堀川運河、吾平津神社(あひらつじんじゃ)、有形文化財 石造りアーチ橋 (堀川橋)、夢見橋 (堀川、堀川資料館、油津大橋、野口雨情 碑、伊東洞林 公 (伊東祐実)顕彰碑、JR 油津駅、港大橋) (宮崎県 日南市 油津、岩崎、材木町)
<標高、位置> 吾平津神社(あひらつじんじゃ、乙姫神社(おとひめじんじゃ))は
標高 約30 m
北緯31度35分05秒 東経131度24分04秒
<標高、位置> 石造りアーチ橋(堀川橋)は
標高 約数 m
北緯31度35分04秒 東経131度24分06秒
<標高、位置> 夢見橋は
標高 約数 m
北緯31度35分17秒 東経131度24分09秒
<標高、位置> 堀川資料館(ほりかわしりょうかん)は
標高 約数 m
北緯31度35分05秒 東経131度24分07秒
<標高、位置> 油津大橋(あぶらつおおはし)は
標高 約数 m
北緯31度35分13秒 東経131度24分07秒
<標高、位置> JR九州 日南線の「油津駅(あぶらつえき)」は
標高 約数 m
北緯31度35分13秒 東経131度23分46秒
「堀川運河」は宮崎県 日南市 油津地区にあります。 堀川運河は「堀川」と呼(よ)ぶこともあります。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」の説明板から、
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年(江戸時代の初期)に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
「運河の石積み護岸」
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
「油津の町」
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)とも呼ばれます)」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年(1998年)12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
油津 堀川橋は吾平津神社(あひらつじんじゃ)への参道にあります。 石造りアーチ橋ができるまでは油津板橋が同じ所にありました。 これは長さ 31 m、幅 2.7 m、高さは干潮時水面から 8 m で、欄干(らんかん、手すり)も付いていました。 明治36年(1903年)に石造りアーチ橋 (堀川橋)が出来ました。 これは飫肥(おび)の石工 石井文吉が施工しました。 資金は飫肥の山本伊兵次が提供しました。 完成までに約4年間かかりました。 はじめは欄干(らんかん、手すり)の無い橋でしたが、後年に南郷町の大島の堆積岩(たいせきがん)で欄干を造りました。 石造りアーチ橋の堀川橋(乙姫橋、おとひめはし)は長さ 21 m、有効幅 4.85 m、高さ 5.7 m です。
「吾平津神社(あひらつじんじゃ)」は宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1 にあります。
吾平津神社(あひらつじんじゃ) [乙姫神社(おとひめじんじゃ)]の説明板から、
御由緒
吾平津神社 (乙姫神社) 旧郷社
祭神 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやわのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)、経津主命(ふっぬしのみこと)
例祭日 11月14日、社殿 本殿 神明造、境内地 3066 坪
由緒沿革
当社は元明天皇の御代の和銅2年(709年)の創建にて、乙姫明神と称して、江戸時代、飫肥11社の一つとして歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊東祐帰 (藩)知事の意により吾平津神社と改称され、昭和8年 郷社となる。 境内に御門神社2社があり、櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)
、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと). の2柱の神をお祭りしてあります。
その外に境内末社として、祖霊社、また豊漁および商売繁昌の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。
主祭神の「吾平津昆売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり、「古事記」によれば、お二人の間には「手研耳命(てぎしみみのみこと)」お一人の皇子ありとある神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津昆売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
この故事により、当神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
「夢見橋」は宮崎県 日南市 材木町 1丁目にあります。
「夢見橋 (ゆめみはし)」の説明板から、
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」の説明板から、
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
「堀川資料館」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 1-3 にあります。
飫肥杉(おびすぎ)造りの2階建ての建物で、堀川ぞいにあります。 館内には観光パンフレット、2階にはチョロ船の模型など堀川運河関係の展示が行われています。 2階ベランダからはアーチ橋 堀川橋、堀川の風景が楽しめます。 この施設は平成16年(2004年)3月までは観光案内所でした。
「JR 油津駅」は宮崎県 日南市 岩崎 2丁目 にあります。
JR九州の日南線にある駅です。 地上駅、島式1面2線です。 1937年(昭和12年)4月19日に開業しました。 日南線では最後まで直営駅として駅員が配置されていましたが、2004年(平成16年)4月1日から無人化され、現在は簡易委託駅になっています。
写真A: JR九州 日南線の「油津駅(あぶらつえき)」は宮崎県 日南市 岩崎 2丁目 13-3 にあります。
マグロと波の形の建造物が駅前にあります。 花壇(かだん)もあります。
JR九州の日南線にある駅です。 地上駅、島式1面2線です。 1937年(昭和12年)4月19日に開業しました。 日南線では最後まで直営駅として駅員が配置されていましたが、2004年(平成16年)4月1日から無人化され、現在は簡易委託駅になっています。
写真B: 日南線の「油津駅(あぶらつえき)」です。
油津駅は1937年(昭和12年)4月19日開業しました。 地上駅で1面2線のホームがあります。 2004年(平成16年)4月から簡易委託駅になっています。
写真C: 油津駅の構内です。 南に山があります。
鉄塔は携帯電話の基地局のアンテナです。
写真D: ワシントン椰子(やし)が植えてあります。 宮崎交通のバス、タクシー 待合室があります。 油津駅の近くです。
JR九州の日南線にある駅です。 地上駅、島式1面2線です。 1937年(昭和12年)4月19日に開業しました。 日南線では最後まで直営駅として駅員が配置されていましたが、2004年(平成16年)4月1日から無人化され、現在は簡易委託駅になっています。
写真E: 宮崎交通のバス、タクシー 待合室があります。
写真F: 右は宮崎交通の建物です。 油津駅の近くです。
写真G: 油津駅から北東に行く車道です。
写真H: 油津駅の構内。 タクシー、自家用車も止まっています。 南西の山も見えます。
写真I: 油津駅 付近です。
写真J: 日南線の油津駅。 左に郵便ポストがあります。
写真K: 港町「油津」観光案内図があります。
写真L: 港町「油津」観光案内図。
写真M: 油津駅の中です。 切符売り場、改札口(かいさつぐち)、ベンチ、棚(たな)、壁時計などもあります。
JR九州の日南線にある駅です。 地上駅、島式1面2線です。 1937年(昭和12年)4月19日に開業しました。 日南線では最後まで直営駅として駅員が配置されていましたが、2004年(平成16年)4月1日から無人化され、現在は簡易委託駅になっています。
写真N: JR九州 日南線の油津駅の中です。
写真O: 油津駅の改札口から線路の方を見た景色です。 レール、サボテン、花なども見えます。
写真P: 油津駅の改札口からホーム、線路の方を見た景色。 左に自転車があります。
南東の山も見えます。
JR九州の日南線にある駅です。 地上駅、島式1面2線です。 1937年(昭和12年)4月19日に開業しました。 日南線では最後まで直営駅として駅員が配置されていましたが、2004年(平成16年)4月1日から無人化され、現在は簡易委託駅になっています。
写真Q: 油津駅の改札口から線路の方を見た景色。 サボテン、花もあります。 南西の山も見えます。
写真R: 油津駅の中から入り口を見たもの。
写真S: 日南線 油津駅の中です。 待合室の椅子(いす)が見えます。
写真T: 「野口雨情 碑(ひ)」と書いてあります。
堀川運河にかかる油津大橋の東端近くにあります。 国道222号線沿(ぞ)いにあります。
野口雨情は1935年(昭和10年)にこの地を訪(おとず)れました。
写真U: 「水と筏(いかだ)を 堀川橋の 石の手すりは 見て暮らす 野口雨情」と彫(ほ)ってある歌碑(かひ)があります。
民謡や童謡の第一人者として、明治大正から昭和のはじめにかけて北原白秋・西条八十とともに三大童謡詩人とうたわれ、一世を風靡(ふうび)した詩人 野口雨情は油津にも来ました。 野口雨情は1935年(昭和10年)にこの地を訪(おとず)れました。
写真V: 「水と筏(いかだ)を 堀川橋の 石の手すりは 見て暮らす 野口雨情」と彫(ほ)ってある歌碑(かひ)があります。
民謡や童謡の第一人者として、明治大正から昭和のはじめにかけて北原白秋・西条八十とともに三大童謡詩人とうたわれ、一世を風靡(ふうび)した詩人 野口雨情は油津にも来ました。 野口雨情は1935年(昭和10年)にこの地を訪(おとず)れました。
写真W: 「伊東洞林 公 顕彰碑」です。 堀川運河にかかる油津大橋の東端近くにあります。 そばに野口雨情 歌碑もあります。
飫肥藩主の伊東洞林 (伊東祐実)が堀川運河を造ることを命令しました。 1684年1月21日(天和年12月5日)に工事を始め、地盤の固い場所もあり難工事でしたが1686年4月17日(貞享3年3月25日)に完成しました。 堀川運河は飫肥杉の輸送や船の避難場所として利用されました。
写真X: 「伊東洞林 公 顕彰碑」です。 堀川運河にかかる油津大橋の東端近くにあります。 そばに野口雨情 歌碑もあります。
飫肥藩主の伊東洞林 (伊東祐実)が堀川運河を造ることを命令しました。 1684年1月21日(天和年12月5日)に工事を始め、地盤の固い場所もあり難工事でしたが1686年4月17日(貞享3年3月25日)に完成しました。 堀川運河は飫肥杉の輸送や船の避難場所として利用されました。
写真Y: 中央に野口雨情の歌碑、右に伊東洞林 顕彰碑があります。
写真Z: 油津大橋の東端から北西を見た景色です。 油津大橋も見えています。 右手前に野口雨情 歌碑と伊東洞林 顕彰碑があります。
国道222号線です。
写真AA: 油津大橋に「堀川、まぐろの絵、まぐろ」が書いてあります。 油津大橋は昭和46年3月に完成しました。
写真AB: 日南市の油津大橋です。 油津大橋は昭和46年3月に完成しました。 北西を見たもの。 国道222号線です。
写真AC: 油津大橋から下流方向を見たもの。 これが「堀川運河」です。 漁船が停泊(ていはく)しています。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AD: 「マルショク」の看板(かんばん)が屋上(おくじょう)にあります。
写真AE: 油津大橋から見た堀川運河です。 漁船が多く停泊しています。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AF: 堀川 (堀川運河)です。 油津大橋から下流側(南)を見たもの。 人家も見えます。
「堀川運河」は宮崎県 日南市 油津地区にあります。 堀川運河は「堀川」と呼(よ)ぶこともあります。
「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」の説明板から、
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年(江戸時代の初期)に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
「運河の石積み護岸」
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
「油津の町」
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AG: 油津大橋から見た「堀川運河」。 下流の先の方に小さく「石造りアーチ橋」の堀川橋が見えています。 南東を見たもの。
この先で堀川運河は油津港に注(そそ)ぎます。
「堀川運河」は宮崎県 日南市 油津地区にあります。 堀川運河は「堀川」と呼(よ)ぶこともあります。
「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」の説明板から、
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年(江戸時代の初期)に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
「運河の石積み護岸」
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
「油津の町」
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AH: 堀川(堀川運河)の油津大橋から南東を見た景色。 中央手前の低い小さな森に野口雨情の歌碑と伊東洞林 顕彰碑(堀川運河を造らせた飫肥藩主)があります。
写真AI: 堀川運河の「石造りアーチ橋 (堀川橋)」が南に見えます。 油津大橋から見たもの。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AJ: 堀川(堀川運河)の「石造りアーチ橋 (堀川橋)」が南に見えます。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AK: 「油津大橋、マグロの絵 まぐろ」と書いてあります。 油津大橋は昭和46年3月に完成しました。
写真AL: 国道222号線にかかっている油津大橋から北西を見た景色です。
写真AM: 堀川(堀川運河)です。 油津大橋から北東を見た景色です。 この先の方で堀川運河は広渡川(ひろとがわ)に合流します。 漁船が多く停泊しています。 左寄りにやはり堀川運河にかかる屋根付きの橋 (夢見橋)が見えています。 北の山並み(やまなみ)も見えます。
「堀川運河」は宮崎県 日南市 油津地区にあります。 堀川運河は「堀川」と呼(よ)ぶこともあります。
「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」の説明板から、
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年(江戸時代の初期)に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
「運河の石積み護岸」
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
「油津の町」
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AN: 堀川運河に係留(けいりゅう)してある漁船です。 右の船にはスクリューとエンジンも見えます。 救命浮輪も船底にあります。
左の船には無線のアンテナ、屋根の上に信号灯、煙突(えんとつ)なども見えます。
写真AO: 堀川(堀川運河)です。 上流方向(北)を見たもの。
「堀川運河」は宮崎県 日南市 油津地区にあります。 堀川運河は「堀川」と呼(よ)ぶこともあります。
「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」の説明板から、
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年(江戸時代の初期)に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
「運河の石積み護岸」
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
「油津の町」
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AP: 堀川運河にかかる屋根付きの橋 「夢見橋」が見えています。 周(まわ)りは広場になっています。 夢見橋の方にも堀川運河の支流があります。 油津大橋から北を見たもの。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
写真AQ: 堀川(堀川運河)。 この先で広渡川に合流します。 上流方向(北東)を見たもの。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AR: 「昭和46年3月竣工(しゅんこう)、マグロの絵、まぐろ」と書いてあります。 油津大橋です。
写真AS: 「あぶらつおおはし、マグロの絵、まぐろ」と書いてあります。 油津大橋は昭和46年3月に完成しました。
写真AT: 堀川(堀川運河)の下流方向(南)を見た景色です。 先の方で油津港に流れ込(こ)みます。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
写真AU: 油津大橋のそばに柳の木があります。 北東を見たもの。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AV: 油津大橋を上流方向(北)から見たものです。
写真AW: 堀川(堀川運河)に多くの漁船が停泊(ていはく)しています。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真AX: 左は夢見橋のそばの広場です。 ベンチが多く見えます。 右は堀川運河。 北東を見た景色です。
写真AY: 夢見橋のそばの広場です。 北を見たもの。
写真AZ: 左が堀川運河の支流にかかる「屋根付きの夢見橋」です。
「夢見橋」は宮崎県 日南市 材木町 1丁目にあります。
「夢見橋 (ゆめみはし)」
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真BA: ここで堀川運河は左から支流が合流しています。
写真BB: 奥に見法寺橋が見えています。 ここは左から支流が合流しています。
「堀川運河」は宮崎県 日南市 油津地区にあります。 堀川運河は「堀川」と呼(よ)ぶこともあります。
「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」の説明板から、
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年(江戸時代の初期)に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
「運河の石積み護岸」
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
「油津の町」
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真BC: 屋根付きの「夢見橋」です。 夢見橋は飫肥杉(おびすぎ)、飫肥石で出来ています。 周(まわ)りは広場になっています。
「夢見橋」は宮崎県 日南市 材木町 1丁目にあります。
「夢見橋 (ゆめみはし)」
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真BD: 夢見橋のそばの広場です。 西を見たもの。
写真BE: 南を見た景色。 右は夢見橋のそばの広場です。
写真BF: 西を見たもの。
写真BG: 夢見橋です。 夢見橋は飫肥杉(おびすぎ)、飫肥石で出来ています。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真BH: 「夢見橋」と書いてあります。
「夢見橋」は宮崎県 日南市 材木町 1丁目にあります。
写真BI: 夢見橋の内側です。 天井は飫肥杉を曲げたものです。
「夢見橋 (ゆめみはし)」
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
写真BJ: 夢見橋から西を見た景色です。 堀川運河の支流が見えます。
写真BK: 夢見橋から東を見た景色。 堀川運河の本流と合流している所が見えます。
写真BL: 夢見橋の中央には飫肥杉の固定式ベンチがあります。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真BM: 夢見橋の中央にある飫肥杉の固定式ベンチ。
写真BN: 夢見橋は堀川運河の支流にかかっています。 東を見た景色。 手前は夢見橋の手すりです。
写真BO: 夢見橋から西を見た景色です。 堀川運河の支流が見えます。 突き当たりから少し左に曲がって川幅が狭くなっています。
写真BP: 北側から見た「夢見橋」です。
夢見橋は飫肥杉(おびすぎ)、飫肥石で出来ています。 「夢見橋」は宮崎県 日南市 材木町 1丁目にあります。
「夢見橋 (ゆめみはし)」
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真BQ: 北東から見た夢見橋。
飫肥杉で造られています。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真BR: 夢見橋の説明板などが見えます。 南を見たもの。
写真BS: 「夢見橋 (ゆめみはし)」
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
と書かれています。
夢見橋夜景内部の写真、子供達の夢が入った「コミセン」「ヤイトホソ」の写真が載っています。
写真BT: 「夢見橋 (ゆめみはし)」
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
と書かれています。
夢見橋夜景内部の写真、子供達の夢が入った「コミセン」「ヤイトホソ」の写真が載っています。
写真BU: 「夢見橋 (ゆめみはし)」
夢見橋は、地場産の飫肥杉(おびすぎ、120年生)と飫肥石を使い、ボルトや金物は使わない、伝統工法の「木組み」でつくられています。 飫肥杉は、曲げと水に強い特性がある為(ため)、船の材料として使われて来ました。 その造船技術を伝えるために、天井は「曲げ木」でできています。 屋根は、日南の暑い日差しや雨から人や橋を守り、また、暗くなりすぎないようにトップライトがあります。 橋の中央には、くつろぐためのベンチがあり、夏には運河の涼しい風が吹き抜けます。
みんなの力でできた「夢見橋」
「屋根があったらいいな」「飫肥杉を使おう」「伝統工法を使いたい」など、地元の皆さんの意見を聞いてデザインされました。 飫肥杉を木組みでつないでいる部材(コミセン、ヤトイホソ)には、地元の子供達をはじめ、4000人分もの「夢」が書きこまれています。 「夢見橋」という名前は、全国1200の応募の中から、地元の子供達が選んで決まりました。 多くの人と人がつながって完成した夢見橋は、昔と今をつなげてくれる自慢(じまん)の橋です。
と書かれています。
夢見橋夜景内部の写真、子供達の夢が入った「コミセン」「ヤイトホソ」の写真が載っています。
写真BV: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真BW: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真BX: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真BY: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真BZ: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真CA: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真CB: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真CC: 「堀川運河 (ほりかわうんが) 周辺案内図」
堀川運河は、広渡川から油津港に木材(飫肥杉など)を運ぶため。飫肥藩5代藩主 伊東祐実が造った全長1450 mの運河で、1686年に完成しました。 江戸時代に造られた運河がきれいな姿で残っているのは全国的にも珍しく、主に明治〜昭和初期に積まれた石積み護岸は、国の登録有形文化財になっています。 県の港湾環境整備事業で、石積みを残しながら、遊歩道や公園、屋根付き木橋などを整備しました。
運河の石積み護岸
石積み護岸を積み直すために、古い公文書や写真を調べたり、発掘調査を行ったりして、昔の石積みの状態を詳細に研究しました。 そして、造られた当時の姿に戻すために、伝統的な石積み技法により、可能な限り当時の石材を使用しました。
「遊歩道や緑地公園」
堀川運河を眺(なが)められる遊歩道や、楽しめる公園や広場を整備しました。 整備にあたっては、地元の皆さんと話し合いを重ねて、夢見橋や遊歩道、ボードデッキには地場産の飫肥杉や飫肥石をたくさん使っています。
油津の町
油津の町には、当時の繁栄を物語る堀川橋(石造りアーチ橋)、油津赤レンガ館、杉村金物本店など多くの貴重な建物が残っており、国の登録有形文化財になっています。
堀川運河は、江戸時代〜昭和40年頃まで木造り船の材料として広く使われていた飫肥杉(弁甲材)でいっぱいでした。 また、油津港では、昭和初期にマグロがたくさん水揚げされて、「東洋一のマグロ基地」と呼ばれました。
と書いてあります。
堀川運河周辺(昭和10年頃)、マグロ漁船であふれる油津港(昭和10年頃)、出荷を待つ山積みの飫肥杉(昭和10年頃)、水揚げされた体重300 kgを超えるマグロの写真が載っています。
堀川運河中心部、堀川運河全域の絵地図もあります。
写真CD: 堀川運河と夢見橋です。 「夢見橋」は宮崎県 日南市 材木町 1丁目にあります。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真CE: 堀川運河。 夢見橋の少し東の所です。
写真CF: 夢見橋の北端付近から東を見た景色。 堀川運河の先に山も見えます。
写真CG: 夢見橋の下部です。
写真CH: 夢見橋と堀川運河の説明板の裏です。
写真CI: 夢見橋の床(ゆか)の部分はこのようになっています。
夢見橋は長さ 18.45 m、幅 3.6 m (最大 4.7 m)、屋根長さ 45.8 m で、2007年(平成19年)の夏に完成しました。
写真CJ: 東を見た景色。 堀川運河に多くの漁船が停泊しています。
写真CK: 漁船のハンドル、エンジンも見えます。 堀川(堀川運河)。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真CL: 夢見橋近くから油津大橋を見たもの。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
写真CM: 油津大橋の近くに戻(もど)ってきました。 奥に石造りアーチ橋の堀川橋が小さく見えます。
写真CN: 堀川(堀川運河)の水面のそばに降りる階段があります。
ここは船から荷物をあげる所です。
写真CO: 石造りアーチ橋の上流はこのようになっています。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真CP: 堀川運河にかかる石造りアーチ橋 (堀川橋)です。 堀川橋は乙姫橋(おとひめはし)とも呼(よ)ばれます。 上流から見た景色です。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)とも呼ばれます)」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年(1998年)12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
油津 堀川橋は吾平津神社(あひらつじんじゃ)への参道にあります。 石造りアーチ橋ができるまでは油津板橋が同じ所にありました。 これは長さ 31 m、幅 2.7 m、高さは干潮時水面から 8 m で、欄干(らんかん、手すり)も付いていました。 明治36年(1903年)に石造りアーチ橋 (堀川橋)が出来ました。 これは飫肥(おび)の石工 石井文吉が施工しました。 資金は飫肥の山本伊兵次が提供しました。 完成までに約4年間かかりました。 はじめは欄干(らんかん、手すり)の無い橋でしたが、後年に南郷町の大島の堆積岩(たいせきがん)で欄干を造りました。 石造りアーチ橋の堀川橋(乙姫橋、おとひめはし)は長さ 21 m、有効幅 4.85 m、高さ 5.7 m です。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真CQ: 堀川運河にかかる石造りアーチ橋 (堀川橋)。 この先で堀川運河は油津港に注(そそ)ぎます。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
写真CR: 堀川橋です。 先に漁船が見えます。 堀川橋は乙姫橋(おとひめはし)とも呼(よ)ばれます。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)とも呼ばれます)」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年(1998年)12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
油津 堀川橋は吾平津神社(あひらつじんじゃ)への参道にあります。 石造りアーチ橋ができるまでは油津板橋が同じ所にありました。 これは長さ 31 m、幅 2.7 m、高さは干潮時水面から 8 m で、欄干(らんかん、手すり)も付いていました。 明治36年(1903年)に石造りアーチ橋 (堀川橋)が出来ました。 これは飫肥(おび)の石工 石井文吉が施工しました。 資金は飫肥の山本伊兵次が提供しました。 完成までに約4年間かかりました。 はじめは欄干(らんかん、手すり)の無い橋でしたが、後年に南郷町の大島の堆積岩(たいせきがん)で欄干を造りました。 石造りアーチ橋の堀川橋(乙姫橋、おとひめはし)は長さ 21 m、有効幅 4.85 m、高さ 5.7 m です。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真CS: 「堀川資料館」です。 石造りアーチ橋(堀川橋)の東端付近にあります。
「堀川資料館」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 1-3 にあります。
飫肥杉(おびすぎ)造りの2階建ての建物で、堀川ぞいにあります。 館内には観光パンフレット、2階にはチョロ船の模型など堀川運河関係の展示が行われています。 2階ベランダからはアーチ橋 堀川橋、堀川の風景が楽しめます。 この施設は平成16年(2004年)3月までは観光案内所でした。
写真CT: 「堀川資料館」。 2階建ての建物です。 堀川端(ばた)にあります。
写真CU: 「堀川資料館」と書いてあります。
「堀川資料館」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 1-3 にあります。
飫肥杉(おびすぎ)造りの2階建ての建物で、堀川ぞいにあります。 館内には観光パンフレット、2階にはチョロ船の模型など堀川運河関係の展示が行われています。 2階ベランダからはアーチ橋 堀川橋、堀川の風景が楽しめます。 この施設は平成16年(2004年)3月までは観光案内所でした。
写真CV: 堀川資料館から堀川(堀川運河)が見えます。
写真CW: 2階にチョロ船の模型があります。 堀川資料館。
チョロ船は1960年代半(なか)ばまで、マグロ、シイラ漁に用いられました。 長さ約 8 m の小型船です。
大正時代から第2次世界大戦頃までチョロ船も堀川運河を通りました。
写真CX: 堀川資料館の2階から見た石造りアーチ橋 (堀川橋)と吾平津神社(あひらつじんじゃ)の赤い鳥居(とりい)です。 右の山に吾平津神社があります。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
チョロ船は1960年代半(なか)ばまで、マグロ、シイラ漁に用いられました。 長さ約 8 m の小型船です。
大正時代から第2次世界大戦頃までチョロ船も堀川運河を通りました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真CY: 石の手すり、アーチ橋の石の積み重ね方がよく分かります。 右端は吾平津神社(あひらつじんじゃ)の赤い鳥居(とりい)です。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)とも呼ばれます)」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年(1998年)12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
油津 堀川橋は吾平津神社(あひらつじんじゃ)への参道にあります。 石造りアーチ橋ができるまでは油津板橋が同じ所にありました。 これは長さ 31 m、幅 2.7 m、高さは干潮時水面から 8 m で、欄干(らんかん、手すり)も付いていました。 明治36年(1903年)に石造りアーチ橋 (堀川橋)が出来ました。 これは飫肥(おび)の石工 石井文吉が施工しました。 資金は飫肥の山本伊兵次が提供しました。 完成までに約4年間かかりました。 はじめは欄干(らんかん、手すり)の無い橋でしたが、後年に南郷町の大島の堆積岩(たいせきがん)で欄干を造りました。 石造りアーチ橋の堀川橋(乙姫橋、おとひめはし)は長さ 21 m、有効幅 4.85 m、高さ 5.7 m です。
写真CZ: アーチ橋 (堀川橋)の上を軽トラックが通っています。 堀川資料館の二階から。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
写真DA: アーチ橋 (堀川橋)の西端の造りがよく分かります。 堀川橋は乙姫橋(おとひめはし)とも呼(よ)ばれます。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
写真DB: 堀川(堀川運河)と油津大橋です。 北の山並みも見えます。 堀川資料館の2階から。
チョロ船は1960年代半(なか)ばまで、マグロ、シイラ漁に用いられました。 長さ約 8 m の小型船です。
大正時代から第2次世界大戦頃までチョロ船も堀川運河を通りました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真DC: 堀川運河にかかる国道222号線 油津大橋の周(まわ)りの景色です。
写真DD: 堀川資料館 2階から見たアーチ橋 (堀川橋)です。
チョロ船は1960年代半(なか)ばまで、マグロ、シイラ漁に用いられました。
大正時代から第2次世界大戦頃までチョロ船も堀川運河を通りました。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
写真DE: 堀川資料館 2階から見たアーチ橋 (堀川橋)。 吾平津神社(あひらつじんじゃ)の赤い鳥居(とりい)も見えます。 堀川橋は乙姫橋(おとひめはし)とも呼(よ)ばれます。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)とも呼ばれます)」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年(1998年)12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
油津 堀川橋は吾平津神社(あひらつじんじゃ)への参道にあります。 石造りアーチ橋ができるまでは油津板橋が同じ所にありました。 これは長さ 31 m、幅 2.7 m、高さは干潮時水面から 8 m で、欄干(らんかん、手すり)も付いていました。 明治36年(1903年)に石造りアーチ橋 (堀川橋)が出来ました。 これは飫肥(おび)の石工 石井文吉が施工しました。 資金は飫肥の山本伊兵次が提供しました。 完成までに約4年間かかりました。 はじめは欄干(らんかん、手すり)の無い橋でしたが、後年に南郷町の大島の堆積岩(たいせきがん)で欄干を造りました。 石造りアーチ橋の堀川橋(乙姫橋、おとひめはし)は長さ 21 m、有効幅 4.85 m、高さ 5.7 m です。
写真DF: アーチ橋の東の部分です。 上に漁船が見えます。
写真DG: アーチ橋の西の部分です。
写真DH: 堀川資料館 2階から南を見たもの。 「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
写真DI: 堀川資料館の二階です。
「堀川資料館」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 1-3 にあります。
飫肥杉(おびすぎ)造りの2階建ての建物で、堀川ぞいにあります。 館内には観光パンフレット、2階にはチョロ船の模型など堀川運河関係の展示が行われています。 2階ベランダからはアーチ橋 堀川橋、堀川の風景が楽しめます。 この施設は平成16年(2004年)3月までは観光案内所でした。
写真DJ: 今、アーチ橋 (堀川橋)の上を自動車が通っています。 堀川橋は乙姫橋(おとひめはし)とも呼(よ)ばれます。
写真DK: これがアーチ橋 (堀川橋)を東から見たものです。 奥(西)に吾平津神社(あひらつじんじゃ)の赤い鳥居(とりい)と石灯籠(いしどうろう)、階段、説明板なども見えます。 社殿はこの山の上にあります。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
写真DL: アーチ橋の東端から南を見たもの。
写真DM: 「堀川端(ばた)←、位置番号#01、アーチ橋の写真」の看板(かんばん)があります。
写真DN: 石造りアーチ橋 (堀川橋)の南側面はこのようになっています。 左が堀川運河の下流側です。 吾平津神社(あひらつじんじゃ)の赤い鳥居(とりい)も西に見えます。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)とも呼ばれます)」は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年(1998年)12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。
油津 堀川橋は吾平津神社(あひらつじんじゃ)への参道にあります。 石造りアーチ橋ができるまでは油津板橋が同じ所にありました。 これは長さ 31 m、幅 2.7 m、高さは干潮時水面から 8 m で、欄干(らんかん、手すり)も付いていました。 明治36年(1903年)に石造りアーチ橋 (堀川橋)が出来ました。 これは飫肥(おび)の石工 石井文吉が施工しました。 資金は飫肥の山本伊兵次が提供しました。 完成までに約4年間かかりました。 はじめは欄干(らんかん、手すり)の無い橋でしたが、後年に南郷町の大島の堆積岩(たいせきがん)で欄干を造りました。 石造りアーチ橋の堀川橋(乙姫橋、おとひめはし)は長さ 21 m、有効幅 4.85 m、高さ 5.7 m です。
写真DO: アーチ橋の中央側面に「堀川橋」と彫(ほ)ってあるのが分かります。
写真DP: アーチ橋の中央側面に「堀川橋」と彫(ほ)ってあるのが分かります。
写真DQ: アーチ橋の端(はし)は道幅が広くなっています。
「石造りアーチ橋 (堀川橋あるいは乙姫橋(おとひめはし)は宮崎県 日南市 油津 1丁目 にあります。 これは平成10年12月11日に文化庁の登録有形文化財に指定されました。 堀川橋は乙姫橋(おとひめはし)とも呼(よ)ばれます。
写真DR: アーチ橋の東端付近です。
写真DS: 北を見たもの。 この左先に堀川資料館があります。
写真DT: アーチ橋の近くです。
写真DU: 「登録有形文化財 第45-0007号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」と書いてあります。 アーチ橋にこの文字板はあります。
写真DV: アーチ橋(堀川橋)の欄干(らんかん、手すり)はこのようになっています。
写真DW: アーチ橋(堀川橋)の欄干(らんかん、手すり)はこのようになっています。 堀川橋は乙姫橋(おとひめはし)とも呼(よ)ばれます。
写真DX: アーチ橋(堀川橋)の欄干(らんかん、手すり)。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真DY: アーチ橋(堀川橋)から運河の上流(北)を見た景色です。 油津大橋も見えます。 北の山並み(やまなみ)も見えます。 右に堀川資料館も見えています。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
写真DZ: 油津大橋(堀川橋)の欄干(らんかん、手すり)と南側の景色です。 南の山並みも見えます。 左に珍(めずら)しい3階建ての木造の建物が見えます。
「港大橋」が見え、船も浮かんでいます。 この先で油津港に堀川運河は注(そそ)いでいます。
チョロ船は1960年代半(なか)ばまで、マグロ、シイラ漁に用いられました。 長さ約 8 m の小型船です。
大正時代から第2次世界大戦頃までチョロ船も堀川運河を通りました。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真EA: 油津大橋(堀川橋)の欄干(らんかん、手すり)と南側の景色です。 南の山並みも見えます。 左に珍(めずら)しい3階建ての木造の建物が見えます。
「港大橋」が見え、船も浮かんでいます。 この先で油津港に堀川運河は注(そそ)いでいます。
写真EB: アーチ橋(堀川橋)の西端に吾平津神社(あひらつじんじゃ)の赤い鳥居(とりい)、石灯籠(いしどうろう)、階段、石碑、説明板などがあります。
「吾平津神社(あひらつじんじゃ)」は宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1 にあります。
写真EC: 「堀川橋(ほりかわばし)、45作 男はつらいよ ロケ地 平成4年10月22日〜11月3日 原作・監督 山田洋次。 堀川運河は、1685年飫肥藩主(おびはんしゅ) 伊東祐実が飫肥杉の船積用に掘られた人口運河です。 延長 900 m、平均幅員 27 m、深さ 3 m。 日南市」、「西町筏(いかだ)通り←」と書いてあります。
写真ED: 「ひむか神話街道、 アヒラツヒメ(吾平津媛)」の説明板。
吾平津神社の御祭神・アヒラツヒメは、吾田の小椅の君の娘として生まれ、15歳で皇太子となったカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)と結婚し、子供(手研耳命)にも恵まれ、幸せな暮らしを送っていた。 やがてカムヤマトイワレヒコは、よりよく国を治(おさ)めるために、兄等と相談され、日向の美々津(みみつ)から東に向けて旅立つが、吾平津媛は同行されず、この地よりその成功をお祈(いの)りしたという。」
と書いてあります。
写真EE: 吾平津神社は宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1 にあります。
吾平津神社(あひらつじんじゃ) [乙姫神社(おとひめじんじゃ)]の説明板。
御由緒
吾平津神社 (乙姫神社) 旧郷社
祭神 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやわのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)、経津主命(ふっぬしのみこと)
例祭日 11月14日、社殿 本殿 神明造、境内地 3066 坪
由緒沿革
当社は元明天皇の御代の和銅2年(709年)の創建にて、乙姫明神と称して、江戸時代、飫肥11社の一つとして歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊東祐帰 (藩)知事の意により吾平津神社と改称され、昭和8年 郷社となる。 境内に御門神社2社があり、櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)
、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと). の2柱の神をお祭りしてあります。
その外に境内末社として、祖霊社、また豊漁および商売繁昌の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。
主祭神の「吾平津昆売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり、「古事記」によれば、お二人の間には「手研耳命(てぎしみみのみこと)」お一人の皇子ありとある神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津昆売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
この故事により、当神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
と書かれています。
写真EF: 日南市 材木町にある「吾平津神社(あひらつじんじゃ)」の鳥居(とりい)。
写真EG: 吾平津神社の石灯籠(いしどうろう)と階段です。 階段には手すりが付いています。
「吾平津神社(あひらつじんじゃ)」は宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1 にあります。
写真EH: 吾平津神社の石碑(せきひ)、鳥居(とりい)、階段、石灯籠(いしどうろう)が見えます。
写真EI: 吾平津神社の手水舎(ちょうずや)です。
吾平津神社(あひらつじんじゃ) [乙姫神社(おとひめじんじゃ)]の説明板。
御由緒
吾平津神社 (乙姫神社) 旧郷社
祭神 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやわのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)、経津主命(ふっぬしのみこと)
例祭日 11月14日、社殿 本殿 神明造、境内地 3066 坪
由緒沿革
当社は元明天皇の御代の和銅2年(709年)の創建にて、乙姫明神と称して、江戸時代、飫肥11社の一つとして歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊東祐帰 (藩)知事の意により吾平津神社と改称され、昭和8年 郷社となる。 境内に御門神社2社があり、櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)
、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと). の2柱の神をお祭りしてあります。
その外に境内末社として、祖霊社、また豊漁および商売繁昌の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。
主祭神の「吾平津昆売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり、「古事記」によれば、お二人の間には「手研耳命(てぎしみみのみこと)」お一人の皇子ありとある神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津昆売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
この故事により、当神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
写真EJ: 吾平津神社に大きな「シャコ貝の殻(から)」があります。 御手洗(みたらい)です。
写真EK: 上に社殿が見えてきました。
吾平津神社(あひらつじんじゃ) [乙姫神社(おとひめじんじゃ)]の説明板。
御由緒
吾平津神社 (乙姫神社) 旧郷社
祭神 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやわのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)、経津主命(ふっぬしのみこと)
例祭日 11月14日、社殿 本殿 神明造、境内地 3066 坪
由緒沿革
当社は元明天皇の御代の和銅2年(709年)の創建にて、乙姫明神と称して、江戸時代、飫肥11社の一つとして歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊東祐帰 (藩)知事の意により吾平津神社と改称され、昭和8年 郷社となる。 境内に御門神社2社があり、櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)
、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと). の2柱の神をお祭りしてあります。
その外に境内末社として、祖霊社、また豊漁および商売繁昌の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。
主祭神の「吾平津昆売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり、「古事記」によれば、お二人の間には「手研耳命(てぎしみみのみこと)」お一人の皇子ありとある神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津昆売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
この故事により、当神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
写真EL: 宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1にある吾平津神社の社殿です。 右に小さなお札、お守りなどを売っている所があります。
「吾平津神社(あひらつじんじゃ)」は宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1 にあります。
吾平津神社(あひらつじんじゃ) [乙姫神社(おとひめじんじゃ)]の説明板。
御由緒
吾平津神社 (乙姫神社) 旧郷社
祭神 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやわのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)、経津主命(ふっぬしのみこと)
例祭日 11月14日、社殿 本殿 神明造、境内地 3066 坪
由緒沿革
当社は元明天皇の御代の和銅2年(709年)の創建にて、乙姫明神と称して、江戸時代、飫肥11社の一つとして歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊東祐帰 (藩)知事の意により吾平津神社と改称され、昭和8年 郷社となる。 境内に御門神社2社があり、櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)
、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと). の2柱の神をお祭りしてあります。
その外に境内末社として、祖霊社、また豊漁および商売繁昌の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。
主祭神の「吾平津昆売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり、「古事記」によれば、お二人の間には「手研耳命(てぎしみみのみこと)」お一人の皇子ありとある神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津昆売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
この故事により、当神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
写真EM: 日南市 材木町 9番20号の1にある吾平津神社の社殿です。 右に小さなお札、お守りなどを売っている所があります。
写真EN: 日南市 材木町 9番20号の1にある「吾平津神社」の境内です。 左に国旗掲揚台(こっきけいようだい)、別の社殿、行事が行われる長方形のコンクリートの場所、石垣、掲示板なども見えます。
「吾平津神社(あひらつじんじゃ)」は宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1 にあります。
吾平津神社(あひらつじんじゃ) [乙姫神社(おとひめじんじゃ)]の説明板。
御由緒
吾平津神社 (乙姫神社) 旧郷社
祭神 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやわのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)、経津主命(ふっぬしのみこと)
例祭日 11月14日、社殿 本殿 神明造、境内地 3066 坪
由緒沿革
当社は元明天皇の御代の和銅2年(709年)の創建にて、乙姫明神と称して、江戸時代、飫肥11社の一つとして歴代の藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊東祐帰 (藩)知事の意により吾平津神社と改称され、昭和8年 郷社となる。 境内に御門神社2社があり、櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)
、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと). の2柱の神をお祭りしてあります。
その外に境内末社として、祖霊社、また豊漁および商売繁昌の霊験あらたかな乙姫稲荷神社が鎮座されています。
主祭神の「吾平津昆売命」は宮崎神宮の御祭神「神武天皇」が狭野尊と称され、また日向に在られた頃の妃であり、「古事記」によれば、お二人の間には「手研耳命(てぎしみみのみこと)」お一人の皇子ありとある神武天皇が皇子や郡臣と共に日向を立って大和朝廷をおこすために東遷された時、「吾平津昆売命」は同行されず、当地に残られ、この油津の地より御東遷の御成功と道中の安全をお祈りされました。
この故事により、当神社は交通安全、航海安全、商売繁昌、諸祈願成就の神様として篤く信仰されています。
写真EO: 日南市 材木町 9番20号の1にある吾平津神社の社殿。 右に小さなお札、お守りなどを売っている所があります。
写真EP: 末社があります。
写真EQ: 鳥の形をした石像が末社の前にあります。
写真ER: 奥に石造りアーチ橋(堀川橋)が見えます。 左手に吾平津昆売命(あひらつめのみこと)の石像があります。
「吾平津神社(あひらつじんじゃ)」は宮崎県 日南市 材木町 9番20号の1 にあります。
写真ES: 左手に「吾平津昆売命(あひらつめのみこと)の石像」があります。 右にベンチもあります。 アーチ橋の堀川橋も見えています。 吾平津神社の階段から。
写真ET: 吾平津神社の前の車道です。
写真EU: アーチ橋より下流の堀川運河です。 左端(ひだりはし)に3階建ての木造の家があります。 中央奥に港大橋が見えます。 中央下のベンチに「日南工業高校」と書いてあります。 運河の右寄りに白い漁船が見えます。
堀川運河付近は第2次世界大戦前に飫肥杉とマグロで栄えました。 その頃の建物や堀川運河沿(ぞ)いの風景は、「日本の美しい歴史的風土 100選」や「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」などに選ばれています。
堀川運河を造る時に、吾平津神社(乙姫神社)から林光寺までの数十間(100 m 近く)はすべて岩だったので、難工事でした。 毎日休みなく工事を行い貞享3年(1686年)3月25日に、2年4ヶ月をかけて堀川運河が完成しました。 完成した堀川運河は長さ約1500 m、幅22〜36 m、深さ3〜6 mで、広渡川からの水門口には大雨の時に水流を和(やわ)らげるために、石堰堤が造られました。 江戸時代前期は、飫肥藩主の参勤交代に油津港から瀬戸内海を通って、大阪まで船が使われました。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真EV: 西端から見た石造りアーチ橋の堀川橋です。 左端の建物は堀川資料館です。 奥に丘が見えます。
写真EW: アーチ橋の西端から北を見た景色です。 右端は堀川資料館です。
写真EX: アーチ橋(堀川橋)の上面を西端から見たものです。
写真EY: アーチ橋(堀川橋)から見た下流の左岸(下流を見て左)の様子(ようす)です。 3階建ての木造の建物も見えます。 港大橋も見えます。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真EZ: アーチ橋(堀川橋)から下流の右岸(下流を見て右)を見たもの。 遠くの山も見えます。
堀川運河は国内に現存する運河の中では7番目に古く、古い石積(いしづ)み護岸は国の登録文化財になっています。
写真FA: 左端の建物は堀川資料館です。 アーチ橋(堀川橋)です。
写真FB: アーチ橋(堀川橋)から北を見た景色です。 右から2軒目は堀川資料館。
写真FC: 堀川橋から見た上流側の右岸(下流を見て右)です。
写真FD: 「運河の町 油津、油津堀川・運河べりふれあい散策路」と書いてあります。 この付近の地図も載(の)っています。
写真FE: 「運河の町 油津、油津堀川・運河べりふれあい散策路」と書いてあります。 この付近の地図も載(の)っています。
写真FF: 「運河の町 油津、油津堀川・運河べりふれあい散策路」と書いてあります。 この付近の地図も載(の)っています。
写真FG: 堀川資料館の前の車道です。 北を見た景色です。
写真FH: 宮崎県 日南市にある「堀川資料館」です。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)