都於郡城跡 (とのこおり城跡、都於郡城址まつり(祭り)、伊東マンショ没後400年記念事業、天正遣欧少年使節、伊東義祐 (伊東48城、米良越えをしての豊後(ぶんご) 落ち)) (宮崎県 西都市 都於郡町)







<標高、位置>  西都市都於郡町にある都於郡城跡(とのこおりじょうあと)の本丸は
標高 約100 m
 北緯32度03分39秒  東経131度22分29秒


 都於郡城(とのこおりじょう)は伊東が造り日向一帯を治めた本拠地の城です。 弓矢の戦いに有効な典型的な山城です。 伊東は48の城を造りました。 南北朝時代から約240年間、ここは伊東の本城でした。 伊東は静岡県の伊豆半島からこの地に来ました。 伊豆半島には今も伊東という地名が残っています。 1582年2月に天正少年使節4名の正使としてローマに渡った伊東満所はこの城で生まれました。
 伊東は藤原南家の子孫で800年続いています。 建久元年(1190年)に源頼朝から日向国地頭職に任じられた工藤祐経が富士の巻狩で曽我兄弟の仇討(かたきう)ちで討(う)たれたので、子の祐時が伊豆伊東から日向に入りました。 工藤から伊東に名前を変えました。 第6代の伊東祐持のときに、足利尊氏からさらに日向都於郡(とのこおり)に300町の領地をもらいました。 第8代 伊東氏祐がそこに都於郡城(とのこおりじょう)を造りました。 第16代 伊東三位入道義祐のときには、伊東48城と呼ばれる各地の支城が完成しました。
 「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、 本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
 島津との戦いで、伊東は都於郡城を捨て、米良越えをしての豊後(大分)落ち(1577年)を行いました。 それで島津が日向国を治(おさ)めました。 伊東の米良越えの一行には、伊東義祐、義祐の死んだ長男の子(伊東義賢)、義祐の3男(飫肥城主だった伊東祐兵、当時18歳)、義祐の娘の子供(8歳)だった伊東マンショなどもいました。 伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。 その後、豊臣秀吉に姫路城で会って伊東祐兵が仕(つか)え、豊臣秀吉の九州征伐に参加したので、曽井城、清武城、飫肥城(1587年)を秀吉から与えられました。
 都於郡城主は、(伊東祐時、祐光、祐頼、祐宗、貞祐、祐持、祐煕)、氏祐、祐安、祐立、祐尭(すけたか)、祐国、尹祐(ただすけ)、祐充、義祐、義益、(義賢、祐兵)で、伊東の米良越えしての豊後(大分)落ちの後は島津家臣の鎌田政親が都於郡城主でした。 ( )内は都於郡城主ではありませんが、伊東の宗主なので記(しる)しました。

 「史跡 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)」の絵地図と説明板から、
国指定史跡 平成12年9月6日
33349平方メートル、標高 104 m。
絵地図には本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡などが載っています。
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190年)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。 その嫡男(ちゃくなん)である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)都於郡300町を賜(たまわ)り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向して来ました。 都於郡伊東 氏としては、祐持が初代の城主ということになります。 その後2代目 伊藤祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行ないました。 築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。 築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を堀り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
 都於郡城の主体部としては、本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、それに奥ノ城跡の5つの曲輪(くるわ)があります。 この内城としての五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城を取り巻くように築城されています。 また、各 曲輪の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀(からぼり)もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。 
 南北朝以来240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握(しょうあく)した伊東 氏も、10代 伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後(ぶんご)に落ちのびて行くことになり、伊東 氏の栄華は終わりをつげることになります。

「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。

 伊東マンショの像の説明板から、
 「伊東満所(マンショ)」は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、1570年(元亀元年)ごろ、城内で生まれました。 1577年(天正5年)12月の豊後落ちの時には、苦難の末、日向山地(西都市 東米良の尾八重など)を踏破したと思われます。
 満所(マンショ)は、豊後臼杵の大友宗麟のもとに、滞在の後、有馬の神学校に入学しましたが、13歳の折、九州のキリシタン3大名の使節をローマ法王庁へ派遣することになり、その遣欧少年使節4名の正使として1582年(天正10年2月)、長崎港を出帆(しゅっぱん)しました。
 一行は、ポルトガル、スペインを経て、ローマでは教皇グレゴリオ13世に謁見(えっけん)しました。 そして、8年5ヶ月ぶりの1590年(天正18年)7月、長崎に帰ってきましたが、ヨーロッパでは各地で大歓迎をうけました。
 ここに、日本人として最初に渡欧した伊東満所(マンショ)を末永く顕彰するため、浄財をもって銅像を建立(こんりゅう)しました。

「10代日向国主 伊東義祐(よしすけ)」の説明板から、
 弟の伊東祐吉が当主となることを不満として一時出家しましたが、祐吉が病死したため還俗、その後を継いで家督(かとく)を相続することとなりました。
 1537年将軍足利義晴より従四位下を賜(たまわ)り、以後「義祐」と名乗ります。 1546年には従三位叙(じょ)せられ、1549年に嫡男(ちゃくなん)歓虎丸の病死を契機に再び出家、以後は「三位入道」と呼ばれました。 義祐は文武に優れた人物で、北原 氏を滅ぼし、島津忠親(薩摩州島津氏3代)と日向南部の権益をめぐって争い、1569年には飫肥(おび)の一帯を手に入れました。 こうして島津 氏を圧倒し、日向国内に48の支城(伊東48城)を構(かま)えた義祐は、伊東 氏の最盛期を築き上げました。
 しかし、1572年 木崎原の戦いに大敗以後次第に衰退していきました。 1577年12月9日 日向を捨て、親戚筋(すじ)である豊後(現大分県)の大友宗麟を頼ります。 米良山中(西都市 東米良の尾八重など。)を経(へ)て、高千穂を通って豊後に抜(ぬ)ける道のりは険(けわ)しく、当初120〜150名程度だった一行は、途中崖(がけ)から落ちた者や、足が動かなくなって自決するものなどが後を絶(た)たず、豊後に着いた時はわずか80名足らずになっていました。 その中には後に天正遣欧少年使節の1人である伊東マンショの幼い姿もありました。
 豊後に帰着した義祐は大友宗麟と会見し日向攻めの助力を請(こ)いました。 宗麟はその願いを受け、1578年に門川の土持 氏を攻め滅ぼしますが、大友 氏は島津 氏に大敗(耳川の戦い)してしまいました。 義祐は子の祐兵を連れ、伊予(四国にあります。)に渡って河野 氏を頼りました。 その後、祐兵が羽柴秀吉の家臣の1人として扶持を頂(いただ)くことが出来、(秀吉の)九州征伐の案内・先導役をつとめ歴史的な貢献をなした功績により日向・伊東 家の再興を実現し「飫肥藩(おびはん)」を成立させました。
 義祐は各地を流浪(るろう)して、最終的には1585年病衰して(大阪の)堺港へ行く途中、便船(びんせん、都合よく出る船)から港近くの砂浜に棄(す)てられ、行き倒れ同然の状態で地元民に発見され意識を失ったまま亡(な)くなったと言われています。 75歳でした。

 「伊東義祐の豊後落ち(ぶんごおち)」の説明板から、
マンショら伊東一族の山中逃避の経路(米良越え)
 1577年12月9日未明、島津 軍の侵攻に伊東 氏は都於郡城と佐土原城を捨て、豊後(現大分県)の大友 氏を頼って脱出を図(はか)豊後街道(現国道10号線沿(ぞ)い)を北上する予定でしたが、財部(高鍋)が敵に回ったため、米良への道をとりました。 雪の山中敗走は凍死、転落、自刃、脱落など跡を絶たない悲惨なものでした。 尾八重、神門を経(へ)て、高千穂の河内に着いたのは12月25日でした。 豊後からの迎えの使者は年明けの7日でした。
 マンショ8歳の時、過酷な逃避行に耐えました。

 「天正遣欧使節一行の足跡」の説明板から、
マンショなど、天正遣欧使節一行の足跡(アフリカの喜望峰を回って大西洋を北上する航路です。 マレー半島、インドにも寄港しています。)の地図も載っています。 寄港地も分かります。
 南シナ海では大嵐(あらし)に合い積荷を海に投げ捨て。 赤道下のインド洋では凪(なぎ、風がないこと)に会い、燃えるような大気の中で20日間も立ち往生。 食料は腐敗し、水はなくなり、船上は熱病が広がり、マンショは疫痢(えきり)にかかりました。
 舟の座礁(ざしょう)でコチンの町で半年を過ごし、ゴアに着いたのは長崎を出て1年9ヶ月後でした。 ゴアは人口30万の大都会で、ポルトガル東洋領を治(おさ)めるインド副王がいました。 副王に謁見(えっけん)し、マンショはここで九州3大名の新書を読み上げ歓迎を受けました。
 喜望峰、セントヘレナ島を経(へ)てポルトガルに着いたのは、1584年8月10日。 2年余の航海後の入港でした。


写真A: 那珂−西都線の西都市都於郡(とのこおり)町にある道路標識。



写真B: 「国指定史跡 都於郡城跡」の標識。 ここを左折して約800 mの所にあります。



写真C: 都於郡城跡の説明板。 都於郡城は南北朝時代1335年、工藤祐経(くどうすけつね)の子孫 伊東祐重(いとうすけしげ)が築城しました。 それ以来、1577年までの242年間 伊東累代の居城として栄えました。 城は空壕(からぼり)や土塁(どるい)をめぐらした中世の典型的な山城で、本丸を中心に5つの城郭(奥の城、二の丸、三の丸、西の丸、本丸)など7つの山城を構え、後の佐土原城や宮崎城など日向一円に48の城を築きました。 山城は弓矢の戦いに有効です。 天正遣欧少年使節の正使としてヨーロッパに渡った伊東満所(まんしょ)もこの城で生まれています。 伊東満所が都於郡の生まれであることが分かったのは、昭和時代になってからです。



写真D: 都於郡城跡の本丸などはこの道を先に進みます。



写真E: 本丸跡、二の丸跡の標識。



写真F: 本丸跡へはこの石の階段を上ります。



写真G: ここに駐車場があります。 この奥左に「奥の城」跡があります。 奥の城は大奥がありました。



写真H: 本丸の登り口にある 伝説 高屋山上陵(祭神 彦火々出見尊)、都於郡城本丸跡 の石碑。



写真I: この石の階段の上に本丸跡があります。



写真J: 先の平らなところに本丸がありました。



写真K: 本丸跡の説明板。 伊東は都於郡城を拠点に日向一円を掌握しました。 本丸跡から、多数の柱穴が検出され240余年間に建物が何回となく建築補修されたことなどが分かりました。 16世紀前半の頃に輸入されたと思われる中国製の磁器片が多数出土しました。 この磁器は10代城主 伊東三位入道義祐の時代に当たり、義祐が飫肥方面に勢力を伸ばし、南方貿易に尽力した結果、このような中国磁器類が流入したものと推察されています。



写真L: 都於郡城跡の説明板。 都於郡城の五城郭は、一名「浮船城」とも称されていました。 静岡県の伊豆半島から来て南北朝以来約240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握した伊東も、10代伊東義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城が島津に攻められ落城し、伊東は一族を連れて豊後(ぶんご、大分県)に落ちのびて行くことになり、伊東の栄華は終わりを告げることになります。 落ちのびるときには、米良越えの経路を取っています。 米良越え(1578年1月)では凍死などで多くの死者が出ました。 静岡県の伊豆半島には「伊東」という地名が残っています。



写真M: 都於郡城跡の説明板。



写真N: 天正遣欧少年使節 伊東マンショの説明板。 都於郡城の落城後、大分県の豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 当時、伊東満所は7歳でした。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しました。 1582年2月には天正少年使節4名の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、1590年に長崎に帰ってきました。



写真O: 都於郡城跡は平成12年9月6日に国指定史跡になりました。 国指定面積は33、349平方メートルです。



写真P: 都於郡城の本丸跡にある伊東満所(まんしょ)の像。



写真Q: 都於郡城跡にある伊東満所の像。 1582年2月には天正少年使節4名の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、1590年に長崎に帰ってきました。1570(?)年に生まれ1612年に42歳で亡くなった。



写真R: 伊東満所の像の裏に書いてある駐日イタリア大使の言葉(2000年7月)。



写真S: 本丸と伊東満所の像。



写真T: 都於郡城跡にある伊東満所像の裏にある碑文。



写真U: 都於郡城本丸跡にある伝説 高屋山上陵の石碑。 高屋山上陵の祭神は彦火々出見尊です。



写真V: 都於郡城本丸跡にある伊東満所の顕彰碑。



写真W: 都於郡城跡にある伊東マンショの顕彰碑。



写真X: 伊東満所 関係の3つの石碑。



写真Y: 伊東満所誕生之地の石碑。



写真Z: 伊東満所の慰霊碑。



写真AA: 左は都於郡城の曲輪(くるわ、平らなところ)で右は本丸。



写真AB: 都於郡城の曲輪(くるわ、平らなところ)。



写真AC: 曲輪(くるわ)の説明板。 周囲から進入し難く加工された平場を曲輪と総称します。



写真AD: 右の高台が都於郡城の二の丸跡です。



写真AE: 左の高台が二の丸跡で右の高台が本丸跡です。 その間の低いところが空濠(からぼり)です。



写真AF: 右が本丸、左が二の丸。



写真AG: 二ノ丸跡の説明板。 二の丸は本丸と空堀を隔てた西側に位置し、五城郭の中で最も古い時期に築城されたものと思われます。 二の丸の南側には高いところで約2 m の土塁(どるい、土手)がほぼ原形をとどめていますが、伊東氏の時代には二の丸全体に巡らされていたと考えられます。 本丸が二の丸と比較して一段低い位置にあることから、二の丸が中心的な戦略的拠点となっていたのではないかと推測されます。



写真AH: 土塁(どるい)の説明板。 外的から自己を防衛する目的で、土を盛って築き上げたものです。 都於郡城の各曲輪の周辺部には、この土塁が構築されていたものと思われます。



写真AI: 都於郡城二の丸跡。



写真AJ: 二の丸跡から西ノ城跡を望む。



写真AK: 都於郡城跡にはトイレもあります。



写真AL: 都於郡城跡には水飲み場もあります。



写真AM: 都於郡城の西ノ城跡に登る道。



写真AN: 都於郡城の西ノ城跡に登る途中に、上水道の配水池があります。



写真AO: 奥の高台が都於郡城 三の丸跡です。



写真AP: 西ノ城跡の説明板。 空堀を隔てて三の丸の南端にあり、眼下に三財地区全体が見下ろせます。 なお、はるかに東諸県地方も望むことができ、三の丸と共に眺望絶佳です。 別名、ものみ城とも伝えられ、外敵からの侵入に備えての城であったのではないかと思われます。



写真AQ: 都於郡城 西ノ城跡。



写真AR: 都於郡城西ノ城跡から見た西都市三財の町。 手前に三財川が見えています。



写真AS: 都於郡城 三の丸に登る道。



写真AT: 三ノ丸跡の説明板。 三の丸は都於郡台地の西北端にあり、三方断崖で、山麓には三財川が流れて自然の外濠(そとぼり)となっています。 西ノ城と同様に、ものみの役割を果たしていたと思われます。 また、伊東48城と連絡するための狼煙台(のろしだい)があったと推測されます。



写真AU: 三の丸跡。 三角点も見えています。



写真AV: 都於郡城三の丸跡。



写真AW: 都於郡城三の丸跡から見た西都市三財。



写真AX: 三の丸跡から見た西都市三財。



写真AY: 三の丸跡からの西都市三財の眺望。 手前に三財川が見えています。



写真AZ: 西都市三財を望む(三の丸跡から)。



写真BA: 三の丸跡。



写真BB: 三の丸跡にある見える景色の絵地図。



写真BC: 都於郡城跡からの展望図。



写真BD: 都於郡城の三の丸跡にある展望図。



写真BE: 都於郡城 三の丸跡にある四等 三角点(標高 104.6 m)。



写真BF: 都於郡城 三の丸跡にある三角点(標高 104.6 m)。



写真BG: 三の丸跡から西都市を望む。



写真BH: 三の丸跡から二の丸跡を見る。 間に空堀(からぼり)があります。



写真BI: 三の丸跡から見た景色。



写真BJ: 三の丸跡から見た西ノ城跡と曲輪(くるわ)。



写真BK: 西ノ城跡の南にある曲輪(くるわ)。



写真BL: 西ノ城跡の南にある曲輪(くるわ)から見た景色。 三財川も見えています。



写真BM: 西ノ城跡の南にある曲輪(くるわ)から見た眺望。



写真BN: 左に進むと二の丸と本丸に行きます。



写真BO: 城跡の近くの道。



写真BP: 左に進むと本丸と奥の城(大奥)があります。



写真BQ: 近くに、高屋営農研修センターがありました。



写真BR: 都於郡城跡から空を見上げると秋の雲がきれいでした。



写真BS: 本丸近くの道。



写真BT: 本丸近くの駐車場。



写真BU: 奥ノ城跡の道しるべ。



写真BV: 空濠(からぼり)の底には道があります。



写真BW: 奥ノ城跡の説明板。 本丸の北方には間道(ぬけみち)と併用した空堀をはさんで奥ノ城があります。 ここは城主一族の大奥として、奥方や侍女、家族の住居でした。 1577年12月の落城の時、一族は家臣と共に、この奥ノ城から豊後(大分県)に落ちのびて行きました。



写真BX: 都於郡城の奥ノ城跡。 後ろの大きな木のあるところは、本丸跡です。



写真BY: 都於郡城奥ノ城跡。



写真BZ: 都於郡城の奥ノ城跡にあるセンダンの木。



写真CA: 都於郡城奥ノ城跡から見た北方向の景色。 うっすらと尾鈴山(標高 1405 m)も見えています。 西都市の町も見えています。



写真CB: 左寄りの高い山は小丸川のそばにある大瀬内山(標高 978.6 m)、その左にほどんど重なって稗畑山(ひえはたやま、標高 853 m、西都市の 一ッ瀬川沿いの ひょうたん淵の近くにあります)や右の高い尾鈴山(標高 1405 m)などが見えています。 その間の山は鹿遊連山(かなすみれんざん)です。 都於郡城 奥ノ城跡からの眺望。



写真CC: 都於郡城 奥ノ城跡からの景色。 中央付近の高い山は大瀬内山(標高 978.6 m)、その左にほどんど重なって稗畑山(ひえはたやま、標高 853 m、西都市の 一ッ瀬川沿いの ひょうたん淵の近くにあります)です。 右手の山は小丸川の近くの鹿遊連山(かなすみれんざん)です。 稗畑山の左遠くに薄く見えている山は、地蔵岳(標高 1089 m、西米良村の村所と尾鈴山との真ん中付近にあります)です。



写真CD: 都於郡城 奥ノ城跡からの展望。



写真CE: 奥ノ城跡にあるベンチ。



写真CF: 都於郡城奥ノ城跡の近くにある落城365年(かぞえ年の数え方になっているようです)の石碑。 昭和16年12月に建てられたもの。



写真CG: 蛇足ですが、このページを作っている時に、愛車の走行距離が、「20万キロメートル」になりました。 このホームページの写真を撮るときには、いつもこの車といっしょに出かけました。 今の車は、消耗品さえ交換すれば、20万キロを越えるのは比較的容易です。 今までで、一番高額だった修理は、ラジエーターからの水漏れで、約5万円でした。 新車の時から、約16年半ですが、部品の供給は何の心配もありません。 これからも、走行距離30万キロメートルを目指して、大切に乗ろうと思っています。



写真CH: 駐車場の近くに「西都 天正遣欧少年使節首席 伊東マンショ生誕の地 伊東満所(マンショ)没後400年記念事業推進協力会」と書いてある幟(のぼり)があります。



写真CI: 「西都 天正遣欧少年使節首席 伊東マンショ生誕の地 伊東満所(マンショ)没後400年記念事業推進協力会」と書いてある幟(のぼり)があります。 駐車場の近くです。



写真CJ: 「史跡 都於郡城跡 (とのこおりじょうあと)」の絵地図があります。
本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡、奈良瀬坂、御蔵跡、後馬場、中馬場、下馬場、駐車場、管理棟、大中寺池、伝受院跡、東塔跡、大中寺跡、長持寺跡、滝ノ天神、滝ノ天神跡、岳惣寺跡、若宮権現、荒武坂、大用寺跡、荒武神社、都於郡稲荷、定徳院跡、一乗院跡、東興庵跡、鹿発坂、大安寺池、芭蕉句碑、常楽院跡、樺山墓地、南ノ城跡、中尾城跡、円光院五輪塔、黒貫寺、至る国富、大安寺、伊東墓地、大祐寺跡、光照寺、原向稲荷、氷坂、東ノ城跡、向ノ城跡、日隠城跡、至る西都、都於郡町、至る宮崎
などが載(の)っています。



写真CK: 「史跡 都於郡城跡 (とのこおりじょうあと)」の絵地図があります。
本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡、奈良瀬坂、御蔵跡、後馬場、中馬場、下馬場、駐車場、管理棟、大中寺池、伝受院跡、東塔跡、大中寺跡、長持寺跡、滝ノ天神、滝ノ天神跡、岳惣寺跡、若宮権現、荒武坂、大用寺跡、荒武神社、都於郡稲荷、定徳院跡、一乗院跡、東興庵跡、鹿発坂、大安寺池、芭蕉句碑、常楽院跡、樺山墓地、南ノ城跡、中尾城跡、円光院五輪塔、黒貫寺、至る国富、大安寺、伊東墓地、大祐寺跡、光照寺、原向稲荷、氷坂、東ノ城跡、向ノ城跡、日隠城跡、至る西都、都於郡町、至る宮崎
などが載(の)っています。



写真CL: 「史跡 都於郡城跡 (とのこおりじょうあと)」の絵地図があります。
本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡、奈良瀬坂、御蔵跡、後馬場、中馬場、下馬場、駐車場、管理棟、大中寺池、伝受院跡、東塔跡、大中寺跡、長持寺跡、滝ノ天神、滝ノ天神跡、岳惣寺跡、若宮権現、荒武坂、大用寺跡、荒武神社、都於郡稲荷、定徳院跡、一乗院跡、東興庵跡、鹿発坂、大安寺池、芭蕉句碑、常楽院跡、樺山墓地、南ノ城跡、中尾城跡、円光院五輪塔、黒貫寺、至る国富、大安寺、伊東墓地、大祐寺跡、光照寺、原向稲荷、氷坂、東ノ城跡、向ノ城跡、日隠城跡、至る西都、都於郡町、至る宮崎
などが載(の)っています。



写真CM: 「史跡 都於郡城跡 (とのこおりじょうあと)」の絵地図があります。
本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡、奈良瀬坂、御蔵跡、後馬場、中馬場、下馬場、駐車場、管理棟、大中寺池、伝受院跡、東塔跡、大中寺跡、長持寺跡、滝ノ天神、滝ノ天神跡、岳惣寺跡、若宮権現、荒武坂、大用寺跡、荒武神社、都於郡稲荷、定徳院跡、一乗院跡、東興庵跡、鹿発坂、大安寺池、芭蕉句碑、常楽院跡、樺山墓地、南ノ城跡、中尾城跡、円光院五輪塔、黒貫寺、至る国富、大安寺、伊東墓地、大祐寺跡、光照寺、原向稲荷、氷坂、東ノ城跡、向ノ城跡、日隠城跡、至る西都、都於郡町、至る宮崎
などが載(の)っています。



写真CN: 「史跡 都於郡城跡 (とのこおりじょうあと)」の絵地図があります。
本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡、奈良瀬坂、御蔵跡、後馬場、中馬場、下馬場、駐車場、管理棟、大中寺池、伝受院跡、東塔跡、大中寺跡、長持寺跡、滝ノ天神、滝ノ天神跡、岳惣寺跡、若宮権現、荒武坂、大用寺跡、荒武神社、都於郡稲荷、定徳院跡、一乗院跡、東興庵跡、鹿発坂、大安寺池、芭蕉句碑、常楽院跡、樺山墓地、南ノ城跡、中尾城跡、円光院五輪塔、黒貫寺、至る国富、大安寺、伊東墓地、大祐寺跡、光照寺、原向稲荷、氷坂、東ノ城跡、向ノ城跡、日隠城跡、至る西都、都於郡町、至る宮崎
などが載(の)っています。



写真CO: 「史跡 都於郡城跡 (とのこおりじょうあと)」の絵地図があります。
本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡、奈良瀬坂、御蔵跡、後馬場、中馬場、下馬場、駐車場、管理棟、大中寺池、伝受院跡、東塔跡、大中寺跡、長持寺跡、滝ノ天神、滝ノ天神跡、岳惣寺跡、若宮権現、荒武坂、大用寺跡、荒武神社、都於郡稲荷、定徳院跡、一乗院跡、東興庵跡、鹿発坂、大安寺池、芭蕉句碑、常楽院跡、樺山墓地、南ノ城跡、中尾城跡、円光院五輪塔、黒貫寺、至る国富、大安寺、伊東墓地、大祐寺跡、光照寺、原向稲荷、氷坂、東ノ城跡、向ノ城跡、日隠城跡、至る西都、都於郡町、至る宮崎
などが載(の)っています。



写真CP: 「史跡 中馬場跡 地域づくり協議会 2010年11月」と書いてある標識棒(標柱)があります。
駐車場近くのトイレあたりにあります。



写真CQ: 南を見たものです。 奥に駐車場があります。 建物はトイレです。



写真CR: 「ツワブキの花」が咲いていました。



写真CS: 本丸跡に行く道にモウソウダケの竹林があります。



写真CT: 都於郡城(とのこおりじょう) 本丸跡に登る階段です。 「都於郡城址まつり」の前夜祭のある日だったので竹筒が両側にあります。 移動式の照明も見えます。



写真CU: 「国指定史跡 都於郡城跡」の標識棒(標柱)があります。 奥は伊東マンショの像がある広場(本丸跡)です。 「都於郡城址まつり」のためのテントが張(は)ってあります。



写真CV: 「史跡 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)」の絵地図と説明板です。
国指定史跡 平成12年9月6日
33349平方メートル、標高 104 m。
絵地図には本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡などが載っています。
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190年)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。 その嫡男(ちゃくなん)である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)都於郡300町を賜(たまわ)り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向して来ました。 都於郡伊東 氏としては、祐持が初代の城主ということになります。 その後2代目 伊藤祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行ないました。 築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。 築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を堀り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
 都於郡城の主体部としては、本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、それに奥ノ城跡の5つの曲輪(くるわ)があります。 この内城としての五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城を取り巻くように築城されています。 また、各 曲輪の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀(からぼり)もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。 
 南北朝以来240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握(しょうあく)した伊東 氏も、10代 伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後(ぶんご)に落ちのびて行くことになり、伊東 氏の栄華は終わりをつげることになります。

「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
と書かれています。



写真CW: 「史跡 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)」の絵地図と説明板です。
国指定史跡 平成12年9月6日
33349平方メートル、標高 104 m。
絵地図には本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡などが載っています。
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190年)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。 その嫡男(ちゃくなん)である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)都於郡300町を賜(たまわ)り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向して来ました。 都於郡伊東 氏としては、祐持が初代の城主ということになります。 その後2代目 伊藤祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行ないました。 築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。 築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を堀り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
 都於郡城の主体部としては、本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、それに奥ノ城跡の5つの曲輪(くるわ)があります。 この内城としての五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城を取り巻くように築城されています。 また、各 曲輪の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀(からぼり)もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。 
 南北朝以来240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握(しょうあく)した伊東 氏も、10代 伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後(ぶんご)に落ちのびて行くことになり、伊東 氏の栄華は終わりをつげることになります。

「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
と書かれています。



写真CX: 「史跡 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)」の絵地図と説明板です。
国指定史跡 平成12年9月6日
33349平方メートル、標高 104 m。
絵地図には本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡などが載っています。
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190年)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。 その嫡男(ちゃくなん)である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)都於郡300町を賜(たまわ)り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向して来ました。 都於郡伊東 氏としては、祐持が初代の城主ということになります。 その後2代目 伊藤祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行ないました。 築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。 築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を堀り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
 都於郡城の主体部としては、本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、それに奥ノ城跡の5つの曲輪(くるわ)があります。 この内城としての五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城を取り巻くように築城されています。 また、各 曲輪の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀(からぼり)もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。 
 南北朝以来240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握(しょうあく)した伊東 氏も、10代 伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後(ぶんご)に落ちのびて行くことになり、伊東 氏の栄華は終わりをつげることになります。

「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
と書かれています。



写真CY: 「史跡 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)」の絵地図と説明板です。
国指定史跡 平成12年9月6日
33349平方メートル、標高 104 m。
絵地図には本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡などが載っています。
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190年)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。 その嫡男(ちゃくなん)である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)都於郡300町を賜(たまわ)り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向して来ました。 都於郡伊東 氏としては、祐持が初代の城主ということになります。 その後2代目 伊藤祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行ないました。 築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。 築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を堀り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
 都於郡城の主体部としては、本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、それに奥ノ城跡の5つの曲輪(くるわ)があります。 この内城としての五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城を取り巻くように築城されています。 また、各 曲輪の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀(からぼり)もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。 
 南北朝以来240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握(しょうあく)した伊東 氏も、10代 伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後(ぶんご)に落ちのびて行くことになり、伊東 氏の栄華は終わりをつげることになります。

「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
と書かれています。



写真CZ: 「史跡 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)」の絵地図と説明板です。
国指定史跡 平成12年9月6日
33349平方メートル、標高 104 m。
絵地図には本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡などが載っています。
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190年)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。 その嫡男(ちゃくなん)である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)都於郡300町を賜(たまわ)り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向して来ました。 都於郡伊東 氏としては、祐持が初代の城主ということになります。 その後2代目 伊藤祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行ないました。 築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。 築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を堀り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
 都於郡城の主体部としては、本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、それに奥ノ城跡の5つの曲輪(くるわ)があります。 この内城としての五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城を取り巻くように築城されています。 また、各 曲輪の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀(からぼり)もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。 
 南北朝以来240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握(しょうあく)した伊東 氏も、10代 伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後(ぶんご)に落ちのびて行くことになり、伊東 氏の栄華は終わりをつげることになります。

「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
と書かれています。



写真DA: 「史跡 都於郡城跡(とのこおりじょうあと)」の絵地図と説明板です。
国指定史跡 平成12年9月6日
33349平方メートル、標高 104 m。
絵地図には本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、奥ノ城跡などが載っています。
工藤左衛門尉祐経は建久元年(1190年)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。 その嫡男(ちゃくなん)である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2年(1335年)都於郡300町を賜(たまわ)り、その一族を連れて関東の伊豆から都於郡に下向して来ました。 都於郡伊東 氏としては、祐持が初代の城主ということになります。 その後2代目 伊藤祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行ないました。 築城の模様については「日向記」(天正18年・1590年)に詳細に記録されています。 築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を堀り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
 都於郡城の主体部としては、本丸跡、二ノ丸跡、三ノ丸跡、西ノ城跡、それに奥ノ城跡の5つの曲輪(くるわ)があります。 この内城としての五城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城を取り巻くように築城されています。 また、各 曲輪の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀(からぼり)もつくられて、外敵防御体制をとるようになっています。 
 南北朝以来240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握(しょうあく)した伊東 氏も、10代 伊東三位入道義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後(ぶんご)に落ちのびて行くことになり、伊東 氏の栄華は終わりをつげることになります。

「天正遣欧少年使節 伊東マンショ」
 落城後、豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10年(1582年)2月には天正少年使節4名「伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ」の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見(えっけん)した後、天正18年(1590年)に長崎に帰ってきました。
と書かれています。



写真DB: 都於郡城 本丸跡にイチョウの木があります。



写真DC: 本丸跡にある伊東マンショの銅像と「都於郡城址 祭り」のためのテントが見えます。



写真DD: 「都於郡城址祭り」のためのテントです。



写真DE: 宮崎県 西都市にある都於郡城 本丸跡に「遣欧少年使節 伊東満所(マンショ)像」があります。



写真DF: 「遣欧少年使節 伊東満所(マンショ)像」と書いてあります。



写真DG: 伊東マンショの像の説明板が台座の裏にあります。
 伊東満所(マンショ)は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、1570年(元亀元年)ごろ、城内で生まれました。 1577年(天正5年)12月の豊後落ちの時には、苦難の末、日向山地(西都市 東米良の尾八重など)を踏破したと思われます。
 満所(マンショ)は、豊後臼杵の大友宗麟のもとに、滞在の後、有馬の神学校に入学しましたが、13歳の折、九州のキリシタン3大名の使節をローマ法王庁へ派遣することになり、その遣欧少年使節4名の正使として1582年(天正10年2月)、長崎港を出帆(しゅっぱん)しました。
 一行は、ポルトガル、スペインを経て、ローマでは教皇グレゴリオ13世に謁見(えっけん)しました。 そして、8年5ヶ月ぶりの1590年(天正18年)7月、長崎に帰ってきましたが、ヨーロッパでは各地で大歓迎をうけました。
 ここに、日本人として最初に渡欧した伊東満所(マンショ)を末永く顕彰するため、浄財をもって銅像を建立(こんりゅう)しました。
1996年(平成8年)8月吉日
西都市
と彫(ほ)られています。



写真DH: 伊東マンショの像の説明板が台座の裏にあります。
 伊東満所(マンショ)は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、1570年(元亀元年)ごろ、城内で生まれました。 1577年(天正5年)12月の豊後落ちの時には、苦難の末、日向山地(西都市 東米良の尾八重など)を踏破したと思われます。
 満所(マンショ)は、豊後臼杵の大友宗麟のもとに、滞在の後、有馬の神学校に入学しましたが、13歳の折、九州のキリシタン3大名の使節をローマ法王庁へ派遣することになり、その遣欧少年使節4名の正使として1582年(天正10年2月)、長崎港を出帆(しゅっぱん)しました。
 一行は、ポルトガル、スペインを経て、ローマでは教皇グレゴリオ13世に謁見(えっけん)しました。 そして、8年5ヶ月ぶりの1590年(天正18年)7月、長崎に帰ってきましたが、ヨーロッパでは各地で大歓迎をうけました。
 ここに、日本人として最初に渡欧した伊東満所(マンショ)を末永く顕彰するため、浄財をもって銅像を建立(こんりゅう)しました。
1996年(平成8年)8月吉日
西都市
と彫(ほ)られています。



写真DI: 本丸跡のテントに「西都市立 都於郡中学校 卒業記念」と書いてあります。



写真DJ: 伊東マンショの像の南の曲輪(くるわ、平らな所)にテント、テーブル、椅子(いす)などが準備されていました。 「都於郡城址(とのこおりじょうし)まつり」のメイン会場。



写真DK: 南を見たものです。 「都於郡城址(とのこおりじょうし)まつり」のメイン会場です。



写真DL: 「都於郡城址(とのこおりじょうし)まつり」の案内地図です。
伊東満所(マンショ)没後400年記念式典、都於郡城址まつり、受付、本部、客席、来賓・関係者、トイレなどが載っています。



写真DM: 都於郡城祭りの会場です。



写真DN: 舞台もできていました。



写真DO: 本丸跡から駐車場に戻(もど)る途中に石像があります。



写真DP: 「西都 天正遣欧少年使節 伊東マンショ生誕の地 都於郡中卒業生」と書いてある幟(のぼり)があります。



写真DQ: 掲示板に「伊東マンショ 没後400年記念事業、都於郡城跡にて開催」のポスターがあります。



写真DR: 翌日に都於郡城跡での都於郡城址(じょうし)まつりに再び来ました。 駐車場です。



写真DS: 都於郡城跡の近くにある「21世紀を担(にな)うむらづくり事業 高屋営農研修センター」で「伊東マンショ展」が行われていました。
伊東マンショの人形、遣欧少年使節のときの船の模型、茶(野点(のだて))と書いてあるポスターもあります。



写真DT: 左が伊東マンショの肖像画で、右が都於郡城主だった伊東義祐(伊東マンショのお祖父(じい)さん)の肖像画です。



写真DU: 「10代日向国主 伊東義祐(よしすけ)」の説明板です。 その肖像画も載っています。
 弟の伊東祐吉が当主となることを不満として一時出家しましたが、祐吉が病死したため還俗、その後を継いで家督(かとく)を相続することとなりました。
 1537年将軍足利義晴より従四位下を賜(たまわ)り、以後「義祐」と名乗ります。 1546年には従三位叙(じょ)せられ、1549年に嫡男(ちゃくなん)歓虎丸の病死を契機に再び出家、以後は「三位入道」と呼ばれました。 義祐は文武に優れた人物で、北原 氏を滅ぼし、島津忠親(薩摩州島津氏3代)と日向南部の権益をめぐって争い、1569年には飫肥(おび)の一帯を手に入れました。 こうして島津 氏を圧倒し、日向国内に48の支城(伊東48城)を構(かま)えた義祐は、伊東 氏の最盛期を築き上げました。
 しかし、1572年 木崎原の戦いに大敗以後次第に衰退していきました。 1577年12月9日 日向を捨て、親戚筋(すじ)である豊後(現大分県)の大友宗麟を頼ります。 米良山中(西都市 東米良の尾八重など。)を経(へ)て、高千穂を通って豊後に抜(ぬ)ける道のりは険(けわ)しく、当初120〜150名程度だった一行は、途中崖(がけ)から落ちた者や、足が動かなくなって自決するものなどが後を絶(た)たず、豊後に着いた時はわずか80名足らずになっていました。 その中には後に天正遣欧少年使節の1人である伊東マンショの幼い姿もありました。
 豊後に帰着した義祐は大友宗麟と会見し日向攻めの助力を請(こ)いました。 宗麟はその願いを受け、1578年に門川の土持 氏を攻め滅ぼしますが、大友 氏は島津 氏に大敗(耳川の戦い)してしまいました。 義祐は子の祐兵を連れ、伊予(四国にあります。)に渡って河野 氏を頼りました。 その後、祐兵が羽柴秀吉の家臣の1人として扶持を頂(いただ)くことが出来、(秀吉の)九州征伐の案内・先導役をつとめ歴史的な貢献をなした功績により日向・伊東 家の再興を実現し「飫肥藩(おびはん)」を成立させました。
 義祐は各地を流浪(るろう)して、最終的には1585年病衰して(大阪の)堺港へ行く途中、便船(びんせん、都合よく出る船)から港近くの砂浜に棄(す)てられ、行き倒れ同然の状態で地元民に発見され意識を失ったまま亡(な)くなったと言われています。 75歳でした。
と書かれています。



写真DV: 「10代日向国主 伊東義祐(よしすけ)」の説明板です。 その肖像画も載っています。
 弟の伊東祐吉が当主となることを不満として一時出家しましたが、祐吉が病死したため還俗、その後を継いで家督(かとく)を相続することとなりました。
 1537年将軍足利義晴より従四位下を賜(たまわ)り、以後「義祐」と名乗ります。 1546年には従三位叙(じょ)せられ、1549年に嫡男(ちゃくなん)歓虎丸の病死を契機に再び出家、以後は「三位入道」と呼ばれました。 義祐は文武に優れた人物で、北原 氏を滅ぼし、島津忠親(薩摩州島津氏3代)と日向南部の権益をめぐって争い、1569年には飫肥(おび)の一帯を手に入れました。 こうして島津 氏を圧倒し、日向国内に48の支城(伊東48城)を構(かま)えた義祐は、伊東 氏の最盛期を築き上げました。
 しかし、1572年 木崎原の戦いに大敗以後次第に衰退していきました。 1577年12月9日 日向を捨て、親戚筋(すじ)である豊後(現大分県)の大友宗麟を頼ります。 米良山中(西都市 東米良の尾八重など。)を経(へ)て、高千穂を通って豊後に抜(ぬ)ける道のりは険(けわ)しく、当初120〜150名程度だった一行は、途中崖(がけ)から落ちた者や、足が動かなくなって自決するものなどが後を絶(た)たず、豊後に着いた時はわずか80名足らずになっていました。 その中には後に天正遣欧少年使節の1人である伊東マンショの幼い姿もありました。
 豊後に帰着した義祐は大友宗麟と会見し日向攻めの助力を請(こ)いました。 宗麟はその願いを受け、1578年に門川の土持 氏を攻め滅ぼしますが、大友 氏は島津 氏に大敗(耳川の戦い)してしまいました。 義祐は子の祐兵を連れ、伊予(四国にあります。)に渡って河野 氏を頼りました。 その後、祐兵が羽柴秀吉の家臣の1人として扶持を頂(いただ)くことが出来、(秀吉の)九州征伐の案内・先導役をつとめ歴史的な貢献をなした功績により日向・伊東 家の再興を実現し「飫肥藩(おびはん)」を成立させました。
 義祐は各地を流浪(るろう)して、最終的には1585年病衰して(大阪の)堺港へ行く途中、便船(びんせん、都合よく出る船)から港近くの砂浜に棄(す)てられ、行き倒れ同然の状態で地元民に発見され意識を失ったまま亡(な)くなったと言われています。 75歳でした。
と書かれています。



写真DW: 「10代日向国主 伊東義祐(よしすけ)」の説明板です。 その肖像画も載っています。
 弟の伊東祐吉が当主となることを不満として一時出家しましたが、祐吉が病死したため還俗、その後を継いで家督(かとく)を相続することとなりました。
 1537年将軍足利義晴より従四位下を賜(たまわ)り、以後「義祐」と名乗ります。 1546年には従三位叙(じょ)せられ、1549年に嫡男(ちゃくなん)歓虎丸の病死を契機に再び出家、以後は「三位入道」と呼ばれました。 義祐は文武に優れた人物で、北原 氏を滅ぼし、島津忠親(薩摩州島津氏3代)と日向南部の権益をめぐって争い、1569年には飫肥(おび)の一帯を手に入れました。 こうして島津 氏を圧倒し、日向国内に48の支城(伊東48城)を構(かま)えた義祐は、伊東 氏の最盛期を築き上げました。
 しかし、1572年 木崎原の戦いに大敗以後次第に衰退していきました。 1577年12月9日 日向を捨て、親戚筋(すじ)である豊後(現大分県)の大友宗麟を頼ります。 米良山中(西都市 東米良の尾八重など。)を経(へ)て、高千穂を通って豊後に抜(ぬ)ける道のりは険(けわ)しく、当初120〜150名程度だった一行は、途中崖(がけ)から落ちた者や、足が動かなくなって自決するものなどが後を絶(た)たず、豊後に着いた時はわずか80名足らずになっていました。 その中には後に天正遣欧少年使節の1人である伊東マンショの幼い姿もありました。
 豊後に帰着した義祐は大友宗麟と会見し日向攻めの助力を請(こ)いました。 宗麟はその願いを受け、1578年に門川の土持 氏を攻め滅ぼしますが、大友 氏は島津 氏に大敗(耳川の戦い)してしまいました。 義祐は子の祐兵を連れ、伊予(四国にあります。)に渡って河野 氏を頼りました。 その後、祐兵が羽柴秀吉の家臣の1人として扶持を頂(いただ)くことが出来、(秀吉の)九州征伐の案内・先導役をつとめ歴史的な貢献をなした功績により日向・伊東 家の再興を実現し「飫肥藩(おびはん)」を成立させました。
 義祐は各地を流浪(るろう)して、最終的には1585年病衰して(大阪の)堺港へ行く途中、便船(びんせん、都合よく出る船)から港近くの砂浜に棄(す)てられ、行き倒れ同然の状態で地元民に発見され意識を失ったまま亡(な)くなったと言われています。 75歳でした。
と書かれています。



写真DX: 「伊東義祐の豊後落ち(ぶんごおち)」の説明板です。
豊後落ち敗走路全図も載っています。
マンショら伊東一族の山中逃避の経路
 1577年12月9日未明、島津 軍の侵攻に伊東 氏は都於郡城と佐土原城を捨て、豊後(現大分県)の大友 氏を頼って脱出を図(はか)豊後街道(現国道10号線沿(ぞ)い)を北上する予定でしたが、財部(高鍋)が敵に回ったため、米良への道をとりました。 雪の山中敗走は凍死、転落、自刃、脱落など跡を絶たない悲惨なものでした。 尾八重、神門を経(へ)て、高千穂の河内に着いたのは12月25日でした。 豊後からの迎えの使者は年明けの7日でした。
 マンショ8歳の時、過酷な逃避行に耐えました。
と書かれています。



写真DY: 「伊東義祐の豊後落ち(ぶんごおち)」の説明板です。
豊後落ち敗走路全図も載っています。
マンショら伊東一族の山中逃避の経路
 1577年12月9日未明、島津 軍の侵攻に伊東 氏は都於郡城と佐土原城を捨て、豊後(現大分県)の大友 氏を頼って脱出を図(はか)豊後街道(現国道10号線沿(ぞ)い)を北上する予定でしたが、財部(高鍋)が敵に回ったため、米良への道をとりました。 雪の山中敗走は凍死、転落、自刃、脱落など跡を絶たない悲惨なものでした。 尾八重、神門を経(へ)て、高千穂の河内に着いたのは12月25日でした。 豊後からの迎えの使者は年明けの7日でした。
 マンショ8歳の時、過酷な逃避行に耐えました。
と書かれています。



写真DZ: 「伊東義祐の豊後落ち(ぶんごおち)」の説明板です。
豊後落ち敗走路全図も載っています。
マンショら伊東一族の山中逃避の経路
 1577年12月9日未明、島津 軍の侵攻に伊東 氏は都於郡城と佐土原城を捨て、豊後(現大分県)の大友 氏を頼って脱出を図(はか)豊後街道(現国道10号線沿(ぞ)い)を北上する予定でしたが、財部(高鍋)が敵に回ったため、米良への道をとりました。 雪の山中敗走は凍死、転落、自刃、脱落など跡を絶たない悲惨なものでした。 尾八重、神門を経(へ)て、高千穂の河内に着いたのは12月25日でした。 豊後からの迎えの使者は年明けの7日でした。
 マンショ8歳の時、過酷な逃避行に耐えました。
と書かれています。



写真EA: 伊東マンショが遣欧少年使節のときに着用した衣服を復元したものです。 下の肖像画から復元したものだそうです。
ていねいな説明をしていただきました。 御礼申し上げます。



写真EB: 「天正遣欧使節一行の足跡」の説明板です。
マンショなど、天正遣欧使節一行の足跡(アフリカの喜望峰を回って大西洋を北上する航路です。 マレー半島、インドにも寄港しています。)の地図も載っています。 寄港地も分かります。
 南シナ海では大嵐(あらし)に合い積荷を海に投げ捨て。 赤道下のインド洋では凪(なぎ、風がないこと)に会い、燃えるような大気の中で20日間も立ち往生。 食料は腐敗し、水はなくなり、船上は熱病が広がり、マンショは疫痢(えきり)にかかりました。
 舟の座礁(ざしょう)でコチンの町で半年を過ごし、ゴアに着いたのは長崎を出て1年9ヶ月後でした。 ゴアは人口30万の大都会で、ポルトガル東洋領を治(おさ)めるインド副王がいました。 副王に謁見(えっけん)し、マンショはここで九州3大名の新書を読み上げ歓迎を受けました。
 喜望峰、セントヘレナ島を経(へ)てポルトガルに着いたのは、1584年8月10日。 2年余の航海後の入港でした。
と書かれています。



写真EC: 「天正遣欧使節一行の足跡」の説明板です。
マンショなど、天正遣欧使節一行の足跡(アフリカの喜望峰を回って大西洋を北上する航路です。 マレー半島、インドにも寄港しています。)の地図も載っています。 寄港地も分かります。
 南シナ海では大嵐(あらし)に合い積荷を海に投げ捨て。 赤道下のインド洋では凪(なぎ、風がないこと)に会い、燃えるような大気の中で20日間も立ち往生。 食料は腐敗し、水はなくなり、船上は熱病が広がり、マンショは疫痢(えきり)にかかりました。
 舟の座礁(ざしょう)でコチンの町で半年を過ごし、ゴアに着いたのは長崎を出て1年9ヶ月後でした。 ゴアは人口30万の大都会で、ポルトガル東洋領を治(おさ)めるインド副王がいました。 副王に謁見(えっけん)し、マンショはここで九州3大名の新書を読み上げ歓迎を受けました。
 喜望峰、セントヘレナ島を経(へ)てポルトガルに着いたのは、1584年8月10日。 2年余の航海後の入港でした。
と書かれています。



写真ED: 宮崎県 西都市 にある都於郡城跡の近くの「高屋営農研修センター」で行われている「伊東マンショ展」です。 手前の長机では、伊東マンショの本が展示販売されていました。



写真EE: 和服姿の女性はお茶の野点(のだて)の方達ちと思われます。



写真EF: 「ヨーロッパでの伊東マンショ」の額(がく)があります。



写真EG: 左上は都於郡城 本丸跡です。 北を見たもの。



写真EH: 本丸跡に登る石段です。 「都於郡城址まつり」、「都於郡城主 初代 伊東祐持」の幟(のぼり)を立ててあります。



写真EI: 紅白の幕(まく)が本丸跡にある伊東マンショ像の近くにあります。



写真EJ: 都於郡城跡にある「伊東マンショ像」です。



写真EK: 都於郡城址まつり協賛者名(順不同)が書いてあります。 団体も載っています。



写真EL: 都於郡城址まつり協賛者名(順不同)が書いてあります。 団体も載っています。



写真EM: 西を見たもの。 左にテントが見えます。



写真EN: 南西を見たもの。 「都於郡城址まつり」に多くの人達が来ています。



写真EO: 「伊東満所(マンショ)没後400年記念式典」、「SAITO 都於郡城址まつり」、「第16回都於郡城址まつり」と舞台(ぶたい)に書いてあります。



写真EP: 舞台の前に子供さんたちも集まっています。



写真EQ: 舞台の北にテント、多くの椅子(いす)があり、観客がすでに座(すわ)っています。 「都於郡城址まつり」です。



写真ER: 舞台の前に多くの人達が座っています。



写真ES: 北東を見たもの。 テント、椅子(いす)、発電機付きの照明も見えます。 「都於郡城址まつり」。



写真ET: 東を見た景色です。



写真EU: 都於郡城址まつりです。 東を見たもの。



写真EV: 南東を見たもの。 軽トラックも来ています。



写真EW: 北を見たもの。 芝生(しばふ)にも人が座(すわ)っています。



写真EX: 手前は発電機付きの照明です。 北西を見たものです。



写真EY: これが受付のテントです。



写真EZ: 「第16回 都於郡城址まつり」 平成24年11月10日(土) 前夜祭、11月11日 本祭。
高屋山上陵祭 伊東マンショ像前、都小っ子祭り、伊東マンショ 没後400年記念式典などの行事が書いてあります。
神楽酒造提供 ふるまい酒 前夜祭、ゲームコーナー 本祭、お楽しみ抽選会、野点(のだて) 本祭、高屋神楽奉納 本祭、
主催 都於郡城址まつり実行委員会、後援 西都市、協賛 西都市観光協会。
前夜祭では花火大会、本祭では武者行列 マンショ没後400年記念式典 皿まわし せんぐまき(餅(もち)まき)などもあります。



写真FA: 「第16回 都於郡城址まつり」 平成24年11月10日(土) 前夜祭、11月11日 本祭。
高屋山上陵祭 伊東マンショ像前、都小っ子祭り、伊東マンショ 没後400年記念式典などの行事が書いてあります。
神楽酒造提供 ふるまい酒 前夜祭、ゲームコーナー 本祭、お楽しみ抽選会、野点(のだて) 本祭、高屋神楽奉納 本祭、
主催 都於郡城址まつり実行委員会、後援 西都市、協賛 西都市観光協会。
前夜祭では花火大会、本祭では武者行列 マンショ没後400年記念式典 皿まわし せんぐまき(餅(もち)まき)などもあります。



写真FB: 「第16回 都於郡城址まつり」 平成24年11月10日(土) 前夜祭、11月11日 本祭。
高屋山上陵祭 伊東マンショ像前、都小っ子祭り、伊東マンショ 没後400年記念式典などの行事が書いてあります。
神楽酒造提供 ふるまい酒 前夜祭、ゲームコーナー 本祭、お楽しみ抽選会、野点(のだて) 本祭、高屋神楽奉納 本祭、
主催 都於郡城址まつり実行委員会、後援 西都市、協賛 西都市観光協会。
前夜祭では花火大会、本祭では武者行列 マンショ没後400年記念式典 皿まわし せんぐまき(餅(もち)まき)などもあります。



写真FC: 南を見たものです。 城跡の土塁(どるい)のようなものの上です。



写真FD: 南東を見たもの。



写真FE: 天気には恵まれ快晴でした。 都於郡城址祭り。



写真FF: 舞台(ぶたい)の上に人が見えます。



写真FG: 「都於郡城址まつり」では舞台の上からの「餅(もち)まき(せんぐ)」が行われました。



写真FH: 「餅(もち)まき(セング)」が行われ私達も拾(ひろ)いました。 ビニール袋に紅白の餅(もち)が入っています。



写真FI: 宮崎県 西都市の都於郡城址まつりで「餅(もち)まき(セング)」が行われ私達も拾(ひろ)いました。 ビニール袋に紅白の餅(もち)が入っています。



写真HJ: 拾(ひろ)ったモチも見えます。



写真HK: 西を見たもの。 都於郡城址まつり。



写真HL: 私がこのホームページを作るときにいつも乗っている自動車(トヨタ社のコロナ)が「走行距離 29万0000キロメートル」になったときの写真です。 新車から21年8ヶ月のとき。
路上で止まってしまったことは一度もありません。 調子良く走ってくれています。 これからも大切に乗っていこうと思います。
ちょうどこの都於郡城跡のホームページを改訂している頃(ころ)でした。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)