石井十次、石井記念友愛社、石井十次の墓 (石井十次 資料館、児童福祉の父、日本最初の孤児院創設者、茶臼原の開墾、社会福祉法人 石井記念友愛社 (児童養護施設、保育園)、友愛社を支える会、友愛社を支える会事務所、静養館、大原館、石井記念のゆり保育園、宮田川、茶臼原(ちゃうすばる)、九州山地の展望、茶臼原古墳、茶臼原小学校)  (宮崎県 児湯郡 木城町 椎木、西都市 穂北)







<標高、位置>  石井十次 資料館は
標高 約100 m
 北緯32度08分33秒  東経131度26分52秒

<標高、位置>  石井十次の墓は
標高 約120 m
 北緯32度08分13秒  東経131度26分18秒

<標高、位置>  西都市立 茶臼原小学校(ちゃうすばるしょうがっこう)は
標高 約120 m
 北緯32度08分07秒  東経131度26分23秒

<標高、位置>  茶臼原古墳群(ちゃうすばるこふんぐん)の児屋根塚古墳は
標高 約130 m
 北緯32度07分55秒  東経131度26分01秒


  石井十次は慶応元年4月11日(1865年5月5日)に宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 日本で最初に孤児院を創設しました。 「児童福祉の父」と言われます。 石井十次は岡山で医師を目指していましたが中断して、日本最初の孤児院 岡山孤児院を創設しました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました。 岡山孤児院は今はありませんが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継いています。 1990年に石井十次顕彰会(宮崎県)により石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を引き継いで福祉活動をしている団体にこの賞が贈(おく)られています。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。

 石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。

 石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。

 「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。

 石井十次の孤児院は小舎制という教育方針で、保母1人に十数人の子供たちが1つの小舎(家)で家族のように生活しました。 石井十次はフランスのルソーの「エミール」の影響を受け、宮崎県 西都市あるいは木城町 茶臼原で「自然・労作」教育をやろうと決心しました。 日向茶臼原分院は大正3年 石井十次の死後は大原孫三郎、次に石井の2番目の妻 辰子(たつこ)が院長になりましたが、1926年(昭和元年)に解散しました。 石井十次は明治から大正にかけて3000人以上の孤児の救済と教育を行いました。

 石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。

 「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
1945年に石井十次の孫である児島寅一郎 氏が戦災孤児を救うために石井記念友愛社を設立し、現在も活動しています。 その後、石井十次のひ孫である児島草次郎 氏が理事長を勤(つと)めています。
 宮崎県 児湯郡 木城町にある木城温泉館「湯らら」にあった「石井十次と石井記念友愛社」の説明板から、
 石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。 慶応元年(1865年)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。 岡山孤児院を創設し、「孤児の父」と呼ばれた十次の元(もと)には、一時1200名もの子供たちが収容されたと言われます。 施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。
 やがて、フランスの思想家ルソーの「エミール」の感化を受けた十次は、木城町の南端にある茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。 ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。 その後、昭和20年に太平洋戦争 被災児救済を目的に再開。 「石井記念友愛社」が創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。 当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には人間国宝の芹沢 _介(けいすけ) 製作のステンドグラスも寄せられ、十次の偉業を伝えます。

 「静養館の由来」の説明板から、
 明治12年(1879年)、「アメリカン・ボールド」というキリスト教伝導団体が、岡山市 東山に、宣教師宿舎として3棟建てた。 この建物はその内の1軒で、当時は「ベレ(リ)ー館」と呼ばれた。 ジョン・シー・ベリー(John Cuting Berry. 1847-1930)の宿舎である。 彼は宣教医として、明治5年来日、主に神戸で活動していたが、明治12年、岡山県知事 高崎五六が、ベリーやベテー等を病院や英学校の医師・教師として招聘(しょうへい)したのである。
 しかし、同志社(明治8年創立)の新島襄の要請を受けて、同志社病院および看病婦学校の創立に参画、明治16年、岡山を離れた。 ちなみに、石井十次の2番目の妻 石井辰子(たつこ)は、看病婦学校6期生。
 明治29年、同志社の所有となっていた「ベレー館」を、石井十次は購入し、岡山孤児院内に移築、園舎や事務所などとして使用した。 名前「西洋館」と呼ばれるようになった。
 石井十次は、この茶臼原に遠大な理想を描いて、明治27年より、岡山より移住を始める。 彼のやり方は、児童・職員を運ぶだけではなく、建物も次々に解体して運ぶという破天荒なものであった。 舟で瀬戸内海から太平洋を下り、高鍋に着くと馬車に積み替え、10 キロの山道を何十回と往復し運んだ。 茶臼原原野に忽然(こつぜん)として、岡山風の瓦葺(かわらぶ)き漆喰(しっくい)の建物が立ち並ぶ。 明治末期には、ほぼ移住も完了、最後にこの「西洋館」も、移築する(大正2年)。 「西洋館」は、石井十次の最後の住まいとなり、名前も「静養館」と変えられた。 入り口に揚(あ)げられた看板(かんばん)は、心友 大原孫三郎の書である。 大正3年1月30日、石井十次は多くの人々に見守られながら、この「静養館」において息を引き取った。 その後、「静養館」は大正末期 大改修され、2階部分が取り払われて現在のような形となった。
 石井十次はなぜ建物まで運んだのか、経済的にはおそらく不利であったのに、彼は移築を断行した。 それは、建物1つ1つは、日本中の多くの支援者の善意の結晶であり、職員・子供たちの愛と涙がしみこんでいると考えたからである。 彼は経済よりも「こころ」を優先したのである。
 日本で最古の木造西洋建築と言われる長崎の「グラバー邸」は、1863年建立であるが、この「静養館」も、時代的にはそう差はない。 しかし、同じ西洋建築としてスタートしても、その後の運命はずいぶん違ったものになっている。 この「静養館」は、移築・改修のたびに、日本の文化・魂(たましい)を吹きこまれ、100年の長きに渡って、子供たちや職員たちのこころが癒(いや)され養(やしな)われてきたのである。 この「静養館」の中で座し、瞑想(めいそう)することで、100年の「こころ」の変遷を感じ取ることができる。

 「大原館」の説明板から、
 石井十次 亡き後、心友 大原孫三郎は、石井十次 墓地の隣に別荘を建てた。 2人の友情は、死をも越えた。 (第二次世界大戦の)戦後この地に移築。 平成7年(1995年)、孫三郎の孫(まご)、大原謙一郎 氏の支援により改修。
石井十次の岡山孤児院の経営は、十次は寄付金に頼(たよ)りました。 多くの人から援助を受けましたが、特に、生涯に渡って十次を助けたのは大原孫三郎でした。 (大原孫三郎が行った寄付の総額は10万円以上、今の貨幣価値で6億円以上と言われています。) 大原孫三郎は倉敷紡績の社長で、大原美術館も建てた人です。

 「石井十次の墓」の説明石碑(せきひ)から、
 我が国 孤児救済の始祖として、いばらの道を切り開きつつ、明治24年濃尾大震災による災害児43名の救済をはじめとして明治39年 東北地方の大飢饉(ききん)による孤児1200名の救済に当たり、かつ独立自治の良民を創(つく)るため教育と職業的訓練を併(あわ)せて行い、また里親制度を設(もう)けるなど数多くの偉業を成し遂(と)げ、大正3年1月30に 茶臼原(ちゃうすばる)分院に逝(い)く。 時に令49才(満48歳)。
 世界の偉人 石井十次この地に眠る。

 西都市にある茶臼原台地の「鯉(こい)のぼりを捧(ささ)げる」の説明板から、
今から約100年前、この茶臼原台地に石井十次が岡山孤児院から400余名の児童少年達と鍬(くわ)一つで広い原野を開墾(かいこん)しながら学び働きながら移り住みました。 十次は人の子が人間として自立・自活への道を授(さず)けました。 少年達は幼くして病に倒れる者もありましたが、多くは長じて立派な社会人となられました。
 石井十次墓園には十次慈愛の御生涯(しょうがい)にかかわる親族・元院児たちの墓標が今も心つながるように佇(たたず)んでおります。
 昭和20年10月 石井記念友愛社が生まれ、この福祉理念事業に多くのご厚情・無私のご奉仕・支援を賜(たまわ)りつつ今日、友愛社後援会「支える会」発足10年を迎え、茶臼原の聖なる大空に全国の皆様方から寄せられた御心こもる鯉(こい)のぼりを捧(ささ)げさせていただきます。

 西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。

 石井十次の意思を引き継いでいるのは、ここ石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)です。



写真A: 宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 中原 にあるバス停「友愛社前 町営バス」です。



写真B: 木城町 椎木 中原 にあるバス停「友愛社前 町営バス」です。 手前に行くと県道312号線との十字路があります。 右は石井記念友愛社です。



写真C: 北へ行く道があります。 この道を進みます。 石垣(いしがき)が見えます。



写真D: 「石井記念 友愛社」と書いてあります。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真E: 石井記念友愛社の建物が見えてきました。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。



写真F: 左によく知られている三階建ての木造建築があります。 これは方舟館(はこぶねかん)といわれ、岡山から移したものです。 3階部分の鐘楼「アンジェラスの鐘」は、石井十次の死後、政治家 星島二郎 氏の募金活動によって作られ、朝夕の時を知らせ続けました。
石井記念友愛社。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
 石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。



写真G: 「我等もし其(そ)の見ぬ・・・」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真H: 3階建ての木造建築とその下にある石碑(せきひ)です。 これは方舟館(はこぶねかん)といわれ、岡山から移したものです。 3階部分の鐘楼「アンジェラスの鐘」は、石井十次の死後、政治家 星島二郎 氏の募金活動によって作られ、朝夕の時を知らせ続けました。 石井記念友愛社。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。



写真I: 3階建ての木造建築です。 これは方舟館(はこぶねかん)といわれ、岡山から移したものです。 3階部分の鐘楼「アンジェラスの鐘」は、石井十次の死後、政治家 星島二郎 氏の募金活動によって作られ、朝夕の時を知らせ続けました。 石井記念友愛社。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。



写真J: 方舟館(3階建ての木造建築)です。 「友愛社を支える会 事務所」の表札(ひょうさつ)があります。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真K: 方舟館(はこぶねかん)、「友愛社を支える会 事務所」の中です。 「上阿知出張診療所」の看板(かんばん)が2階への階段のそばに置いてあります。



写真L: 木城町にある石井記念友愛社の建物、庭です。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。



写真M: 建物があります。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真N: 石井記念友愛社の「友愛社を支える会 事務所」の建物です。 方舟館(はこぶねかん)。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。



写真O: 石井記念友愛社の「友愛社を支える会 事務所」の建物。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。



写真P: 宮崎県 木城町にある石井記念友愛社にて。



写真Q: 木城町にある石井記念友愛社。



写真R: 色鮮(あざ)やかなステンドグラスに合掌(がっしょう)している人の絵があります。 ステンドグラスは色ガラスを使ったり色を塗(ぬ)ったりして、模様や絵を表した板ガラスのことです。 教会堂などの窓ガラスなどに用いています。 額(がく)に入った毛筆で書かれたもの、人の顔の像などがあります。
このステンドグラスは石井十次と児童たちがモチーフになっています。 人間国宝 芹沢 _介(けいすけ)の作です。
「石井十次 資料館」です。
昭和54年に建てられました。 十次の日記、関係資料が約2000点、芹沢 _介(けいすけ) 作のステンドグラスなどが中にあります。 ステンドグラスには、キリスト教を信仰した十次と児童たちが描かれています。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。



写真S: 色鮮(あざ)やかなステンドグラスに合掌(がっしょう)している人の絵があります。 ステンドグラスは色ガラスを使ったり色を塗(ぬ)ったりして、模様や絵を表した板ガラスのことです。 教会堂などの窓ガラスなどに用いています。 額(がく)に入った毛筆で書かれたもの、人の顔の像などがあります。
「石井十次 資料館」です。
昭和54年に建てられました。 十次の日記、関係資料が約2000点、芹沢 _介(けいすけ) 作のステンドグラスなどが中にあります。 ステンドグラスには、キリスト教を信仰した十次と児童たちが描かれています。



写真T: 石井十次と子供2人の像があります。 後ろ上に「大胆中在妙法」と書かれています。
「石井十次 資料館」です。
昭和54年に建てられました。 十次の日記、関係資料が約2000点、芹沢 _介 作のステンドグラスなどが中にあります。 ステンドグラスには、キリスト教を信仰した十次が描かれています。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。




写真U: 石井十次と子供2人の像があります。 後ろ上に「大胆中在妙法」と書かれています。 左に額(がく)に入った毛筆で書かれたもの、人の顔の像などがあります。
「石井十次 資料館」です。
昭和54年に建てられました。 十次の日記、関係資料が約2000点、芹沢 _介(けいすけ) 作のステンドグラスなどが中にあります。 ステンドグラスには、キリスト教を信仰した十次が描かれています。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。



写真V: 「ボランティアの先駆者 石井十次」の文字と坊主頭で紋付(もんつき)を着た石井十次の大きな写真があります。 手前に折りたたみ椅子(いす)もあります。
「石井十次 資料館」です。
昭和54年に建てられました。 十次の日記、関係資料が約2000点、芹沢 _介 作のステンドグラスなどが中にあります。 ステンドグラスには、キリスト教を信仰した十次が描かれています。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。



写真W: 父と母と思われる写真、毛筆で「石井十次」と書かれたもの、「石井十次のロマン」という表題の説明板、小型の石井十次と子供2人の像、本などが展示されています。
下方に「天倉」と書いた木板があります。 これは十次の茶臼原憲法に書いてある天倉です。
「石井十次 資料館」です。
昭和54年に建てられました。 十次の日記、関係資料が約2000点、芹沢 _介 作のステンドグラスなどが中にあります。 ステンドグラスには、キリスト教を信仰した十次が描かれています。



写真X: 石井記念友愛社の屋根付きの門です。 白壁もあります。 後ろに3階建て木造建築も見えます。 左の木はイチョウのようです。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。



写真Y: 宮崎県 木城町にある「石井十次 資料館」です。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
昭和54年に建てられました。 十次の日記、関係資料が約2000点、芹沢 _介 作のステンドグラスなどが中にあります。 ステンドグラスには、キリスト教を信仰した十次が描かれています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真Z: 石井記念友愛社の3階建て木造建築です。 方舟館(はこぶねかん)です。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。



写真AA: 石井記念友愛社の建物です。 中にいろんなものが展示されています。 左に白壁もあります。



写真AB: 周(まわ)りの様子(ようす)です。



写真AC: 石井記念友愛社。 大きな建物があります。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。



写真AD: 中央下に「敬天愛人」と書かれたものが見えます。



写真AE: 石井記念友愛社にある「静養館」です。
石井十次が晩年を過ごした静養館です。 日本最古の長崎県にある木造西洋建築グラバー邸建設の16年後に建てられました。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。



写真AF: 「静養館の由来」の説明板から、
 明治12年(1879年)、「アメリカン・ボールド」というキリスト教伝導団体が、岡山市 東山に、宣教師宿舎として3棟建てた。 この建物はその内の1軒で、当時は「ベレ(リ)ー館」と呼ばれた。 ジョン・シー・ベリー(John Cuting Berry. 1847-1930)の宿舎である。 彼は宣教医として、明治5年来日、主に神戸で活動していたが、明治12年、岡山県知事 高崎五六が、ベリーやベテー等を病院や英学校の医師・教師として招聘(しょうへい)したのである。
 しかし、同志社(明治8年創立)の新島襄の要請を受けて、同志社病院および看病婦学校の創立に参画、明治16年、岡山を離れた。 ちなみに、石井十次の2番目の妻 石井辰子(たつこ)は、看病婦学校6期生。
 明治29年、同志社の所有となっていた「ベレー館」を、石井十次は購入し、岡山孤児院内に移築、園舎や事務所などとして使用した。 名前「西洋館」と呼ばれるようになった。
 石井十次は、この茶臼原に遠大な理想を描いて、明治27年より、岡山より移住を始める。 彼のやり方は、児童・職員を運ぶだけではなく、建物も次々に解体して運ぶという破天荒なものであった。 舟で瀬戸内海から太平洋を下り、高鍋に着くと馬車に積み替え、10 キロの山道を何十回と往復し運んだ。 茶臼原原野に忽然(こつぜん)として、岡山風の瓦葺(かわらぶ)き漆喰(しっくい)の建物が立ち並ぶ。 明治末期には、ほぼ移住も完了、最後にこの「西洋館」も、移築する(大正2年)。 「西洋館」は、石井十次の最後の住まいとなり、名前も「静養館」と変えられた。 入り口に揚(あ)げられた看板(かんばん)は、心友 大原孫三郎の書である。 大正3年1月30日、石井十次は多くの人々に見守られながら、この「静養館」において息を引き取った。 その後、「静養館」は大正末期 大改修され、2階部分が取り払われて現在のような形となった。
 石井十次はなぜ建物まで運んだのか、経済的にはおそらく不利であったのに、彼は移築を断行した。 それは、建物1つ1つは、日本中の多くの支援者の善意の結晶であり、職員・子供たちの愛と涙がしみこんでいると考えたからである。 彼は経済よりも「こころ」を優先したのである。
 日本で最古の木造西洋建築と言われる長崎の「グラバー邸」は、1863年建立であるが、この「静養館」も、時代的にはそう差はない。 しかし、同じ西洋建築としてスタートしても、その後の運命はずいぶん違ったものになっている。 この「静養館」は、移築・改修のたびに、日本の文化・魂(たましい)を吹きこまれ、100年の長きに渡って、子供たちや職員たちのこころが癒(いや)され養(やしな)われてきたのである。 この「静養館」の中で座し、瞑想(めいそう)することで、100年の「こころ」の変遷を感じ取ることができる。



写真AG: 宮崎県 木城町にある石井記念友愛社の建物です。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十次の孤児院は小舎制という教育方針で、保母1人に十数人の子供たちが1つの小舎(家)で家族のように生活しました。 十次は明治から大正にかけて3000人以上の孤児の救済と教育を行いました。



写真AH: 木城町にある石井記念友愛社の建物です。



写真AI: 宮崎県 児湯郡 木城町にある石井記念友愛社の建物です。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。
石井十次の孤児院は小舎制という教育方針で、保母1人に十数人の子供たちが1つの小舎(家)で家族のように生活しました。 十次は明治から大正にかけて3000人以上の孤児の救済と教育を行いました。



写真AJ: 石井十次 記念館にある「静養館」です。 手前に古い梅の木があります。
「静養館の由来」の説明板から、
 明治12年(1879年)、「アメリカン・ボールド」というキリスト教伝導団体が、岡山市 東山に、宣教師宿舎として3棟建てた。 この建物はその内の1軒で、当時は「ベレ(リ)ー館」と呼ばれた。 ジョン・シー・ベリー(John Cuting Berry. 1847-1930)の宿舎である。 彼は宣教医として、明治5年来日、主に神戸で活動していたが、明治12年、岡山県知事 高崎五六が、ベリーやベテー等を病院や英学校の医師・教師として招聘(しょうへい)したのである。
 しかし、同志社(明治8年創立)の新島襄の要請を受けて、同志社病院および看病婦学校の創立に参画、明治16年、岡山を離れた。 ちなみに、石井十次の2番目の妻 石井辰子(たつこ)は、看病婦学校6期生。
 明治29年、同志社の所有となっていた「ベレー館」を、石井十次は購入し、岡山孤児院内に移築、園舎や事務所などとして使用した。 名前「西洋館」と呼ばれるようになった。
 石井十次は、この茶臼原に遠大な理想を描いて、明治27年より、岡山より移住を始める。 彼のやり方は、児童・職員を運ぶだけではなく、建物も次々に解体して運ぶという破天荒なものであった。 舟で瀬戸内海から太平洋を下り、高鍋に着くと馬車に積み替え、10 キロの山道を何十回と往復し運んだ。 茶臼原原野に忽然(こつぜん)として、岡山風の瓦葺(かわらぶ)き漆喰(しっくい)の建物が立ち並ぶ。 明治末期には、ほぼ移住も完了、最後にこの「西洋館」も、移築する(大正2年)。 「西洋館」は、石井十次の最後の住まいとなり、名前も「静養館」と変えられた。 入り口に揚(あ)げられた看板(かんばん)は、心友 大原孫三郎の書である。 大正3年1月30日、石井十次は多くの人々に見守られながら、この「静養館」において息を引き取った。 その後、「静養館」は大正末期 大改修され、2階部分が取り払われて現在のような形となった。
 石井十次はなぜ建物まで運んだのか、経済的にはおそらく不利であったのに、彼は移築を断行した。 それは、建物1つ1つは、日本中の多くの支援者の善意の結晶であり、職員・子供たちの愛と涙がしみこんでいると考えたからである。 彼は経済よりも「こころ」を優先したのである。
 日本で最古の木造西洋建築と言われる長崎の「グラバー邸」は、1863年建立であるが、この「静養館」も、時代的にはそう差はない。 しかし、同じ西洋建築としてスタートしても、その後の運命はずいぶん違ったものになっている。 この「静養館」は、移築・改修のたびに、日本の文化・魂(たましい)を吹きこまれ、100年の長きに渡って、子供たちや職員たちのこころが癒(いや)され養(やしな)われてきたのである。 この「静養館」の中で座し、瞑想(めいそう)することで、100年の「こころ」の変遷を感じ取ることができる。



写真AK: 「大原館」の説明板です。
 石井十次 亡き後、心友 大原孫三郎は、石井十次 墓地の隣に別荘を建てた。 2人の友情は、死をも越えた。 (第二次世界大戦の)戦後この地に移築。 平成7年(1995年)、孫三郎の孫(まご)、大原謙一郎 氏の支援により改修。
と書いてあります。
石井十次の岡山孤児院の経営は、十次は寄付金に頼(たよ)りました。 多くの人から援助を受けましたが、特に、生涯に渡って十次を助けたのは大原孫三郎でした。 (大原孫三郎が行った寄付の総額は10万円以上、今の貨幣価値で6億円以上と言われています。) 大原孫三郎は倉敷紡績の社長で、大原美術館も建てた人です。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。



写真AL: 「大原館」です。
 石井十次 亡き後、心友 大原孫三郎は、石井十次 墓地の隣に別荘を建てた。 2人の友情は、死をも越えた。 (第二次世界大戦の)戦後この地に移築。 平成7年(1995年)、孫三郎の孫(まご)、大原謙一郎 氏の支援により改修。
石井十次の岡山孤児院の経営は、十次は寄付金に頼(たよ)りました。 多くの人から援助を受けましたが、特に、生涯に渡って十次を助けたのは大原孫三郎でした。 (大原孫三郎が行った寄付の総額は10万円以上、今の貨幣価値で6億円以上と言われています。) 大原孫三郎は倉敷紡績の社長で、大原美術館も建てた人です。
宮崎県 児湯郡 木城町にある石井十次 記念館の敷地の中にあります。



写真AM: 「大原館」
 石井十次 亡き後、心友 大原孫三郎は、石井十次 墓地の隣に別荘を建てた。 2人の友情は、死をも越えた。 (第二次世界大戦の)戦後この地に移築。 平成7年(1995年)、孫三郎の孫(まご)、大原謙一郎 氏の支援により改修。
石井十次の岡山孤児院の経営は、十次は寄付金に頼(たよ)りました。 多くの人から援助を受けましたが、特に、生涯に渡って十次を助けたのは大原孫三郎でした。 (大原孫三郎が行った寄付の総額は10万円以上、今の貨幣価値で6億円以上と言われています。) 大原孫三郎は倉敷紡績の社長で、大原美術館も建てた人です。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。



写真AN: 宮崎県 児湯郡 木城町にある石井記念友愛社です。 中央付近に石井十次の胸像があります。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真AO: 「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 庭に石井十次の胸像があります。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。



写真AP: 宮崎県 児湯郡 木城町にある石井記念友愛社です。 石井十次の像があります。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真AQ: 木城町にある石井記念友愛社です。 庭に石井十次の像があります。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。



写真AR: 「石井十次の生涯(しょうがい) 石井のおとうさん ありがとう 西都市民4100名に観ていただきました。 上映記念植樹 平成17年3月吉日」
と書いてあります。



写真AS: 木城町にある石井記念友愛社の建物です。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。



写真AT: 木城町にある石井記念友愛社の建物。



写真AU: 木城町にある石井記念友愛社の大きな建物と石垣(いしがき)です。



写真AV: 木城町にある石井記念友愛社の大きな建物と石垣(いしがき)。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。



写真AW: 木城町にある石井記念友愛社の建物と石垣(いしがき)です。 奥にも建物が見えます。



写真AX: 「友愛社 表玄関 事務所」、「調理場→」の看板(かんばん)があります。



写真AY: 木城町にある石井記念友愛社です。 ジャングルジムの遊具が見えます。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。



写真AZ: 石井記念友愛社の広場です。 右奥に古墳(こふん)が見えます。



写真BA: 道の右は広場で、左には建物があります。



写真BB: 広場側から建物を見たものです。 石井記念友愛社。



写真BC: 広場側から建物を見たもの。 石井記念友愛社。



写真BD: 広場には古墳(こふん)もあります。 いくつかの遊具が見えます。



写真BE: 宮崎県 児湯郡 木城町にある石井記念友愛社の建物です。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。



写真BF: 宮崎県 児湯郡 木城町にある石井記念友愛社の建物。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。



写真BG: 広場です。 ネット、左奥にバスケットボールの板、輪、網も見えます。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真BH: 広場です。 ネットが張(は)ってあります。



写真BI: 広場の周(まわ)りにネットが張(は)ってあります。



写真BJ: 広場にバスケットボールの板などもあります。



写真BK: 広場とネットです。



写真BL: ネットの支柱のところに大きなタイヤがあります。 このタイヤは野球のバットの練習で使うものでしょう。



写真BM: 石井記念友愛社の石垣(いしがき)です。
「石井記念友愛社」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木 644-1 にあります。 関連の施設などは木城町 椎木と西都市 穂北にまたがっています。



写真BN: 石井十次 記念館の南側は茶臼原(ちゃうすばる)と呼ばれている所です。 宮田川が流れています。 ススキの白い穂と左にセイタカアワダチソウの黄色の花が見えています。 橋に「宮田川」と書いてあります。 この友愛橋は昭和55年1月31日に竣工(しゅんこう)しました。



写真BO: 橋に「宮田川」と書いてあります。



写真BP: こちらには「友愛橋」と書いてあります。 昭和55年1月31日に竣工(しゅんこう)。 石井十次資料館のすぐ近く(南)にある橋です。 右に農業用ビニールハウスが見えます。



写真BQ: 「友愛橋」と書いてあります。



写真BR: 「昭和55年1月31日竣工(しゅんこう)」と書いてあります。 宮田川の友愛橋です。



写真BS: 石井記念友愛社の南側の景色です。



写真BT: 石井記念友愛社の南側の景色。



写真BU: 北の方に石井記念友愛社の建物群が見えています。 手前に宮田川が流れています。
建物群のすぐ手前に車道があります。 その車道の奥(北)は木城町 椎木で車道の手前(南)は西都市 穂北になります。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真BV: 北の方に石井記念友愛社の建物群が見えます。 門、白壁(しらかべ)も見えます。
建物群のすぐ手前に車道があります。 その車道の奥(北)は木城町 椎木で車道の手前(南)は西都市 穂北になります。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。



写真BW: 南から見た石井記念友愛社の建物群です。 大きな木や後ろの山も見えます。
建物群のすぐ手前に車道があります。 その車道の奥(北)は木城町 椎木で車道の手前(南)は西都市 穂北になります。
 
石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。



写真BX: 石井記念友愛社の建物、大きな木、後ろの山などが見えます。
建物群のすぐ手前に車道があります。 その車道の奥(北)は木城町 椎木で車道の手前(南)は西都市 穂北になります。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真BY: 宮田川の友愛橋を渡って南へしばらく行くと、「いしいきねん のゆりほいくえん」と書いてある屋根付きの看板(かんばん)があります。
「石井記念のゆり保育園」は宮崎県 西都市 大字穂北 5248番地29 にあります。



写真BZ: 「石井記念 のゆり保育園」の入り口です。
「石井記念のゆり保育園」は宮崎県 西都市 大字穂北 5248番地29 にあります。



写真CA: 石井記念のゆり保育園の近くに牧場と畜舎があります。 畜舎の手前に黒い牛、左寄りにも黒い牛が何頭か見えています。



写真CB: 左は石井記念のゆり保育園、右は牛の牧場です。
「石井記念のゆり保育園」は宮崎県 西都市 大字穂北 5248番地29 にあります。



写真CC: カンナの花が道路脇(わ)に咲いていました。




写真CD: 石井記念友愛社の方に戻(もど)って来ました。



写真CE: バス停「友愛社前 町営バス」の所です。 右(北)には石井記念友愛社があります。



写真CF: 右は県道312号線です。 先(北)に行くと木城町の中心部に行きます。 手前に行くと新富町 新田(にゅうた)に行きます。 石井記念友愛社の建物は先に行きます。 左(北西)に行くと茶臼原小学校、石井十次の墓、石井十次と児童たちが開墾(かいこん)した茶臼原(茶畑など)があります。



写真CG: 先に行くと茶臼原小学校、石井十次の墓、石井十次と児童たちが開墾(かいこん)した茶臼原(茶畑など)があります。 右の電柱の奥に茶臼原小学校の建物が見えます、



写真CH: 三叉路(さんさろ)に「西都市立 茶臼原小学校、やる気 根気 元気、あすなろ子ども会」と書いてある標識があります。



写真CI: 道しるべの「石井十次先生塋域(えいいき、墓地の事。)」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)もあります。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 茶臼原の私立小学校は今は西都市立 茶臼原小学校になっています。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真CJ: 道しるべの「石井十次先生塋域(えいいき、墓地の事。)」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)と「森の空想ミュージアム 九州民族仮面美術館←」の看板、「西都市立 茶臼原小学校、やる気 根気 元気、あすなろ子ども会」と書いてある標識が三叉路(さんさろ)にあります。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 茶臼原の私立小学校は今は西都市立 茶臼原小学校になっています。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。



写真CK: 「西都市立 茶臼原小学校、やる気 根気 元気、あすなろ子ども会」と書いてある標識。



写真CL: 「西都市立 茶臼原小学校、やる気 根気 元気、あすなろ子ども会」と書いてある標識。



写真CM: 右に西都市立 茶臼原小学校(ちゃうすばるしょうがっこう)の建物や体育館が見えます。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。
茶臼原からは九州山地の山並みが美しく見えます。 北西を見た景色です。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。



写真CN: 右に西都市立 茶臼原小学校(ちゃうすばるしょうがっこう)の建物があります。
西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。



写真CO: 茶臼原小学校(ちゃうすばるしょうがっこう)の建物。
西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真CP: 左は茶臼原小学校です。



写真CQ: 「西都市立茶臼原小学校 駐車場入口」の看板(かんばん)があります。
西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。



写真CR: 左は茶臼原小学校。
西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。



写真CS: 茶臼原小学校のそばにバス停「茶臼原、宮崎交通」があります。 奥は商店です。



写真CT: 西都市立 茶臼原小学校の正門です。
西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真CU: 近くの商店に飲料水の自動販売機があります。



写真CV: 茶臼原小学校のそばにある十字路です。 北西を見た景色です。 道しるべの「石井十次先生塋域(えいいき、墓地の事。)」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)も左にあります。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 茶臼原の私立小学校は今は西都市立 茶臼原小学校になっています。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真CW: 宮崎県 西都市にある茶臼原の広い茶畑です。 道しるべの「石井十次先生塋域(えいいき、墓地の事。)」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 茶臼原の私立小学校は今は西都市立 茶臼原小学校になっています。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真CX: 西都市にある茶臼原の広い茶畑。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 茶臼原の私立小学校は今は西都市立 茶臼原小学校になっています。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真CY: 茶畑の奥に盛り上がった「茶臼原古墳群」の古墳が見えています。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真CZ: 右は茶臼原小学校です。
西都市立 「茶臼原小学校」は宮崎県 西都市 穂北 5253−4 にあります。



写真DA: 茶臼原小学校のそばの十字路にある道しるべの「石井十次先生塋域(えいいき、墓地の事。)」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)です。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DB: 茶臼原小学校のそばの十字路にある道しるべの「石井十次先生塋域(えいいき、墓地の事。)」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DC: 北(中央部)に尾鈴山(おすずやま、標高 1405.2 m)が見えています。 手前は茶畑です。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DD: 北西の九州山地の山並(やまな)みです。 車道の左右は茶畑になっています。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DE: 広々とした茶畑です。 遠くに九州山地の山が見えます。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。 石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。



写真DF: 茶臼原小学校のそばの十字路にある道しるべの「石井十次先生塋域(えいいき、墓地の事。)」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DG: 来た道を振り返ったもの。 左は茶臼原小学校の正門です。



写真DH: 左はバス停「茶臼原、宮崎交通」です。 南西方向を見たもの。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DI: バス停「茶臼原、宮崎交通」です。 左は来た道です。



写真DJ: 南を見たもの。 白いものが積み重なっています。 これは家畜の飼料(しりょう)の牧草をビニールで包んだものです。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DK: 車道のそばに歌碑(かひ)があります。 「大正15年1月9日 石井十次氏銅像除幕式 茶臼原にて 大原寿恵子 作、昭和54年4月5日 大原真佐子 書」と彫(ほ)ってあります。 茶臼原小学校から石井十次の墓に行く途中(とちゅう)にあります。 後ろは茶畑になっています。 九州山地の山々がきれいです。
石井十次の岡山孤児院の経営は、十次は寄付金に頼(たよ)りました。 多くの人から援助を受けましたが、特に、生涯に渡って十次を助けたのは大原孫三郎でした。 大原孫三郎は倉敷紡績の社長で、大原美術館も建てた人です。



写真DL: 車道のそばに歌碑(かひ)があります。 「大正15年1月9日 石井十次氏銅像除幕式 茶臼原にて 大原寿恵子 作、昭和54年4月5日 大原真佐子 書」と彫(ほ)ってあります。 茶臼原小学校から石井十次の墓に行く途中(とちゅう)にあります。 車道の奥も茶畑です。
石井十次の岡山孤児院の経営は、十次は寄付金に頼(たよ)りました。 多くの人から援助を受けましたが、特に、生涯に渡って十次を助けたのは大原孫三郎でした。 大原孫三郎は倉敷紡績の社長で、大原美術館も建てた人です。



写真DM: ここからゆるい下り坂になります。 石井十次の墓の入り口にある白い看板(かんばん)と左に石井十次が茶臼原を開墾したことの説明板が道路標識の左に小さく見えます。



写真DN: 「鯉(こい)のぼりを捧(ささ)げる」の説明板です。
今から約100年前、この茶臼原台地に石井十次が岡山孤児院から400余名の児童少年達と鍬(くわ)一つで広い原野を開墾(かいこん)しながら学び働きながら移り住みました。 十次は人の子が人間として自立・自活への道を授(さず)けました。 少年達は幼くして病に倒れる者もありましたが、多くは長じて立派な社会人となられました。
 石井十次墓園には十次慈愛の御生涯(しょうがい)にかかわる親族・元院児たちの墓標が今も心つながるように佇(たたず)んでおります。
 昭和20年10月 石井記念友愛社が生まれ、この福祉理念事業に多くのご厚情・無私のご奉仕・支援を賜(たまわ)りつつ今日、友愛社後援会「支える会」発足10年を迎え、茶臼原の聖なる大空に全国の皆様方から寄せられた御心こもる鯉(こい)のぼりを捧(ささ)げさせていただきます。
2007年5月 社会福祉法人 石井記念友愛社 後援会 友愛社を支える会
と書かれています。



写真DO: 「鯉(こい)のぼりを捧(ささ)げる」の説明板です。
 今から約100年前、この茶臼原台地に石井十次が岡山孤児院から400余名の児童少年達と鍬(くわ)一つで広い原野を開墾(かいこん)しながら学び働きながら移り住みました。 十次は人の子が人間として自立・自活への道を授(さず)けました。 少年達は幼くして病に倒れる者もありましたが、多くは長じて立派な社会人となられました。
 石井十次墓園には十次慈愛の御生涯(しょうがい)にかかわる親族・元院児たちの墓標が今も心つながるように佇(たたず)んでおります。
 昭和20年10月 石井記念友愛社が生まれ、この福祉理念事業に多くのご厚情・無私のご奉仕・支援を賜(たまわ)りつつ今日、友愛社後援会「支える会」発足10年を迎え、茶臼原の聖なる大空に全国の皆様方から寄せられた御心こもる鯉(こい)のぼりを捧(ささ)げさせていただきます。
2007年5月 社会福祉法人 石井記念友愛社 後援会 友愛社を支える会
と書かれています。



写真DP: ここが石井十次墓園の入り口です。



写真DQ: 「石井十次の墓」の看板(かんばん)、標識棒があります。
「茶臼原憲法」は大正2年(亡くなる前年)に石井十次によって制定されました。
1.天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと。
2.天父は恒(つね)に働き給(たま)ふ、我等も倶(とも)に労働すべき。
3.天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納(おさ)むること。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。 この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 茶臼原の私立小学校は今は西都市立 茶臼原小学校になっています。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DR: ここは「茶臼原農村公園」にもなっています。



写真DS: 「石井十次の肖像画(しょうぞうが)、石井十次 眠る地」の大きな看板(かんばん)があります。



写真DT: 「石井十次 墓園 入口、200 m先」の標識棒があります。 左は「石井十次の肖像画(しょうぞうが)、石井十次 眠る地」の大きな看板。



写真DU: 石井十次の墓の入り口です。



写真DV: 「石井十次の墓」の説明石碑(せきひ)です。 墓の入口にあります。
 我が国 孤児救済の始祖として、いばらの道を切り開きつつ、明治24年濃尾大震災による災害児43名の救済をはじめとして明治39年 東北地方の大飢饉(ききん)による孤児1200名の救済に当たり、かつ独立自治の良民を創(つく)るため教育と職業的訓練を併(あわ)せて行い、また里親制度を設(もう)けるなど数多くの偉業を成し遂(と)げ、大正3年1月30に 茶臼原(ちゃうすばる)分院に逝(い)く。 時に令49才(満48歳)。
 世界の偉人 石井十次この地に眠る
昭和43年 石井十次顕彰会
と書かれています。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DW: 石井十次 墓地の入り口です。
「石井十次墓園」には十次の親族・元院児たちの墓があります。



写真DX: 石井十次の上半身像があります。 石井十次の墓地にあります。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 茶臼原の私立小学校は今は西都市立 茶臼原小学校になっています。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真DY: 石井十次の上半身像があります。



写真DZ: そばに墓石が多くあります。
石井十次の孤児院の児童たちの墓と思われます。
「石井十次墓園」には十次の親族・元院児たちの墓があります。



写真EA: そばに墓石が多くあります。
石井十次の孤児院の児童たちの墓と思われます。



写真EB: 「石井十次之墓」と彫(ほ)られています。 宮崎県 西都市 穂北にあります。 茶臼原(ちゃうすばる)と呼ばれている所です。
十次の墓の左奥は十次の最初の妻 品子の墓で十次の墓の右奥に2番目の妻 辰子(たつこ)の墓が見えています。
石井十字は、岡山孤児院経営の寄付依存をやめて独立しようと、故郷 宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)という台地で開墾(かいこん)と孤児の移住を始めました。この台地の開墾は困難を極めて一時は事業をいったん中止せざるをえなくなりした。 しかし、事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功しました。 孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、腎臓病によって亡くなりました。
石井十次は岡山県とここ茶臼原に私立小学校を創設しました。 1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。 石井十次は明治20年(1887年)に岡山県 大宮村に寺の本堂の一部を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立しました。 明治43年(1910年)には、茶臼原に孤児院を移転しました。 石井十次は明治43年46歳のときに、鍬鎌(くわかま)主義教育の実現のため、岡山孤児院の数十棟の宿舎、学校、集会所などを茶臼原の台地に移しました。 明治時代から大正時代まで3000人以上の孤児の救済と教育に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げました。
石井十次の宮崎県 茶臼原 関係の年表: 明治27年(1894年)に茶臼原の開拓(かいたく)に着手、明治28年に品子 夫人が亡くなり、辰子と再婚、明治33年に茶臼原の事業を中断、しかし明治38年に再開しました。 明治43年に孤児院の茶臼原移転を本格的に始めました。 大正元年に茶臼原移転をほぼ終わりました。 大正2年(1913年)に私立茶臼原尋常小学校を設立。 また、茶臼原憲法を作りました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました(48歳)。
1913年(大正2年)に設立した茶臼原の私立小学校(私立茶臼原尋常小学校)はその後、自治体の方に寄付されました。



写真EC: 石井十次の墓です。



写真ED: 石井十次の墓。



写真EE: 石井十次の墓。 左奥に十次の最初の妻 品子の墓が見えています。



写真EF: 左は「石井品子之墓」と彫(ほ)ってあります。 品子は十次の最初の妻です。 右の墓は十次の2番目の妻 辰子(たつこ)のものです。
これらの墓は石井十次の墓の後方にあります。



写真EG: 「石井十次の墓」です。



写真EH: 石井十次の墓の裏側です。 「大正3年1月30日 永眠」と彫(ほ)ってあります。



写真EI: 石井十次の墓の近くに「茶臼原農村公園」と書いてある標識棒があります。 茶臼原(ちゃうすばる)というところにあります。



写真EJ: 石井十次の墓の近くに「茶臼原農村公園」があります。



写真EK: 9月末でしたが、桜の花が少し咲いていました。



写真EL: 宮崎県 児湯郡 木城町にある木城温泉館「湯らら」にあった「石井十次と石井記念友愛社」の説明です。
 石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。 慶応元年(1865年)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。 岡山孤児院を創設し、「孤児の父」と呼ばれた十次の元(もと)には、一時1200名もの子供たちが収容されたと言われます。 施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。
 やがて、フランスの思想家ルソーの「エミール」の感化を受けた十次は、木城町の南端にある茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。 ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。 その後、昭和20年に太平洋戦争 被災児救済を目的に再開。 「石井記念友愛社」が創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。 当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には人間国宝の芹沢 _介(けいすけ) 製作のステンドグラスも寄せられ、十次の偉業を伝えます。
と書かれています。



写真EM: 宮崎県 児湯郡 木城町にある木城温泉館「湯らら」にあった「石井十次と石井記念友愛社」の説明です。
 石井十次は、日本における福祉事業の先駆者です。 慶応元年(1865年)に高鍋町に生まれ、最初は岡山で医学を学んでいましたが、ある貧しい母子との出会いをきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始めます。 岡山孤児院を創設し、「孤児の父」と呼ばれた十次の元(もと)には、一時1200名もの子供たちが収容されたと言われます。 施設内には私立の小学校も開設され、ユニークな教育も行われました。
 やがて、フランスの思想家ルソーの「エミール」の感化を受けた十次は、木城町の南端にある茶臼原で「自然・労作」教育をしようと、明治27年、岡山からの大移住を開始します。 児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。 ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。 その後、昭和20年に太平洋戦争 被災児救済を目的に再開。 「石井記念友愛社」が創設され、児童養護施設や保育園も運営されることになりました。 当時の建物はそのまま残され、一角に建てられた資料館には人間国宝の芹沢 _介(けいすけ) 製作のステンドグラスも寄せられ、十次の偉業を伝えます。
と書かれています。



写真EN: 「茶臼原」と書かれた十字路です。



写真EO: 奥に古墳(こふん)がいくつか見えます。 「児屋根塚古墳」です。 茶臼原古墳群(ちゃうすばるこふんぐん)です。 左の車道を先に行くと高鍋町に行きます。 手前に行くと西都市 杉安、穂北に行きます。



写真EP: 交差点「茶臼原」の近くに古墳(こふん)が見えます。 茶臼原古墳群です。



写真EQ: 開拓(かいたく)の石碑(せきひ)が交差点「茶臼原」のそばにあります。



写真ER: 開拓(かいたく)の石碑(せきひ)が交差点「茶臼原」のそばにあります。



写真ES: 交差点「茶臼原」の近くに古墳(こふん)が見えます。 茶臼原古墳群です。



写真ET: 前方後円墳の古墳(こふん)などが見えます。 「児屋根塚古墳」です。 茶臼原古墳群(ちゃうすばるこふんぐん)です。 左の車道を先に行くと高鍋町に行きます。 手前に行くと西都市 杉安、穂北に行きます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)