清武城址 (清武城跡) (伊東祐尭の墓、稲津掃部助の墓、船引神社、清武の大楠(大くす、大クス)、きよたけ城址、キヨタケ城址、きよたけじょうし)  (宮崎県宮崎市 清武町)







<標高、位置>  清武城跡は
標高 約86 m
 北緯31度52分02秒  東経131度23分04秒

<標高、位置>  伊東祐尭(いとうすけたか)の墓は
標高 約70 m
 北緯31度52分09秒  東経131度23分03秒

<標高、位置>  稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓は
標高 約40 m
 北緯31度52分08秒  東経131度23分15秒

<標高、位置>  清武の大クス(の木)(船引神社)は
標高 約30 m
 北緯31度52分03秒  東経131度22分46秒


   「清武城」は宮崎県宮崎県 清武町上加納(かのう)字城内にあります。 加納小学校の裏山 一帯が山城になっています。 清武城は自然の要害を利用しながら堀切、曲輪(くるわ、平らなところ)などの防衛施設を施した実践的山城で、南北朝時代(1336年−1392年)には清瀧城と呼ばれていた城を天授年間(南北朝時代の1375年−1381年)の1380年頃に伊東氏族である伊東(清武)祐行により増築整備されたとされる。 この名字(みょうじ)から清武城と呼ばれる。 1577年伊東が豊後(大分県)に逃亡後は、清武城は島津のものになった。 1587年、豊臣秀吉の九州征伐の後は再び伊東の領地となり、1598年稲津が城主となった。
 「伊東48城」と呼ばれる城の中でも島津氏に対する守りとして特に重要な拠点であったとされ、第11代 都於郡城主であった伊東氏全盛の英主 祐尭(すけたか)も子 祐国(すけくに)の当時 飫肥城にいた島津攻撃(伊東−島津100年戦争)を見送ったここ清武城で病死している(77歳、1485年)。 
 元和元年(1615年)、江戸幕府の一国一城令により廃城となった。

 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」は宮崎県宮崎市 清武町加納にあります。 第11代 都於郡城主(とのこおりじょうしゅ)であった伊東氏全盛の英主 伊東祐尭(すけたか)は子どもである祐国(すけくに)の当時 飫肥城にいた島津攻撃(伊東−島津100年戦争)を見送ったここ清武城で病死している(1485年)。 昭和12年に登尾山不動迫渓谷より現在地に移した。
 
 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」は宮崎県宮崎市 清武町加納にあります。 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)と妻 雪江の墓です。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった(1598年)人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 (伊東は初め、西軍(石田三成 側)だったが、東軍(徳川家康 側)に移った。 稲津掃部助は祐兵の命令で関ヶ原から清武城に戻って来ていました。 宮崎城を落としたときに味方の兵 50余名を失いました。) しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少(13歳)であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣(国家老 松浦久兵衛)らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。 (稲津掃部助の妻 雪江は実母の母が危篤(きとく)という偽の連絡で実家のある飫肥(おび)に帰る途中に、清武城包囲を聞きました。 雪江は清武城の夫のもとに引き返しました。 1602年8月18日伊東の軍は城中になだれ込みました。 雪江は落城する清武城で自害し家臣 阿万三平が介錯(かいしゃく)しました。 掃部助は妻の自害を聞いた後、最後まで付き従った家臣らとともに切腹しました。
 墓碑には慶長七年(1602年)、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、妻 雪江とともに刻んであります。)

「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」は宮崎県宮崎市 清武町大字船引にあります。
指定年月日は昭和26年8月9日です。
 この大楠(くすのき)は別名「八幡楠」とも呼ばれ、船引神社の神木として人々に親しまれてきた。
 根回り18メートル、目通り幹回り13.2メートル、地上2メートルにして東に一枝を出し、5メートルで南北2幹に分かれ、樹高は35メートルに達する。
 また主幹内は空洞を生じ、その広さは7−8畳敷きほどもあり、楠(くすのき)においては県内最大のものである。
 樹齢は約900年と推定されるが、樹勢は旺盛である。


写真A: 清武城跡に行くには、この三叉路(さんさろ)を右に曲がります。 手前方向にはJRの線路の下をくぐるところ、宮崎市 清武総合支所、清武工業団地、宮崎市郡司分(ぐじぶん)などがあります。 正面の建物はチェーンのレストラン、右の建物は商店です。



写真B: 目印になる商店。



写真C: 遠くの山の山頂に清武城跡があります。 国道269号線です。 先の方は宮崎市に行きます。 手前の方は田野町に行きます。



写真D: 左の山の山頂に清武城跡があります。



写真E: この山の山頂に清武城跡があります。



写真F: 旧国道には、清武川を渡る「清武橋」があります。 清武橋を渡ります。



写真G: 清武橋から見た清武川(上流方向)。 見えてる橋を右に行くと「清武の大クス」がある「船引神社」があります。



写真H: 清武橋のすぐ北には、トンネル(清武隧道(ずいどう))があります。 旧国道のトンネルです。 清武城跡へ行くには、この手前を左に曲がります。



写真I: この清武川の左岸(川口に向かって左)を、上流方向に進みます。



写真J: 宮崎自動車道の下を通り、この十字路を右に曲がります。



写真K: 十字路には石造の案内棒があります。 車の前の所に見えています。 この道を先に進みます。



写真L: 「町指定 清武城趾入口」、「伊東祐尭(いとうすけたか)公之墓」と書かれた石の案内棒。 伊東祐尭は西都市にある都於郡城の第5代城主です。 清武城で病死しました。



写真M: 清武城はこの坂道を登っていきます。 左のガードレールのそばに、「清武城本丸跡」と書かれた道しるべが見えています。



写真N: 「清武城本丸跡」と書かれた道しるべ。



写真O: 清武城跡の近くにある「稲荷大明神」の鳥居。



写真P: 稲荷大明神の鳥居にある文字。



写真Q: 清武城跡の近くにある「稲荷大明神」の祠(ほこら)。



写真R: 清武城跡の近くにある「稲荷大明神」。



写真S: 清武城跡の近くにある「稲荷大明神」の鳥居。 昭和51年6月建立。



写真T: 清武城跡に行く坂道。



写真U: 清武城跡に行く坂道の下に、宮崎自動車道が見えます。 右方向が田野インターチェンジ、左方向が宮崎インターチェンジです。



写真V: 清武城趾にはこの坂道を登ります。 右に宮崎自動車道を渡る橋が見えています。 清武城趾へは真っ直ぐ登ります。



写真W: 宮崎城址に行く坂道。 右下に宮崎自動車道があります。



写真X: 宮崎自動車道を渡る橋。 宮崎城跡へ行くときにはこの橋は渡りません。



写真Y: 登ってきた道を振り返った景色。 宮崎自動車道、遠くにうっすらと丸目山などが見えています。



写真Z: 清武城趾へ登る道の下には、宮崎自動車道が見えています。



写真AA: 清武城跡への道。



写真AB: この三叉路(さんさろ)を左に上っても清武城址に行きます。



写真AC: この細い道を上っても清武城址に行きます。



写真AD: 登ってきた道。 この付近が峠(とうげ)になっています。 宮崎自動車道が見えています。



写真AE: 峠(とうげ)を越して清武城跡に行く道。 ここは、峠を少し過ぎたところです。



写真AF: 清武城址に行く道に、オシロイバナが咲いていました。



写真AG: 宮崎城址へ行く道の下方に、宮崎自動車道が見えます。 先の方に宮崎インターチェンジがあります。



写真AH: 清武城址に行くには、この三叉路(さんさろ)を左に行きます。 右の道を行くと、左手に階段がありその上に清武城主であった「稲津掃部助の墓」があります。 さらに進むと三叉路(加納小学校の近く)があり、そこを左に登ると第五代都於郡城主 「伊東祐尭の墓」があります。



写真AI: 清武城址に行く道沿いに、ヒオウギズイセンの花が咲いていました。



写真AJ: 三叉路にある「清武城本丸跡」と書かれた看板。



写真AK: 振り返った清武城址に行く道。 人家も見えています。



写真AL: 清武城址に行く道。



写真AM: 三叉路(さんさろ)があります。 清武城址に行くには左に曲がります。 真っ直ぐ進むとT字路があります。 そのT字路を左に行くと、第五代都於郡城主 「伊東祐尭の墓」、右に行くと加納小学校があります。 加納小学校の少し手前の三叉路を右に行くと、右手に階段があり、清武城主であった「稲津掃部助の墓」があります。



写真AN: 三叉路にある「清武城本丸跡」の道しるべ。



写真AO: 清武城址へは、右の道を登ります。



写真AP: 清武城址に登る道に、オニユリが咲いていました。



写真AQ: 清武城址に行く道。



写真AR: 清武城址に行くには、この三叉路を右に上ります。



写真AS: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある清武城本丸跡への標識。



写真AT: この道を登ります。



写真AU: ここにも清武城本丸跡への道しるべがあります。 猫がいました。



写真AV: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城本丸跡への標識。



写真AW: 清武城への道。 右はミカン畑になっています。



写真AX: 清武城への道。 右はミカン畑になっています。



写真AY: 清武城址。



写真AZ: 清武城跡。



写真BA: 清武城趾。



写真BB: 清武城跡。



写真BC: 清武城址。



写真BD: 清武城趾。



写真BE: 清武城址。



写真BF: 清武城址。



写真BG: 清武城址。



写真BH: 清武城趾。



写真BI: 清武城跡。



写真BJ: 清武城跡。



写真BK: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址。 説明板も見えています。



写真BL: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城跡。 石碑(せきひ)、説明板も見えています。



写真BM: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址の石碑と、説明板、六地蔵塔も見えています。



写真BN: 清武城址の説明板。
 清武城は自然の要害を利用しながら堀切、曲輪(くるわ、平らなところ)などの防衛施設を施した実践的山城で、南北朝時代(1336年−1392年)には清瀧城と呼ばれていた城を天授年間(南北朝時代の1375年−1381年)の1380年頃に伊東氏族である伊東(清武)祐行により増築整備されたとされる。 この名字(みょうじ)から清武城と呼ばれる。
 「伊東48城」と呼ばれる城の中でも島津氏に対する守りとして特に重要な拠点であったとされ、都於郡城主であった伊東氏全盛の英主 祐尭(すけたか)も子 祐国(すけくに)の当時 飫肥城にいた島津攻撃(伊東−島津100年戦争)を見送ったここ清武城で病死している(77歳、1485年)。 (1577年伊東が豊後(大分県)に逃亡後は、清武城は島津のものになった。 1587年、豊臣秀吉の九州征伐の後は再び伊東の領地となり、1598年稲津が城主となった。)
 元和元年(1615年)、江戸幕府の一国一城令により廃城となった。
 


写真BO: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある「清武城趾」と書かれた石碑(せきひ、昭和46年3月20日建立)。 右奥には六地蔵塔、左奥には別の石碑が見えています。



写真BP: 「清武城趾」と書かれた石碑(せきひ、昭和46年3月20日建立)。



写真BQ: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある「清武城趾」と書かれた石碑(せきひ、昭和46年3月20日建立)の裏。



写真BR: 「清武城趾」と書かれた石碑(せきひ、昭和46年3月20日建立)の裏。



写真BS: 「清武城趾」と書かれた石碑(せきひ、昭和46年3月20日建立)の裏。 鹿児島県福山町 第12代 松下兼知 さんが建てられました。 松下刑部少輔越中守久孝が天正8年(1580年)に清武領内に移住したことなどが書かれています。 秀吉の九州征伐(1587年)のときの3月15日夜に豊後国(大分県)で戦死されました。 清武城が島津の支配になっていたときの島津藩の武士です。 その頃の清武城主は、島津藩の伊集院久宣でした。



写真BT: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城趾にある六地蔵塔。



写真BU: 清武城址にある六地蔵塔。



写真BV: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城跡にある六地蔵塔。



写真BW: 清武城址にある六地蔵塔。



写真BX: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址にある六地蔵塔。



写真BY: 清武城跡にある六地蔵塔。



写真BZ: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址にある六地蔵塔。



写真CA: 清武城址にある六地蔵塔、石碑、説明板など。



写真CB: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址にある六地蔵塔。



写真CC: 清武城址。



写真CD: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址の桜の木。



写真CE: 清武城址。



写真CF: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址。 このあたりは蜜柑(みかん)畑になっています。



写真CG: 清武城跡。 このあたりは蜜柑(みかん)畑になっています。



写真CH: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城跡。



写真CI: 清武城跡の石碑(せきひ)。



写真CJ: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城跡の石碑(せきひ)。



写真CK: 清武城跡の石碑(せきひ)。



写真CL: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城跡の石碑(せきひ)と六地蔵塔。



写真CM: 清武城跡の石碑(せきひ)のそばにソテツの木があります。



写真CN: 清武城跡。



写真CO: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城跡から見た展望。 清武町の町並みが見えています。



写真CP: 清武城址からの景色。



写真CQ: 宮崎県宮崎市 清武町上加納(かのう)字城内にある清武城址。 中央の奥に六地蔵塔、石碑などがあります。



写真CR: 清武城址のオニユリにクロアゲハの雄がとまっています。



写真CS: はじめに登ってきた道を下ります。 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」に行くには、この三叉路(さんさろ)を真っ直ぐ進みます。



写真CT: 「伊東祐尭の墓」に行くには、この三叉路(さんさろ)を真っ直ぐ進みます。



写真CU: 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」に行く道。



写真CV: T字路にぶつかります。 「伊東祐尭の墓」へは左へ、「稲津掃部助の墓」は右へ行きます。



写真CW: 来た道を振り返ったもの。



写真CX: 奥の電柱のそばにある階段の上に「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」があります。 ここに駐車場があります。 道を真っ直ぐ先に行くと、清武の大クス(の木)がある船引神社があります。



写真CY: 奥の電柱のそばにある階段の上に「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」があります。 ここに駐車場があります。 道を真っ直ぐ先に行くと、清武の大クス(の木)がある船引神社があります。



写真CZ: 駐車場には加納(かのう)小学校 通学路建設の石碑(加納小学校通学道路竣工記念碑、昭和63年3月吉日建立)がありました。



写真DA: 階段の上に「伊東祐尭の墓」があります。 道を真っ直ぐ先に行くと、清武の大クス(の木)がある船引神社があります。



写真DB: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「清武町(現 宮崎市)指定 史跡 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」 清武町(現 宮崎市)教育委員会」と書かれた看板が階段の脇にあります。



写真DC: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」に登る階段。



写真DD: 宮崎県宮崎市 清武町にある「伊東祐尭の墓」に登る階段。



写真DE: 「伊東祐尭の墓」が奥に見えてきました。



写真DF: 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」の前は広場になっています。



写真DG: 「伊東祐尭の墓」の前は広場になっています。



写真DH: 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」の前は広場になっています。



写真DI: 「伊東祐尭の墓」のそばに細い山道があります。



写真DJ: 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」の前は広場になっています。



写真DK: 「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」の前に石造物があります。



写真DL: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「伊東祐尭(いとうすけたか)の墓」。 手前に、五輪塔、説明板も見えています。 この墓は昭和12年に登尾山不動迫渓谷より現在地に移した。



写真DM: 「伊東祐尭の墓」の左にも墓、供養塔があります。 この墓は昭和12年に登尾山不動迫渓谷より現在地に移した。



写真DN: 伊東祐尭(いとうすけたか)の墓の説明板。
 伊東氏は工藤祐経(くどうすけつね)を祖とし、祐経の子 祐時(すけとき)から伊東姓を称した。 元来、伊豆にいて日向地頭職を任じられていたが、建武2年(1335年)、6代祐持が都於郡(とのこおり、現 西都市)に下向してから日向にその基盤を築いた。 文安3年(1446年)、都於郡城主となった11代祐尭は武威を奮(ふる)って四方に進攻を開始、日知屋、門川、清武、田野の伊東氏族を攻めて勢力を吸収、戦国時代に突入すると日向平定をめざし、下向前からの日向勢力である土持氏(つちもち、平安時代からその名が確認できる日向国の荘園領主)を攻撃し、遠く県庄(あがたのしょう、延岡)へ圧迫して、島津氏と対峙するまでの強大な勢力となった。
 文明17年(1485年)、飫肥(おび)の島津攻撃(伊東−島津100年戦争)に出陣する子、祐国(すけくに)を見送った後、ここ清武城で病死した(77歳)。
 伊東氏にとって日向に強力な地盤を築いた英王である。
と書いてあります。
この墓は昭和12年に登尾山不動迫渓谷より現在地に移した。



写真DO: 伊東祐尭(いとうすけたか)の墓の説明板。 伊東家略系図が書いてあります。



写真DP: 伊東祐尭(いとうすけたか)の墓の説明板。 墓石配置図が書いてあります。 伊東祐尭(いとうすけたか)の墓は、右から2番目、伊東祐尭(いとうすけたか)の供養塔は右から3番目(中央)のものです。



写真DQ: この写真で、左端のものが伊東祐尭(いとうすけたか)の墓です。



写真DR: 伊東祐尭(いとうすけたか)の墓は、右から2番目、伊東祐尭(いとうすけたか)の供養塔は右から3番目(中央)のものです。 清武町にあります。



写真DS: 右端のものが伊東祐尭(いとうすけたか)の供養塔。



写真DT: 「綾の乱 長倉垂水 一族供養碑」と書かれた説明棒が左端に置いてありました。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真DU: 一群の伊東祐尭(いとうすけたか)の墓の左脇に、供養塔、墓などがありました。



写真DV: 伊東祐尭(いとうすけたか)の墓から、はじめに来た方に坂道を下ります。 清武町加納の町が見えてきました。



写真DW: 伊東祐尭(いとうすけたか)の墓から、はじめに来た方に坂道を下ります。 清武町加納の町が見えてきました。



写真DX: 加納小学校の少し手前(上の方)に、三叉路(さんさろ)があります。 清武城主 稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓は、そこを右折します。



写真DY: 加納小学校の少し上のところ。



写真DZ: 加納小学校の少し手前(上の方)に、三叉路(さんさろ)があります。 「清武城主 稲津掃部助の墓」は、そこを右折します。



写真EA: 三叉路を右折して、「稲津掃部助の墓」に行く道。 先に見えている山に「清武城主 稲津掃部助の墓」があります。



写真EB: 三叉路を右折して、「稲津掃部助の墓」に行く道にヒルガオの花が咲いていました。



写真EC: 三叉路を右折して、「清武城主 稲津掃部助の墓」に行く道。 すぐ先に右に上がる階段があります。 その階段の上に「稲津掃部助の墓」があります。 この道を進むと、はじめに清武城址に登った道に合流します。



写真ED: 「稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」に登る階段が、右に見えています。



写真EE: 宮崎県宮崎市 清武町加納(かのう)にある「清武城主 稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」に登る階段。



写真EF: 「稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」に登る階段。 中段に、「修理記念碑(昭和5年4月建立)」が建っています。



写真EG: 中段に、「修理記念碑(昭和5年4月建立)」が建っています。



写真EH: 「稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」に登る階段。



写真EI: 「清武城主 稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」に登る階段。



写真EJ: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある悲運の清武城主であった 「稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」。 墓の左に、ソテツの木、他の墓も見えています。 左手前に御手洗(みたらい)も見えています。 墓碑には慶長七年、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、 妻 雪江とともに刻んであります。 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)と妻 雪江の墓。



写真EK: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」の御手洗(みたらい)。



写真EL: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「清武城主 稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」。 左にソテツの木があります。 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)と妻 雪江の墓。



写真EM: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「稲津掃部助(いなづかもんのすけ)の墓」。 左端に説明板も見えています。 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)と妻 雪江の墓。



写真EN: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」の説明板。
 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった(1598年)人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 (稲津掃部助は祐兵の命令で関ヶ原から清武城に戻って来ていました。 宮崎城を落としたときに味方の兵 50余名を失いました。) しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少(13歳)であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣(国家老 松浦久兵衛)らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。 (妻 雪江は実母の母が危篤(きとく)という偽の連絡で実家のある飫肥(おび)に帰る途中で、清武城包囲を聞きました。 雪江は清武城の夫のもとに引き返しました。 1602年8月18日伊東の軍は城中になだれ込みました。 雪江は落城する清武城で自害し家臣 阿万三平が介錯(かいしゃく)しました。 掃部助は妻の自害を聞いた後、最後まで付き従った家臣らとともに自害しました。
 墓碑には慶長七年(1602年)、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、妻 雪江とともに刻んであります。) 
と書いてあります。



写真EO: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある悲運の清武城主であった 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」の正面。 上部に「卍」の文字が見えています。 (卍(まんじ)は、サンスクリット語から来たものです。 東洋でも西洋でも「幸運のシンボル」として用いられていた。 日本では、寺院の象徴として地図記号にも使用されています。) 墓碑には慶長七年、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、妻 雪江とともに刻んであります。 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)と妻 雪江の墓。
 地元の言い伝えによると、初めはこの墓は東(海の方)を向いていたが、飫肥藩の船が日向灘でよく遭難していた。 掃部助の祟(たた)りだと噂が立ち、墓の向きを逆にして、日向灘に背を向けた。 その後、船の遭難が無くなったそうです。
 掃部助を慕(した)っていた妻 雪江が、だまされて飫肥の実家に帰る途中、迎えの偽りに気付き長刀(なぎなた)を振りかざして迎えに来たものを雪江は追い返しました。 そして清武城に戻り夫と寄り添って自刃したことを想い、私はこの墓の前で涙が滲(にじ)みました。
伊東の軍勢が城中になだれ込んだのは、1602年8月18日、暑い夏の日のことでした。



写真EP: 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」。 「慶長七年」の文字が見えます。 慶長7年(1602年)は稲津掃部助重政が清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)した時です。 墓碑には慶長七年(1602年)、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、妻 雪江とともに刻んであります。



写真EQ: 「清武城主 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」の裏側。 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)と妻 雪江の墓。



写真ER: 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」の正面。 「稲津掃部助」の文字が見えます。 墓碑には慶長七年(1602年)、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、妻 雪江とともに刻んであります。



写真ES: 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」のそばには、別の墓もあります。



写真ET: 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」のそばには、別の墓もあります。



写真EU: 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」のそばには、別の墓もあります。



写真EV: 「稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」のそばには、別の墓もあります。



写真EW: 宮崎県宮崎市 清武町加納にある「清武城主 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」。 ソテツの木があります。 墓碑には慶長七年(1602年)、阿万三平、平賀六助など最後まで付き従った家臣の名前が、妻 雪江とともに刻んであります。 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)と妻 雪江の墓。



写真EX: 「清武城主 稲津掃部助重政(いなづかもんのすけしげまさ)の墓」から、はじめに来た道を戻ります。



写真EY: 清武城址に行くときに越えた峠(とうげ)に戻りました。



写真EZ: 清武城址に行く道から見下ろした宮崎自動車道。 遠くに丸目山、鰐塚山も見えています。



写真FA: 「船引神社」。 右の森が船引神社です。 ここに「清武の大クス」があります。 宮崎県宮崎市 清武町大字船引にあります。



写真FB: 船引神社の看板(かんばん)。 宮崎県宮崎市 清武町大字船引にあります。



写真FC: 船引神社の隣に「船引神楽(かぐら)」の像があります。 船引神社は左にあります。



写真FD: 「県指定無形民俗文化財 船引神楽」と書いてあります。



写真FE: 宮崎県宮崎市 清武町にある「船引神社」。



写真FF: 船引神社にある鳥居(とりい)の看板。



写真FG: 船引神社の「鳥居建立記念碑」。



写真FH: 宮崎県宮崎市 清武町にある船引神社の社(やしろ)と石灯籠(いしどうろう)。 社殿の奥の高い木が「清武の大楠(くすのき)」です。



写真FI: 船引神社の池と御手洗(みたらい)。



写真FJ: 船引神社の池と橋。



写真FK: 船引神社の石灯籠(いしどうろう、明治28年12月吉日建立)と御手洗(みたらい)。



写真FL: 明治28年12月吉日と書かれた石灯籠(いしどうろう)。



写真FM: 「清祓水」と彫(ほ)られた御手洗(みたらい)。



写真FN: 船引神社の社務所。



写真FO: 宮崎県宮崎市 清武町にある船引神社の石灯籠(いしどうろう)と社務所。



写真FP: 宮崎県宮崎市 清武町にある船引神社の石灯籠(いしどうろう)と鳥居(とりい)。



写真FQ: 宮崎県宮崎市 清武町にある船引神社の御手洗(みたらい)、石灯籠(いしどうろう)と鳥居(とりい)。



写真FR: 「船引神社」の説明板。 1087年9月15日(平安時代後期)創建。 御祭神は 足仲彦命、息長足姫命、誉田別命。



写真FS: 船引神社の壁に、船引神楽(かぐら)などのポスターがありました。



写真FT: 船引神社の鈴。



写真FU: 船引神社の社殿。



写真FV: 船引神社の社殿の裏にある「清武の大くす」。



写真FW: 船引神社の社殿の裏にある「清武の大クス」。



写真FX: 船引神社の社殿の裏にある「清武の大楠(くすのき)」。



写真FY: 宮崎県宮崎市 清武町大字船引にある「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」。



写真FZ: 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」。



写真GA: 船引神社の社殿。



写真GB: 船引神社の境内(けいだい)。 奥に大クスよりは小さいがクスノキがあります。



写真GC: 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」のそばには、木で作った通路がありました。 クスノキの根を保護するためと思われます。



写真GD: 宮崎県宮崎市 清武町大字船引にある 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」。 木の回りに「しめ縄」が見えています。



写真GE: 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」。



写真GF: 宮崎県宮崎市 清武町の船引神社にある 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」。 木の幹(みき)に穴が開(あ)いています。



写真GG: 宮崎県宮崎市 清武町大字船引にある「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」。 木の幹(みき)に穴が開(あ)いています。



写真GH: 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」。 木の幹(みき)に穴が開(あ)いています。



写真GI: 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」のそばには、木で作った通路がありました。 クスノキの根を保護するためと思われます。 「大楠を守る会」が作りました。



写真GJ: 「国指定 天然記念物 清武の大楠(くすのき)」の説明板。
指定年月日: 昭和26年8月9日
 この大楠は別名「八幡楠」とも呼ばれ、船引神社の神木として人々に親しまれてきた。
 根回り18メートル、目通り幹回り13.2メートル、地上2メートルにして東に一枝を出し、5メートルで南北2幹に分かれ、樹高は35メートルに達する。
 また主幹内は空洞を生じ、その広さは7−8畳敷きほどもあり、楠(くすのき)においては県内最大のものである。
 樹齢は約900年と推定されるが、樹勢は旺盛である。
清武町(現 宮崎市)教育委員会  と書いてあります。



写真GK: 船引神社のクスノキの説明板と石碑(せきひ)。



写真GL: 「船引神社創建900年記念」の石碑(せきひ)。 昭和62年春 建立。



写真GM: 宮崎県宮崎市 清武町にある船引神社の「雲竜巻柱」の説明棒。 雲竜巻柱は川崎伝蔵によって江戸時代末期の嘉永6年(1853年)に製作されました。 「雲竜巻柱」は、この説明棒の右奥にあります。



写真GN: 宮崎県宮崎市 清武町大字船引にある船引神社の「雲竜巻柱」が見えています。 雲竜巻柱は川崎伝蔵によって江戸時代末期の嘉永6年(1853年)に製作されました。



写真GO: 宮崎県宮崎市 清武町にある船引神社の「雲竜巻柱」が見えています。 雲竜巻柱は川崎伝蔵によって江戸時代末期の嘉永6年(1853年)に製作されました。



写真GP: 船引神社の境内(けいだい)。



写真GQ: 船引神社の境内(けいだい)。 塵(ちり)を焼くものもありました。



写真GR: 船引神社の境内(けいだい)。 左に「社務所、玉垣建築記念碑」(昭和12年3月11日建立)も見えています。



写真GS: 船引神社の境内(けいだい)。 池、御手洗(みたらい)、鳥居(とりい)も見えています。



写真GT: 宮崎県宮崎市 清武町大字船引にある船引神社の社殿と「清武の大楠(くすのき)」。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)