藤原景清の墓と娘(人丸)の墓、藤原景清 廟(びょう)、延岡藩宮崎代官所跡 (史跡 藤原景清 父子の墓(ふじわらかげきよ ちちこ の墓) 、藤原景清廟(びょう、祖先の霊を祭る所)、藩境石 「従是北(これよりきた) 延岡領」、平和の塔、内藤藩宮崎代官所跡、宮崎市立 大宮中学校)  (宮崎県 宮崎市 下北方町)







<標高、位置>  藤原景清(ふじわらかげきよ)と娘(人丸)の墓は
標高 約20 m
 北緯31度56分38秒  東経131度24分48秒

<標高、位置>  内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡、今は大宮中学校になっています。)は
標高 約20 m
 北緯31度56分32秒  東経131度25分09秒


 「藤原景清 廟(ふじわらかげきよびょう)」は宮崎県 宮崎市 下北方町 5841 にあります。
「謡曲「景清」と父母の慰霊塔」の説明板から、
 謡曲「景清」は、敗戦の老武者の悲しみ、怒り、誇りの起伏する感情を、親子の情愛を軸にして創意された人情物である。
 剛勇の聞こえ高い平家の侍(さむらい) 悪七兵衛景清は自ら盲目となって日向の国 宮崎に下り、信仰一筋の日々を送っていた。 父を慕(した)い遙々の海山を越えて鎌倉に住む娘 人丸が尋(たず)ねてきた。
 景清は今の我が身を恥じて名乗れずに苦しむが、里人の厚意で引き合わされる。 すがりつく我が子に、娘の不名誉を思い対面を拒(こば)んだ親心を語る。
 人丸の所望を受けて、三保の谷の四郎と錣引(しころびき、錣は兜(かぶと)の側面から後ろの部品。)した屋島の合戦での武勇談を語るうちに名残(なごり)を惜(お)しみつつ別れて行くという構想である。
 鎌倉に預けられた娘 人丸の生涯を父 景清に仕えた孝心が父母を偲(しの)ぶ慰霊塔となったのであろう(この部分意味不明。)。 平家滅亡後の隠れた悲哀ではある。
 「景清廟(かげきよびょう)」の説明板から、
景清公と娘 人丸姫の遺骸をまつる。 回顧すれば公が壇の浦(だんのうら)の渦中より脱して頼朝を亡さんと心胆(しんたん、心のことです。)を砕(くだ)かれしも果(はた)さず遂(つい)に畠山重忠に捕らえらる。
 頼朝は公の武勇非凡なるを惜(お)しみ己(おのれ)に仕(つか)えむことを懇望(こんぼう)す。 公 固く辞して直ちに両眼を抉(えぐ)りて曰(いわ)く、此(この)眼あらば貴公を殺さむの念常にやまず、然(しか)るに今は盲目たり、最早(もはや)敵対する念なしとここに於(お)いて頼朝の任命により、日向の勾當(こうとう、官職の一つです。)となり文治2年(1186年、鎌倉時代前期)11月下向ある時に齢(よわい)32才なり。 此(こ)の地にあるや深く神仏を信仰し帝釈寺の再興、岩門寺、正光寺を建立せり。 建保2年(1214年、鎌倉時代前期)8月15日行年62才にて没(ぼっ)す。
法名 千手院殿景清水鑑大居士 と称す。

 この宮崎市にある景清廟(びょう)は景清が住んでいた所という伝説もあります。
藤原景清の娘 人丸はこの地で建永元年(1206年、鎌倉時代前期)9月に24歳で病死したという伝説もあります。
藤原景清は宮崎県 宮崎市 大字生目にある生目神社の御祭神になっています。

 藤原景清の墓は各地にあります。
(1)秋芳洞の北にある山口県 美東町に景清洞があります。 それが壇ノ浦の戦いで負けた平家の主将 藤原景清が長い間潜(ひそ)んでいた所と伝えられています。 その洞窟には生目八幡宮があり、洞窟の近くには「藤原景清の墓」があります。
(2)愛知県 大府市 吉田の常福寺は藤原景清が晩年暮らし、死んだ所と伝えられています。 裏山には生目八幡宮があり、そこに「藤原景清の墓」があります。
(3)茨城県 石岡市 貝地 2-6-14に景清塚があります。
(4)鹿児島県 曽於市に景清の墓があります。

 「藩境石」が藤原景清廟の境内(けいだい)にあります。
「藩境石 従是北(これよりきた) 延岡領」の説明板から、
 江戸時代後期、宮崎市の大半は延岡藩が治めていました(宮崎市は佐土原島津藩、薩摩島津藩、飫肥藩、延岡藩、天領がありました。)。 この境石は古城村と太田村(大淀)とに建てられましたが、明治になって取り除(のぞ)かれ、今の大宮中学校の所にあった延岡藩の役所に移されたものでしょう。 その後「人丸塚」の覆屋を造る時に土台として使われていました。 このような藩境石は県内で10基ぐらいしか発見されていません。

 「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は宮崎県 宮崎市 下北方町 5945 にあります。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は今は宮崎市立 大宮中学校になっています。
江戸時代には延岡藩(内藤藩)の役所がありました。
代官(だいかん)は君主(殿様)の代わりに任地の年貢(ねんぐ)の取り立てなどの行政を行う人あるいは地位のことです。 その敷地、建物などが「代官所」です。 代官所は陣屋(じんや)とも呼ばれます。
「半ぴどんの昔話」に出てくる代官所はここの代官所のことです。 半ぴどんは跡江(あとえ)に住んでいて、墓もあります。



写真A: 宮崎県 宮崎市 下北方町の「平和の塔」がある平和台の入り口です。 左の車道を登ると平和の塔に行きます。 右の道を進むと長い階段があってやはり平和の塔に行きます。



写真B: バス停「平和台 宮崎交通」があります。



写真C: バス停「平和台」から少し南にこの三叉路(さんさろ)があります。 「藤原景清(ふじわらかげきよ)の墓」に行くには右の道を南に進みます。 左の道を行くと大宮中学校があります。



写真D: 右に酒、食料品店があります。 そこの角を右(西)に曲がります。



写真E: 右に酒、食料品店があります。 そこの角を右(西)に曲がります。



写真F: しばらく進むと三叉路(さんさろ)にぶつかります。 藤原景清 廟(びょう、祖先の霊を祭る所。)に行くには右に曲がります。 左に行くと皇宮神社、皇軍発祥之地の大きな石碑(せきひ)の所に行きます。



写真G: 曲がるとすぐに「藤原景清 廟(びょう)」の大きな石碑(せきひ)と門が見えます。



写真H: 「史跡 景清廟(かげきよびょう)」と彫(ほ)られた大きな石碑と門があります。 ここは三叉路(さんさろ)になっています。 右に進むと下北方町自治公民館があります。



写真I: 「史跡 景清廟(かげきよびょう)」と彫(ほ)られた大きな石碑と門があります。 門にはしめ縄と御幣(ごへい)があります。 門の左にも石碑(せきひ)があります。



写真J: 門の右上に境内(けいだい)の大きな木が見えます。



写真K: 門のそばの様子(ようす)です。



写真L: 西を見た景色です。



写真M: 門の近くです。



写真N: 南を見たもの。



写真O: 門の所から東を見たもの。 先に進むと下北方町自治公民館があります。



写真P: 門の左に石碑(せきひ)があります。



写真Q: 「史跡 景清廟(かげきよびょう)」と彫(ほ)られた大きな石碑の左奥に「史跡 景清廟 父子之墓」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真R: 「史跡 景清廟(かげきよびょう)」と彫(ほ)られた大きな石碑の側面には昭和49年9月吉日建立と彫ってあります。



写真S: 「史跡 景清廟 父子之墓」と書いてある看板(かんばん)が門にあります。



写真T: 門から境内(けいだい)を見たもの。 左に建物が見えます。



写真U: 門から境内(けいだい)を見たもの。 左に建物が見えます。



写真V: 寺のお堂が見えます。 右に藤原景清(ふじわらかげきよ)の説明板があります。



写真W: 藤原景清廟のお堂(景清廟堂)があります。 藤原景清の墓は左奥にあります。



写真X: 門の右に石塔があります。



写真Y: 門の右側です。



写真Z: 裏から見た「史跡 景清 廟」の石碑(せきひ)です。



写真AA: 「景清(かげきよ)廟(びょう)」の説明板です。



写真AB: 「景清(かげきよ)廟(びょう)」の説明板。



写真AC: 「景清廟(かげきよびょう)」の説明板です。
 景清公と娘 人丸姫の遺骸をまつる。 回顧すれば公が壇の浦(だんのうら)の渦中より脱して頼朝を亡さんと心胆(しんたん、心のことです。)を砕(くだ)かれしも果(はた)さず遂(つい)に畠山重忠に捕らえらる。
 頼朝は公の武勇非凡なるを惜(お)しみ己(おのれ)に仕(つか)えむことを懇望(こんぼう)す。 公 固く辞して直ちに両眼を抉(えぐ)りて曰(いわ)く、此(この)眼あらば貴公を殺さむの念常にやまず、然(しか)るに今は盲目たり、最早(もはや)敵対する念なしとここに於(お)いて頼朝の任命により、日向の勾當(こうとう、官職の一つです。)となり文治2年(1186年、鎌倉時代前期)11月下向ある時に齢(よわい)32才なり。 此(こ)の地にあるや深く神仏を信仰し帝釈寺の再興、岩門寺、正光寺を建立せり。 建保2年(1214年、鎌倉時代前期)8月15日行年62才にて没(ぼっ)す。
法名 千手院殿景清水鑑大居士 と称す。
下北方町区会
と書かれています。



写真AD: 「景清廟(かげきよびょう)」の説明板です。
 景清公と娘 人丸姫の遺骸をまつる。 回顧すれば公が壇の浦(だんのうら)の渦中より脱して頼朝を亡さんと心胆(しんたん、心のことです。)を砕(くだ)かれしも果(はた)さず遂(つい)に畠山重忠に捕らえらる。
 頼朝は公の武勇非凡なるを惜(お)しみ己(おのれ)に仕(つか)えむことを懇望(こんぼう)す。 公 固く辞して直ちに両眼を抉(えぐ)りて曰(いわ)く、此(この)眼あらば貴公を殺さむの念常にやまず、然(しか)るに今は盲目たり、最早(もはや)敵対する念なしとここに於(お)いて頼朝の任命により、日向の勾當(こうとう、官職の一つです。)となり文治2年(1186年、鎌倉時代前期)11月下向ある時に齢(よわい)32才なり。 此(こ)の地にあるや深く神仏を信仰し帝釈寺の再興、岩門寺、正光寺を建立せり。 建保2年(1214年、鎌倉時代前期)8月15日行年62才にて没(ぼっ)す。
法名 千手院殿景清水鑑大居士 と称す。
下北方町区会
と書かれています。



写真AE: 「景清廟(かげきよびょう)」の説明板です。
 景清公と娘 人丸姫の遺骸をまつる。 回顧すれば公が壇の浦(だんのうら)の渦中より脱して頼朝を亡さんと心胆(しんたん、心のことです。)を砕(くだ)かれしも果(はた)さず遂(つい)に畠山重忠に捕らえらる。
 頼朝は公の武勇非凡なるを惜(お)しみ己(おのれ)に仕(つか)えむことを懇望(こんぼう)す。 公 固く辞して直ちに両眼を抉(えぐ)りて曰(いわ)く、此(この)眼あらば貴公を殺さむの念常にやまず、然(しか)るに今は盲目たり、最早(もはや)敵対する念なしとここに於(お)いて頼朝の任命により、日向の勾當(こうとう、官職の一つです。)となり文治2年(1186年、鎌倉時代前期)11月下向ある時に齢(よわい)32才なり。 此(こ)の地にあるや深く神仏を信仰し帝釈寺の再興、岩門寺、正光寺を建立せり。 建保2年(1214年、鎌倉時代前期)8月15日行年62才にて没(ぼっ)す。
法名 千手院殿景清水鑑大居士 と称す。
下北方町区会
と書かれています。



写真AF: 宮崎県 宮崎市 下北方町の藤原景清廟(びょう)にあるお堂(景清廟堂)です。



写真AG: 藤原景清廟(びょう)にあるお堂(景清廟堂)。



写真AH: 宮崎市 下北方町の藤原景清廟(びょう)にあるお堂(景清廟堂)です。



写真AI: 「謡曲「景清」と父母の慰霊塔」の説明板です。
 謡曲「景清」は、敗戦の老武者の悲しみ、怒り、誇りの起伏する感情を、親子の情愛を軸にして創意された人情物である。
 剛勇の聞こえ高い平家の侍(さむらい) 悪七兵衛景清は自ら盲目となって日向の国 宮崎に下り、信仰一筋の日々を送っていた。 父を慕(した)い遙々の海山を越えて鎌倉に住む娘 人丸が尋(たず)ねてきた。
 景清は今の我が身を恥じて名乗れずに苦しむが、里人の厚意で引き合わされる。 すがりつく我が子に、娘の不名誉を思い対面を拒(こば)んだ親心を語る。
 人丸の所望を受けて、三保の谷の四郎と錣引(しころびき、錣は兜(かぶと)の側面から後ろの部品。)した屋島の合戦での武勇談を語るうちに名残(なごり)を惜(お)しみつつ別れて行くという構想である。
 鎌倉に預けられた娘 人丸の生涯を父 景清に仕えた孝心が父母を偲(しの)ぶ慰霊塔となったのであろう(この部分意味不明。)。 平家滅亡後の隠れた悲哀ではある。
謡曲史跡保存会
と書かれています。



写真AJ: 墓地無縁仏供養堂があります。



写真AK: 門とそばの建物です。



写真AL: 墓地無縁仏供養堂です。



写真AM: 景清廟改築之碑があります。



写真AN: 景清廟改築之碑。



写真AO: 石碑(せきひ)があります。



写真AP: 石碑(せきひ)。



写真AQ: 墓石もあります。



写真AR: 墓石もあります。



写真AS: 墓石など。



写真AT: 仏像が刻(きざ)んであります。 右の円筒形の墓は僧職の人の墓です。



写真AU: 円筒形の墓は僧職の人の墓。



写真AV: 宮崎市 下北方町の藤原景清廟(びょう)にあるお堂(景清廟堂)です。



写真AW: 宮崎市 下北方町の藤原景清廟(びょう)にあるお堂(景清廟堂)。



写真AX: 左は薬師如来堂です。 右は弘法大師堂です。
真言宗の寺です。



写真AY: 右は弘法大師堂です。



写真AZ: 北に下北方町自治公民館があります。



写真BA: 石碑(せきひ)があります。 奥は下北方町自治公民館です。



写真BB: そばにある下北方町自治公民館。



写真BC: 「薬師如来、弘法大師 新築工事 記念碑 竣工 平成22年11月吉日」と彫(ほ)ってあります。



写真BD: 右端の石碑に「景清公之塚」と彫(ほ)ってあります。 左端に「孝女 人丸 姫之墓」と書いてあります。 その右に「景清公 父母之慰霊塔」と書いてある看板(かんばん)があります。
右の方の塚が「藤原景清の墓」のようです。



写真BE: 後ろはモウソウダケの竹林になっています。



写真BF: 右端の石碑に「景清公之塚」と彫(ほ)ってあります。



写真BG: 右から景清公之塚、景清公 父母之慰霊塔、左端の祠(ほこら)の中にあるのが孝女 人丸 姫之墓です。



写真BH: 祠(ほこら)の中にあるのが「孝女 人丸 姫之墓」です。 左端は弘法大師堂です。



写真BI: これが藤原景清の娘 人丸の墓です。 墓石の下部に「墓」の文字が見えます。



写真BJ: これらは藤原景清廟の西側の境内(けいだい)にあります。



写真BK: これらは藤原景清廟の西側の境内(けいだい)にあります。



写真BL: これが藤原景清の墓の裏側です。 立派なお墓です。



写真BM: これが藤原景清の墓の裏側です。



写真BN: 藤原景清の墓の裏から見たお堂です。 右は弘法大師堂です。



写真BO: 左が藤原景清の墓の上部を裏から見たものです。



写真BP: 手前が藤原景清の墓の下部です。



写真BQ: 藤原景清の墓の下部。



写真BR: 付近の様子(ようす)です。



写真BS: 左は「景清公之塚」と彫(ほ)ってある石碑の裏側です。



写真BT: 景清廟堂を西から見たものです。



写真BU: 「景清公之塚」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)。



写真BV: 「景清公 父母之慰霊塔」と書いてあります。



写真BW: 「孝女 人丸姫 之墓」と書いてあります。



写真BX: 弘法大師堂の北側、藤原景清廟の西側にあります。



写真BY: 左は弘法大師堂です。



写真BZ: 門の方(南)を見たものです。



写真CA: 景清の墓から景清廟(びょう)堂を見たものです。



写真CB: 藤原景清廟堂の下部です。



写真CC: 北東を見たものです。



写真CD: 下北方町自治公民館にセンダンの木があります。



写真CE: 下北方町自治公民館です。



写真CF: 下北方町自治公民館。



写真CG: 北から見た藤原景清廟(びょう)にあるお堂(景清廟堂)。



写真CH: 南東を見たもの。



写真CI: 南を見たもの。 右は藤原景清廟堂です。



写真CJ: 南東を見たもの。



写真CK: 東側の入り口です。



写真CL: 左は戦没記念碑、右は手水舎(ちょうずや)です。



写真CM: 左は戦没記念碑の下部、右は手水舎(ちょうずや)です。



写真CN: 手水舎(ちょうずや)です。



写真CO: 境内の南東にある石碑と説明板が見えます。



写真CP: 「従是北(これよりきた) 延岡領」と彫ってあります。
「藩境石 従是北(これよりきた) 延岡領」の説明板があります。
 江戸時代後期、宮崎市の大半は延岡藩が治めていました(宮崎市は佐土原島津藩、薩摩島津藩、飫肥藩、延岡藩、天領がありました。)。 この境石は古城村と太田村(大淀)とに建てられましたが、明治になって取り除(のぞ)かれ、今の大宮中学校の所にあった延岡藩の役所に移されたものでしょう。
 その後「人丸塚」の覆屋を造る時に土台として使われていました。 このような藩境石は県内で10基ぐらいしか発見されていません。



写真CQ: 「従是北(これよりきた) 延岡領」と彫ってあります。
「藩境石 従是北(これよりきた) 延岡領」の説明板があります。
 江戸時代後期、宮崎市の大半は延岡藩が治めていました(宮崎市は佐土原島津藩、薩摩島津藩、飫肥藩、延岡藩、天領がありました。)。 この境石は古城村と太田村(大淀)とに建てられましたが、明治になって取り除(のぞ)かれ、今の大宮中学校の所にあった延岡藩の役所に移されたものでしょう。
 その後「人丸塚」の覆屋を造る時に土台として使われていました。 このような藩境石は県内で10基ぐらいしか発見されていません。



写真CR: 「従是北(これよりきた) 延岡領」と彫ってあります。



写真CS: 「藩境石 従是北(これよりきた) 延岡領」の説明板があります。
 江戸時代後期、宮崎市の大半は延岡藩が治めていました(宮崎市は佐土原島津藩、薩摩島津藩、飫肥藩、延岡藩、天領がありました。)。 この境石は古城村と太田村(大淀)とに建てられましたが、明治になって取り除(のぞ)かれ、今の大宮中学校の所にあった延岡藩の役所に移されたものでしょう。
 その後「人丸塚」の覆屋を造る時に土台として使われていました。
このような藩境石は県内で10基ぐらいしか発見されていません。
平成16年7月20日 下北方町 東区町 西区町
と書かれています。



写真CT: 北を見た景色です。



写真CU: 北遠くに平和台の「平和の塔」が見えています。 藤原景清廟から。



写真CV: 次に江戸時代にあった「延岡藩宮崎代官所跡 (内藤藩宮崎代官所跡)」に行きます。
手前は県道44号線、右奥(西)に行く車道は県道333号線です。 奥(南)に行くと宮崎神宮に行きます。
延岡藩宮崎代官所跡 (今は宮崎中学校になっています。)に行くには右奥(西)に曲がります。



写真CW: 奥に進むと「延岡藩宮崎代官所跡 (大宮中学校)」、平和台の平和の塔に行きます。



写真CX: 十字路の北東の角に大きな茶色のマンションがあります。 車道を先に行くと池内に行きます。



写真CY: この坂道を登って行くと、延岡藩宮崎代官所跡 (大宮中学校)、平和台の平和の塔に行きます。



写真CZ: この坂道を登って行くと、延岡藩宮崎代官所跡 (大宮中学校)、平和台の平和の塔に行きます。



写真DA: 宮崎市立 大宮中学校の校舎、門柱が見えて来ました。



写真DB: 大宮中学校の門柱が見えます。 その少し右奥に「内藤藩宮崎代官所跡」の石碑(せきひ)があります。



写真DC: 大宮中学校の門柱が見えます。 その少し右奥に「内藤藩宮崎代官所跡」の石碑(せきひ)があります。



写真DD: 宮崎市立 大宮中学校の正門です。 ここに江戸時代、内藤藩宮崎代官所 (延岡藩宮崎代官所)がありました。
宮崎市は江戸時代には延岡藩、佐土原島津藩、薩摩島津藩(さつましまづはん)、飫肥藩(おびはん)、天領(江戸幕府の領地)がありました。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は宮崎県 宮崎市 下北方町 5945 にあります。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は今は宮崎市立 大宮中学校になっています。
江戸時代には延岡藩(内藤藩)の役所がありました。
代官(だいかん)は君主(殿様)の代わりに任地の年貢(ねんぐ)の取り立てなどの行政を行う人あるいは地位のことです。 その敷地、建物などが「代官所」です。 代官所は陣屋(じんや)とも呼ばれます。
「半ぴどんの昔話」に出てくる代官所はここの代官所のことです。 半ぴどんは跡江(あとえ)に住んでいて、墓もあります。



写真DE: 門柱に「宮崎市立 大宮中学校」と書いてあります。



写真DF: 右の門柱のすぐ裏に「内藤藩宮崎代官所跡」の石碑(せきひ)があります。 ここに延岡藩の役所がありました。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は宮崎県 宮崎市 下北方町 5945 にあります。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は今は宮崎市立 大宮中学校になっています。
江戸時代には延岡藩(内藤藩)の役所がありました。
代官(だいかん)は君主(殿様)の代わりに任地の年貢(ねんぐ)の取り立てなどの行政を行う人あるいは地位のことです。 その敷地、建物などが「代官所」です。 代官所は陣屋(じんや)とも呼ばれます。
「半ぴどんの昔話」に出てくる代官所はここの代官所のことです。 半ぴどんは跡江(あとえ)に住んでいて、墓もあります。



写真DG: 「内藤藩宮崎代官所跡」の石碑(せきひ)があります。 ここに延岡藩の役所がありました。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は宮崎県 宮崎市 下北方町 5945 にあります。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は今は宮崎市立 大宮中学校になっています。
江戸時代には延岡藩(内藤藩)の役所がありました。
代官(だいかん)は君主(殿様)の代わりに任地の年貢(ねんぐ)の取り立てなどの行政を行う人あるいは地位のことです。 その敷地、建物などが「代官所」です。 代官所は陣屋(じんや)とも呼ばれます。
「半ぴどんの昔話」に出てくる代官所はここの代官所のことです。 半ぴどんは跡江(あとえ)に住んでいて、墓もあります。



写真DH: 左に延岡藩宮崎代官所が江戸時代にはありました。 今は大宮中学校になっています。



写真DI: 延岡藩宮崎代官所が江戸時代にはありました。 今は大宮中学校になっています。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は宮崎県 宮崎市 下北方町 5945 にあります。
「内藤藩宮崎代官所跡 (延岡藩宮崎代官所跡)」は今は宮崎市立 大宮中学校になっています。
江戸時代には延岡藩(内藤藩)の役所がありました。
代官(だいかん)は君主(殿様)の代わりに任地の年貢(ねんぐ)の取り立てなどの行政を行う人あるいは地位のことです。 その敷地、建物などが「代官所」です。 代官所は陣屋(じんや)とも呼ばれます。
「半ぴどんの昔話」に出てくる代官所はここの代官所のことです。 半ぴどんは跡江(あとえ)に住んでいて、墓もあります。



写真DJ: ここまでが延岡藩宮崎代官所跡です。 先に進むと平和台の平和の塔に行きます。



写真DK: 内藤藩宮崎代官所跡 (大宮中学校)のそばから見た平和台の平和の塔です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)