川原田六地蔵塔 (かわらだろくじぞうとう、川原田六地蔵、川原田六地蔵幢(ろくじぞうしょう)、西都市指定文化財(工芸品)、県内で最も古い六地蔵塔の一つ、川原田墓地(古く立派な墓)、光台寺、三財川、JAライスセンター、藤田自治公民館、とうだ自治公民館、綾の乱)  (宮崎県 西都市 大字三財 川原田)







<標高、位置>  川原田六地蔵塔(かわらだろくじぞうとう)は
標高 約10 m
 北緯32度04分13秒  東経131度22分21秒

<標高、位置>  川原田墓地は
標高 約10 m
 北緯32度04分16秒  東経131度22分12秒

<標高、位置>  藤田自治公民館(とうだじちこうみんかん)は
標高 約10 m
 北緯32度04分25秒  東経131度22分12秒


 川原田六地蔵塔(かわらだろくじぞうとう)は宮崎県西都市 大字三財 川原田にあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。 宮崎県内で最も古い六地蔵塔の一つです。 六地蔵塔は六地蔵幢(ろくじぞうしょう)とも呼ばれます。
「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」より、
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)「綾の乱」に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。 「綾の乱」とは: 永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。


写真A: これは宮崎県 西都市の県道320号線です。 先に行くと鹿野田にいきます。 手前に行くと西都市大字三財の亀塚交差点に行きます。 左の木の陰に自動販売機が見えます。 先の建物は藤田自治公民館(とうだじちこうみんかん)です。



写真B: 藤田自治公民館(とうだじちこうみんかん)の建物が見えます。 この車道を少し先に進んで右に曲がって「川原田六地蔵(かわらだろくじぞう)」に行きます。



写真C: 藤田自治公民館(とうだじちこうみんかん)です。 県道320号線に沿(そ)ったところにあります。



写真D: 藤田自治公民館(とうだじちこうみんかん)と書いてあります。



写真E: 少し先に進んで右折します。 直進すると鹿野田に行きます。



写真F: 県道320号線を直進すると鹿野田に行きます。 農業関係の宮崎農産、JAライスセンターの大きな建物が見えます。 その手前を右に曲がります。



写真G: この十字路を南に曲がります。



写真H: 先に農業関係の宮崎農産、JAライスセンターの大きな建物が見えます。 川原田六地蔵へは右に曲がります。



写真I: 十字路から西方向を見たもの。 奥に藤田自治公民館のある集落があります。



写真J: 奥に川原田(かわらだ)の集落があります。 集落の手前を左に曲がって川原田六地蔵に行きます。 中央に見えてる森には寺と川原田墓地があります。 手前は県道320号線です。



写真K: 遠くの台地の手前に三財川が流れています。 右側が上流方向です。 「川原田六地蔵」はこの田圃(たんぼ)や畑の中にあります。 手前は県道320号線です。



写真L: 県道320号線の先に農業関係の宮崎農産、JAライスセンターの大きな建物が見えます。



写真M: 台地の左寄のところの上に西都市 鹿野田にある「西の都酒造」の工場や大きなタンクが見えます。 手前は田植えが終わったばかりの田んぼです。 十字路から北東方向を見たもの。



写真N: 十字路から北方向を見たもの。



写真O: 十字路から北西方向を見たもの。



写真P: 十字路から西方向を見たもの。



写真Q: 周(まわ)りは畑と田んぼがあります。



写真R: 川原田の集落が見えてきました。 集落の手前を左に曲がって川原田六地蔵に行きます。



写真S: 早期水稲の田植えが終わったばかりの田んぼです。



写真T: 台地の手前を三財川が流れています。 右側が上流方向です。  堤防の手前に緑色が四角に盛り上がっているところに「川原田六地蔵(かわらだろくじぞう)」が見えています。 川原田六地蔵のそばにはツツジがあります。 手前のあぜ道の白いものは旗のようです。



写真U: この十字路を左に行くと川原田六地蔵があります。 旗の奥に石像が見えます。 先の集落は川原田(かわらだ)です。 右に行くとお堂(寺)と川原田墓地があります。 この墓地には古くて立派な墓があります。 これらは「伊東塔」と呼ばれているものかも知れません。



写真V: 十字路にある石仏。 先に森とお堂がみえています。 森のところに川原田墓地があります。 この墓地には古くて立派な墓があります。 これらは「伊東塔」と呼ばれているものかも知れません。 左には神社があります。 この神社には「水神」と書いてある石碑(せきひ)があります。



写真W: 十字路にある石仏。 掛(か)けてある布には「奉納 川原田婦人会 平成22年1月10日」と書いてあります。 そばにソテツの木もあります。



写真X: 十字路にある石仏。 掛(か)けてある布には「奉納 川原田婦人会 平成22年1月10日」と書いてあります。 そばにソテツの木もあります。



写真Y: 左に鳥居(とりい)があります。 右はお堂の森です。



写真Z: 鳥居(とりい)の前は広場になっています。



写真AA: 宮崎県西都市 大字三財 川原田の集落です。



写真AB: 鳥居です。



写真AC: 鳥居の前の広場には相撲(すもう)の土俵(どひょう)があります。 草の間に見えています。



写真AD: 先程の石仏が2つある十字路です。 右端奥に「川原田六地蔵」のツツジがある場所が小さく見えています。



写真AE: 鳥居と建物。



写真AF: 3つの石碑(せきひ)があります。 左の石碑には「水神」と彫(ほ)ってあります。



写真AG: 左の石碑には「水神」と彫(ほ)ってあります。



写真AH: コンクリートの右には古そうな石(いし)が積んであります。



写真AI: 川原田六地蔵への道から十字路、鳥居、お堂、川原田墓地を振り返って見たもの。



写真AJ: 突き当たりは三財川(さんざいがわ)の堤防(ていぼう)です。



写真AK: 三財川の西に「川原田六地蔵(かわらだろくじぞう」と周(まわ)りのツツジの木が見えています。



写真AL: 「川原田六地蔵(かわらだろくじぞう」と周(まわ)りのツツジの木が見えています。 石のベンチもあります。 川原田六地蔵(かわらだろくじぞう)は宮崎県 西都市 大字三財 川原田にあります。 川原田にある六地蔵塔です。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真AM: 農道の十字路の南西の角(かど)に「川原田六地蔵(かわらだろくじぞう」はあります。 近くは田んぼと畑です。 奥(東)に三財川の堤防が見えます。



写真AN: 背の高い六地蔵塔の上の部分に6体の地蔵が彫(ほ)られています。 周(まわ)りはツツジの木です。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真AO: 川原田六地蔵から見た川原田の集落。 西方向を見たもの。



写真AP: 川原田六地蔵から南を見たもの。 左奥に三財川の堤防(ていぼう)が見えます。



写真AQ: 川原田六地蔵から東を見たもの。 三財川の堤防が見えます。



写真AR: 川原田六地蔵から北を見たもの。 農業関係の宮崎農産、JAライスセンターの大きな建物が右奥に見えます。



写真AS: 川原田六地蔵から北を見たもの。 農業関係の宮崎農産、JAライスセンターの大きな建物が右奥に見えます。 川原田六地蔵のそばには田んぼと畑があります。



写真AT: 宮崎県西都市 大字三財 川原田にある「川原田六地蔵」。 周りにツツジの木が植えてあります。 左奥の建物は藤田(とうだ)の集落です。



写真AU: 川原田六地蔵。 手前にツツジの赤い花が見えます。



写真AV: 川原田六地蔵。 後ろの集落は川原田。 六地蔵塔には「奉納 川原田婦人会 平成22年1月10日」と書かれた布が掛(か)けてあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真AW: 左は川原田六地蔵塔で、中央手前はその上の部分が落ちてひび割れたものです。 奥には石碑(せきひ)があります。



写真AX: 川原田六地蔵のそばには石のベンチもあります。 左はツツジの木。



写真AY: 六地蔵塔には「奉納 川原田婦人会 平成22年1月10日」と書かれた布が掛(か)けてあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真AZ: 六地蔵の内の一つです。 長年の風化で分かりにくくなっています。 この部分は六面のそれぞれに地蔵が彫(ほ)ってあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BA: 六地蔵の内の一つです。 長年の風化で分かりにくくなっています。 この部分は六面のそれぞれに地蔵が彫(ほ)ってあります。



写真BB: 六地蔵の内の一つです。 長年の風化で分かりにくくなっています。 この部分は六面のそれぞれに地蔵が彫(ほ)ってあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BC: 六地蔵の内の一つです。 長年の風化で分かりにくくなっています。 この部分は六面のそれぞれに地蔵が彫(ほ)ってあります。



写真BD: 六地蔵の内の一つです。 長年の風化で分かりにくくなっています。 この部分は六面のそれぞれに地蔵が彫(ほ)ってあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BE: 川原田六地蔵の中部。



写真BF: 川原田六地蔵の中部。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BG: 川原田六地蔵の下部。 「十二月二十四日」の文字も読めます。



写真BH: 川原田六地蔵の下部。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BI: これが川原田六地蔵の上に載(の)っていたものと思われます。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BJ: 新しい石碑(せきひ)があります。



写真BK: もと上部に載っていた部分にも図形が四面に彫(ほ)ってあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BL: もと上部に載っていた部分にも図形が四面に彫(ほ)ってあります。



写真BM: もと上部に載っていた部分にも図形が四面に彫(ほ)ってあります。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真BN: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
「高鍋町老瀬住人 美作守末裔(えい) 長倉寅男 建立」と書いてあります。 六地蔵幢(ろくじぞうしょう)は六地蔵塔のことです。



写真BO: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
「高鍋町老瀬住人 美作守末裔(えい) 長倉寅男 建立」と書いてあります。 六地蔵幢(ろくじぞうしょう)は六地蔵塔のことです。



写真BP: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BQ: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BR: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BS: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BT: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BU: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BV: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BW: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BX: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BY: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真BZ: 「六地蔵幢(ろくじぞうしょう)移転之碑」。
この六地蔵幢はもと西方の畦畔道路より南へ13メートルにあったが圃場(ほじょう)整備事業のため昭和54年12月にここに移された。 これは都於郡(第7代)城主 伊東尹祐の重臣 長倉美作守祐普が永正16年(1519年)12月24日に(永正7年(1510年)綾の乱に自刃した一族の長倉若狭守祐正等の供養のために)石工 一岳に造らせたもので県内有数の古い六地蔵である。 当時そこは三財川の河岸で「光台寺(初代 都於郡城主 伊東祐持の菩提寺)」参道の傍(かたわ)ら巨松のもとに建てられた。 対岸の奈良瀬坂を経(へ)て都於郡城内に通ずる要地にあり城下町との間に人々の往来が絶えなかった。 今やこの六地蔵幢は長年の風雪に堪(た)え苔(こけ)むして風化も痛ましい姿は...光台寺の墓塔伽藍(がらん)...輝くとて城下町 川原田の姿亡く戦火の歴史を伊東螢地蔵渕の物語と共に往年の世の人々に黙々として語り伝えている。
大町三男識
と書かれています。
永正7年(1510年)に伊東尹祐(いとうただすけ)は綾(あや)の地頭である長倉若狭守などを切腹に追い込みました(綾の乱)。



写真CA: 奥の森は川原田墓地のあるところ。 左は川原田集落。 道の左に農業用水の溝(みぞ)が流れています。



写真CB: 宮崎県西都市 大字三財 川原田にある「川原田六地蔵」。 市指定文化財(工芸品)に昭和55年6月12日指定されました。



写真CC: 宮崎県西都市 大字三財 川原田にある「川原田六地蔵塔」。



写真CD: そばの田んぼは早期水稲の田植えが終わったばかりでした。



写真CE: 水神の石碑(左)や川原田墓地(右)の方に戻(もど)ります。



写真CF: 「交通安全 西都警察署 西都地区 交通安全協会」と書いてある黄色の旗があります。



写真CG: 八重桜(ヤエザクラ)の花が咲いていました。



写真CH: お堂が見えてきました。 その裏手に川原田墓地があります。



写真CI: 近くは田んぼもあります。



写真CJ: 川原田にあるお堂。



写真CK: 石の仏像、石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真CL: 川原田にあるお堂。 石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真CM: 川原田にあるお堂。 石の仏像、石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真CN: 石碑(せきひ)がお堂のそばにあります。



写真CO: これが川原田墓地です。 左寄に古い立派な墓が並んでいます。 右の円筒形の墓は寺の僧職の墓です。



写真CP: 「川原田共同墓地 昭和58年7月吉日」と書いてある石碑もあります。 宮崎県西都市 大字三財 川原田にあります。



写真CQ: 川原田墓地。



写真CR: 円筒形の墓は寺の僧職の墓です。



写真CS: 年代の古い墓が並んでいます。



写真CT: これは立派な古い墓です。 身分のある人の墓と思われます。 「大安寺の伊東墓地」にある都於郡城主の墓とよく似たものもここに並んでいます。 この川原田墓地も将来調査が盛んになるかも知れません。



写真CU: これは立派な古い墓です。 身分のある人の墓と思われます。 「大安寺の伊東墓地」にある都於郡城主の墓とよく似たものもここに並んでいます。 この川原田墓地も将来調査が盛んになるかも知れません。



写真CV: これは立派な古い墓です。 身分のある人の墓と思われます。 「大安寺の伊東墓地」にある都於郡城主の墓とよく似たものもここに並んでいます。 この川原田墓地も将来調査が盛んになるかも知れません。



写真CW: これは立派な古い墓です。 身分のある人の墓と思われます。 「大安寺の伊東墓地」にある都於郡城主の墓とよく似たものもここに並んでいます。 この川原田墓地も将来調査が盛んになるかも知れません。



写真CX: これは立派な古い墓です。 身分のある人の墓と思われます。 「大安寺の伊東墓地」にある都於郡城主の墓とよく似たものもここに並んでいます。 この川原田墓地も将来調査が盛んになるかも知れません。



写真CY: 普通の古い墓も並んでいます。



写真CZ: 普通の古い墓も並んでいます。 右は現在の墓があります。



写真DA: 川原田墓地。



写真DB: 川原田墓地のそばには畑もあります。



写真DC: 川原田墓地のそばには田畑もあります。



写真DD: 川原田の集落です。



写真DE: 水神の石碑があるところも見えます。



写真DF: お堂と川原田墓地のある森です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)