住吉神社 (梅の花) (宮崎市の展望、招魂山、忠霊塔、住吉牧場、フェニックス自然動物園)  (宮崎県 宮崎市 大字塩路、大字島之内、大字新名爪、大字広原)







<標高、位置>  住吉神社は
標高 約20 m
 北緯31度58分57秒  東経131度28分34秒

<標高、位置>  招魂山は
標高 約40 m
 北緯31度59分04秒  東経131度26分20秒


 住吉神社は宮崎県 宮崎市 大字塩路 3082にあります。
 「住吉神社」の説明板から、
御祭神 上筒男命 中筒男命 底筒男命 住吉三神という
 当地は、日向灘に望む沿岸に位置しており、「古事記」、「日本書紀」にイザナギ命がお亡くなりになったイザナミ命を慕(した)って、お入になった黄泉国より逃げ帰り、禊(みそげ)祓(はらい)をされたという「筑築(つくし)の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」の聖地である。 この時、アマテラスオオミカミを始め住吉三神 他多くの神々が誕生されている。
古歌 西のうみあおきヶはらの汐地(しおじ)より あわはれ出てし住吉の神 卜部兼直
 社殿の創建については、社伝によれば、第6代天皇 孝安天皇の御代(みよ)と伝えられており、創建より約2400年という由緒ある神社と言われている。 又、神社に古くから伝わる 丸の中に元 という社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。
古歌 尋ね来て聞けば心の住吉の 松はあをきが原の松原 橘三喜
 第14代天皇 仲哀天皇の皇后 神功皇后の三韓平定のおり、神威を輝かせた事は世に名高い。
住吉三社は、和歌の祖神、海陸交通の神、武運商運の神、農業安産の神又家内安全、国守の神として信仰が厚く古くより参拝者が絶えなかったが、社格は旧村社で終わっている。
例祭日 2月11日 (建国記念日)
平成4年元旦 住吉神社 社務所


写真A: 宮崎県 宮崎市 大字島之内の県道11号線です。 先(東)に進むと「住吉神社」があります。 手前に行くと国道10号線に行きます。
右の柵(さく)の中は宮崎大学 農学部 住吉牧場です。
この道は、第二次大戦前にはトロッコのレールが敷かれ、住吉神社の参拝客などを載せたトロッコが通っていました。 このトロッコは人が押して動くものでした。 日向住吉駅(当時は次郎ヶ別府 駅と呼んでいました。)から住吉神社までレールが敷かれていました。



写真B: 宮崎大学農学部 住吉牧場の正門です。 昭和4年7月に宮崎大学農学部の実習・研修の附属施設「住吉牧場」が出来ました。
宮崎市 大字島之内にあります。



写真C: 門柱に「宮崎大学農学部 住吉牧場」と書いてあります。



写真D: 門柱に「宮崎大学農学部付属 自然共生フィールド科学 教育研究センター 住吉フィールド(牧場)」と書いてあります。



写真E: 県道11号線。 白いガードレールの所に御手洗川が右から左へ流れています。



写真F: 御手洗川の上流方向(南)です。 遠くにシーガイアのオーシャン45の高層ホテルも見えています。



写真G: 「きれいにしよう御手洗川 ふるさとの川を大切に 宮崎市 新名爪川等河川浄化推進協議会」と書いてあります。



写真H: 先に行くと「住吉神社」があります。 第二次大戦前にはトロッコのレールが敷かれ、住吉神社の参拝客などを載せたトロッコが通っていました。 このトロッコは人が押して動くものでした。 日向住吉駅(当時は次郎ヶ別府 駅と呼んでいました。)から住吉神社までレールが敷かれていました。



写真I: 県道11号線にある道路標識。 県道11号線はこの先で右に直角に曲がっています。



写真J: この先に十字路「塩路(しおじ)」があります。 真っ直ぐ進むと住吉神社があります。 右奥にガソリンスタンドが見えます。



写真K: 「塩路」の十字路です。 真っ直ぐ細めの道を進むと住吉神社の一の鳥居(とりい)があります。 この十字路を右に行くと市民の森、シーガイアがあります。 左に進むと佐土原町に行きます。



写真L: 十字路に「塩路(しおじ)」と書いてあります。



写真M: この道を進むと住吉神社に行きます。



写真N: 奥に住吉神社の白い一の鳥居(とりい)が見えてきました。



写真O: 宮崎市 大字塩路にある住吉神社 一の鳥居。 この奥に住吉神社があります。



写真P: 一の鳥居に「総本社 住吉神社」と書いてある額(がく)があります。



写真Q: 「寄贈フェニックス国際観光株式会社 取締役社長 佐藤棟良」と書いてあります。



写真R: 「昭和46年12月吉日 建立(こんりゅう) 施工 森工務店」と書いてあります。



写真S: 中央奥に住吉神社があります。 左は宮崎市フェニックス自然動物園の入り口、右はフェニックスボール(ボーリング)の建物です。



写真T: 宮崎市にある住吉神社の二の鳥居(とりい)が見えています。



写真U: この道を進むとシーガイアがあります。 左の建物はフェニックスボーリング。



写真V: 「宮崎市 フェニックス自然動物園」と書いてあります。 フェニックス自然動物園の入り口です。 手前は駐車場。



写真W: 宮崎市にあるフェニックス自然動物園の駐車場。



写真X: 一の鳥居から北を見たもの。 フェニックスの木も見えます。



写真Y: 宮崎市にある住吉神社の二の鳥居とフェニックスボーリングの建物。



写真Z: 「宮崎市 フェニックス自然動物園」と書いてあります。 フェニックス自然動物園の入り口です。 手前は駐車場。



写真AA: 宮崎市にある住吉神社です。 住吉神社の二の鳥居。 「竣工 昭和61年11月吉日」と書いてあります。



写真AB: 「住吉神社」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。



写真AC: 奥に住吉神社の三の鳥居(とりい)。 国旗掲揚台、説明板も見えます。



写真AD: 「定 一、車馬を乗り入ること 一、立木 竹を採ること 一、鳥獣を捕獲すること 一、許可なく商行為をすること 右境内で禁止する 住吉神社」と書いてあります。



写真AE: 右は駐車場。



写真AF: 宮崎市にある住吉神社の駐車場、奥の建物は祖霊社、右の建物はトイレです。



写真AG: 駐車場。 二つの車の間の奥に慰霊碑(いれいひ)が見えます。 右の建物は祖霊社です。



写真AH: 駐車場の左に東に行く道があります。 こちらからも梅林、拝殿などに行くことが出来ます。



写真AI: トイレです。



写真AJ: 住吉神社にある「慰霊碑」です。



写真AK: 宮崎市にある住吉神社にある「慰霊碑」。



写真AL: 宮崎市にある住吉神社にある「慰霊碑の説明板」。
 住吉地区では、西南の役以来 太平洋戦争に至(いた)るまでの戦没者は363柱で、その御霊の慰霊碑が招魂山に建立されておりました。
 この招魂山は、住吉地区が一望できる風光明媚景勝の地であり、戦前、戦中、戦後を通じ野外教育の場として親しまれ、また慰霊祭もそれぞれの時代に相応して斎行されて参りました。
 しかし、平成5年の台風第13号による被害で拝道の決壊があり、その補修整備に多額の経費が必要となり、また遺族の高齢化、世代の移り変わり等により、参拝は勿論(もちろん)その管理等も充分出来なくなりました。
 このため、地区遺族会は拝道の補修整備を移転も含め自治会及(およ)び振興会に請願を致しました。 これを受け、当時の自治会長連絡協議会会長及び振興会会長の伊藤光男 氏を中心として、定例会及び理事会、また各種団体との合同協議会を開催して協議、検討を行いました結果、祖国の安泰と隆昌、恒久平和を念じつつ、戦後50年事業として平坦なこの地に、散華された方々の慰霊碑を地区住民の方々の浄財により新たに建立することになったのである。
平成8年3月吉日
と書かれています。



写真AM: 住吉神社にある「慰霊碑の説明板」。
 住吉地区では、西南の役以来 太平洋戦争に至(いた)るまでの戦没者は363柱で、その御霊の慰霊碑が招魂山に建立されておりました。
 この招魂山は、住吉地区が一望できる風光明媚景勝の地であり、戦前、戦中、戦後を通じ野外教育の場として親しまれ、また慰霊祭もそれぞれの時代に相応して斎行されて参りました。
 しかし、平成5年の台風第13号による被害で拝道の決壊があり、その補修整備に多額の経費が必要となり、また遺族の高齢化、世代の移り変わり等により、参拝は勿論(もちろん)その管理等も充分出来なくなりました。
 このため、地区遺族会は拝道の補修整備を移転も含め自治会及(およ)び振興会に請願を致しました。 これを受け、当時の自治会長連絡協議会会長及び振興会会長の伊藤光男 氏を中心として、定例会及び理事会、また各種団体との合同協議会を開催して協議、検討を行いました結果、祖国の安泰と隆昌、恒久平和を念じつつ、戦後50年事業として平坦なこの地に、散華された方々の慰霊碑を地区住民の方々の浄財により新たに建立することになったのである。
平成8年3月吉日
と書かれています。



写真AN: 住吉神社にある「慰霊碑の説明板」。
 住吉地区では、西南の役以来 太平洋戦争に至(いた)るまでの戦没者は363柱で、その御霊の慰霊碑が招魂山に建立されておりました。
 この招魂山は、住吉地区が一望できる風光明媚景勝の地であり、戦前、戦中、戦後を通じ野外教育の場として親しまれ、また慰霊祭もそれぞれの時代に相応して斎行されて参りました。
 しかし、平成5年の台風第13号による被害で拝道の決壊があり、その補修整備に多額の経費が必要となり、また遺族の高齢化、世代の移り変わり等により、参拝は勿論(もちろん)その管理等も充分出来なくなりました。
 このため、地区遺族会は拝道の補修整備を移転も含め自治会及(およ)び振興会に請願を致しました。 これを受け、当時の自治会長連絡協議会会長及び振興会会長の伊藤光男 氏を中心として、定例会及び理事会、また各種団体との合同協議会を開催して協議、検討を行いました結果、祖国の安泰と隆昌、恒久平和を念じつつ、戦後50年事業として平坦なこの地に、散華された方々の慰霊碑を地区住民の方々の浄財により新たに建立することになったのである。
平成8年3月吉日
と書かれています。



写真AO: 住吉神社にある「慰霊碑の説明板」。
 住吉地区では、西南の役以来 太平洋戦争に至(いた)るまでの戦没者は363柱で、その御霊の慰霊碑が招魂山に建立されておりました。
 この招魂山は、住吉地区が一望できる風光明媚景勝の地であり、戦前、戦中、戦後を通じ野外教育の場として親しまれ、また慰霊祭もそれぞれの時代に相応して斎行されて参りました。
 しかし、平成5年の台風第13号による被害で拝道の決壊があり、その補修整備に多額の経費が必要となり、また遺族の高齢化、世代の移り変わり等により、参拝は勿論(もちろん)その管理等も充分出来なくなりました。
 このため、地区遺族会は拝道の補修整備を移転も含め自治会及(およ)び振興会に請願を致しました。 これを受け、当時の自治会長連絡協議会会長及び振興会会長の伊藤光男 氏を中心として、定例会及び理事会、また各種団体との合同協議会を開催して協議、検討を行いました結果、祖国の安泰と隆昌、恒久平和を念じつつ、戦後50年事業として平坦なこの地に、散華された方々の慰霊碑を地区住民の方々の浄財により新たに建立することになったのである。
平成8年3月吉日
と書かれています。



写真AP: 住吉神社にある「慰霊碑の説明板」。
 住吉地区では、西南の役以来 太平洋戦争に至(いた)るまでの戦没者は363柱で、その御霊の慰霊碑が招魂山に建立されておりました。
 この招魂山は、住吉地区が一望できる風光明媚景勝の地であり、戦前、戦中、戦後を通じ野外教育の場として親しまれ、また慰霊祭もそれぞれの時代に相応して斎行されて参りました。
 しかし、平成5年の台風第13号による被害で拝道の決壊があり、その補修整備に多額の経費が必要となり、また遺族の高齢化、世代の移り変わり等により、参拝は勿論(もちろん)その管理等も充分出来なくなりました。
 このため、地区遺族会は拝道の補修整備を移転も含め自治会及(およ)び振興会に請願を致しました。 これを受け、当時の自治会長連絡協議会会長及び振興会会長の伊藤光男 氏を中心として、定例会及び理事会、また各種団体との合同協議会を開催して協議、検討を行いました結果、祖国の安泰と隆昌、恒久平和を念じつつ、戦後50年事業として平坦なこの地に、散華された方々の慰霊碑を地区住民の方々の浄財により新たに建立することになったのである。
平成8年3月吉日
と書かれています。



写真AQ: 住吉神社の末社 祖霊社です。 駐車場のそばにあります。



写真AR: 住吉神社の末社 祖霊社です。



写真AS: 「末社 祖霊社」と書いてあります。



写真AT: 住吉神社の石灯籠(いしどうろう)。 昭和3年2月11日に建立されました。



写真AU: 宮崎市にある住吉神社の石灯籠(いしどうろう)。 昭和3年2月11日に建立。



写真AV: 境内(けいだい)から二の鳥居の外を見たもの。 住吉神社の二の鳥居。 「竣工 昭和61年11月吉日」と書いてあります。



写真AW: 宮崎市にある住吉神社の石灯籠(いしどうろう)。 昭和3年2月11日に建立されました。
後ろの建物はフェニックス自然動物園の入り口です。



写真AX: 宮崎市にある住吉神社の三の鳥居、石碑(せきひ)、掲示板なども見えます。



写真AY: 三の鳥居、国旗掲揚台、住吉神社の説明板も見えます。



写真AZ: 左は住吉神社の説明板、奥は駐車場。 境内は黒松が多くあります。



写真BA: 石灯籠とクロマツ。



写真BB: 「住吉神社由緒」の説明板。
御祭神 上筒男命 中筒男命 底筒男命 住吉三神という
 当地は、日向灘に望む沿岸に位置しており、「古事記」、「日本書紀」にイザナギ命がお亡くなりになったイザナミ命を慕(した)って、お入になった黄泉国より逃げ帰り、禊(みそげ)祓(はらい)をされたという「筑築(つくし)の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」の聖地である。 この時、アマテラスオオミカミを始め住吉三神 他多くの神々が誕生されている。
古歌 西のうみあおきヶはらの汐地(しおじ)より あわはれ出てし住吉の神 卜部兼直
 社殿の創建については、社伝によれば、第6代天皇 孝安天皇の御代(みよ)と伝えられており、創建より約2400年という由緒ある神社と言われている。 又、神社に古くから伝わる 丸の中に元 という社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。
古歌 尋ね来て聞けば心の住吉の 松はあをきが原の松原 橘三喜
 第14代天皇 仲哀天皇の皇后 神功皇后の三韓平定のおり、神威を輝かせた事は世に名高い。
住吉三社は、和歌の祖神、海陸交通の神、武運商運の神、農業安産の神又家内安全、国守の神として信仰が厚く古くより参拝者が絶えなかったが、社格は旧村社で終わっている。
例祭日 2月11日 (建国記念日)
平成4年元旦 住吉神社 社務所
と書かれています。



写真BC: 「住吉神社由緒」の説明板。
御祭神 上筒男命 中筒男命 底筒男命 住吉三神という
 当地は、日向灘に望む沿岸に位置しており、「古事記」、「日本書紀」にイザナギ命がお亡くなりになったイザナミ命を慕(した)って、お入になった黄泉国より逃げ帰り、禊(みそげ)祓(はらい)をされたという「筑築(つくし)の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」の聖地である。 この時、アマテラスオオミカミを始め住吉三神 他多くの神々が誕生されている。
古歌 西のうみあおきヶはらの汐地(しおじ)より あわはれ出てし住吉の神 卜部兼直
 社殿の創建については、社伝によれば、第6代天皇 孝安天皇の御代(みよ)と伝えられており、創建より約2400年という由緒ある神社と言われている。 又、神社に古くから伝わる 丸の中に元 という社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。
古歌 尋ね来て聞けば心の住吉の 松はあをきが原の松原 橘三喜
 第14代天皇 仲哀天皇の皇后 神功皇后の三韓平定のおり、神威を輝かせた事は世に名高い。
住吉三社は、和歌の祖神、海陸交通の神、武運商運の神、農業安産の神又家内安全、国守の神として信仰が厚く古くより参拝者が絶えなかったが、社格は旧村社で終わっている。
例祭日 2月11日 (建国記念日)
平成4年元旦 住吉神社 社務所
と書かれています。



写真BD: 「住吉神社由緒」の説明板。
御祭神 上筒男命 中筒男命 底筒男命 住吉三神という
 当地は、日向灘に望む沿岸に位置しており、「古事記」、「日本書紀」にイザナギ命がお亡くなりになったイザナミ命を慕(した)って、お入になった黄泉国より逃げ帰り、禊(みそげ)祓(はらい)をされたという「筑築(つくし)の日向の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきがはら)」の聖地である。 この時、アマテラスオオミカミを始め住吉三神 他多くの神々が誕生されている。
古歌 西のうみあおきヶはらの汐地(しおじ)より あわはれ出てし住吉の神 卜部兼直
 社殿の創建については、社伝によれば、第6代天皇 孝安天皇の御代(みよ)と伝えられており、創建より約2400年という由緒ある神社と言われている。 又、神社に古くから伝わる 丸の中に元 という社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。
古歌 尋ね来て聞けば心の住吉の 松はあをきが原の松原 橘三喜
 第14代天皇 仲哀天皇の皇后 神功皇后の三韓平定のおり、神威を輝かせた事は世に名高い。
住吉三社は、和歌の祖神、海陸交通の神、武運商運の神、農業安産の神又家内安全、国守の神として信仰が厚く古くより参拝者が絶えなかったが、社格は旧村社で終わっている。
例祭日 2月11日 (建国記念日)
平成4年元旦 住吉神社 社務所
と書かれています。



写真BE: 住吉神社の境内(けいだい)。



写真BF: 境内にある石碑(せきひ)。



写真BG: 「誠心之碑」があります。
「誠心之碑」.
橘の小戸阿波岐原潮道の里に鎮座まします当 住吉神社はイザナギ尊の御禊(みそ)ぎの時生まれませる御神にして往古より開運航行の守護、武運商運の霊験あらたかにして遠近の崇敬篤く神功皇后 三韓へ御船出の際、守護神たる住吉三社の総本社なり。
 広大なる神域浜山150余町歩は明治初年 佐土原藩主 島津公より時の塩路領民39名に下付され共有地となりしを明治43年 神職 根井虎雄 氏の主導にて神社顕彰のため当神社に寄進さる。
 昭和43年浜山開発の議起こり委員会を結成協議1ヵ年翌44年5月本県出身 佐藤棟良 氏に開発の一切を託す。
 爾来1年有余40数億の巨費を投じ自然動物園遊園地ゴルフ場等の落成をみる。
 昭和46年3月24日皇族 高松宮同妃両殿下の御来臨を仰ぎ完工の式を挙ぐ。
 神徳高く時に氏子244戸なり。 今日繁栄の基礎となった浜山の地を寄進せし先賢各位に感謝の念を捧(ささ)げ永くその功績を伝ふ。
昭和46年5月吉日
と書かれています。



写真BH: 「誠心之碑」.
橘の小戸阿波岐原潮道の里に鎮座まします当 住吉神社はイザナギ尊の御禊(みそ)ぎの時生まれませる御神にして往古より開運航行の守護、武運商運の霊験あらたかにして遠近の崇敬篤く神功皇后 三韓へ御船出の際、守護神たる住吉三社の総本社なり。
 広大なる神域浜山150余町歩は明治初年 佐土原藩主 島津公より時の塩路領民39名に下付され共有地となりしを明治43年 神職 根井虎雄 氏の主導にて神社顕彰のため当神社に寄進さる。
 昭和43年浜山開発の議起こり委員会を結成協議1ヵ年翌44年5月本県出身 佐藤棟良 氏に開発の一切を託す。
 爾来1年有余40数億の巨費を投じ自然動物園遊園地ゴルフ場等の落成をみる。
 昭和46年3月24日皇族 高松宮同妃両殿下の御来臨を仰ぎ完工の式を挙ぐ。
 神徳高く時に氏子244戸なり。 今日繁栄の基礎となった浜山の地を寄進せし先賢各位に感謝の念を捧(ささ)げ永くその功績を伝ふ。
昭和46年5月吉日
と書かれています。



写真BI: 「誠心之碑」.
橘の小戸阿波岐原潮道の里に鎮座まします当 住吉神社はイザナギ尊の御禊(みそ)ぎの時生まれませる御神にして往古より開運航行の守護、武運商運の霊験あらたかにして遠近の崇敬篤く神功皇后 三韓へ御船出の際、守護神たる住吉三社の総本社なり。
 広大なる神域浜山150余町歩は明治初年 佐土原藩主 島津公より時の塩路領民39名に下付され共有地となりしを明治43年 神職 根井虎雄 氏の主導にて神社顕彰のため当神社に寄進さる。
 昭和43年浜山開発の議起こり委員会を結成協議1ヵ年翌44年5月本県出身 佐藤棟良 氏に開発の一切を託す。
 爾来1年有余40数億の巨費を投じ自然動物園遊園地ゴルフ場等の落成をみる。
 昭和46年3月24日皇族 高松宮同妃両殿下の御来臨を仰ぎ完工の式を挙ぐ。
 神徳高く時に氏子244戸なり。 今日繁栄の基礎となった浜山の地を寄進せし先賢各位に感謝の念を捧(ささ)げ永くその功績を伝ふ。
昭和46年5月吉日
と書かれています。



写真BJ: 「誠心之碑」.
橘の小戸阿波岐原潮道の里に鎮座まします当 住吉神社はイザナギ尊の御禊(みそ)ぎの時生まれませる御神にして往古より開運航行の守護、武運商運の霊験あらたかにして遠近の崇敬篤く神功皇后 三韓へ御船出の際、守護神たる住吉三社の総本社なり。
 広大なる神域浜山150余町歩は明治初年 佐土原藩主 島津公より時の塩路領民39名に下付され共有地となりしを明治43年 神職 根井虎雄 氏の主導にて神社顕彰のため当神社に寄進さる。
 昭和43年浜山開発の議起こり委員会を結成協議1ヵ年翌44年5月本県出身 佐藤棟良 氏に開発の一切を託す。
 爾来1年有余40数億の巨費を投じ自然動物園遊園地ゴルフ場等の落成をみる。
 昭和46年3月24日皇族 高松宮同妃両殿下の御来臨を仰ぎ完工の式を挙ぐ。
 神徳高く時に氏子244戸なり。 今日繁栄の基礎となった浜山の地を寄進せし先賢各位に感謝の念を捧(ささ)げ永くその功績を伝ふ。
昭和46年5月吉日
と書かれています。



写真BK: 「誠心之碑」.
橘の小戸阿波岐原潮道の里に鎮座まします当 住吉神社はイザナギ尊の御禊(みそ)ぎの時生まれませる御神にして往古より開運航行の守護、武運商運の霊験あらたかにして遠近の崇敬篤く神功皇后 三韓へ御船出の際、守護神たる住吉三社の総本社なり。
 広大なる神域浜山150余町歩は明治初年 佐土原藩主 島津公より時の塩路領民39名に下付され共有地となりしを明治43年 神職 根井虎雄 氏の主導にて神社顕彰のため当神社に寄進さる。
 昭和43年浜山開発の議起こり委員会を結成協議1ヵ年翌44年5月本県出身 佐藤棟良 氏に開発の一切を託す。
 爾来1年有余40数億の巨費を投じ自然動物園遊園地ゴルフ場等の落成をみる。
 昭和46年3月24日皇族 高松宮同妃両殿下の御来臨を仰ぎ完工の式を挙ぐ。
 神徳高く時に氏子244戸なり。 今日繁栄の基礎となった浜山の地を寄進せし先賢各位に感謝の念を捧(ささ)げ永くその功績を伝ふ。
昭和46年5月吉日
と書かれています。



写真BL: 中央奥に住吉神社の拝殿、右に手水舎(ちょうずや)、左に石碑などが見えます。



写真BM: 住吉神社の境内(けいだい)。



写真BN: 宮崎市にある住吉神社の境内。



写真BO: 住吉神社の境内(けいだい)。



写真BP: 宮崎市にある住吉神社の境内。



写真BQ: 「枇榔樹(びろうじゅ)」の石碑(せきひ)。 境内にビロウ樹を寄贈(きぞう)したときの石碑。



写真BR: 境内を拡張したときの石碑。



写真BS: 住吉神社の石灯籠(いしどうろう)。



写真BT: 「根井虎雄 君 彰徳碑」。 根井虎雄 氏については別の石碑から、
<広大なる神域浜山150余町歩は明治初年 佐土原藩主 島津公より時の塩路領民39名に下付され共有地となりしを明治43年 神職 根井虎雄 氏の主導にて神社顕彰のため当神社に寄進さる。>



写真BU: 宮崎市にある住吉神社の手水舎(ちょうずや)です。



写真BV: 住吉神社の御手洗(みたらい)。



写真BW: 宮崎市にある住吉神社の社務所です。



写真BX: 宮崎市にある住吉神社の社務所。



写真BY: 石碑があります。



写真BZ: 振り返って鳥居の方を見たもの。



写真CA: 宮崎市 大字塩路にある住吉神社の拝殿です。



写真CB: 石灯籠(いしどうろう)があります。



写真CC: 住吉神社の拝殿と石灯籠(いしどうろう)です。 石灯籠には昭和2年12月吉日と書いてあります。



写真CD: 石灯籠には昭和2年12月吉日と書いてあります。



写真CE: 宮崎市にある住吉神社の境内(けいだい)。 石灯籠(いしどうろう)に「住吉 大字島之内」と書いてあります。 昔は住吉村でした。



写真CF: 宮崎県 宮崎市 大字塩路にある住吉神社の拝殿です。
幟(のぼり)、幕などにに「丸に元の字」の社紋(しゃもん)があります。
この社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。



写真CG: 宮崎市 大字塩路にある住吉神社の拝殿です。
幟(のぼり)、幕などにに「丸に元の字」の社紋(しゃもん)があります。
この社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。



写真CH: 宮崎市にある住吉神社の境内。 2つの石碑と建物、外灯が見えます。



写真CI: 住吉神社の境内。 石碑(せきひ)と石灯籠(いしどうろう)、外灯も見えます。



写真CJ: 宮崎市にある住吉神社の拝殿と本殿(左奥)。



写真CK: 「住吉神社 社殿改築紀念碑」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)です。 昭和3年2月建立。



写真CL: 上の石碑の裏側です。 佐土原町 金20円 高橋辰吉 15円 長友勇太郎 10円 太田弥兵衛などと彫(ほ)られています。
昭和3年2月建立。



写真CM: 「住吉神社 社殿改築紀念碑」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)です。 昭和3年2月建立。



写真CN: 上の石碑の側面。 昭和2年1月起工 昭和3年2月竣功 総工費 壹(一)万貳(二)千拾(十)円 <12010円> と彫(ほ)ってあります。



写真CO: 宮崎市の住吉神社の境内。 建物と石碑。



写真CP: 住吉神社の境内。



写真CQ: 住吉神社の境内。



写真CR: ビロウ樹もあります。 檳榔樹(びろうじゅ)を寄贈したときの石碑も階段の下にあります。



写真CS: 宮崎市の住吉神社にあるビロウ樹。



写真CT: 拝殿のそばから鳥居の方向を見たもの。



写真CU: 遠くに赤い手水舎(ちょうずや)も見えます。



写真CV: 赤い色の手水舎(ちょうずや)。



写真CW: 御手洗(みたらい)。



写真CX: 南のほうから社殿を見たもの。



写真CY: 拝殿の右にある建物です。



写真CZ: 宮崎市にある住吉神社の拝殿。



写真DA: 左は住吉神社の拝殿。



写真DB: 宮崎市にある住吉神社の拝殿。 屋根のすぐ下の金色の部分に「丸に元の字」のここの住吉神社の社紋(しゃもん)が見えます。
この社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。
その下に彫り物(ほりもの)が見えます。 3個の鈴もあります。



写真DC: しめ縄と御幣(ごへい)も見えます。



写真DD: お賽銭箱(さいせんばこ)も見えます。



写真DE: 拝殿の下部です。



写真DF: 幕に「丸に元の字」の社紋(しゃもん)があります。
この社紋は全国2000余の住吉社の元宮である標(しるし)であると伝えられている。



写真DG: 3個の鈴があります。



写真DH: 鈴のひもです。



写真DI: 鈴のひもとお賽銭箱。



写真DJ: 宮崎県 宮崎市 大字塩路にある住吉神社の拝殿。



写真DK: 「住吉神社」と書いてある額(がく)があります。



写真DL: 拝殿の前。



写真DM: 拝殿の前の広場です。



写真DN: 拝殿のそばです。



写真DO: 拝殿の前の広場。



写真DP: 住吉神社の境内。



写真DQ: 拝殿の角です。



写真DR: 左は宮崎市にある住吉神社の本殿です。 右は拝殿。



写真DS: 拝殿の側面です。



写真DT: 住吉神社の拝殿の側面。



写真DU: 左は本殿、右は拝殿。



写真DV: 宮崎市にある住吉神社の本殿です。



写真DW: 宮崎市にある住吉神社の本殿の下部。



写真DX: 住吉神社の本殿の上部です。



写真DY: 住吉神社の本殿の中部です。



写真DZ: 右は本殿、中央奥は拝殿。



写真EA: 本殿の南にある建物です。



写真EB: 本殿の南にある建物。



写真EC: 本殿の裏に浜山の上に登る階段があります。



写真ED: 本殿の裏にある浜山の上に登る階段。



写真EE: 階段を登ったところの様子(ようす)。



写真EF: 階段を登ったところの様子。



写真EG: そこには梅林(梅園)があります。 紅梅が咲いていました。



写真EH: 浜山の一番高いところ付近です。 左に紅梅が見えます。



写真EI: 住吉神社の裏(南東)の紅梅です。



写真EJ: 宮崎市にある住吉神社の梅園です。 紅梅が咲いています。



写真EK: 梅林の裏(東)に金網があります。 これより東は宮崎市 フェニックス自然動物園になります。



写真EL: 宮崎県 宮崎市 大字塩路にある住吉神社の梅園です。



写真EM: 住吉神社の梅園です。



写真EN: 梅園のすぐ南側です。 黒松が多く生(は)えています。



写真EO: この道を下って行くと住吉神社の社殿、駐車場などに行きます。



写真EP: 赤い手水舎(ちょうずや)が見えてきました。



写真EQ: このクロマツ林の奥に慰霊碑、駐車場、トイレなどがあります。



写真ER: 奥に住吉神社の社殿があります。



写真ES: この道を下って行くと慰霊碑、駐車場、トイレなどがあります。



写真ET: 住吉神社や近くにはクロマツ林が続いています。 これは黒松の幹(みき)です。 右は赤い手水舎(ちょうずや)。



写真EU: 住吉神社の石垣(いしがき)と社殿。



写真EV: 住吉神社の境内。



写真EW: 宮崎市にある住吉神社の境内(けいだい)。 左の木はクスノキ。



写真EX: 住吉神社の石垣と社殿。



写真EY: 宮崎市にある住吉神社の二の鳥居(とりい)。 昭和61年11月建立。



写真EZ: 内から見た二の鳥居と外の景色です。



写真FA: 宮崎市にある住吉神社の二の鳥居。 「竣工 昭和61年11月吉日」と書いてあります。



写真FB: お神籤(おみくじ)が枝に縛ってあります。



写真FC: 住吉神社の駐車場。



写真FD: 宮崎市 大字島之内にある石崎川の支流 「住之江川」です。 この橋は湯取橋です。 遠くの白い建物は宮崎市立 住吉小学校です。 その左上の山が「招魂山(しょうこんやま)」です。 招魂山の上には住吉神社に移転する前の「慰霊碑(いれいひ)」があります。 招魂山の山頂にある大きな楠(くすのき)が見えています。



写真FE: 招魂山の付近。



写真FF: 招魂山。



写真FG: 招魂山。



写真FH: 招魂山の中腹から東を見たもの。 手前は住吉小学校、奥に宮崎日大中学校・高等学校の建物も見えます。



写真FI: 招魂山。



写真FJ: サイレンがあります。



写真FK: 招魂山。



写真FL: 招魂山(しょうこんやま)にある「忠霊塔(ちゅうれいとう)」、石碑(せきひ)、石灯籠(いしどうろう)などです。 一番古いものは左の日露戦争記念碑(明治39年4月1日建立)です。 中央の忠霊塔は昭和30年12月8日 建立。
この忠霊塔は平成8年に住吉神社の境内(けいだい)に新しい慰霊碑を造って移転しました。



写真FM: 招魂山。 右に大きな楠(クスノキ)が見えます。 招魂山から北を見たもの。 宮崎市 大字広原が見えます。 



写真FN: 招魂山にある大きな楠(くすのき)。



写真FO: 招魂山にある大きな楠(くすのき)。



写真FP: 手前に御手洗(みたらい)があります。 招魂山から北を見たもの。 左は宮崎市 大字広原、右は大字島之内が見えています。



写真FQ: 招魂山から北東を見た景色。 宮崎日大中学校・高等学校の建物も見えます。 その左に住吉中学校の建物も見えています。 農業用ビニールハウスも多く見えています。
宮崎市 大字島之内、奥は大字塩路が見えています。
手前左端は御手洗(みたらい)。



写真FR: 招魂山から東を見た景色。 右寄りにシーガイアのオーシャン45の高層ホテルが見えます。 宮崎市 大字島之内と奥の大字塩路、右の大字新名爪が見えています。 手前にサイレンを納(おさ)めるものがあります。



写真FS: 招魂山から南東を見た景色。 左奥の山は涅槃(ねはん、人があお向けに寝ている形)の形をしている山です。 左は大字島之内、右は大字新名爪が見えています。



写真FT: 招魂山から南を見たもの。 槙柱池の南にある山が見えます。



写真FU: 招魂山から南西を見たもの。



写真FV: 招魂山の山頂にある「忠霊塔」と石灯籠(いしどうろう)です。 昭和30年12月8日 建立。 この忠霊塔は平成8年に住吉神社の境内(けいだい)に新しい慰霊碑を造って移転しました。



写真FW: 招魂山から北を見た眺望(ちょうぼう)。 大字広原が見えます。 奥にトヨタ部品宮崎共販、日章学園高等学校の建物が見えています。
国道219号線が右に見えます。 国道219号線は先に行くと西都市、西米良村に行きます。 それ沿(ぞ)いにENEOS のガソリンスタンドが見えます。
農業用ビニールハウスも多く見えています。



写真FX: 招魂山から北東を見た景色。 右寄りに住吉中学校の建物が見えています。 手前の車道は国道219号線。 左端にENEOS のガソリンスタンドが見えます。
農業用ビニールハウスも多く見えています。



写真FY: 招魂山から東を見たもの。 宮崎日大中学校・高等学校の建物、その左に住吉中学校の建物が見えます。
右に大きな楠(くすのき)と忠霊塔(昭和30年12月8日 建立)も見えています。



写真FZ: 招魂山から東を見たもの。 大きな楠(クスノキ)、忠霊塔、石碑も見えます。



写真GA: 招魂山から南東を見たもの。


写真GB: 招魂山から南を見たもの。



写真GC: 招魂山から西を見たもの。



写真GD: 招魂山から北西を見たもの。 右端に人家も見えます。



写真GE: 「日華事変 太平洋戦争 記念碑」と書いてあります。



写真GF: 石灯籠(いしどうろう)に昭和30年12月(建立)と彫(ほ)ってあります。



写真GG: 招魂山の山頂にある「日露戦争記念碑」です。 明治39年4月1日 建立(こんりゅう)。



写真GH: 招魂山の山頂にある「日露戦争記念碑」。 明治39年4月1日 建立(こんりゅう)。



写真GI: 忠霊塔。 昭和30年12月8日 建立。



写真GJ: 忠霊塔銘。 忠霊塔の説明板です。 昭和30年12月8日 建立。



写真GK: 忠霊塔銘。 忠霊塔の説明板です。 昭和30年12月8日 建立。



写真GL: 招魂山にあるサイレンです。 すぐ下に住吉小学校、その先に宮崎日大中学校・高等学校の建物も見えます。 左奥に住吉中学校が見えています。 東を見たもの。



写真GM: 北を見た景色。 このあたりは宮崎市 大字広原 字麓(ふもと)です。
人家、農業用ビニールハウスも多く見えています。



写真GN: 招魂山から北を見た景色。 国道219号線が見えます。 手前にENEOSのガソリンスタンド、トヨタ部品共販、日章学園高等学校の建物も見えます。
農業用ビニールハウスも多く見えています。



写真GO: 招魂山から北を見たもの。 遠くの山には宮崎市 佐土原町の久峰観音、久峰総合公園、光陽台団地があります。
農業用ビニールハウスも多く見えています。



写真GP: 招魂山から北東を見た景色。 農業用集荷場(ピーマンなどの)、中央右寄りの遠くにKDDIの海底光ケーブルの塔も見えます。 住吉中学校のグラウンドも見えます。 遠くに日向灘(太平洋)が見えています。



写真GQ: 招魂山から東を見たもの。 右端に宮崎日大中学校・高等学校の建物も見えます。 中央左寄りに住吉中学校の建物が見えます。
遠くに日向灘(太平洋)が見えています。



写真GR: 招魂山から東を見た景色。 手前に住吉小学校、その奥に宮崎日大中学校・高等学校の建物も見えます。
遠くに日向灘(太平洋)が見えています。



写真GS: 遠くにサンホテル、その手前に獅子目整形外科も見えます。



写真GT: 遠く右端にフェニックスホテル、その左にサンホテル、その手前に獅子目整形外科の建物が見えます。



写真GU: 遠く右端にオーシャンドーム、その左にオーシャン45 高層ホテル、国際会議場サミット、その左に市民の森病院、その左にフェニックスホテルが見えます。 左端にオートバックス、その右にマックスバリュー、その手前に福山通運の建物が見えます。



写真GV: 招魂山から南東を見たもの。 遠くに左から国際会議場サミット、オーシャン45、オーシャンドームが見えます。 その右の山は「涅槃(ねはん、人があお向けに寝ている形)の形の山」です。 左から頭と顔、首、 胸、腹の形に似ています。



写真GW: 招魂山から南東を見たもの。 涅槃(ねはん)の形の山の左から胸、腹、足の部分が見えています。



写真GX: 招魂山から南を見たもの。 右手前に溜池(ためいけ)の槙柱池が見えています。



写真GY: 招魂山から南を見たもの。 槙柱池の南の山が見えます。



写真GZ: 招魂山の南の谷には溜池(ためいけ)の槙柱池があります。



写真HA: 招魂山の南の谷には溜池(ためいけ)の槙柱池があります。



写真HB: 招魂山から東を見たもの。



写真HC: 招魂山から南東を見たもの。 手前にサイレンがあります。



写真HD: 宮崎県 宮崎市 大字広原 字麓(ふもと)の集落から南にある招魂山を見たもの。 山頂にある大きな楠(クスノキ)、忠霊塔も見えています。



写真HE: 宮崎市 大字広原 字麓(ふもと)の集落から南にある招魂山を見たもの。 山頂にある大きな楠(クスノキ)、忠霊塔も見えています。



写真HF: 宮崎県 宮崎市 大字広原 字麓(ふもと)の集落にきれいなコスモスの花が咲いていました。



写真HG: 宮崎県 宮崎市 大字広原 836にある日章学園高等学校です。



写真HH: 宮崎市 大字広原 836にある日章学園高等学校の近くの店です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)