穂北城跡 (上野城跡、ほきた城跡、ホキタ城跡、ほきたじょうあと)  (西都市大字穂北上野地区)







<標高、位置>  穂北城跡公園の駐車場は
標高 約140 m
 北緯32度08分39秒  東経131度24分18秒

            穂北城跡は
標高 約125 m
 北緯32度08分33秒  東経131度24分15秒


 穂北城跡は宮崎県西都市大字穂北上野地区にあります。 地名から、上野城跡とも呼ばれます。 茶臼原台地(ちゃうすばるだいち)の西の端にあります。
 穂北城跡公園の駐車場には、水飲み場、トイレもあります。 駐車場から穂北城跡へは、山道を少し歩きます。 初めは下り坂で、その後、少し上り坂になります。 城跡の広場は整備されています。 サツキの花も咲いていました。 ベンチ、説明板、案内板、3つの石碑(せきひ)もあります。 そこから、穂北の町、西都原、西都市の中心部、一ッ瀬川、遠くの山並みなどが眺望(ちょうぼう)できます。 また、茶臼原(ちゃうすばる)、新田原(にゅうたばる)も見えます。

  --穂北城跡にある説明板によると--
 穂北城跡は、西都市街地の北方(西方とあるのは誤り)4.0 km 、標高120−130 m の茶臼原台地の西端に位置している。
台地には国指定・茶臼原古墳群が分布し、南側台地斜面には横穴式石室をもつ千畑横穴墓群をはじめ多くの横穴墓群が群在している。 また、眼下には穂北平野があり、その北側を一ッ瀬川が東流し、豊かな水田地帯を潤している。
榎ノ木城(えのきじょう)、中ノ城、東ノ城などの曲輪(くるわ、平らなところ)から構成されており、各城間は自然の地形を有効に利用して堀が設けられている。
築城年代は定かでないが、都於郡伊東氏48城の一つとして伝えられている城で、主城の都於郡城を南方約10 kmに眺望することが出来る。 天正5年(1577年)都於郡城の落城と運命を共にするが、伊東氏一族が敗走の際、長倉洞雲斎の城に入るとあるのはこの城のことである。 県教育委員会による発掘調査では南側2つの曲輪(くるわ、平らなところ)の虎口や門跡の存在などが見つかっている。
宮崎県児湯農林振興局にて穂北城跡の環境整備(県営農村広域生活環境整備)が行われることになり、その対象となった南西端の曲輪の事前調査を、西都市教育委員会が主体となり実施した。
その結果、西側にも虎口があることや多数のピットおよび土坑が確認された。 この虎口は、長さ17.0 m、最大幅2.0 m、深さは入り口付近が最も深く、徐々に浅くなり台地上面につながっている。 遺構の出土状況などから、前述した虎口より古い虎口と思われ、築城時はこちらの方から出入りしていたようである。
青白磁、三彩盤などの輸入陶磁器類や国産陶磁器および土師質土器のほか弥生時代の石斧、土錘などが出土しており、古い時代から適地として生活が営まれていたことが確認された。
この調査では、中心的な建物跡と思われる遺構は検出されなかったが、城の機能および性格を少しでも解明できる資料が検出された。


写真A: 穂北城跡に行くには、この三叉路(さんさろ)を左の細い道に進みます。 自動販売機、の左に小さく「穂北城跡 400 m」と書かれた案内標識が見えています。 右の広い車道は、一ッ瀬川の穂北橋(串木橋)から上野を通って茶臼原(ちゃうすばる)に行きます。 台地に上がる坂道の9合目付近に、この三叉路はあります。 電柱、自動販売機などが目印になります。



写真B: 穂北城跡公園に行く三叉路から、茶臼原方向を見たもの。 三叉路の所は、道幅が特に広くなっています。



写真C: 穂北城跡公園に行く三叉路。 穂北城跡に行くには、この細い道を進みます。 車は通れます。



写真D: 穂北城跡に行く三叉路。 このような案内標識「穂北城跡 400 m」があります。 小さめの標識なので、注意しましょう。



写真E: 穂北城跡に行く三叉路。 このような案内標識「穂北城跡 400 m」があります。 小さめの標識なので、注意しましょう。



写真F: 穂北城跡に行く三叉路から、一ッ瀬川の穂北橋(串木橋)方向を見たもの。 このあたりは、茶臼原に上がる坂道の9合目付近です。



写真G: 三叉路の細い道を行くと、T 字路(正確には、細い道があるので十字路です)があります。 ここを左に曲がります。 穂北城への案内標識が木の所に小さく見えています。



写真H: 穂北城跡への案内標識。 これも小さめの看板です。



写真I: この道を先に進みます。 奥に小さく穂北城跡公園の駐車場にあるトイレの建物が見えています。



写真J: 穂北城跡への案内標識。 「穂北城跡 300 m」と書いてあります。



写真K: この道を先に進みます。 奥に小さく穂北城跡公園の駐車場にあるトイレの建物が見えています。



写真L: 宮崎県西都市穂北上野地区にある穂北城跡の駐車場に着きました。 「穂北城跡公園」と書かれた標識があります。



写真M: 穂北城跡公園の駐車場。 トイレ、水飲み場、ドコモの携帯電話用アンテナも見えています。



写真N: ドコモの携帯電話用アンテナが穂北城跡付近にあります。



写真O: ドコモの携帯電話用アンテナが穂北城跡付近にあります。



写真P: 穂北城跡の駐車場。 見えている建物は牛舎です。



写真Q: 宮崎県西都市穂北上野地区にある穂北城跡の駐車場。 見えている建物はトイレと牛舎です。



写真R: 穂北城跡公園の標識は三叉路の所にあります。 穂北城跡に行くには、ここを真っ直ぐ奥に進みます。



写真S: この細い道を進むと、見晴らしの良い穂北城跡に行きます。 ここは車は通れません。 駐車場からは歩きます。



写真T: 穂北城跡に行く歩道。



写真U: 穂北城跡に行く道。



写真V: 穂北城跡に行く歩道。 丸太で作った階段も埋(う)めてあります。



写真W: 穂北城跡に行く道。 駐車場からは下りの坂道です。



写真X: 穂北城跡に行く歩道。 孟宗竹(もうそうだけ)の竹林もあります。



写真Y: 穂北城跡に行く道。 丸太で作った階段もあります。 駐車場から下って、またここからは登りになります。



写真Z: 穂北城跡に行く歩道です。



写真AA: 穂北城跡の手すりが見えてきました。 写真の中央の黒いぼやっとしたものは、カメラの近くの蝿(はえ)です。



写真AB: 穂北城跡に着きました。 高い木もあります。



写真AC: 穂北城跡の柵(さく)と木です。



写真AD: 穂北城跡の入り口付近には、サツキの花が咲いていました。



写真AE: 穂北城跡です。 中央奥には招魂碑の石碑が見えています。 左には、ベンチもあります。



写真AF: 宮崎県西都市穂北上野地区にある穂北城址(ほきたじょうし)。 中程に、まつわり付いている蝿(はえ)も写っています。



写真AG: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。 右上に、まつわり付いている蝿(はえ)も写っています。 左に石碑も写っています。



写真AH: 西都市穂北上野地区にある穂北城址。 右に石碑も写っています。



写真AI: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。



写真AJ: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。 テントも張ってありました。



写真AK: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡には、シダも生えています。



写真AL: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。 壊れかけた説明板があります。 竹の子、サツキの花も見えています。



写真AM: 穂北城の説明板。
史跡 穂北城跡
穂北城跡は、西都市街地の北方(西方とあるのは誤り)4.0 km 、標高120−130 m の茶臼原台地の西端に位置している。
台地には国指定・茶臼原古墳群が分布し、南側台地斜面には横穴式石室をもつ千畑横穴墓群をはじめ多くの横穴墓群が群在している。 また、眼下には穂北平野があり、その北側を一ッ瀬川が東流し、豊かな水田地帯を潤している。
榎ノ木城(えのきじょう)、中ノ城、東ノ城などの曲輪(くるわ、平らなところ)から構成されており、各城間は自然の地形を有効に利用して堀が設けられている。
築城年代は定かでないが、都於郡伊東氏48城の一つとして伝えられている城で、主城の都於郡城を南方約10 kmに眺望することが出来る。 天正5年(1577年)都於郡城の落城と運命を共にするが、伊東氏一族が敗走の際、長倉洞雲斎の城に入るとあるのはこの城のことである。 県教育委員会による発掘調査では南側2つの曲輪(くるわ、平らなところ)の虎口や門跡の存在などが見つかっている。
宮崎県児湯農林振興局にて穂北城跡の環境整備(県営農村広域生活環境整備)が行われることになり、その対象となった南西端の曲輪の事前調査を、西都市教育委員会が主体となり実施した。
その結果、西側にも虎口があることや多数のピットおよび土坑が確認された。 この虎口は、長さ17.0 m、最大幅2.0 m、深さは入り口付近が最も深く、徐々に浅くなり台地上面につながっている。 遺構の出土状況などから、前述した虎口より古い虎口と思われ、築城時はこちらの方から出入りしていたようである。
青白磁、三彩盤などの輸入陶磁器類や国産陶磁器および土師質土器のほか弥生時代の石斧、土錘などが出土しており、古い時代から適地として生活が営まれていたことが確認された。
この調査では、中心的な建物跡と思われる遺構は検出されなかったが、城の機能および性格を少しでも解明できる資料が検出された。
平成8年3月
西都市教育委員会
と書いてあります(一部は、文字が欠けているため判読しました)。



写真AN: 穂北城の説明板。
史跡 穂北城跡
穂北城跡は、西都市街地の北方(西方とあるのは誤り)4.0 km 、標高120−130 m の茶臼原台地の西端に位置している。
台地には国指定・茶臼原古墳群が分布し、南側台地斜面には横穴式石室をもつ千畑横穴墓群をはじめ多くの横穴墓群が群在している。 また、眼下には穂北平野があり、その北側を一ッ瀬川が東流し、豊かな水田地帯を潤している。
榎ノ木城(えのきじょう)、中ノ城、東ノ城などの曲輪(くるわ、平らなところ)から構成されており、各城間は自然の地形を有効に利用して堀が設けられている。
築城年代は定かでないが、都於郡伊東氏48城の一つとして伝えられている城で、主城の都於郡城を南方約10 kmに眺望することが出来る。 天正5年(1577年)都於郡城の落城と運命を共にするが、伊東氏一族が敗走の際、長倉洞雲斎の城に入るとあるのはこの城のことである。 県教育委員会による発掘調査では南側2つの曲輪(くるわ、平らなところ)の虎口や門跡の存在などが見つかっている。
宮崎県児湯農林振興局にて穂北城跡の環境整備(県営農村広域生活環境整備)が行われることになり、その対象となった南西端の曲輪の事前調査を、西都市教育委員会が主体となり実施した。
その結果、西側にも虎口があることや多数のピットおよび土坑が確認された。 この虎口は、長さ17.0 m、最大幅2.0 m、深さは入り口付近が最も深く、徐々に浅くなり台地上面につながっている。 遺構の出土状況などから、前述した虎口より古い虎口と思われ、築城時はこちらの方から出入りしていたようである。
青白磁、三彩盤などの輸入陶磁器類や国産陶磁器および土師質土器のほか弥生時代の石斧、土錘などが出土しており、古い時代から適地として生活が営まれていたことが確認された。
この調査では、中心的な建物跡と思われる遺構は検出されなかったが、城の機能および性格を少しでも解明できる資料が検出された。
平成8年3月
西都市教育委員会
と書いてあります(一部は、文字が欠けているため判読しました)。



写真AO: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。 竹の子、サツキの花も見えています。



写真AP: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。 中央下に、まつわり付いている蝿(はえ)も写っています。



写真AQ: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡には、大きな木もあります。



写真AR: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。



写真AS: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。



写真AT: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡には、大きな木もあります。 中央付近に、まつわり付いている蝿(はえ)も写っています。



写真AU: 穂北城跡には招魂碑(しょうこんひ)があります。 菊の御紋も中段に付いています。



写真AV: 穂北城跡には招魂碑(しょうこんひ)があります。



写真AW: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。



写真AX: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。 大きな木や説明板も見えています。



写真AY: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。 大きな木や説明板も見えています。



写真AZ: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。



写真BA: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡。



写真BB: 「穂北城跡公園」の案内板。 絵地図と説明があります。



写真BC: 「穂北城跡公園」の絵地図。



写真BD: 「穂北城跡公園」の案内板。
この公園整備は、歴史上の遺跡、風土などの保存を図りながら周辺の住民および来訪者に憩いの場を提供することを目的として農林水産省の補助事業でつくられたものである。 山頂の広場に芝・ベンチ・植栽などの修景施設および遊歩道・駐車場などの整備を行った。
 天正6年(1578年)穂北城落城に際して、合戦の最中に敵・味方が和歌を詠(よ)み合った。 この逸話は、当時の文化の香りを感じさせるものである。
事業の概要
1.事業名 農村自然環境整備事業
2.地区名 西都(穂北城農村公園緑地整備)
3.施工年度 平成6−7年度
と書いてあります。



写真BE: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BF: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BG: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BH: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BI: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BJ: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BK: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BL: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BM: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BN: 西都市穂北上野地区にある穂北城跡にある石碑(せきひ)。 「紀念碑」と書いてあります。 昭和8年4月建立。
永禄の頃 伊東 氏が築城。 天正の末頃 廃城となった。 昭和3年2月に起工し同年4月に開山した。 と書かれています。



写真BO: 西都市穂北上野地区 穂北城跡にある「御大典紀念」と彫(ほ)られた石碑。 上野城跡保存会 昭和3年4月開園。 と書かれています。 (大典とは、重大な儀式のことです。 穂北城は上野城とも呼ばれます。 穂北の上野地区にあるからです。)



写真BP: 西都市穂北上野地区 穂北城跡にある「御大典紀念」と彫(ほ)られた石碑。 上野城跡保存会 昭和3年4月開園。と書かれています。 (大典とは、重大な儀式のことです。 穂北城は上野城とも呼ばれます。 穂北の上野地区にあるからです。)



写真BQ: 西都市穂北上野地区 穂北城跡にある「御大典紀念」と彫(ほ)られた石碑。 上野城跡保存会 昭和3年4月開園。と書かれています。 (大典とは、重大な儀式のことです。 穂北城は上野城とも呼ばれます。 穂北の上野地区にあるからです。)



写真BR: 穂北城跡にはベンチ、柵(さく)などもあります。 サツキの花も見えています。



写真BS: 穂北城跡にはベンチ、柵(さく)などもあります。



写真BT: 穂北城跡にはベンチ、石碑(せきひ)、案内板などもあります。



写真BU: 穂北城跡。



写真BV: 穂北城跡。



写真BW: 穂北城跡。 竹の子も芝生に生えています。



写真BX: 穂北城跡。



写真BY: 穂北城跡。 石碑(せきひ)もあります。



写真BZ: 穂北城跡。



写真CA: 穂北城跡。 案内板も見えています。



写真CB: 穂北城跡からの景色。 手前の川は一ッ瀬川です。 奥は西都原です。 穂北の町が見えています。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CC: 穂北城跡からの眺望。 南の方にある西都市の市街地も見えています。 左の台地は新田原(ひゅうたばる)、右の台地は西都原(さいとばる)、手前の川は一ッ瀬川です。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CD: 穂北城跡からの眺望。 一ッ瀬川の左の方に、下水流大橋(しもずるおおはし)も見えています。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CE: 穂北城跡から見える遠くの山々。 7重の山なみが見えています。 7重の重(かさ)なりの山が見えるところは、意外と少ないと思います。



写真CF: 穂北城から。



写真CG: 穂北城跡から見た穂北の町。 遠くの山には西都原古墳群、県立西都原考古博物館も見えています。 穂北小学校、穂北中学校、団地、畑のビニールハウスなども見えます。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CH: 穂北城からの景色。 西都市穂北の町、南方神社(みなみかたじんじゃ)の鎮守の森、遠くに県立西都原考古博物館なども見えています。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CI: 穂北城からの眺望。 一番遠くの台地に伊東 氏の主城である都於郡城跡(とのこおりじょうあと、西都市都於郡)があります。 西都市の稚児ヶ池(ちごがいけ)近くの団地、国道の生コン工場の高い建物、多くのビニールハウスなども見えています。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CJ: 穂北城からの景色。 南の方にある西都市の市街地も見えています。 そこには、サンキの大きな建物、生コン工場の建物、田植えの終わった田んぼも見えます。 手前の川は一ッ瀬川です。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CK: 穂北城跡からの景色。 左に下水流大橋(しもずるおおはし)が見えています。 その下流(奥の方)にうっすらと山角橋(やますみはし)、その上に宴会場 敷島の建物も見えています。 台地は、手前が茶臼原(ちゃうすばる)、遠くが新田原(にゅうたばる)です。 標高125 m からの景色は素晴らしい。



写真CL: 穂北城から見た茶臼原(ちゃうすばる)。



写真CM: 穂北城跡のベンチ。



写真CN: 穂北城跡。 テントも張ってありました。



写真CO: 初めに、サツキの間のこの道を登ってきました。



写真CP: 穂北城跡から降りる道に、竹の子(ダイミョウ)を取った跡がありました。



写真CQ: ここにも、人があまり通らない道があります。



写真CR: 穂北城跡公園の駐車場に戻ってきました。



写真CS: 穂北城跡公園の駐車場のそばには、牛舎があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)