紙屋関所跡、東麓石窟仏、庄内の乱の伊集院源次郎忠真の供養塔 (ひがしふもとせっくつぶつ、紙屋の田の神、紙屋中学校、紙屋小学校、紙屋郵便局、紙屋大橋、秋社川、紙屋地区公民館、薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)、岩ん堂薬師さま、プリエールこばやし野尻斎場、都城で起こった庄内の乱、押川治右衛門の墓、平田新四郎(島津家老の子)の墓、野尻の田の神)
(宮崎県 小林市 野尻町)
<標高、位置> 「紙屋関所跡」は
標高 約160 m
北緯31度57分52秒 東経131度10分53秒
<標高、位置> 大淀川の支流 秋社川の紙屋大橋は
標高 約130 m
北緯31度57分45秒 東経131度10分55秒
<標高、位置> 紙屋中学校は
標高 約160 m
北緯31度57分51秒 東経131度10分58秒
<標高、位置> 紙屋小学校は
標高 約160 m
北緯31度57分49秒 東経131度10分50秒
<標高、位置> 紙屋郵便局は
標高 約150 m
北緯31度57分44秒 東経131度10分31秒
<標高、位置> 岩瀬ダム湖(野尻湖)の野尻大橋の西にある「東麓 石窟仏(せっくつぶつ)」は
標高 約160 m
北緯31度57分26秒 東経131度06分48秒
<標高、位置> 「庄内の乱」の伊集院源次郎忠眞(伊集院源次郎忠真)の墓は
標高 約120 m
北緯31度57分37秒 東経131度05分51秒
「紙屋関所跡(かみやせきしょあと)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字旧町にあります。
「市指定史跡 紙屋関所跡」の説明板から、
指定年月日 昭和56年9月18日
この境目番所(陸路番所)は薩摩藩の9つの番所の一つであり御番所とも言われ、また土地の人は「ばんどこ」ともよんだ。 関所といえば幕府の直轄(ちょっかつ)したものを指すと思われるが、薩摩藩では番所も関所と呼んでいたようである。 近くに高岡町の去川番所(さるかわばんしょ)、えびの市の球磨口番所(くまぐちばんしょ)がある。
関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方に加わり敗退した島津義弘は、日向の国に上陸後 伊東勢(徳川方)に苦しめられたことから、去川番所の他に四郷(高岡、穆佐(むかさ)、倉岡、綾(あや))所謂(いわゆる)、関外四郷を置き、また紙屋番所を設(もう)けて、この地方の防備を固めたと言われる。
番所には、上番1名(あつかい「郷士年寄」ヨリ兼務)定番2名、加番3名がいて非常を戒(いまし)め、他藩旅客の藩内通行の者を改めた。 厳重な取締りの例として紙屋番所への犬1匹の通行許可願とか去川番所から紙屋番所への犯人取り押さえの依頼文書などが遺(のこ)されている。
ここの井戸は当時のものである。
「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字崎園にあります。
「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板から、
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定。
庄内の乱の「伊集院源次郎忠眞(伊集院源次郎忠真)の墓」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字本町 1162-1にあります。
「伊集院源次郎忠眞(伊集院源次郎忠真)の供養塔」の説明板から、
昭和56年9月18日 指定文化財
忠眞は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。
文禄4年(1595年)、伊集院忠棟は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠眞はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。
翌年、戦いが不利となった伊集院忠眞は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。
慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠眞にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中にこの野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠眞 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。
この事件で忠眞射殺の命(めい)を受けた穆佐(むかさ、今の高岡町)の士、押川治右衛門と渕脇平馬は、伊集院忠眞と馬を交換して乗っていた平田新四郎(島津氏家老の子)を忠眞と思い誤射した。 押川はその責を負い、自害したという。
ここにある供養塔(五輪塔)は、非業の死を遂(と)げた伊集院忠眞の慰霊のため建立したものである。
また、五輪塔に向かって右側の近いほうが(射撃した)押川治右衛門、その隣が(誤射された)平田新四郎(島津氏家老の子)の供養塔で、事件の翌年、押川則貞が施主(せしゅ)となり建立したものである。 なお敷地内後方に並ぶ石碑(せきひ)は、伊集院忠眞の家臣の墓石と考えられ、野尻城址(じょうし)に散在していたものを、平成21年、この地に移したものである。
写真A: 国道268号線の「紙屋大橋」の西端の三叉路(さんさろ)に「市指定史跡 紙屋関所跡 300 m→」の標識があります。 その左に「紙屋中学校入り口」の標識棒があります。
写真B: 「紙屋中学校入り口」の標識棒と掲示板。 「紙屋っ子見守り隊パトロール中」と掲示板に書いてありました。
写真C: 「紙屋関所跡」へはこの道を北に上(のぼ)っていきます。
写真D: 大淀川の支流 秋社川にかかる国道268号線の「紙屋大橋」です。 歩道橋はその左に見えます。 先は宮崎の方に行きます。 手前は小林に行きます。 「紙屋関所跡」にはこの三叉路(さんさろ)を北に入ります。
写真E: この三叉路の西方向を見たもの。 先は小林に行きます。
写真F: この三叉路の東方向を見たもの。 先は宮崎に行きます。 紙屋大橋が見えます。
写真G: 先方向 緩(ゆる)い坂を登って「紙屋関所跡」、紙屋小学校、紙屋中学校に行きます。
写真H: 三叉路の様子(ようす)。
写真I: 三叉路から西方向を見たもの。
写真J: この坂道を上っていきます。
写真K: 紙屋大橋の歩道橋には「神谷川」と書いてあります。
写真L: 「紙屋側道橋」と書いてあります。
写真M: 紙屋側道橋(紙屋大橋の歩道橋)です。 先は宮崎方面。
写真N: 「紙屋小学校」と書いてある看板(かんばん)が見えます。 左に曲がると紙屋小学校、紙屋地区公民館があります。 手前の方には国道268号線があります。
写真O: 「紙屋小学校」と書いてある看板。
写真P: 左が紙屋地区公民館、右奥が紙屋小学校です。
写真Q: 紙屋地区公民館。
写真R: 「紙屋地区公民館」と書いてあります。
写真S: 「小林市立 紙屋小学校」の門です。
写真T: 門に「小林市立 紙屋小学校」と書いてあります。
写真U: 小林市立 紙屋小学校。
写真V: 紙屋地区公民館の入り口付近。
写真W: 「共に伸びよう 明るく楽しい 子ども会、21世紀をささえる子ども会、野尻町子ども会育成連絡協議会」と書いてあります。
写真X: 「交通ルールをまもりましょう、みんなで守ろう子供のあんぜん、子供の飛び出し注意」と書いてある看板。
写真Y: この十字路を左に行くと「紙屋関所跡」があります。 右に紙屋中学校の門が見えます。 手前方向に国道268号線があります。
写真Z: 「市指定史跡 紙屋関所跡←この上」と書いてある看板があります。 また「紙屋中学校→」の標識棒も見えます。
写真AA: 小林市立 紙屋中学校の門です。 奥に校舎が見えます。
写真AB: 「小林市立 紙屋中学校」と門に書いてあります。
写真AC: 小林市立 紙屋中学校。 校舎も見えます。
写真AD: この道の右手に紙屋関所跡があります。
写真AE: 紙屋中学校前の十字路を振り返ったもの。
写真AF: この竹林のところが紙屋関所跡です。 左手に関所跡の石碑(せきひ)などがあります。
写真AG: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋関所跡」です。 「紙屋関所跡」と金網の左に書いてあります。 石碑(せきひ)、説明板などもコンクリートの石垣の上に見えます。
紙屋関所跡は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字旧町にあります。
薩摩藩の陸地番所は、薩州出水野間之原 、薩州大口小河内、日州加久藤榎田村、日州野尻紙屋村、日州高岡去川村、 日州都城梶山、日州都城寺柱村、 日州志布志八郎ケ野、日州志布志夏井村
の9箇所です。 日州とは日向のことです。
写真AH: 白壁の右の道を少し入ったところに紙屋関所跡に登る階段があります。
写真AI: 小林市 野尻町の紙屋関所跡から紙屋小学校の校舎、グラウンド、プールなどが見えました。
写真AJ: 小林市 野尻町の紙屋関所跡から紙屋小学校のプールなどが見えました。
写真AK: 小林市 野尻町の紙屋関所跡から紙屋小学校の校舎、グラウンド、プールなどが見えました。
写真AL: 小林市 野尻町の紙屋関所跡から「紙屋中学校」の校舎、グラウンド、駐車場などが見えました。
写真AM: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋関所跡」。
薩摩藩の陸地番所は、薩州出水野間之原 、薩州大口小河内、日州加久藤榎田村、日州野尻紙屋村、日州高岡去川村、 日州都城梶山、日州都城寺柱村、 日州志布志八郎ケ野、日州志布志夏井村
の9箇所です。 日州とは日向のことです。
写真AN: 小林市 野尻町にある「紙屋関所跡」。
紙屋関所跡は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字旧町にあります。
写真AO: 「紙屋関所跡」と書いてあります。 後ろに石碑、説明板も見えます。
薩摩藩の陸地番所は、薩州出水野間之原 、薩州大口小河内、日州加久藤榎田村、日州野尻紙屋村、日州高岡去川村、 日州都城梶山、日州都城寺柱村、 日州志布志八郎ケ野、日州志布志夏井村
の9箇所です。 日州とは日向のことです。
写真AP: この道の右に紙屋関所跡に登る階段があります。
写真AQ: これが紙屋関所跡に登る階段です。
薩摩藩の陸地番所は、薩州出水野間之原 、薩州大口小河内、日州加久藤榎田村、日州野尻紙屋村、日州高岡去川村、 日州都城梶山、日州都城寺柱村、 日州志布志八郎ケ野、日州志布志夏井村
の9箇所です。 日州とは日向のことです。
写真AR: 小林市 野尻町にある「紙屋関所跡」。 このあたり広くが関所跡だったと思われます。
紙屋関所跡は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字旧町にあります。
写真AS: この石碑には「紙屋関所跡」と彫(ほ)ってあります。 昭和46年9月に建立。 後ろにシュロの木などがあります。
写真AT: この石碑には「紙屋関所跡」と彫(ほ)ってあります。 昭和46年9月に建立。 後ろにシュロの木などがあります。 左に説明板も見えます。
写真AU: 「紙屋関所跡」と彫(ほ)ってある石碑の下部。 昭和46年9月に建立。 左は説明板。
写真AV: 登ってきた階段を振り返ったもの。
写真AW: 関所があった時代の古井戸があります。 蓋(ふた)がしてありました。 その右に門の基石(門柱の下の石)が1つ置いてあります。 この門の基石も関所があった当時のものでしょう。
写真AX: 左から古井戸、門柱の下の石、説明板、石碑。
写真AY: 「市指定史跡 紙屋関所跡」の説明板。
指定年月日 昭和56年9月18日
この境目番所(陸路番所)は薩摩藩の9つの番所の一つであり御番所とも言われ、また土地の人は「ばんどこ」ともよんだ。 関所といえば幕府の直轄(ちょっかつ)したものを指すと思われるが、薩摩藩では番所も関所と呼んでいたようである。 近くに高岡町の去川番所(さるかわばんしょ)、えびの市の球磨口番所(くまぐちばんしょ)がある。
関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方に加わり敗退した島津義弘は、日向の国に上陸後 伊東勢(徳川方)に苦しめられたことから、去川番所の他に四郷(高岡、穆佐(むかさ)、倉岡、綾(あや))所謂(いわゆる)、関外四郷を置き、また紙屋番所を設(もう)けて、この地方の防備を固めたと言われる。
番所には、上番1名(あつかい「郷士年寄」ヨリ兼務)定番2名、加番3名がいて非常を戒(いまし)め、他藩旅客の藩内通行の者を改めた。 厳重な取締りの例として紙屋番所への犬1匹の通行許可願とか去川番所から紙屋番所への犯人取り押さえの依頼文書などが遺(のこ)されている。
ここの井戸は当時のものである。 紙屋宮前老人クラブはこの史跡を永遠に伝えるため、明治100年記念事業として顕彰碑を建立(こんりゅう)し今もこの管理にあたっている。
平成4年3月
小林市教育委員会
と書かれています。
写真AZ: 「市指定史跡 紙屋関所跡」の説明板。
指定年月日 昭和56年9月18日
この境目番所(陸路番所)は薩摩藩の9つの番所の一つであり御番所とも言われ、また土地の人は「ばんどこ」ともよんだ。 関所といえば幕府の直轄(ちょっかつ)したものを指すと思われるが、薩摩藩では番所も関所と呼んでいたようである。 近くに高岡町の去川番所(さるかわばんしょ)、えびの市の球磨口番所(くまぐちばんしょ)がある。
関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方に加わり敗退した島津義弘は、日向の国に上陸後 伊東勢(徳川方)に苦しめられたことから、去川番所の他に四郷(高岡、穆佐(むかさ)、倉岡、綾(あや))所謂(いわゆる)、関外四郷を置き、また紙屋番所を設(もう)けて、この地方の防備を固めたと言われる。
番所には、上番1名(あつかい「郷士年寄」ヨリ兼務)定番2名、加番3名がいて非常を戒(いまし)め、他藩旅客の藩内通行の者を改めた。 厳重な取締りの例として紙屋番所への犬1匹の通行許可願とか去川番所から紙屋番所への犯人取り押さえの依頼文書などが遺(のこ)されている。
ここの井戸は当時のものである。 紙屋宮前老人クラブはこの史跡を永遠に伝えるため、明治100年記念事業として顕彰碑を建立(こんりゅう)し今もこの管理にあたっている。
平成4年3月
小林市教育委員会
と書かれています。
写真BA: 「市指定史跡 紙屋関所跡」の説明板。
指定年月日 昭和56年9月18日
この境目番所(陸路番所)は薩摩藩の9つの番所の一つであり御番所とも言われ、また土地の人は「ばんどこ」ともよんだ。 関所といえば幕府の直轄(ちょっかつ)したものを指すと思われるが、薩摩藩では番所も関所と呼んでいたようである。 近くに高岡町の去川番所(さるかわばんしょ)、えびの市の球磨口番所(くまぐちばんしょ)がある。
関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方に加わり敗退した島津義弘は、日向の国に上陸後 伊東勢(徳川方)に苦しめられたことから、去川番所の他に四郷(高岡、穆佐(むかさ)、倉岡、綾(あや))所謂(いわゆる)、関外四郷を置き、また紙屋番所を設(もう)けて、この地方の防備を固めたと言われる。
番所には、上番1名(あつかい「郷士年寄」ヨリ兼務)定番2名、加番3名がいて非常を戒(いまし)め、他藩旅客の藩内通行の者を改めた。 厳重な取締りの例として紙屋番所への犬1匹の通行許可願とか去川番所から紙屋番所への犯人取り押さえの依頼文書などが遺(のこ)されている。
ここの井戸は当時のものである。 紙屋宮前老人クラブはこの史跡を永遠に伝えるため、明治100年記念事業として顕彰碑を建立(こんりゅう)し今もこの管理にあたっている。
平成4年3月
小林市教育委員会
と書かれています。
写真BB: 紙屋関所があったころからの「井戸」と門の「基石(門柱の下の石)」が1個あります。 井戸には金属製のフタがあります。
紙屋関所跡は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字旧町にあります。
写真BC: 紙屋関所の「基石(門柱の下の石)」と左に「井戸」があります。
写真BD: 紙屋関所があった頃からの「井戸」と門の「基石(門柱の下の石)」が1個。 右は説明板。
写真BE: 明治100年を記念して建立された「紙屋関所跡」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。 昭和46年9月に建立。
紙屋関所跡は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字旧町にあります。
写真BF: 明治百年を記念して建立された「紙屋関所跡」の石碑(せきひ)の下部。 昭和46年9月に建立。
写真BG: 「建碑の辞」
この地は天保元年ごろ藩主 島津 公より番所役人 岩本平左衛門が拝領。 以来笑助を経(へ)て、右一に至(いた)る。 紙屋地区老人クラブは岩本右一氏の協力により史跡を永遠に伝えんと紙屋関所跡の碑を明治百年記念事業の一つとして建立するものである。
昭和46年9月吉日
と書かれています。
写真BH: この左の石垣、竹林あたりに「紙屋関所」がありました。
写真BI: 昭和46年9月4日に建立(こんりゅう)された歌碑。
写真BJ: 昭和46年9月4日に建立(こんりゅう)された歌碑。
写真BK: 「建碑の辞」
この地は天保元年ごろ藩主 島津 公より番所役人 岩本平左衛門が拝領。 以来笑助を経(へ)て、右一に至(いた)る。 紙屋地区老人クラブは岩本右一氏の協力により史跡を永遠に伝えんと紙屋関所跡の碑を明治百年記念事業の一つとして建立するものである。
昭和46年9月吉日
と書かれています。
写真BL: 「建碑の辞」
この地は天保元年ごろ藩主 島津 公より番所役人 岩本平左衛門が拝領。 以来笑助を経(へ)て、右一に至(いた)る。 紙屋地区老人クラブは岩本右一氏の協力により史跡を永遠に伝えんと紙屋関所跡の碑を明治百年記念事業の一つとして建立するものである。
昭和46年9月吉日
と書かれています。
写真BM: 「建碑の辞」
この地は天保元年ごろ藩主 島津 公より番所役人 岩本平左衛門が拝領。 以来笑助を経(へ)て、右一に至(いた)る。 紙屋地区老人クラブは岩本右一氏の協力により史跡を永遠に伝えんと紙屋関所跡の碑を明治百年記念事業の一つとして建立するものである。
昭和46年9月吉日
と書かれています。
写真BN: 「建碑の辞」
この地は天保元年ごろ藩主 島津 公より番所役人 岩本平左衛門が拝領。 以来笑助を経(へ)て、右一に至(いた)る。 紙屋地区老人クラブは岩本右一氏の協力により史跡を永遠に伝えんと紙屋関所跡の碑を明治百年記念事業の一つとして建立するものである。
昭和46年9月吉日
と書かれています。
写真BO: 見えている花はアジサイです。
写真BP: この辺(あた)り一帯に紙屋関所がありました。
写真BQ: この辺(あた)り一帯に紙屋関所がありました。
写真BR: この辺(あた)り一帯に紙屋関所がありました。
写真BS: この辺(あた)り一帯に紙屋関所がありました。
写真BT: 奥は紙屋小学校のプールです。
写真BU: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋関所跡」です。
写真BV: 紙屋関所跡にある3つの石碑(せきひ)。 左の大きなものには「紙屋関所跡」と彫(ほ)ってあるのが見えます。 右端の歌碑の右奥にアジサイの花が見えます。 奥は竹林になっています。
紙屋関所跡は宮崎県 小林市 野尻町 大字紙屋 字旧町にあります。
薩摩藩の陸地番所は、薩州出水野間之原 、薩州大口小河内、日州加久藤榎田村、日州野尻紙屋村、日州高岡去川村、 日州都城梶山、日州都城寺柱村、 日州志布志八郎ケ野、日州志布志夏井村
の9箇所です。 日州とは日向のことです。
写真BW: 右上に「紙屋関所跡」の石碑があります。
写真BX: 右の門は紙屋中学校、左は紙屋関所跡、手前に行くと国道289号線があります。
写真BY: 紙屋関所の近く。
写真BZ: この竹林のところに紙屋関所がありました。
写真CA: この竹林のところに紙屋関所がありました。
写真CB: この右手に紙屋関所がありました。 この後、この道を先に上っていきました。
写真CC: 左手に紙屋小学校があります。
写真CD: この小さな山越えの道を昔の旅人は通ったのでしょう。 右は紙屋小学校の入り口(裏門)。 紙屋関所跡から来て振り返ったもの。
写真CE: 「紙屋にある田の神」。 低い山を越えて田んぼを見晴らすところに「田の神(田の神さあ、たのかんさあ)」の石像がありました。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。
写真CF: 「紙屋にある田の神」。 低い山を越えて田んぼを見晴らすところに「田の神(田の神さあ、たのかんさあ)」の石像がありました。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。
写真CG: 「田の神」のそばに「米川内耕地整理記念碑」があります。 木の後ろに田の神の祠(ほこら)が見えます。
写真CH: この坂道を手前に来ました。 左に田の神と石碑が見えます。
写真CI: 手前のガードレールのところに秋社川の支流があります。 車の左の坂道を通ってきました。 この坂道の先に紙屋関所跡があります。 左に田んぼが見えます。
写真CJ: 紙屋の中心部です。 紙屋郵便局、バス停「紙屋」、電気店、右に薬店も見えます。 国道268号線は先が小林に、手前側が紙屋関所入り口、宮崎に行きます。
写真CK: 紙屋の中心部です。 紙屋郵便局、バス停「紙屋」、電気店、右に薬店も見えます。 国道268号線は先が小林に、手前側が紙屋関所入り口、宮崎に行きます。
写真CL: 紙屋郵便局の建物、バス停「紙屋」が見えます。
写真CM: バス停「紙屋」にあるバス時刻表。
写真CN: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋郵便局」。 国道268号線沿(ぞ)いにあります。
写真CO: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋郵便局」。 国道268号線沿(ぞ)いにあります。
写真CP: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋郵便局」。
写真CQ: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋郵便局」。
写真CR: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋郵便局」。 公衆電話、赤いポストも見えます。 奥に電気店の看板(かんばん)が見えます。
写真CS: 宮崎県 小林市 野尻町にある「紙屋郵便局」。 公衆電話、赤いポストも見えます。 奥に電気店の看板(かんばん)、右に薬店が見えます。 国道268号線。
写真CT: 紙屋郵便局からの様子(ようす)。 国道268号線。
写真CU: 左は紙屋郵便局の公衆電話ボックス。 国道268号線。
写真CV: 紙屋郵便局の東隣りの様子。
写真CW: 紙屋郵便局の近く。 国道268号線。
写真CX: 紙屋郵便局から。 国道268号線。
写真CY: 紙屋郵便局から。 国道268号線。
写真CZ: 中央奥に赤い「JAガソリンスタンド(紙屋店)」が見えています。 そのそばにJAがあります。 国道268号線。 先は紙屋関所入り口、宮崎に、手前側は小林に行きます。
写真DA: 「小林市紙屋」と書いた道路標識があります。
写真DB: 紙屋郵便局からさらに国道268号線を西に進みます。 野尻湖を過ぎて少し行くと左に「プリエールこばやし」野尻斎場があります。 この少し東に「東麓 石窟仏(ひがしふもと せっくつぶつ)」があります。
ここは宮崎県 小林市 野尻町です。
写真DC: 国道268号線。 小林方向(西方向)を見たもの。 ここは宮崎県 小林市 野尻町です。
写真DD: 国道268号線。 ミラーの右側の縦長の看板(かんばん)が「東麓 石窟仏(ひがしふもと せっくつぶつ)」の入り口です。 宮崎方向(東方向)を見たもの。
写真DE: 「県指定史跡 東麓石窟仏 小林市 教育委員会」と書いてある看板が国道268号線の南側にあります。
ここは宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字崎園です。
写真DF: 「県指定史跡 東麓石窟仏 小林市 教育委員会」と書いてある看板が国道268号線の南側にあります。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
写真DG: 「県指定史跡 東麓石窟仏 小林市 教育委員会」と書いてある看板が国道268号線の南側にあります。
ここは宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字崎園です。
写真DH: 「県指定史跡 東麓石窟仏 小林市 教育委員会」と書いてある看板と「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
写真DI: 「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
と書かれています。
写真DJ: 「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
と書かれています。
写真DK: 「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
と書かれています。
写真DL: 「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
と書かれています。
写真DM: 「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
と書かれています。
写真DN: 「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
と書かれています。
写真DO: 「県指定文化財 東麓石窟仏(薬師磨崖仏(やくしまがいぶつ)」の説明板。
(場所、形状)道路の下15メートル先)
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
と書かれています。
写真DP: この説明板の左にある階段を下って行くと「東麓 石窟仏(せっくつぶつ)」があります。
ここは宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字崎園です。
写真DQ: 下方に東麓石窟仏の山門の屋根が見えています。 階段には手すりが付いています。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
写真DR: 下方に東麓石窟仏の山門の屋根が見えています。 階段には手すりが付いています。
国道268号線の真下に東麓石窟仏はあります。 そのための通路が国道の土手に造ってあります。
写真DS: 下方に東麓石窟仏の山門の屋根が見えています。
国道268号線の真下に東麓石窟仏はあります。 そのための通路が国道の土手に造ってあります。
写真DT: 階段には手すりが付いています。
写真DU: この屋根付き山門を左に進みます。
国道268号線の真下に東麓石窟仏はあります。 そのための通路が国道の土手に造ってあります。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
写真DV: 国道268号線の真下に東麓石窟仏はあります。 そのための通路が国道の土手に造ってあります。
写真DW: これが宮崎県 小林市 野尻町にある東麓石窟仏の山門です。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
写真DX: 宮崎県 小林市 野尻町にある東麓石窟仏の上は国道が通っています。
写真DY: 国道の下のトンネルの突き当たりに東麓石窟仏があります。 右に水道、説明板も見えます。
ここは宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字崎園です。
写真DZ: 国道268号線の下に新しいトンネルが掘(ほ)ってあり、その突き当たりに「東麓石窟仏(ひがしふもと せっくつぶつ)」があります。
もともとあった石窟仏の上に国道が造られたものです。
東麓石窟仏は以前は国道の北側の下にあったそうですが、道路拡張で今は国道の真下になっています。
写真EA: 宮崎県 小林市 野尻町にある石窟仏の上を国道が通っています。
写真EB: 山門の内側から国道の土手が見えます。
写真EC: 内側から見た山門。
ここは宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字崎園です。
写真ED: 山門の左手の様子(ようす)。
写真EE: 山門の左にも国道の土手が見えます。
写真EF: 宮崎県 小林市 野尻町にある東麓石窟仏の周(まわ)りの景色です。 竹林も見えています。
写真EG: 宮崎県 小林市 野尻町にある東麓石窟仏の周(まわ)りの景色。
写真EH: 国道268号線の下のトンネルです。 奥の暗い四角の穴の中に「東麓石窟仏」があります。
このトンネルは国道を作るときに東麓石窟仏のために建造されたものです。
椅子(いす)、机なども見えています。
ここは宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字崎園です。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
東麓石窟仏は以前は国道の北側の下にあったそうですが、道路拡張で今は国道の真下になっています。
写真EI: 説明板と水道があります。
写真EJ: 「県指定史跡 東麓石窟仏」の説明板。
昭和32年12月15日 指定
ほぼ円形をした高さ138.5 センチ、横幅185 センチ、奥行き166 センチの石窟内岸壁に薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)、日光・月光菩薩(高さ42.5 センチ)、眷族(けんぞく、つき従うもの)の十二神将(高さ39〜44 センチ)を高浮き彫りにしたこの磨崖仏(まがいぶつ)は、町内では「岩ん堂薬師さま」と呼ばれ、病気の平癒(へいゆ)を願う人々が今もあとを絶えない。
この石窟仏の制作年代は明確ではないが、薬師如来の頭部や薬つぼを持つ像から、鎌倉時代のものと推定されている。
平成11年12月17日 小林市教育委員会
写真EK: 「県指定史跡 東麓石窟仏」の説明板。
昭和32年12月15日 指定
ほぼ円形をした高さ138.5 センチ、横幅185 センチ、奥行き166 センチの石窟内岸壁に薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)、日光・月光菩薩(高さ42.5 センチ)、眷族(けんぞく、つき従うもの)の十二神将(高さ39〜44 センチ)を高浮き彫りにしたこの磨崖仏(まがいぶつ)は、町内では「岩ん堂薬師さま」と呼ばれ、病気の平癒(へいゆ)を願う人々が今もあとを絶えない。
この石窟仏の制作年代は明確ではないが、薬師如来の頭部や薬つぼを持つ像から、鎌倉時代のものと推定されている。
平成11年12月17日 小林市教育委員会
写真EL: 「県指定史跡 東麓石窟仏」の説明板。
昭和32年12月15日 指定
ほぼ円形をした高さ138.5 センチ、横幅185 センチ、奥行き166 センチの石窟内岸壁に薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)、日光・月光菩薩(高さ42.5 センチ)、眷族(けんぞく、つき従うもの)の十二神将(高さ39〜44 センチ)を高浮き彫りにしたこの磨崖仏(まがいぶつ)は、町内では「岩ん堂薬師さま」と呼ばれ、病気の平癒(へいゆ)を願う人々が今もあとを絶えない。
この石窟仏の制作年代は明確ではないが、薬師如来の頭部や薬つぼを持つ像から、鎌倉時代のものと推定されている。
平成11年12月17日 小林市教育委員会
写真EM: ここは国道268号線の下のトンネルです。 奥の四角の暗い穴の中に「東麓石窟仏」があります。
写真EN: ここは国道268号線の下のトンネルです。 奥の四角の暗い穴の中に「東麓石窟仏」があります。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
東麓石窟仏は以前は国道の北側の下にあったそうですが、道路拡張で今は国道の真下になっています。
写真EO: これが宮崎県 小林市 野尻町にある「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」です。
中央に大きな薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)があります。 その右が日光菩薩、左が月光菩薩です。 その外側の片側6人は神将(計12人)です。
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
写真EP: 「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」です。
中央に大きな薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)があります。 その右が日光菩薩、左が月光菩薩です。 その外側の片側6人は神将(計12人)です。
右手前に縦の溝(みぞ)があります。 昔は扉(とびら)があったものと思われます。
写真EQ: 「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」です。
中央に大きな薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)があります。 その右が日光菩薩、左が月光菩薩です。 その外側の片側6人は神将(計12人)です。
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
写真ER: 宮崎県 小林市 野尻町にある「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」です。
中央に大きな薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)があります。 その右が日光菩薩、左が月光菩薩です。 その外側の片側6人は神将(計12人)です。
写真ES: 「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」です。
中央に大きな薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)があります。 その右が日光菩薩、左が月光菩薩です。 その外側の片側6人は神将(計12人)です。
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
写真ET: 「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」です。 その右の部分です。
右の部分に縦(たて)に溝(みぞ)があります。 昔は扉(とびら)があったものと思われます。
中央に大きな薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)があります。 その右が日光菩薩、左が月光菩薩です。 その外側の片側6人は神将(計12人)です。
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
写真EU: 左手の石像。
写真AV: 右手の石像。 右端は石像の周(まわ)りに枠(わく)があります。
写真EW: 宮崎県 小林市 野尻町にある「東麓石窟仏(ひがしふもとせっくつぶつ)」です。
お花が供(そな)えてありました。 ロウソクも見えます。 右にお賽銭箱(さいせんばこ)があります。 左端にも仏像があります。
中央に大きな薬師如来(やくしにょらい、高さ63.2 センチ)があります。 その右が日光菩薩、左が月光菩薩です。 その外側の片側6人は神将(計12人)です。
岩窟(がんくつ)の高さ 138.5 センチ、幅 184 センチ、奥行 166 センチ
仏像の高さ
薬師如来(やくしにょらい) 63.2 センチ、両脇侍 42.5 センチ、12神将 39.44 センチ
(薬師三尊)
岩窟中央の薬師如来は衲衣(のうえ、僧衣)をつけ、両手を重ねて薬つぼを持ち、蓮花(はすの花)の台座にすわっている。
その左右に日光菩薩、月光菩薩が半裸に条帛(じょうはく)をかけ、それぞれの手に日輪と月輪を持って立っている。
(十二神将)
薬師三尊の左右にそれぞれ6体ずつ12神将が配されており、頭は焔髪(ふんはつ、髪がさかだっている)と甲(かぶと)をつけ仏がよろいをつけ、手にはそれぞれ太刀(たち)、弓矢、鉾(ほこ)、斧(おの)などを持って立っている。
(制作)
制作年代は不明だが、中尊の頭や薬つぼを持つ僧の姿から鎌倉時代後期のものと思われる。
(特色)
薬師三尊と十二神将を合祭した仏像は石造りではめずらしく、しかも仏像制作当初の姿をほとんどそのまま今日に伝えていることは、たいへん価値のあるものである。
大分県下には石仏が多く見られるが、宮崎県下に石仏のある所は稀(まれ)である。 この薬師三尊と十二神将はともに病気や災難を救う仏として祭られたものであり、当時の文化的意義としてたいへん高いものである。
昭和32年12月15日に県文化財として指定を受けた。
東京国立博物館学芸部長 倉田文作 氏と
文化庁美術工芸課文化財調査官 田辺三郎助 氏 鑑定
小林市教育委員会
写真EX: 国道の下のトンネルの上部。
空気穴と思われるものが天井に2つ付いています。 仏像付近の湿度を下げるためでしょう。
写真EY: 「東麓石窟仏」にお花が供(そな)えてあります。 ロウソクなども見えます。
写真EZ: お賽銭箱(さいせんばこ)があります。
写真FA: 正面の左手に仏像があります。
写真FB: 上の仏像のそばに、この仏像もあります。 正面に向かって左手にあります。
写真FC: 内部からトンネルの外を見たもの。
写真FD: 宮崎県 小林市 野尻町にある「東麓石窟仏」。
東麓石窟仏は以前は国道の北側の下にあったそうですが、道路拡張で今は国道の真下になっています。
写真FE: 東麓石窟仏のそばです。
写真FF: 東麓石窟仏。
東麓石窟仏は以前は国道の北側の下にあったそうですが、道路拡張で今は国道の真下になっています。
写真FG: 机は記帳台です。 椅子(いす)などもあります。
写真FH: 机は記帳台です。 椅子(いす)などもあります。
写真FI: トンネルの入口から外を見た景色です。
写真FJ: トンネルの入口から外を見た景色。
写真FK: トンネルの入口から外を見た景色です。
写真FL: トンネルの入口から外を見た景色。
写真FM: 記帳台の上。
写真FN: 東麓石窟仏に降りる階段が見えます。
手前の切り株(かぶ)にきのこのサルノコシカケが見えています。
写真FO: サルノコシカケが生(は)えています。
写真FP: 切り株(かぶ)にきのこのサルノコシカケが見えます。
写真FQ: 帰り道、振り返ったもの。
写真FR: 降りてきた階段を今度は上がって帰ります。
写真FS: 国道にある看板(かんばん)が見えてきました。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
写真FT: 国道268号線が見えてきました。
写真FU: 国道268号線。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
写真FV: 国道268号線。 先は宮崎方面。 この真下に「東麓石窟仏」があります。
東麓石窟仏は野尻湖の国道268号線の「野尻大橋」の西約1.3 kmにあります。
国道の軽自動車の左に、少数の車が置ける「駐車場」があります。
写真FW: 国道268号線。 先は小林方面。
写真FX: 「危ない!! ダムの貯水放流による 水位の上昇下降に注意」と書いた看板(かんばん)があります。
写真FY: 左は「プリエールこばやし」野尻斎場です。 車道は国道268号線。
写真FZ: 宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字本町 1162-1に都城で起こった庄内の乱の「伊集院忠真」の墓があります。
「野尻郵便局」の向かい側に宮崎銀行があります。 宮崎銀行の少し東に「伊集院忠眞」の供養塔があります。
左は宮崎銀行です。
国道268号線の北側に伊集院忠真の墓があります。
写真GA: 赤い祠(ほこら)が見えます。 これが都城で起こった庄内の乱の伊集院源次郎忠眞の供養塔です。
写真GB: 宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字本町 1162-1に都城で起こった庄内の乱の「伊集院源次郎忠真」の墓(五輪塔)があります。
「野尻郵便局」の向かい側に宮崎銀行があります。 宮崎銀行の少し東に「伊集院忠眞」の供養塔があります。
写真GC: 宮崎県 小林市 野尻町に都城で起こった庄内の乱の「伊集院源次郎忠真」の墓(五輪塔)があります。
「野尻郵便局」の向かい側に宮崎銀行があります。 宮崎銀行の少し東に「伊集院忠眞」の供養塔があります。
写真GD: 「市指定 伊集院源次郎忠眞の供養塔」。 石灯籠(いしどうろう)もあります。
写真GE: 「市指定 伊集院源次郎忠眞の供養塔」。 石灯籠(いしどうろう)もあります。
写真GF: 右は国道268号線で、先に東麓石窟仏、紙屋関所跡、宮崎などに行きます。
写真GG: 国道268号線の北側にある「市指定 伊集院源次郎忠眞の供養塔」。
写真GH: 大きなクスノキがあります。
写真GI: 「市指定 伊集院源次郎忠眞の供養塔」。 五輪塔です。
写真GJ: 「市指定 伊集院源次郎忠眞の供養塔」。 五輪塔です。
写真GK: 左は射撃した押川治右衛門の墓、右は誤射された平田新四郎(島津家老の子)の墓。
押川治右衛門は穆佐(むかさ、今の高岡町)の士です。 島津忠恒(家久)から忠眞射殺の命を受けた押川治右衛門は平田新四郎を誤射しました。
伊集院源次郎忠眞と平田新四郎はそのとき馬を交換していました。
写真GL: 「市指定 伊集院源次郎忠眞の供養塔 野尻町商工会」と書いてある標識棒があります。
写真GM: 花が供(そな)えてありました。
写真GN: 境内(けいだい)に「野尻町の田の神(さあ、たのかんさあ)」があります。 神官型の田の神のようです。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。
写真GO: 境内(けいだい)に「野尻町の田の神(さあ、たのかんさあ)」があります。 神官型の田の神のようです。
「田の神さあ」の石像は江戸時代からあります。 冬は山の神になり、春には里に降りてきて田の神となり、田を守り、豊作をもたらすと言われています。 田の神石像ができた頃は、霧島の噴火、天災などで農家には厳しい時代でした。 「田の神」信仰は全国的なものですが、石像は薩摩藩独特の文化だそうです。 石像には自然石、地蔵型、神官型、農民型の4つの型があります。 最古の田の神さあは鹿児島県鶴田町紫尾にある地蔵型(1705年)のものです。 島津藩の一向宗禁止のためか、地蔵型は数が少ないそうです。
写真GP: 「伊集院源次郎忠眞の供養塔」の説明板。
昭和56年9月18日 指定文化財
忠眞は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。
文禄4年(1595年)、伊集院忠棟は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠眞はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。
翌年、戦いが不利となった伊集院忠眞は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。
慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠眞にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中にこの野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠眞 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。
この事件で忠眞射殺の命(めい)を受けた穆佐(むかさ、今の高岡町)の士、押川治右衛門と渕脇平馬は、伊集院忠眞と馬を交換して乗っていた平田新四郎(島津氏家老の子)を忠眞と思い誤射した。 押川はその責を負い、自害したという。
ここにある供養塔(五輪塔)は、非業の死を遂(と)げた伊集院忠眞の慰霊のため建立したものである。
また、五輪塔に向かって右側の近いほうが(射撃した)押川治右衛門、その隣が(誤射された)平田新四郎(島津氏家老の子)の供養塔で、事件の翌年、押川則貞が施主(せしゅ)となり建立したものである。 なお敷地内後方に並ぶ石碑(せきひ)は、伊集院忠眞の家臣の墓石と考えられ、野尻城址(じょうし)に散在していたものを、平成21年、この地に移したものである。
平成21年12月
小林市教育委員会
と書かれています。
写真GQ: 「伊集院源次郎忠眞の供養塔」の説明板。
昭和56年9月18日 指定文化財
忠眞は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。
文禄4年(1595年)、伊集院忠棟は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠眞はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。
翌年、戦いが不利となった伊集院忠眞は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。
慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠眞にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中にこの野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠眞 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。
この事件で忠眞射殺の命(めい)を受けた穆佐(むかさ、今の高岡町)の士、押川治右衛門と渕脇平馬は、伊集院忠眞と馬を交換して乗っていた平田新四郎(島津氏家老の子)を忠眞と思い誤射した。 押川はその責を負い、自害したという。
ここにある供養塔(五輪塔)は、非業の死を遂(と)げた伊集院忠眞の慰霊のため建立したものである。
また、五輪塔に向かって右側の近いほうが(射撃した)押川治右衛門、その隣が(誤射された)平田新四郎(島津氏家老の子)の供養塔で、事件の翌年、押川則貞が施主(せしゅ)となり建立したものである。 なお敷地内後方に並ぶ石碑(せきひ)は、伊集院忠眞の家臣の墓石と考えられ、野尻城址(じょうし)に散在していたものを、平成21年、この地に移したものである。
平成21年12月
小林市教育委員会
と書かれています。
写真GR: 「伊集院源次郎忠眞の供養塔」の説明板。
昭和56年9月18日 指定文化財
忠眞は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。
文禄4年(1595年)、伊集院忠棟は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠眞はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。
翌年、戦いが不利となった伊集院忠眞は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。
慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠眞にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中にこの野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠眞 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。
この事件で忠眞射殺の命(めい)を受けた穆佐(むかさ、今の高岡町)の士、押川治右衛門と渕脇平馬は、伊集院忠眞と馬を交換して乗っていた平田新四郎(島津氏家老の子)を忠眞と思い誤射した。 押川はその責を負い、自害したという。
ここにある供養塔(五輪塔)は、非業の死を遂(と)げた伊集院忠眞の慰霊のため建立したものである。
また、五輪塔に向かって右側の近いほうが(射撃した)押川治右衛門、その隣が(誤射された)平田新四郎(島津氏家老の子)の供養塔で、事件の翌年、押川則貞が施主(せしゅ)となり建立したものである。 なお敷地内後方に並ぶ石碑(せきひ)は、伊集院忠眞の家臣の墓石と考えられ、野尻城址(じょうし)に散在していたものを、平成21年、この地に移したものである。
平成21年12月
小林市教育委員会
と書かれています。
写真GS: 御手洗(みたらい)、石灯籠(いしどうろう)、右は伊集院忠眞の供養塔。 国道の向こうに電気店の看板(かんばん)も見えます。
写真GT: 左は射撃した押川治右衛門の墓、右は誤射された平田新四郎(島津家老の子)の墓。
押川治右衛門は穆佐(むかさ、今の高岡町)の士です。 島津忠恒(家久)から忠眞射殺の命を受けた押川治右衛門は平田新四郎を誤射しました。
伊集院源次郎忠眞と平田新四郎はそのとき馬を交換していました。
写真GU: 押川治右衛門の墓
押川治右衛門は穆佐(むかさ、今の高岡町)の士です。 島津忠恒(家久)から伊集院忠眞射殺の命を受けた押川治右衛門は平田新四郎を誤射しました。
伊集院源次郎忠眞と平田新四郎はそのとき馬を交換していました。
写真GV: 平田新四郎(島津家老の子)の墓。
押川治右衛門は穆佐(むかさ、今の高岡町)の士です。 島津忠恒から忠眞射殺の命を受けた押川治右衛門は平田新四郎を誤射しました。
伊集院源次郎忠眞と平田新四郎はそのとき馬を交換していました。
写真GW: 伊集院忠眞の墓の敷地内後方に並ぶ石碑(せきひ)は、伊集院忠眞の家臣の墓石と考えられ、野尻城址(じょうし)に散在していたものを、平成21年、この地に移したものです。
写真GX: 伊集院忠眞の墓の敷地内後方に並ぶ石碑(せきひ)は、伊集院忠眞の家臣の墓石と考えられ、野尻城址(じょうし)に散在していたものを、平成21年、この地に移したものです。
写真GY: 中央の電柱の左の建物は野尻郵便局です。 右に縦長の宮崎銀行の看板(かんばん)も見えます。 左端に電気店の看板も見えます。
車道は国道268号線。
写真GZ: 右端の屋根が田の神のもの、標識、伊集院忠眞の墓、射撃した押川治右衛門の墓、誤射された平田新四郎(島津家老の子)の墓、説明板、石灯籠(いしどうろう)、御手洗(みたらい)などが見えます。
写真HA: 奥は楠(くすのき)の木、説明板、左は田の神の屋根。
写真HB: 東隣りの様子(ようす)。
写真HC: 宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字本町 1162-1にある伊集院忠眞の墓の東側の景色。
写真HD: 野尻町の伊集院忠眞の墓の西の様子(ようす)。 電柱の左は野尻郵便局、右に宮崎銀行も見えます。 車道は国道268号線。
写真HE: 宮崎県 小林市 野尻町にある都城の「庄内の乱」で知られる伊集院忠眞の墓。
写真HF: 左は押川治右衛門の墓、右は平田新四郎(島津家老の子)の墓。
押川治右衛門は穆佐(むかさ、今の高岡町)の士です。 島津忠恒(家久)から伊集院忠眞射殺の命を受けた押川治右衛門は平田新四郎を誤射しました。
伊集院源次郎忠眞と平田新四郎はそのとき馬を交換していました。
「市指定 伊集院源次郎忠眞の供養塔 野尻町商工会」と書いてある標識棒、説明板なども見えます。
写真HG: 国道268号線ぞいにあります。
写真HH: 伊集院源次郎忠眞の供養塔の東の様子(ようす)。
写真HI: 小林市 野尻町にある伊集院源次郎忠眞の墓の近く。
写真HJ: 野尻町にある伊集院源次郎忠眞の墓の近く。
写真HK: 野尻町にある伊集院源次郎忠眞の墓の近く。
写真HL: 野尻町の伊集院忠眞の墓の西の様子(ようす)。 電柱の左は野尻郵便局、右に宮崎銀行、左端に電気店も見えます。 車道は国道268号線。
写真HM: 野尻町にある都城で起こった庄内の乱の「伊集院忠眞の供養塔」。
写真HN: オシロイバナの花が咲いていました。
写真HO: 都城の庄内の乱の「伊集院忠眞の供養塔」の西隣りはガソリンスタンド跡です。
写真HP: 敷地内の大きなクスノキが目立ちます。 都城の庄内の乱の「伊集院忠眞の供養塔」の西隣りはガソリンスタンド跡です。
写真HQ: このホームページを作成している頃に車(トヨタ社のコロナ AT170)が走行距離 25万キロ(250000キロ)になりました。
新車から19年3ヶ月になります。
いつも出かけるときはこのコロナです。 長く乗っていると愛着が増加します。 今の車は長く乗ることができますね。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)