早水神社 (はやみずじんじゃ)、祝吉御所跡(いわよしごしょあと)、髪長媛(かみながひめ、髪長姫)の誕生地、島津家発祥の地、早水公園 (コウホネの花) (御祭神 髪長媛 (かみながひめ)が産湯を使った湧(わ)き水(泉)、島津家発祥之地、島津家発祥の地、祝吉御所舊址、祝吉館(やかた)、初代 島津忠久、島津駅、島津院、荘園、島津の荘、アヤメの花、ショウブの花、宮崎県指定文化財 都城市沖水古墳、地表下にある三角点 (祝吉御所跡)、都城市立公園 早水公園、万葉植物園、体育文化センター)
(宮崎県 都城市 早水町、郡元町 祝吉)
<標高、位置> 早水神社は
標高 約160 m
北緯31度44分14秒 東経131度05分47秒
<標高、位置> 早水公園は
標高 約160 m
北緯31度44分19秒 東経131度05分35秒
<標高、位置> 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)は
標高 161.4 m
北緯31度44分21秒 東経131度05分57秒
「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」は宮崎県 都城市 郡元町 祝吉 3420 にあります。 早水神社の北東約500 m にあります。 祝吉、郡元、早水あたりは奈良時代ごろから島津という地名でした。
飛鳥時代の大化の新政(大化元年(645年))で駅馬・伝馬の「駅制」ができました。 大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力がありました。
「院」は「役所」のことで、平安時代の桓武天皇時代に諸国に「正倉院」を設置した(延暦14年=795年)ことに由来があります。 「島津院」はその1つです。 平安時代には島津を中心として荘園(しょうえん)があり、「島津の荘」と呼(よ)ばれました。 平安時代中期の万寿年間(1024年〜1028年)に平秀基(すえもと)が「島津の荘」を開きました。 これは忠久が島津の荘に関係する約160年前のことです。 そして平秀基は関白 藤原頼通にそれを寄進し、領主になりました。 荘園を広げたのは季基の後裔(入り婿)である肝付(きもつき)氏でした。 近くの三股院にも荘園は広がり中世時代に肝付の重要な領地でした。 島津の荘は国内最大級の荘園でした。
源平合戦で源氏の源頼朝が勝利し、鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、鎌倉時代の文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。 忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
建久8年(鎌倉時代初期、1197年)、惟宗忠久は島津荘に入り祝吉御所(館)を構えました。 忠久は、島津荘地頭に就任後から「島津」を称しました。 島津忠久は薩摩・大隅・日向の太守島津氏の始祖です。 建仁3年(鎌倉時代、1203年)の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されました。 後に薩摩のみの地頭職が返されました。 大隅・日向の地頭職は鎌倉幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続けました。 島津が再び日向・大隅・薩摩を手に入れたのは島津義久(1533年〜1611年)の時です。
「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板から、
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
「島津家発祥之地」の石碑(せきひ)から、(一部は判読しました。)
源 頼朝の御家人惟宗忠久は 後鳥羽天皇文治元年(西暦1185)頼朝より日向国(島津院 三俣院 財部郷 北郷 中郷 南郷)大隅国薩摩国を綜合する島津庄下司職に任ぜられた。 更に忠久は上御門天皇建久七年(西暦1196)征夷大将軍の頼朝より日薩隅三州の守護職に任ぜられたので 薩摩国山門院を経て建久八年(西暦1197)島津庄政所(まんどころ)に着任し律令政治下の中心地であった島津院のこの地に居館を定め祝吉御所と称し 政治文化発展の藩礎を築きこの地で島津の姓を名乗り島津家の始祖となった。
よって この地に居館門柱の跡と言い伝える塚4基及び薩藩時代の駅の1つである島津駅の跡とされる馬頭観音の碑一基を蒐(あつ)め 島津家発祥の地として残さんとするものである。
「早水神社 (はやみずじんじゃ、旧名は沖水神社)」は宮崎県 都城市 早水町にあります。 早水公園の東隣(とな)りにあります。 早水公園の早水池では1日に8000立方メートルの豊富な湧(わ)き水があります。 創建は不明、戦国時代の初期(天文12年(1543年))に北郷忠相(ほんごうただすけ)が再建しました。 江戸時代以降に古事記、日本書紀の研究から、髪長媛の誕生地説が生まれました。 神楽舞(かんめ)も伝わっています。
「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」の説明板から、
この湧き水は早水神社祭神 髪長姫が産湯(うぶゆ)を使われた井戸と申し伝えます。 昔5世紀頃(古墳時代) 国造諸県君牛諸井は諸県地方を治めており、この地方の豪族の娘と結婚し、その間に生まれた髪長姫は絶世の美人でしたので朝廷に召(め)されました。
時の皇太子 大雀命(仁徳天皇)は(大阪の)難波の高津宮に上られた姫を1目ご覧になり、その美しさに心を打たれ竹内宿禰大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来この湧き水を飲み、また顔や手を洗うと美人になると言い伝え近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み手や顔を洗い神社に参拝する風習があります。
都城市 高城町の牧之原古墳群にある髪長媛 (かみながひめ)の銅像の台座から、
「髪長媛。 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))」
<古事記によると> 天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使いたまはむとして喚上げたまふし時、その太子大雀命、その媛女の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正しきに感でて、すなわち建内宿禰大臣に誂へて告りたまひけらく、「この日向より喚上げたまひし髪長比売は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。
ここに建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇すなわち髪長比売をその御子に賜ひき。 賜ひし状は、天皇豊明聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、その太子に賜ひき。
(略)故、その媛女を賜はりて後、太子歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕くとうたひたまひき。 また歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女は、争わず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふとうたひたまひき。
<日本書紀>の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。
(諸縣(諸県)はもろもろの県(あがた)の意味です。 当時の諸県は、今の宮崎県の東・西・北諸県郡と鹿児島県 曽於郡、それに宮崎市の一部です。)
(諸県君に限らず隼人など九州南部の豪族は娘を天皇家に入内しています。)
<日本書紀によると> 一一年、人有りて奏して曰さく、「日向国に媛子有り。 名は髪長媛。 即ち諸県君牛諸井(もろがたのうしもろい)の女なり。 是、国色之秀者なり」とまうす。 天皇、悦ぼて、心の裏に徴さむと欲す。
一三年春三月、天皇専使を遣して、髪長媛を徴さしむ。 秋九月中、髪長媛、日向より至れり。 便ち桑津邑に安置らしむ。 爰に皇子大鷦鷯尊、髪長媛を見たまふに及りて、其の形の美麗に感でて、常に恋ぶ情有します。
是に天皇、大鷦鷯尊の髪長媛を感づるを知しめして配せむと欲す。 是を以て、天皇、後宮に宴きこします日に、始めて髪長媛を喚して、因りて、宴の席に坐らしむ。 時に大鷦鷯をめして、髪長媛を指したまひて、乃ち歌して曰はく、(略)
是に大鷦鷯尊、御歌を蒙りて、便ち髪長媛を賜ふこと得ることを知りて、大きに悦びて、報歌たてまつりて曰はく、(略)大鷦鷯尊、髪長媛と既に得交すること慇懃なり。 独髪長媛に対ふて歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女を、神の如、聞えしかど、相枕枕く」、又、歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女、争はず、寝しくをぞ、愛しみ思ふ」。
<書紀一書によると>
日本書紀巻第十応神天皇十三年九月の項の原文は、
一云 日向諸縣君牛 仕于朝庭 年既耆耈之不能仕 仍致仕退於本土 則貢上己女髪長
媛 始至播磨 時天皇幸淡路嶋 而遊獵之 於是 天皇西望之 數十麋鹿 浮海來之 便
入于播磨鹿子水門 天皇謂左右曰 其何麋鹿也 泛巨海多來 爰左右共視而奇 則遣使令
察 使者至見 皆人也 唯以著角鹿皮 爲衣服耳 間曰 誰人也 對曰 諸縣君牛 是年
耆之 雖致仕 不得忘朝 故以己女<髪長媛>而貢上矣 天皇悦之 即喚令從御船 是以 時
人號其著岸之處 曰鹿子水門也 凡水手曰鹿子 蓋始起于是時也
(その意味は)、
一に曰く、日向の諸県君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふる能はず。 即ち己が女髪長媛を貢上る。 始めて播磨に至る。 時に天皇、淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。 是に天皇、西を望すに、数十の大鹿、海に浮きて来たれり。 便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。
天皇、左右に語りて曰はく、「其、何なる大鹿ぞ。巨海に泛びて多に来る」とのたまふ。 爰に左右共に視て奇びて、即ち使を遣して察しむ。 皆人なり。 唯角著ける皮を以て、衣服とせらくのみ。
対へて曰さく、「諸県君牛、己が女髪長媛を以て貢上る」とまうす。 天皇悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。
(船で日向の国から来た髪長媛には鹿の角(つの)が付いた鹿の皮を身に着けた人達が付き添っていました。)
仁徳天皇は難波(大阪市 中央区)の高津宮に即位し、
葛城襲津彦の娘 磐之媛を「皇后」としました。 その他に数人の妃((きさき)がいました。 髪長媛は妃の中の1人です。
仁徳天皇の妃(きさき)である髪長媛(かみながひめ)について、
<日向髪長媛、髪長比売(古事記)>
父は諸県君
牛諸井 応神11年にある人、髪長媛の美貌を応神天皇に奏す。
応神13年に応神天皇、専使を遣わし髪長媛を召す(3月)。
髪長媛が摂津国桑津(大阪市 東住吉区)に至る(9月)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に見初(みそ)められる。
応神天皇が宴の席にて髪長媛を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に賜(たまわ)る
。
髪長媛と仁徳天皇の間には皇子と皇女が生まれましたが、王権をめぐる内紛をへて日向系の勢力は断絶しました。 現在の天皇には髪長媛の遺伝子は伝わってはいません。
都城市の早水神社(旧沖水神社)の祭神は<髪長媛>、応神天皇、牛諸井(髪長媛の父)です。
「早水神社 幣拝殿改築記念碑」の碑文から、
早水神社は応神天皇、髪長媛、諸県牛諸井 (髪長媛の父)の3神を祭神とし、第16代 仁徳天皇妃(ひ、きさき)となられた髪長媛の出生地と言い伝えられている。
昭和天皇の皇后・皇淳皇后が皇太子妃となられた大正12年、早水神社にご来臨になり、境内からご祖先島津家発祥の地 祝吉御所旧跡を望まれた。 当時の早水神社幣拝殿は明治5年に改築されたもので腐朽荒廃を極めており、氏子崇敬者はもとより沖水村および都城市の有志諸賢の方々が改築に取り組まれて大正15年春に完成した。
「沖水古墳」は早水神社の境内(けいだい)にあります。
「種別 県指定文化財 名称 都城市沖水古墳」の説明板から、
指定年月日 昭和11年7月17日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
「早水公園 (はやみずこうえん)」は宮崎県 都城市 早水町 3900-1 にあります。 広さは14 ha です。 早水公園の早水池では1日に8000立方メートルの豊富な湧(わ)き水があります。 「霧島48池」の1つ、早水池は6つの池からなります。
「早水公園案内図」から、
ここ早水の地には、髪長姫(髪長媛、かみながひめ)の産湯(うぶゆ)として使われたという井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛(たた)える池が当公園に6箇所あります。 当時、髪長姫はその美貌(びぼう)で都にまで知られており、応神天皇によって召(め)され、第4子 仁徳天皇が娶(めと)られたと言われています。 そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀(まつ)ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。 その後、昭和41年 万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。 昭和56年に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備(そな)えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生公園、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。 その他、児童プールやあやめ園、外来樹の森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
写真A: 先(西)に行くと国立病院機構の都城病院のところで国道269号線に交差します。 手前に早水神社、早水公園があります。
写真B: 奥の大きな建物が国立病院機構の都城病院です。 西を見た景色です。
写真C: 左の木が見えるところが早水公園です。 東を見たものです。
写真D: 「早水公園、都城市体育文化センター←」の標識があります。
写真E: 早水公園の駐車場です。 いくつかの駐車場があります。
写真F: 公衆電話もあります。
写真G: 「都城市立 早水公園」、「万葉植物園入口」と書いてある門柱が見えます。 北を見たもの。
写真H: 奥に早水公園の芝生(しばふ)が見えます。
写真I: 「早水公園案内図」です。
ここ早水の地には、髪長姫(髪長媛、かみながひめ)の産湯(うぶゆ)として使われたという井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛(たた)える池が当公園に6箇所あります。 当時、髪長姫はその美貌(びぼう)で都にまで知られており、応神天皇によって召(め)され、第4子 仁徳天皇が娶(めと)られたと言われています。 そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀(まつ)ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。 その後、昭和41年 万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。 昭和56年に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備(そな)えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生公園、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。 その他、児童プールやあやめ園、外来樹の森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
と書かれています。
早水公園の絵地図もあります。
写真J: 「早水公園案内図」です。
ここ早水の地には、髪長姫(髪長媛、かみながひめ)の産湯(うぶゆ)として使われたという井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛(たた)える池が当公園に6箇所あります。 当時、髪長姫はその美貌(びぼう)で都にまで知られており、応神天皇によって召(め)され、第4子 仁徳天皇が娶(めと)られたと言われています。 そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀(まつ)ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。 その後、昭和41年 万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。 昭和56年に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備(そな)えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生公園、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。 その他、児童プールやあやめ園、外来樹の森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
と書かれています。
早水公園の絵地図もあります。
写真K: 「早水公園案内図」です。
ここ早水の地には、髪長姫(髪長媛、かみながひめ)の産湯(うぶゆ)として使われたという井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛(たた)える池が当公園に6箇所あります。 当時、髪長姫はその美貌(びぼう)で都にまで知られており、応神天皇によって召(め)され、第4子 仁徳天皇が娶(めと)られたと言われています。 そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀(まつ)ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。 その後、昭和41年 万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。 昭和56年に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備(そな)えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生公園、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。 その他、児童プールやあやめ園、外来樹の森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
と書かれています。
早水公園の絵地図もあります。
写真L: 「早水公園案内図」です。
ここ早水の地には、髪長姫(髪長媛、かみながひめ)の産湯(うぶゆ)として使われたという井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛(たた)える池が当公園に6箇所あります。 当時、髪長姫はその美貌(びぼう)で都にまで知られており、応神天皇によって召(め)され、第4子 仁徳天皇が娶(めと)られたと言われています。 そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀(まつ)ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。 その後、昭和41年 万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。 昭和56年に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備(そな)えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生公園、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。 その他、児童プールやあやめ園、外来樹の森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
と書かれています。
早水公園の絵地図もあります。
写真M: 「早水公園案内図」です。
ここ早水の地には、髪長姫(髪長媛、かみながひめ)の産湯(うぶゆ)として使われたという井戸の遺跡が伝わっており、その湧水を湛(たた)える池が当公園に6箇所あります。 当時、髪長姫はその美貌(びぼう)で都にまで知られており、応神天皇によって召(め)され、第4子 仁徳天皇が娶(めと)られたと言われています。 そして、早水神社には、応神天皇と髪長姫、姫の父である諸県君牛諸井が祀(まつ)ってあります。
早水公園の成り立ちは、昭和32年に開設された市立植物園に始まります。 その後、昭和41年 万葉植物園が併設された後、昭和44年度から都市公園として本格的に公園整備が始まりました。 昭和56年に、大型体育イベントができ、視聴覚室や弓道場を備(そな)えた体育文化センター、昭和58年度に万葉集に登場する植物を集めた万葉植物園(再建)、昭和61年度に園芸などの相談や講習会を開催できる緑の相談所、平成7年度に芝生公園、平成10年度に遠的弓道場が完成しました。 その他、児童プールやあやめ園、外来樹の森などを整備し、平成17年3月までに親水広場や多目的広場、香りの広場も整備しています。
平成17年3月 都城市
と書かれています。
早水公園の絵地図もあります。
写真N: 「都城市立 早水公園」と書いてあります。
写真O: 「万葉植物園入口」と書いてあります。
写真P: 都城市にある早水公園です。 芝生公園、遊具も見えます。 奥の森は万葉植物園で、万葉集に載(の)っている木などが植えてあり、説明板もあります。
写真Q: 早水公園の広場です。
写真R: 早水公園の中の歩道です。
写真S: 公園の端(はし)の方です。 サツキの花も見えます。
写真T: 駐車場を振(ふ)り返ったもの。 サツキの花も見えます。
写真U: トイレです。
写真V: 都城市の早水公園です。
写真W: 早水公園の池(紫陽花(あじさい)の池、御園池)です。 奥に駐車場も見えます。
写真X: 早水公園の池(紫陽花(あじさい)の池、御園池)です。 池の中に東屋(あずまや)があります。 東を見たものです。
「霧島48池」の1つ、早水池です。 早水池は6つの池からなります。 これは紫陽花(あじさい)池です。
早水公園の早水池では1日に8000立方メートルの豊富な湧(わ)き水があります。
写真Y: 右は池(紫陽花(あじさい)の池、御園池)です。
写真Z: 早水公園の歩道です。
写真AA: 奥はトイレです。
写真AB: 野外舞台、遊具などが見えます。 中央の四角のものはボルタリングの施設です。 「ボルタリング」は岩登り(フリークライミング)の練習として壁(かべ)に登ります。 北を見たもの。
写真AC: 黄色のショウブ(キショウブ)が池のそばに咲いていました。
写真AD: 都城市の早水公園にある紫陽花(あじさい)の池(御園池)です。 東を見たものです。 「霧島48池」の1つ、早水池は6つの池からなります。
写真AE: 「万葉植物園、外来樹の森→」、「遠的弓道場、芝生公園→」、「アヤメ園←」の道案内があります。
写真AF: 木製の橋があります。 西を見た景色です。 池のまわりに都城市の花「アヤメ」があります。 早水公園には2万8000株42万本のアヤメがあります。
写真AG: 奥に野外舞台も見えます。
写真AH: 池の橋から見たものです。 北を見た景色です。
写真AI: 紫陽花(あじさい)の池(御園池)です。 池のまわりに都城市の花「アヤメ」があります。 早水公園には2万8000株42万本のアヤメがあります。
写真AJ: 早水公園の紫陽花(あじさい)の池(御園池)です。 東を見た景色です。
写真AK: 池の中にある東屋(あずまや)です。
写真AL: 東屋と木の橋です。
写真AM: 木の橋の上から見た景色です。
写真AN: 鯉(こい)が池に見えます。
写真AO: 野外舞台、外灯なども見えます。 池の橋から見たものです。
写真AP: 多くの鯉(コイ)が池で泳いでいます。 上は木の橋の下部です。
写真AQ: 左はアジサイの木です。 これから紫陽花(あじさい)の池(御園池)と名付けられたのでしょう。
写真AR: 岸に多くのアジサイが見えます。 アジサイの池です。
写真AS: バス停「早水公園」があります。 公園の中を車道が南北に通っています。
写真AT: 奥に「早水神社」があります。 早水公園と早水神社は隣接(りんせつ)してあります。 赤い神橋(髪長媛橋(かみながひめ橋))が見えています。 東を見た景色です。
写真AU: この奥に早水神社があります。 早水公園の東側に早水神社があります。
写真AV: 左は公園の中を通っている車道です。 先に進むと、島津家の発祥の地である「祝吉御所 (いわよしごしょ)」に行きます。
北を見たもの。
写真AW: 公園の中を通っている車道です。 先に進むと、島津家の発祥の地である「祝吉御所 (いわよしごしょ)」に行きます。
写真AX: 西を見たもの。 車道の奥に先ほどのアジサイの池が見えます。
写真AY: バス停「早水公園」の近くです。 西を見たもの。
写真AZ: バス停「早水公園」です。 南を見たもの。
写真BA: 髪長姫池です。 水草の「コウホネ」が茂っています。 奥に赤い神橋が見えます。 早水神社の建物も見えます。 西を見たもの。
これは髪長姫池です。 池のまわりに都城市の花「アヤメ」があります。 早水公園には2万8000株42万本のアヤメがあります。
写真BB: 髪長姫池です。 水草の「コウホネ」が茂っています。 奥に赤い神橋 (かみながひめ橋)が見えます。 この神橋は昭和51年3月吉日に完成しました。
写真BC: 池に黄色の「コウホネの花」が咲いていました。
写真BD: 黄色の「コウホネの花」が咲いていました。
写真BE: 「ヤマボウシの花」が咲いていました。
写真BF: 髪長姫池に「スイレンの花」が咲いていました。
写真BG: こちらにも駐車場があります。 奥に赤い神橋、祠(ほこら、神をまつる小さなやしろ)が見えます。
写真BH: 宮崎県 都城市にある「早水神社」の赤い鳥居(とりい)です。 「早水神社」と書いてある額(がく)が鳥居にかけてあります。 奥に拝殿も見えます。 北を見たもの。 早水公園の東隣(とな)りにあります。
写真BI: 早水神社の鳥居です。 左に髪長姫池があります。 早水公園の東隣(とな)りにあります。
写真BJ: 西を見たもの。 駐車場も見えます。
写真BK: 「早水神社」と書いてあります。 しめ縄、御幣(ごへい)も見えます。
写真BL: 鳥居のそばに石灯籠(いしどうろう)があります。
写真BM: 石灯籠に「昭和12年7月31日 建立」と書いてあります。
写真BN: 都城市にある早水神社の赤い鳥居です。
写真BO: 奥に早水神社の拝殿、説明板なども見えます。
写真BP: 都城市にある早水神社です。
写真BQ: 早水神社の末社もあります。 右は「沖水古墳」の説明板です。 説明板の奥に赤い神橋が見えます。
写真BR: 「種別 県指定文化財 名称 都城市沖水古墳」の説明板です。
指定年月日 昭和11年7月17日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成10年9月
都城市教育委員会
と書かれています。
写真BS: 「種別 県指定文化財 名称 都城市沖水古墳」の説明板です。
指定年月日 昭和11年7月17日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成10年9月
都城市教育委員会
と書かれています。
写真BT: 「種別 県指定文化財 名称 都城市沖水古墳」の説明板です。
指定年月日 昭和11年7月17日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成10年9月
都城市教育委員会
と書かれています。
写真BU: 「種別 県指定文化財 名称 都城市沖水古墳」の説明板です。
指定年月日 昭和11年7月17日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成10年9月
都城市教育委員会
と書かれています。
写真BV: 「種別 県指定文化財 名称 都城市沖水古墳」の説明板です。
指定年月日 昭和11年7月17日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成10年9月
都城市教育委員会
と書かれています。
写真BW: 「種別 県指定文化財 名称 都城市沖水古墳」の説明板です。
指定年月日 昭和11年7月17日
大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。
経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。
平成10年9月
都城市教育委員会
と書かれています。
写真BX: 古墳の上に「県指定史跡 沖水古墳」の標識棒(標柱)と木が見えます。 右端は赤い神橋(かみながひめ橋)です。
写真BY: 「県指定史跡 沖水古墳」です。 苔(こけ)むしています。 柵(さく)にも苔が生(は)えています。
写真BZ: 古墳の上に「県指定史跡 沖水古墳」の標識棒(標柱)と木があります。
写真CA: 来た参道を振り返ったもの。 右にも神社の建物があります。
写真CB: 赤い髪長姫橋です。 昭和51年3月吉日完成。
写真CC: 「かみながひめはし」と赤い神橋に書いてあります。 昭和51年3月吉日完成。
写真CD: 「髪長姫池 (髪長媛池、かみながひめいけ)」です。 この池の手前側に今でも湧(わ)き水(泉、(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水)があります。 赤い橋は髪長姫橋です。 早水神社の参道のそばにあります。
写真CE: 「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」と書いてあります。
写真CF: 「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」の説明板です。
この湧き水は早水神社祭神 髪長姫が産湯(うぶゆ)を使われた井戸と申し伝えます。 昔5世紀頃(古墳時代) 国造諸県君牛諸井は諸県地方を治めており、この地方の豪族の娘と結婚し、その間に生まれた髪長姫は絶世の美人でしたので朝廷に召(め)されました。
時の皇太子 大雀命(仁徳天皇)は(大阪の)難波の高津宮に上られた姫を1目ご覧になり、その美しさに心を打たれ竹内宿禰大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来この湧き水を飲み、また顔や手を洗うと美人になると言い伝え近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み手や顔を洗い神社に参拝する風習があります。
昭和59年8月吉日
早水神社
と書かれています。
写真CG: 「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」の説明板です。
この湧き水は早水神社祭神 髪長姫が産湯(うぶゆ)を使われた井戸と申し伝えます。 昔5世紀頃(古墳時代) 国造諸県君牛諸井は諸県地方を治めており、この地方の豪族の娘と結婚し、その間に生まれた髪長姫は絶世の美人でしたので朝廷に召(め)されました。
時の皇太子 大雀命(仁徳天皇)は(大阪の)難波の高津宮に上られた姫を1目ご覧になり、その美しさに心を打たれ竹内宿禰大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来この湧き水を飲み、また顔や手を洗うと美人になると言い伝え近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み手や顔を洗い神社に参拝する風習があります。
昭和59年8月吉日
早水神社
と書かれています。
写真CH: 「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」の説明板です。
この湧き水は早水神社祭神 髪長姫が産湯(うぶゆ)を使われた井戸と申し伝えます。 昔5世紀頃(古墳時代) 国造諸県君牛諸井は諸県地方を治めており、この地方の豪族の娘と結婚し、その間に生まれた髪長姫は絶世の美人でしたので朝廷に召(め)されました。
時の皇太子 大雀命(仁徳天皇)は(大阪の)難波の高津宮に上られた姫を1目ご覧になり、その美しさに心を打たれ竹内宿禰大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来この湧き水を飲み、また顔や手を洗うと美人になると言い伝え近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み手や顔を洗い神社に参拝する風習があります。
昭和59年8月吉日
早水神社
と書かれています。
写真CI: 「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」の説明板です。
この湧き水は早水神社祭神 髪長姫が産湯(うぶゆ)を使われた井戸と申し伝えます。 昔5世紀頃(古墳時代) 国造諸県君牛諸井は諸県地方を治めており、この地方の豪族の娘と結婚し、その間に生まれた髪長姫は絶世の美人でしたので朝廷に召(め)されました。
時の皇太子 大雀命(仁徳天皇)は(大阪の)難波の高津宮に上られた姫を1目ご覧になり、その美しさに心を打たれ竹内宿禰大臣に頼んで応神天皇に請願して皇太子妃とされました。
以来この湧き水を飲み、また顔や手を洗うと美人になると言い伝え近郷近在の婦女子は好んで来てこの水を飲み手や顔を洗い神社に参拝する風習があります。
昭和59年8月吉日
早水神社
と書かれています。
写真CJ: 「この池の水は飲めません。 手洗い以外に使わないで下さい。 都城市」と書いてあります。
写真CK: 「泉の中に入ったり汚したりしないでください。 早水神社」と書いてあります。
写真CL: これが都城市にある早水神社の泉です。 「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」です。 湧(わ)き水の波紋(はもん)が見えています。
写真CM: 都城市にある早水神社の泉です。 「(仁徳天皇妃(きさき)) 髪長姫の泉水」です。
都城市 高城町の牧之原古墳群にある髪長媛 (かみながひめ)の銅像の台座から、
「髪長媛。 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))」
<古事記によると> 天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使いたまはむとして喚上げたまふし時、その太子大雀命、その媛女の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正しきに感でて、すなわち建内宿禰大臣に誂へて告りたまひけらく、「この日向より喚上げたまひし髪長比売は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。
ここに建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇すなわち髪長比売をその御子に賜ひき。 賜ひし状は、天皇豊明聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、その太子に賜ひき。
(略)故、その媛女を賜はりて後、太子歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕くとうたひたまひき。 また歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女は、争わず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふとうたひたまひき。
<日本書紀>の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。
(諸縣(諸県)はもろもろの県(あがた)の意味です。 当時の諸県は、今の宮崎県の東・西・北諸県郡と鹿児島県 曽於郡、それに宮崎市の一部です。)
(諸県君に限らず隼人など九州南部の豪族は娘を天皇家に入内しています。)
<日本書紀によると> 一一年、人有りて奏して曰さく、「日向国に媛子有り。 名は髪長媛。 即ち諸県君牛諸井(もろがたのうしもろい)の女なり。 是、国色之秀者なり」とまうす。 天皇、悦ぼて、心の裏に徴さむと欲す。
一三年春三月、天皇専使を遣して、髪長媛を徴さしむ。 秋九月中、髪長媛、日向より至れり。 便ち桑津邑に安置らしむ。 爰に皇子大鷦鷯尊、髪長媛を見たまふに及りて、其の形の美麗に感でて、常に恋ぶ情有します。
是に天皇、大鷦鷯尊の髪長媛を感づるを知しめして配せむと欲す。 是を以て、天皇、後宮に宴きこします日に、始めて髪長媛を喚して、因りて、宴の席に坐らしむ。 時に大鷦鷯をめして、髪長媛を指したまひて、乃ち歌して曰はく、(略)
是に大鷦鷯尊、御歌を蒙りて、便ち髪長媛を賜ふこと得ることを知りて、大きに悦びて、報歌たてまつりて曰はく、(略)大鷦鷯尊、髪長媛と既に得交すること慇懃なり。 独髪長媛に対ふて歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女を、神の如、聞えしかど、相枕枕く」、又、歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女、争はず、寝しくをぞ、愛しみ思ふ」。
<書紀一書によると>
日本書紀巻第十応神天皇十三年九月の項の原文は、
一云 日向諸縣君牛 仕于朝庭 年既耆耈之不能仕 仍致仕退於本土 則貢上己女髪長
媛 始至播磨 時天皇幸淡路嶋 而遊獵之 於是 天皇西望之 數十麋鹿 浮海來之 便
入于播磨鹿子水門 天皇謂左右曰 其何麋鹿也 泛巨海多來 爰左右共視而奇 則遣使令
察 使者至見 皆人也 唯以著角鹿皮 爲衣服耳 間曰 誰人也 對曰 諸縣君牛 是年
耆之 雖致仕 不得忘朝 故以己女<髪長媛>而貢上矣 天皇悦之 即喚令從御船 是以 時
人號其著岸之處 曰鹿子水門也 凡水手曰鹿子 蓋始起于是時也
(その意味は)、
一に曰く、日向の諸県君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふる能はず。 即ち己が女髪長媛を貢上る。 始めて播磨に至る。 時に天皇、淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。 是に天皇、西を望すに、数十の大鹿、海に浮きて来たれり。 便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。
天皇、左右に語りて曰はく、「其、何なる大鹿ぞ。巨海に泛びて多に来る」とのたまふ。 爰に左右共に視て奇びて、即ち使を遣して察しむ。 皆人なり。 唯角著ける皮を以て、衣服とせらくのみ。
対へて曰さく、「諸県君牛、己が女髪長媛を以て貢上る」とまうす。 天皇悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。
(船で日向の国から来た髪長媛には鹿の角(つの)が付いた鹿の皮を身に着けた人達が付き添っていました。)
仁徳天皇は難波(大阪市 中央区)の高津宮に即位し、
葛城襲津彦の娘 磐之媛を「皇后」としました。 その他に数人の妃((きさき)がいました。 髪長媛は妃の中の1人です。
仁徳天皇の妃(きさき)である髪長媛(かみながひめ)について、
<日向髪長媛、髪長比売(古事記)>
父は諸県君
牛諸井 応神11年にある人、髪長媛の美貌を応神天皇に奏す。
応神13年に応神天皇、専使を遣わし髪長媛を召す(3月)。
髪長媛が摂津国桑津(大阪市 東住吉区)に至る(9月)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に見初(みそ)められる。
応神天皇が宴の席にて髪長媛を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に賜(たまわ)る
。
髪長媛と仁徳天皇の間には皇子と皇女が生まれましたが、王権をめぐる内紛をへて日向系の勢力は断絶しました。 現在の天皇には髪長媛の遺伝子は伝わってはいません。
都城市の早水神社(旧沖水神社)の祭神は<髪長媛>、応神天皇、牛諸井(髪長媛の父)です。
写真CN: 泉の水は髪長姫池に、ここで流れ込(こ)んでいます。
写真CO: 右は髪長姫池、祠(ほこら)、沖水古墳も見えます。
写真CP: 髪長姫池です。 赤い「かみながひめ橋」も見えます。
写真CQ: 髪長姫池と赤い「かみながひめ橋」です。
写真CR: 宮崎県 都城市にある「早水神社」です。 右に手水舎(ちょうずや)も見えます。
写真CS: 参道と髪長姫池、髪長姫橋です。
写真CT: 参道の右に慰霊碑、石灯籠(いしどうろう)、鳥居(とりい)があります。
写真CU: 「慰霊碑建立記念碑」です。
慰霊碑建立を記念し従軍帰還者一同の名を刻(きざ)み武運拙くして散華された戦友の冥福を祈り、世界の恒久平和を祈念(きねん)してこの碑を建つ。 昭和54年4月吉日 早水戦友会
と書いてあります。
写真CV: 献花(けんか)などが見えます。 早水神社の慰霊碑です。
写真CW: 「あやめ園→」、「←万葉植物園」の道しるべも見えます。 早水神社。 奥は拝殿です。
写真CX: 都城市にある早水神社の拝殿、手水舎(ちょうずや)などです。
写真CY: 早水神社の境内(けいだい)です。
写真CZ: 奥に赤い神橋 (髪長姫橋)が見えます。
写真DA: 「奉納」と石に彫(ほ)ってあります。 丸い窪(くぼ)みもあります。
写真DB: 早水神社の手水舎(ちょうずや)です。
写真DC: 御手洗(みたらい)です。
写真DD: 都城市にある「早水神社」の拝殿です。 右は古神札納舎、左奥は社務所です。
写真DE: 階段もあります。
写真DF: 石灯籠(いしどうろう)があります。
写真DG: 「古神札納舎」です。 古い御札を納める所です。
写真DH: 「幣拝殿改築記念碑」などです。
写真DI: 「幣拝殿改築記念碑」の碑文です。
早水神社は応神天皇、髪長媛、諸県牛諸井 (髪長媛の父)の3神を祭神とし、第16代 仁徳天皇妃(ひ、きさき)となられた髪長媛の出生地と言い伝えられている。
昭和天皇の皇后・皇淳皇后が皇太子妃となられた大正12年、早水神社にご来臨になり、境内からご祖先島津家発祥の地 祝吉御所旧跡を望まれた。 当時の早水神社幣拝殿は明治5年に改築されたもので腐朽荒廃を極めており、氏子崇敬者はもとより沖水村および都城市の有志諸賢の方々が改築に取り組まれて大正15年春に完成した。
その後75年を経過した社殿は、老朽が甚(はなは)だしく、屋根裏は白蟻の被害も加わって雨漏りがひどく、修理に修理を重ねてきた。 しかし、このままでは荒廃の一途をたどるばかりであるので、役員一同が協議し、氏子有志の賛同も得て早水神社拝殿改築建設委員会を設立した。 役員、建設委員有志は一丸となって事に当たり、氏子崇敬者をはじめとして多くの方々から浄財の寄進を受け、本日ここにめでたく完成したことを慶(よろこ)び、記念碑を建立する。
平成13年7月6日 宮司
と書かれています。
写真DJ: 「幣拝殿改築記念碑」の碑文です。
早水神社は応神天皇、髪長媛、諸県牛諸井 (髪長媛の父)の3神を祭神とし、第16代 仁徳天皇妃(ひ、きさき)となられた髪長媛の出生地と言い伝えられている。
昭和天皇の皇后・皇淳皇后が皇太子妃となられた大正12年、早水神社にご来臨になり、境内からご祖先島津家発祥の地 祝吉御所旧跡を望まれた。 当時の早水神社幣拝殿は明治5年に改築されたもので腐朽荒廃を極めており、氏子崇敬者はもとより沖水村および都城市の有志諸賢の方々が改築に取り組まれて大正15年春に完成した。
その後75年を経過した社殿は、老朽が甚(はなは)だしく、屋根裏は白蟻の被害も加わって雨漏りがひどく、修理に修理を重ねてきた。 しかし、このままでは荒廃の一途をたどるばかりであるので、役員一同が協議し、氏子有志の賛同も得て早水神社拝殿改築建設委員会を設立した。 役員、建設委員有志は一丸となって事に当たり、氏子崇敬者をはじめとして多くの方々から浄財の寄進を受け、本日ここにめでたく完成したことを慶(よろこ)び、記念碑を建立する。
平成13年7月6日 宮司
と書かれています。
写真DK: 「幣拝殿改築記念碑」の碑文です。
早水神社は応神天皇、髪長媛、諸県牛諸井 (髪長媛の父)の3神を祭神とし、第16代 仁徳天皇妃(ひ、きさき)となられた髪長媛の出生地と言い伝えられている。
昭和天皇の皇后・皇淳皇后が皇太子妃となられた大正12年、早水神社にご来臨になり、境内からご祖先島津家発祥の地 祝吉御所旧跡を望まれた。 当時の早水神社幣拝殿は明治5年に改築されたもので腐朽荒廃を極めており、氏子崇敬者はもとより沖水村および都城市の有志諸賢の方々が改築に取り組まれて大正15年春に完成した。
その後75年を経過した社殿は、老朽が甚(はなは)だしく、屋根裏は白蟻の被害も加わって雨漏りがひどく、修理に修理を重ねてきた。 しかし、このままでは荒廃の一途をたどるばかりであるので、役員一同が協議し、氏子有志の賛同も得て早水神社拝殿改築建設委員会を設立した。 役員、建設委員有志は一丸となって事に当たり、氏子崇敬者をはじめとして多くの方々から浄財の寄進を受け、本日ここにめでたく完成したことを慶(よろこ)び、記念碑を建立する。
平成13年7月6日 宮司
と書かれています。
写真DL: 石灯籠(いしどうろう)と「祭神 応神天皇、髪長媛、諸県牛諸井 (髪長媛の父)、合殿 神功皇后、玉依姫、早水天神」と書いてある石碑(せきひ)などがあります。
写真DM: 「祭神 応神天皇、髪長媛(かみながひめ)、諸県牛諸井 (髪長媛の父)、合殿 神功皇后、玉依姫、早水天神」と書いてある石碑(せきひ)です。
写真DN: 奥に社務所が見えます。
写真DO: 宮崎県 都城市にある「早水神社」の拝殿です。
写真DP: 社務所などです。
写真DQ: 柱に彫(ほ)り物があります。
写真DR: 拝殿の上部です。
写真DS: 拝殿の下部です。 柱にも御幣(ごへい)、榊(さかき)などがあります。
写真DT: おみくじ販売機が見えます。
写真DU: 早水神社の拝殿の中に髪長媛(かみながひめ)の大きな像が奥にあります。 早水神社御祭神 髪長媛(かみながひめ)人形を販売しています。 大小2体の髪長媛(かみながひめ)の人形が見えます。
写真DV: 早水神社御祭神 髪長媛(かみながひめ)人形を販売しています。 大小2体の髪長媛(かみながひめ)の人形が見えます。
写真DW: 早水神社の拝殿の中に髪長媛(かみながひめ)の大きな像があります。
写真DX: 早水神社の中です。
写真DY: 早水神社の中。
写真DZ: 早水神社の鈴です。
写真EA: 来た参道を振り返ったもの。 赤い鳥居(とりい)も見えます。
写真EB: 拝殿の右手の方です。 石碑があり、右におみくじが縛(しば)り付けてあります。
写真EC: 石碑(せきひ)、おみくじなどが見えます。 早水神社の境内(けいだい)です。
写真ED: 早水神社の境内(けいだい)です。
写真EE: 早水神社の境内(けいだい)。 拝殿の前です。
写真EF: 右は拝殿です。
写真EG: 早水神社の拝殿です。
写真EH: 拝殿の右手の方です。 動物の像、ベンチ、イスなどがあります。 奥は池になっています。
写真EI: 大きな石碑があります。
写真EJ: 石碑です。
写真EK: 動物の像、ベンチなどがあります。
写真EL: 左端に藤棚(ふじだな)があります。 右奥にコンクリートの広い台が見えます。
写真EM: 藤棚があります。 左端は石碑です。
写真EN: 石碑の下部です。
写真EO: 石碑です。 奥に早水神社の社殿が見えます。
写真EP: 石碑の近くの広場です。
写真EQ: 石碑の近くの広場。
写真ER: 早水神社の藤です。
写真ES: 池に橋があります。 亀の像も見えます。 これは鷹取池(たかとりいけ)です。
写真ET: 池の橋です。 奥に階段もあります。
写真EU: 早水公園の池にある橋です。
写真EV: 橋から見た池です。
写真EW: 橋です。 右奥には早水神社があります。
写真EX: 右端は早水神社の社殿です。
写真EY: 左奥に早水神社の建物も見えます。
写真EZ: 橋の上から見た池です。
写真FA: 橋の上から見た池。
写真FB: 橋の上から北を見たもの。
写真FC: 宮崎県 都城市にある早水公園の「あやめ園」です。 真(ま)ん中に東屋(あずまや)があります。
都城市の花は「アヤメ」です。 早水公園には2万8000株42万本のアヤメがあります。
写真FD: 早水公園の「あやめ園」。
写真FE: 早水公園の「あやめ園」です。
写真FF: 「←あやめ園」、「万葉植物園、緑の相談所→」の道しるべがあります。 右は階段の手すりです。
写真FG: 都城市にある早水公園の「あやめ園」です。
都城市の花は「アヤメ」です。 早水公園には2万8000株42万本のアヤメがあります。
写真FH: 早水公園の児童プールです。
写真FI: 早水公園の児童プール。
写真FJ: 右は早水神社の本殿、左は拝殿です。 手前は遊具の像です。
写真FK: 左は早水神社の本殿、右は拝殿です。
写真FL: 早水神社の社務所です。
写真FM: 左は社務所。
写真FN: ここを歩いていきます。
写真FO: こちらにも池があります。 これは釣鐘池(つりがねいけ)です。
写真FP: 早水公園の藤棚(ふじだな)、ブランコ、すべり台、ベンチ、水飲み場、東屋(あずまや)などが見えます。
写真FQ: 早水公園の池と橋です。 これは釣鐘池(つりがねいけ)です。
写真FR: 右は早水神社の建物です。 手前は池です。
写真FS: 水飲み場もあります。
写真FT: バス停「早水公園」の所に戻(もど)って来ました。 ここを先(北)に進んで島津家発祥の地である「祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」に行きます。
写真FU: この右手に早水神社があります。 ここを先(北)に進んで島津家発祥の地である「祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」に行きます。
写真FV: この道を北に行きます。
写真FW: 右のガードレールのところを右に曲がって「祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」に行きます。
奥に製紙工場の赤と白の大きなエントツが見えます。
写真FX: 交差点に「祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の標識棒(標柱)があります(右)。
写真FY: 「県指定史跡 祝吉御所跡 市道入口、島津発祥の地」と書いてある標識棒(標柱)があります。
写真FZ: 「県指定史跡 祝吉御所跡 市道入口、島津発祥の地」と書いてある標識棒(標柱)。
写真GA: 「県指定史跡 祝吉御所跡 市道入口、島津発祥の地」と書いてある標識棒(標柱)があります。
写真GB: 右のガードレールのところを右に曲がって県指定史跡 祝吉御所跡に行きます。
写真GC: 右のガードレールのところを右に曲がって県指定史跡 祝吉御所跡に行きます。
写真GD: この市道を進んで島津発祥の地 県指定史跡 祝吉御所跡に行きます。
写真GE: 左奥の住宅地の中に県指定史跡 祝吉御所跡はあります。
写真GF: 来た道を振り返ったもの。 先に早水公園があります。 南を見たもの。
写真GG: この道を先(東)に行きます。
写真GH: 南にマンションが見えます。
写真GI: 左の道を奥に進みます。
写真GJ: もち、あくまき、もなか種などの「日野米菓」の看板が見えます。 その奥隣りが「県指定史跡 祝吉御所跡」です。
写真GK: もち、あくまき、もなか種などの「日野米菓」の看板があります。 その奥隣りが「県指定史跡 祝吉御所跡」です。
写真GL: 車が止まっている所が「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」の駐車場です。
写真GM: これが「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」の敷地です。 アジサイの花が咲いていました。
写真GN: 右が「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」です。
写真GO: 「アジサイの花」が咲いていました。
写真GP: 「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)が付いた木製の車止めがあります。
写真GQ: 宮崎県 都城市にある島津家発祥の地 「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」です。 大きな石碑(せきひ)、説明板が見えます。
祝吉、郡元、早水あたりは奈良時代ごろから島津という地名でした。
飛鳥時代の大化の新政(大化元年(645年))で駅馬・伝馬の「駅制」ができました。 大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力がありました。
「院」は「役所」のことで、平安時代の桓武天皇時代に諸国に「正倉院」を設置した(延暦14年=795年)ことに由来があります。 「島津院」はその1つです。 平安時代には島津を中心として荘園(しょうえん)があり、「島津の荘」と呼(よ)ばれました。 平安時代中期の万寿年間(1024年〜1028年)に平秀基(すえもと)が「島津の荘」を開きました。 これは忠久が島津の荘に関係する約160年前のことです。 そして平秀基は関白 藤原頼通にそれを寄進し、領主になりました。 荘園を広げたのは季基の後裔(入り婿)である肝付(きもつき)氏でした。 近くの三股院にも荘園は広がり中世時代に肝付の重要な領地でした。 島津の荘は国内最大級の荘園でした。
源平合戦で源氏の源頼朝が勝利し、鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、鎌倉時代の文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。 忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
建久8年(鎌倉時代初期、1197年)、惟宗忠久は島津荘に入り祝吉御所(館)を構えました。 忠久は、島津荘地頭に就任後から「島津」を称しました。 島津忠久は薩摩・大隅・日向の太守島津氏の始祖です。 建仁3年(鎌倉時代、1203年)の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されました。 後に薩摩のみの地頭職が返されました。 大隅・日向の地頭職は鎌倉幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続けました。 島津が再び日向・大隅・薩摩を手に入れたのは島津義久(1533年〜1611年)の時です。
写真GR: 都城市にある島津家発祥の地 「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」。
「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」は宮崎県 都城市 郡元町 祝吉 3420 にあります。 早水神社の北東約500 m にあります。 祝吉、郡元、早水あたりは奈良時代ごろから島津という地名でした。 平安時代には島津を中心として荘園(しょうえん)があり、「島津の荘」と呼(よ)ばれました。
写真GS: 宮崎県 都城市にある島津家発祥の地 「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」です。 大きな石碑(せきひ)、説明板が見えます。
忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
写真GT: 「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」の角(かど)に、「←郡元町、→早水町」の標識があります。 右は十字路になっています。 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」は宮崎県 都城市 郡元町 祝吉 3420 にあります。 早水神社の北東約500 m にあります。 祝吉、郡元、早水あたりは奈良時代ごろから島津という地名でした。
飛鳥時代の大化の新政(大化元年(645年))で駅馬・伝馬の「駅制」ができました。 大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力がありました。
「院」は「役所」のことで、平安時代の桓武天皇時代に諸国に「正倉院」を設置した(延暦14年=795年)ことに由来があります。 「島津院」はその1つです。 平安時代には島津を中心として荘園(しょうえん)があり、「島津の荘」と呼(よ)ばれました。 平安時代中期の万寿年間(1024年〜1028年)に平秀基(すえもと)が「島津の荘」を開きました。 これは忠久が島津の荘に関係する約160年前のことです。 そして平秀基は関白 藤原頼通にそれを寄進し、領主になりました。 荘園を広げたのは季基の後裔(入り婿)である肝付(きもつき)氏でした。 近くの三股院にも荘園は広がり中世時代に肝付の重要な領地でした。 島津の荘は国内最大級の荘園でした。
源平合戦で源氏の源頼朝が勝利し、鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、鎌倉時代の文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。 忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
建久8年(鎌倉時代初期、1197年)、惟宗忠久は島津荘に入り祝吉御所(館)を構えました。 忠久は、島津荘地頭に就任後から「島津」を称しました。 島津忠久は薩摩・大隅・日向の太守島津氏の始祖です。 建仁3年(鎌倉時代、1203年)の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されました。 後に薩摩のみの地頭職が返されました。 大隅・日向の地頭職は鎌倉幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続けました。 島津が再び日向・大隅・薩摩を手に入れたのは島津義久(1533年〜1611年)の時です。
写真GU: 「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」の東の道です。 北を見たもの。
写真GV: 都城市にある「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」です。
写真GW: 「県指定史跡 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)」の南の道です。 右が祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)です。 西を見たもの。
写真GX: 十字路から南を見たもの。 このあたりは住宅地になっています。
写真GY: 十字路から東を見たもの。
写真GZ: 祝吉御所跡 (いわよしごしょあと)の駐車場です。 西を見たもの。
写真HA: 島津家発祥の地である祝吉御所 (祝吉館(やかた))があった所です。
鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。
写真HB: 北を見た景色です。 祝吉御所跡の東の道です。
写真HC: 石碑(せきひ)、説明板などが見えます。
忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
写真HD: 宮崎県 都城市にある島津家発祥の地である「祝吉御所 (祝吉館(やかた))」があった所です。
祝吉、郡元、早水あたりは奈良時代ごろから島津という地名でした。
飛鳥時代の大化の新政(大化元年(645年))で駅馬・伝馬の「駅制」ができました。 大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力がありました。
「院」は「役所」のことで、平安時代の桓武天皇時代に諸国に「正倉院」を設置した(延暦14年=795年)ことに由来があります。 「島津院」はその1つです。 平安時代には島津を中心として荘園(しょうえん)があり、「島津の荘」と呼(よ)ばれました。 平安時代中期の万寿年間(1024年〜1028年)に平秀基(すえもと)が「島津の荘」を開きました。 これは忠久が島津の荘に関係する約160年前のことです。 そして平秀基は関白 藤原頼通にそれを寄進し、領主になりました。 荘園を広げたのは季基の後裔(入り婿)である肝付(きもつき)氏でした。 近くの三股院にも荘園は広がり中世時代に肝付の重要な領地でした。 島津の荘は国内最大級の荘園でした。
源平合戦で源氏の源頼朝が勝利し、鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、鎌倉時代の文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。 忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
建久8年(鎌倉時代初期、1197年)、惟宗忠久は島津荘に入り祝吉御所(館)を構えました。 忠久は、島津荘地頭に就任後から「島津」を称しました。 島津忠久は薩摩・大隅・日向の太守島津氏の始祖です。 建仁3年(鎌倉時代、1203年)の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されました。 後に薩摩のみの地頭職が返されました。 大隅・日向の地頭職は鎌倉幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続けました。 島津が再び日向・大隅・薩摩を手に入れたのは島津義久(1533年〜1611年)の時です。
写真HE: 「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)が付いた木製の車止めがあります。
写真HF: 都城市にある島津家発祥の地である「祝吉御所 (祝吉館(やかた))」があった所です。
写真HG: 西の方を見たもの。 ベンチ、車止めも見えます。
写真HH: 南西を見たものです。 左手前は駐車場。
写真HI: 南を見たもの。 手前は駐車場です。
写真HJ: 南東を見たもの。
写真HK: 東を見たものです。
写真HL: 北東を見たもの。
写真HM: 北を見たもの。
鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。
写真HN: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HO: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HP: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HQ: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HR: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HS: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HT: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HU: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HV: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HW: 「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」の説明板です。
指定年月日 昭和9年4月19日
ここは、島津 氏の始祖 忠久(ただひさ)が鎌倉より下向して、御所(館)を構えた所と伝えられる。 当地は、古代・中世において「島津」と呼称され、全国有数の荘園として知られる島津御荘(みしょう)の中心であった。
忠久は文治元年(1185年)8月、源頼朝によって、領家の島津御荘下司職(みしょうげすしき)、ついで同荘8000町の惣地頭職(そうじとうしき)、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられるなど、その勢力のほどがうかがわれる。 忠久は、はじめ惟宗(これむね)姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称(しょう)した。
また当地の稲荷神社も彼の創建といわれ、島津家代々の崇敬(すうけい)厚い神社であった。
島津 氏は武家の名門であり、中世より近代まで日本の歴史上に大きな足跡を残した。
その名(苗)字(みょうじ)がここに由来するのである。
平成6年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
島津忠久 画像、御所 周辺古絵図も載(の)っています。
写真HX: 左に「島津の家紋、島津家発祥之地」(昭和43年10月吉日 建立)、右に「祝吉御所舊跡、昭和3年11月建立」と書いてある石碑(せきひ)があります。
写真HY: 「島津の家紋、島津家発祥之地」(昭和43年10月吉日 建立)の石碑です。
碑文(ひぶん)もあります。
写真HZ: 「島津の家紋、島津家発祥之地」(昭和43年10月吉日 建立)の石碑です。
碑文 (一部は判読しました。)
源 頼朝の御家人惟宗忠久は 後鳥羽天皇文治元年(西暦1185)頼朝より日向国(島津院 三俣院 財部郷 北郷 中郷 南郷)大隅国薩摩国を綜合する島津庄下司職に任ぜられた。
更に忠久は上御門天皇建久七年(西暦1196)征夷大将軍の頼朝より日薩隅三州の守護職に任ぜられたので 薩摩国山門院を経て建久八年(西暦1197)島津庄政所(まんどころ)に着任し律令政治下の中心地であった島津院のこの地に居館を定め祝吉御所と称し
政治文化発展の藩礎を築きこの地で島津の姓を名乗り島津家の始祖となった。
よって この地に居館門柱の跡と言い伝える塚4基及び薩藩時代の駅の1つである島津駅の跡とされる馬頭観音の碑一基を蒐(あつ)め 島津家発祥の地として残さんとするものである。
昭和四十三年十月吉日 (明治百年)
都城市議会議長
写真IA: 「島津の家紋、島津家発祥之地」(昭和43年10月吉日 建立)の石碑です。
碑文 (一部は判読しました。)
源 頼朝の御家人惟宗忠久は 後鳥羽天皇文治元年(西暦1185)頼朝より日向国(島津院 三俣院 財部郷 北郷 中郷 南郷)大隅国薩摩国を綜合する島津庄下司職に任ぜられた。
更に忠久は上御門天皇建久七年(西暦1196)征夷大将軍の頼朝より日薩隅三州の守護職に任ぜられたので 薩摩国山門院を経て建久八年(西暦1197)島津庄政所(まんどころ)に着任し律令政治下の中心地であった島津院のこの地に居館を定め祝吉御所と称し
政治文化発展の藩礎を築きこの地で島津の姓を名乗り島津家の始祖となった。
よって この地に居館門柱の跡と言い伝える塚4基及び薩藩時代の駅の1つである島津駅の跡とされる馬頭観音の碑一基を蒐(あつ)め 島津家発祥の地として残さんとするものである。
昭和四十三年十月吉日 (明治百年)
都城市議会議長
写真IB: 「島津の家紋、島津家発祥之地」(昭和43年10月吉日 建立)の石碑です。
碑文 (一部は判読しました。)
源 頼朝の御家人惟宗忠久は 後鳥羽天皇文治元年(西暦1185)頼朝より日向国(島津院 三俣院 財部郷 北郷 中郷 南郷)大隅国薩摩国を綜合する島津庄下司職に任ぜられた。 更に忠久は上御門天皇建久七年(西暦1196)征夷大将軍の頼朝より日薩隅三州の守護職に任ぜられたので 薩摩国山門院を経て建久八年(西暦1197)島津庄政所(まんどころ)に着任し律令政治下の中心地であった島津院のこの地に居館を定め祝吉御所と称し 政治文化発展の藩礎を築きこの地で島津の姓を名乗り島津家の始祖となった。
よって この地に居館門柱の跡と言い伝える塚4基及び薩藩時代の駅の1つである島津駅の跡とされる馬頭観音の碑一基を蒐(あつ)め 島津家発祥の地として残さんとするものである。
昭和四十三年十月吉日 (明治百年)
都城市議会議長
写真IC: 石碑を裏から見たものです。
写真ID: 北西から見た石碑です。
左手前は馬頭観音です。
「馬頭観音の由来」
大化の新政で駅馬・伝馬の駅制ができて大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力があった。
この馬頭観音は、この地より北東約200 m の郡元町 2668番地2に建立されていたもので、この地を島津発祥地として顕彰(けんしょう)した際に地元有志の希求により移転した。
都城市教育委員会
と書かれています。
写真IE: 木の間の石碑は「祝吉土地改良 記念碑」(昭和45年建立)です。
写真IF: 北東を見たもの。 ベンチも見えます。
写真IG: 北を見た景色です。 祝吉御所跡の北側は畑になっています。
写真IH: 北西を見たものです。
写真II: 西の方を見たもの。
写真IJ: 南西を見たものです。
写真IK: 南東を見たもの。
写真IL: 「祝吉御所舊跡、昭和3年11月建立」と書いてある石碑。
祝吉、郡元、早水あたりは奈良時代ごろから島津という地名でした。
飛鳥時代の大化の新政(大化元年(645年))で駅馬・伝馬の「駅制」ができました。 大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力がありました。
「院」は「役所」のことで、平安時代の桓武天皇時代に諸国に「正倉院」を設置した(延暦14年=795年)ことに由来があります。 「島津院」はその1つです。 平安時代には島津を中心として荘園(しょうえん)があり、「島津の荘」と呼(よ)ばれました。 平安時代中期の万寿年間(1024年〜1028年)に平秀基(すえもと)が「島津の荘」を開きました。 これは忠久が島津の荘に関係する約160年前のことです。 そして平秀基は関白 藤原頼通にそれを寄進し、領主になりました。 荘園を広げたのは季基の後裔(入り婿)である肝付(きもつき)氏でした。 近くの三股院にも荘園は広がり中世時代に肝付の重要な領地でした。 島津の荘は国内最大級の荘園でした。
源平合戦で源氏の源頼朝が勝利し、鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、鎌倉時代の文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。 忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
建久8年(鎌倉時代初期、1197年)、惟宗忠久は島津荘に入り祝吉御所(館)を構えました。 忠久は、島津荘地頭に就任後から「島津」を称しました。 島津忠久は薩摩・大隅・日向の太守島津氏の始祖です。 建仁3年(鎌倉時代、1203年)の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されました。 後に薩摩のみの地頭職が返されました。 大隅・日向の地頭職は鎌倉幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続けました。 島津が再び日向・大隅・薩摩を手に入れたのは島津義久(1533年〜1611年)の時です。
写真IM: 「祝吉御所舊跡、昭和3年11月建立」と書いてあります。
写真IN: 石碑を裏から見たものです。 奥に駐車場が見えます。
写真IO: 手前の石は馬頭観音です。
「馬頭観音の由来」
大化の新政で駅馬・伝馬の駅制ができて大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力があった。
この馬頭観音は、この地より北東約200 m の郡元町 2668番地2に建立されていたもので、この地を島津発祥地として顕彰(けんしょう)した際に地元有志の希求により移転した。
都城市教育委員会
と書かれています。
写真IP: 「馬頭観音の由来」
大化の新政で駅馬・伝馬の駅制ができて大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力があった。
この馬頭観音は、この地より北東約200 m の郡元町 2668番地2に建立されていたもので、この地を島津発祥地として顕彰(けんしょう)した際に地元有志の希求により移転した。
都城市教育委員会
と書かれています。
写真IQ: 「祝吉土地改良 記念碑」(昭和45年建立)が敷地内にあります。
写真IR: 「祝吉土地改良 記念碑」(昭和45年建立)です。
写真IS: 「昭和45年建立」と書いてあります。 後ろは「祝吉土地改良 記念碑」です
写真IT: 「祝吉土地改良 記念碑」(昭和45年建立)が敷地内にあります。
写真IU: 東からの入口です。 3段の石段があります。
写真IV: 祝吉御所跡の敷地内に「三角点」があります。 「国土地理院 大切にしましょう三角点 基本測量 等三角点」と書いてあります。
写真IW: 祝吉御所跡の敷地内に「三角点」があります。 「国土地理院 大切にしましょう三角点 基本測量 等三角点」と書いてあります。
写真IX: 周(まわ)りに盛土をしたのでしょう。 三角点が地表下にあります。 その鉄製の蓋(ふた)です。 「三角点 国土地理院」とフタに彫(ほ)ってあります。 「地表下にある三角点」は珍(めず)しいと思います。 宮崎県 都城市にある祝吉御所跡にあります。
写真IY: 周(まわ)りに盛土をしたのでしょう。 三角点が地表下にあります。 その鉄製の蓋(ふた)です。 「三角点 国土地理院」とフタに彫(ほ)ってあります。 「地表下にある三角点」は珍(めず)しいと思います。 宮崎県 都城市にある祝吉御所跡。
写真IZ: 都城市にある祝吉御所 (祝吉館(やかた))があった所です。
島津家発祥地。
建久8年、惟宗忠久は島津荘に入り祝吉御所(館)を構えました。 忠久は、島津荘地頭に就任後から「島津」を称しました。 島津忠久は薩・隅・日の太守島津氏の始祖です。
写真JA: 南を見たもの。
写真JB: 北西を見た景色です。 畑になっています。 遠くに赤と白の製紙工場 エントツが見えます。 手前に三角点の標識棒(標柱)が見えます。
「県指定史跡 祝吉御所跡(いわよしごしょあと)」は宮崎県 都城市 郡元町 祝吉 3420 にあります。 早水神社の北東約500 m にあります。
祝吉、郡元、早水あたりは奈良時代ごろから島津という地名でした。
飛鳥時代の大化の新政(大化元年(645年))で駅馬・伝馬の「駅制」ができました。 大隅街道の1駅であった「島津駅」は鎌倉時代まで交通の要衝(ようしょう)として都城開発に力がありました。
「院」は「役所」のことで、平安時代の桓武天皇時代に諸国に「正倉院」を設置した(延暦14年=795年)ことに由来があります。 「島津院」はその1つです。 平安時代には島津を中心として荘園(しょうえん)があり、「島津の荘」と呼(よ)ばれました。 平安時代中期の万寿年間(1024年〜1028年)に平秀基(すえもと)が「島津の荘」を開きました。 これは忠久が島津の荘に関係する約160年前のことです。 そして平秀基は関白 藤原頼通にそれを寄進し、領主になりました。 荘園を広げたのは季基の後裔(入り婿)である肝付(きもつき)氏でした。 近くの三股院にも荘園は広がり中世時代に肝付の重要な領地でした。 島津の荘は国内最大級の荘園でした。
源平合戦で源氏の源頼朝が勝利し、鎌倉時代に源頼朝から惟宗忠久 (これむねただひさ、?-1227年)は、鎌倉時代の文治元年(1185年)8月に島津の荘の役人である下司職(げすしき)、文治元年(1185年)に島津荘 惣地頭職(そうじとうしき)になり、文治3年には薩摩・大隅・日向の守護に任じられました。 忠久は、島津荘 地頭に就任後から「島津」を姓(せい)にしました。 忠久は祝吉御所と堀之内御所を造りました。 堀之内御所は忠久が祝吉御所に移るまでに御所があった所で、宮崎県 都城市 安久町にあります。 ところが、忠久は鹿児島県 出水市の木牟礼城(きむれじょう)に入ったという説もあります。
建久8年(鎌倉時代初期、1197年)、惟宗忠久は島津荘に入り祝吉御所(館)を構えました。 忠久は、島津荘地頭に就任後から「島津」を称しました。 島津忠久は薩摩・大隅・日向の太守島津氏の始祖です。 建仁3年(鎌倉時代、1203年)の比企氏の乱に連座して忠久は島津荘地頭職を没収されました。 後に薩摩のみの地頭職が返されました。 大隅・日向の地頭職は鎌倉幕府執権の北条氏一族が鎌倉幕府滅亡まで保有し続けました。 島津が再び日向・大隅・薩摩を手に入れたのは島津義久(1533年〜1611年)の時です。
写真JC: 西を見た景色です。
写真JD: 南西を見たものです。
写真JE: 南を見たもの。 祝吉御所 (祝吉館(やかた))があった所。
写真JF: 南東を見たもの。
写真JG: 北西を見たものです。
写真JH: 北西に赤と白のエントツが見えます。 これは製紙工場の煙突(えんとつ)です。 都城市などからよく見えます。
写真JI: 南東を見たものです。
写真JJ: 祝吉御所跡の西寄りの部分です。
写真JK: 駐車場も見えています。
写真JL: 東を見たものです。 石碑も見えます。
写真JM: 都城市の市章(ししょう)がマンホールに描(えが)いてありました。
写真JN: はじめの早水公園に戻(もど)って来ました。
写真JO: 北西を見たものです。 中央の建物はトイレです。
写真JP: 飲料水の自動販売機とトイレです。 早水公園。
写真JQ: 都城市の「早水公園」にある芸術作品と花壇(かだん)です。
弓の形をしています。 都城市は弓の生産量が日本一です。
写真JR: 「早水公園」の花壇(かだん)です。
写真JS: 奥の白いコンクリートの建物は体育文化センターです。 西を見た景色です。
写真JT: 都城市の早水公園です。
写真JU: 東を見たものです。 早水公園。
写真JV: 北東を見たもの。
写真JW: 早水公園。
写真JX: 飲料水の自動販売機。
写真JY: 「クチナシの花」が咲いていました。 良い香りがします。
写真JZ: 東を見たものです。 早水公園です。
写真KA: 北を見た景色です。
写真KB: 西を見た景色です。 体育文化センターが見えます。 ロープで作られた遊具も見えます。
写真KC: 芝生公園(しばふこうえん)と野外舞台が見えます。
写真KD: 広い芝があります。
写真KE: ベンチなどが見えます。
写真KF: 早水公園の野外舞台です。 ダンスの練習をやっていました。
写真KG: 遊具もあります。 右は体育文化センターです。
写真KH: 体育文化センターのそばに弁当などの売店があります。
写真KI: 「ようこそ みやこのじょうへ」の絵地図があります。 後ろは体育文化センターです。
写真KJ: 「ようこそ みやこのじょうへ」の絵地図。
写真KK: 早水公園の隣にある「体育文化センター」です。
写真KL: 早水公園の隣にある「体育文化センター」。 体育館です。
体育文化センターでは国際弓道大会、全国弓道大会、全日本バレーボールチームの合宿、公式試合などが行われました。 大会議室、小会議室、視聴覚室もあります。
写真KM: 体育文化センターの前の広場です。 これは「ふるさとの銘木・古木」である推定樹齢100年、高さ25 m の大ケヤキです。
写真KN: 体育文化センターの前の広場。
右は「ふるさとの銘木・古木」である推定樹齢100年、高さ25 m の大ケヤキです。
写真KO: すべり台、野外舞台が見えます。 カラフルな壁(かべ)はボルタリングの施設です。 「ボルタリング」は岩登り(フリークライミング)の練習として壁(かべ)に登ります。 早水公園。
写真KP: 早水公園にある「万葉植物園」です。 万葉集に載っている樹木と説明板が見えます。
写真KQ: 都城市立 早水公園にある「万葉植物園」です。 万葉集に載っている樹木です。
写真KR: 早水公園にある「万葉植物園」です。 万葉集に載っている樹木と説明板。
写真KS: はじめの早水公園 駐車場に戻(もど)って来ました。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)