高城跡、城山公園 (高城、高城址、高城城跡、山田新介有信、高城合戦(高城川の戦い、耳川の戦い)、豊臣の九州平定(秀吉の九州征伐)、空堀、木城町の展望、小丸川、メロディ時計台、六地蔵塔(ろくじぞうとう)、古井戸、永山古墳、新納観音、水分神社、じょうやま公園、高城橋、木城役場)  (宮崎県 児湯郡 木城町 大字高城)







<標高、位置>  高城跡は
標高 約60 m
 北緯32度10分04秒  東経131度28分29秒

<標高、位置>  水分神社は
標高 約50 m
 北緯32度10分04秒  東経131度28分19秒

<標高、位置>  永山古墳は
標高 約60 m
 北緯32度10分04秒  東経131度28分09秒

<標高、位置>  木城役場(きじょうやくば)は
標高 約20 m
 北緯32度09分50秒  東経131度28分24秒


 高城跡(高城址、城山公園)は宮崎県 児湯郡 木城町 大字高城 3760-1にあります。
 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板から、
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。

 この高城は、建武2年に島津時久が足利尊氏から新納院を与えられて、城を築き、姓を新納と改めました。 その後、高城は新納土持氏の城となりましたが、長禄元年に土持景綱が都於郡城主 伊東祐堯に敗れて、高城は伊東氏の城となりました。 この高城(木城町高城)は、宮崎市(宮崎市 高岡町 穆佐(むかさ)、高木兼寛誕生地のところ)にある穆佐城(むかさじょう)、月山日和城(都城市高城町大井手字横馬場)とならんで日向三高城の一つです。

 「高城跡」にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑から、
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。 島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。 山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。

 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板から、
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。 これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。


写真A: 宮崎県 児湯郡 木城町の車道です。 右に行くと茶臼原(ちゃうすばる)、左に行くと木城役場、高城跡に行きます。



写真B: バス停「中川原」があります。



写真C: 小丸川 高城橋の少し南のところです。



写真D: 木の後ろに木城役場、その上に高城跡が見えてきました。



写真E: 小丸川の高城橋。



写真F: 木城役場。 その上に高城跡のメロディ時計台が見えます。



写真G: 木城役場の北側の山が「高城跡」です。 尾根ぞいに東西に長い高城跡です。 この写真の左端も高城跡。



写真H: 木城役場の北側の山が「高城跡」です。 尾根ぞいに東西に長い高城跡です。 山の上の右から1本目と2本目の携帯電話鉄塔も高城跡に含まれます。



写真I: 小丸川 高城橋の南たもと。 下流方向(東)を見たもの。



写真J: 小丸川 高城橋から上流方向(西)を見た景色。 山の上の右から1本目と2本目の携帯電話鉄塔も高城跡に含まれます。



写真K: 高城橋から下流を見た様子(ようす)。



写真L: 高城橋から上流を見た様子(ようす)。



写真M: 高城橋から上流を見たもの。 ダイシンキヤノンの工場が小丸川の左岸(下流を見て左)にあります。



写真N: 木城役場。 小丸川の高城橋の北たもとにあります。



写真O: 木城役場。 手前は小丸川。



写真P: 木城役場と小丸川。



写真Q: 小丸川。



写真R: 小丸川から南方向を見たもの。 高城川合戦(耳川の戦い、1578年)の時には見えている南の台地に島津軍の陣がありました。 根白坂の戦い(1587年)の時には南の台地の根白坂に豊臣軍の陣がありました。



写真S: 小丸川から南東方向を見たもの。 高城川合戦(耳川の戦い、1578年)の時には見えている南の台地に島津軍の陣がありました。



写真T: 小丸川から東方向を見た景色。



写真U: 高城橋の北たもと。



写真V: 高城橋の北たもと。



写真W: 木城役場の後ろの山は高城跡。



写真X: 木城町の車道にある商店。



写真Y: 道の奥の山の上が「高城跡」。



写真Z: 「↑都農、東九州道。 ←木城えほんの郷、川原自然公園」と書いてある道路標識。



写真AA: 奥の山の上は高城跡。



写真AB: 山の上に城山公園(じょうやまこうえん)のメロディ時計台が見えます。 そこが高城跡です。



写真AC: 奥の山の上が高城跡。



写真AD: 木城町のマンホールのフタは美しい。



写真AE: バス停「木城」があります。



写真AF: 山の上に城山公園のメロディ時計台の建物が良く見えます。



写真AG: 高城跡の東部分が見えます。



写真AH: タクシー会社の看板が見えています。



写真AI: 高城跡の南の車道。



写真AJ: 高城跡の南の車道。



写真AK: 「←石河内、→東九州道、↑日向 都農」と書いてある道路標識があります。 ここは城山公園下です。



写真AL: 高城跡は城山公園になっています。



写真AM: 茶色の建物は歯科です。 その右の細い遊歩道を登ると「高城跡」に行きます。 高城跡は城山公園になっています。



写真AN: 茶色の建物は歯科です。 その右の細い遊歩道を登ると「高城跡」に行きます。 高城跡は城山公園になっています。



写真AO: 信号機の右に「城山公園入口」と書いた門(ゲート)があります。



写真AP: 信号機の右に「城山公園入口」と書いた門(ゲート)があります。



写真AQ: 城山公園入り口から東を見たもの。



写真AR: 城山公園入り口から南を見た景色。



写真AS: 城山公園入り口から西を見たもの。



写真AT: 城山公園入り口の門(ゲート)が見えます。



写真AU: 「城山公園入口」と書いてある門(ゲート)。



写真AV: 「城山公園案内板」。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真AW: 「城山公園案内板」。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真AX: 「城山公園案内板」。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真AY: 「城山公園案内板」。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真AZ: これが高城への登城路です。



写真BA: 「城山公園入口」と書いてある門(ゲート)を内から見たもの。



写真BB: 登城の道です。



写真BC: 高城への登城道。



写真BD: 車止めから先は階段になっています。 手すりがあります。



写真BE: 「急傾斜地崩壊危険区域 高城地区」の看板(かんばん)があります。



写真BF: ここからは階段があります。



写真BG: モウソウ竹の竹林もあります。



写真BH: 階段を登って高城へ行きます。



写真BI: 高城への登城道。



写真BJ: 左への脇道(わきみち)があります。



写真BK: 登って来た坂道を振り返ったもの。



写真BL: 上水のタンクがありました。 左に石灯籠(いしどうろう)があります。



写真BM: 平らな所があります。 城の曲輪(くるわ)と思われます。



写真BN: 狛犬(こまいぬ)が2つ見えます。



写真BO: 石灯籠(いしどうろう)と狛犬(こまいぬ)。



写真BP: コマイヌ、御手洗(みたらい)、お地蔵さんも見えています。



写真BQ: 御手洗(みたらい)、お地蔵様。



写真BR: 石灯籠(いしどうろう)など。



写真BS: 「おねがい 倒さないで! 私たちも痛いけど あなたの心はもっと痛いはず。 城山(じょうやま)の地蔵一同」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真BT: お地蔵様を彫(ほ)った石が多く並(なら)んでいます。 階段の左にお地蔵さんがあります。



写真BU: お地蔵様がある階段を上っていきます。



写真BV: お地蔵さんがある階段を登って行きます。



写真BW: お地蔵様がある階段を上っていきます。



写真BX: 階段の左端に「黒いチョウチョトンボ」が止まっていました。



写真BY: 左にお地蔵様がある長い階段を登っていきます。



写真BZ: わき道があります。



写真CA: わき道があります。



写真CB: 「ごみ等の投棄禁止」の看板があります。



写真CC: 登って来た階段を振り返ったもの。



写真CD: この左へのわき道を登ってみます。



写真CE: 休息所、ブランコなどが見えます。



写真CF: ブランコとその右に石像があります。 ここは平らになっています。
高城の曲輪(くるわ)があったところでしょう。



写真CG: お坊さん(僧)の石像。



写真CH: お坊さんの石像の下部。



写真CI: 楠(クスノキ)もあります。



写真CJ: 城山(じょうやま)の中腹にある楠(くすのき)。



写真CK: 城山(じょうやま)の中腹にある楠(くすのき)。



写真CL: ここは平らになっています。
高城の曲輪(くるわ)があったところでしょう。



写真CM: お坊さん(僧)の石像がある所から見た木城町。 左寄の茶色の建物は木城役場、小丸川の堤防、橋、小丸川の対岸に木城小学校、木城中学校も見えます。
南の台地は茶臼原台地で、石井記念友愛社があります。 岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、石井十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、明治27年に孤児25人らの開墾から始まった茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑などが茶臼原(ちゃうすばる)にあります。 石井十次は宮崎県 高鍋町の出身です。

遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。



写真CN: 小丸川、左端に東九州自動車道の橋が見えます。
遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。



写真CO: 小丸川、東九州自動車道の橋が見えます。



写真CP: お坊さん(僧)の石像がある所から見た木城町。 小丸川の堤防、橋、小丸川の対岸に木城小学校、木城中学校も見えます。
南の台地は茶臼原台地で、石井記念友愛社があります。 岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、石井十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、明治27年に孤児25人らの開墾から始まった茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑などが茶臼原(ちゃうすばる)にあります。 石井十次は宮崎県 高鍋町の出身です。



写真CQ: 左寄の茶色の建物は木城役場。
遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。
南の台地は茶臼原台地で、石井記念友愛社があります。 岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、石井十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、明治27年に孤児25人らの開墾から始まった茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑などが茶臼原(ちゃうすばる)にあります。 石井十次は宮崎県 高鍋町の出身です。



写真CR: 小丸川、高城橋、木城役場も見えます。
 遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。



写真CS: 小丸川が見えます。 遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。



写真CT: 小丸川と左に東九州自動車道の橋。



写真CU: 小丸川と東九州自動車道の橋。 橋の向こうに高鍋町の中心部が見えます。 高鍋町のNTTアンテナも見えています。



写真CV: この広場には見えているもう1本の道もあります。



写真CW: 高城の中腹の広場の周(まわ)り。



写真CX: 高城の中腹の広場の周(まわ)り。 石垣(いしがき)もあります。



写真CY: 階段の右にも平らな所があります。 これも高城の曲輪(くるわ)だと思われます。



写真CZ: 木城町にある城山公園の山頂に着きました。 木の後ろにメロディ時計台が見えます。



写真DA: 「お願い みんなで城山公園をきれいにしましょう。 一、園内の花木を大切にしましょう。 一、紙くず等は指定の場所に捨てましょう。 一、諸車は絶対に乗り入れないようにしましょう。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真DB: 石碑(せきひ)があります。 「光瀬文志 顕彰之碑」です。 



写真DC: 木城町の城山公園。



写真DD: 木城町の城山公園。



写真DE: 石碑(せきひ)。 「光瀬文志 顕彰之碑」です。 



写真DF: 「光瀬文志 顕彰之碑」です。



写真DG: 城山公園の石碑。



写真DH: 木城町の城山公園にある「六地蔵塔(ろくじぞうとう)」です。
登城道を登って左手にあります。



写真DI: 木城町の城山公園にある「六地蔵塔(ろくじぞうとう)」の上部。



写真DJ: 木城町の城山公園にある「六地蔵塔(ろくじぞうとう)」の中部。



写真DK: 木城町の城山公園にある「六地蔵塔(ろくじぞうとう)」の下部。



写真DL: この6面に6体の地蔵様が彫(ほ)ってあります。



写真DM: この6面に6体の地蔵様が彫(ほ)ってあります。



写真DN: この6面に6体の地蔵様が彫(ほ)ってあります。



写真DO: この台の上に「ウー」と鳴るサイレンがあります。 六地蔵塔の近くにあります。



写真DP: 木城町の城山公園にあるサイレン。 この台の上に「ウー」と鳴るサイレンがあります。 六地蔵塔の近くにあります。



写真DQ: 「電灯(電燈)奉納記念碑」があります。



写真DR: 石碑(せきひ)があります。



写真DS: サイレン(左)とその配電盤。



写真DT: 城山公園。



写真DU: テーブル、椅子(いす)があります。



写真DV: 木の向こうにメロディ時計台があります。



写真DW: 木城町にある城山公園の広場が見えます。



写真DX: 木城町にある城山公園の広場が見えます。 白く見えているものは新納観音(にいろかんのん)です。



写真DY: ベンチも見えます。 右端は登城道。



写真DZ: 登城道を登り切ったところ。



写真EA: 城山公園の新納観音(にいろかんのん)が見えます。



写真EB: 「新納観音(にいろかんのん)」と書いてあります。



写真EC: 木城町にある城山公園の「新納観音(にいろかんのん)」。



写真ED: 新納観音(にいろかんのん)の台座に「供養塔」と書いてあります。



写真EE: 「供養塔」の説明板。
木城町一帯は天正6年(1578年)、415年前、高城合戦(耳川合戦)で大友宗麟(そうりん)と島津義久の激戦地の跡地であります。 その戦いで約4000人とも7000人とも言われる人々が亡くなられたとのこと。
 今でも田んぼや畑の中、山の中いたる所に供養されていない戦没者の無縁墓がそのまま放置されているのを、木城町、川南町、高鍋町、西都市で見かけられます。 その供養されていない戦没者の霊の成仏とその魂を鎮(しず)ために供養塔を建立しました。
平成5年3月20日
と書かれています。



写真EF: 「供養塔」の説明板。
木城町一帯は天正6年(1578年)、415年前、高城合戦(耳川合戦)で大友宗麟(そうりん)と島津義久の激戦地の跡地であります。 その戦いで約4000人とも7000人とも言われる人々が亡くなられたとのこと。
 今でも田んぼや畑の中、山の中いたる所に供養されていない戦没者の無縁墓がそのまま放置されているのを、木城町、川南町、高鍋町、西都市で見かけられます。 その供養されていない戦没者の霊の成仏とその魂を鎮(しず)ために供養塔を建立しました。
平成5年3月20日
と書かれています。



写真EG: 「供養塔」の説明板。
木城町一帯は天正6年(1578年)、415年前、高城合戦(耳川合戦)で大友宗麟(そうりん)と島津義久の激戦地の跡地であります。 その戦いで約4000人とも7000人とも言われる人々が亡くなられたとのこと。
 今でも田んぼや畑の中、山の中いたる所に供養されていない戦没者の無縁墓がそのまま放置されているのを、木城町、川南町、高鍋町、西都市で見かけられます。 その供養されていない戦没者の霊の成仏とその魂を鎮(しず)ために供養塔を建立しました。
平成5年3月20日
と書かれています。



写真EH: 木城町 城山公園の「新納観音(にいろかんのん)」。



写真EI: 城山公園の「新納観音(にいろかんのん)」のそば。



写真EJ: 「新納観音(にいろかんのん)」から見た城山公園。 左はメロディ時計台。



写真EK: 「新納観音(にいろかんのん)」から見た城山公園。 メロディ時計台の左に当時の「古い井戸」があります。



写真EL: 「新納観音(にいろかんのん)」から見た城山公園。 奥に登城道、サイレン、六地蔵塔、石碑などがあります。



写真EM: 「新納観音(にいろかんのん)」の近く。



写真EN: 「新納観音(にいろかんのん)」の説明板など。



写真EO: ロウソク立て、水飲み場も見えます。



写真EP: 木城町 城山公園の「新納観音(にいろかんのん)」の下部。



写真EQ: 高城跡から木城温泉方向を見たもの。 1578年高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)のとき大友 軍が高城川(小丸川)の北にあるこの見えている川南台地に陣を造りました。 この台地に宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)があります。 島津 軍は高城川(小丸川)の南の台地に陣を造りました。 中央左寄りの竹の後ろの建物は木城温泉 ゆらら。



写真ER: 高城跡から木城温泉方向を見たもの。 1578年高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)のとき大友 軍が高城川(小丸川)の北にあるこの見えている川南台地に陣を造りました。 この台地に宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)があります。 島津 軍は高城川(小丸川)の南の台地に陣を造りました。 中央左寄りの竹の後ろの建物は木城温泉 ゆらら。



写真ES: 木城町 城山公園の「新納観音(にいろかんのん)」。 右奥はメロディ時計台。



写真ET: 木城町 城山公園の「新納観音(にいろかんのん)」。 右奥はメロディ時計台。



写真EU: 高城跡にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑。
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。  山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。 2大合戦での両軍の戦死者の霊を慰(なぐさ)めるために、この供養塔を建て併せて、山田新介有信と子息の山田昌厳の霊を慰めるものである。
と書かれています。



写真EV: 高城跡にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑。
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。  山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。 2大合戦での両軍の戦死者の霊を慰(なぐさ)めるために、この供養塔を建て併せて、山田新介有信と子息の山田昌厳の霊を慰めるものである。
と書かれています。



写真EW: 高城跡にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑。
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。  山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。 2大合戦での両軍の戦死者の霊を慰(なぐさ)めるために、この供養塔を建て併せて、山田新介有信と子息の山田昌厳の霊を慰めるものである。
と書かれています。



写真EX: 高城跡にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑。
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。  山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。 2大合戦での両軍の戦死者の霊を慰(なぐさ)めるために、この供養塔を建て併せて、山田新介有信と子息の山田昌厳の霊を慰めるものである。
と書かれています。



写真EY: 高城跡にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑。
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。  山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。 2大合戦での両軍の戦死者の霊を慰(なぐさ)めるために、この供養塔を建て併せて、山田新介有信と子息の山田昌厳の霊を慰めるものである。
と書かれています。



写真EZ: 高城跡にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑。
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。  山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。 2大合戦での両軍の戦死者の霊を慰(なぐさ)めるために、この供養塔を建て併せて、山田新介有信と子息の山田昌厳の霊を慰めるものである。
と書かれています。



写真FA: 高城跡にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑。
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。  山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。 2大合戦での両軍の戦死者の霊を慰(なぐさ)めるために、この供養塔を建て併せて、山田新介有信と子息の山田昌厳の霊を慰めるものである。
と書かれています。



写真FB: 高城の「井戸 跡(あと)」です。 メロディ時計台の少し東にあります。 今は埋(う)めてあります。



写真FC: 高城跡から北を見たもの。 田神地区の人家も見えています。 その右の台地は川南台地で、天正6年(1578年)の高城川合戦の時には大友軍の陣、天正15年(1587年)の豊臣の九州征伐(せいばつ)の時には豊臣秀長(秀吉の弟)の陣が構(かま)えられました。



写真FD: 高城跡から北を見たもの。 田神地区の人家も見えています。 その右の台地は川南台地で、天正6年(1578年)の高城川合戦の時には大友軍の陣、天正15年(1587年)の豊臣の九州征伐(せいばつ)の時には豊臣秀長(秀吉の弟)の陣が構(かま)えられました。



写真FE: 高城跡から北を見たもの。 田神地区の人家も見えています。 その右の台地は川南台地で、天正6年(1578年)の高城川合戦の時には大友軍の陣、天正15年(1587年)の豊臣の九州征伐(せいばつ)の時には豊臣秀長(秀吉の弟)の陣が構(かま)えられました。
遠くの山は尾鈴連山です。



写真FF: 高城跡から北を見たもの。 白いガードレールの所は「勝坂」です。 いかにも戦いに関係する名前が付いています。 勝坂のすぐ下に木城温泉 ゆらら があります。
見えている台地は川南台地で、天正6年(1578年)の高城川合戦の時には大友軍の陣、天正15年(1587年)の豊臣の九州征伐(せいばつ)の時には豊臣秀長(秀吉の弟)の陣が構(かま)えられました。



写真FG: 高城跡には藤棚(ふじだな)もあります。



写真FH: 高城跡から北を見たもの。 田神地区の人家も見えています。 その右の台地は川南台地で、天正6年(1578年)の高城川合戦の時には大友軍の陣、天正15年(1587年)の豊臣の九州征伐(せいばつ)の時には豊臣秀長(秀吉の弟)の陣が構(かま)えられました。
遠くの山は尾鈴連山です。



写真FI: 高城跡から北を見たもの。 田神地区の人家も見えています。 その右の台地は川南台地で、天正6年(1578年)の高城川合戦の時には大友軍の陣、天正15年(1587年)の豊臣の九州征伐(せいばつ)の時には豊臣秀長(秀吉の弟)の陣が構(かま)えられました。
遠くの山は尾鈴連山です。



写真FJ: 水飲み場があります。



写真FK: 宮崎県 児湯郡 木城町の「高城跡」。



写真FL: 木城町の「高城跡」。 城山公園になっていて子供の遊具もあります。 これは象の形をした滑り台。



写真FM: 木城町の「高城跡」。



写真FN: 宮崎県 児湯郡 木城町の「高城跡」。



写真FO: 木城町の「高城跡」。



写真FP: 宮崎県 児湯郡 木城町の「高城跡」。



写真FQ: 宮崎県 児湯郡 木城町の「高城跡」。 左奥に新納観音が見えます。



写真FR: 城山公園から南西方向を見た景色。 小丸川も見えます。
南の台地は茶臼原台地で、石井記念友愛社があります。 岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、石井十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、明治27年に孤児25人らの開墾から始まった茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑などが茶臼原(ちゃうすばる)にあります。 石井十次は宮崎県 高鍋町の出身です。



写真FS: 木城町の高城跡から南を見たもの。 小丸川が見えます。 遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。
南の台地は茶臼原台地で、石井記念友愛社があります。 岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、石井十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、明治27年に孤児25人らの開墾から始まった茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑などが茶臼原(ちゃうすばる)にあります。 石井十次は宮崎県 高鍋町の出身です。



写真FT: 木城町の城山公園から南東を見た眺望(ちょうぼう)。 小丸川が見えます。 遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。



写真FU: 城山公園のメロディ時計台。



写真FV: 「高城興亡記」の石碑(せきひ)のそばに御手洗(みたらい)があります。



写真FW: 「高城興亡記」の石碑(せきひ)。



写真FX: 「高城興亡記」の石碑(せきひ)。



写真FY: 「高城興亡記」の石碑(せきひ)。



写真FZ: テントが張ってありました。



写真GA: 「高城興亡記」の石碑(せきひ)。 奥はメロディ時計台。



写真GB: 「高城興亡記」の石碑(せきひ)。 「昭和46年7月吉日 木城村長 鶴田国利」と書いてあります。



写真GC: 高城跡。



写真GD: 「敷島の大和心を人問わば 朝日の匂う山ざくら花 平成11年1月吉日」と書いてある石碑があります。



写真GE: 「英霊」と書かれています。 石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真GF: 「英霊」と書かれています。 石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真GG: 高城跡の「忠魂之碑」。 「英霊」と書いてあります。



写真GH: 高城跡の「忠魂之碑」。 花が供(そな)えてあります。



写真GI: ソテツの木、石灯籠(いしどうろう)があります。



写真GJ: 城山公園(高城跡)の「忠魂之碑」。



写真GK: 城山公園(高城跡)の「忠魂之碑」と大きな木。



写真GL: 城山公園(高城跡)の「忠魂之碑」のそばの大きな木。



写真GM: 城山公園(高城跡)のメロディ時計台。 手前は桜の木。



写真GN: 城山公園(高城跡)のメロディ時計台の下部。



写真GO: 城山公園(高城跡)のメロディ時計台の上部。



写真GP: 城山公園(高城跡)のメロディ時計台の時計。



写真GQ: 城山公園(高城跡)のメロディ時計台の入り口。



写真GR: 中には階段があります。



写真GS: 階段を登って2階に上がります。



写真GT: メロディ時計台の2階。



写真GU: 2階から桜の木が見えます。



写真GV: メロディ時計台から北を見たもの。 田神地区などが見えています。



写真GW: 高城跡のメロディ時計台から南西を見たもの。 左上の丸いものは音楽が鳴るスピーカーです。



写真GX: 忠魂之碑とテントが見えます。 手前は桜の木。



写真GY: 忠魂之碑とテントが見えます。 手前は桜の木。



写真GZ: 音楽サイレンが四隅(よすみ)の角にあります。



写真HA: 2階の南側。



写真HB: 西を見たもの。 左の山の上にある携帯電話の鉄塔の右から2本目の所付近までが「高城跡」です。 高城跡は尾根沿いの長い形をしています。
忠魂之碑も見えます。



写真HC: 北西を見たもの。 尾鈴連山が見えます。



写真HD: 西を見たもの。



写真HE: 小丸川も見えます。 南西方向を見たもの。
 山の上にある携帯電話の鉄塔の右から2本目の所付近までが「高城跡」です。 高城跡は尾根沿いの長い形をしています。



写真HF: 高城跡のメロディ時計台から南を見た景色。 茶色の木城役場、小丸川も見えます。
遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。
南の台地は茶臼原台地で、石井記念友愛社があります。 岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、石井十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、明治27年に孤児25人らの開墾から始まった茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑などが茶臼原(ちゃうすばる)にあります。 石井十次は宮崎県 高鍋町の出身です。



写真HG: 高城跡のメロディ時計台から南東を見た景色。 左に東九州自動車道 高鍋インターチェンジそばの橋、小丸川、右端に茶色の木城役場などが見えます。 遠く南の台地は高城川合戦(耳川の戦い、島津-大友)のときに島津の陣地がありました。 また、その台地には豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)のときに、豊臣秀長の部下の宮部継潤が砦(とりで)を造りました(根白坂の戦い、豊臣-島津)。
1572年の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)の流れの中で見てみましょう。



写真HH: メロディ時計台の2階。



写真HI: メロディ時計台の2階。



写真HJ: 屋根の下に音楽サイレンのスピーカーが見えます。 外の木は桜です。



写真HK: 桜の木の向こうに尾鈴連山が見えます。



写真HL: 尾鈴連山が見えます。 北西を見たもの。



写真HM: 西を見たもの。 遠くの山は鹿遊連山です。 小丸川の右岸(下流を見て右)の山脈が鹿遊連山です。 鹿遊連山の石河内地区には「日向新しき村」があります。 「日向新しき村」は大正7年に文豪 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)がリーダーとなって理想の村をつくろうという信条で開墾されました。 そこは戦国時代に「石城(いしじょう)」という城があったところです。 そばに小丸川の川原ダムがあります。
携帯電話の鉄塔の右から2本目の所付近までが「高城跡」です。 高城跡は尾根沿いの長い形をしています。



写真HN: 南西方向を見たもの。 小丸川も見えます。



写真HO: 南方向を見たもの。 木城中学校、木城小学校も見えます。
南の台地は茶臼原台地で、石井記念友愛社があります。 岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、石井十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、明治27年に孤児25人らの開墾から始まった茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑などが茶臼原(ちゃうすばる)にあります。 石井十次は宮崎県 高鍋町の出身です。



写真HP: 木城町の中心部です。



写真HQ: 南方向を見たもの。 木城小学校、木城中学校、小丸川も見えます。 



写真HR: 木城役場付近の様子(ようす)。 小丸川の高城橋も見えます。



写真HS: 木城町の眺望(ちょうぼう)。



写真HT: 木城町の展望。 左端は東九州自動車道の橋。



写真HU: 高城跡からの展望。 南東方向を見たもの。 高鍋町のNTTの鉄塔、街並みも見えます。



写真HV: 木城町の家並み。



写真HW: 木城小学校、木城中学校、小丸川、茶臼原台地などが見えます。



写真HX: 見下ろした高城跡。 木は桜です。



写真HY: 音楽サイレンが軒(のき)の下にあります。



写真HZ: 高城跡のメロディ時計台の2階にある時計です。



写真IA: 音楽サイレン。



写真IB: メロディ時計台の2階。



写真IC: メロディ時計台の2階。 階段も見えます。



写真ID: メロディ時計台の2階。



写真IE: 城山公園にはジャングルジム、ゾウさんの滑(すべ)り台もあります。



写真IF: 木城町の城山公園(高城跡)。



写真IG: 「環境美化宣言の町 空き缶(かん)に思いで込めて 持ち帰り。 町の美化一人一人の心がけ 木城町」と書いてある看板があります。



写真IH: これが山の上にある駐車場です。



写真II: 水飲み場。



写真IJ: 山頂にある城山公園の駐車場。



写真IK: 駐車場の奥にトイレがあります。



写真IL: 下る階段があります。 このあたりに第1空堀がありました。



写真IM: 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板。



写真IN: 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板。
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。
高城 城跡 縄張図(八巻孝夫氏作図)
平成15年2月10日 木城町教育委員会
と書かれています。



写真IO: 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板。
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。
高城 城跡 縄張図(八巻孝夫氏作図)
平成15年2月10日 木城町教育委員会
と書かれています。



写真IP: 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板。
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。
高城 城跡 縄張図(八巻孝夫氏作図)
平成15年2月10日 木城町教育委員会
と書かれています。



写真IQ: 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板。
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。
高城 城跡 縄張図(八巻孝夫氏作図)
平成15年2月10日 木城町教育委員会
と書かれています。



写真IR: 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板。
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。
高城 城跡 縄張図(八巻孝夫氏作図)
平成15年2月10日 木城町教育委員会
と書かれています。



写真IS: 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板。
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。
高城 城跡 縄張図(八巻孝夫氏作図)
平成15年2月10日 木城町教育委員会
と書かれています。



写真IT: 高城城跡の駐車場。 絵地図の説明板が見えます。



写真IU: 高城城跡の駐車場。 左端にメロディ時計台が見えます。



写真IV: 高城城跡の駐車場から東を見たもの。



写真IW: トイレです。



写真IX: 左の道は尾根沿いに西方向に行きます。 右は駐車場。



写真IY: 尾根沿いの道です。 ここも高城跡です。



写真IZ: 長い尾根道が西に伸びています。



写真JA: 高城跡の尾根沿いの道です。 左右は崖(がけ)になっています。



写真JB: これは第2空堀のところに掛(か)かっている橋です。 空堀のV字型の溝(みぞ)が残っています。



写真JC: これは第2空堀のところに掛(か)かっている橋です。 空堀のV字型の溝(みぞ)が残っています。



写真JD: これは第3空堀のところに掛(か)かっている橋です。 空堀のV字型の溝(みぞ)が残っています。



写真JE: 手前の橋のところが第4空堀で、奥の橋が第5空堀のところです。



写真JF: 橋のところが第4空堀。



写真JG: 橋のところが第4空堀。



写真JH: 橋のところが第4空堀。



写真JI: 橋のところが第4空堀。



写真JJ: 橋のところが第5空堀。



写真JK: 尾根沿いの道が西に続いています。



写真JL: 橋のところが第5空堀。



写真JM: 奥に水分神社の鳥居(とりい)が見えてきました。 ここも高城跡です。



写真JN: 鳥居は水分神社。 左の階段を降りると観音堂があります。



写真JO: 右の階段を降りると観音堂があります。



写真JP: 「水分神社」と書いてあります。



写真JQ: 御手洗(みたらい)があります。



写真JR: 水分神社が見えます。



写真JS: 木城町の高城跡にある水分神社。



写真JT: 木城町の高城跡にある水分神社。 右は稲荷大明神(いなりだいみょうじん)です。



写真JU: 木城町の高城跡にある稲荷大明神(いなりだいみょうじん)です。



写真JV: 「正一位 稲荷大明神」と書いてあります。



写真JW: 神社の境内(けいだい)。



写真JX: 「水分神社建立記念碑、平成4年12月11日 竣工」と書いてある石碑(せきひ)があります。



写真JY: 古い石碑があります。



写真JZ: 尾根沿いの道です。 ここも高城跡です。



写真KA: 左に駐車場、絵地図の説明板(城山公園案内板)が見えてきました。



写真KB: 「城山公園案内板」。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真KC: 「城山公園案内板」。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真KD: 「城山公園案内板」。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真KE: 右に永山古墳(こふん)の説明板が見えます。



写真KF: 駐車場の真ん中に永山古墳(こふん)があります。



写真KG: 桜の木の間に永山古墳(こふん)が見えています。



写真KH: 宮崎県 木城町の高城跡に「永山古墳(こふん)」があります。



写真KI: 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板。
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。
永山古墳 横穴式石室 平面図、側壁、奥壁正面図
平成18年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KJ: 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板。
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。
永山古墳 横穴式石室 平面図、側壁、奥壁正面図
平成18年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KK: 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板。
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。
永山古墳 横穴式石室 平面図、側壁、奥壁正面図
平成18年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KL: 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板。
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。
永山古墳 横穴式石室 平面図、側壁、奥壁正面図
平成18年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KM: 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板。
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。
永山古墳 横穴式石室 平面図、側壁、奥壁正面図
平成18年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KN: 宮崎県 児湯郡 木城町の「永山古墳」。 城山公園(高城跡)にあります。



写真KO: 城山公園の駐車場。 永山古墳の説明板が見えます。



写真KP: 西側の城山公園入口の門があります。 手前は駐車場と永山古墳。



写真KQ: 西側の城山公園入口の門があります。 奥は駐車場と永山古墳。



写真KR: 「城山公園入口」と門に書いてあります。



写真KS: 門の外にも西に向かう尾根沿いの道があります。



写真KT: 「KDDI 木城永山 無線基地局」のアンテナがあります。 KDDIの携帯電話のアンテナ。



写真KU: 左はサツマイモの畑になっています。
「KDDI 木城永山 無線基地局」のアンテナがあります。 奥はNTTのアンテナ。



写真KV: 「KDDI 木城永山 無線基地局」のアンテナがあります。 手前のアンテナがKDDI、奥のアンテナがNTTのものです。



写真KW: 高城跡の尾根沿いの道。 NTTの携帯電話のアンテナが見えます。



写真KX: 「KDDI 木城永山 無線基地局。 当無線基地局に関する問い合わせは下記へご連絡お願いします。 KDDI株式会社 福岡テクニカルセンター」と書いてあります。



写真KY: 高城跡の西に向かう尾根沿いの道。



写真KZ: 「→城山公園」と書いてある看板(かんばん)と鏡が見えます。
ここは三叉路(さんさろ)になっています。 右奥に行くと高城跡に行きます。



写真LA: 「→城山公園」と書いてある看板(かんばん)と鏡が見えます。
ここは三叉路(さんさろ)になっています。



写真LB: 「NTT Do Co Mo」の携帯電話のアンテナがあります。



写真LC: 「NTT Do Co Mo」と書いてあります。



写真LD: このあたりは台地になっています。 手前はNTTの携帯電話のアンテナ。 先にももう一本のアンテナが見えます。 奥の山は木城町の山で、その右寄りに木城町の石河内に行く県道19号線が通っています。



写真LE: このあたりは台地になっています。 西方向を見た景色。



写真LF: これが木城町の石河内に行く県道19号線です。 左の山が低くなっているところ(谷)に木城町の石河内に行く県道19号線が通っています。
右はNTTの携帯電話のアンテナです。



写真LG: これが木城町の石河内に行く県道19号線です。 遠くの山が低くなっているところ(谷)に木城町の石河内に行く県道19号線が通っています。



写真LH: 県道19号線。 先に行くと木城町の中心部、手前は石河内に行きます。



写真LI: 「←中之又、石河内 方面(日向新しき村)」と書いてあります。



写真LJ: 「←城山公園入口」と書いてあります。



写真LK: 城山公園(高城跡)へは右の細い方の道を進みます。 NTTの携帯電話のアンテナ、県道19号線が見えます。



写真LL: NTTの携帯電話のアンテナ。



写真LM: 高城跡にノシランの花が咲いていました。



写真LN: 城山公園(高城跡)に花が咲いていました。 テイカカズラの花でしょうか。



写真LO: ノウゼンカズラの花が咲いていました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)