島津寒天工場跡 (しまづかんてんこうじょうあと)、新燃岳の噴煙、霧島山の展望 (霧島連山の展望、霧島山系の展望) (宮崎県 都城市 山之口町 山之口 永野)
<標高、位置> 島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)は
標高 約160 m
北緯31度50分21秒 東経131度09分24秒
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 永野 1640 番地にあります。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板から、
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
「霧島山(霧島連山、霧島山系)の展望」
県道422号線の途中(とちゅう)に、霧島山を美しく見ることが出来るスポットがあります。 ちょうど新燃岳の噴煙が見えました。
霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、中岳(なかだけ、1332.4 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えます。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
写真A: 国道269号線の山之口町麓(ふもと)交差点です。 国道269号線と県道422号線の標識があります。
写真B: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」へ行くにはこの交差点を左(北西)に曲がります。
寒天とは食べるカンテンです。
国道269号線を先(北東)に進むと人形の館、道の駅 山之口、青井岳温泉(青井岳荘)、青井岳自然公園、田野町、清武町、宮崎市の中心部に行きます。 手前に行くと山之口総合支所などがあります。
写真C: 右先に行くと山之口総合支所などがあります。
写真D: ガソリンスタンドの脇(わき)の県道422号線を北西に進んで「島津寒天工場跡」に行きます。
ここ(麓交差点)から約 6 km 先に「島津寒天工場」があります。 山之口町の永野という地区に「島津寒天工場」はあります。
写真E: この県道422号線を約 6 kmだけ北西に進んで島津寒天工場跡へ行きます。
写真F: 左に「↑島津寒天工場跡 2.4 km 県道直進」と書いてある標識があります。
写真G: 「↑島津寒天工場跡 2.4 km 県道直進」と書いてある標識があります。
写真H: 奥に左に曲がる道が小さく見えています。 島津寒天工場へはそこを左に曲がります。 永野川の永野橋の手すりが見えます。 県道422号線。
写真I: 来た県道422号線を振(ふ)り返ったもの。
写真J: 永野地区の人家も見えます。 県道422号線。
写真K: 永野地区の人家も見えます。
写真L: 県道422号線。
写真M: 永野川の永野橋に「平成3年3月竣工(しゅんこう)」と書いてあります。 奥に左への曲がり角にある建物が見えます。
写真N: 永野川が奥に見えています。
写真O: 「永野橋」と書いてあります。
写真P: 永野川と書いてあります。
写真Q: ここの細い道を左に曲がります。 広い道は県道422号線です。 角(かど)にこのような建物があります。
写真R: 左に曲がる道の付近の様子(ようす)です。
写真S: 左に曲がる角にある建物です。 これも目印になります。
写真T: 左に曲がるところに「←島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」の標識があります。
写真U: 「←島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」の標識。
写真V: 県道422号線から左に曲がるところの付近です。 ミラーもあります。
写真W: 左に曲がるところの付近です。 ミラーもあります。
写真X: 来た県道422号線を振り返ったもの。 永野川の永野橋が見えています。
写真Y: 来た県道422号線を振り返ったもの。
写真Z: 「←島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」の標識があります。
写真AA: 「←島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」の標識があります。
写真AB: この道を先に進んで島津寒天工場跡へ行きます。
写真AC: この道を先に進んで島津寒天工場跡へ行きます。
写真AD: 右手に墓場が見えます。
写真AE: 墓地などが見えます。
写真AF: 右に墓地が見えます。
写真AG: 永野共同墓地です。
写真AH: 来た細い道を振り返ったもの。
写真AI: 角の建物です。 振り返ったもの。
写真AJ: 県道422号線から細い道への曲がり角(かど)。 振り返ったもの。
写真AK: 永野共同墓地の石碑(せきひ)
記念碑
この大丸の地にある墓地は400有余年にわたる古き歴史をもつ誇り高きものにて我等の祖先が時代の流れと共に世を後世に譲(ゆず)り現在に至るものである。 ここに区民一同、幾多の困難を克服(こくふく)し納骨墓を建設し祖先の御霊を安置し区民の繁栄を永久に守り賜(たま)えとここに祈念(きねん)するものである。
昭和52年8月1日 永野共同墓地建設委員会
と彫(ほ)ってあります。
写真AL: この道を進んで島津寒天工場跡に行きます。
写真AM: 左に島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)の建物が見えてきました。
写真AN: 島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)の建物のそばに駐車場もあります。
寒天とは食べるカンテンです。
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 永野 1640 番地にあります。
写真AO: 島津寒天工場跡のそばには畑があります。
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 永野 1640 番地にあります。
写真AP: かなり広い畑になっています。
写真AQ: 広い畑になっています。
写真AR: 島津寒天工場跡は2棟の建物があります。 これは1つ目の小さい建物のほうです。
写真AS: 1つ目の小さい建物です。 島津寒天工場跡。
写真AT: 「島津寒天工場跡」の1つ目の小さい建物の内部です。
寒天とは食べるカンテンです。 竃(かまど、その上に鍋(なべ)、釜(かま)をかけ、その下で火を燃(も)やします。)が2つ見えます。 それぞれの左に火の焚(た)き口の穴があります。 中央右からテーブル、椅子(いす)の置いてあるところに降ります。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真AU: 「島津寒天工場跡」の1つ目の小さい建物の内部です。 竃(かまど、その上に鍋(なべ)、釜(かま)をかけ、その下で火を燃(も)やします。)が2つ見えます。 それぞれの左に火の焚(た)き口の穴があります。 中央右からテーブル、椅子(いす)の置いてあるところに降ります。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真AV: 「島津寒天工場跡」の1つ目の小さい建物の内部です。 竃(かまど、その上に鍋(なべ)、釜(かま)をかけ、その下で火を燃(も)やします。)が2つ見えます。 それぞれの左に火の焚(た)き口の穴があります。 中央右からテーブル、椅子(いす)の置いてあるところに降ります。
写真AW: 1つ目の建物の屋根裏です。
写真AX: 左が1つ目の建物で右が2つ目の建物です。 島津寒天工場跡。
写真AY: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 永野 1640 番地にあります。
写真AZ: 島津寒天工場跡の前の道です。
写真BA: 島津寒天工場跡の門です。
写真BB: 島津寒天工場跡の説明板(右)と竣工記念碑(しゅんこうきねんひ)です。
写真BC: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BD: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BE: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BF: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BG: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BH: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BI: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BJ: 「町指定史跡 島津寒天工場跡」の説明板です。
「町指定史跡 島津寒天工場跡」
所在地 都城市 山之口町 山之口 1640 番地
窯径(かまけい): 130 cm、高さ: 180 cm
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
また、監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
現在、9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
都城市教育委員会 山之口町ふるさとの伝統文化掘り起こし事業 宮崎県「神話・伝説の道」周遊環境整備事業
と書かれています。
写真BK: 「竣工記念碑(しゅんこうきねんひ)」があります。
島津寒天工場跡 茅葺屋根(かやぶきやね)復元工事
目的
祖先が残した貴重な文化遺産である。 寒天工場跡を正しく継承(けいしょう)し豊かな連帯感を培(つちか)いながら大切に保存伝承して行く事を目的とする。
完成 平成17年2月吉日 総工費 400万円、建設委員長、会計、委員、山之口町長、地区館長、贈 記念碑。
と書いてあります。
写真BL: 「竣工記念碑(しゅんこうきねんひ)」があります。
島津寒天工場跡 茅葺屋根(かやぶきやね)復元工事
目的
祖先が残した貴重な文化遺産である。 寒天工場跡を正しく継承(けいしょう)し豊かな連帯感を培(つちか)いながら大切に保存伝承して行く事を目的とする。
完成 平成17年2月吉日 総工費 400万円、建設委員長、会計、委員、山之口町長、地区館長、贈 記念碑。
と書いてあります。
写真BM: 島津寒天工場跡の入り口です。
写真BN: 1つ目の建物です。
写真BO: 1つ目の建物です。 テーブルと椅子(いす)も見えます。
写真BP: 左が1つ目の建物で右が2つ目の建物です。
写真BQ: 2つ目の建物です。
写真BR: 2つ目の大きい方の建物です。 細長い形の建物です。
写真BS: 左は2つ目の建物、右は門です。
写真BT: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
この竈(かまど)と大鍋(おおなべ)で海草のテングサを煮(に)て、寒天(かんてん)を作っていました。
原料の(海藻(かいそう)の)テングサは、甑島(こしきじま)を中心に薩摩西海岸から運ばれ、製品は馬で福山港(鹿児島県 霧島市、錦江湾の港)に運び、さらに大阪、長崎に運ばれて中国(清(しん))、ロシア等に密輸されたようです。
写真BU: 左と右が大鍋(おおなべ)あるいは釜(かま)です。 中央にテーブルと椅子(いす)があります。
写真BV: 宮崎県 都城市 山之口町にある「島津寒天工場跡」です。 この大鍋(おおなべ)あるいは釜(かま)は宮崎市の人から寄贈(きぞう)されたものです。
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真BW: この大鍋(おおなべ)あるいは釜(かま)は宮崎市の人から寄贈(きぞう)されたものです。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真BX: この大鍋(おおなべ)は宮崎市の人から寄贈(きぞう)されたものであることが書いてあります。
写真BY: 上下を逆さまにした鍋(なべ)あるいは釜(かま)も置いてあります。
写真BZ: カマドの焚(た)き口のそばに人が通る溝(みぞ)があります。 その溝は石垣(いしがき)で出来ています。 手前は鍋(なべ)あるいは釜(かま)を置く穴です。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真CA: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
カマドの焚(た)き口のそばに人が通る溝(みぞ)があります。 その溝は石垣(いしがき)で出来ています。 手前は鍋(なべ)を置く穴です。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真CB: カマドの焚(た)き口のそばに人が通る溝(みぞ)があります。 その溝は石垣(いしがき)で出来ています。
写真CC: カマドの焚(た)き口のそばに人が通る溝(みぞ)があります。 その溝は石垣(いしがき)で出来ています。
写真CD: 建物のそばの塀(へい)が見えます。
写真CE: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
焚(た)き口の四角の穴も見えます。 カマドは石を積(つ)んで作られています。
写真CF: 奥に、人が溝(みぞ)に降りる斜面(坂道)が明るく見えています。
下に降りる坂道(あるいは階段)は1つ目の建物には1ヶ所、2つ目の建物には2ヶ所あります。
写真CG: 寒天製造工場跡です。
写真CH: 下へ降りる坂道が明るく見えています。
下に降りる坂道(あるいは階段)は1つ目の建物には1ヶ所、2つ目の建物には2ヶ所あります。
写真CI: 島津寒天工場跡です。
写真CJ: 建物の木の柱が見えます。
写真CK: 都城市 山之口町にある「島津寒天工場跡」の屋根裏です。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真CL: カマドの焚(た)き口の前に人が通る溝(みぞ)があります。 カマドの中の石垣(いしがき)、通路である溝(みぞ)の石垣も見えます。
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
写真CM: カマドの焚(た)き口の前に人が通る溝(みぞ)があります。 カマドの中の石垣(いしがき)、通路である溝(みぞ)の石垣も見えます。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真CN: 通路である溝(みぞ)の端(はし)の部分です。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真CO: カマドの焚(た)き口の前に人が通る溝(みぞ)があります。 通路である溝(みぞ)の石垣も見えます。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真CP: カマドの焚(た)き口の前に人が通る溝(みぞ)があります。 通路である溝(みぞ)の石垣も見えます。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
写真CQ: 寒天工場跡の道路と反対側はこのようになっています。 奥の下に川が流れています。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真CR: 寒天工場跡の道路と反対側はこのようになっています。 奥の下に川が流れています。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真CS: 人が通る溝(みぞ)の端(はし)にも石垣(いしがき)があります。
カマドの焚(た)き口、大きな鍋(なべ)あるいは釜(かま)を載(の)せる穴も見えます。
写真CT: カマドの焚(た)き口、大きな鍋(なべ)あるいは釜(かま)を載(の)せる穴も見えます。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真CU: カマドの焚(た)き口、大きな鍋(なべ)あるいは釜(かま)を載(の)せる穴も見えます。
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。
写真CV: カマドの焚(た)き口、大きな鍋(なべ)あるいは釜(かま)を載(の)せる穴も見えます。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真CW: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真CX: 建物の側面の様子(ようす)です。
写真CY: カマドの焚(た)き口、大きな鍋(なべ)あるいは釜(かま)を載(の)せる穴も見えます。
写真CZ: 幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真DA: 現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DB: 最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真DC: 人が通る溝の端のところです。
写真DD: 現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DE: 現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DF: 左に通路である溝に降りる坂道が見えます。 カマドの焚き口(たきぐち)も見えます。
写真DG: 左に溝に降りる坂道が見えます。
下に降りる坂道(あるいは階段)は1つ目の建物には1ヶ所、2つ目の建物には2ヶ所あります。 現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DH: 人が通る溝(みぞ)の中に降りました。
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。
写真DI: 人が通る溝(みぞ)の中に降りました。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真DJ: 人が通る溝(みぞ)の中に降りました。
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真DK: 人が通る溝(みぞ)の中に降りました。 右に下に降りる坂道があります。 下に降りる坂道(あるいは階段)は1つ目の建物には1ヶ所、2つ目の建物には2ヶ所あります。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DL: 溝の中から見たものです。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真DM: カマドの焚き口(たきぐち)がよく分かります。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DN: 人が通る溝(みぞ)の中に降りました。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DO: カマドの奥の様子(ようす)が分かります。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DP: 一つ目の小さい建物のほうです。
「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。
写真DQ: 左の簡単な階段から下に降りることができます。
下に降りる坂道(あるいは階段)は1つ目の建物には1ヶ所、2つ目の建物には2ヶ所あります。
一つ目の建物の中です。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真DR: 左の簡単な階段から下に降りることができます。
一つ目の建物の中。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真DS: 監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真DT: ここの簡単な階段で下に降りることができます。
一つ目の建物の中です。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DU: 現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真DV: 現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
手前はテーブルです。
写真DW: この階段を下りました。
下に降りる坂道(あるいは階段)は1つ目の建物には1ヶ所、2つ目の建物には2ヶ所あります。 一つ目の建物の中です。
写真DX: この階段を下りました。 一つ目の建物の中です。
写真DY: 溝の中から2つ目の建物の方を見上げたものです。
写真DZ: 左は下に降りる階段です。 1つ目の建物です。
写真EA: 幕末(文化(1804年から1818年)文政(1818年から1830年)の頃、島津藩の財政は非常に困窮(こんきゅう)していました。 時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿(いぶすき)の豪商、浜崎太平次(はまさきたへいじ)と計(はか)り財政再建策としてこの地に寒天製造工場を設(もう)けました。
写真EB: 監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真EC: 1つ目の建物の中です。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真ED: 1つ目の建物のカマド跡です。 やはり石を積(つ)んで作ってあります。
現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真EE: 1つ目の建物のカマド跡です。 やはり石を積(つ)んで作ってあります。
最盛期は、3世太平次が支配人に任じられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまでであったと思われます。 この地を選んだのは寒天製造に適した自然条件を兼ね備えていた事、幕府役人の目から逃れるためでもあったと思われます。
写真EF: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
写真EG: 監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真EH: 島津寒天工場跡のそばは畑になっています。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真EI: 島津寒天工場跡のそばは畑になっています。
写真EJ: 島津寒天工場跡のそばは畑になっています。
監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真EK: 左は畑、右は1つ目の建物です。
写真EL: 一つ目の建物。
写真EM: 監督者や技術者などは鹿児島から派遣され、西目地方(指宿、伊集院、伊作など)からの出稼ぎ者 約80名、地元採用者 約50名を合わせた従業員数は約 120から130名ほどであったと言われます。
写真EN: 「島津寒天工場跡(しまづかんてんこうじょうあと)」は宮崎県 都城市 山之口町 山之口 1640 番地にあります。
写真EO: 右は畑、左は2つ目の建物です。
写真EP: 都城市 山之口町にある島津寒天工場跡。
写真EQ: 門です。
写真ER: 現在、全部で9基の窯跡(かまあと)を見ることができます。
写真ES: 左は畑で右は一つ目の建物です。
写真ET: 前の道の先の方の様子(ようす)です。
写真EU: 来た道を振り返ったもの。
写真EV: 1つ目の建物の中です。
寒天を作るときには、現地の水や薪(まき)を使いました。
写真EW: 建物の隣(となり)は駐車場になっています。
写真EX: 建物の隣(となり)は駐車場です。
写真EY: この道を帰ります。
写真EZ: 近くの畑です。
写真FA: 島津寒天工場跡。
写真FB: 「露草(ツユクサ)の花」が咲いていました。
写真FC: はじめに来た道を戻(もど)ります。
写真FD: 帰り道のそばです。
写真FE: この道を戻(もど)ります。
写真FF: 帰り道の様子(ようす)です。
写真FG: 栗(くり)が道に落ちていました。
写真FH: 栗(くり)の中身です。
写真FI: 栗の実が枝に見えます。
写真FJ: 左は墓場です。
写真FK: 県道422号線の向こう側の集落が見えます。 県道422号線は左右に通っています。
写真FL: 県道422号線です。
写真FM: ここが島津寒天工場跡に曲がる三叉路(さんさろ)です。
写真FN: 手前は県道422号線です。 トラックも見えます。
写真FO: 実のついた稲が竹竿(たけざお)に並べてつってありました。 稲を天日(てんぴ)で乾燥させています。
写真FP: 植物の芭蕉(ばしょう)も見えます。 実のついた稲が竹竿(たけざお)に並べてつってあります。 稲を天日(てんぴ)で乾燥させています。
写真FQ: 植物の芭蕉(ばしょう)も見えます。 実のついた稲が竹竿(たけざお)に並べてつってあります。 稲を天日(てんぴ)で乾燥させています。
写真FR: 「赤い彼岸花(ひがんばな)」が咲いていました。
写真FS: 県道422号線を北西に進んで国道10号線に行きます。 その交差点の都城市 高城町 有水に向かう途中に霧島連山(霧島山系、霧島山)が美しく見える所があります。 右の道路は県道422号線です。
手前はトウモロコシ(トウキビ)の畑です。
写真FT: 霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、中岳(なかだけ、1332.4 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
左から3つ目の新燃岳から噴煙が上に上(のぼ)っているのが見えます。
写真FU: 霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、中岳(なかだけ、1332.4 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)が見えています。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
左から3つ目の新燃岳から噴煙が上に上(のぼ)っているのが見えます。
写真FV: 霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、中岳(なかだけ、1332.4 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
左から3つ目の新燃岳から噴煙が上に上(のぼ)っているのが見えます。
写真FW: 霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、中岳(なかだけ、1332.4 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)が見えています。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
左から3つ目の新燃岳から噴煙が上に上(のぼ)っているのが見えます。
写真FX: 霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 左から高千穂峰(たかちほのみね、標高1574.0 m)、中岳(なかだけ、1332.4 m)、新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)が見えています。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
左から3つ目の新燃岳から噴煙が上に上(のぼ)っているのが見えます。
写真FY: 霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 左から新燃岳(しんもえだけ、1420.8 m)、獅子戸岳(ししこだけ、1429 m)、韓国岳(からくにだけ、1700 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
左の新燃岳から噴煙が上に上(のぼ)っているのが見えます。
写真FZ: 霧島山(霧島連山、霧島山地)が美しく見えます。 左から韓国岳(からくにだけ、1700 m)、大幡山(おおはたやま、1352.5 m)、夷守岳(ひなもりだけ、1344.1 m)が見えています。
「霧島山」は霧島連山と同じ意味です。 霧島山という固有の山があるわけではありません。
写真GA: 県道422号線です。 先に進んで都城市 高城町 有水を通っている国道10号線に行きます。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)