法華嶽薬師寺、法華嶽公園 (法華岳薬師寺、ほけだけやくしじ、法華嶽薬師、日本三大薬師の一つ、和泉式部、木造 薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ)は、その三尊他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに宮崎県指定の文化財、島津義弘が寄贈した鬼瓦(おにがわら、守護神)、うずら車 (鶉車)、和泉式部の像、式部茶屋、式部谷、薬師寺大祭、法華嶽キャンプ場、深年川、流れるプール、じゃぶんこ広場、ふれあい広場、結の宿 (ゆいのやど)、法華嶽総合森林公園、釈迦ヶ岳登山口、釈迦ヶ岳(しゃかがだけ、標高 830.8 m)、掃部岳登山口へ行く道、国営綾川用水路)  (宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年)







<標高、位置>  法華嶽薬師寺 (ほけだけやくしじ、法華嶽薬師)は
標高 約270 m
 北緯32度02分33秒  東経131度15分03秒

<標高、位置>  身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)は
標高 270.0 m
 北緯32度02分18秒  東経131度15分07秒

<標高、位置>  法華嶽公園 (ほけだけこうえん)は
標高 約180 m
 北緯32度02分28秒  東経131度15分19秒

<標高、位置>  法華嶽キャンプ場は
標高 約170 m
 北緯32度02分38秒  東経131度15分31秒

<標高、位置>  法華嶽公園の流れるプール、じゃぶんこ広場は
標高 約160 m
 北緯32度02分35秒  東経131度15分38秒


 「法華嶽薬師寺 (ほけだけやくしじ)」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4050にあります。
「法華嶽薬師寺」の説明板から、
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。
 「法華嶽薬師寺」は江戸時代末期に火災があり、その後、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の流れで1867年 (慶応2年)に廃寺となりました。 1969年(昭和44年)に地元の法華嶽薬師協会の尽力で奉蔵倉と拝殿が建設されました。 法華嶽薬師寺は禅宗のお寺です。 平安時代に紫式部、赤染衛門、清少納言、伊勢大輔と並んで五賢女と言われた歌人の和泉式部の伝承が残っています。 西都市 鹿野田に「伝承地 和泉式部の墓」があります。 本堂の手前の白い台の上に立派な「鬼瓦(おにがわら)」があります。 左右に1つずつあります(一対)。 これは島津義弘が朝鮮出兵のときに建立した法華嶽薬師寺の本堂の鬼瓦で、近年、修復した時にここに置いたものです。 法華嶽薬師寺のある深年地区は昔は高岡郷に所属していました。 幕末の勤王の志士の高山彦九郎もこの法華嶽薬師寺に立ち寄っています。 寛政(江戸時代後期、1789年−1801年)4年6月には、西都市 鹿野田にある鹿野田神社を高山彦九郎(江戸時代後期の尊皇攘夷の思想家で、旅の思想家として膨大な日記を残しています。 新富町の観音山にも登って歌を残しています。 観音山に石碑があります。)が訪(おとず)れ、時勢を談じました(丸山相模守良記)。 法華嶽うずら車は宮崎市 佐土原町の久峰観音のうずら車とともに有名です。 柄紙傘も有名です。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日

「法華嶽薬師寺 (ほけだけやくしじ)の文化財」の説明板から、
 ここ法華嶽薬師寺は、養老2年(718年)に金峯山 長喜院として釈迦岳 (しゃかだけ)山頂に建てられたのが創建とされています。 越後(新潟県)の米山薬師堂(よねやまやくしどう)、三河(愛知県)の鳳来寺薬師とともに日本三薬師のひとつとされ、かっては本堂伽藍(がらん)のほか12の僧坊(そうぼう、僧尼の起居する寺院付属の家屋)が立ち並ぶほどの隆盛を誇(ほこ)りました。
 寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。
 薬師如来は、人間の病苦をいやし、苦悩を除(のぞ)くなど12の祈願(きがん)をたてた如来です。 この薬師三尊は、ともに檜(ひのき)材の漆箔(しっぱく)仕上げ、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)づくりです。 入念かつ技巧的な作風で、平安時代の末期から鎌倉時代の初めに作られたと思われます。
 須弥壇(しゅみだん)は、唐様(からよう)で朱塗り仕上げ、金箔(きんぱく)押しのっくりです。 黒漆(くろうるし)と朱漆が交互に塗(ぬ)られ、唐獅子(からじし)と牡丹(ぼたん)が透(す)かし彫(ぼ)りで美しく彫刻された、室町時代作製の優品です。

 「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の説明板から、
平安時代の頃、女流歌人 和泉式部が、悪病にかかり法華嶽薬師寺に参籠 (さんろう)して大慈大悲の仏の御手にすがってひたすら読経(どきょう)を続けて平癒(へいゆ)を祈ったが、少しも効果がなく、我が身の業(ごう)を嘆き生きる望みも絶え果(は)て「南無薬師諸病悉除(しつじょ)の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と辞世の一首を残し、千尋(せんじん)の谷底に身を投じました。 しばらく気を失っていた式部は、あかねの日かげに薬師如来の御姿を見て「村雨(むらさめ、にわか雨)は只(ただ)一(ひと)時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」の御返歌を賜(たまわ)り正気に戻ったとき、悪病は平癒(へいゆ)して再び玉の姿となり、喜んで京へ旅立ったといいます。
 ここはその伝説が残された地であり、宮崎平野を一望できる眺望絶景の地です。

 「法華嶽公園 (ほけだけこうえん)」と「法華嶽公園キャンプ場」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4106番地30にあります。
「法華嶽公園概要」の説明板から、
 平安時代に建立された日本三薬師の一つ法華嶽薬師寺は、和泉式部の参籠(さんろう)伝説が伝わる由緒あるお寺です。
 このお寺を取り巻く緑豊かな山ふところに昭和55年から公園整備を進め現在に至(いた)っており、地名も法ヶ岳ということから法華嶽公園と名付けられ親しまれています。
 法華嶽公園には展望台、日本庭園、釈迦ヶ岳登山道入口、法華嶽薬師寺、駐車場、身投嶽展望台、グラススキー場 (マウンテンボード)、マウンテンバイクコース、草ソリスキー場、法華嶽パークハウス、子供広場、バーベキュー広場、芝生広場 (南、北)、クラブハウス、テニスコート、パターゴルフ場、結の宿 (ゆいのやど)、コミュニティプラザ、式部岳、ふれあい広場、レストラン、キャンプ場、ジャブンコ広場、流れるプール(河川プール)、愛染川、九州自然歩道、バス停、などがあります。 このグラススキー場は西日本一の長さ(510 m)です。 グラススキーはローラーの付いたスキーを履(は)いて、両手にストック(つえ)を持ち草地の上を滑ります。 山桜、ソメイヨシノなどの桜の木が約1000本、シャクナゲが約500本あります。 近くの渓流 (愛初川(深年川))でのヤマメ釣り、森林浴、登山も楽しめます。



写真A: 「法華嶽薬師寺 (ほけだけやくしじ)」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4050にあります。 薬師寺大祭が行われた日で、多くの出店がありました。 手前は駐車場です。 左上に吹流しも見えます。 参道は左奥にあります。 中央右寄りにバス停も見えています。



写真B: 国富町の法華嶽薬師寺は法華嶽薬師とも呼(よ)ばれます。 左にバス停があります。
車で来る時は右奥から坂道を登って来ました。



写真C: 法華嶽薬師寺の駐車場です。



写真D: 法華嶽薬師寺の駐車場。



写真E: 国富町にある法華嶽薬師の第2駐車場です。 ここから釈迦ヶ岳(しゃかがだけ、標高 830.8 m)に登ることができます (釈迦ヶ岳登山口)。 釈迦ヶ岳はここから約4 km 北西にあります。



写真F: 東諸県郡 国富町にある法華嶽薬師寺の第1駐車場です。



写真G: 国富町にある法華嶽薬師寺の第1駐車場。



写真H: 奥が法華嶽薬師寺の参道です。 中央に和泉式部 (平安時代の女流歌人)の像、左に法華嶽薬師寺の説明板、吹流し、右に石灯籠(いしどうろう)、石碑(せきひ)も見えます。



写真I: 和泉式部 (平安時代の女流歌人)の像です。
国富町の法華嶽薬師寺に、和泉式部が来たという伝説があります。



写真J: 花も供(そな)えてあります。



写真K: 「和泉式部 平安時代の歌人、南無薬師 諸病疾除の願かけて 身より佛の 名こそ惜しけれ 和泉式部」と彫(ほ)った石碑(せきひ)が和泉式部の像の下部にあります。



写真L: 「日本三大薬師 伝教大師 御開山 真金山 法華嶽薬師寺」と彫った石碑あります。
伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が真金山 法華嶽薬師寺を開山しました。



写真M: 和泉式部像の側面です。



写真N: 「薬師如来の返歌、村雨(むらさめ、にわか雨のこと。)は只(ただ)ひと時の ものぞかし 己が蓑笠(みのがさ) 其処(そこ)に脱ぎ置け」と彫ってあります。



写真O: 「法華嶽薬師寺」の説明板があります。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真P: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真Q: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真R: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真S: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真T: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真U: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真V: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真W: 「法華嶽薬師寺」の説明板です。
 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 位置 宮崎市よりおよそ26 km の雄大な位置にある。
縁起: 第44代 元正天皇(奈良時代前期の女帝、在位 715年〜724年)の御代 養老2年8月8日 釈迦ヶ岳の頂上に、堂宇を建立し、金峯山 長喜院とし、釈迦仏薬師如来の尊像を安置したのに始まる。 その後、第50代 桓武天皇の御代 延暦(えんりゃく)25年(807年)に伝教大師 (最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)が唐より帰朝し九州の古跡霊山を巡錫した際、この地が霊山勝地であるとして錫(すず)を留め伽藍僧坊を建立し日光月光12神将不動毘沙門仁王18体を自ら彫刻安置した。 その間、金気不絶であったため金峯山を真金山と改め、長喜院を法華嶽薬師寺に改号し、今日に至(いた)っているが、越後の国 米山薬師、三河の国 鳳来寺の薬師ともに日本三薬師として、古来著名である。

「和泉式部 参籠(さんろう)」のこと: 上東門院(第66代 一条天皇の皇后 藤原道長の長女 彰子)に仕えていた式部(和泉守橘道具の妻)は、難病を蒙(こうむ)り、京都清水観世音菩薩の御堂に3・7(21日)の平癒祈願をなし満願の朝、「日本三薬師に参籠し祈願すべし、されば健(すこ)やかなる身に復るべし」とお告(つ)げがあった。 かくて式部はまず越後の米山、ついで三河の鳳来寺の両薬師に丹精こめて祈願をしたが何らの霊験もないまま遙(はる)か日向に下向して法華嶽薬師に参籠なし、春夏秋冬その朝夕を谷川に身を浄め、精進修行したため薬師のお恵み加わり晴れて玉の姿に立ち復りよろこび勇(いさ)んで京への帰途、麓(ふもと)の小川で汚い老人に出逢い、薬師の心引とも知らずすげなく振り切ったところ忽(たちま)ち元の病身に変わった。 この小川を以来 逢初川(あいぞめがわ)と称している。
 さて、もとの病身に復った式部は、もはや御仏の加護も絶えしものと思いこみ辞世の一首「南無薬師、諸病疾除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と詠(えい)じ懸崖(今の身投げ嶽)に佇(たたず)まさに身まからん瞑目(めいもく)の一瞬、薬師如来のお姿現れ「村雨(むらさめ、にわか雨)はただ一時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」との返歌があり、心に悟(さとり)を感じた式部は更(さら)に1年の光陰、ひたすら修行にあけくれついに清浄の身となり、京への帰路につかれた。 その後、式部礼参の(おり)秘蔵の琵琶(びわ)を奉納した。 添書その他の記録が現存している。 また式部が参籠中 日毎(ひごと)3度 行水して身を浄めたという谷川のほとりに、式部の筆跡なる「和泉式部」と刻した岩が当時のよすがを伝えている。

「法華嶽鶉(うづら)」のこと: 天正天皇の御代(天正時代 1573年〜1592年)はじめて堂宇を建立した際、本堂御柱の切端(きりはし)に類似したものがあり寺僧これに目羽手を描き、尊像の御前に供(そな)え、朝夕 熱心に礼拝すると、不思議にも鶉の鳴き声がしたという。 現存玩具(がんぐ)として各地で愛用され、昭和15年天皇陛下 日向下向の際、法華嶽鶉(うずら)4個を天覧の上お買い上げになった。
初 御縁日 旧正月8日・9日、夏期 旧6月8日、開山御縁日 旧8月8日、御開帳日 旧12月23日
と書かれています。



写真X: 国富町の法華嶽薬師寺にある「和泉式部の像」の背面です。



写真Y: 「平成24年1月吉日 峯林 建立」と彫ってあります。



写真Z: 法華嶽薬師大祭での出店です。 射的(しゃてき)が見えます。 射的はコルクを弾(たま)とした空気銃で、棚(たな)に並べた景品を撃(う)ち当たって倒れたらもらえるというゲームです。 よく出店で見られます。



写真AA: 「フライドポテト」と出店に書いてあります。



写真AB: 「護摩祈祷(ごまきとう) 諸願成就(しょがんじょうじゅ)、薬師如来拝観 ご自由に奥の方へお上がり下さい。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真AC: 宮崎県 宮崎市 東諸県郡 国富町にある法華嶽薬師の参道です。 大祭で多くの幟(のぼり)が立っています。 両側に杉の木があります。 左に石仏もあります。 奥にお堂が見えます。



写真AD: 参道の右手にも塀(へい)があります。



写真AE: 参道の左手に「伝教大師(最澄(さいちょう)、最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)御遺跡」の石碑(せきひ)があります。 国富町の法華嶽薬師(ほけだけやくし)。


写真AF: 石像が右手にあります。 奥は遠くの景色が見えています。



写真AG: 「法ヶ岳いもづる会 国富町」のテントがあります。



写真AH: 芋飴(いもあめ)、米飴、板飴、水飴などを売っています。



写真AI: 国富町の法華嶽薬師寺に「式部茶屋 (しきぶちゃや)」があります。
左端(ひだりはし)の室外に法華嶽薬師名物の伝統玩具(がんぐ)である「ウズラ車」が販売されています。 右寄りの棚(たな)にも大きな奉納された鶉車(うずらぐるま)などが見えます。 店内では甘酒(あまざけ)、ぜんざい が売られていました。



写真AJ: 法華嶽薬師寺の伝統玩具である「ウズラ車 (うずらぐるま)」です。 大きなものは¥1000で小さなものは¥500でした。 キーホルダーと思われる物も¥500で販売されています。
法華嶽うずら車は宮崎市 佐土原町の久峰観音のうずら車とともに有名です



写真AK: 法華嶽薬師寺の伝統玩具である「ウズラ車 (うずらぐるま、鶉車)」です。 野鳥のウズラの形をしていて、丸い車が2つ付いていて転(ころ)がして遊びます。 顔には目も描(えが)いてあります。 同様なものは、宮崎市 佐土原町の久峰観音にもあります。



写真AL: 式部茶屋ではお札、お守りも売っています。



写真AM: 式部茶屋のそばから見た景色です。



写真AN: 法華嶽薬師寺の境内(けいだい)からは国富町、宮崎市などが展望できます。



写真AO: 竹も見えます。



写真AP: 法華嶽薬師の幟(のぼり)が多く立っています。 右奥に白壁(しらかべ)も見えます。



写真AQ: 式部茶屋の裏側です。 遠くの景色を眺望(ちょうぼう)するためのベンチ、椅子(いす)があります。



写真AR: 法華嶽薬師寺の式部茶屋です。



写真AS: 式部茶屋からの景色です。



写真AT: 式部茶屋からの景色。



写真AU: 法華嶽薬師寺の境内からの展望です。



写真AV: 法華嶽薬師からの眺望(ちょうぼう)です。



写真AW: 石像が見えます。 右に「伝教大師御遺跡(伝教大師は最澄(さいちょう)のことです。 最澄は日本天台宗の開祖です。 767年から822年)」の石碑(せきひ)、法華嶽薬師寺の文化財の説明板、杉の木も見えています。



写真AX: 「奉納」と書かれた大きなウズラ車が式部茶屋に飾ってあります。
法華嶽うずら車は宮崎市 佐土原町の久峰観音のうずら車とともに有名です



写真AY: 「式部茶屋、ぜんざい 甘酒」と書いてあります。



写真AZ: 「あまざけ」と書いてあります。



写真BA: 法華嶽薬師の式部茶屋の中です。 奥ではお札、お守りなどを売っています。 店内からも遠くの景色が楽しめます。



写真BB: 法華嶽薬師の式部茶屋の中。 石油ストーブの上にヤカンがのっています。



写真BC: 右はぜんざい、左はお茶です。 国富町にある法華嶽薬師寺の式部茶屋。



写真BD: 法華嶽薬師寺の式部茶屋です。



写真BE: 国富町にある法華嶽薬師寺の式部茶屋。



写真BF: 右は甘酒 (あまざけ)、左はぜんざいです。



写真BG: 「甘酒 300円、ぜんざい 400円」と書いてあります。



写真BH: 後ろに法華嶽薬師寺の本堂が見えます。



写真BI: 法華嶽薬師の本堂です。



写真BJ: 宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4050にある法華嶽薬師寺の本堂です。 薬師寺大祭の日の写真です。
この裏に奥の院があります。 奥の院で3体の歴史ある仏像がご開帳 (寺院で、特定の日に秘仏を一般の人々に拝(おが)ませること。)されていました。 奥の院には右の縁側(えんがわ)を通って行きます。
右手前の台の上に立派な鬼瓦(おにがわら)が見えます。
寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。
本堂の手前の白い台の上に立派な「鬼瓦(おにがわら)」が見えます。 左右に1つずつあります(一対)。 これは島津義弘が朝鮮出兵のときに建立した法華嶽薬師寺の本堂の鬼瓦で、近年、修復した時にここに置いたものです。



写真BK: 左のテントの所に傘(かさ)が飾ってあります。 これは法華嶽薬師寺の柄紙傘です。 右は本堂です。 屋根の下に象などの彫刻が見えます。



写真BL: テントの所に傘(かさ)が飾ってあります。 これは法華嶽薬師寺の柄紙傘です。



写真BM: 「奉納 南無薬師如来」などと書かれた幟(のぼり)があります。 オミクジがたくさん木の枝に縛(しば)り付けてあります。 石灯籠(いしどうろう)、杉の木も見えます。



写真BN: 国富町にある法華嶽薬師寺の手水舎(ちょうずや)です。



写真BO: 奉納された白い手ぬぐいも見えます。 手水舎(ちょうずや)です。



写真BP: 右は手水舎です。



写真BQ: 御手洗(みたらい)です。 柄杓(ひしゃく)も置いてあります。 水も流れています。



写真BR: 薬師寺大祭の日の「法華嶽薬師寺」です。
屋根の下に象の彫り物、提灯(ちょうちん)が見えます。 手前にロウソク、線香(せんこう)があります。



写真BS: 「薬師寺」と背中に書いてある服を着た男の人もいます。 薬師寺大祭の日で、多くの参拝者(さんぱいしゃ)が来ていました。
本堂の手前の白い台の上に立派な「鬼瓦(おにがわら)」が見えます。 左右に1つずつあります(一対)。 これは島津義弘が朝鮮出兵のときに建立した法華嶽薬師寺の本堂の鬼瓦で、近年、修復した時にここに置いたものです(屋根の左の下に見えます。)



写真BT: 本堂の右手の様子(ようす)です。



写真BU: 国富町の法華嶽薬師寺。 薬師寺大祭の日で、この本堂の裏にある奥の院で3体の秘仏を拝観(はいかん、つつしんで見ること)することが出来ました。
寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。



写真BV: 本堂の左手の様子(ようす)です。



写真BW: 国富町にある薬師寺大祭の日の「法華嶽薬師」です。



写真BX: 薬師寺大祭の日の「法華嶽薬師」です。



写真BY: 本堂の裏の奥の院で3体の秘仏を拝観(はいかん、つつしんで見ること)することが出来ました。 これから参道を引き返します。 左は式部茶屋です。
寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。



写真BZ: 石灯籠(いしどうろう)、杉の木、式部茶屋が見えます。



写真CA: 芋飴(いもあめ)、米飴(こめあめ)、水飴(みずあめ)を売っていました。
後ろに紅白の幕があります。



写真CB: 東諸県郡 国富町にある法華嶽薬師の参道です。 両側に杉の木があります。 右の木の枝にオミクジが縛(しば)り付けてあります。



写真CC: 「法華嶽薬師寺 (ほけだけやくしじ)の文化財」の説明板です。
 ここ法華嶽薬師寺は、養老2年(718年)に金峯山 長喜院として釈迦岳 (しゃかだけ)山頂に建てられたのが創建とされています。 越後(新潟県)の米山薬師堂(よねやまやくしどう)、三河(愛知県)の鳳来寺薬師とともに日本三薬師のひとつとされ、かっては本堂伽藍(がらん)のほか12の僧坊(そうぼう、僧尼の起居する寺院付属の家屋)が立ち並ぶほどの隆盛を誇(ほこ)りました。
 寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。
 薬師如来は、人間の病苦をいやし、苦悩を除(のぞ)くなど12の祈願(きがん)をたてた如来です。 この薬師三尊は、ともに檜(ひのき)材の漆箔(しっぱく)仕上げ、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)づくりです。 入念かつ技巧的な作風で、平安時代の末期から鎌倉時代の初めに作られたと思われます。
 須弥壇(しゅみだん)は、唐様(からよう)で朱塗り仕上げ、金箔(きんぱく)押しのっくりです。 黒漆(くろうるし)と朱漆が交互に塗(ぬ)られ、唐獅子(からじし)と牡丹(ぼたん)が透(す)かし彫(ぼ)りで美しく彫刻された、室町時代作製の優品です。
国富町教育委員会
と書かれています。
私は、薬師寺大祭の日だったのでこれらの木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))と須弥壇(しゅみだん)を見て拝(おが)む事が出来ました。



写真CD: 「法華嶽薬師寺 (ほけだけやくしじ)の文化財」の説明板です。
 ここ法華嶽薬師寺は、養老2年(718年)に金峯山 長喜院として釈迦岳 (しゃかだけ)山頂に建てられたのが創建とされています。 越後(新潟県)の米山薬師堂(よねやまやくしどう)、三河(愛知県)の鳳来寺薬師とともに日本三薬師のひとつとされ、かっては本堂伽藍(がらん)のほか12の僧坊(そうぼう、僧尼の起居する寺院付属の家屋)が立ち並ぶほどの隆盛を誇(ほこ)りました。
 寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。
 薬師如来は、人間の病苦をいやし、苦悩を除(のぞ)くなど12の祈願(きがん)をたてた如来です。 この薬師三尊は、ともに檜(ひのき)材の漆箔(しっぱく)仕上げ、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)づくりです。 入念かつ技巧的な作風で、平安時代の末期から鎌倉時代の初めに作られたと思われます。
 須弥壇(しゅみだん)は、唐様(からよう)で朱塗り仕上げ、金箔(きんぱく)押しのっくりです。 黒漆(くろうるし)と朱漆が交互に塗(ぬ)られ、唐獅子(からじし)と牡丹(ぼたん)が透(す)かし彫(ぼ)りで美しく彫刻された、室町時代作製の優品です。
国富町教育委員会
と書かれています。
私は、薬師寺大祭の日だったのでこれらの木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))と須弥壇(しゅみだん)を見て拝(おが)む事が出来ました。



写真CE: 「法華嶽薬師寺 (ほけだけやくしじ)の文化財」の説明板です。
 ここ法華嶽薬師寺は、養老2年(718年)に金峯山 長喜院として釈迦岳 (しゃかだけ)山頂に建てられたのが創建とされています。 越後(新潟県)の米山薬師堂(よねやまやくしどう)、三河(愛知県)の鳳来寺薬師とともに日本三薬師のひとつとされ、かっては本堂伽藍(がらん)のほか12の僧坊(そうぼう、僧尼の起居する寺院付属の家屋)が立ち並ぶほどの隆盛を誇(ほこ)りました。
 寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。
 薬師如来は、人間の病苦をいやし、苦悩を除(のぞ)くなど12の祈願(きがん)をたてた如来です。 この薬師三尊は、ともに檜(ひのき)材の漆箔(しっぱく)仕上げ、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)づくりです。 入念かつ技巧的な作風で、平安時代の末期から鎌倉時代の初めに作られたと思われます。
 須弥壇(しゅみだん)は、唐様(からよう)で朱塗り仕上げ、金箔(きんぱく)押しのっくりです。 黒漆(くろうるし)と朱漆が交互に塗(ぬ)られ、唐獅子(からじし)と牡丹(ぼたん)が透(す)かし彫(ぼ)りで美しく彫刻された、室町時代作製の優品です。
国富町教育委員会
と書かれています。
私は、薬師寺大祭の日だったのでこれらの木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))と須弥壇(しゅみだん)を見て拝(おが)む事が出来ました。



写真CF: 「薬師寺大祭 臨時駐車場 直進して下さい。」と書いてあります。



写真CG: 薬師寺大祭が行われていない時の写真です。
本堂です。 両側の台の上に鬼瓦(おにがわら)が置いてあります。



写真CH: 鬼瓦(おにがわら)の守護神です。
天正年間(安土・桃山時代、1573年〜1592年)、島津義弘 公 朝鮮出陣の際に武運長久を祈願して七堂伽藍(しちどうがらん)を建設し本堂の屋根に安置されたるも400年の風雪を経(へ)て昭和45年本堂再建の折(おり)地上に下(お)ろされしものを再びこの場に安置するものなり。」
と台に書いてあります。



写真CI: 本堂のお賽銭箱(さいせんばこ)とお守り、おみくじです。



写真CJ: 本堂の屋根裏です。



写真CK: 本堂の側面です。



写真CL: 本堂の側面。



写真CM: 本堂の裏に奥の院の白い建物があります。 この中に本尊などがあり、大祭のときにご開帳されます。
寺の本尊である木造薬師如来 (やくしにょらい)および両脇侍像 (りょうわきじぞう)(向かって右が日光菩薩 (にっこうぼさつ)、左が月光菩薩 (がっこうぼさつ))は、その三尊、他の仏像が安置されている須弥壇(しゅみだん)とともに昭和40年8月17日に宮崎県指定の文化財となっています。



写真CN: 本堂の左奥に石塔、石碑(せきひ)、シャチホコ、神社などがあります。



写真CO: 供養塔、墓などがあります。



写真CP: 住職さんの住む建物です。



写真CQ: 仏像を多く彫(ほ)ってある石があります。



写真CR: 仏像などが彫(ほ)ってあります。



写真CS: 仏像などが彫(ほ)ってあります。



写真CT: 仏像などが彫(ほ)ってあります。



写真CU: 法華嶽薬師寺から少し戻(もど)った所です。 この先に法華嶽薬師寺があります。 北を見たもの。



写真CV: 中央付近に多くの送電線鉄塔がまっすぐに並(なら)んでいるのが見えます。 手前は法華嶽公園 (ほけだけこうえん)のグラススキー場です。 北東を見たもの。



写真CW: 上に4本の送電線が見えています。 法華嶽公園のグラススキー場が見えます。 このグラススキー場は西日本一の長さ(510 m)です。 東を見た景色です。 宮崎平野を一望できます。



写真CX: 左は法華嶽公園のグラススキー場です。 このグラススキー場は西日本一の長さ(510 m)です。 右にリフトの鉄の支柱が2つ見えます。 南東を見たもの。 宮崎平野を眺望(ちょうぼう)できます。



写真CY: 中央付近に大きな送電線鉄塔があります。 左にグラススキー場のリフトの鉄支柱が見えます。 南を見たもの。



写真CZ: 左上は送電線鉄塔、ここは展望所でベンチが置いてあります。 南を見たもの。



写真DA: 左に「法華嶽総合森林公園」の絵地図があります。 右は竹林です。



写真DB: 大きな送電線鉄塔があります。 送電線は4本であることが分かります。 南を見たもの。



写真DC: 中央付近に多くの送電線鉄塔がまっすぐに並(なら)んでいるのが見えます。 少なくとも11本の送電線鉄塔が見えています。



写真DD: 法華嶽公園のグラススキー場が見えます。 このグラススキー場は西日本一の長さ(510 m)です。 法華嶽公園一帯も見えます。 左上は多くの送電線鉄塔。
東を見た景色です。 宮崎平野を展望できます。



写真DE: ぶら下がっている2台のリフトも見えます。 リフトの大きな円盤、鉄塔、避雷針、ケーブルも見えています。 法華嶽公園のグラススキー場。 東を見たもの。



写真DF: 「←法華嶽 リフト」、「→トイレのマーク」の看板(かんばん)があります。



写真DG: 車道を(はさ)挟んで、法華嶽公園と反対方向(西)の景色です。 遠くの山にも送電線鉄塔があります。 そばの送電線鉄塔からの4本の送電線も見えます。 枯(か)れすすきの穂が美しい。



写真DH: 手前に「←式部谷 (しきぶだに)」の看板があります。



写真DI: これが「式部谷」に下る道です。 「告(つ)ぐ 式部谷への入行は薬師寺の許可を得ること、注 式部谷の司祭をたとえ誰れにても勝手に薬師寺の許可なくして行なってはならない 司祭権保持者 法華嶽薬師寺 住職」と書いてあります。



写真DJ: これが式部谷に下る道です。



写真DK: 「告(つ)ぐ 式部谷への入行は薬師寺の許可を得ること、注 式部谷の司祭をたとえ誰れにても勝手に薬師寺の許可なくして行なってはならない 司祭権保持者 法華嶽薬師寺 住職」と書いてあります。



写真DL: 「法華嶽総合森林公園 案内図」があります。 「うずら車」、「和泉式部琵琶(びわ)」の絵も書いてあります。 釈迦岳 (しゃかだけ、標高 830.8 m、釈迦ヶ岳とも呼びます。)も載(の)っています。



写真DM: 「村雨(むらさめ、にわか雨)は只(ただ)一(ひと)時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ 和泉式部伝説の和歌」の歌碑(かひ)があります。



写真DN: 法華嶽薬師寺の方向を見たもの。 右に石灯籠(いしどうろう)、ベンチもあります。 北を見たもの。



写真DO: 南を見たもの。 少し進むと「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」があります。



写真DP: 西方向を見た景色です。 重(かさ)なった山並み(やまなみ)が見えます。



写真DQ:  西方向を見たもの。 3重に重(かさ)なった山並み(やまなみ)が見えます。



写真DR: 南西を見たもの。



写真DS: 南を見たもの。



写真DT: 中央付近に「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の階段が見えてきました。



写真DU: 「←身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」と書いてある標識があります。



写真DV: 「←キャンプ場、(九州自然歩道)、法華岳薬師寺→」の指導標があります。



写真DW: 国富町にある「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の階段です。 これを登ります。



写真DX: 「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の階段。



写真DY: 身投嶽展望台に「九州自然歩道の案内」の看板(かんばん)があります。 川中キャンプ村、綾川渓谷、遺跡 尾立展望台、式部谷自然公園、釈迦岳、法華岳薬師寺、本庄稲荷神社、諏訪神社(すわじんじゃ)、須木村(現 小林市須木)、綾町、野尻町(現 小林市野尻)、国富町、西都市などが載っています。 環境庁 宮崎県の看板です。



写真DZ: 「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の階段です。



写真EA: 「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の東屋(あずまや)が見えます。



写真EB: 中央付近に身投嶽展望台の標識棒、説明板、右に東屋(あずまや)があります。



写真EC: 国富町の法華嶽公園のそばにある身投嶽展望台です。



写真ED: 登ってきた階段の方を見たものです。 車道も見えます。



写真EE: 身投嶽展望台の標識棒、説明板などです。



写真EF: 「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の説明板です。
 平安時代の頃、女流歌人 和泉式部が、悪病にかかり法華嶽薬師寺に参籠 (さんろう)して大慈大悲の仏の御手にすがってひたすら読経(どきょう)を続けて平癒(へいゆ)を祈ったが、少しも効果がなく、我が身の業(ごう)を嘆き生きる望みも絶え果(は)て「南無薬師諸病悉除(しつじょ)の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と辞世の一首を残し、千尋(せんじん)の谷底に身を投じました。 しばらく気を失っていた式部は、あかねの日かげに薬師如来の御姿を見て「村雨(むらさめ、にわか雨)は只(ただ)一(ひと)時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」の御返歌を賜(たまわ)り正気に戻ったとき、悪病は平癒(へいゆ)して再び玉の姿となり、喜んで京へ旅立ったといいます。
 ここはその伝説が残された地であり、宮崎平野を一望できる眺望絶景の地です。
国富町
と書かれています。



写真EG: 「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の説明板です。
 平安時代の頃、女流歌人 和泉式部が、悪病にかかり法華嶽薬師寺に参籠 (さんろう)して大慈大悲の仏の御手にすがってひたすら読経(どきょう)を続けて平癒(へいゆ)を祈ったが、少しも効果がなく、我が身の業(ごう)を嘆き生きる望みも絶え果(は)て「南無薬師諸病悉除(しつじょ)の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と辞世の一首を残し、千尋(せんじん)の谷底に身を投じました。 しばらく気を失っていた式部は、あかねの日かげに薬師如来の御姿を見て「村雨(むらさめ、にわか雨)は只(ただ)一(ひと)時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」の御返歌を賜(たまわ)り正気に戻ったとき、悪病は平癒(へいゆ)して再び玉の姿となり、喜んで京へ旅立ったといいます。
 ここはその伝説が残された地であり、宮崎平野を一望できる眺望絶景の地です。
国富町
と書かれています。



写真EH: 「身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)」の説明板です。
 平安時代の頃、女流歌人 和泉式部が、悪病にかかり法華嶽薬師寺に参籠 (さんろう)して大慈大悲の仏の御手にすがってひたすら読経(どきょう)を続けて平癒(へいゆ)を祈ったが、少しも効果がなく、我が身の業(ごう)を嘆き生きる望みも絶え果(は)て「南無薬師諸病悉除(しつじょ)の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ」と辞世の一首を残し、千尋(せんじん)の谷底に身を投じました。 しばらく気を失っていた式部は、あかねの日かげに薬師如来の御姿を見て「村雨(むらさめ、にわか雨)は只(ただ)一(ひと)時のものぞかし己(おの)が蓑笠(みのがさ)そこに脱ぎおけ」の御返歌を賜(たまわ)り正気に戻ったとき、悪病は平癒(へいゆ)して再び玉の姿となり、喜んで京へ旅立ったといいます。
 ここはその伝説が残された地であり、宮崎平野を一望できる眺望絶景の地です。
国富町
と書かれています。



写真EI: 身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)の東屋(あずまや)です。 中にテーブル、ベンチがあります。 外にもベンチがあります。



写真EJ: 石の歌碑(かひ)、ベンチが見えます。 身投嶽展望台 (みなげだけてんぼうだい)です。
「南無薬師諸病悉除(しつじょ)の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ、和泉式部」と彫(ほ)られた和泉式部の歌碑が身投嶽展望台にあります。



写真EK: 方位地図があります。



写真EL: まわりに柵(さく)があります。



写真EM: ベンチも見えます。



写真EN: 左は身投嶽展望台の説明板などです。



写真EO: 奥の方から階段を登って来ました。 右は身投嶽展望台の説明板。



写真EP: 左は東屋(あずまや)です。



写真EQ: 「南無薬師諸病悉除(しつじょ)の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ、和泉式部」と彫(ほ)られた和泉式部の歌碑が身投嶽展望台にあります。



写真ER: 国富町にある「身投嶽展望台」から宮崎平野が望(のぞ)めます。



写真ES: 身投嶽展望台にある方位地図です。 「国富町市街 9 km、宮崎市街 21 km、綾町市街 3 km、釈迦岳(標高 830.6 m) 4 km、西都市街 16 km、新田原 19 km」などと書いてあります。



写真ET: こちらにも石碑(せきひ)があります。



写真EU: 車道に戻(もど)って来ました。



写真EV: 身投嶽展望台の近くです。



写真EW: 宮崎平野が展望できます。



写真EX: 宮崎平野が眺望(ちょうぼう)できます。 このあたりは下り坂になっています。



写真EY: この三叉路(さんさろ)を左に曲がると法華嶽公園 (ほけだけこうえん)に行きます。 手前から下(くだ)って来ました。



写真EZ: 下って来た道を振り返ったもの。



写真FA: 「休園日 (1)毎週水曜日(祝祭日のときは翌日)、(2)年末年始 12月31日 1月1日、広場や駐車場はご利用できます、法華嶽公園」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真FB: 「←法華嶽公園第1駐車場、法華嶽 八町坂、法華嶽薬師寺、日本庭園、釈ヵ迦岳登山 (しゃかがだけとざんどう)」、「第2駐車場、結の宿(ゆいのやど)、公園管理事務所、法華嶽キャンプ場、流れるプール、じゃぶんこ広場→」の看板があります。



写真FC: 「←法華嶽公園第1駐車場、法華嶽 八町坂、法華嶽薬師寺、日本庭園、釈ヵ迦岳登山 (しゃかがだけとざんどう)」、「第2駐車場、結の宿(ゆいのやど)、公園管理事務所、法華嶽キャンプ場、流れるプール、じゃぶんこ広場→」の看板があります。



写真FD: この道を進んで法華嶽公園に行きます。 右に竹林が見えます。



写真FE: 左は法華嶽公園の広場です。



写真FF: 法華嶽公園の広場です。



写真FG: 「←南広場、芝生公園の利用について、(法華嶽公園管理事務所)、北広場→」と書いてある看板(かんばん)があります。 ベンチもあります。
「法華嶽公園 (ほけだけこうえん)」と「法華嶽公園キャンプ場」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4106番地30にあります。



写真FH: 法華嶽公園です。



写真FI: 来た道を振り返ったもの。



写真FJ: 道の両側は広場になっています。



写真FK: 国富町にある法華嶽公園です。



写真FL: 公園の中の道です。



写真FM: 「←南広場、芝生公園の利用について、(法華嶽公園管理事務所)、北広場→」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真FN: こちらにも芝生公園があります。 手前に橋が見えます。



写真FO: 飲料水の自動販売機があります。 テントも見えます。



写真FP: 小川が流れています。 緑色のテント、ベンチも見えます。



写真FQ: 小川と橋です。



写真FR: 反対側の小川と橋です。



写真FS: 車道、小川と橋です。



写真FT: ここを左に曲がると駐車場、グラウンド、結の宿(ゆいのやど)、バーベキューの場所、パターゴルフ場、テニスコート、藤棚(ふじだな)、トイレ、法華嶽公園管理事務所、掃部岳登山口 (かもんだけとざんぐち)などに行きます。 ここをまっすぐ進むと法華嶽キャンプ場、流れるプール、じゃぶんこ広場、国営綾川用水路、深年川 (愛染川)などに行きます。



写真FU: 国富町にある法華嶽公園の駐車場です。 遠くに山が見えています。



写真FV: 「←ふれあい広場」、「↑結の宿、法華嶽キャンプ場、流れるプール」の標識があります。



写真FW: 法華嶽公園の駐車場です。 右にトイレが見えます。



写真FX: 法華嶽公園の駐車場です。 左にトイレが見えます。



写真FY: 駐車場の奥の一段高い所にグラウンドがあります。



写真FZ: 法華嶽公園の駐車場。



写真GA: 法華嶽公園の駐車場です。



写真GB: 駐車場の入口を振り返ったもの。



写真GC: 建物があります。



写真GD: 「法華嶽公園周辺案内図」があります。
展望台、日本庭園、釈迦ヶ岳登山道入口、法華嶽薬師寺、駐車場、身投嶽展望台、グラススキー場 (マウンテンボード)、マウンテンバイクコース、草ソリスキー場、法華嶽パークハウス、子供広場、バーベキュー広場、芝生広場 (南、北)、クラブハウス、テニスコート、パターゴルフ場、結の宿 (ゆいのやど)、コミュニティプラザ、式部岳、ふれあい広場、レストラン、キャンプ場、ジャブンコ広場、愛染川、九州自然歩道、綾町、バス停、国富町市街
国富町観光協会
と書いてあります。



写真GE: 一段高いふれあい広場(グラウンド)から駐車場の入口方向を見たもの。
「法華嶽公園 (ほけだけこうえん)」と「法華嶽公園キャンプ場」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4106番地30にあります。



写真GF: ふれあい広場(グラウンド)です。



写真GG: 法華嶽公園のふれあい広場(グラウンド)。



写真GH: ふれあい広場(グラウンド)。 左上の方に結の宿 (ゆいのやど)、バーベキューの場所、パターゴルフ場、藤棚(ふじだな)などがあります。
ふれあい広場のコンクリート製 野外舞台(野外ステージ)も見えます。



写真GI: ふれあい広場(グラウンド)から、左寄りに上に登る階段、その右上に法華嶽公園管理事務所が見えています。



写真GJ: 木の向こうに駐車場のトイレが見えます。



写真GK: 高台に建物があります。 パターゴルフ場の緑色が見えます。 一番下はコンクリート製 野外舞台(野外ステージ)です。



写真GL: 法華嶽公園管理事務所が高台に見えます。



写真GM: 高台に登る階段です。 これを登ります。



写真GN: 遠くにテニスコートが見えます。



写真GO: テニスコートが見えます。



写真GP: ツワブキが綿毛(わたげ)を付けていました。



写真GQ: 高台に登って来ました。



写真GR: 法華嶽公園管理事務所です。



写真GS: 「法華嶽公園管理事務所 国富町」、「休園日 (1)毎週水曜日(祝祭日のときは翌日)、(2)年末年始 12月31日 1月1日」と書いてあります。 建物は法華嶽公園管理事務所。



写真GT: 「トイレのマーク」、「法華嶽公園管理事務所 国富町」、「休園日 (1)毎週水曜日(祝祭日のときは翌日)、(2)年末年始 12月31日 1月1日」と書いてあります。



写真GU: 「歓迎 パターゴルフ場」と書いてある看板があります。



写真GV: 緑色のパターゴルフ場が多く見えます。 右奥の建物は結の宿 (ゆいのやど)です。



写真GW: 緑色のパターゴルフ場。 左奥の建物は結の宿 (ゆいのやど)です。



写真GX: 右の建物は休憩所(きゅうけいしょ)です。



写真GY: 休憩所の奥に法華嶽公園管理事務所が見えます。



写真GZ: 手前に水飲み場があります。



写真HA: 遠くにテニスコートがあります。



写真HB: 右はふれあい広場、左はパターゴルフ場です。 中央右寄りのスギ林の下に、掃部岳登山口 (かもんだけとざんぐち)へ行く道が見えています。 掃部岳は標高 1223.4 m の山です。



写真HC: 法華嶽公園のパターゴルフ場です。 木の向こうに結の宿 (ゆいのやど)が見えます。



写真HD: パターゴルフ場と結の宿 (ゆいのやど)の建物が見えます。



写真HE: 宮崎県 東諸県郡 国富町にある法華嶽公園です。



写真HF: パターゴルフ場の奥に法華嶽公園管理事務所、休憩所が見えます。 来た方向を振り返ったもの。



写真HG: 左はふれあい広場、右は法華嶽公園管理事務所。



写真HH: 高台から見た法華嶽公園のふれあい広場です。



写真HI: 高台から見た法華嶽公園のふれあい広場。



写真HJ: 階段が見えます。



写真HK: 坂道を登ります。 結の宿 (ゆいのやど)の屋根が見えます。



写真HL: 「←結の宿 (ゆいのやど)」の看板があります。 左の建物が「結の宿」です。



写真HM: 「遊歩道 日本庭園登り口 →」の標識があります。



写真HN: 日本庭園に行く道があります。



写真HO: 法華嶽公園のバーベキュウの場所です。 テーブル、椅子(いす)、建物があります。



写真HP: バーベキューの場所です。 藤棚(ふじだな)、結の宿 (ゆいのやど)も見えます。



写真HQ: 国富町にある法華嶽公園の「結の宿 (ゆいのやど)」です。



写真HR: バーベキューの台、椅子(いす)、ベンチです。



写真HS: バーベキューの場所です。 藤棚(ふじだな)、結の宿 (ゆいのやど)も見えます。



写真HT: バーベキューの準備をするための炊事場(すいじば)があります。 奥は結の宿。



写真HU: 宮崎県 国富町にある法華嶽公園の「コミュニティ プラザ 結の宿 (ゆいのやど)」です。



写真HV: 国富町にある法華嶽公園の「コミュニティ プラザ 結の宿 (ゆいのやど)」です。



写真HW: 法華嶽公園の「コミュニティ プラザ 結の宿 (ゆいのやど)」です。 右上は照明です。



写真HX: 法華嶽公園の「コミュニティ プラザ 結の宿 (ゆいのやど)」。
「法華嶽公園 (ほけだけこうえん)」と「法華嶽公園キャンプ場」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4106番地30にあります。



写真HY: 「結の宿」と書いてあります。



写真HZ: 十二単衣(じゅうにひとえ)の女性と桜の花などが描(えが)いてあります。 右は入り口です。



写真IA: 結の宿のところからバーベキューの場所を見たものです。



写真IB: 手前はパターゴルフ場、奥はふれあい広場です。



写真IC: スギ林の下に、掃部岳登山口 (かもんだけとざんぐち)へ行く道が見えています。 掃部岳は標高 1223.4 m の山です。



写真ID: 「神宿る森や川を汚す者許さず 山の神、水の神、平成19年2月18日 国富町山岳会」と書いてある大きな看板があります。



写真IE: ここが掃部岳登山口 (かもんだけとざんぐち)へ行く道です。 掃部岳は標高 1223.4 m の山です。 ミラーがあります。



写真IF: 「↑掃部岳 (かもんだけ) 標高1223 m」、「←結の宿」と書いてある標識があります。



写真IG: ここが掃部岳登山口 (かもんだけとざんぐち)へ行く道です。 掃部岳は標高 1223.4 m の山です。



写真IH: 左に行くと「結の宿」に行きます。



写真II: 「メスジカ可猟区域 宮崎県」と書いてある看板があります。



写真IJ: 「←入口、コミュニティプラザ 結の宿 (ゆいのやど)」と書いてある看板。



写真JK: 駐車場の方に戻(もど)ります。 振り返ったもの。 右はふれあい広場です。



写真JL: ふれあい広場に野外舞台(野外ステージ)があります。



写真JM: 左奥に「結の宿」が見えます。 この十字路を右に進むと、法華嶽キャンプ場、ジャブンコ広場、流れるプールなどがあります。



写真JN: この十字路を右に進むと、法華嶽キャンプ場、ジャブンコ広場、流れるプールなどがあります。 右に橋があります。



写真JO: 橋があります。 山が見えています。



写真JP: 用水路のそばの柵(さく)です。



写真JQ: 先ほどの駐車場からこの道を通って来ました。



写真JR: 「法華嶽公園 キャンプ場 じゃぶんこ広場 流れるプール、入口→」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真JS: 「↑結の宿」、「法華嶽キャンプ場、流れるプール→」の標識があります。
「←法華岳」、「→キャンプ場」の看板もあります。



写真JT: 「うずら橋」、「うずら車の絵」が橋に書いてあります。 うずら橋は平成6年7月に竣工(しゅんこう、完成)しました。



写真JU: 「国営綾川用水路」の橋です。



写真JV: 「平成6年7月竣工(しゅんこう)」と書いてあります。 うずら橋。



写真JW: 送電線鉄塔が2本見えています。 国富町の山です。 この道を進んでキャンプ場、流れるプールなどに行きます。



写真JX: 国営綾川用水路です。 法華嶽公園の中を流れています。



写真JY: ここが「法華嶽キャンプ場」です。
「法華嶽公園 (ほけだけこうえん)」と「法華嶽公園キャンプ場」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4106番地30にあります。



写真JZ: 中央に法華嶽キャンプ場の炊事場(すいじば)が見えます。



写真KA: 見えている三叉路(さんさろ)を左に曲がって法華嶽キャンプ場に行きます。 先に進むとじゃぶんこ広場、流れるプールに行きます。



写真KB: 「←キャンプ場」と書いてあります。



写真KC: 「法華嶽キャンプ場」、「車はプール駐車場へ」と書いてあリます。 法華嶽キャンプ場の建物です。
「法華嶽公園 (ほけだけこうえん)」と「法華嶽公園キャンプ場」は宮崎県 東諸県郡 国富町 大字深年 4106番地30にあります。



写真KD: 法華嶽キャンプ場の炊事場(すいじば)です。



写真KE: 国富町にある法華嶽公園 「じゃぶんこ広場、流れるプール(河川プール)」の駐車場です。 奥に遊具も見えます。



写真KF: じゃぶんこ広場の建物が見えます。



写真KG: この奥に愛初川 (深年川)が流れています。 そこに「流れるプール(河川プール)」があります。



写真KH: 法華嶽公園の「じゃぶんこ広場、流れるプール」の駐車場です。



写真KI: 法華嶽公園 「じゃぶんこ広場、流れるプール(河川プール)」の駐車場の周(まわ)りの景色です。



写真KJ: 法華嶽公園 「じゃぶんこ広場、流れるプール」の駐車場の周(まわ)りの景色。



写真KK: 法華嶽公園 「じゃぶんこ広場、流れるプール(河川プール)」の駐車場。



写真KL: 法華嶽公園 「じゃぶんこ広場、流れるプール」の駐車場です。



写真KM: じゃぶんこ広場の建物が見えます。



写真KN: じゃぶんこ広場の滑(すべ)り台などの遊具が見えます。



写真KO: 「今季の、営業は終了しました。 法華嶽公園管理事務所」と書いてあります。



写真KP: 「禁止事項 (1)所定の場所以外のバーベキュー、(2)魚つき、(3)ビン類の持ち込み。お願い 公園内での交通事故には責任を負いませんので、ご了承ください、ゴミは各自お持ち帰り下さい。 国富町公園協会]と書いてある看板があります。



写真KQ: 法華嶽公園 じゃぶんこ広場の建物です。



写真KR: じゃぶんこ広場の滑り台(すべりだい)などの遊具も見えます。



写真KS: 宮崎県 国富町にある法華嶽公園 「じゃぶんこ広場」です。



写真KT: 国富町にある法華嶽公園 「じゃぶんこ広場」。



写真KU: 左はじゃぶんこ広場です。 先に愛染川 (深年川)の橋が見えています。



写真KV: 法華嶽公園のジャブンコ広場です。



写真KW: 国富町にある法華嶽公園 ジャブンコ広場です。



写真KX: 深年川(愛染川)の橋が見えます。



写真KY: 「法華嶽公園概要」の説明板があります。
 平安時代に建立された日本三薬師の一つ法華嶽薬師寺は、和泉式部の参籠(さんろう)伝説が伝わる由緒あるお寺です。
 このお寺を取り巻く緑豊かな山ふところに昭和55年から公園整備を進め現在に至(いた)っており、地名も法ヶ岳ということから法華嶽公園と名付けられ親しまれています。 環境庁 宮崎県
と書いてあります。



写真KZ: 深年川(愛染川)の下流方向です。



写真LA: 深年川(愛染川)と橋です。
「法華嶽公園概要」の説明板があります。
 平安時代に建立された日本三薬師の一つ法華嶽薬師寺は、和泉式部の参籠(さんろう)伝説が伝わる由緒あるお寺です。
 このお寺を取り巻く緑豊かな山ふところに昭和55年から公園整備を進め現在に至(いた)っており、地名も法ヶ岳ということから法華嶽公園と名付けられ親しまれています。 環境庁 宮崎県
と書いてあります。



写真LB: 深年川(愛染川)の橋です。



写真LC: 右には深年川(愛染川)の橋があります。



写真LD: 右に法華嶽公園 ジャブンコ広場が見えます。



写真LE: ジャブンコ広場、流れるプール(河川プール)の駐車場が見えます。



写真LF: 周(まわ)りの景色です。 田んぼになっています。



写真LG: 周(まわ)りの景色。 田んぼになっています。 左端は深年川 (愛染川)です。



写真LH: 深年川(愛染川)の下流方向を見た景色です。
「法華嶽公園概要」の説明板があります。
 平安時代に建立された日本三薬師の一つ法華嶽薬師寺は、和泉式部の参籠(さんろう)伝説が伝わる由緒あるお寺です。
 このお寺を取り巻く緑豊かな山ふところに昭和55年から公園整備を進め現在に至(いた)っており、地名も法ヶ岳ということから法華嶽公園と名付けられ親しまれています。 環境庁 宮崎県
と書いてあります。



写真LI: 深年川(愛染川)の橋です。
「法華嶽公園概要」の説明板があります。
 平安時代に建立された日本三薬師の一つ法華嶽薬師寺は、和泉式部の参籠(さんろう)伝説が伝わる由緒あるお寺です。
 このお寺を取り巻く緑豊かな山ふところに昭和55年から公園整備を進め現在に至(いた)っており、地名も法ヶ岳ということから法華嶽公園と名付けられ親しまれています。 環境庁 宮崎県
と書いてあります。



写真LJ: 深年川(愛染川)の清流です。 水がとても綺麗(きれい)で、川底の石が見えます。



写真LK: 深年川(愛染川)の澄(す)んだ水です。



写真LL: 深年川(愛染川)の清らかな水です。



写真LM: 深年川(愛染川)の「流れるプール(河川プール)」です。 夏はここで水遊びができます。 岸に階段があります。 深年川(愛染川)の上流方向を見た景色です。



写真LN: 左は「じゃぶんこ広場」です。 右は深年川(愛染川)の「流れるプール(河川プール)」です。



写真LO: 橋から見たじゃぶんこ広場(右)、駐車場(左)です。



写真LP: 深年川(愛染川)の橋を渡ります。



写真LQ: 橋から見た愛染川 (深年川)の下流側です。



写真LR: 田んぼも見えます。



写真LS: 橋から見た景色です。 右端は駐車場です。



写真LT: 橋から、来た方向を振り返ったもの。



写真LU: 愛染川 (深年川)の橋の上です。 法華嶽公園。



写真LV: 「←籾(もみ)木の池」、「→法華岳(ほけだけ、地名です。)」の標識があります。



写真LW: この道を行くと「籾(もみ)木の池」があります。



写真LX: 右は愛染川 (深年川)です。
対岸にはじゃぶんこ広場、流れるプールがあります。



写真LY: 周(まわ)りの様子(ようす)です。



写真LZ: 周(まわ)りの様子(ようす)。



写真MA: この道を行くと「籾(もみ)木の池」があります。



写真MB: この道を進むと「籾(もみ)木の池」があります。



写真MC: 橋の右に、流れるプール(河川プール)の幅の広い階段があります。 その奥にじゃぶんこ広場の幅の広い階段も見えています。



写真MD: 宮崎県 東諸県郡 国富町にある法華嶽公園 流れるプール(河川プール)、じゃぶんこ広場です。



写真ME: 手前は流れるプール(河川プール)、その向こうはじゃぶんこ広場です。



写真MF: 遠くの山に送電線鉄塔が2本見えています。



写真MG: 左は駐車場です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)