大安寺、伊東墓地 (島津豊久の位牌(いはい)、島津忠将の供養塔、伊東家の墓、第5代城主 伊東祐尭(すけたか)とその夫人の墓、伊東尹祐とその側室 福永 氏の墓、第8代城主 伊東祐充の墓、伊東義益(よします)の僑墓(きょうぼ)、福永伊豆守の墓、木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓(3基)、大安寺池、都於郡小学校、都於郡中学校、西都市役所 都於郡支所)  (宮崎県 西都市 鹿野田)







<標高、位置>  大安寺は
標高 約90 m
 北緯32度03分23秒  東経131度23分00秒

<標高、位置>  大安寺の境内にある「伊東墓地」は
標高 約90 m
 北緯32度03分25秒  東経131度23分05秒

<標高、位置>  大安寺池(もとは都於郡城の外濠(そとぼり))は
標高 約70 m
 北緯32度03分26秒  東経131度22分55秒

<標高、位置>  都於郡小学校は
標高 約80 m
 北緯32度03分27秒  東経131度22分49秒

<標高、位置>  都於郡中学校は
標高 約80 m
 北緯32度03分14秒  東経131度23分00秒

<標高、位置>  西都市役所 都於郡支所は
標高 約70 m
 北緯32度03分19秒  東経131度22分59秒


 「大安寺」は宮崎県西都市 大字鹿野田 5004にあります。 近くに大安寺池、都於郡小学校、都於郡中学校などがあります。 大安寺(曹洞宗)は昔は総昌院と呼ばれていました。 都於郡 第5代城主 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺(ぼだいじ)として建てられました。 伊東、その家臣の墓が多くあります(「伊東墓地」)。 島津 氏が侵攻しました。 前島津の島津豊久(しまづとよひさ)の位牌(いはい)が大安寺にあります。 大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩(さつま)に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。 後島津になった後は島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主(後島津) 島津以久の父)の菩提寺になり、島津以久(いくひさ)が整備しました。 島津惟久(しまづただひさ、佐土原藩 第5代藩主、1676年-1738年)が島津忠将(佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)のために建てた供養塔があります。
 明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 大安寺の本堂の左寄りの上に島津啓次郎の写真があります。 西南戦争の時、島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。
近くには伊東関係者の五輪塔が多くあります。 これは「伊東塔」と呼ばれます。 西都市が昭和54年に「伊東墓地」を整備しました。 歴代 伊東城主、重臣の墓が明らかになりました。 まだ不明の墓も多いそうです。

宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板から、
 大安寺はもと総昌院と称し都於郡 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺として建てられた。 この地域は伊東主従の墓が数多く存在した。 しかし永い年月の間にそれらの墓は粗末に扱われ、破れし者の哀れをとどめていた。 昭和54年墓地改修が行われほとんど野積状態に放置されていた墓を墓地の東側に移すことになり、はじめて墓地らしく整備された。 その中には伊東尹祐、伊東祐充 墓のごとく明治の初め他寺からも移された墓もあるが多くはこの墓地に葬られた人たちである。
 ここには伊東祐尭(すけたか)およびその夫人、伊東尹祐とその側室 福永 氏、伊東祐充、伊東義益(よします)(僑墓(きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓))、福永伊豆守などの墓がある。 その外に木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓も3基残っている。
 今を去る数百年の昔、この墓に眠る人々の舞台となり喜怒哀楽を共にした都於郡の山野は今や我々の暮らしの場となっているが時を隔てて共に古今を語る術(すべ)もなく徒(いたずら)に墓碑は風化を重ね寂として声なく感懐とし身にしむものがある。
この説明板の裏には、
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。


写真A: 宮崎県西都市 大字鹿野田にある上野医院のそばに県道18号線の十字路があります。 奥に進むと那珂に行きます。 手前に行くと西都市の中心部に行きます。 伊東墓地のある大安寺は左に行きます。



写真B: 左は県道18号線。 その東に大安寺池があります。 大安寺池は都於郡城(とのこおりじょう)の外濠(そとぼり)が残っているものです。 車道を先に行くと西都市の中心部に行きます。



写真C: 宮崎県 西都市 大字鹿野田にある大安寺池は都於郡城(とのこおりじょう)の外濠(そとぼり)が残っているものです。



写真D: 大安寺池は都於郡城(とのこおりじょう)の外濠(そとぼり)が残っているものです。



写真E: 宮崎県 西都市 大字鹿野田にある大安寺池は都於郡城(とのこおりじょう)の外濠(そとぼり)が残っているものです。 この道を先に進むと伊東墓地のある「大安寺」があります。



写真F: 右の上野医院の東に西都市役所の都於郡支所があります。



写真G: この十字路の付近の様子(ようす)。



写真H: 宮崎県 西都市 大字鹿野田にある「伊東墓地」と書いてある標識があります。



写真I: 大安寺池の畔(ほとり)は電飾されていました。



写真J: 宮崎県西都市 大字鹿野田 5004にある曹洞宗(そうどうしゅう)の「大安寺」の本堂が見えてきました。 右の大きな木も大安寺の境内にあります。 左は大安寺池(もと都於郡城の外濠(そとぼり))です。



写真K: 左奥は大安寺の境内です。 右は都於郡支所。 長い階段がある「大安寺の山門」へはこの車道を少し進んだところから行きます。



写真L: 左は大安寺池の電飾。 奥に大安寺の建物が見えます。 「伊東墓地」は大安寺の東に接している墓地にあります。



写真M: 大安寺のそばにある大安寺池(もと都於郡城の外濠(そとぼり))。 電飾されているようです。



写真N: 奥は宮崎県西都市 大字鹿野田 5004にある曹洞宗(そうどうしゅう)の「大安寺」の本堂。 高台にあります。



写真O: 奥は宮崎県西都市 大字鹿野田 5004にある曹洞宗(そうどうしゅう)の「大安寺」の本堂。 高台にあります。



写真P: 左奥の高台は大安寺の境内。



写真Q: 「曹洞宗 興福山 大安寺」と書いてある石碑(せきひ)があります。 右に小さく石像も見えます。 上は大安寺の境内。



写真R: 「曹洞宗 興福山 大安寺」と書いてある石碑(せきひ)があります。 右に小さく石像も見えます。 上は大安寺の境内。



写真S: 「曹洞宗 興福山 大安寺」と書いてある石碑(せきひ)。



写真T: 石碑のそばに石像があります。



写真U: 道路工事が行われていました。



写真V: 宮崎県 西都市 大字鹿野田にある大安寺池から見た西都市立 都於郡小学校(とのこおりしょうがっこう)。 校舎と体育館が見えています。



写真W: 「都於郡ウオーキングコース」の看板(かんばん)があります。



写真X: この道が大安寺に登る参道です。 工事中でした。



写真Y: 左が駐車場です。 道路工事が行われていました。



写真Z: 駐車場です。 左にトイレがあります。 伊東墓地のある大安寺は右上にあります。



写真AA: 大安寺池のほとりは広場になっていて水飲み場もあります。 都於郡農村公園と呼ばれます。 奥は大安寺池。
左の杉の木立の中には弁天堂と芭蕉句碑があります。



写真AB: 大安寺池のほとりは広場になっていて水飲み場もあります。 都於郡農村公園と呼ばれます。 奥は大安寺池。
杉の木立の中には弁天堂と芭蕉句碑があります。



写真AC: 「都於郡農村公園」の説明板。 大安寺池の絵もあります。



写真AD: 「都於郡農村公園」の説明板。
 この農村水辺公園は、城を背景とした歴史の香りを盛り立て、周辺の住民および来訪者に憩いの場を提供することを目的として農林水産省の補助事業でつくられたものである。
 ため池堤塘の内法面を自然石積で補強し、周辺を遊歩道で結ぶとともに、植樹、ベンチなどの修景施設の整備を行った。
 都於郡城は、かつてその東と南側に延長数キロに及ぶ外濠(そとぼり)を有していた。 今に残る大安寺池はその名残りである。 また池の一面の杉木立には弁天堂と書かれた小さなお堂の傍(かたわ)らに松尾芭蕉の句碑が建てられている。 この句碑は寛政7年(1795年)芭蕉の没後110年に建てられたものである。
事業の概要
1。事業名 県営農村自然環境整備事業
2。地区名 西都(都於郡水辺農村公園整備)
3。施工年度 平成6〜7年度
と書かれています。



写真AE: 大安寺池のそばにベンチもあります。 左の白い建物は上野医院。



写真AF: 「都於郡農村公園」の説明板も見えます。 杉の木立の中には弁天堂と芭蕉句碑があります。



写真AG: 宮崎県 西都市 大字鹿野田にある大安寺池。



写真AH: 「大安寺池」の説明板。
 この池は「農業用施設」です。 農家の人達が、このため池から田に水を引いて米や野菜などをつくっています。 とても大切な施設ですから、ゴミや空き缶を捨てないように、みんなできれいな水を守りましょう。
大安寺池の歴史
 この池は、およそ15、000 平方メートルほどの広さと8、000 立方メートルの貯水能力があり、室町時代後期、伊東藩主の居城であった都於郡城(とのこおりじょう)が繁栄していたころ城を守る濠(ほり)の一部であったといわれ、また米を作るための水源として大変重要な役割を果たしていました。 池の周(まわ)りには当時いくつもの寺院があり、ここから西の方は門前町として大変ににぎわいを見せていたそうです。 時代とともに池のまわりも様変わりしましたが、美しい景観を今に残し遠い昔をしのばせてくれます。

 この大安寺池の水は、県道沿いの用水路を流れ約1 km北側の坂の下地区へそそがれています。 この地区は水田が約8.5 あり、そのうち5.8 は昭和52年〜53年にかけてほ場整備が実施され、用水路、排水路などの整備が行われました。 現在では、このため池のおかげで米のほかいろいろな作物が作られ地域の発展に大きく役立っています。 また地域の人や観光で訪れる人達のいこいの場所としても利用されています。
管理者 大安寺池水利組合
と書かれています。
大安寺池の近くの地図も載っています。



写真AI: 「大安寺池」の説明板。
 この池は「農業用施設」です。 農家の人達が、このため池から田に水を引いて米や野菜などをつくっています。 とても大切な施設ですから、ゴミや空き缶を捨てないように、みんなできれいな水を守りましょう。
大安寺池の歴史
 この池は、およそ15、000 平方メートルほどの広さと8、000 立方メートルの貯水能力があり、室町時代後期、伊東藩主の居城であった都於郡城(とのこおりじょう)が繁栄していたころ城を守る濠(ほり)の一部であったといわれ、また米を作るための水源として大変重要な役割を果たしていました。 池の周(まわ)りには当時いくつもの寺院があり、ここから西の方は門前町として大変ににぎわいを見せていたそうです。 時代とともに池のまわりも様変わりしましたが、美しい景観を今に残し遠い昔をしのばせてくれます。

 この大安寺池の水は、県道沿いの用水路を流れ約1 km北側の坂の下地区へそそがれています。 この地区は水田が約8.5 あり、そのうち5.8 は昭和52年〜53年にかけてほ場整備が実施され、用水路、排水路などの整備が行われました。 現在では、このため池のおかげで米のほかいろいろな作物が作られ地域の発展に大きく役立っています。 また地域の人や観光で訪れる人達のいこいの場所としても利用されています。
管理者 大安寺池水利組合
と書かれています。
大安寺池の近くの地図も載っています。



写真AJ: 「大安寺池」の説明板。
 この池は「農業用施設」です。 農家の人達が、このため池から田に水を引いて米や野菜などをつくっています。 とても大切な施設ですから、ゴミや空き缶を捨てないように、みんなできれいな水を守りましょう。
大安寺池の歴史
 この池は、およそ15、000 平方メートルほどの広さと8、000 立方メートルの貯水能力があり、室町時代後期、伊東藩主の居城であった都於郡城(とのこおりじょう)が繁栄していたころ城を守る濠(ほり)の一部であったといわれ、また米を作るための水源として大変重要な役割を果たしていました。 池の周(まわ)りには当時いくつもの寺院があり、ここから西の方は門前町として大変ににぎわいを見せていたそうです。 時代とともに池のまわりも様変わりしましたが、美しい景観を今に残し遠い昔をしのばせてくれます。

 この大安寺池の水は、県道沿いの用水路を流れ約1 km北側の坂の下地区へそそがれています。 この地区は水田が約8.5 あり、そのうち5.8 は昭和52年〜53年にかけてほ場整備が実施され、用水路、排水路などの整備が行われました。 現在では、このため池のおかげで米のほかいろいろな作物が作られ地域の発展に大きく役立っています。 また地域の人や観光で訪れる人達のいこいの場所としても利用されています。
管理者 大安寺池水利組合
と書かれています。
大安寺池の近くの地図も載っています。



写真AK: 土筆(つくし、ツクシ)が生(は)えていました。



写真AL: 大安寺池の近くの様子(ようす)。



写真AM: 都於郡城は、かつてその東と南側に延長数キロに及ぶ外濠(そとぼり)を有していた。 今に残る大安寺池はその名残りである。 また池の一面の杉木立には弁天堂と書かれた小さなお堂の傍(かたわ)らに松尾芭蕉の句碑が建てられている。 この句碑は寛政7年(1795年)芭蕉の没後110年に建てられたものである。



写真AN: 「芭蕉句碑(ばしょうくひ)」の説明板。
 永禄12年7月11日 都於郡城主、伊東義益が岩崎稲荷社(下三財神社)にて急死した。 世情騒然として天変地異あり。 12月8日城下大池に俄(にわか)に中島が出来、遊行した。 人々驚き恐れ義祐は飯野出兵を引き上げた。
 後この地は徳翁寺の境内となり、弁財天を祀(まつ)り龍宮といわれた。
 寛政7年10月12日 本庄(国富町)の佛匠阿窓庵野雀は都於郡の門人たちと共に佛聖 松尾芭蕉の百年忌に当たりその代表作「古池や」の句碑をこの中島に建てた。 以来190年各地、芭蕉の句碑数多き中にこの句碑は県下最古のもので江戸末期における都於郡俳諧(はいかい)の隆盛をしのばせるものがある。
都於郡城趾顕彰会
と書かれています。



写真AO: 大安寺池の中島にある県内最古の芭蕉句碑。
寛政7年10月12日 本庄(国富町)の佛匠阿窓庵野雀は都於郡の門人たちと共に佛聖 松尾芭蕉の百年忌に当たりその代表作「古池や」の句碑をこの中島に建てた。 以来190年各地、芭蕉の句碑数多き中にこの句碑は県下最古のもので江戸末期における都於郡俳諧(はいかい)の隆盛をしのばせるものがある。



写真AP: 大安寺池の中島にある県内最古の芭蕉句碑。
寛政7年10月12日 本庄(国富町)の佛匠阿窓庵野雀は都於郡の門人たちと共に佛聖 松尾芭蕉の百年忌に当たりその代表作「古池や」の句碑をこの中島に建てた。 以来190年各地、芭蕉の句碑数多き中にこの句碑は県下最古のもので江戸末期における都於郡俳諧(はいかい)の隆盛をしのばせるものがある。



写真AQ: 芭蕉句碑、弁天堂(弁財天を祀(まつ)っています)のそばにある石碑。 「建碑180年記念、昭和50年10月12日」と書いてあります。



写真AR: 大安寺池の中島にある県内最古の芭蕉句碑、弁天堂(弁財天を祀(まつ)っています)、石碑が見えています。



写真AS: 大安寺池の中島。 この中島に県内最古の芭蕉句碑、弁天堂(弁財天を祀(まつ)っています)、石碑が杉林の中にあります。 手前に石板の橋、水飲み場も見えます。



写真AT: 宮崎県 西都市 大字鹿野田の大安寺池の中島にある弁天堂(弁財天を祀(まつ)っています)。 シキミの枝が供(そな)えてあります。



写真AU: 宮崎県 西都市 大字鹿野田の大安寺池の中島にある弁天堂(弁財天を祀(まつ)っています)。 シキミの枝が供(そな)えてあります。



写真AV: 大安寺池の畔(ほとり)。 ベンチもあります。 奥に大安寺に登る参道が見えています。



写真AW: 大安寺の西側に道を造っていました。 奥には大安寺池、右には大安寺の高台があります。



写真AX: 大安寺の近くにある西都市役所 都於郡支所、右は上野医院。



写真AY: 右の建物は西都市役所 都於郡支所。



写真AZ: 県道18号線。 自転車屋が見えています。 その右奥に都於郡中学校の体育館の屋根が見えます。 先は那珂、手前は西都市の中心部に行きます。



写真BA: 奥に都於郡中学校の体育館の屋根が見えます。



写真BB: 先の左手に大安寺の山門に登る「石段」があります。



写真BC: 右のミラーの奥に大安寺の山門に登る古い「石段」があります。



写真BD: 大安寺の山門と石段が見えています。 左は理髪店です。



写真BE: 大安寺の山門と石段。 古い山門と石段です。



写真BF: 西都市 鹿野田にある大安寺の山門と石段。 古い山門と石段です。
大安寺(曹洞宗)は昔は総昌院と呼ばれていました。 都於郡 第5代城主 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺(ぼだいじ)として建てられました。 伊東、その家臣の墓が多くあります(「伊東墓地」)。 島津 氏が侵攻しました。 前島津の島津豊久の位牌(いはい)が大安寺にあります。 後島津になった後は島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主(後島津) 島津以久の父)の菩提寺になり、島津以久が整備しました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 近くには伊東関係者の五輪塔が多くあります。 これは「伊東塔」と呼ばれます。 西都市が昭和54年に「伊東墓地」を整備しました。 歴代 伊東城主、重臣の墓が明らかになりました。 まだ不明の墓も多いそうです。



写真BG: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の山門。 左右に石像があります。
明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。



写真BH: 山門の左手に石碑(せきひ)などが見えます。



写真BI: 西都市 大字鹿野田にある大安寺の山門の上部。 横木に彫(ほ)り物があります。



写真BJ: 西都市 大字鹿野田にある大安寺の山門の上部。 横木に彫(ほ)り物があります。



写真BK: 西都市 大字鹿野田にある大安寺の山門の扉(とびら)。



写真BL: 大安寺の山門からの景色。 都於郡中学校の体育館と校舎も見えます。



写真BM: 山門の柱の下部。



写真BN: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある曹洞宗 「大安寺」。
大安寺(曹洞宗)は昔は総昌院と呼ばれていました。 都於郡 第5代城主 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺(ぼだいじ)として建てられました。 伊東、その家臣の墓が多くあります(「伊東墓地」)。 島津 氏が侵攻しました。 前島津の島津豊久の位牌(いはい)が大安寺にあります。 後島津になった後は島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主(後島津) 島津以久の父)の菩提寺になり、島津以久が整備しました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 近くには伊東関係者の五輪塔が多くあります。 これは「伊東塔」と呼ばれます。 西都市が昭和54年に「伊東墓地」を整備しました。 歴代 伊東城主、重臣の墓が明らかになりました。 まだ不明の墓も多いそうです。
大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩(さつま)に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。
それまでの伊東に代わって島津家久は鹿児島の串木野から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 島津豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の島津義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 島津豊久の墓は宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原中学校の近くにある天昌寺跡にあります。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆきひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。

大安寺の本堂の左寄りの上に西南戦争で鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の写真があります。




写真BO: 西都市 大字鹿野田にある曹洞宗 「大安寺」。
明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。



写真BP: 西都市 大字鹿野田にある曹洞宗 「大安寺」。



写真BQ: 広い駐車場もあります。 右端は山門です。



写真BR: 大安寺にある墓、石灯籠(いしどうろう)、石碑(せきひ)など。 山門の西にあります。 左寄の高い石碑は、島津惟久(しまづただひさ、佐土原藩 第5代藩主、1676年-1738年)が島津忠将のために建てた供養塔です(島津忠将の供養塔)。



写真BS: 大安寺にある墓、石灯籠(いしどうろう)。



写真BT: 大安寺の石碑、石像(左)。 右の石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔(島津忠将の供養塔)があります。 これがその供養塔です。



写真BU: 大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 これがその供養塔(島津忠将の供養塔)です。



写真BV: 大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔(島津忠将の供養塔)があります。 これがその供養塔です。



写真BW: 大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 これがその供養塔(島津忠将の供養塔)です。



写真BX: 大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔(島津忠将の供養塔)があります。 これがその供養塔です。



写真BY: 大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 これがその供養塔(島津忠将の供養塔)です。



写真BZ: 大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔(島津忠将の供養塔)があります。 これがその供養塔です。



写真CA: 西都市 大字鹿野田の大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 これがその供養塔(島津忠将の供養塔)です。



写真CB: 西都市 大字鹿野田の大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔(島津忠将の供養塔)があります。 これがその供養塔です。



写真CC: 大安寺にあるこの石碑には島津惟久の名も刻(きざ)まれています。 島津惟久(しまづただひさ、1676年-1738年)は佐土原藩 5代藩主。 島津惟久のとき番代(藩主代理)を務めた島津久寿(ひさなか)に島之内3000石を分知して、表高2万7000石となりました。
後 島津になってからは島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主 島津以久の父)の菩提寺になっていました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 これがその供養塔(島津忠将の供養塔)です。



写真CD: 石像もあります。



写真CE: 石で出来た小さな建物があります。 反対側には丸い窓があります。



写真CF: 右に石碑もあります。 奥に山門が見えます。



写真CG: 大安寺から見た景色。 右端に都於郡中学校の体育館が見えています。



写真CH: 大安寺から見た景色。 中央に都於郡中学校の体育館が見えます。



写真CI: 大安寺から見た景色。 右に西都市役所 都於郡支所が見えます。



写真CJ: 大安寺から見た景色。 右奥に都於郡小学校、中央に上野医院、左に都於郡支所が見えています。



写真CK: 大安寺から大安寺池と左奥の都於郡小学校が見えます。



写真CL: 西都市の大安寺から見た都於郡小学校。 右下に大安寺池が見えます。



写真CM: 大安寺から見える都於郡中学校の校舎と体育館。



写真CN: 大安寺から見た都於郡支所(左)と上野医院。



写真CO: 石で出来た小さな建物があります。 そこに小さな丸窓があって中にこのような四角の石があります。 このようなものは初めて見ました。



写真CP: 石で出来た小さな建物があります。 そこに小さな丸窓があって中にこのような四角の石があります。 このようなものは初めて見ました。



写真CQ: 6体の石像があります。 シキミの枝が供(そな)えてあります。



写真CR: 6体の石像があります。 シキミの枝が供(そな)えてあります。



写真CS: 小さなお堂があります。



写真CT: 西都市にある大安寺の位牌堂(いはいどう)と本堂。 左の坂道は参道です。
明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。



写真CU: 左下に大安寺池が見えます。 大きな木の左に石碑があります。 大安寺の本堂と位牌堂(いはいどう)があります。 位牌堂のそばには石像があります。



写真CV: 大安寺の本堂と手前に位牌堂(いはいどう)が見えます。
大安寺(曹洞宗)は昔は総昌院と呼ばれていました。 都於郡 第5代城主 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺(ぼだいじ)として建てられました。 伊東、その家臣の墓が多くあります(「伊東墓地」)。 島津 氏が侵攻しました。 前島津の島津豊久の位牌(いはい)が大安寺にあります。 後島津になった後は島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主(後島津) 島津以久の父)の菩提寺になり、島津以久が整備しました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 近くには伊東関係者の五輪塔が多くあります。 これは「伊東塔」と呼ばれます。 西都市が昭和54年に「伊東墓地」を整備しました。 歴代 伊東城主、重臣の墓が明らかになりました。 まだ不明の墓も多いそうです。



写真CW: 大安寺の駐車場。



写真CX: 大安寺の位牌堂(いはいどう)のそばに古いお堂があります。
明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。



写真CY: 大安寺の位牌堂(いはいどう)のそばに古いお堂があります。



写真CZ: 大きな石碑と中くらいの石碑があります。 シキミの枝が供(そな)えてあります。 後ろは大安寺池。



写真DA: 大きな石碑と中くらいの石碑があります。



写真DB: 大安寺の位牌堂(いはいどう)のそばに古いお堂があります。



写真DC: 大安寺の位牌堂(いはいどう)のそばに古いお堂があります。 彫(ほ)り物が壁や扉(とびら)にがあります。



写真DD: 大安寺の位牌堂(いはいどう)のそばに古いお堂があります。 彫(ほ)り物が壁や扉(とびら)にがあります。



写真DE: 大安寺の位牌堂(いはいどう)のそばに古いお堂があります。 これはその中です。 古い木像が2体あります。 特に左の木像は古い年代のもののようです。 材料の木が細っています。 シキミの枝が供(そな)えてあります。 彫(ほ)り物が内側の壁にもあります。



写真DF: 右は六地蔵塔のようです。 左は石像です。 左奥に山門が見えます。



写真DG: 西都市 鹿野田にある大安寺。



写真DH: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺。



写真DI: 大安寺に位牌堂(いはいどう)があります。 位牌堂のそばには石像があります。 右の石碑には「大安寺 位牌堂 新築記念碑」と書いてあります。



写真DJ: 「南無釈迦牟尼佛」と書いてあります。 大安寺の位牌堂(いはいどう)です。



写真DK: 石碑には「大安寺 位牌堂 新築記念碑」と書いてあります。



写真DL: 左の石碑には「大安寺 位牌堂 新築記念碑」と書いてあります。 右寄りの石碑には「撞鐘供養塔 明治21年」と書いてあります。



写真DM: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺。
大安寺(曹洞宗)は昔は総昌院と呼ばれていました。 都於郡 第5代城主 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺(ぼだいじ)として建てられました。 伊東、その家臣の墓が多くあります(「伊東墓地」)。 島津 氏が侵攻しました。 前島津の島津豊久の位牌(いはい)が大安寺にあります。 後島津になった後は島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主(後島津) 島津以久の父)の菩提寺になり、島津以久が整備しました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 近くには伊東関係者の五輪塔が多くあります。 これは「伊東塔」と呼ばれます。 西都市が昭和54年に「伊東墓地」を整備しました。 歴代 伊東城主、重臣の墓が明らかになりました。 まだ不明の墓も多いそうです。
大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。
それまでの伊東に代わって島津家久は鹿児島の串木野から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 島津豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の島津義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 島津豊久の墓は宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原中学校の近くにある天昌寺跡にあります。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆきひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。
大安寺の本堂の左寄りの上に西南戦争で鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の写真があります。




写真DN: 大安寺にあるココス椰子(やし)。
明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。



写真DO: 大安寺の境内(けいだい)。



写真DP: 石碑には「撞鐘供養塔 明治21年」と書いてあります。



写真DQ: 大安寺にはソテツの木もあります。 石灯籠(いしどうろう)も見えます。



写真DR: 大安寺にはソテツの木もあります。 石灯籠(いしどうろう)も見えます。
大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。
それまでの伊東に代わって島津家久は鹿児島の串木野から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 島津豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の島津義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 島津豊久の墓は宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原中学校の近くにある天昌寺跡にあります。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆきひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。
大安寺の本堂の左寄りの上に西南戦争で鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の写真があります。




写真DS: 大安寺にはソテツの木もあります。 石灯籠(いしどうろう)も見えます。
大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。
それまでの伊東に代わって島津家久は鹿児島の串木野から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 島津豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の島津義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 島津豊久の墓は宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原中学校の近くにある天昌寺跡にあります。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆきひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。
大安寺の本堂の左寄りの上に西南戦争で鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の写真があります。




写真DT: 屋根の端(はし)には「シャチホコの上に鳥がいる像」があります。 大安寺の本堂の屋根です。



写真DU: 屋根の端(はし)には「シャチホコの上に鳥がいる像」があります。 大安寺の本堂の屋根です。



写真DV: 「曹洞宗 興福山 大安寺」と書いてあります。 上の横木に彫(ほ)り物があります。
大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。
それまでの伊東に代わって島津家久は鹿児島の串木野から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 島津豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の島津義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 島津豊久の墓は宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原中学校の近くにある天昌寺跡にあります。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆきひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。
大安寺の本堂の左寄りの上に西南戦争で鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の写真があります。




写真DW: 上の横木に彫(ほ)り物があります。



写真DX: 上の横木に彫(ほ)り物があります。



写真DY: 上の横木に彫(ほ)り物があります。



写真DZ: 階段もあります。



写真EA: 本堂の左の部分です。
大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。
それまでの伊東に代わって島津家久は鹿児島の串木野から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 島津豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の島津義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 島津豊久の墓は宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原中学校の近くにある天昌寺跡にあります。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆきひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。
大安寺の本堂の左寄りの上に西南戦争で鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の写真があります。




写真EB: 本堂の右の部分です。 ソテツの木もあります。



写真EC: 大安寺の境内(けいだい)。
明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。



写真ED: 本殿への入り口です。



写真EE: 西都市 鹿野田にある大安寺の建物。



写真EF: 大安寺の坂道の参道。 車も登れます。 左奥は大安寺池。



写真EG: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の本堂。
大安寺(曹洞宗)は昔は総昌院と呼ばれていました。 都於郡 第5代城主 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺(ぼだいじ)として建てられました。 伊東、その家臣の墓が多くあります(「伊東墓地」)。 島津 氏が侵攻しました。 前島津の島津豊久の位牌(いはい)が大安寺にあります。 後島津になった後は島津忠将(しまづただまさ、日向佐土原藩 初代藩主(後島津) 島津以久の父)の菩提寺になり、島津以久が整備しました。 島津惟久が島津忠将のために建てた供養塔があります。 近くには伊東関係者の五輪塔が多くあります。 これは「伊東塔」と呼ばれます。 西都市が昭和54年に「伊東墓地」を整備しました。 歴代 伊東城主、重臣の墓が明らかになりました。 まだ不明の墓も多いそうです。
大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。
それまでの伊東に代わって島津家久は鹿児島の串木野から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 島津豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の島津義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 島津豊久の墓は宮崎市 佐土原町 上田島の佐土原中学校の近くにある天昌寺跡にあります。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆきひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。
大安寺の本堂の左寄りの上に西南戦争で鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の写真があります。




写真EH: 墓地に行く道が右手にあります。
明治10年(1877年)に国内最後の戦争「西南戦争」が勃発しました。 島津啓次郎は熊本県で銃や弾丸の欠乏などで佐土原隊を解体し、死を覚悟して2、3名の従者を連れ、変装してでも東京に行き朝廷に直訴することを決意されました。 田村利貞、長谷場泰蔵、中村道晴に東京潜入にお供することを命じました。 解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。



写真EI: 雪柳(ゆきやなぎ、ユキヤナギ)の花が咲いていました。



写真EJ: 大安寺の駐車場からの景色。



写真EK: 大安寺の駐車場からの景色。



写真EL: 大安寺の駐車場からの景色。



写真EM: 大安寺の建物。



写真EN: 大安寺の境内。



写真EO: 大安寺の墓地に行く道。 墓地には都於郡城 城主(殿様)の墓もある「伊東墓地」もあります。 伊東墓地へはここを左に曲がります。



写真EP: この道を通って伊東墓地に行きます。



写真EQ: 大安寺の建物。



写真ER: ここが大安寺の墓地です。



写真ES: 大安寺の墓地。 都於郡城 城主(殿様)の墓もある「伊東墓地」はこの中にあります。 伊東墓地は囲ってある多くの古い墓があります。



写真ET: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」です。 ブロックで囲ってあるところに都於郡城 城主(殿様、伊東家)の墓、重臣などの墓があります。



写真EU: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板。
 大安寺はもと総昌院と称し都於郡 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺として建てられた。 この地域は伊東主従の墓が数多く存在した。 しかし永い年月の間にそれらの墓は粗末に扱われ、破れし者の哀れをとどめていた。 昭和54年墓地改修が行われほとんど野積状態に放置されていた墓を墓地の東側に移すことになり、はじめて墓地らしく整備された。 その中には伊東尹祐、伊東祐充 墓のごとく明治の初め他寺からも移された墓もあるが多くはこの墓地に葬られた人たちである。
 ここには伊東祐尭(すけたか)およびその夫人、伊東尹祐とその側室 福永 氏、伊東祐充、伊東義益(よします)(僑墓(きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓))、福永伊豆守などの墓がある。 その外に木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓も3基残っている。
 今を去る数百年の昔、この墓に眠る人々の舞台となり喜怒哀楽を共にした都於郡の山野は今や我々の暮らしの場となっているが時を隔てて共に古今を語る術(すべ)もなく徒(いたずら)に墓碑は風化を重ね寂として声なく感懐とし身にしむものがある。
都於郡城趾顕彰会
西都市教育委員会
と書かれています。
この説明板の裏には、
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。
西都市教育委員会
と書かれています。



写真EV: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板。
 大安寺はもと総昌院と称し都於郡 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺として建てられた。 この地域は伊東主従の墓が数多く存在した。 しかし永い年月の間にそれらの墓は粗末に扱われ、破れし者の哀れをとどめていた。 昭和54年墓地改修が行われほとんど野積状態に放置されていた墓を墓地の東側に移すことになり、はじめて墓地らしく整備された。 その中には伊東尹祐、伊東祐充 墓のごとく明治の初め他寺からも移された墓もあるが多くはこの墓地に葬られた人たちである。
 ここには伊東祐尭(すけたか)およびその夫人、伊東尹祐とその側室 福永 氏、伊東祐充、伊東義益(よします)(僑墓(きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓))、福永伊豆守などの墓がある。 その外に木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓も3基残っている。
 今を去る数百年の昔、この墓に眠る人々の舞台となり喜怒哀楽を共にした都於郡の山野は今や我々の暮らしの場となっているが時を隔てて共に古今を語る術(すべ)もなく徒(いたずら)に墓碑は風化を重ね寂として声なく感懐とし身にしむものがある。
都於郡城趾顕彰会
西都市教育委員会
と書かれています。
この説明板の裏には、
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。
西都市教育委員会
と書かれています。



写真EW: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板。
 大安寺はもと総昌院と称し都於郡 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺として建てられた。 この地域は伊東主従の墓が数多く存在した。 しかし永い年月の間にそれらの墓は粗末に扱われ、破れし者の哀れをとどめていた。 昭和54年墓地改修が行われほとんど野積状態に放置されていた墓を墓地の東側に移すことになり、はじめて墓地らしく整備された。 その中には伊東尹祐、伊東祐充 墓のごとく明治の初め他寺からも移された墓もあるが多くはこの墓地に葬られた人たちである。
 ここには伊東祐尭(すけたか)およびその夫人、伊東尹祐とその側室 福永 氏、伊東祐充、伊東義益(よします)(僑墓(きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓))、福永伊豆守などの墓がある。 その外に木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓も3基残っている。
 今を去る数百年の昔、この墓に眠る人々の舞台となり喜怒哀楽を共にした都於郡の山野は今や我々の暮らしの場となっているが時を隔てて共に古今を語る術(すべ)もなく徒(いたずら)に墓碑は風化を重ね寂として声なく感懐とし身にしむものがある。
都於郡城趾顕彰会
西都市教育委員会
と書かれています。
この説明板の裏には、
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。
西都市教育委員会
と書かれています。



写真EX: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板。
 大安寺はもと総昌院と称し都於郡 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺として建てられた。 この地域は伊東主従の墓が数多く存在した。 しかし永い年月の間にそれらの墓は粗末に扱われ、破れし者の哀れをとどめていた。 昭和54年墓地改修が行われほとんど野積状態に放置されていた墓を墓地の東側に移すことになり、はじめて墓地らしく整備された。 その中には伊東尹祐、伊東祐充 墓のごとく明治の初め他寺からも移された墓もあるが多くはこの墓地に葬られた人たちである。
 ここには伊東祐尭(すけたか)およびその夫人、伊東尹祐とその側室 福永 氏、伊東祐充、伊東義益(よします)(僑墓(きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓))、福永伊豆守などの墓がある。 その外に木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓も3基残っている。
 今を去る数百年の昔、この墓に眠る人々の舞台となり喜怒哀楽を共にした都於郡の山野は今や我々の暮らしの場となっているが時を隔てて共に古今を語る術(すべ)もなく徒(いたずら)に墓碑は風化を重ね寂として声なく感懐とし身にしむものがある。
都於郡城趾顕彰会
西都市教育委員会
と書かれています。
この説明板の裏には、
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。
西都市教育委員会
と書かれています。



写真EY: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板。
 大安寺はもと総昌院と称し都於郡 伊東祐尭(すけたか)の菩提寺として建てられた。 この地域は伊東主従の墓が数多く存在した。 しかし永い年月の間にそれらの墓は粗末に扱われ、破れし者の哀れをとどめていた。 昭和54年墓地改修が行われほとんど野積状態に放置されていた墓を墓地の東側に移すことになり、はじめて墓地らしく整備された。 その中には伊東尹祐、伊東祐充 墓のごとく明治の初め他寺からも移された墓もあるが多くはこの墓地に葬られた人たちである。
 ここには伊東祐尭(すけたか)およびその夫人、伊東尹祐とその側室 福永 氏、伊東祐充、伊東義益(よします)(僑墓(きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓))、福永伊豆守などの墓がある。 その外に木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓も3基残っている。
 今を去る数百年の昔、この墓に眠る人々の舞台となり喜怒哀楽を共にした都於郡の山野は今や我々の暮らしの場となっているが時を隔てて共に古今を語る術(すべ)もなく徒(いたずら)に墓碑は風化を重ね寂として声なく感懐とし身にしむものがある。
都於郡城趾顕彰会
西都市教育委員会
と書かれています。
この説明板の裏には、
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。
西都市教育委員会
と書かれています。



写真EZ: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FA: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FB: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FC: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FD: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
右は第11代城主 伊東義益の僑墓(きょうぼ、本当の墓以外に作られた墓)。



写真FE: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
右は第8代城主 伊東祐充の墓。



写真FF: 後ろの標識に「史跡 伊東墓地、西都市教育委員会」と書いてあります。



写真FG: 「史跡 伊東墓地、西都市教育委員会」と書いてあります。



写真FH: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
右は伊東祐尭(すけたか)の側室 野村 氏の墓。



写真FI: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
右は第5代城主 伊東祐尭(すけたか)の墓。



写真FJ: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FK: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
右は伊東伊東尹祐の側室 福永 氏の墓。



写真FL: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
第7代城主 伊東尹祐の墓。



写真FM: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
右は、第7代城主 伊東尹祐の墓。



写真FN: 「史跡 伊東墓地、西都市教育委員会」と書いてあります。



写真FO: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FP: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FQ: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。
木崎原合戦(えびの市)の戦死者の墓も3基あります。



写真FR: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FS: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FT: 右は、宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FU: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板(裏)。
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。
西都市教育委員会
と書かれています。



写真FV: 宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」の説明板(裏)。
(始めの部分不詳)天正5年(1577年)12月(島津に)敗れた伊東氏一族は、この山道(これが有名な「伊東氏の米良越え」で、伊東氏一族は穂北城、西都市 尾八重(おはえ、東米良、尾八重城(雄八重城)がありました)の山道を通って南郷、熊本県も一部通って大分県(豊後)の大友 氏のところまで落ちのびました。)を経て豊後国へ逃れた。
 そのとき、尾八重に在住した伊東氏ゆかりの「実相坊」は、この地に、東の谷から一千かるい、西の谷から一千かるいの砂利(じゃり)を運びあげて祭場を造り、夜を徹(てつ)して篝火(かがりび)を焚(た)き、一行の無事を祈願したという。
西都市教育委員会
と書かれています。



写真FW: 右奥は宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FX: 右奥は宮崎県西都市 大字鹿野田5004にある大安寺の「伊東墓地」。



写真FY: 伊東墓地がある大安寺の墓地。



写真FZ: 山桜の花がさいていました。



写真GA: 伊東墓地がある大安寺の墓地。 ここは住職さんたちの墓があります。 円筒形の墓は一般にお坊さんの墓です。



写真GB: ツツジの花が咲いていました。



写真GC: 伊東墓地がある大安寺の墓地。 ここは住職さんたちの墓があります。 円筒形の墓は一般にお坊さんの墓です。



写真GD: 大安寺の墓地(中には伊東墓地もあります)から戻(もど)ります。



写真GE: 大安寺の裏の参道で、相当古いもののようです。



写真GF: そばにモウソウ竹の竹林があります。



写真GG: 大安寺の裏の参道で、相当古いもののようです。



写真GH: 「ノイバラ(通称 野ばら)の花」が咲いていました。



写真GI: 大安寺の裏の参道で、相当古いもののようです。



写真GJ: 「伊東墓地」の古い案内板があります。 文字はよく読めませんでした。



写真GK: 初めの駐車場の近くに出ました。 奥のほうは道路工事が行われていました。



写真GL: そばの景色です。 右上に伊東墓地もあります。



写真GM: 右は初めの駐車場です。 道路工事が行われていました。



写真GN: 初めの駐車場に戻(もど)りました。 右はトイレです。



写真GO: 駐車場には「都於郡ウォーキングコース」の説明板あります。



写真GP: 駐車場には「都於郡ウォーキングコース」の標識があります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)