高鍋海水浴場、蚊口浜、なつかしの南九州大学 (移転する前の南九州大学、南九州大学高鍋キャンパス、かぐち浜(天然牡蠣(かき))、カキ料理屋、蚊口浜サーフィン場、日向灘、太平洋)  (宮崎県 児湯郡 高鍋町)







<標高、位置>  高鍋海水浴場 (蚊口浜(かぐち浜))は
標高 約0 m
 北緯32度07分12秒  東経131度32分06秒

<標高、位置>  南九州大学跡は
標高 約50 m
 北緯32度06分49秒  東経131度31分28秒


 「高鍋海水浴場 (蚊口浜(かぐちはま))」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字蚊口浦にあります。 海水浴場、サーフィン スポット (蚊口浜サーフィン場)としても知られています。
 蚊口浜 (かぐちはま)は宮田川の川口近く(北側)にあります。
 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。
 蚊口浜 (かぐちはま)には伝説があります。
 宮崎県 美郷町 南郷区 神門 にある「神門神社 (みかどじんじゃ)」に次の石碑 (せきひ)があります。
 「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑から、
<説明石碑>
「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。

 「南九州大学 高鍋キャンパス」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字南高鍋 11609にあります。 1967年に創設された宮崎県最古の私立大学です。 


写真A: 「高鍋海水浴場 宮日新観光地百景」と書いてある石碑(せきひ)があります。 高鍋海水浴場はJR日豊本線 高鍋駅の東の方にあります。



写真B: 高鍋海水浴場 (蚊口浜(かぐち浜))です。 日向灘(太平洋)、ソテツの木、高鍋海水浴場の石碑、沖に波止めが見えています。



写真C: 高鍋海水浴場 (蚊口浜)から北を見た景色。 ソテツの木、白波、砂浜も見えています。 日向灘(太平洋)です。
ここはサーフィン ポイント (蚊口浜サーフィン場)です。
蚊口浜 (かぐちはま)は宮田川の川口近く(北側)にあります。
 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。
 蚊口浜 (かぐちはま)には伝説があります。
 宮崎県 美郷町 南郷区 神門 にある「神門神社 (みかどじんじゃ)」に次の石碑 (せきひ)があります。
 「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑から、
<説明石碑>
「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。



写真D: 高鍋海水浴場 (蚊口浜)から東を見た景色。 沖に海岸線と平行に「波止め」が見え、その手前は波が消えて泳ぎやすくなっています。



写真E: 高鍋海水浴場 (蚊口浜(かぐち浜))のソテツの木です。 沖に波止めがあります。



写真F: 海岸に船の形をした建物があります。 高鍋海水浴場。
ここにトイレ、シャワーがあります。



写真G: 高鍋海水浴場 (蚊口浜(かぐち浜))から南を見たもの。 沖の波止め、砂浜、ソテツの木、石碑(せきひ)も見えます。
ここはサーフィン スポット (蚊口浜サーフィン場)です。
蚊口浜 (かぐちはま)は宮田川の川口近く(北側)にあります。
 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。
 蚊口浜 (かぐちはま)には伝説があります。
 宮崎県 美郷町 南郷区 神門 にある「神門神社 (みかどじんじゃ)」に次の石碑 (せきひ)があります。
 「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑から、
<説明石碑>
「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。



写真H: 「高鍋町内 巡回バス [蚊口浜]」と書いてあります。 巡回バスもここに来ます。
蚊口浜 (かぐちはま)は宮田川の川口近く(北側)にあります。
 長禄元年 (1457年)に財部(高鍋)土持景綱が伊東祐尭 (すけたか)に立ち向かいましたが、小浪川の戦い (高鍋町の宮田川の上流と思われます。)で滅亡し、日知屋、塩見、門川、新名、野別府、山陰、田代、神門、新納院高城は伊東の領地になりました。
 蚊口浜 (かぐちはま)には伝説があります。
 宮崎県 美郷町 南郷区 神門 にある「神門神社 (みかどじんじゃ)」に次の石碑 (せきひ)があります。
 「百済王守護 益見太郎 並に七人衆之碑」の石碑 (せきひ)と説明石碑から、
<説明石碑>
「天平勝宝8年 (756年、今から1230年前)内乱により祖国を追われた百済王禎嘉帝が大和国 厳島 (いつくしま)に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路 九州の大宰府へと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市 金ヶ浜に漂着し、山奥の神門郡に住んだ。 王子と妃 (きさき)の舟は高鍋町 蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。 更 (さら)に王は追撃を受け東郷町 下三ヶ中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子 福智王が比木より援助し撃滅した。 当時王に随身した神門郷の7人衆有之、又王が神門に宮居を定めるに当たり豪族 益見太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云 (い)う。 7人衆は神門神社 宮司 原田八郎 氏の口伝えに依 (よ)れば当時 中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加わって協力したと伝えられる。 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人(れいじん、音楽を奏する人。)として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月 七人衆後継者一同建立」
 この碑文 (ひぶん)の「756年に祖国を追われた百済王」の756年は百済滅亡 (660年)の96年後、朝鮮半島の白村江の戦い (663年)の93年後、倭朝廷の内乱である壬申の乱 (じんしんのらん、672年)の84年後になります。



写真I: 浜辺の道に車が多く止まっていました。



写真J: 少し薄暗くなってきました。 高鍋海水浴場。



写真K: 薄暮の高鍋海水浴場 (蚊口浜(かぐちはま))です。



写真L: 外灯や建物にも明かりが点(つ)きました。 高鍋海水浴場。



写真M: 高鍋海水浴場 (蚊口浜(かぐち浜))にある「牡蠣(かき)料理屋」です。 蚊口浜で天然牡蠣(カキ)がとれます。
「かき料理 たかじま」と書いてあります。



写真N: 蚊口浜には店があります。



写真O: カキ料理屋の中です。



写真P: 「蚊口浜での牡蠣(かき)の採取の様子(ようす)」がよく分かります。



写真Q: カキ料理店の中に大きな魚の魚拓(ぎょたく)があります(右)。
魚拓とは魚の表面に和紙を置いて、魚の形をすり写した物です。



写真R: カキ料理屋に伊勢エビなどの生け簀(す)もありました。



写真S: 宮崎県 児湯郡 高鍋町にあった「南九州大学」の入り口です。



写真T: 今は移転した南九州大学(高鍋町)の門付近の景色です。 国道10号線の西にある標高 約50 mの丘の上にあります。



写真U: 「南九州大学」の石碑、建物、ワシントン椰子(やし)の木、フェニックス、花壇などがあります。



写真V: 「南九州大学」の石碑、建物、ワシントン椰子(やし)の木、フェニックス、花壇など。



写真W: 芸術的な建造物があります。



写真X: 「南九州大学」の石碑(せきひ)。



写真Y: 南九州大学の門のそばです。



写真Z: 高鍋町の南九州大学に「わかば ロケ・ポイント 1」と書いてあります。 これはNHK総合テレビ 朝ドラの「わかば」のために、ここでロケが行われたことを記念して建てられたものです。 後ろに花壇があります。



写真AA: 高鍋町の南九州大学。 建物、フェニックス、花壇も見えます。



写真AB: 後ろに南九州大学の地図板もあります。



写真AC: 門の方を見たもの。



写真AD: 「南九州大学キャンパス図」です。



写真AE: 宮崎県 児湯郡 高鍋町の南九州大学。



写真AF: 児湯郡 高鍋町の南九州大学。



写真AG: 高鍋町の南九州大学。



写真AH: 南九州大学。



写真AI: 高鍋町にある南九州大学のグラウンドです。



写真AJ: 高鍋町にある南九州大学のグラウンド。



写真AK: 建物の下がアーチ型のゲートになっています。 南九州大学。



写真AL: 「平成18年9月8日。 南九州大学高鍋キャンパスの園芸学部及び環境造園学部は、2009年(平成21年)4月、都城市へ移転することになりました。」と書かれています。



写真AM: 南九州大学高鍋キャンパス。



写真AN: 南九州大学高鍋キャンパス。



写真AO: 南九州大学。



写真AP: 南九州大学高鍋キャンパス。



写真AQ: 丘の下の景色も見えます。



写真AR: 南九州大学。



写真AS: 自転車置き場もあります。



写真AT: 左は自転車置き場。



写真AU: 南九州大学のサッカー場です。



写真AV: 南九州大学のサッカー場。



写真AW: 南九州大学のサッカー場。



写真AX: イチョウの木が黄葉(おうよう)していました。



写真AY: イチョウの木が黄葉(おうよう)していました。



写真AZ: 枯(か)れてしまったフェニックスがありました。



写真BA: 枯れてしまったフェニックス。



写真BB: 門の外に戻(もど)りました。



写真BC: 門の外の通学路です。



写真BD: 南九州大学の丘に登る通学路です。



写真BE: 南九州大学 高鍋キャンパスの丘に登る通学路から東を見下ろした景色。 遠くに高鍋海水浴場の波止めが見えます。 海は日向灘(太平洋)です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)