平和台公園 (平和の塔、平和台自然散策路) (宮崎市)







<標高、位置>
標高 約50 m
 北緯31度56分54秒  東経131度24分48秒


平和台公園は宮崎市の中心部の北西にあり、面積は約688.000 平方メートルです。 標高約50 m の丘陵地帯に、高さ37 mの平和の塔 (以前は八紘一宇 (はっこういちう)の塔と呼 (よ)ばれていました。)、平和台自然散策路、展望台、古墳、浄水場、運動広場、2つの池、レストラン、売店などがあります。 自然林などが良く残っていて、市民の憩(いこ)いの場所になっています。 所在地は宮崎市下北方町越ヶ迫。

 「平和の塔」に八紘一宇 (はっこういちう)と彫 (ほ)ってあります。 「八紘一宇 (はっこういちう)」とは世界を1つの家とすることだそうです。 太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語です。 日本書紀に由来 (ゆらい)しています。 塔内の床や天井 (てんじょう)に8角形があり、広場の拍手 (はくしゅ)をして音がビーンと響く所にも8角形の石があります。 中の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も8つあります。 これは八紘一宇の8と関係があると思います。 平和の塔の北側には「紀元二千六百年」と彫ってあります。 これは建設された昭和15年 (太平洋戦争は昭和16年12月8日に開戦。)が神武天皇の即位 (そくい、天皇になること。)から2600年に当たるからです。 平和の塔は延 (の)べ約6万人を動員して作られました。 土台の石 (切り石)は国内と日本人会を通じて国外から寄贈されました。 切り石は1789個、石材は834立法メートルです。 塔の外観は神社のお祓 (はら)いのときの和紙で作った御幣 (ごへい)を象徴しています。 戦前の日本の考え方が色濃く表現されている塔です。 塔の内部にある8つの石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も同様です。
 パンフレットから、
 「平和の塔」は着工が昭和14年5月20日で竣工 (完成すること。)が昭和15年11月25日です。 設計は日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))と南省吾 (建築家 (構造・仕様設計)で施工は大林組です。 総工費は69万5000円でした。 建設当時の名称は八紘之基柱 (あめつちのもとはしら)でした。 構造は鉄筋コンクリート造りで、塔の外側周囲には、主に高岡と清武産の日向石 (溶結凝灰岩)の切り石を積み重ねてあります。 地上高は31.5 m 、基礎部分まで含めた塔の高さは36.4 m です。 建設当時の日本一の高い建物は東京の丸ビル (約30 m )でした。
平和の塔は日本書紀に記 (しる)された神武天皇の即位 (そくい)から2600年に当たる昭和15年に「紀元2600年記念事業」の1つとして建設されました。 当時の戦争に向かう時代背景の中で建設された施設です。 完成までに1年6ヶ月を要 (よう)しました。
 平和の塔の4隅 (すみ)には4つの大きな像があります。 正面左手前方が荒御魂像 (あらみたま、武人)、正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)、正面左手後方が奇御魂像 (くしみたま、漁人)、正面右手後方が幸御魂像 (さちみたま、農人)です。 これらの像は高さ4.5 m で信楽焼 (しがらきやき、滋賀県 甲賀郡の南西部の町あたりで焼かれる陶器 (とうき)。)で作製されています。 荒御魂像 (武人)と塔の正面の「八紘一宇 (はっこういちう)」の文字は戦後、撤去 (てっきょ)あるいは消されていました。 昭和20年の敗戦の後、連合司令部 (GHQ)の最高司令官 マッカーサーが政府に対して「神道指令」を出しました。 これにより武人の像と「八紘一宇」の文字がなくなっていました。 武人の像は昭和37年、「八紘一宇」の文字は昭和40年に復元されました。
 平和の塔の内部には、「八紘一宇 (はっこういちう)」と毛筆で書いた縦長の和紙が以前は掛 (か)けてあった奉納庫、8点の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り彫刻 (ちょうこく))、塔内地下庫、塔内階段、入り口の青銅扉 (とびら)、手すり、明 (あ)かり窓、太い柱などがあります。
 8つある石膏レリーフは、日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))の作成した縦長の(a) 紀元2600年 (鏡を手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)、(b) 紀元元年 (神武天皇が奈良県 橿原 (かしはら)で初代天皇に即位された様子 (ようす)。)、(c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)、(d) 地図1 (地球の西半球の図、南アメリカなど。)、(e) 地図2 (地球の東半球の図、日本など。)、(f) 国土奉還 (葦原の中つ国 (あしはらのなかつくに: 日本)を治 (おさ)めていた大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が、天照大神 (あまてらすおおみかみ)の遣 (つか)い神に国をお譲 (おゆず)りする様子。)、(g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)、(h) 波限の産屋 (なぎさのうぶや、ウカヤフキアエズノミコトが鵜戸 (うど)に誕生した様子。 山幸彦と結婚したトヨタマヒメが妊娠して、産屋 (うぶや)の屋根に鵜 (う)の羽を葺 (ふ)き終わる前に生まれたことからウカヤフキアエズノミコトと名付けられました。)。
 木製の「奉納庫」は塔の入り口から入って正面にあります。 かっては秩父宮殿下 (昭和天皇の弟君)がお書きになった「八紘一宇 (はっこういちう)」の御真筆が納 (おさ)めてありました。
 「塔内地下庫」 塔内部の中心の床には、8角形の台座があり、その地下には「八紘一宇」の文字が縦長の銅板に刻 (きざ)まれたものが木箱に入れて納 (おさ)められています。
 「塔内階段」 塔の地上高さは31.5 m 、10階建ての構造になっています。 10階までは階段で登ることができます。
 「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。


写真A: 平和台公園の第一駐車場から。 案内板、左遠くに平和の塔なども見えています。



写真B: 高さ37 m の平和の塔。 夜は水銀灯でライトアップされます。



写真C: 第二次大戦前、平和の塔の石は、世界各地から集められました。
この石は中国の想像上の獣 (けもの)である麒麟 (きりん)が彫 (ほ)られています。 左に「南京日本居留民会」と彫られています。
平和の塔は以前は八紘一宇 (はっこういちう)の塔と呼 (よ)ばれていました。 日中戦争中の1940年 (昭和15年)に造られました。 塔の土台として1789個の石が使われています。 中国からの198個の石、朝鮮半島からの123個の石、台湾からの約40個の石も使用されています。



写真D: 平和の塔 正面の扉(とびら)。 青銅で出来ています。 古事記、日本書紀に書かれていることを図案化したものが描かれています。 



写真E: 平和の塔から東を望む。 遠くにオーシャン45、国際会議場サミットなどが見えています。



写真F: 平和の塔から。



写真G: 平和の塔の正面広場。 木々の間にレストラン、第一駐車場も見えています。



写真H: 平和の塔。



写真I: 平和の塔。 かがり火をたく台も石垣の上に見えています。



写真J: 平和の塔。 右に青銅の扉が見えています。



写真K: 平和の塔から東を望む。 オーシャン45、国際会議場サミット、市民の森病院などが見えています。



写真L: 平和の塔から望む。 木の間から海岸近くの宿泊施設 ラグゼー一ッ葉が見えています。



写真M: 平和の塔から望む。 レストラン、売店、第一駐車場などが見えています。



写真N: 「八紘一宇 (はっこういちう)」と彫 (ほ)ってあります。 武の神の像と「八紘一宇」の文字は第2次世界大戦後 (昭和30年頃)は削 (けず)り消されていました。
 平和の塔に八紘一宇 (はっこういちう)と彫 (ほ)ってあります。 「八紘一宇 (はっこういちう)」とは世界を1つの家とすることだそうです。 太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語です。 日本書紀に由来 (ゆらい)しています。 塔内の床や天井 (てんじょう)に8角形があり、広場の拍手 (はくしゅ)をして音がビーンと響く所にも8角形の石があります。 中の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も8つあります。 これは八紘一宇の8と関係があると思います。 平和の塔の北側には「紀元二千六百年」と彫ってあります。 これは建設された昭和15年 (太平洋戦争は昭和16年12月8日に開戦。)が神武天皇の即位 (そくい、天皇になること。)から2600年に当たるからです。 平和の塔は延 (の)べ約6万人を動員して作られました。 土台の石 (切り石)は国内と日本人会を通じて国外から寄贈されました。 切り石は1789個、石材は834立法メートルです。 塔の外観は神社のお祓 (はら)いのときの和紙で作った御幣 (ごへい)を象徴しています。 戦前の日本の考え方が色濃く表現されている塔です。 塔の内部にある8つの石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り)も同様です。
 パンフレットから、
 「平和の塔」は着工が昭和14年5月20日で竣工 (完成すること。)が昭和15年11月25日です。 設計は日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))と南省吾 (建築家 (構造・仕様設計)で施工は大林組です。 総工費は69万5000円でした。 建設当時の名称は八紘之基柱 (あめつちのもとはしら)でした。 構造は鉄筋コンクリート造りで、塔の外側周囲には、主に高岡と清武産の日向石 (溶結凝灰岩)の切り石を積み重ねてあります。 地上高は31.5 m 、基礎部分まで含めた塔の高さは36.4 m です。 建設当時の日本一の高い建物は東京の丸ビル (約30 m )でした。
平和の塔は日本書紀に記 (しる)された神武天皇の即位 (そくい)から2600年に当たる昭和15年に「紀元2600年記念事業」の1つとして建設されました。 当時の戦争に向かう時代背景の中で建設された施設です。 完成までに1年6ヶ月を要 (よう)しました。
 平和の塔の4隅 (すみ)には4つの大きな像があります。 正面左手前方が荒御魂像 (あらみたま、武人)、正面右手前方が和御魂像 (にぎみたま、工人)、正面左手後方が奇御魂像 (くしみたま、漁人)、正面右手後方が幸御魂像 (さちみたま、農人)です。 これらの像は高さ4.5 m で信楽焼 (しがらきやき、滋賀県 甲賀郡の南西部の町あたりで焼かれる陶器 (とうき)。)で作製されています。 荒御魂像 (武人)と塔の正面の「八紘一宇 (はっこういちう)」の文字は戦後、撤去 (てっきょ)あるいは消されていました。 昭和20年の敗戦の後、連合司令部 (GHQ)の最高司令官 マッカーサーが政府に対して「神道指令」を出しました。 これにより武人の像と「八紘一宇」の文字がなくなっていました。 武人の像は昭和37年、「八紘一宇」の文字は昭和40年に復元されました。
 平和の塔の内部には、「八紘一宇 (はっこういちう)」と毛筆で書いた縦長の和紙が以前は掛 (か)けてあった奉納庫、8点の石膏 (せっこう)のレリーフ (浮き彫り彫刻 (ちょうこく))、塔内地下庫、塔内階段、入り口の青銅扉 (とびら)、手すり、明 (あ)かり窓、太い柱などがあります。
 8つある石膏レリーフは、日名子実三 (ひなごじつぞう、彫刻家 (塔の模型作成))の作成した縦長の(a) 紀元2600年 (鏡を手に持った女性のまわりに子供たち、トラック、列車、上部に兵隊さんが描 (えが)かれています。)、(b) 紀元元年 (神武天皇が奈良県 橿原 (かしはら)で初代天皇に即位された様子 (ようす)。)、(c) 明治維新 (大政奉還で、明治天皇が京都から東京へお移りになる様子。)、(d) 地図1 (地球の西半球の図、南アメリカなど。)、(e) 地図2 (地球の東半球の図、日本など。)、(f) 国土奉還 (葦原の中つ国 (あしはらのなかつくに: 日本)を治 (おさ)めていた大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が、天照大神 (あまてらすおおみかみ)の遣 (つか)い神に国をお譲 (おゆず)りする様子。)、(g) 縦長の天孫降臨 (国譲りの後、天照大神の孫 ニニギノミコトがオオミカミの命令で高天原 (たかまがはら)から葦原の中つ国 (日本)を治めるため、お供の神々を伴って降臨される様子。)、(h) 波限の産屋 (なぎさのうぶや、ウカヤフキアエズノミコトが鵜戸 (うど)に誕生した様子。 山幸彦と結婚したトヨタマヒメが妊娠して、産屋 (うぶや)の屋根に鵜 (う)の羽を葺 (ふ)き終わる前に生まれたことからウカヤフキアエズノミコトと名付けられました。)。
 木製の「奉納庫」は塔の入り口から入って正面にあります。 かっては秩父宮殿下 (昭和天皇の弟君)がお書きになった「八紘一宇 (はっこういちう)」の御真筆が納 (おさ)めてありました。
 「塔内地下庫」 塔内部の中心の床には、8角形の台座があり、その地下には「八紘一宇」の文字が縦長の銅板に刻 (きざ)まれたものが木箱に入れて納 (おさ)められています。
 「塔内階段」 塔の地上高さは31.5 m 、10階建ての構造になっています。 10階までは階段で登ることができます。
 「入り口の青銅扉 (せいどうとびら)」には神武天皇が美々津港 (みみつこう)からお船出した様子 (ようす)が描 (えが)かれています。 それを囲 (かこ)む62の模様は、古事記、日本書紀に記 (しる)された色々な物が描かれています。



写真O: 「起点 第18回オリンピック東京大会 国内聖火リレー」と書いてあります。 昭和39年 (1964年)9月9日に聖火リレーがここから出発しました。
東京オリンピックの前に宮崎市に聖火が到着しました。 平和台公園に作られた聖火台に点火されました。 約4万人の人たちがそれを見守りました。 夜に点火された時に歓声と拍手が巻き起こりました。 美しい花火も打ち上げられました。 国内の4コースの聖火リレーの第2の起点としての式典も行われました。



写真P: 平和の塔。



写真Q: 平和の塔。 「紀元2600年」と彫 (ほ)ってあります。



写真R: 平和の塔の北西にある下北方古墳(第13号)。 平和の塔の裏に道があります。 これを登るとこの古墳に行けます。 標高約70 m。



写真S: 平和台公園 第二駐車場。 近くに下北方古墳(第13号)と浄水場のコンクリート製タンクがあります。 遠くに宮崎市街地が見えています。



写真T: 第二駐車場。 大淀川の堤防、テレビUMKの塔も見えています。



写真U: 平和台公園 第二駐車場。 宮崎市小松にある 潤和会病院の白い建物も見えています。



写真V: 第二駐車場。 大淀川にかかる平和台大橋の西側が見えています。 潤和会病院も見えています。



写真W: 平和台公園 第二駐車場から西を見た風景。 水田とビニールハウスも見えています。 枝の間に大淀川の水面が白く見えています。



写真X: 平和台公園 第二駐車場近くにある宮崎市浄水場のコンクリート製タンク。 標高約60 m。



写真Y: 平和台自然散策路にある指導標。



写真Z: 平和台自然散策路にある展望台。



写真AA: 平和台自然散策路にある展望台から見た景色。 平和が丘団地が見えています。



写真AB: 展望台から望む。 平和が丘団地が見えています。



写真AC: 平和台自然散策路の展望台から見たもの。 池内小学校も見えています。 矢口池も見えています。



写真AD: 展望台からの景色。 山の上に、北高の近くにある工業団地が見えています。



写真AE: 平和台自然散策路にある展望台から。 芳士にあるマンション、サンホテルフェニックス、市民の森病院なども見えています。



写真AF: 展望台から見たもの。 オーシャンドーム、オーシャン45、球形のガスタンク、国際会議場サミット、市民の森病院、サンホテルフェニックスなども見えています。



写真AG: 平和台自然散策路の展望台から。 NHKラジオ送信アンテナ、オーシャンドーム、山崎町の市営団地の給水塔なども見えています。


写真AH: 展望台から。 海岸近くの宿泊施設 ラグゼー一つ葉、宮崎神宮の北にある茶色のマンションなども見えています。



写真AI: 平和台自然散策路にある展望台からの景色。 宮崎神宮の北にある茶色のマンションなども見えています。



写真AJ: 平和台自然散策路から望む。 新池、宮崎神宮の北にある茶色のマンションなども見えています。



写真AK: 平和台自然散策路から南を望む。 宮崎市の中心部が見えています。



写真AL: 平和台自然散策路の景色。



写真AM: 平和台自然散策路から見える平和の塔。 見えている森も平和台公園です。 野鳥の三光鳥(サンコウチョウ)も夏には住んでいます。 月日星(つきひほし)ほいほいほい と鳴く鳥で、雄は紫黒色で、腹は白く尾が極めて長く優美です。 山地の暗い密林中に住んでいます。



写真AN: 平和台自然散策路の途中からの景色。



写真AO: 平和台自然散策路の地図板。



写真AP: 平和台自然散策路の案内板。 有益な知識が得られます。 特に、マムシの体の模様は良く覚えておきましょう。



写真AQ: 平和台自然散策路の階段と案内板。



写真AR: 平和台公園のレストランから見た宮崎市街。 宮崎神宮の森とマンション、手前には池も見えています。



写真AS: 平和台のレストランから見た南方向。 宮崎神宮の森、大宮中学校も見えています。



写真AT: 平和台公園のレストランからの景色。 遠くに斟鉢山(くんぱち山)や花切山(はなきり山)も見えています。 宮崎公立大学も見えています。



写真AU: 平和台のレストランから見た宮崎市街。 遠くに左から花切山、双石山(ぼろいし山)、荒平山も見えています。 テレビ局 UMKのアンテナ、大淀川の宮崎大橋も見えています。



写真AV: 平和台公園のレストランからの展望。 遠くに荒平山、丸目山(まるめ山)、鰐塚山(わにつか山)も見えています。 大淀川の平和台大橋(手前)、宮崎大橋も見えています。



写真AW: 平和台公園のレストランからの眺望。 大淀川の平和台大橋、潤和会病院なども見えています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)