北郷蔵人の墓 (高城川合戦(耳川の戦い)の戦死者) (椎木大師堂板碑(戸次川の戦いの戦死者の石碑))  (宮崎県 児湯郡 木城町 下鶴、椎木)







<標高、位置>  北郷蔵人の墓がある下鶴八幡神社は
標高 約10 m
 北緯32度09分41秒  東経131度29分16秒

<標高、位置>  椎木大師堂 板碑は
標高 約20 m
 北緯32度09分23秒  東経131度27分53秒


 「北郷蔵人の墓」は宮崎県 児湯郡 木城町 下鶴にあります。
北郷蔵人は都城島津の分家の人です。 都城島津は当時、北郷(「ほんごう」と発音します。)と称していました。 高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で、島津は北郷蔵人と本田親治を前軍として高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃(う)ちました。 (島津の本軍は南の茶臼原台地に陣をつくりましたが、北郷蔵人と本田親治は小丸川の北岸に前軍としていました。) 天正6年(1578年)11月12日未明の戦いで、本田親治、引き続いて北郷蔵人が戦死しました。 この高城川合戦の初期は大友が島津より優勢でした。 古い方の小さな墓は寛延2年(1749年)に木城町 下鶴村の人達が八幡神社の境内(けいだい)に建立したものです。 古い方の墓のそばにある新しい方の墓は、ここ(下鶴)の地元の人達が大正4年7月8日に建立したものです。

 「椎木大師堂 境内 板碑」は宮崎県 児湯郡 木城町 椎木にあります。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。
椎木大師堂境内板碑は豊後国(大分県)の戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい、戸次川は大分市 戸次 付近の大野川のことです。)で戦死した人を供養する供養碑であると言われています。
戸次川の戦い(戸次川合戦)は豊臣秀吉の九州征伐のとき、旧暦 天正14年12月12日(新暦では1587年1月20日)に島津家久(佐土原の前島津 第一代、島津義久の弟)と長宗我部元親、長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保の豊臣勢が合戦し、島津が圧勝しました。


写真A: 高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で戦死した「北郷蔵人(ほんごうくらと)の墓」がある下鶴八幡神社です。 高城川は小丸川のことです。 車道は県道19号線です。 先は高城跡、木城町の役場などに行きます。 手前は東九州自動車道の高鍋インターチェンジに行きます。 大きな楠(くすのき)が遠くからでも目立ちます。 鳥居(とりい)、フェニックスの木も見えます。 宮崎県 児湯郡 木城町 下鶴にあります。



写真B: 北郷蔵人の墓のある八幡神社付近の景色。 西を見たもの。



写真C: 東側には泥谷酒店が近くにあります。



写真D: 北側には川南台地が見えます。 ここは高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)の時に大友の陣がいくつもありました。 高城川は小丸川のことです。



写真E: 下鶴八幡神社の入り口です。 車道は県道19号線です。



写真F: 左は境内(けいだい)のクスノキです。 その根元に北郷蔵人の墓があります。



写真G: 下鶴八幡神社の鳥居(とりい)です。 しめ縄があります。



写真H: 「八幡神社」と鳥居に書いてあります。



写真I: 下鶴公民館が境内(けいだい)にあります。



写真J: 車の左に大きな楠(くすのき)があり、その近く(左)に北郷蔵人の墓があります。



写真K: 八幡神社の境内には滑(すべ)り台もあります。



写真L: 「下鶴公民館」と書いてあります。



写真M: 「史跡 北郷蔵人の墓 木城町教育委員会 平成2年12月建立」と書いてある案内棒が境内にあります。 左は国旗掲揚台。 奥に川南台地が見えます。



写真N: 「史跡 北郷蔵人の墓 木城町教育委員会 平成2年12月建立」と書いてある案内棒。



写真O: 「史跡 北郷蔵人の墓 木城町教育委員会 平成2年12月建立」と書いてある案内棒。



写真P: 手前に水道もあります。 右は下鶴公民館。 奥には北郷蔵人の墓が近くにある大きな楠(くすのき)が見えます。



写真Q: 下鶴八幡神社の境内(けいだい)。



写真R: クスノキの上部。



写真S: これが北郷蔵人の墓です。



写真T: 宮崎県 児湯郡 木城町 下鶴にある新しい方の「北郷蔵人の墓」。



写真U: 木城町 下鶴にある新しい方の「北郷蔵人之墓」。



写真V: 「北郷蔵人之墓」の側面。 この新しい方の墓は、ここ(下鶴)の地元の人達が大正4年7月8日に建立したものです。



写真W: 北郷蔵人の墓の説明板。 大きな楠(くすのき)の下にあります。



写真X: 新しい方の「北郷蔵人の墓」。
法名(戒名のこと) 忠心院殿孝山源清居士
 居士 薩摩島津氏之将也(なり) 天正6年高城の役 大友氏之大兵於此地(この地に於(お)いて) 有功(てがらあり) 11月12日遂(ついに)戦死焉距今(いまより)328年也(なり)
大正4年7月8日
と書かれています。



写真Y: 説明板の右の小型の墓が元々の「北郷蔵人の墓」です。 湯のみが供(そな)えてあります。 大正4年に作られた新しい方の北郷蔵人の墓の左にあります。
北郷蔵人は都城島津(当時は北郷と称していました。)の分家の人です。 高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で、島津は北郷蔵人と本田親治を前軍として高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃(う)ちました(小丸川の北岸に)。 天正6年(1578年)11月12日未明の戦いで、本田親治、引き続いて北郷蔵人が戦死しました。 この高城川合戦の初期は大友が島津より優勢でした。 古い方の小さな墓は寛延2年(1749年)に木城町 下鶴村の人達が八幡神社の境内(けいだい)に建立したものです。



写真Z: 「北郷蔵人の墓」の説明板。
 老松の下に北郷蔵人の墓碑があったが、此(こ)の松が枯(か)れその後に楠木(くすのきのき)が植えられたのは寛永年暦のことなり、この楠木の成長に伴い墓碑はその株(かぶ)間に挟(はさ)まれたるに至(いた)り、昭和52年11月北郷400年祭に当たり南方4 mの現位置に移動した。
昭和54年11月
と書かれています。



写真AA: 楠(くすのき)の東に古い方の北郷蔵人の墓(寛延2年(1749年)建立)と新しい方の北郷蔵人の墓(大正4年に建立)が見えます。
ソテツの木、御手洗(みたらい)、説明板も見えます。



写真AB: 別の石もあります。



写真AC: 下鶴八幡神社の境内。 奥に北側の川南台地が見えます。 川南台地には、大友の陣(じん)が高城川合戦の時にはありました。 そこから降りてきた大友の将兵と北郷蔵人は戦いました。 川南台地に高架(こうか)の立派な橋が見えますが、その橋の谷から大友の軍は押し寄せてきました。



写真AD: 境内(けいだい)にはイチョウが色づいていました。



写真AE: 八幡神社の社(やしろ)です。



写真AF: 八幡神社の社(やしろ)。



写真AG: 下鶴八幡神社の社(やしろ)の下部。



写真AH: 下鶴八幡神社の社(やしろ)の下部。 左は下鶴公民館。



写真AI: 八幡神社から西を見たもの。 遠くに高城のある山が見えます。 高城側合戦の時には高城に島津家久、山田新介有信が立て籠(こも)りました。



写真AJ: 八幡神社から西を見たもの。



写真AK: 八幡神社の建物のそばに消防団の建物があります。



写真AL: 八幡神社と県道19号線の間に溝(みぞ)があります。 見えている川南台地には大友の陣(じん)が高城川合戦の時にはありました。



写真AM: 八幡神社の社(やしろ)の南側にも石碑(せきひ)などがあります。



写真AN: 下鶴八幡神社の西側の入口です。 大きなクスノキが見えます。



写真AO: 下鶴八幡神社の西側の入口です。 大きなクスノキが見えます。



写真AP: 楠(くすのき)の上部。



写真AQ: 下鶴八幡神社の西側にも道があります。



写真AR: 下鶴八幡神社の西側の道。



写真AS: 八幡神社の境内。



写真AT: 宮崎県 児湯郡 木城町 椎木に椎木大師堂の石碑群があります。 ここに戸次川の戦いの戦死者の石碑(せきひ)があります。
車道は県道312号線で、先(北)には木城町役場、高城跡が、手前側(南)には西都市、根白坂古戦場跡などがあります。
木城町の役場から南に進み、小丸川を渡り、交差点「出店」を過ぎると県道の西ぞいにこの小さな建物と石碑群があります。
1587年の木城町の根白坂の戦い(豊臣と島津)の1年前、1586年に豊臣秀吉の先鋒軍(先発隊)を島津が大分県の戸次川で撃破しました(戸次川の戦い)。 その時の戦死者を供養(くよう)して造られました。
戸次川の戦いのころは、島津が九州の大部分を配下に置いた時期です。



写真AU: 県道312号線。 先(北)に行くと木城町の役場、高城、木城温泉などがあります。



写真AV: 県道312号線から六地蔵塔、「椎木大師堂 境内 板碑」などが見えます。 茶色の壁の建物があります。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。



写真AW: 大きな六地蔵塔の左の石碑(せきひ)が「椎木大師堂 境内 板碑」です。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。



写真AX: 六地蔵塔の上部です。



写真AY: 6体の地蔵が彫(ほ)られています。



写真AZ: 六地蔵塔の下部。 その左は「椎木大師堂 境内 板碑」です。



写真BA: 六地蔵塔の下部。



写真BB: 六地蔵塔の左が「椎木大師堂 境内 板碑」です。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。



写真BC: 六地蔵塔の左が「椎木大師堂 境内 板碑」です。



写真BD: 六地蔵塔の左が「椎木大師堂 境内 板碑」です。



写真BE: 「椎木大師堂 境内 板碑」です。 戸次川の戦いの戦死者の石碑(せきひ)。 1587年の木城町の根白坂の戦い(豊臣と島津)の1年前、1586年に豊臣秀吉の先鋒軍(先発隊)を島津が大分県の戸次川で撃破しました(戸次川の戦い)。 その時の戦死者を供養(くよう)して造られました。
戸次川の戦いのころは、島津が九州の大部分を配下に置いた時期です。
椎木大師堂境内板碑は豊後国(大分県)の戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい、戸次川は大分市 戸次 付近の大野川のことです。)で戦死した人を供養する供養碑であると言われています。
「戸次川の戦い(戸次川合戦)」は豊臣秀吉の九州征伐のとき、旧暦 天正14年12月12日(新暦では1587年1月20日)に島津家久(佐土原の前島津 第一代、島津義久の弟)と長宗我部元親、長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保の豊臣勢が合戦し、島津が圧勝しました。
「板碑 (いたぴ)」は石造りの卒塔婆 (そとば)です。 平板石を用い、頂 (いただ)きを四角錐 (しかくすい、底面が四角形の角錐 (かくすい))に作ったものが多い。 鎌倉・室町時代に死者追善、生前の逆修供養のために建立 (こんりゅう)されました。



写真BF: 椎木大師堂境内板碑は豊後国(大分県)の戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい、戸次川は大分市 戸次 付近の大野川のことです。)で戦死した人を供養する供養碑であると言われています。
「戸次川の戦い(戸次川合戦)」は豊臣秀吉の九州征伐のとき、旧暦 天正14年12月12日(新暦では1587年1月20日)に島津家久(佐土原の前島津 第一代、島津義久の弟)と長宗我部元親、長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保の豊臣勢が合戦し、島津が圧勝しました。



写真BG: いくつかの石碑(せきひ)が見えます。



写真BH: 椎木大師堂境内板碑は豊後国(大分県)の戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい、戸次川は大分市 戸次 付近の大野川のことです。)で戦死した人を供養する供養碑であると言われています。
「戸次川の戦い(戸次川合戦)」は豊臣秀吉の九州征伐のとき、旧暦 天正14年12月12日(新暦では1587年1月20日)に島津家久(佐土原の前島津 第一代、島津義久の弟)と長宗我部元親、長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保の豊臣勢が合戦し、島津が圧勝しました。



写真BI: 六地蔵塔の右(南西)にも石碑があります。



写真BJ: 六地蔵塔、「椎木大師堂 境内 板碑」を裏側から見たもの。



写真BK: 六地蔵塔、「椎木大師堂 境内 板碑」を裏側から見たもの。



写真BL: 奥に六地蔵塔などが見えます。



写真BM: 右端に六地蔵塔が見えます。 手前はゴミ置き場です。



写真BN: 「椎木大師堂 境内 板碑」のそばの県道312号線。 先に行くと椎木坂(しいきざか)があって、その上に根白坂古戦場跡があります。 見えている南側の茶臼原(ちゃうすばる)台地には高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)のときに島津の陣(じん)がありました。



写真BO: ここに「椎木大師堂 境内 板碑」があります。



写真BP: 「椎木大師堂 境内 板碑」付近から西を見たもの。



写真BQ: 「椎木大師堂 境内 板碑」付近から北西を見たもの。



写真BR: 「椎木大師堂 境内 板碑」付近から北を見たもの。



写真BS: ここに「椎木大師堂 境内 板碑」があります。 県道312号線に沿っています。



写真BT: ここに「椎木大師堂 境内 板碑」があります。 県道312号線の西側に沿っています。



写真BU: 南を見たもの。 遠くは茶臼原台地。 茶臼原(ちゃうすばる)台地には高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)のときに島津の陣(じん)がありました。



写真BV: 県道312号線からみた「椎木大師堂 境内 板碑」のあるところ。



写真BW: 「椎木大師堂 境内 板碑」は茶色の建物のところにあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)