綾城 (綾城跡)、綾馬事公苑 (龍尾城、綾陽校記念館、工芸館、吊り橋(つりはし)、刀工 田中国広、綾城主 佐土原遠江守、国際クラフトの城、馬の訓練場、綾てるはドーム、酒泉の杜)  (宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 字錦原、大字北俣、大字南俣)







<標高、位置>  綾城(あやじょう)は
標高 約70 m
 北緯32度00分12秒  東経131度14分57秒

<標高、位置>  綾馬事公苑(あやばじこうえん)は
標高 約80 m
 北緯32度00分14秒  東経131度14分30秒

<標高、位置>  酒泉の杜(もり)は
標高 約30 m
 北緯31度59分34秒  東経131度14分09秒


 「綾城(あやじょう)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 字錦原にあります。
「綾城 (龍尾城)」の説明石碑(せきひ)から、
綾城(龍尾城)は元弘年間(西暦1331年〜1334年)足利尊氏の家臣 細川小四郎義門がこの地方に下向を命じられ、その子 義遠が綾を領有して築城したと伝えられている。 義遠は築城後 氏を綾と改めている。 綾氏は数代 城主としてこの地方を治めていたが、室町時代 八代将軍 義政の頃 都於郡城(とのこおりじょう)を居城として日向の国の一大豪族になった伊東 氏の家臣となった。 このため綾城も伊東48城の一つとなり伊東 方の要城として役割を果たした。
天正5年(西暦1577年)伊東 氏が島津 氏に敗れ豊後(大分)に落ちてから島津 氏の支配下となった。 この綾城構築にあたっては、日本城郭(じょうかく)協会の中世城の考察に基づき、町内の職人達が綾町に自生する木材を使い苦心を重ねて完成したものである。
現在の綾城の建物は模擬城で実際あったものの形とは異なります。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 綾城にある「刀工 田中国広」の説明板から、
新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
綾城の中にある田中国広像は昭和61年に建立されました。
田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中にもあります。

 「綾 国際クラフトの城」は綾町が森林が生んだ文化を永く守ってきているので造られました。 伝統工芸が綾町では盛んです。 絹織物、木工品、竹細工、陶器などが作られています。 「綾 国際クラフトの城」の施設では手作り工芸品の展示販売、各工房の案内、工芸教室、お茶処、国外の優れた工芸品の展示などがあります。 綾城の中にあります。

 「綾陽校」は明治6年に創立された綾小学校の前身で、はじめは綾郷校と称されていました。 昭和33年に永久校舎の完成で撤去され、その後 「綾陽校記念館」となりました。 昭和63年に現在地に移築されました。 現在は農具、生活用具、明治時代の教科書などが展示されています。

 「綾馬事公苑(あやばじこうえん)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 2687にあります。
「綾馬事公苑記念碑」から、
綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。

 「酒泉の杜(もり)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字南俣 1800-19にあります。
雲海酒造の施設で、焼酎・ワインの試飲、桧(ひのき)風呂の宿(綾陽亭)、手造り蔵の見学などがあります。


写真A: 宮崎県 東諸県郡 綾町 北俣 錦原にある「綾城(あやじょう)」の駐車場です。



写真B: 綾町にある「綾城」の入り口です。 綾城は山城です。 橋、石垣(いしがき)、「↑綾城」、「↑国際クラフトの城」の看板(かんばん)が見えます。



写真C: 「↑綾城」、「↑国際クラフトの城」の看板(かんばん)です。
「綾 国際クラフトの城」は綾町が森林が生んだ文化を永く守ってきているので造られました。 伝統工芸が綾町では盛んです。 絹織物、木工品、竹細工、陶器などが作られています。 「綾 国際クラフトの城」の施設では手作り工芸品の展示販売、各工房の案内、工芸教室、お茶処、国外の優れた工芸品の展示などがあります。



写真D: 綾城の門です。 「綾城」、「国際クラフトの城」の門札(もんさつ)があります。



写真E: 「刀工 田中国広」の像があります。
田中國廣 像は昭和61に建立されました。
 田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中にもあります。



写真F: 「刀工 田中国広」の説明板。
 新刀の開祖と言われる田中国広は、綾町 古屋に生まれ、幼い頃から父 旅泊の元で鍛刀(たんとう)に励(はげ)み、天正14年(1586年)に打った刀は、日州古屋住国広 作として国の重要文化財に指定されている。
 また、国広は文武両道に秀れ、伊東 氏が没落して豊後へ落ちる際、伊東マンショ(満千代)の侍臣(じしん)としての功績も残している。
と書かれています。
 田中国広が綾にいた頃は伊東の領地でした。 伊東が1577年に島津に追われ、米良越えをして豊後(大分県)に落ちるときに、田中国広は有名な8歳だった伊東マンショを背に乗せて歩きました。 田中国広はしばらくは豊後で刀鍛冶(かじ)をしていました。 1587年に豊臣秀吉 軍が島津を攻めたときに島津軍の「国広」の銘の矢尻(やじり)が鋭いのに気づきました。 それで田中国広を京都に呼びました。 小田原の役の頃に京都に行きました。 埋忠明寿のもとで刀鍛冶(かじ)をしました。 正親町天皇は田中国広の名声を聞いて、刀を作ってもらいました。 良い出来栄えだったので「信濃守」の位を与えました。 田中国広が作った刀は石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも持っていました。 「日州古谷住国広」、「国広」、「信濃守国広」、「堀川信濃守国広」、「藤原国広」などで知られています。 生家は宮崎県 東諸県郡 綾町にあり、県指定文化財になっています。 田中国広の像は宮崎市の天神山から愛宕山の愛宕神社に行く山道の途中にもあります。



写真G: 綾町にある綾城の門です。



写真H: 綾城の中にある「綾陽校記念館」です。 前に古い円筒型の郵便ポストがあります。
「綾陽校」は明治6年に創立された綾小学校の前身で、はじめは綾郷校と称されていました。 昭和33年に永久校舎の完成で撤去され、その後 「綾陽校記念館」となりました。 昭和63年に現在地に移築されました。 現在は農具、生活用具、明治時代の教科書などが展示されています。



写真I: 綾城の中にある「綾陽校記念館」。
「綾陽校」は明治6年に創立された綾小学校の前身で、はじめは綾郷校と称されていました。 昭和33年に永久校舎の完成で撤去され、その後 「綾陽校記念館」となりました。 昭和63年に現在地に移築されました。 現在は農具、生活用具、明治時代の教科書などが展示されています。



写真J: 古いポストです。 「昭29.昭和製」と書いてあります。 後ろは「綾陽校記念館」。



写真K: 古いポスト。 「昭29.昭和製」と書いてあります。 後ろは「綾陽校記念館」。



写真L: 「綾陽校記念館」の中には民俗資料の古い道具などが展示されています。 火鉢(ひばち)、手桶(ておけ)、瓶(かめ)、花瓶(かびん)、農機具などが見えます。
「綾陽校」は明治6年に創立された綾小学校の前身で、はじめは綾郷校と称されていました。 昭和33年に永久校舎の完成で撤去され、その後 「綾陽校記念館」となりました。 昭和63年に現在地に移築されました。 現在は農具、生活用具、明治時代の教科書などが展示されています。



写真M: 「綾陽校記念館」の中には民俗資料の古い道具などが展示されています。



写真N: 「綾陽校記念館」の廊下(ろうか)の上部です。



写真O: 「綾陽校記念館」の廊下(ろうか)です。
「綾陽校」は明治6年に創立された綾小学校の前身で、はじめは綾郷校と称されていました。 昭和33年に永久校舎の完成で撤去され、その後 「綾陽校記念館」となりました。 昭和63年に現在地に移築されました。 現在は農具、生活用具、明治時代の教科書などが展示されています。



写真P: 古いポストです。 「昭29.昭和製」と書いてあります。



写真Q: 古いポストと綾陽校記念館。



写真R: 「綾陽校記念館」と書いてあります。
「綾陽校」は明治6年に創立された綾小学校の前身で、はじめは綾郷校と称されていました。 昭和33年に永久校舎の完成で撤去され、その後 「綾陽校記念館」となりました。 昭和63年に現在地に移築されました。 現在は農具、生活用具、明治時代の教科書などが展示されています。



写真S: 綾城の敷地にある「工芸館」です。
「綾 国際クラフトの城」は綾町が森林が生んだ文化を永く守ってきているので造られました。 伝統工芸が綾町では盛んです。 絹織物、木工品、竹細工、陶器などが作られています。 「綾 国際クラフトの城」の施設では手作り工芸品の展示販売、各工房の案内、工芸教室、お茶処、国外の優れた工芸品の展示などがあります。
 綾城の中にあります。



写真T: 古い井戸があります。



写真U: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 字錦原にある「綾城(あやじょう)」です。
綾城は元弘年間(西暦1331年〜1334年)足利尊氏の家臣 細川小四郎義門がこの地方に下向を命じられ、その子 義遠が綾を領有して築城したと伝えられている。 義遠は築城後 氏を綾と改めている。 綾氏は数代 城主としてこの地方を治めていたが、室町時代 八代将軍 義政の頃 都於郡城(とのこおりじょう)を居城として日向の国の一大豪族になった伊東 氏の家臣となった。 このため綾城も伊東48城の一つとなり伊東 方の要城として役割を果たした。
 天正5年(西暦1577年)伊東 氏が島津 氏に敗れ豊後(大分)に落ちてから島津 氏の支配下となった。 この綾城構築にあたっては、日本城郭(じょうかく)協会の中世城の考察に基づき、町内の職人達が綾町に自生する木材を使い苦心を重ねて完成したものである。



写真V: 東諸県郡 綾町 大字北俣 字錦原にある「綾城(あやじょう)」です。 これは模擬城です。 これと同じ城が昔あったわけではありません。



写真W: 綾町 大字北俣 字錦原にある「綾城(あやじょう)」です。 これは模擬城です。 これと同じ城が昔あったわけではありません。



写真X: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 字錦原にある「綾城(あやじょう)」です。
綾城は元弘年間(西暦1331年〜1334年)足利尊氏の家臣 細川小四郎義門がこの地方に下向を命じられ、その子 義遠が綾を領有して築城したと伝えられている。 義遠は築城後 氏を綾と改めている。 綾氏は数代 城主としてこの地方を治めていたが、室町時代 八代将軍 義政の頃 都於郡城(とのこおりじょう)を居城として日向の国の一大豪族になった伊東 氏の家臣となった。 このため綾城も伊東48城の一つとなり伊東 方の要城として役割を果たした。
 天正5年(西暦1577年)伊東 氏が島津 氏に敗れ豊後(大分)に落ちてから島津 氏の支配下となった。 この綾城構築にあたっては、日本城郭(じょうかく)協会の中世城の考察に基づき、町内の職人達が綾町に自生する木材を使い苦心を重ねて完成したものである。
現在の綾城の建物は模擬城で実際あったものの形とは異なります。



写真Y: 宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 字錦原にある「綾城(あやじょう)」。
 綾城(龍尾城)は元弘年間(西暦1331年〜1334年)足利尊氏の家臣 細川小四郎義門がこの地方に下向を命じられ、その子 義遠が綾を領有して築城したと伝えられている。 義遠は築城後 氏を綾と改めている。 綾氏は数代 城主としてこの地方を治めていたが、室町時代 八代将軍 義政の頃 都於郡城(とのこおりじょう)を居城として日向の国の一大豪族になった伊東 氏の家臣となった。 このため綾城も伊東48城の一つとなり伊東 方の要城として役割を果たした。
天正5年(西暦1577年)伊東 氏が島津 氏に敗れ豊後(大分)に落ちてから島津 氏の支配下となった。 この綾城構築にあたっては、日本城郭(じょうかく)協会の中世城の考察に基づき、町内の職人達が綾町に自生する木材を使い苦心を重ねて完成したものである。
現在の綾城の建物は模擬城で実際あったものの形とは異なります。



写真Z: 「綾城 (龍尾城)」の説明石碑(せきひ)。
 綾城は元弘年間(西暦1331年〜1334年)足利尊氏の家臣 細川小四郎義門がこの地方に下向を命じられ、その子 義遠が綾を領有して築城したと伝えられている。 義遠は築城後 氏を綾と改めている。 綾氏は数代 城主としてこの地方を治めていたが、室町時代 八代将軍 義政の頃 都於郡城(とのこおりじょう)を居城として日向の国の一大豪族になった伊東 氏の家臣となった。 このため綾城も伊東48城の一つとなり伊東 方の要城として役割を果たした。
 天正5年(西暦1577年)伊東 氏が島津 氏に敗れ豊後(大分)に落ちてから島津 氏の支配下となった。 この綾城構築にあたっては、日本城郭(じょうかく)協会の中世城の考察に基づき、町内の職人達が綾町に自生する木材を使い苦心を重ねて完成したものである。
昭和60年6月8日
綾町長
と書かれています。



写真AA: 綾城。



写真AB: 綾城の下部です。



写真AC: 綾城は元弘年間(西暦1331年〜1334年)足利尊氏の家臣 細川小四郎義門がこの地方に下向を命じられ、その子 義遠が綾を領有して築城したと伝えられている。 義遠は築城後 氏を綾と改めている。 綾氏は数代 城主としてこの地方を治めていたが、室町時代 八代将軍 義政の頃 都於郡城(とのこおりじょう)を居城として日向の国の一大豪族になった伊東 氏の家臣となった。 このため綾城も伊東48城の一つとなり伊東 方の要城として役割を果たした。
 天正5年(西暦1577年)伊東 氏が島津 氏に敗れ豊後(大分)に落ちてから島津 氏の支配下となった。 この綾城構築にあたっては、日本城郭(じょうかく)協会の中世城の考察に基づき、町内の職人達が綾町に自生する木材を使い苦心を重ねて完成したものである。



写真AD: 綾城の中です。 鎧(よろい)、扇子(せんす)、着物、旗(はた)などもあります。



写真AE: 綾城から下方を見たもの。



写真AF: 綾城の中です。 中央は「綾城主 佐土原遠江守」です。



写真AG: 「綾城主 佐土原遠江守」です。



写真AH: 「綾城主 佐土原遠江守」と書いてあります。



写真AI: 綾城の最上階から見た景色です。 水田、ビニールハウス、人家、道路などがよく見えます。



写真AJ: 綾城の最上階から城内を見た景色。 門が見えます。



写真AK: 綾城の中です。



写真AL: 綾城の最上階から見た景色です。 綾町の町並(まちな)み、水田、ビニールハウスがよく見えます。



写真AM: 綾城の最上階から見た景色。 グラウンド、山なども見えます。



写真AN: 綾城の最上階の回り廊下(ろうか)のところです。



写真AO: 綾城の最上階。 遠くにグラウンドも見えています。



写真AP: 綾城の最上階から見た景色。 綾町の町並(まちな)み、山、道路、水田などが見えています。



写真AQ: 綾城の最上階から見た景色。 綾町の町並(まちな)み、山、道路、水田などが見えています。 中央右手に「綾てるはドーム」が見えます。



写真AR: 綾城の最上階から見た様子(ようす)。 綾町の町並(まちな)み、山、道路、水田などが見えています。



写真AS: 綾城の最上階から見た景色。 綾町の町並(まちな)み、山、道路、水田、ビニールハウスなどが見えています。



写真AT: 綾城にあるつり橋の支柱です。



写真AU: 綾城にある吊り橋(つりはし)です。



写真AV: 綾城にある吊り橋(つりはし)。



写真AW: 綾城にある吊り橋(つりはし)です。



写真AX: 立木の向こうにグラウンドのナイター照明の塔が見えます。



写真AY: 綾城にあるつり橋の支柱。



写真AZ: 「綾馬事公苑記念碑」
 綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
 明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
 綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
 戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。
と書かれています。



写真BA: 宮崎県 東諸県郡 綾町にある「綾馬事公苑」です。



写真BB: 東諸県郡 綾町にある「綾馬事公苑」です。 ここは馬が走るところです。
「綾馬事公苑(あやばじこうえん)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 2687にあります。
「綾馬事公苑記念碑」から、
 綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
 明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
 綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
 戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。



写真BC: 綾町にある「綾馬事公苑」です。 ここは馬が走るところです。



写真BD: 馬の足あとが見えます。



写真BE: 綾町にある「綾馬事公苑」です。 ここは馬が走るところです。



写真BF: 綾町にある「綾馬事公苑」です。



写真BG: 綾町にある「綾馬事公苑」です。 この建物に馬が飼(か)われています。
「綾馬事公苑(あやばじこうえん)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 2687にあります。
「綾馬事公苑記念碑」から、
 綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
 明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
 綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
 戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。



写真BH: 綾町にある「綾馬事公苑」。 この建物に馬が飼(か)われています。



写真BI: 馬が見えます。 綾町にある「綾馬事公苑」です。



写真BJ: 綾町にある「綾馬事公苑」です。 ここは馬が運動をするところです。
「綾馬事公苑(あやばじこうえん)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 2687にあります。
「綾馬事公苑記念碑」から、
 綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
 明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
 綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
 戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。



写真BK: 綾町にある「綾馬事公苑」です。 ここは馬を訓練するところです。 中央付近に訓練中の馬が見えます。
「綾馬事公苑(あやばじこうえん)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 2687にあります。
「綾馬事公苑記念碑」から、
 綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
 明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
 綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
 戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。



写真BL: 馬のいる建物です。 馬の顔が見えています。



写真BM: 右は観客が座(すわ)るところです。 遠くに綾の山並み(やまなみ)が見えています。



写真BN: 綾町にある「綾馬事公苑」です。 馬がいるところには藁(わら)が敷(し)いてあります。
「綾馬事公苑(あやばじこうえん)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 2687にあります。
「綾馬事公苑記念碑」から、
 綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
 明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
 綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
 戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。



写真BO: 馬がいる建物です。 
「綾馬事公苑(あやばじこうえん)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字北俣 2687にあります。
「綾馬事公苑記念碑」から、
 綾は昔から馬産地であった。 明和2年(1765年)二反野に牧場が開かれ放牧していた。 藩政時代には南ケツダ(上畑付近)、北俣椎屋にも牧場があった。
 明治末期には綾種付所に英国産サラブレッドが派遣され、南日本唯一の競走馬生産地として多くの駿馬を産し、大正 昭和初期とセリ市を賑(にぎ)わせた。 明治39年の調査によると、馬943頭に対し牛は113頭であった。
 綾の馬としての名声は競走馬のみでなく運搬用や農耕用としての役用馬においてもそうであった。 昭和に入り国策として軍馬が必要となったので多くの良馬を軍用として送り出した。
 戦後は軍馬も不用となり、農耕や運搬に役立った馬も機械やモータリゼーションの普及につれて次第に減っていった。



写真BP: 宮崎県 東諸県郡 綾町にある「酒泉の杜(もり)」とその駐車場です。



写真BQ: 壁に「みやざき 「水の郷・綾」 酒泉の杜」と書いてあります。
 「酒泉の杜(もり)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字南俣 1800-19にあります。
雲海酒造の施設で、焼酎・ワインの試飲、桧(ひのき)風呂の宿(綾陽亭)、手造り蔵の見学などがあります。



写真BR: 酒泉の杜の駐車場と奥には建物が見えます。
 「酒泉の杜(もり)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字南俣 1800-19にあります。
雲海酒造の施設で、焼酎・ワインの試飲、桧(ひのき)風呂の宿(綾陽亭)、手造り蔵の見学などがあります。



写真BS: 宮崎県 東諸県郡 綾町にある「酒泉の杜(もり)」の建物です。 手前は駐車場。
 「酒泉の杜(もり)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字南俣 1800-19にあります。
雲海酒造の施設で、焼酎・ワインの試飲、桧(ひのき)風呂の宿(綾陽亭)、手造り蔵の見学などがあります。



写真BT: 綾町にある酒泉の杜の建物など。



写真BU: 酒泉の杜の庭園です。 池もあります。
 「酒泉の杜(もり)」は宮崎県 東諸県郡 綾町 大字南俣 1800-19にあります。
雲海酒造の施設で、焼酎・ワインの試飲、桧(ひのき)風呂の宿(綾陽亭)、手造り蔵の見学などがあります。



写真BV: 酒泉の杜の中にある食堂です。



写真BW: 酒泉の杜の中にある食堂。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)