都於郡城跡 (とのこおり城跡、トノコオリ城跡) (西都市都於郡町)
<標高、位置> 西都市都於郡町にある都於郡城跡(とのこおりじょうあと)の本丸は
標高 約100 m
北緯32度03分39秒 東経131度22分29秒
都於郡城は伊東が造り日向一帯を治めた本拠地の城です。 弓矢の戦いに有効な典型的な山城です。 伊東は48の城を造りました。 南北朝時代から約240年間、ここは伊東の本城でした。 伊東は静岡県の伊豆半島からこの地に来ました。 伊豆半島には今も伊東という地名が残っています。 1582年2月に天正少年使節4名の正使としてローマに渡った伊東満所はこの城で生まれました。
写真A: 那珂−西都線の西都市都於郡(とのこおり)町にある道路標識。

写真B: 「国指定史跡 都於郡城跡」の標識。 ここを左折して約800 mの所にあります。

写真C: 都於郡城跡の説明板。 都於郡城は南北朝時代1335年、工藤祐経(くどうすけつね)の子孫 伊東祐重(いとうすけしげ)が築城しました。 それ以来、1577年までの242年間 伊東累代の居城として栄えました。 城は空壕(からぼり)や土塁(どるい)をめぐらした中世の典型的な山城で、本丸を中心に5つの城郭(奥の城、二の丸、三の丸、西の丸、本丸)など7つの山城を構え、後の佐土原城や宮崎城など日向一円に48の城を築きました。 山城は弓矢の戦いに有効です。 天正遣欧少年使節の正使としてヨーロッパに渡った伊東満所(まんしょ)もこの城で生まれています。 伊東満所が都於郡の生まれであることが分かったのは、昭和時代になってからです。

写真D: 都於郡城跡の本丸などはこの道を先に進みます。

写真E: 本丸跡、二の丸跡の標識。

写真F: 本丸跡へはこの石の階段を上ります。

写真G: ここに駐車場があります。 この奥左に「奥の城」跡があります。 奥の城は大奥がありました。

写真H: 本丸の登り口にある 伝説 高屋山上陵(祭神 彦火々出見尊)、都於郡城本丸跡 の石碑。

写真I: この石の階段の上に本丸跡があります。

写真J: 先の平らなところに本丸がありました。

写真K: 本丸跡の説明板。 伊東は都於郡城を拠点に日向一円を掌握しました。 本丸跡から、多数の柱穴が検出され240余年間に建物が何回となく建築補修されたことなどが分かりました。 16世紀前半の頃に輸入されたと思われる中国製の磁器片が多数出土しました。 この磁器は10代城主 伊東三位入道義祐の時代に当たり、義祐が飫肥方面に勢力を伸ばし、南方貿易に尽力した結果、このような中国磁器類が流入したものと推察されています。

写真L: 都於郡城跡の説明板。 都於郡城の五城郭は、一名「浮船城」とも称されていました。 静岡県の伊豆半島から来て南北朝以来約240年間、この都於郡城を本城として日向一円を掌握した伊東も、10代伊東義祐の時代、天正5年(1577年)12月、都於郡城が島津に攻められ落城し、伊東は一族を連れて豊後(ぶんご、大分県)に落ちのびて行くことになり、伊東の栄華は終わりを告げることになります。 落ちのびるときには、綾城、米良越えなどの経路を取っています。 米良越え(1578年1月)では凍死などで多くの死者が出ました。 静岡県の伊豆半島には「伊東」という地名が残っています。

写真M: 都於郡城跡の説明板。

写真N: 天正遣欧少年使節 伊東マンショの説明板。 都於郡城の落城後、大分県の豊後への落人(おちうど)の中に都於郡生まれで伊東義祐の外孫にあたる伊東マンショも加わっていました。 当時、伊東満所は7歳でした。 マンショは、その後、豊後から島原の神学校に入学しました。 1582年2月には天正少年使節4名の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、1590年に長崎に帰ってきました。

写真O: 都於郡城跡は平成12年9月6日に国指定史跡になりました。 国指定面積は33、349平方メートルです。

写真P: 都於郡城の本丸跡にある伊東満所(まんしょ)の像。

写真Q: 都於郡城跡にある伊東満所の像。 1582年2月には天正少年使節4名の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、1590年に長崎に帰ってきました。1570(?)年に生まれ1612年に42歳で亡くなった。

写真R: 伊東満所の像の裏に書いてある駐日イタリア大使の言葉(2000年7月)。

写真S: 本丸と伊東満所の像。

写真T: 都於郡城跡にある伊東満所像の裏にある碑文。

写真U: 都於郡城本丸跡にある伝説 高屋山上陵の石碑。 高屋山上陵の祭神は彦火々出見尊です。

写真V: 都於郡城本丸跡にある伊東満所の顕彰碑。

写真W: 都於郡城跡にある伊東マンショの顕彰碑。

写真X: 伊東満所 関係の3つの石碑。

写真Y: 伊東満所誕生之地の石碑。

写真Z: 伊東満所の慰霊碑。

写真AA: 左は都於郡城の曲輪(くるわ、平らなところ)で右は本丸。

写真AB: 都於郡城の曲輪(くるわ、平らなところ)。

写真AC: 曲輪(くるわ)の説明板。 周囲から進入し難く加工された平場を曲輪と総称します。

写真AD: 右の高台が都於郡城の二の丸跡です。

写真AE: 左の高台が二の丸跡で右の高台が本丸跡です。 その間の低いところが空濠(からぼり)です。

写真AF: 右が本丸、左が二の丸。

写真AG: 二ノ丸跡の説明板。 二の丸は本丸と空堀を隔てた西側に位置し、五城郭の中で最も古い時期に築城されたものと思われます。 二の丸の南側には高いところで約2 m の土塁(どるい、土手)がほぼ原形をとどめていますが、伊東氏の時代には二の丸全体に巡らされていたと考えられます。 本丸が二の丸と比較して一段低い位置にあることから、二の丸が中心的な戦略的拠点となっていたのではないかと推測されます。

写真AH: 土塁(どるい)の説明板。 外的から自己を防衛する目的で、土を盛って築き上げたものです。 都於郡城の各曲輪の周辺部には、この土塁が構築されていたものと思われます。

写真AI: 都於郡城二の丸跡。

写真AJ: 二の丸跡から西ノ城跡を望む。

写真AK: 都於郡城跡にはトイレもあります。

写真AL: 都於郡城跡には水飲み場もあります。

写真AM: 都於郡城の西ノ城跡に登る道。

写真AN: 都於郡城の西ノ城跡に登る途中に、上水道の配水池があります。

写真AO: 奥の高台が都於郡城 三の丸跡です。

写真AP: 西ノ城跡の説明板。 空堀を隔てて三の丸の南端にあり、眼下に三財地区全体が見下ろせます。 なお、はるかに東諸県地方も望むことができ、三の丸と共に眺望絶佳です。 別名、ものみ城とも伝えられ、外敵からの侵入に備えての城であったのではないかと思われます。

写真AQ: 都於郡城 西ノ城跡。

写真AR: 都於郡城西ノ城跡から見た西都市三財の町。 手前に三財川が見えています。

写真AS: 都於郡城 三の丸に登る道。

写真AT: 三ノ丸跡の説明板。 三の丸は都於郡台地の西北端にあり、三方断崖で、山麓には三財川が流れて自然の外濠(そとぼり)となっています。 西ノ城と同様に、ものみの役割を果たしていたと思われます。 また、伊東48城と連絡するための狼煙台(のろしだい)があったと推測されます。

写真AU: 三の丸跡。 三角点も見えています。

写真AV: 都於郡城三の丸跡。

写真AW: 都於郡城三の丸跡から見た西都市三財。

写真AX: 三の丸跡から見た西都市三財。

写真AY: 三の丸跡からの西都市三財の眺望。 手前に三財川が見えています。

写真AZ: 西都市三財を望む(三の丸跡から)。

写真BA: 三の丸跡。

写真BB: 三の丸跡にある見える景色の絵地図。

写真BC: 都於郡城跡からの展望図。

写真BD: 都於郡城の三の丸跡にある展望図。

写真BE: 都於郡城 三の丸跡にある四等 三角点(標高 104.6 m)。

写真BF: 都於郡城 三の丸跡にある三角点(標高 104.6 m)。

写真BG: 三の丸跡から西都市を望む。

写真BH: 三の丸跡から二の丸跡を見る。 間に空堀(からぼり)があります。

写真BI: 三の丸跡から見た景色。

写真BJ: 三の丸跡から見た西ノ城跡と曲輪(くるわ)。

写真BK: 西ノ城跡の南にある曲輪(くるわ)。

写真BL: 西ノ城跡の南にある曲輪(くるわ)から見た景色。 三財川も見えています。

写真BM: 西ノ城跡の南にある曲輪(くるわ)から見た眺望。

写真BN: 左に進むと二の丸と本丸に行きます。

写真BO: 城跡の近くの道。

写真BP: 左に進むと本丸と奥の城(大奥)があります。

写真BQ: 近くに、高屋営農研修センターがありました。

写真BR: 都於郡城跡から空を見上げると秋の雲がきれいでした。

写真BS: 本丸近くの道。

写真BT: 本丸近くの駐車場。

写真BU: 奥ノ城跡の道しるべ。

写真BV: 空濠(からぼり)の底には道があります。

写真BW: 奥ノ城跡の説明板。 本丸の北方には間道(ぬけみち)と併用した空堀をはさんで奥ノ城があります。 ここは城主一族の大奥として、奥方や侍女、家族の住居でした。 1577年12月の落城の時、一族は家臣と共に、この奥ノ城から豊後(大分県)に落ちのびて行きました。

写真BX: 都於郡城の奥ノ城跡。 後ろの大きな木のあるところは、本丸跡です。

写真BY: 都於郡城奥ノ城跡。

写真BZ: 都於郡城の奥ノ城跡にあるセンダンの木。

写真CA: 都於郡城奥ノ城跡から見た北方向の景色。 うっすらと尾鈴山も見えています。 西都市の町も見えています。

写真CB: 遠くに稗畑山(左、標高 853 m、西都市の 一ッ瀬川沿いの ひょうたん淵の近くにあります)や尾鈴山(右、標高 1405 m)などが見えています。 その間の山は椎葉の高い山と思われます。 奥ノ城跡からの眺望。

写真CC: 都於郡城奥ノ城跡からの景色。 高い山は稗畑山(標高 853 m、西都市の 一ッ瀬川沿いの ひょうたん淵の近くにあります)です。 右手の山は椎葉の高い山と思われます。 稗畑山の左遠くに薄く見えている山は、地蔵岳(標高 1089 m、西米良村の村所と尾鈴山との真ん中付近にあります)です。

写真CD: 都於郡城奥ノ城跡からの展望。

写真CE: 奥ノ城跡にあるベンチ。

写真CF: 都於郡城奥ノ城跡の近くにある落城365年(かぞえ年の数え方になっているようです)の石碑。 昭和16年12月に建てられたもの。

写真CG: 蛇足ですが、このページを作っている時に、愛車の走行距離が、「20万キロメートル」になりました。 このホームページの写真を撮るときには、いつもこの車といっしょに出かけました。 今の車は、消耗品さえ交換すれば、20万キロを越えるのは比較的容易です。 今までで、一番高額だった修理は、ラジエーターからの水漏れで、約5万円でした。 新車の時から、約16年半ですが、部品の供給は何の心配もありません。 これからも、走行距離30万キロメートルを目指して、大切に乗ろうと思っています。

by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)
![]()