下三財神社(岩崎稲荷社) (六地蔵塔、しもさんざい神社、ろくじぞう塔)  (西都市大字下三財)







<標高、位置>  下三財神社(岩崎稲荷社)は
標高 約30 m
 北緯32度03分48秒  東経131度21分34秒


 下三財神社は宮崎県西都市大字下三財岩崎3462番にあります。
 三財川をはさんで都於郡城の対岸にある「下三財神社」の説明板から、
 下三財神社(岩崎稲荷)は宇迦能美玉の神大宮姫能神太田能神をお祀りする。 岩崎稲荷とも称する。 「人皇44代元明天皇御字和銅4年旧2月初午(はつうま)の旦、今より1267年前)に山城国紀伊郡稲荷山に出現し給う故に稲荷大明神と称す。 元徳2年伊東祐持 日向の国主として伊豆の国より初下向しこの神を奉携し来り。 この地に勧請すとあり。 稲荷神社御霊徳としては人間生活に最も密接なる衣食住の守護神として国民一般に親しまれる神でことに
初午祭では大神が初めて出現された縁日を祝うのでこの日は五穀豊穣家内安全商工業繁栄万の業務の成功さらにも交通安全の祈請あり。 また太田の神は寿福の神として寿命長久家富国栄諸々の幸福を満ちたらしめたまう。 神として全国的に崇敬の厚い神々でありこの三徳の神々を産土の神としてお祀りしてあるのが下三財神社であります。
 (看板から)伊東氏が1000石を社領として奉納しました。 明治4年の神社改正により「村社」となりました。
 祭典
元旦祭(新1月1日)、初午祭(旧2月初午日)、除蝮祭(新5月31日)、夏祭(旧6月24日)、秋祭(新11月23日)、大祓除夜祭(新12月31日)

 下三財神社(岩崎稲荷)の境内にある「岩崎稲荷六地蔵塔」の説明板から、
   市指定 昭和55年6月12日
 地蔵塔は室町初期から各地に建立された地蔵信仰の塔で、六角の笠塔形、上部に六地蔵を表した高さ3.5 mのものである。
 永禄12年(1569年)岩崎稲荷神社に参籠(さんろう、こもって祈願)し社殿で頓死(とんし)した都於郡城第11城主伊東義益(よします)を悼(いた)んで、義益の父 伊東三位入道義祐(よしすけ)が供養のために建立したものである。
 碑文(ひぶん)には「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」とあったが、後にこの地方を領した島津氏が「三州」をに加筆して「日州」にしたと伝えられている。 三州とは、日向国、大隅国、薩摩国を示し、桂圓(円)法光(けいえんほうこう)とは義益の戒名を表している。
 市内の石塔の中でも、建立年代、目的、作者が判明してるもので、伊東氏研究に欠かすことのできない貴重な資料である。


写真A: 六地蔵塔がある下三財神社(岩崎稲荷社、しもさんざい神社)は宮崎県西都市大字下三財岩崎3462番にあります。 この道の突き当たりを左に登ると下三財神社があります。 手前に行くと都於郡(とのこおり)、右に進むと鹿野田、左に進むと国富町に行きます。



写真B: 下三財神社へはガードレールがある坂道を左に上がります。 手前に行くと都於郡(とのこおり)、右に進むと鹿野田、左に進むと国富町に行きます。



写真C: 下三財神社へはガードレールがある坂道を左に上がります。 手前に行くと都於郡(とのこおり)、右に進むと鹿野田、左に進むと国富町に行きます。



写真D: 上の交差点の近くにバス停「稲荷下」があります。 先に進むと鹿野田に行きます。 見えている道路標識には「高鍋20 km、西都原古墳群9 km」と書いてあります。



写真E: バス停「稲荷下」。



写真F: 下三財神社へは右の坂道を登ります。



写真G: 左先に進むと都於郡(とのこおり)に行きます。



写真H: 先に進むと国富町に行きます。



写真I: 下三財神社(岩崎稲荷神社)と書いてある看板(かんばん)があります。



写真J: このあたりは坂道になっています。



写真K: 下三財神社へはこの坂道を登ります。



写真L: 坂の途中から振り返った景色。 右手の山に都於郡城跡(とのこおり城跡)があります。



写真M: 宮崎県西都市大字下三財岩崎3462番にある「下三財神社(しもさんざい神社)」。 鳥居(とりい)、階段、石碑(せきひ)、説明板も見えます。



写真N: 下三財神社の社殿も鳥居(とりい)の後ろに見えています。 左下に御手洗(みたらい)、右に説明板も見えます。



写真O: 下三財神社の鎮守(ちんじゅ)の森。



写真P: 下三財神社(岩崎稲荷神社)の説明板。



写真Q: 「下三財神社 祭典御案内」。



写真R: 下三財神社の階段。 手すりもあります。



写真S: 下三財神社の階段、手すり、鳥居、御手洗(みたらい)。



写真T: 下三財神社の御手洗(みたらい)。



写真U: 下三財神社の御手洗(みたらい)。



写真V: 下三財神社の御手洗(みたらい)。



写真W: 下三財神社の前の様子。



写真X: 下三財神社の前の様子。 奥のコンクリートの建物は相沢病院。



写真Y: 奥のコンクリートの建物は相沢病院。



写真Z: 下三財神社の前の景色。 先に進むと寒川(さぶかわ)などに行きます。



写真AA: 下三財神社の前の様子。



写真AB: 宮崎県西都市大字下三財岩崎3462番にある「下三財神社(しもさんざい神社)」。



写真AC: 下三財神社の境内(けいだい)。 手水舎(ちょうずや)も見えます。 ちょうど青いショベルカーが来ていました。



写真AD: ちょうど青いショベルカーが来ていました。



写真AE: 宮崎県西都市大字下三財にある下三財神社(岩崎稲荷)。 しめ縄、御幣(ごへい)、お賽銭箱(さいせんばこ)も見えます。



写真AF: 下三財神社の社殿。



写真AG: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)、石碑(せきひ)、石塔、説明板。



写真AH: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)、石碑(せきひ)、石灯籠(いしどうろう)、石塔、説明板。



写真AI: 下三財神社の境内。 鳥居(とりい)、階段、柵(さく)も見えています。



写真AJ: 下三財神社の鳥居(とりい)、階段、遠くに下三財の町並みが見えます。 奥のコンクリートの建物は相沢病院。



写真AK: 下三財神社の鳥居(とりい)、階段。



写真AL: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)、石碑(せきひ)、石塔、説明板。
地蔵塔は室町初期から各地に建立された地蔵信仰の塔で、六角の笠塔形、上部に六地蔵を表した高さ3.5 mのものである。
 永禄12年(1569年)岩崎稲荷神社に参籠(さんろう、こもって祈願)し社殿で頓死(とんし)した都於郡城第11城主伊東義益(よします)を悼(いた)んで、義益の父 伊東三位入道義祐(よしすけ)が供養のために建立したものである。
 碑文(ひぶん)には「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」とあったが、後にこの地方を領した島津氏が「三州」をに加筆して「日州」にしたと伝えられている。 三州とは、日向国、大隅国、薩摩国を示し、桂圓(円)法光(けいえんほうこう)とは義益の戒名を表している。
 市内の石塔の中でも、建立年代、目的、作者が判明してるもので、伊東氏研究に欠かすことのできない貴重な資料である。



写真AM: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の上部。



写真AN: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。 一番下の部分は後年セメントで土台が作られています。



写真AO: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の上部。



写真AP: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の中部。 上に六地蔵、下にサンスクリット語(梵語(ぼんご))の文字が彫(ほ)られています。 サンスクリットは古代インドの文語。



写真AQ: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。 サンスクリット語(梵語(ぼんご))の文字が彫(ほ)られています。 サンスクリットは古代インドの文語。



写真AR: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の上部。



写真AS: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の中部。 永禄12年の文字が見えます。



写真AT: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の中部。 永禄12年の文字が見えます。



写真AU: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。



写真AV: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の上部。



写真AW: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の中部。



写真AX: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。 サンスクリット語(梵語(ぼんご))の文字が彫(ほ)られています。 サンスクリットは古代インドの文語。



写真AY: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。



写真AZ: これが有名な「三州太守」の文字です。 もとは「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」と彫(ほ)られていました。 今は島津によって加筆され「三州」が「日州」になっています。 <この写真の字体>から、よくそれが分かります
 桂圓(円)法光(けいえんほうこう)は伊東善益(よします)の戒名です。 伊東義祐(よしすけ、室町時代)は日向侵略を図る島津に破れ、1577年(天正5年)に大分県(豊後)に逃れました。 それで、後にこの地を支配した島津が「三州」に加筆して「日州」にしたと伝えられています。
 この六地蔵塔は都於郡城(本拠地)を世継ぎの善益(よします)にゆずり(1562年(永禄5年))、佐土原城に居た伊東義祐(よしすけ)が建てたものです。 善益(よします)はこの下三財神社に籠(こ)もって祈願中に24歳で急死しました。 これを供養するために立てられた六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)で、「三州」は日向(ひゅうが)、大隈(おおすみ)、薩摩(さつま)を指(さ)します。 太守は国主大名の意味です。
 (伊東義祐は三州制覇を願って三州の太守を自称していました。 1552年(天文21年)に佐土原小学校の隣の所に建てられた金柏寺(きんぱく寺)の鐘(かね)の銘文にも自己を「日薩隈三州ノ太守」と記しています。 金柏寺(京都金閣寺になぞらえたと言われています)の鐘は「三州太守」の銘文を島津藩が嫌ってはずされていました。 この鐘は江戸時代末期(1863年)に大砲に鋳造(ちゅうぞう)するため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出されました。 薩英戦争のイギリス艦隊の攻撃で鹿児島の海岸に沈みましたが、後年引き上げられたそうです。)



写真BA: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の中部。



写真BB: 三財川をはさんで都於郡城の対岸にある下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の中部。
これが有名な「三州太守」の文字です。 もとは「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」と彫(ほ)られていました。 今は島津によって加筆され「三州」が「日州」になっています。 <この写真の字体>から、よくそれが分かります
 桂圓(円)法光(けいえんほうこう)は伊東善益(よします)の戒名です。 伊東義祐(よしすけ、室町時代)は日向侵略を図る島津に破れ、1577年(天正5年)に大分県(豊後)に逃れました。 それで、後にこの地を支配した島津が「三州」に加筆して「日州」にしたと伝えられています。
 この六地蔵塔は都於郡城(本拠地)を世継ぎの善益(よします)にゆずり(1562年(永禄5年))、佐土原城に居た伊東義祐(よしすけ)が建てたものです。 善益(よします)はこの下三財神社に籠(こ)もって祈願中に24歳で急死しました。 これを供養するために立てられた六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)で、「三州」は日向(ひゅうが)、大隈(おおすみ)、薩摩(さつま)を指(さ)します。 太守は国主大名の意味です。
 (伊東義祐は三州制覇を願って三州の太守を自称していました。 1552年(天文21年)に佐土原小学校の隣の所に建てられた金柏寺(きんぱく寺)の鐘(かね)の銘文にも自己を「日薩隈三州ノ太守」と記しています。 金柏寺(京都金閣寺になぞらえたと言われています)の鐘は「三州太守」の銘文を島津藩が嫌ってはずされていました。 この鐘は江戸時代末期(1863年)に大砲に鋳造(ちゅうぞう)するため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出されました。 薩英戦争のイギリス艦隊の攻撃で鹿児島の海岸に沈みましたが、後年引き上げられたそうです。)



写真BC: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の中部。



写真BD: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。



写真BE: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。



写真BF: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部と説明板。



写真BG: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の下部。



写真BH: 下三財神社の境内にある六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)の上部と説明板。



写真BI: 「岩崎稲荷六地蔵塔」の説明板。
市指定 昭和55年6月12日
 地蔵塔は室町初期から各地に建立された地蔵信仰の塔で、六角の笠塔形、上部に六地蔵を表した高さ3.5 mのものである。
 永禄12年(1569年)岩崎稲荷神社に参籠(さんろう、こもって祈願)し社殿で頓死(とんし)した都於郡城第11城主伊東義益(よします)を悼(いた)んで、義益の父 伊東三位入道義祐(よしすけ)が供養のために建立したものである。
 碑文(ひぶん)には「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」とあったが、後にこの地方を領した島津氏が「三州」をに加筆して「日州」にしたと伝えられている。 三州とは、日向国、大隅国、薩摩国を示し、桂圓(円)法光(けいえんほうこう)とは義益の戒名を表している。
 市内の石塔の中でも、建立年代、目的、作者が判明してるもので、伊東氏研究に欠かすことのできない貴重な資料である。
と書かれています。



写真BJ: 「岩崎稲荷六地蔵塔」の説明板。
市指定 昭和55年6月12日
 地蔵塔は室町初期から各地に建立された地蔵信仰の塔で、六角の笠塔形、上部に六地蔵を表した高さ3.5 mのものである。
 永禄12年(1569年)岩崎稲荷神社に参籠(さんろう、こもって祈願)し社殿で頓死(とんし)した都於郡城第11城主伊東義益(よします)を悼(いた)んで、義益の父 伊東三位入道義祐(よしすけ)が供養のために建立したものである。
 碑文(ひぶん)には「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」とあったが、後にこの地方を領した島津氏が「三州」をに加筆して「日州」にしたと伝えられている。 三州とは、日向国、大隅国、薩摩国を示し、桂圓(円)法光(けいえんほうこう)とは義益の戒名を表している。
 市内の石塔の中でも、建立年代、目的、作者が判明してるもので、伊東氏研究に欠かすことのできない貴重な資料である。
と書かれています。



写真BK: 「岩崎稲荷六地蔵塔」の説明板。
市指定 昭和55年6月12日
 地蔵塔は室町初期から各地に建立された地蔵信仰の塔で、六角の笠塔形、上部に六地蔵を表した高さ3.5 mのものである。
 永禄12年(1569年)岩崎稲荷神社に参籠(さんろう、こもって祈願)し社殿で頓死(とんし)した都於郡城第11城主伊東義益(よします)を悼(いた)んで、義益の父 伊東三位入道義祐(よしすけ)が供養のために建立したものである。
 碑文(ひぶん)には「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」とあったが、後にこの地方を領した島津氏が「三州」をに加筆して「日州」にしたと伝えられている。 三州とは、日向国、大隅国、薩摩国を示し、桂圓(円)法光(けいえんほうこう)とは義益の戒名を表している。
 市内の石塔の中でも、建立年代、目的、作者が判明してるもので、伊東氏研究に欠かすことのできない貴重な資料である。
と書かれています。



写真BL: 伊東が造ったときには「三州」だったものが、後に島津によって「日州」に加筆されました。 写真の一番上に見えている文字に注目してください。
 これが有名な「三州太守」の文字です。 もとは「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」と彫(ほ)られていました。 今は島津によって加筆され「三州」が「日州」になっています。 <この写真の字体>から、よくそれが分かります
 桂圓(円)法光(けいえんほうこう)は伊東善益(よします)の戒名です。 伊東義祐(よしすけ、室町時代)は日向侵略を図る島津に破れ、1577年(天正5年)に大分県(豊後)に逃れました。 それで、後にこの地を支配した島津が「三州」に加筆して「日州」にしたと伝えられています。
 この六地蔵塔は都於郡城(本拠地)を世継ぎの善益(よします)にゆずり(1562年(永禄5年))、佐土原城に居た伊東義祐(よしすけ)が建てたものです。 善益(よします)はこの下三財神社に籠(こ)もって祈願中に24歳で急死しました。 これを供養するために立てられた六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)で、「三州」は日向(ひゅうが)、大隈(おおすみ)、薩摩(さつま)を指(さ)します。 太守は国主大名の意味です。
 (伊東義祐は三州制覇を願って三州の太守を自称していました。 1552年(天文21年)に佐土原小学校の隣の所に建てられた金柏寺(きんぱく寺)の鐘(かね)の銘文にも自己を「日薩隈三州ノ太守」と記しています。 金柏寺(京都金閣寺になぞらえたと言われています)の鐘は「三州太守」の銘文を島津藩が嫌ってはずされていました。 この鐘は江戸時代末期(1863年)に大砲に鋳造(ちゅうぞう)するため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出されました。 薩英戦争のイギリス艦隊の攻撃で鹿児島の海岸に沈みましたが、後年引き上げられたそうです。)



写真BM: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内にある石碑と石塔。



写真BN: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真BO: 下三財神社(岩崎稲荷)の社殿。



写真BP: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真BQ: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿(右)と拝殿。



写真BR: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿(右)と拝殿。



写真BS: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿。



写真BT: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿(右)と拝殿。



写真BU: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿(右)と拝殿。



写真BV: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿。



写真BW: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿。



写真BX: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿。



写真BY: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿。



写真BZ: 下三財神社(岩崎稲荷)の大将軍神社(左)、本殿(中央)、拝殿(右)。



写真CA: 下三財神社(岩崎稲荷)の大将軍神社(左)、本殿(中央)、拝殿(右)。



写真CB: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿(左)、拝殿(右)。



写真CC: 下三財神社(岩崎稲荷)の拝殿。



写真CD: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真CE: 下三財神社(岩崎稲荷)の大将軍神社(左)、本殿(右)。



写真CF: 下三財神社(岩崎稲荷)の大将軍神社。



写真CG: 下三財神社(岩崎稲荷)の大将軍神社。



写真CH: 下三財神社(岩崎稲荷)の大将軍神社と石碑(せきひ)。



写真CI: 古い社殿の瓦(かわら)が積んでありました。



写真CJ: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。 手前に石碑も見えます。



写真CK: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。 柵(さく)も見えます。



写真CL: ゴミ焼き場もありました。



写真CM: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。 ショベルカーもありました。



写真CN: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真CO: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真CP: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。 竹林もあります。



写真CQ: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真CR: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真CS: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真CT: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真CU: ここからも境内に入ることが出来ます。 左はショベルカー。



写真CV: ここからも境内に入ることが出来ます。 左はショベルカー。



写真CW: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿。 本殿に赤い狛犬(こまいぬ)があります。



写真CX: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿。 本殿に赤い狛犬(こまいぬ)があります。



写真CY: 下三財神社(岩崎稲荷)の本殿の屋根には「丸に十の字」の島津の家紋が見えています。



写真CZ: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内。



写真DA: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内にある大きな楠(くすのき)。



写真DB: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内にある石碑(せきひ)。



写真DC: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内にある石塔。



写真DD: 下三財神社(岩崎稲荷)の境内にある手水舎(ちょうずや)と神社の説明板。



写真DE: 「下三財神社の案内」の看板(かんばん)。
 当神社は宇迦能美玉の神大宮姫能神太田能神をお祀りする。 岩崎稲荷とも称する。 「人皇44代元明天皇御字和銅4年旧2月初午(はつうま)の旦、今より1267年前)に山城国紀伊郡稲荷山に出現し給う故に稲荷大明神と称す。 元徳2年伊東祐持 日向の国主として伊豆の国より初下向しこの神を奉携し来り。 この地に勧請すとあり。 稲荷神社御霊徳としては人間生活に最も密接なる衣食住の守護神として国民一般に親しまれる神でことに
初午祭では大神が初めて出現された縁日を祝うのでこの日は五穀豊穣家内安全商工業繁栄万の業務の成功さらにも交通安全の祈請あり。 また太田の神は寿福の神として寿命長久家富国栄諸々の幸福を満ちたらしめたまう。 神として全国的に崇敬の厚い神々でありこの三徳の神々を産土の神としてお祀りしてあるのが下三財神社であります。
祭典
元旦祭(新1月1日)、初午祭(旧2月初午日)、除蝮祭(新5月31日)、夏祭(旧6月24日)、秋祭(新11月23日)、大祓除夜祭(新12月31日)
と書かれています。



写真DF: 「下三財神社の案内」の看板(かんばん)。
 当神社は宇迦能美玉の神大宮姫能神太田能神をお祀りする。 岩崎稲荷とも称する。 「人皇44代元明天皇御字和銅4年旧2月初午(はつうま)の旦、今より1267年前)に山城国紀伊郡稲荷山に出現し給う故に稲荷大明神と称す。 元徳2年伊東祐持 日向の国主として伊豆の国より初下向しこの神を奉携し来り。 この地に勧請すとあり。 稲荷神社御霊徳としては人間生活に最も密接なる衣食住の守護神として国民一般に親しまれる神でことに
初午祭では大神が初めて出現された縁日を祝うのでこの日は五穀豊穣家内安全商工業繁栄万の業務の成功さらにも交通安全の祈請あり。 また太田の神は寿福の神として寿命長久家富国栄諸々の幸福を満ちたらしめたまう。 神として全国的に崇敬の厚い神々でありこの三徳の神々を産土の神としてお祀りしてあるのが下三財神社であります。
祭典
元旦祭(新1月1日)、初午祭(旧2月初午日)、除蝮祭(新5月31日)、夏祭(旧6月24日)、秋祭(新11月23日)、大祓除夜祭(新12月31日)
と書かれています。



写真DG: 「下三財神社の案内」の看板(かんばん)。
 当神社は宇迦能美玉の神大宮姫能神太田能神をお祀りする。 岩崎稲荷とも称する。 「人皇44代元明天皇御字和銅4年旧2月初午(はつうま)の旦、今より1267年前)に山城国紀伊郡稲荷山に出現し給う故に稲荷大明神と称す。 元徳2年伊東祐持 日向の国主として伊豆の国より初下向しこの神を奉携し来り。 この地に勧請すとあり。 稲荷神社御霊徳としては人間生活に最も密接なる衣食住の守護神として国民一般に親しまれる神でことに
初午祭では大神が初めて出現された縁日を祝うのでこの日は五穀豊穣家内安全商工業繁栄万の業務の成功さらにも交通安全の祈請あり。 また太田の神は寿福の神として寿命長久家富国栄諸々の幸福を満ちたらしめたまう。 神として全国的に崇敬の厚い神々でありこの三徳の神々を産土の神としてお祀りしてあるのが下三財神社であります。
祭典
元旦祭(新1月1日)、初午祭(旧2月初午日)、除蝮祭(新5月31日)、夏祭(旧6月24日)、秋祭(新11月23日)、大祓除夜祭(新12月31日)
と書かれています。



写真DH: 下三財神社の手水舎(ちょうずや)。



写真DI: 下三財神社の手水舎(ちょうずや)。



写真DJ: 下三財神社の石塔など。



写真DK: 下三財神社のお賽銭箱(おさいせんばこ)。



写真DL: 下三財神社の鈴と看板(かんばん)。



写真DM: 下三財神社の中。



写真DN: 下三財神社の中。



写真DO: 下三財神社の中。



写真DP: 下三財神社の看板と鈴。 看板には伊東氏が1000石を社領として奉納したこと、明治4年の神社改正により「村社」となったことなどが書かれています。



写真DQ: 下三財神社の看板と鈴。 看板には伊東氏が1000石を社領として奉納したこと、明治4年の神社改正により「村社」となったことなどが書かれています。



写真DR: 下三財神社の看板と鈴。 看板には伊東氏が1000石を社領として奉納したこと、明治4年の神社改正により「村社」となったことなどが書かれています。



写真DS: 下三財神社の看板と鈴。 看板には伊東氏が1000石を社領として奉納したこと、明治4年の神社改正により「村社」となったことなどが書かれています。



写真DT: 下三財神社の階段と鳥居。



写真DU: 下三財神社のもう一つの入り口。 坂になっています。



写真DV: 下三財神社のもう一つの入り口。 坂になっています。



写真DW: 桜の花が見えます。



写真DX: 下三財神社の前に桜が咲いていました。



写真DY: 下三財神社のもう一つの入り口。 坂になっています。



写真DZ: 遠くに見える山の上に「都於郡城(とのこおり城)」があります。



写真EA: 山の上の平に見えるところが「都於郡城(とのこおり城)跡」です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)