は雲に隠れています。 晴れていればこの2つの山の間の奥に韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)が見えます。 宮崎自動車道も右に見えています。



写真F: 池島橋から南を見た景色です。 霧島連山が見えます。 左から甑岳(こしきだけ、標高 1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 山頂付近は雲に隠れています。 晴れていればこの2つの山の間の奥に韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)が見えます。



写真G: 池島橋から南を見た景色です。 霧島連山が見えます。 左から甑岳(こしきだけ、標高 1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 山頂付近は雲に隠れています。 晴れていればこの2つの山の間の奥に韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)が見えます。 宮崎自動車道も見えます。



写真H: 「池島橋」と書いてあります。



写真I: 「池島川」と書いてあります。



写真J: 池島橋から北を見たもの。 山の中腹に「えびのループ橋」が見えます。 これは県221号線にあります。 県道221号線を奥に行くと熊本県 人吉市に行きます。 鉄橋はJR 吉都線です。



写真K: えびの市の北側の山にある「VLFアンテナ」。 日本最大のアンテナである高いアンテナが数本見えています。 山の上の建物も見えます。
池島橋から見たもの。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真L: 池島橋のそばに「田の神さあ(たのかんさあ)」が3体あります。 先に行くと木崎原古戦場跡があります。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。
ここは宮崎県 えびの市 大字 池島です。



写真M: 池島橋のそばにある「田の神さあ」。 これは農民型の田の神さあです。 シキをかぶり、右手にシャモジ、左手にお椀(わん)を持っています。 木崎原古戦場跡の近くです。



写真N: 横から見た田の神。



写真O: これは別の田の神さあです。 やはり農民型です。 シキをかぶり、右手にシャモジ、左手にお椀(わん)を持っています。 木崎原古戦場跡の近くです。



写真P: 横から見た田の神。



写真Q: これも3体目の田の神さあです。 シキをかぶり、右手にシャモジ、左手にお椀(わん)を持っています。 木崎原古戦場跡の近くです。



写真R: 横から見た田の神。



写真S: 田の神の左手に持っているお椀(わん)の中。 一円硬貨を供(そな)えてありました。



写真T: 田の神の近くに無人の野菜売り場があります。 木崎原古戦場跡の近くです。



写真U: 遠くの車のそばには池島川の池島橋があります。 来た道を振り返ったもの。



写真V: 田の神さあ付近から見た霧島連山。 左から甑岳(こしきだけ、標高 1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 山頂付近は雲に隠れています。 晴れていればこの2つの山の間の奥に韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)が見えます。 宮崎自動車道も見えます。



写真W: 田の神。



写真X: 池島橋の近くの田の神さあ。 木崎原古戦場跡の近くです。



写真Y: ここが木崎原古戦場跡です。 「宮崎県指定文化財 木崎原古戦場跡← 六地蔵塔←、えびの市教育委員会」と書いてある看板(かんばん)があります。
この古戦場跡は宮崎県 えびの市 大字 池島にあります。 室町時代の末期、1572年5月に島津と伊東がここで戦いました。 この戦いの結果、伊東に対する島津の優勢がはっきりしました。 宮崎で隆盛(りゅうせい)を極(きわ)めた伊東の一定期間の没落のきっかけになったのが、この木崎原合戦です。 島津側では「木崎原の戦い」と呼びますが、伊東側では「覚頭(加久藤)の戦い」と呼んでいます。 この合戦は「南九州の関ヶ原合戦」あるいは「南九州の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」とも呼ばれます。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真Z: ここが木崎原古戦場跡です。 「池島神社」の鳥居(とりい)と社殿が見えます。 左下遠くに「三角田」と書いてある標識棒が見えます。
宮崎県 えびの市は鹿児島県、熊本県との県境にあります。



写真AA: この先に先程の池島川(川内川の支流)の池島橋があります。



写真AB: ここが木崎原古戦場跡の駐車場です。 車の奥に石碑(せきひ)、池島公民館が見えます。
遠く北の山の上には海上自衛隊の「VLFのアンテナ」も見えます。 左の建物の手前はJR吉都線のレールが見えています。 この古戦場跡はJR吉都線のすぐそば(南)にあります。 右側にはえびの上江駅、左側にはえびの駅(旧 加久藤駅)があります。 ちょうど中間地点付近です。



写真AC: 宮崎県 えびの市 大字池島にある「木崎原古戦場跡」には大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)の森があります。 この森には六地蔵塔があります。 森の手前には島津義弘の歌碑(かひ)が見えます。 森の左手には元 宮崎県知事筆の石碑が見えています。 奥の建物は池島公民館です。 池島公民館のそばに「元巣塚」と書いてある標識があります。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真AD: 宮崎県 えびの市 大字池島にある「木崎原古戦場跡(きざきばるこせんじょうあと)」。 右に池島神社が見えます。 石像、説明板、休息所、歌碑、大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)も見えています。



写真AE: 木崎原古戦場跡の前の車道。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真AF: 木崎原古戦場跡から北を見た景色。 建物の手前にJR吉都線のレールが見えます。 この古戦場跡はJR吉都線のすぐそば(南)にあります。 右側にはえびの上江駅、左側には えびの駅(旧 加久藤駅)があります。 ちょうど中間地点付近です。 北の山の上には海上自衛隊の「VLFアンテナ」が見えます。 日本最大のアンテナである高いアンテナが数本見えています。 山の上の建物も見えます。



写真AG: 木崎原古戦場跡から北を見た景色。 建物の手前にJR吉都線のレールが見えます。 この古戦場跡はJR吉都線のすぐそば(南)にあります。 右側にはえびの上江駅、左側には えびの駅(旧 加久藤駅)があります。 ちょうど中間地点付近です。 北の山の上には海上自衛隊の「VLFアンテナ」が見えます。 日本最大のアンテナである高いアンテナが数本見えています。 山の上の建物も見えます。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真AH: そばにある池島神社。 鳥居(とりい)と社殿、石灯籠(いしどうろ)などが見えます。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真AI: 「池島神社」と書いてある額(がく)が鳥居にあります。



写真AJ: 「三角田」と書いてある標識棒があります。
木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで島津義弘が伊東の将、伊東進次郎を槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた島津義弘を退かせるために盾(たて)となって久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の6重臣が討死したのもこの場所です。
平成8年 えびの市教育委員会
と書いてあります。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真AK: 木崎原古戦場跡から東を見た景色。 右は池島神社。



写真AL: 木崎原古戦場跡から北東方向を見たもの。 左に「三角田」と書いてある標識棒、説明板、大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)などが見えます。
木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで島津義弘が伊東の将、伊東進次郎を槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた島津義弘を退かせるために盾(たて)となって久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の6重臣が討死したのもこの場所です。
平成8年 えびの市教育委員会
と書いてあります。



写真AM: 北方向を見た景色。 杉の木は推定樹齢 400年以上。



写真AN: 「恕(じょ)」という表題の人物像があります。



写真AO: 「恕(じょ) この作品は、ここ池島で生まれ、神奈川県で教職員をしていた故 野間正氏の妻 博子さんより寄贈されたものです。 作者は、群馬県在住の吉田光正氏で子ども達に元気、勇気、やる気を与え、友を思いやる心と、未来に向かって前向きに強く生きていく人間への希望と願いが込められています。 平成20年7月 池島区長」と書かれています。



写真AP: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AQ: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AR: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AS: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AT: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AU: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AV: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AW: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AX: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AY: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真AZ: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真BA: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真BB: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真BC: 「木崎原古戦場跡 (六地蔵塔、首塚、太刀洗川、三角田、元巣塚)」の説明板。
県指定文化財 平成10年3月26日指定
 元亀3年(1572年)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した伊東軍 3、000 余人は2軍に別れ、4日未明、まず一軍が加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し、この木崎原の地に還(かえ)り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
 しかし、眼前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
 島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州(日向、大隅、薩摩)制圧の夢を果(は)たし、一方 伊東氏は居城 都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるという両氏の明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦い」といわれています。
平成22年4月 えびの市教育委員会
と書かれています。
古戦場跡の絵地図も載っています。



写真BD: 「木崎原古戦場祭 5月4日」と書いてある看板(かんばん)があります。 左は休息所です。 その左奥は大きな杉の木です。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真BE: 武者が馬に乗っている像、水飲み場、テーブル、ベンチ、休息所も見えます。



写真BF: 武者が馬に乗っている像。



写真BG: 「三角田」の説明板。
 木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで島津義弘が伊東の将、伊東進次郎を槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた島津義弘を退かせるために盾(たて)となって久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の6重臣が討死したのもこの場所です。
平成8年 えびの市教育委員会
と書いてあります。



写真BH: 「三角田」と彫(ほ)られている石碑(せきひ)があります。
木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで島津義弘が伊東の将、伊東進次郎を槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた島津義弘を退かせるために盾(たて)となって久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、鎌田大炊之介、曽木播磨の6重臣が討死したのもこの場所です。
平成8年 えびの市教育委員会
と書いてあります。



写真BI: 左が「三角田」と彫ってある石碑。 溝(みぞ)の奥が池島神社。 説明板も右奥に見えます。



写真BJ: 「三角田」と彫ってある石碑から東を見た景色。 溝があります。 ビニールハウスの暖房のための重油タンクも電柱の左にあります。



写真BK: 「三角田」と彫ってある石碑から北東を見た様子(ようす)。 遠く川内川の向こうにある山、畑、人家、重油タンク、農業の施設(建物)などが見えます。



写真BL: 木崎原古戦場跡。 大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)の森の中に「木崎原六地蔵塔」があります。



写真BM: 木崎原古戦場跡。 大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)の森の中に「木崎原六地蔵塔」があります。



写真BN: 左は池島神社、説明板、休息所、大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)などが見えます。



写真BO: 左が「三角田」と彫ってある石碑。 溝(みぞ)の奥が池島神社。 道の三叉路(さんさろ)があります。 その少し右にもう1本の道が左奥に通っています。



写真BP: 「三角田」と彫ってある石碑から南西方向を見たもの。 遠くに小さな山が見えます。



写真BQ: ゴミ置き場も道のそばにあります。



写真BR: 「県指定文化財 木崎原古戦場跡 えびの市教育委員会」と書いてある標識棒が大きな杉の木の森のそばにあります。 左下に溝(みぞ)があります。



写真BS: 「島津義弘 公 歌碑(かひ)」と彫(ほ)ってある石碑があります。



写真BT:
いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の 定まる風の 吹かぬかぎりは
(島津義弘 公の和歌)
島津義弘公歌碑
17代 島津家当主 島津義弘公は知勇兼ね備えた天下の名将でした。 16世紀後半の戦国の世で活躍。 市内 飯野城で26年間居城し、ここ木崎原の地をはじめ九州各地を転戦。 その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原合戦では、すぐれた戦略と行動力で名を全国に知らしめました。 特に関ヶ原での家康 本陣を少数で突いた敵中突破は、その歴史の語り草となっています。 また、文化等の面でも文芸・茶道・陶芸・医学等で功績を残しました。 この歌は関ヶ原合戦の折に詠まれたものです。
平成6年3月 えびの市建立 
と書かれています。



写真BU: いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の 定まる風の 吹かぬかぎりは
(島津義弘 公の和歌)
島津義弘公歌碑
17代 島津家当主 島津義弘公は知勇兼ね備えた天下の名将でした。 16世紀後半の戦国の世で活躍。 市内 飯野城で26年間居城し、ここ木崎原の地をはじめ九州各地を転戦。 その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵や天下分け目の関ヶ原合戦では、すぐれた戦略と行動力で名を全国に知らしめました。 特に関ヶ原での家康 本陣を少数で突いた敵中突破は、その歴史の語り草となっています。 また、文化等の面でも文芸・茶道・陶芸・医学等で功績を残しました。 この歌は関ヶ原合戦の折に詠まれたものです。
平成6年3月 えびの市建立 
と書かれています。



写真BV: 歌碑の後ろには大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)があります。 枝ぶりが見事な古木です。



写真BW: 杉の古木(推定樹齢 400年以上)があります。



写真BX: 宮崎県 えびの市にある木崎原古戦場跡の古い大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)。



写真BY: えびの市にある木崎原古戦場跡の古い大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)。 枝ぶりが見事です。



写真BZ: 宮崎県 えびの市にある木崎原古戦場跡の古い大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)。 左奥に石碑(せきひ)も見えます。 「木崎原古戦場跡 平成3年5月4日建立 宮崎県知事松形祐尭」と書いてある石碑です。



写真CA: えびの市の木崎原古戦場跡にある石碑(せきひ)。 「木崎原古戦場跡 平成3年5月4日建立 宮崎県知事松形祐尭」と書いてある石碑です。 右の建物はトイレです。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真CB: 右の建物は池島公民館。 池島公民館のそばに「元巣塚」と書いてある標識があります。 左はトイレ。



写真CC: 池島公民館のそばに「元巣塚」と書いてある標識があります。



写真CD: 大きな杉の木の森です。



写真CE: 木崎原古戦場跡の古くて大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)の中部。



写真CF: 木崎原古戦場跡の古くて大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)の上部。



写真CG: 「木崎原古戦場跡 平成3年5月4日建立 宮崎県知事松形祐尭」と書いてある石碑です。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真CH: 「木崎原古戦場跡 平成3年5月4日建立 宮崎県知事松形祐尭」と書いてある石碑です。



写真CI: 木崎原古戦場跡の古くて大きな杉の木(推定樹齢 400年以上)の下部。 「六地蔵塔」と書いてある標識棒が見えます。 この森の中に木崎原六地蔵塔があります。



写真CJ: 「六地蔵塔」と書いてある標識棒。



写真CK: これが「木崎原の六地蔵塔」です。 花が供(そな)えてありました。 その右奥に「腰掛石(こしかけいし)」が見えています。
木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。
 島津 氏は、大きな戦いの跡地には殆(ほとん)ど六地蔵塔を建立して供養しています。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真CL: 推定樹齢 400年以上の杉の木。 枝ぶりが興味深い。



写真CM: えびの市の木崎原古戦場跡にある推定樹齢 400年以上の杉の木。 枝ぶりが見事です。



写真CN: えびの市の木崎原古戦場跡にある推定樹齢 400年以上の杉の木。



写真CO: 木崎原六地蔵塔の下部。 木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。
 島津 氏は、大きな戦いの跡地には殆(ほとん)ど六地蔵塔を建立して供養しています。



写真CP: 木崎原六地蔵塔の中部。 6つの面に6つの地蔵様が彫(ほ)られています。 木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。
 島津 氏は、大きな戦いの跡地には殆(ほとん)ど六地蔵塔を建立して供養しています。



写真CQ: 木崎原六地蔵塔の上部。 6つの面に6つの地蔵様が彫(ほ)られています。



写真CR: 「六地蔵塔」の説明板。
 木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。
 島津 氏は、大きな戦いの跡地には殆(ほとん)ど六地蔵塔を建立して供養しています。
平成8年3月 えびの市教育委員会
と書いてあります。
宮崎県 川南町にある宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)も島津が高城合戦(耳川の戦い)の場所に建立した六地蔵塔です。



写真CS: 木崎原六地蔵塔の上部。 6つの面に6つの地蔵様が彫(ほ)られています。 木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。
 島津 氏は、大きな戦いの跡地には殆(ほとん)ど六地蔵塔を建立して供養しています。



写真CT: 木崎原六地蔵塔の中部。



写真CU: 木崎原六地蔵塔の下部。 花が供(そな)えてあります。 木崎原合戦では、5月4日の1日だけで伊東軍560余人、島津軍260余人の戦死者が出ましたが、島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、敵・見方双方の戦死者の霊を供養しました。
 島津 氏は、大きな戦いの跡地には殆(ほとん)ど六地蔵塔を建立して供養しています。



写真CV: 木崎原六地蔵塔の上部。 6つの面に6つの地蔵様が彫(ほ)られています。



写真CW: 木崎原六地蔵塔の中部。



写真CX: 木崎原六地蔵塔の下部。



写真CY: 木崎原六地蔵塔の上部。 6つの面に6つの地蔵様が彫(ほ)られています。



写真CZ: 木崎原六地蔵塔の中部。



写真DA: 木崎原六地蔵塔の下部。



写真DB: 木崎原古戦場跡にある「腰掛石(こしかけいし)」
 伊東新次郎との一騎討ちで勝利を得た島津義弘はのちに腰を掛け、一時休息したという。
と書いてあります。
木崎原六地蔵塔のそばにあります。



写真DC: 木崎原古戦場跡にある「腰掛石(こしかけいし)」
 伊東新次郎との一騎討ちで勝利を得た島津義弘はのちに腰を掛け、一時休息したという。
と書いてあります。
木崎原六地蔵塔のそばにあります。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真DD: 木崎原古戦場跡にある「腰掛石(こしかけいし)」
 伊東新次郎との一騎討ちで勝利を得た島津義弘はのちに腰を掛け、一時休息したという。
と書いてあります。
木崎原六地蔵塔のそばにあります。



写真DE: 宮崎県 えびの市にある木崎原古戦場跡。 六地蔵塔、腰掛石、樹齢400年以上の杉の木、説明板などが見えます。



写真DF: 宮崎県 えびの市にある木崎原古戦場跡。 六地蔵塔、腰掛石、樹齢400年以上の杉の木、説明板などがあります。



写真DG: 「六地蔵塔 スギ 推定樹齢 400年以上」
 郷土の誇る歴史的価値のある名木として、後世に残すため、これらの樹木をみんなで大切に守り育てましょう。
えびの市教育委員会
と書いてあります。



写真DH: 杉の大木の下に「杉 417年(推定)」と書いてある標識棒があります。



写真DI: 「六地蔵塔 スギ 推定樹齢 400年以上」
 郷土の誇る歴史的価値のある名木として、後世に残すため、これらの樹木をみんなで大切に守り育てましょう。
えびの市教育委員会
と書いてあります。



写真DJ: 六地蔵塔と杉の古木。



写真DK: 杉の古木。



写真DL: 木崎原六地蔵塔の周(まわ)りの杉の古木。



写真DM: 杉の大木と「木崎原古戦場跡 平成3年5月4日建立 宮崎県知事松形祐尭」と書いてある石碑、トイレなどが見えます。



写真DN: 水神さまの石碑などが溝(みぞ)のそばにあります。 六地蔵塔の森のそばにあります。



写真DO: 水神さまの石碑などが溝(みぞ)のそばにあります。 六地蔵塔の森のそばにあります。



写真DP: 「元巣塚」と書いてある標識がソテツの木の手前に見えます。 木崎原合戦での戦死者を埋(う)めて弔(とむら)ったものでしょう。 今はその場所に池島公民館があります。



写真DQ: 左端は池島公民館。 奥にJR吉都線の短い鉄橋が見えています。 アジサイの花が咲いています。
ここの住所は宮崎県 えびの市 大字池島です。



写真DR: JR吉都線の短い鉄橋が池島公民館の裏にあります。 えびの市の北側の山が見えます。



写真DS: JR吉都線の短い鉄橋が池島公民館の裏にあります。 えびの市の北側の山が見えます。



写真DT: JR吉都線。 西方向を見た景色。 えびの上江駅とえびの駅(旧 加久藤駅)の間です。 左は池島公民館。



写真DU:  えびの市の北側の山が見えます。



写真DV:  左が六地蔵塔の森、右は池島公民館。



写真DW: 北の山の上には海上自衛隊のVLFアンテナ塔が数本見えます。 レールはJR吉都線。 えびの上江駅とえびの駅(旧 加久藤駅)の間です。



写真DX: えびの市の西方向を見た景色。 北西方向の山が見えます。 矢岳高原も見えていると思います。 レールはJR吉都線。 えびの上江駅とえびの駅(旧 加久藤駅)の間です。



写真DY: 池島公民館から西を見た様子。 右はJR吉都線。



写真DZ: 池島公民館から北東を見た景色。



写真EA: 池島公民館の西側。



写真EB: 池島公民館の北側。



写真EC: 池島公民館はJR吉都線のすぐ南にあります。



写真ED: 池島公民館から南を見たもの。 トイレも見えます。



写真EE: 池島公民館から南を見たもの。 六地蔵塔の森、霧島連山、トイレも見えます。



写真EF: 池島公民館の南側。 六地蔵塔の森が見えます。



写真EG: 池島公民館の南側。 六地蔵塔の森が見えます。



写真EH: 池島公民館の南側。



写真EI: 「池島公民館」と書いてあります。



写真EJ: 「池島公民館」と書いてあります。



写真EK: 池島公民館から南を見た景色。 木崎原古戦場跡の石碑、六地蔵塔の森、駐車場、トイレも見えます。



写真EL: 木崎原古戦場跡から霧島連山(霧島山、霧島山系)が美しく見えます。 左から甑岳(こしきだけ、標高 1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 山頂付近は雲に隠れています。 晴れていればこの2つの山の間の奥に韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)が見えます。



写真EM: 木崎原古戦場跡から霧島連山(霧島山、霧島山系)が美しく見えます。 左から甑岳(こしきだけ、標高 1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 山頂付近は雲に隠れています。 晴れていればこの2つの山の間の奥に韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)が見えます。



写真EN: 宮崎県 えびの市にある「京町温泉」です。
住所は宮崎県 えびの市 大字向江です。 近くにJR吉都線の京町温泉駅があります。
京町温泉は明治時代末に肥薩線の工事で湧出しました。 大正時代に温泉町が出来ました。 京町温泉は10数軒の温泉旅館と公衆浴場があり、すべて自家源泉でそれぞれ泉質や湯の色が異なります。 京町温泉郷は川内川(せんだいがわ)の近くにあり、京都をまねて名前がつけられたそうです。 温泉の掘削中の落雷で突然温泉が噴出したので、昔は「雷温泉」と呼ばれていました。 昭和43年(1968年)2月21日にえびの大地震がありました。
宮崎県 えびの市は鹿児島県、熊本県との県境にあります。



写真EO: えびの市にある「京町温泉」です。
住所は宮崎県 えびの市 大字向江です。 近くにJR吉都線の京町温泉駅があります。
京町温泉は明治時代末に肥薩線の工事で湧出しました。 大正時代に温泉町が出来ました。 京町温泉は10数軒の温泉旅館と公衆浴場があり、すべて自家源泉でそれぞれ泉質や湯の色が異なります。 京町温泉郷は川内川(せんだいがわ)の近くにあり、京都をまねて名前がつけられたそうです。 温泉の掘削中の落雷で突然温泉が噴出したので、昔は「雷温泉」と呼ばれていました。 昭和43年(1968年)2月21日にえびの大地震がありました。



写真EP: 宮崎県 えびの市にある京町温泉の町並み(まちなみ)。 ひなびた温泉で、霧島連山、矢岳高原なども見え風光明媚(ふうこうめいび)なところです。



写真EQ: 「京町銀天街」です。
住所は宮崎県 えびの市 大字向江です。 左に理髪店も見えます。



写真ER: 「京町銀天街」です。 温泉マーク、焼酎 明月、旅館、山荘、スナック、バーなどの看板が見えます。 京町銀天街は北向きに道が通っています。



写真ES: 京町温泉の西に向かう車道。



写真ET: 「↑大口(おおくち、鹿児島県)、←湧水(ゆうすい、鹿児島県)、→小林(宮崎県)」と書いてある道路標識があります。



写真EU: 駅前通り。 奥にJR京町温泉駅が見えます。
宮崎県 えびの市は鹿児島県、熊本県との県境にあります。



写真EV: 京町温泉駅。 JR吉都線にあります。 吉都線のえびの駅と鶴丸駅の間にあります。 住所は宮崎県 えびの市 大字向江です。
1面2線の地上駅で待合室があります。 無人駅です。 1日平均乗車人員は120人。 1912年(大正元年)10月1日に京町駅として開業、1962年(昭和37年)に現駅舎が竣工(しゅんこう)。 1990年(平成2年)11月1日に京町温泉駅に改称しました。
近くの山の奥に上部が雲に隠(かく)れた霧島連山が見えています。



写真EW: 右にバス停、電話ボックス、左に郵便ポスト、郵便ポストの左に数体の「田の神さあ(たのかんさあ)」が見えています。
左端にホームの看板も見えます。
京町温泉駅。 JR吉都線にあります。 吉都線のえびの駅と鶴丸駅の間にあります。 住所は宮崎県 えびの市 大字向江です。
1面2線の地上駅で待合室があります。 無人駅です。 1日平均乗車人員は120人。 1912年(大正元年)10月1日に京町駅として開業、1962年(昭和37年)に現駅舎が竣工(しゅんこう)。 1990年(平成2年)11月1日に京町温泉駅に改称しました。



写真EX: 「京町温泉駅」と書いてあります。 改札口(かいさつぐち)も見えます。



写真EY: 京町温泉駅の中。 時刻表、近くの駅の名前の看板(かんばん)、時計、閉まった切符売り場などがあります。



写真EZ: 京町温泉駅の中。 ベンチ、蛍光灯もあります。 奥の壁に近郊の地図があります。



写真FA: 京町温泉駅。 東方向(えびの駅(宮崎県)方向)を見たもの。 JR吉都線のレール、ホーム、看板、遠くの山が見えます。



写真FB: 「きょうまちおんせん、KYOUMACHIONSEN、京町温泉、←えびの(宮崎県) →つるまる(鹿児島県)」と書いてある看板がホームにあります。



写真FC: 京町温泉駅。 西方向(鶴丸駅(鹿児島県)方向)を見たもの。 「あぶない! 警報機が鳴り出したら、渡らないで下さい。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真FD: 「きょうまちおんせん、KYOUMACHIONSEN、京町温泉、←つるまる →えびの」と書いてある看板が駅舎にあります。



写真FE: 京町温泉駅の中から見た駅前通り。



写真FF: 駅舎の入口には牛、豚の口蹄疫(こうていえき)防止のために消毒マットがありました。



写真FG: 京町温泉駅前広場には京町温泉駅前公園があります。 そこには野口雨情歌碑、えびの地震記念碑があります。
「京町温泉駅前公園」、「野口雨情歌碑」と書いてある看板があります。 左に階段、えびの地震記念碑が見えます。



写真FH: 「京町温泉駅前公園」、「野口雨情歌碑」と書いてある看板。



写真FI: えびの地震記念碑。 大きなコンクリート製の半球にはヒビが入れてあり、地震を象徴しています。 えびの大地震は1968年(昭和43年)2月21日10時44分50秒に発生しました。
震源地はえびの高原でM6.1、えびの市の真幸地区(まさきちく)では震度6を観測しました。 宮崎県えびの市真幸地区と鹿児島県湧水町吉松地区の被害が特に大きく、シラス(火山灰土質)崩壊による被害が多く発生しました。 死者3名、負傷者44名、家屋全壊498戸、半壊1278戸、一部損壊4、866戸、鉄道 道路が分断、橋の損壊、耕地の埋没などがありました。



写真FJ: 「えびの地震記念碑」と書いてあります。 大きなコンクリート製の半球にはヒビが入れてあり、地震を象徴しています。 えびの大地震は1968年(昭和43年)2月21日10時44分50秒に発生しました。
震源地はえびの高原でM6.1、えびの市の真幸地区(まさきちく)では震度6を観測しました。 宮崎県えびの市真幸地区と鹿児島県湧水町吉松地区の被害が特に大きく、シラス(火山灰土質)崩壊による被害が多く発生しました。 死者3名、負傷者44名、家屋全壊498戸、半壊1278戸、一部損壊4、866戸、鉄道 道路が分断、橋の損壊、耕地の埋没などがありました。



写真FK: 「野口雨情 歌碑」の説明板。
 民謡や童謡の第一人者として、明治大正から昭和のはじめにかけて北原白秋、西条八十とともに三大童謡詩人とうたわれ一世を風靡(ふうび)した詩人 野口雨情は、50歳台半ばの昭和10年と12年にえびのを訪(おとず)れました。 そして数篇の歌謡を残しました。 この詩文はその中のひとつで直筆です。
「真幸京町別れが辛(つら)い 霧か姿をまた隠(かく)す」
 この歌が詠(よ)まれた頃は京町温泉の創生期で、掘削(くっさく)が相次ぐ中で活況をおび、今日の京町温泉郷のもとが築かれました。
「湯なら京町 米なら名どこ 日向真幸が忘らりょか」
とも詠んでいます。
平成4年2月14日 えびの市 建立
と書かれています。



写真FL: 宮崎県 えびの市にある京町温泉駅のそばにある野口雨情の歌碑(かひ)。
「真幸京町別れが辛(つら)い 霧か姿をまた隠(かく)す」
と彫(ほ)られています。



写真FM: 京町温泉駅の周(まわ)りの様子。



写真FN: 宮崎県 えびの市にある京町温泉駅。



写真FO: 京町温泉駅のそばの景色。



写真FP: 京町温泉駅のそば。 左は温泉旅館です。 その右は野口雨情歌碑とえびの地震記念碑が見えます。



写真FQ: 京町温泉駅の前にある温泉旅館です。 右の京町温泉駅前公園の中には野口雨情歌碑とえびの地震記念碑があります。



写真FR: 京町温泉駅のそばには京町銀天街があります。 温泉マーク、焼酎 明月、旅館、山荘、スナック、バーなどの看板が見えます。 京町銀天街は北向きに道が通っています。



写真FS: 京町銀天街です。 スナックなどが見えます。 これは北に向かう道です。



写真FT: 京町温泉駅前通りにある十字路。



写真FU: 駅前通りに直角の車道です。 南に向かう道路です。



写真FV: 「宮崎県立 飯野高等学校」です。 えびの市で唯一の県立高校です。 宮崎県 えびの市 大字原田3063にあります。 近くの駅はJR吉都線のえびの飯野駅です。 飯野高等学校は国道221号線とJR吉都線の間にあります。

男女共学の全日制課程で普通科、生活情報科があります。
校訓は
「凛乎 凛々しくあれ
清楚 慎ましくあれ
豊潤 慈しみの心をもて」
です。

部活動は
体育系
男女ホッケー部、男女バスケットボール部、野球部、サッカー部、男女バレーボール部、女子バドミントン部、弓道部、硬式テニス部、ソフトテニス部、卓球同好会
文化系
吹奏楽部、書道部、美術部、JRC部、放送部
があります。

 現在の飯野高校の校舎は1997年にできました。 木と瓦(かわら)を使った円形校舎になっています。

飯野高校の校舎、グラウンド、野球部の練習などが見えます。 



写真FW: えびの市にある宮崎県立 飯野高等学校の校舎とグラウンド。



写真FX: 左に体育館も見えます。



写真FY: 飯野高校前の車道。



写真FZ: 体育館と北側の山並みが見えます。 野球部の練習も行われていました。



写真GA: 校舎と北側の山並みが見えます。 野球部の練習も行われていました。


写真GB: 飯野高校のまわりの植木。



写真GC: 「宮崎県立 飯野高等学校」です。 えびの市で唯一の県立高校です。 宮崎県 えびの市 大字原田3063にあります。 近くの駅はJR吉都線のえびの飯野駅です。 飯野高等学校は国道221号線とJR吉都線の間にあります。

男女共学の全日制課程で普通科、生活情報科があります。
校訓は
「凛乎 凛々しくあれ
清楚 慎ましくあれ
豊潤 慈しみの心をもて」
です。

部活動は
体育系
男女ホッケー部、男女バスケットボール部、野球部、サッカー部、男女バレーボール部、女子バドミントン部、弓道部、硬式テニス部、ソフトテニス部、卓球同好会
文化系
吹奏楽部、書道部、美術部、JRC部、放送部
があります。

 現在の飯野高校の校舎は1997年にできました。 木と瓦(かわら)を使った円形校舎になっています。

えびの市の北側の山、体育館、グラウンド、野球部の練習などが見えます。



写真GD: 飯野高等学校 野球部の練習。 奥は体育館、北側の山も見えています。



写真GE: 飯野高等学校のグラウンドと体育館、北側の山。 野球部が熱心に練習していました。



写真GF: 県立 飯野高等学校 野球部の練習。



写真GG: 県立 飯野高校の校舎とグラウンド。 左の校舎は円形校舎です。



写真GH: 体育館と北側の山。 真夏に厳しい練習が行われています。 飯野高校野球部員。



写真GI: 正門と手前の通用門。 校舎も見えます。



写真GJ: 宮崎県立 飯野高等学校。 宮崎県 えびの市 大字原田3063にあります。
校舎と野球部員の練習風景。 ノカイドウの説明板も見えます。



写真GK: 飯野高校のグラウンド、体育館、北側の山並み。



写真GL: 左側は飯野高校の通用門。



写真GM: 飯野高校前の通りです。 奥に高い送電線鉄塔も見えます。 飯野高校の並木もあります。



写真GN: 「宮崎県立 飯野高等学校」の正門。 宮崎県 えびの市 大字原田3063にあります。
正門には「校章(天然記念物のノカイドウの若葉)、宮崎県立 飯野高等学校」と書かれています。



写真GO: 正門には「校章(天然記念物のノカイドウの若葉)、宮崎県立 飯野高等学校」と書かれています。



写真GP: 正門には「校章(天然記念物のノカイドウの若葉)、宮崎県立 飯野高等学校」と書かれています。



写真GQ: 「駐車場は勤労者体育館を御利用下さい」と書いてある看板があります。



写真GR: 「宮崎県立 飯野高等学校」です。 えびの市で唯一の県立高校です。 宮崎県 えびの市 大字原田3063にあります。 近くの駅はJR吉都線のえびの飯野駅です。 飯野高等学校は国道221号線とJR吉都線の間にあります。

男女共学の全日制課程で普通科、生活情報科があります。
校訓は
「凛乎 凛々しくあれ
清楚 慎ましくあれ
豊潤 慈しみの心をもて」
です。

部活動は
体育系
男女ホッケー部、男女バスケットボール部、野球部、サッカー部、男女バレーボール部、女子バドミントン部、弓道部、硬式テニス部、ソフトテニス部、卓球同好会
文化系
吹奏楽部、書道部、美術部、JRC部、放送部
があります。

 現在の飯野高校の校舎は1997年にできました。 木と瓦(かわら)を使った円形校舎になっています。

「ノカイドウ(野海棠) 天然記念物 霧島山系にのみ自生している。 この若葉をデザインしたものが本校の校章になっている。」
と書かれている看板が見えます。 右は校舎、四角い時計も見えます。 左はグラウンド。



写真GS: 「ノカイドウ(野海棠) 天然記念物 霧島山系にのみ自生している。 この若葉をデザインしたものが本校の校章になっている。」
と書かれている看板。



写真GT: 飯野高校のグラウンドと体育館。



写真GU: 宮崎県立 飯野高等学校のグラウンド。



写真GV: 飯野高等学校の校舎、グラウンド、体育館、遠くの北方向の山並み。



写真GW: 「ノカイドウ(野海棠) 天然記念物 霧島山系にのみ自生している。 この若葉をデザインしたものが本校の校章になっている。」
と書かれている看板。



写真GX: 階段があります。



写真GY: 飯野高校の入口付近です。



写真GZ: 内側から見た飯野高校の正門。



写真HA: グラウンド付近。



写真HB: グラウンド付近で。



写真HC: 飯野高等学校のグラウンド。



写真HD: 正門には「校章(天然記念物のノカイドウの若葉)、宮崎県立 飯野高等学校」と書かれています。



写真HE: 飯野高等学校の正門前。 「中国料理店 四川の味 麻婆」と書いてあります。



写真HF: 飯野高校前の道路付近。



写真HG: 飯野高校前通り。 正門付近。



写真HH: 飯野高校前通り。 正門付近。 通用門が見えています。



写真HI: 「宮崎県立 飯野高等学校」です。 えびの市で唯一の県立高校です。 宮崎県 えびの市 大字原田3063にあります。 近くの駅はJR吉都線のえびの飯野駅です。 飯野高等学校は国道221号線とJR吉都線の間にあります。

男女共学の全日制課程で普通科、生活情報科があります。
校訓は
「凛乎 凛々しくあれ
清楚 慎ましくあれ
豊潤 慈しみの心をもて」
です。

部活動は
体育系
男女ホッケー部、男女バスケットボール部、野球部、サッカー部、男女バレーボール部、女子バドミントン部、弓道部、硬式テニス部、ソフトテニス部、卓球同好会
文化系
吹奏楽部、書道部、美術部、JRC部、放送部
があります。

 現在の飯野高校の校舎は1997年にできました。 木と瓦(かわら)を使った円形校舎になっています。

正門には「校章(天然記念物のノカイドウの若葉)、宮崎県立 飯野高等学校」と書かれています。



写真HJ: 県立 飯野高等学校の通用門。



写真HK: JR吉都線の「えびの飯野駅」です。 えびの市にあります。



写真HL: JR吉都線の「えびの飯野駅」、トイレ、自転車置場などがみえます。 右端は派出所(警察)です。
「えびの飯野駅」はJR九州 吉都線の駅です。 1912年(大正元年)10月1日に飯野駅として開業、駅舎は1960年(昭和35年)8月に完成、1990年(平成2年)えびの飯野駅に改称、ホームは1面2線、乗車人員 272人/1日(降車人員を含まない)、無人駅、東隣は西小林駅、西隣りはえびの上江駅、住所は宮崎県 えびの市 大字原田。



写真HM: えびの飯野駅前広場には駐在所(警察)があります。



写真HN: えびの飯野駅前には薬品店もあります。 手前は駐車場。



写真HO: えびの飯野駅の駐車場と駅前の様子(ようす)。



写真HP: JR吉都線 えびの飯野駅前付近。 右にタクシーもいます。



写真HQ: JR吉都線の「えびの飯野駅」。 郵便ポスト、タクシー、「えびの高原、お買い物は地元で」と書いてある高い看板も見えます。 改札口も見えています。
「えびの飯野駅」はJR九州 吉都線の駅です。 1912年(大正元年)10月1日に飯野駅として開業、駅舎は1960年(昭和35年)8月に完成、1990年(平成2年)えびの飯野駅に改称、ホームは1面2線、乗車人員 272人/1日(降車人員を含まない)、無人駅、東隣は西小林駅、西隣りはえびの上江駅、住所は宮崎県 えびの市 大字原田。



写真HR: JR吉都線の「えびの飯野駅」。 右はトイレ、ポスト、飲料水の自動販売機、改札口、待合室の椅子(いす)も見えます。
「えびの飯野駅」はJR九州 吉都線の駅です。 1912年(大正元年)10月1日に飯野駅として開業、駅舎は1960年(昭和35年)8月に完成、1990年(平成2年)えびの飯野駅に改称、ホームは1面2線、乗車人員 272人/1日(降車人員を含まない)、無人駅、東隣は西小林駅、西隣りはえびの上江駅、住所は宮崎県 えびの市 大字原田。



写真HS: 「えびの飯野駅」と書いてあります。



写真HT: 無人駅になっていますので、切符売り場が閉(し)めてあります。



写真HU: えびの飯野駅の中。



写真HV: えびの飯野駅の改札口。 時刻表、運賃表、丸い時計、レールも見えます。



写真HW: えびの飯野駅の待合室。 レールも見えます。 木の椅子(いす)とプラスティックの椅子があります。



写真HX: えびの飯野駅の待合室。 きれいに清掃してあります。 蛍光灯、えびの市観光案内図もあります。
「えびの飯野駅」はJR九州 吉都線の駅です。 1912年(大正元年)10月1日に飯野駅として開業、駅舎は1960年(昭和35年)8月に完成、1990年(平成2年)えびの飯野駅に改称、ホームは1面2線、乗車人員 272人/1日(降車人員を含まない)、無人駅、東隣は西小林駅、西隣りはえびの上江駅、住所は宮崎県 えびの市 大字原田。



写真HY: えびの飯野駅の待合室。



写真HZ: 駅舎の中から駅前を見たもの、薬品店、駐車場も見えます。



写真IA: 駅の中から駅前を見たもの、薬品店、駐車場も見えます。



写真IB: 飯野駅のホーム、レール、改札口。 遠く南側の霧島山系(霧島連山)がうっすらと見えています。 「あぶない! 警報機が鳴り出したら渡らないで下さい。」と書いてあります。



写真IC: 飯野駅のホーム、レール、改札口。 「あぶない! 警報機が鳴り出したら渡らないで下さい。」と書いてあります。



写真ID: 飯野駅の改札口から東(小林方向)を見たもの。 ホームの看板(かんばん)、ホームの屋根、左に駅舎も見えます。
「えびの飯野駅」はJR九州 吉都線の駅です。 1912年(大正元年)10月1日に飯野駅として開業、駅舎は1960年(昭和35年)8月に完成、1990年(平成2年)えびの飯野駅に改称、ホームは1面2線、乗車人員 272人/1日(降車人員を含まない)、無人駅、東隣は西小林駅、西隣りはえびの上江駅、住所は宮崎県 えびの市 大字原田。



写真IE: 飯野駅の改札口から西(京町温泉の方)を見たもの。 住宅も見えます。



写真IF: 飯野駅の改札口から西(京町温泉の方)を見たもの。 レール、駅舎も見えます。



写真IG: 飯野駅の改札口をホーム側から見たもの。
「えびの飯野駅」はJR九州 吉都線の駅です。 1912年(大正元年)10月1日に飯野駅として開業、駅舎は1960年(昭和35年)8月に完成、1990年(平成2年)えびの飯野駅に改称、ホームは1面2線、乗車人員 272人/1日(降車人員を含まない)、無人駅、東隣は西小林駅、西隣りはえびの上江駅、住所は宮崎県 えびの市 大字原田。



写真IH: えびの飯野駅のホームの西端付近。



写真II: JR吉都線 えびの飯野駅にある「えびの市観光案内図」。 「「高原と いで湯のまち」 えびの市観光協会」と書いてあります。



写真IJ: JR吉都線 えびの飯野駅の待合室にある木製ベンチ。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)